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カルタゎ


カルタゎ


カルタゎ

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カルタゎラテン語: Carthāgō たたは Karthāgō カルタヌゎヌ、アラビア語: قرطاج‎ Qarṭājは、玀元前にアフリカ倧陞の北岞を䞭心に地䞭海貿易で栄えた、フェニキア人による囜家。䞭心ずなる郜垂銖郜はチュニス湖東岞にあった。地理的には、珟圚のチュニゞア共和囜の北偎を䞭心ずした。カルタゎは造船技術や氎運や海䞊貿易のノりハりに優れ、地䞭海の貿易によっお経枈力や軍事力を誇り、地䞭海の西郚の海䞊亀易を支配した。文化の䞭心地ずしおも栄え、アフリカ北岞の広域やむベリア半島の南偎を領土ずしお支配した。地䞭海南岞に本拠地を持぀倧囜であり、地䞭海北偎に本拠地を持぀ロヌマず競い合った。

抂芁

カルタゎは元々はベルベル人が䜏んでいた。玀元前9䞖玀ころに、地䞭海東岞のティルスを本拠地ずしおいたフェニキア人によっお、地䞭海内の怍民郜垂の䞀぀ずしお建蚭された。本囜のティルスがアッシリアに支配されおからは、フェニキア人にずっおはカルタゎのほうが本拠地ずなり、ここを拠点ずしお西地䞭海の貿易を支配しおゆくこずになった。その埌、地䞭海北偎から突き出たむタリア半島を本拠地に台頭しおきたロヌマず、地䞭海の芇暩を競うラむバル関係ずなり敵察し、地䞭海芇暩の鍵を握る䞭倮郚の島々シチリア島などの支配をめぐっおロヌマず軍事的に激突。カルタゎずロヌマの間の䞀連の戊争は、カルタゎは、圓時、ロヌマ人からは「ポ゚ニ」ず呌ばれおいたので「ポ゚ニ戊争」ず呌ばれおいる玀元前264幎玀元前146幎。造船技術に非垞に優れ、海軍力に優れたカルタゎに察しお、ロヌマは陞䞊の歩兵戊では優れおいたが海戊は苊手ずし、䞡囜の軍隊は察照的であった。カルタゎからは、ハミルカル・バルカ、ハンニバル・バルカなど、幟人もの卓越した軍事叞什官が茩出され、ロヌマの本拠地を攻撃する目的で「アルプス越え」を行っお北偎から陞䌝いに攻撃を行い、歎史に残るような倧勝も成し遂げた。だがロヌマの本拠地を支配するこずには成功せず、匷倧化し぀づけるロヌマに察しお次第に劣勢になり、぀いには本拠地の城塞郜垂もロヌマの倧軍に包囲され、それでも3重の匷固な城壁に護られた城塞郜垂のおかげで䜕幎にも枡り籠城戊に耐えたが、぀いにはロヌマ軍に城壁を乗り越えられ郜垂を党お焌き払われ、もずもず50䞇人はいた カルタゎ人は5䞇人になり、残ったカルタゎ人も逃亡したり奎隷になるなどし、カルタゎは滅亡した。だが玀元前45幎にカ゚サルによっお再建され、ロヌマ垝囜の郜垂、ロヌマ垝囜内屈指の倧郜垂ずしお繁栄した。

珟圚は歎史的な遺跡のある芳光地ずなっおいるほか、行政䞊はチュニス県カルタゎ垂ずしおチュニゞアの銖郜圏の䞀郚を成す。

「カルタゎ」の名は、フェニキア語のカルト・ハダシュトQart-ឥadaÅ¡t「新しい町」に由来するずされる。

地理

カルタゎが建蚭された地圢は、氎深が浅く、錚を䞋ろしやすい入江があり、突き出した岬がある。これはフェニキアが枯の建蚭をする条件に沿っおいる。カルタゎは地䞭海の東西のほが䞭倮にあり、前8䞖玀頃にはむベリア半島のガデスからフェニキア本土のテュロス等ぞず貎金属を運ぶ航路の䞭間にあった。この䜍眮が、カルタゎが繁栄する䞀因ずなった。

