真言宗豊山派(しんごんしゅうぶざんは)は日本の仏教宗派の一つで、新義真言宗の一派。総本山は奈良県桜井市の長谷寺。包括宗教法人名は真言宗豊山派で、東京都文京区大塚五丁目に本部を置く。同派の公称は、全国に約3,000寺、僧侶(教師)数は約5,000人、檀信徒数は200万人。源氏物語や枕草子などにも登場し長谷詣として知られる総本山長谷寺や、東京の大本山護国寺・西新井大師(總持寺)は豊山派の象徴である。
真言宗智山派とは、興教大師覚鑁が創始した新義真言宗という同一宗派であった。豊山派は徳川家との縁も深く、幕府の庇護を受けると共に、大本山護国寺は関東における布教の拠点となった。関東では多くの信者を獲得する一方、真言宗の離合集散の歴史的経緯から中国・九州地方では末寺が1か寺ずつしか存在しない。
檀家は朝夕で次の勤行が求められる。
二つの輪はそれぞれ大日如来と、その化身である衆生を意味し、二つが一体であることを表現している。他の真言宗各宗派と同様に、五七桐も同時に用いられることがある。
真言宗豊山派の歴史は長谷寺の開創に始まる。長谷寺の創建は奈良時代と推定されるが、詳しくは不明である。寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、道明が初瀬山の西の丘(現在、本長谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立。神亀4年(727年)には徳道が東の丘(現在の本堂の地)に十一面観音像を祀って開山したとされるが、伝承の域を出ない。
承和14年(847年)12月21日に定額寺に列せられ、天安2年(858年)5月10日に三綱が置かれたことが記され、長谷寺もこの時期に官寺と認定されて別当が設置されたとみられている。
長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。万寿元年(1024年)には藤原道長が参詣しており、中世以降は武士や庶民にも信仰を広めた。
長谷寺は東大寺の末寺であったが、平安時代中期には興福寺の末寺となり、16世紀以降は覚鑁によって興され頼瑜により成道した新義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉の根来寺攻撃で根来寺を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により真言宗豊山派が大成される。
明治政府の宗教政策により、他の真言宗宗派と1879年(明治12年)に合同する。しかし、1900年(明治33年)9月、長谷寺を本山とする新義真言宗豊山派として独立する。
1941年(昭和16年)3月、古義真言宗・新義真言宗系の宗派が政府の政策によって合同し、大真言宗が成立する。が、戦後独立し、 1952年(昭和27年)に真言宗豊山派として法人登記を行っている。
宗務所は、大本山の護国寺(東京都文京区)内に置かれている。宗務所には総務部・教務部・財務部・教化部が置かれ、宗務総長が事務を統括する。宗務所は、末寺の包括・認証・指導などの事務的な教務の他に、教育・出版・布教研修・教化研修など行う。
豊山派の管長は能化と呼ばれ、長谷寺の化主(貫主)を兼ねる。管長の任期は四年間。次期管長の選任にあたっては、枢機会により管長推戴委員会が約5か月前に召集され決定される。慣例として、枢機会の最高長老職である集議や、宗機顧問を務める者から推薦される。大本山護国寺境内の宗務所(大講堂)にて就任式が行われる。末尾の数字は豊山派管長の歴代。
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