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楠本正隆


楠本正隆


楠本 正隆(くすもと まさたか、天保9年3月20日(1838年4月14日) - 明治35年(1902年)2月7日)は、肥前大村藩の武士、明治期の政治家。男爵。大久保利通の腹心として知られた。

来歴

肥前大村藩士・楠本直右衛門正式(60石)の長男として玖島城下の岩船に生まれる。藩校・五教館の監察、頭取を務めた。中老として尊攘倒幕運動で活躍し、渡辺昇ら「大村藩勤王三十七士」の一人として知られる。

1868年、徴士として新政府に出仕。長崎府判事兼九州鎮撫使参謀助役をつとめ、1870年(明治3年8月)に外務権大丞、1872年(明治5年)5月に外務大丞を経て、同年5月24日に新潟県令として就任する。1875年(明治8年)11月7日の離任までの間、大川津事件を鎮定、柏崎県を新潟県に併合、第四国立銀行設立など県の近代化に尽力した。日本初の国立市民公園の白山公園を開設する。その他、県議会の開設や地租改正推進などに努め、大久保からは「天下随一の県令」と賞された。

1875年(明治8年)6月に、政府が地方官会議を東京に開催し、その幹事長となる。同年8月に内務大丞に転じ、同年12月19日に東京府権知事を兼任する。1877年(明治10年)1月22日に府政に専念し、東京府知事となる。

料理店、待合、船宿、魚市場、野菜市場に府税を賦課し、道路橋梁を改修。市区改正(大区小区制を廃止し、府内を15区6郡に)などに成果を残した。

1879年(明治12年)12月12日に知事を退任し、同年元老院議官となる。1889年(明治22年)東京市会議員となり、同年東京市会議長となる。

1889年(明治22年)12月から1890年(明治23年)10月まで元老院副議長を務め、1890年(明治23年)に衆議院議員に当選し、同年10月20日、錦鶏間祗候となる。1893年(明治26年)に衆議院副議長となる。後に、星亨の議長不信任案が可決され、同年衆議院議長に就任した。政党活動を通じて立憲改進党などを組織し、都新聞社主や社長も務めるなど、民権の伸張や政界刷新に努めた。

1896年(明治29年)6月5日、維新の功により男爵を授けられる。同年、議員を辞職。その後、錦鶏間祗候を拝命。

1902年(明治35年)死去。享年65。

栄典

位階
  • 1885年(明治18年)10月1日 - 正四位
  • 1886年(明治19年)10月20日 - 従三位
  • 1894年(明治27年)5月21日 - 正三位
勲章等
  • 1887年(明治20年)11月25日 - 勲二等旭日重光章
  • 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章
  • 1896年(明治29年)3月14日 - 勲一等瑞宝章
  • 1902年(明治35年)2月7日 - 旭日大綬章

親族

  • 実弟 楠本章三郎(剣術家)
  • 長男 楠本正敏(貴族院男爵議員)

脚注

参考文献

  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。

外部リンク

  • 肖像 - 国立国会図書館

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 楠本正隆 by Wikipedia (Historical)