フェニキア人の地䞭海の航路は反時蚈回りであり、むベリア半島から東ぞ向かう船は北アフリカの海岞沿いに進み、テュロスなどフェニキア本土から西に向かう船はキプロス、ギリシア、シチリア、むビサなどの島々を経由した。

歎史

カルタゎ建囜䌝説

カルタゎの建囜に関しお確実なのは、ティルスを母垂ずしたフェニキア人が建蚭したこず、ティルスず同じメルカルト  (Melqart)  が町の守護神であったこずなどである。カルタゎは同じフェニキア系郜垂で先に入怍されたりティカやガデスの寄枯地ずしお開かれたず考えられおいる。なお、カルタゎ遺跡からの出土品では玀元前8䞖玀埌半のものが最も叀い。

ティルスの女王ディヌドヌが兄ピュグマリオヌン  (Pygmalion of Tyre)  から逃れおカルタゎを建蚭したずされる。ディヌドヌは䞻神メルカルトの神官の劻だったが、ピュグマリヌオンがディヌドヌの倫を殺害したためにテュロスを去った。ロヌマの歎史家グナ゚りス・ポンペむりス・トログスの『ピリッポス史』によれば、岬に䞊陞したディヌドヌは、1頭の牛の皮で芆うだけの土地を求めた。岬の䜏人が承知をするず、现く切った皮で玐を䜜っお土地を囲い、䞘党䜓を手に入れる。この䞘はギリシア語で「皮」を意味するビュルサず呌ばれるようになった。ビュルサには近隣の人々が集たるようになり、同じくフェニキア系の郜垂であるりティカから䜿者が蚪れ、郜垂の建蚭が始たる。皮で囲たれた土地に぀いおは、地代ずしおアフリカ人ぞ貢租を支払うこずになり、前5䞖玀たで支払いが続いたずされる。叀代ロヌマの詩人りェルギリりスは、䞊蚘ずは異なるディヌドヌの䌝説を『ア゚ネむス』で曞いおいる。

ポンペむりス・トログスによるディヌドヌの䌝説に埓えば、カルタゎはテュロスによる正芏の怍民郜垂ではなく、亡呜者の土地にあたる。たた、神官の劻だったディヌドヌは宗教的にはピュグマリヌオンよりも正統に属しおおり、メルカルト信仰の䞭心がテュロスからカルタゎぞ移ったこずも意味する。ビュルサの䞘は、珟圚のサン・ルむの䞘にあたる。叀代ギリシアやロヌマの歎史家らの史料ではトロむ戊争玀元前12䞖玀頃前、玀元前820幎頃や玀元前814幎頃にそれぞれ建囜されたずいう蚘述があるがいずれも裏付はない。ちなみにチュニゞア政府は1987幎に「カルタゎ建囜2800幎祭」を行っおおり、「玀元前814幎」が䞀般的にカルタゎ建囜幎ず芋なされおいる。

カルタゎ創成期

地䞭海に面するカルタゎの初期は、蟲耕を営む者ず海で働く者ずの長い闘争の歎史であった。郜垂は、䞻に亀易で成り立っおいたため、海運の有力者たちが統治暩を握っおいた。玀元前6䞖玀の間、カルタゎは西地䞭海の芇者ずなり぀぀あった。

商人や探怜家たちは、広倧な通商路を開拓し、そこを通っお富や人が行き来した。玀元前5䞖玀前半、海掋探怜家の航海者ハンノは4回に枡る遠埁を行い、「ヘラクレスの柱」ず呌ばれたゞブラルタル海峡を越えお、北アフリカ沿岞のシ゚ラレオネにたで蟿り぀いたず掚枬されおいる。第1回の航海は3䞇人で出航し、6぀の怍民郜垂を建蚭した「ハンノの航海」ずしお知られおいる。その埌、カルタゎは、マルカスずいう指導者のもず、アフリカ内陞ず沿岞䞀垯に領土を拡倧した。

玀元前5䞖玀初頭より、カルタゎはこの地域の商業の䞭心地ずなり、それはロヌマによる埁服たで続いた。カルタゎは、フェニキア人の叀代郜垂や叀代リビュアの諞郚族を埁服し、珟圚のモロッコから゚ゞプト囜境に至る北アフリカ沿岞を支配䞋におさめた。地䞭海においおは、サルデヌニャ島、マルタ島、バレアレス諞島を支配。むベリア半島に怍民郜垂を建蚭した。

シケリア戊争

第䞀次シケリア戊争

カルタゎは海賊や他囜が恐れる匷力な海軍力を有しおいた。カルタゎの進出ず芇暩の拡倧は、地䞭海䞭倮郚で確固たる勢力をも぀ギリシアずの察立を増倧させた。カルタゎの玄関口にあたるシケリアシチリア島が、戊争の舞台ずなった。ギリシアやフェニキアは、以前よりこの倧きな島の重芁性を認識しおおり、海岞線に沿っお倚くの怍民郜垂や亀易拠点を造っおいた。

玀元前540幎頃にはシチリア西半分の領有暩を巡り、゚トルリア人ず組んで、ギリシアおよびサルデヌニャ人ずアレリア沖コルシカで海戊を行い勝利を収めたこずが碑文に残されおいる。たた、それ以倖にもギリシアやシチリアずは長らく係争が絶えなかったずされる。

玀元前480幎、カルタゎが倧芏暡な軍事行動を開始した。事の発端は、ギリシアに支揎されたシュラクサむシラクサの僭䞻ゲロンが、島を統䞀しようずしたこずに始たる。この明癜な脅嚁に察しお、カルタゎはアケメネス朝ず連携をずりながら、ギリシアずの戊争に螏み切った。ハミルカル将軍のもず、䞉十䞇人の軍隊が集められたずいわれおいるが、この数字は倧軍を瀺しおいるだけで実数ではないず考えられる。

しかし、シチリア島に向かう途䞭、悪倩候に芋舞われ、倚数の人員を倱った。その埌、珟圚のパレルモにあたるパノルムスに䞊陞したが、ハミルカルは、第1次ヒメラの戊いでゲロンに倧敗しおしたった。ハミルカルは、戊闘の最䞭に戊死したか、名誉の自決を遂げたず䌝えられおいる。カルタゎは、この敗北により倧損害を受け匱䜓化し、囜内では貎族政が打倒され共和政に移行した。

第二次シケリア戊争

共和政による効果的な政策の結果、玀元前410幎たでには、カルタゎは回埩を遂げおいた。再び珟圚のチュニゞア䞀垯を支配し、北アフリカ沿岞に新たな怍民郜垂を建蚭した。たた、サハラ砂挠を暪断したマヌゎ・バルカの旅行や、アフリカ倧陞沿岞を巡る航海者ハンノの旅行を埌揎しおいる。版図を拡倧するための遠埁は、モロッコからセネガル、倧西掋にたで及んでいた。しかし、同じ幎、金や銀の䞻芁産地であったむベリア半島の怍民郜垂がカルタゎから分離し、その䟛絊が断たれた。

ハミルカルの長男ハンニバル・マゎは、シチリア島の再領有に向けお準備を始めた。玀元前409幎、ハンニバルはシチリア島ぞの遠埁を行い第二次ヒメラの戊い、珟圚のセリヌンテにあたるセリヌスやヒメラ珟圚のテルミニ・むメレヌれの東12キロメヌトルずいった小郜垂の占領に成功しお垰還した。

しかし、敵察するシラクサはただ健圚であったため、玀元前405幎、ハンニバルはシチリア島党域の支配を目指しお、二回目の遠埁を開始した。遠埁は、頑匷な抵抗ず䞍運に芋舞われた。アクラガス包囲戊の最䞭、カルタゎ軍に疫病が蔓延し、ハンニバルもそれにより亡くなっおしたった。 圌の埌任ずしお軍を指揮したヒメルコは、ギリシア軍の包囲を打ち砎り、ゲラを占領したゲラの戊い。さらに、シラクサの新たな僭䞻ディオニュシオス1䞖の軍もカマリナで砎ったがカマリナ略奪、ヒメルコもたた疫病にかかり、講和を結ばざるを埗なくなった。

玀元前398幎、力を぀けたディオニュシオスは、平和協定を砎りカルタゎの芁塞モティアを攻撃したモティア包囲戊。ヒメルコはただちに遠埁軍を率いおモティアを奪回し、逆にメッセネメッシヌナを占領したメッセネの戊い。玀元前397幎には、第䞀次シュラクサむ包囲戊にたで至るが、翌幎、再び疫病に芋舞われ、ヒメルコの軍は厩壊した。

シチリア島はカルタゎにずっおの生呜線であり、カルタゎは固執し぀づけた。以埌60幎以䞊にわたり、この島でカルタゎずギリシアの小競り合いが続くこずずなる。玀元前340幎、カルタゎの領土は島の南西の隅に远いやられ、䟝然ずしお䞍穏な情勢にあった。

第䞉次シケリア戊争

玀元前315幎、シュラクサむの僭䞻アガトクレスは戊略的に重芁な郜垂であるメッセネを奪取した。玀元前311幎、アガトクレスがアクラガスを包囲するず、カルタゎの将軍ハミルカルはこれに反撃した。ハミルカルは玀元前311幎にヒメラ川の戊いでアガトクレスに勝利し、シュラクサむに撀退させた。ハミルカルはシケリアの他の郚分を支配し、シュラクサむを海陞から包囲した第䞉次シュラクサむ包囲戊。

死に物狂いになったアガトクレスは、アフリカ本土にあるカルタゎを攻撃させるため、秘密裏に14,000人の兵士を送った。この䜜戊は成功し、ハミルカルの軍は本土に呌び戻された。玀元前307幎、远撃しおきたアガトクレスは敗れたが、シチリア島に戻り、停戊した。

゚ピロス王ピュロス

玀元前280幎から玀元前275幎にかけお、ギリシア・゚ピロスラテン語でぱピルス。珟圚のギリシャ共和囜のアドリア海偎の王ピュロスは、西地䞭海におけるギリシアの圱響力を維持し、拡倧するために2぀の倧きな戊争を起こした。

䞀぀は、「マグナ・グラ゚キア」ず呌ばれた南むタリアにあるギリシアの怍民郜垂に察するロヌマの攻撃に察抗するためのものであり、もう䞀぀はシチリア島西郚にあるカルタゎの領土を埁服しようずするものであった。しかし、ピュロスは、むタリア半島ずシチリア島の䞡方で敗北した。カルタゎにずっおは以前の状況に戻ったに過ぎなかったが、ロヌマはタレントゥム珟圚のタヌラントを占領し、むタリア党域を支配するようになった。その結果、西地䞭海における政治勢力に倉化が珟れ始めた。シチリア島におけるギリシアの拠点は、明らかに枛少する䞀方、ロヌマの匷倧化、領土拡倧の野望は、カルタゎずの盎接察決を導くこずずなった。

メッシヌナの危機

玀元前288幎、シラクサ王アガ゜クレスが死去するず、圌の雇っおいた傭兵たちはメッシヌナの町を乗っ取った。圌らはマメルティニ (Mamertini、マルスの子らの意) ず名乗り、恐怖政治を敷いた。この集団は、カルタゎずシラクサにずっお脅嚁ずなり぀぀あった。玀元前265幎、シラクサ王ピロン2䞖は、カルタゎず共同しおマメルティニを攻撃した。その倧軍に盎面したマメルティニたちの意芋は2぀に分かれた。䞀方は、カルタゎぞの降服を䞻匵し、もう䞀方は、ロヌマの救揎を仰ぐずいうものであった。結局圌らは、カルタゎずロヌマの䞡方に䜿者を掟遣した。

ロヌマの元老院が取るべき道を議論しおいる間に、カルタゎずシラクサの軍はメッシヌナに到着した。完党に包囲されたマメルティニは、カルタゎ軍に降服した。メッシヌナにはカルタゎの守備隊が眮かれ、枯にはカルタゎの艊隊が停泊した。むタリア半島に皋近いメッシヌナにカルタゎの軍隊が駐屯したこずは、ロヌマにずっお明らかな脅嚁であった。そのため、消極的ではあったが、メッシヌナをマメルティニの手に戻すためにロヌマはカルタゎず開戊し、軍隊を掟遣した。

ポ゚ニ戊争

ロヌマ軍が、メッシヌナのカルタゎ軍を攻撃したこずで、玄1䞖玀にも枡るポ゚ニ戊争が始たった。西地䞭海におけるロヌマの芇暩を確定し、西ペヌロッパの呜運を決めるこずになったこの戊いは、3぀の倧きな戊争からなる。

  • 第䞀次ポ゚ニ戊争 (玀元前264幎 - 玀元前241幎)
  • 第二次ポ゚ニ戊争 (玀元前218幎 - 玀元前202幎)
  • 第䞉次ポ゚ニ戊争 (玀元前149幎 - 玀元前146幎)

第二次ポ゚ニ戊争では、カルタゎの将軍ハンニバル・バルカがむタリア半島に䟵入し、ロヌマ軍をむタリアで幟床も砎っお苊しめたものの、最終的にはスキピオ・アフリカヌスがザマの戊いで勝利した。第䞉次ポ゚ニ戊争はスキピオ・アフリカヌスの逊孫であるスキピオ・ア゚ミリアヌスの指揮で行われ、カルタゎの戊いによっおカルタゎは滅亡し、垂民は奎隷ずされ郜垂は砎壊された。このカルタゎ陥萜の際にスキピオはカルタゎの運呜を自囜ロヌマの未来に重ね芋たずいわれおいる。

カルタゎの砎壊に぀いおは叀代の蚘述にも揺れがあり、テオドヌル・モムれンによっお、完党に砎壊され氞遠の呪いがかけられたずされたが、塩が撒かれたずいうのはおそらく『士垫蚘』に圱響を受けた埌䞖の孊者による勘違いである。

カルタゎの砎壊の際、図曞通の蔵曞はアフリカの小王たちに譲られ、『マゎの蟲曞』だけはギリシア語ずラテン語に翻蚳させたず蚀われる。

ロヌマによる埁服埌

地味豊かで亀易の芁所でもあったカルタゎの故地には、カルタゎを滅亡させたロヌマによっお䜵合されアフリカ属州ずなり、たた郜垂カルタゎの有った堎所には新たな怍民垂が造られた。最初の怍民は玀元前122幎に護民官ガむりス・グラックスによっお䌁画された。この蚈画はロヌマにおいおグラックスの進めおいた改革の支持祚を獲埗するための人気取りの意味合いも匷かった。この蚈画の結果コロニア・ナノニアナノ怍民垂ずしお新たな郜垂が造られたが、ロヌマでのグラックスの倱脚に䌎いその埌倧芏暡な怍民が行なわれるこずはなかった。

2床目はガむりス・ナリりス・カ゚サルによっお蚈画され、アりグストゥスによっお実行された。ナリりス・カルタゎ怍民垂ずしお再建された郜垂は、以降アフリカにおけるロヌマの最も重芁な郜垂ずしお䜍眮付けられ、ロヌマ垝囜の西方でロヌマに次ぐ第2の郜垂ずなった。ロヌマの再建した怍民垂は2床ずもカルタゎずは異なった名が぀けられたが垞にカルタゎの名で呌ばれ぀づけた。

1䞖玀末に造られたカルタゎ円圢闘技堎、2䞖玀のアントニヌス济堎、その他カルタゎ競技堎キルクスロヌマ劇堎、ロヌマ人の䜏居跡など、珟圚にたで残るカルタゎの遺跡のほずんどはこのロヌマ時代のものである。

クラりディりス垝は党8巻からなる「カルタゎ史」を曞いたが、珟圚は散逞しおいる。238幎、ロヌマ垝囜の皇垝マクシミヌス・トラクスに察しおアフリカ属州総督ゎルディアヌスが反乱をおこしたが、カルタゎの戊いで鎮圧された。近郊のタガステティムガッド出身のアりグスティヌスは青幎期をカルタゎで過ごし匁論術を孊んだ。

ノァンダルによる埁服ず東ロヌマ垝囜による奪回

5䞖玀、ノァンダル族の王ガむセリックがカルタゎを占領しおこの地方にノァンダル王囜を建囜。カルタゎはその銖郜ずなった。カルタゎの西ロヌマ垝囜艊隊を拿捕したノァンダル王囜は、シチリア島、サルディニア島、コルシカ島などを埁服。地䞭海における䞀倧勢力ずなった。曎にガむセリックは442幎にはむタリアぞ䞊陞しロヌマぞ䟵攻。ガむセリックはロヌマ教皇レオ1䞖の申し出を受け、ロヌマの砎壊こそしなかったが、カルタゎより襲来したノァンダル族によっおロヌマは占領され、略奪を受けた。468幎にはバシリスクス率いる東ロヌマ垝囜艊隊を壊滅させた。

東ロヌマ垝囜によるカルタゎ奪回の詊みは䜕床か倱敗したのち、ようやく6䞖玀になっお埁服に成功した。ロヌマ垝囜の埩興を䌁図しおいた東ロヌマ皇垝ナスティニアヌス1䞖は、533幎に西ロヌマ垝囜の皇女の血を匕くヒルデリック王がその遠いいずこであるゲリメルによっお廃䜍されたこずを口実ずしお、ベリサリりスを将軍ずする軍隊を掟遣したアド・デキムムの戊い。ノァンダル王囜の軍隊はあっけなく敗北し、533幎10月15日日曜日9月14日ずいう説もある、東ロヌマ垝囜軍は、カルタゎに入城した。略奪や虐殺は行わなかった。

こうしおカルタゎは再びロヌマ垝囜の領土ずなったが、ムヌア人の反乱が倚発したため皇垝マりリキりスの時代に、カルタゎに総督府が眮かれ、むタリア半島のラノェンナ総督府ず䞊んで、垝囜の西方における重芁拠点ずしお組み蟌たれた。610幎、カルタゎ総督ヘラクレむオスの息子ヘラクレむオス父子同名は、時の皇垝フォカスを打倒し、自ら皇垝の座に就いおいる。

しかし、東ロヌマ垝囜は、アラブ人の䟵入を防ぐこずができなかった。647幎、りマむダ朝勢力がカルタゎを攻撃した。これは蟛うじお退けたものの670幎から683幎にかけお、再び攻撃を受け、陥萜した。698幎には、アフリカ倧陞にあった東ロヌマ垝囜最埌の拠点もりマむダ朝が占領したカルタゎの戊い。そしお、むスラム勢力の占領したこの時期よりカルタゎの荒廃は急速に進行し、りマむダ朝によっおカルタゎの衛星郜垂であったチェニェスの跡にチュニスが築かれるず、カルタゎは完党に攟棄された。

政治

カルタゎの政䜓に぀いおの刀明事項は極めお乏しい。最も有力な手掛かりは玀元前4䞖玀の哲孊者アリストテレスの著䜜『政治孊』の䞭の蚘述であり、それによるず以䞋の3぀の特城を持぀。

  1. クレタ、スパルタずカルタゎの政䜓は非垞に䌌おいるこず
  2. 「王政」「貎族政」「民䞻政」の長所を䜵せ持っおいるこず
  3. 実質的に「貎族政」「寡頭政」であるこず

囜家の代衚は䞀般的にスヌフェヌスsufet、通䟋耇数圢でsufets、叞法暩ず行政暩を持った長官ず呌ばれ、ロヌマのコンスル同様に1幎任期であった。スヌフェヌスの由来は「裁く」や「治める」を意味するセム語の「ショフェト」であり、兄匟蚀語であるヘブラむ語: שׁ֞׀ַט‎ (shaphat 士垫)ず同根である。ロヌマの史家はスヌフェヌスをレゲスreges、王ず呌んだ。スヌフェヌスには軍事に関する暩限はなかったが、叞法ず行政の暩限を付䞎された1人か2人のスヌフェヌスが富豪や圱響力をもった䞀族から遞出された。

軍事䞊の特別職ずしお、将軍がある。ロヌマのコンスルやスパルタの王ずは異なり、カルタゎでは軍事は別ずされおおり、ハンニバルもこれに遞ばれた。将軍職は特定の家系の出身が倚く、その暩限を制限するために癟人䌚が蚭立された。

貎族たちから遞出された代議員によっお、ロヌマの元老院に盞圓する機関である最高䌚議元老院を構成しおいた。最高䌚議は広範囲に枡る暩限を有しおいたが、スヌフェヌスの遞任が最高䌚議によるのか、垂民総䌚民䌚によるかは論が分かれる。垂民たちは立法暩にも圱響力を持っおいたようであるが、このような民䞻䞻矩的な芁玠はカルタゎを匱䜓化させたため、郜垂の統治では寡頭政治が堅持されるこずずなった。

経枈

フェニキア本土の郜垂は、東地䞭海で䞍足しやすい金、銀、銅、鉄、鉛、錫などの金属を入手するために貿易や怍民に乗り出した。そのためにフェニキア産の手工業補品を茞出し、むベリア半島や北アフリカの金属ず物々亀換を行なっおいた。カルタゎもこれにならい、フェニキア本土よりも金属の産地に近いずいう地理䞊の利点を掻かしお繁栄する。ヘロドトスの『歎史』には、珟圚は沈黙亀易ず呌ばれる取匕をアフリカの叀代リビュアの人々ず行なっおいた蚘録がある。亀換にはフェニキア補の工芞品、染色した玫の織物などを扱った。

戊争の捕虜は、蟲業や鉱業のための奎隷貿易の商品ずしおも扱われた。歎史家のシケリアのディオドロスによれば、むベリア半島の鉱山では、ロヌマの埁服前からカルタゎによっお奎隷が䜿圹されおいた。蟲業では、奎隷制にもずづいお集玄的な蟲地経営や牧畜を行なった。その技術は『マゎの蟲曞』に蚘録され、ロヌマの倧土地経営であるラティフンディアにも圱響を䞎えたずされる。

貚幣は、前410幎から前390幎にかけお銀貚の発行が始たった。シチリア遠埁の兵士ぞの支払い等が理由ずされおいる。ギリシアのドラクマ銀貚をモデルに䜜られおおり、シチリアで甚いられおいたギリシアの硬貚に近い。前4䞖玀には金貚等の発行が始たり、金貚はフェニキア本土の床量衡に基づいた。

Collection James Bond 007

宗教

カルタゎでは、フェニキアから䌝わったバアル厇拝やアスタルト厇拝ず旧来の土着信仰に由来するタニト厇拝ずが融合し、独自の宗教圢態を䜜り出しおいた。これに゚ゞプトの神々やギリシャのデメテル厇拝が加わり、たすたす倚様化しおいった。この宗教圢態はカルタゎがロヌマ支配䞋に眮かれた埌も匕き継がれ、ロヌマの神々ず共に信仰の察象ずされた。りマむダ朝によっおむスラム教が䌝えられるず急速に廃れおいった。

颚習

プルタルコスは、フェニキア人が子䟛を犠牲にしお捧げ物にしおいたこずを蚘録に残しおいる。赀ん坊が死産した堎合、最も若い子䟛が䞡芪によっお生莄に䟛されおいた、ずいうこずである。テルトゥリアヌス、オロシりス、ディオドロス・シクロスなどもこの颚習を蚘録に残しおいるが、ティトゥス・リりィりスやポリュビオスは觊れおいない。

トペテen、トフェトずもず呌ばれる子䟛のための共同墓地は、玀元前400幎から玀元前200幎の間に建造されたず掚定されおいる。この墓地からは20,000個の骚壷が出土し、骚壷には新生児の黒焊げになった骚が入っおおり、䞭には胎児や2歳ぐらいの幌児のものもあった。そしお火葬された子䟛達の名は、墓碑にも骚壷にも刻たれるこずは無かった。

珟代の考叀孊䞊の発掘から、プルタルコスの蚘述には、疑問が持たれおいる。カルタゎでは火葬は新生児や死産児に限らず、成人に察しおも行われおいた。たた、矊や山矊の骚も発掘されおおり、この動物の犠牲の蚘録も発芋されおいる。逆に子䟛の犠牲の蚘録が発芋されおいないこずから、子䟛を犠牲にしお捧げ物にする颚習が無かったこずが明らかになった。だが、珟圚でもプルタルコスの蚘述が正しかったずする説も少なくないため、結論はただ出おいない。

䞖界遺産

登録基準

この䞖界遺産は䞖界遺産登録基準のうち、以䞋の条件を満たし、登録された以䞋の基準は䞖界遺産センタヌ公衚の登録基準からの翻蚳、匕甚である。

  • (2) ある期間を通じおたたはある文化圏においお、建築、技術、蚘念碑的芞術、郜垂蚈画、景芳デザむンの発展に関し、人類の䟡倀の重芁な亀流を瀺すもの。
  • (3) 珟存するたたは消滅した文化的䌝統たたは文明の、唯䞀のたたは少なくずも皀な蚌拠。
  • (6) 顕著で普遍的な意矩を有する出来事、珟存する䌝統、思想、信仰たたは芞術的、文孊的䜜品ず盎接にたたは明癜に関連するものこの基準は他の基準ず組み合わせお甚いるのが望たしいず䞖界遺産委員䌚は考えおいる。

カルタゎの登堎する䜜品

文芞

  • 『小カルタゎ人』(玀元前3䞖玀末) - ロヌマの劇䜜家プラりトゥスの喜劇。
  • 『ア゚ネむス』(玀元前29幎 - 玀元前19幎) - ロヌマの詩人りェルギリりスの叙事詩。
  • 『サランボヌ』(1862幎) - ギュスタヌノ・フロヌベヌルの小説。

音楜・歌劇

  • 『ディドず゚ネアス』(1680幎代) - ヘンリヌ・パヌセルの歌劇。
  • 『トロむアの人々』(1859幎 - 1860幎) - ゚クトル・ベルリオヌズの歌劇。
  • 『捚おられたディド』 - タルティヌニのノァむオリン・゜ナタ。

映画

  • 『カルタゎ』(1959幎、むタリア)
  • 『ハンニバル』(1959幎、むタリア)

䞻なカルタゎ人

  • 航海者ハンノ玀元前5䞖玀 - アフリカ西岞を探怜。
  • 倧ハンノ玀元前3䞖玀 - 政治家。
  • ハミルカル・バルカ? - 玀元前229幎/228幎-第䞀次ポ゚ニ戊争で掻躍した将軍。
  • ハンニバル・バルカ玀元前247幎 - 玀元前183幎-第二次ポ゚ニ戊争で掻躍した将軍。ハミルカルの子。
  • マゎ・バルカ? - 玀元前203幎頃 - ハンニバルの末匟。
  • セプティミりス・セりェルス146幎 - 211幎 - ロヌマ皇垝。ベルベル人ずも蚀われる。
  • カラカラ 188幎 - 217幎- ロヌマ皇垝。セプティミりス・セりェルスの長男。
  • プブリりス・セプティミりス・ゲタ 189幎 - 211幎- ロヌマ皇垝。セプティミりス・セりェルスの次男。
  • テルトゥリアヌス160幎頃 - 222幎以降 - キリスト教神孊者。
  • フルメンティりス300幎頃 - 380幎頃 - アクスム王囜ぞのキリスト教䌝道者。聖人。
  • モニカ - アりグスティヌスの母、聖人。
  • アりグスティヌス354幎 - 430幎 - 教父ず呌ばれるカルタゎ地域出身者。
  • マルティアヌス・カペッラ5䞖玀 - ラテン語著䜜家。

カルタゎを起源ずする郜垂

  • カルタヘナ

脚泚

泚釈

出兞

参考文献

  • Ronald Ridley (1986). “To Be Taken with a Pinch of Salt: The Destruction of Carthage”. Classical Philology (The University of Chicago Press) 81 (2): 140–146. doi:10.1086/366973. JSTOR 269786. 
  • 栗田䌞子; 䜐藀育子『通商囜家カルタゎ』講談瀟〈講談瀟孊術文庫〉、2016幎。 

関連文献

  • 長谷川博隆 『カルタゎ人の䞖界』 講談瀟〈講談瀟孊術文庫〉、2000幎。
  • 束谷健二『カルタゎ興亡史』䞭倮公論新瀟〈䞭公文庫〉、2002幎。 ISBN 4-560-02859-1
  • 森本哲郎 『ある通商囜家の興亡―カルタゎの遺曞』 PHP研究所〈PHP文庫〉、1993幎。 ISBN 9784569525020

関連項目

  • カルタゎの君䞻の䞀芧
  • カルタゎ滅ぶべし
  • 叀代カルタゎ
  • チュニゞアの歎史
  • ポ゚ニ語

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: カルタゎ by Wikipedia (Historical)


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