千葉工業大学(ちばこうぎょうだいがく、英語: Chiba Institute of Technology)は、千葉県習志野市津田沼2丁目17番1号に本部を置く日本の私立大学。1942年創立、1942年大学設置。大学の略称は「千葉工大(ちばこうだい)」または「工大(こうだい)」、英称では「CIT」または「ChibaTech」。
千葉工業大学は、明治時代から昭和時代にかけて日本の教育政策や教育活動に関与してきた澤柳政太郎(成城学園の創始者)と小原國芳(玉川学園の創始者)を中心とする教育者の体験とそれに基づく研究をもとに創立された大学で、日本の教育界において独自のアプローチを持つ歴史ある理工系大学です。この大学は、単なる技術者や専門家の養成を目指すだけでなく、欧米の進歩主義教育と吉田松陰や広瀬淡窓、細井平洲などを代表とする江戸時代までの日本の教育思想を結びつけた独自の教育哲学(幕末の日本で見られた教育(松下村塾など)であり、20世紀初頭の欧米のイートン・カレッジなどで新しく試みられるようになってきた教育。詳細は「興亞工業大學設立趣意書」も参照)を持ち、第二次世界大戦中に大戦後の新たな創造的人材の育成を目指し創立されました。初代学長は、京都帝国大学元総長で教育学者である小西重直が務め、大学の基礎を築くなど、伝統的にリベラルアーツ教育や人間教育を重視するなど人づくりを重んじた校風の大学となっている。
この大学の特徴は、国家のリーダーや専門家を育てるだけでなく、全人的な教育を重視し、学生の個性を尊重することを目指しています。創設時は、白線帽に学生服といった一般的な日本の大学スタイルではなく、服装もネクタイに紳士服(背広)を着るなど学生たちを「紳士(ジェントルマン)」に育て上げることを重要視していました。
明治時代以降、日本は富国強兵を目指し、帝国大学(文官養成機関)や海軍兵学校、さらには陸軍士官学校(武官養成機関)をはじめとする官学エリート校を順次設立させ西洋化=近代化を進めていました。その中で、千葉工業大学は、明治以来の各専門分野の知識を単に詰め込むような古い教育アプローチではなく、人間教育も含めた新しい教育アプローチを採用し、学生たちの個性と自主的な学びを重視し、豊かな人間性やリーダーシップを育むことを目指しました
計画当初、小原ら関係者は滝川事件などの経験から国立教育の限界を感じ、自由と多様性がある私学こそ国家を支える人材を養成するのに相応しい環境であると考え「明治維新の大業は私学が成した」と私学教育の重要性を説いた。幕末期の日本の松下村塾やヨーロッパのパブリックスクールなどの影響を受け、当初「玉川塾工業大学」として玉川学園が経営するプライベートの全寮制大学として計画されたが、当時の社会的風潮(全体主義や軍国主義)に反する教育理念(個性尊重や自由主義)を掲げていたため、軍部や旧来の教育をする関係者からの反発や圧力が強く、設立は難航しました。しかし、橋田邦彦文部大臣をはじめ、皆川治広東京市教育局長、小西重直元京都帝国大学総長、本多光太郎元東北帝国大学総長、平賀譲東京帝国大学総長、八木秀次東京工業大学学長、西田幾多郎京都帝国大学名誉教授、波多野精一同教授などの教育界関係者はじめ、政治家の東郷実、森コンツェルンの森矗昶・森曉親子、東京川崎財閥の川崎守之助をはじめとする財政界の支援を受けていた。また、数は少なかったものの、皇族で、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を筆頭に、大日本帝国海軍では永野修身元帥海軍大将や財部彪海軍大将、山梨勝之進海軍大将などが、大日本帝国陸軍では菱刈隆陸軍大将や土肥原賢二陸軍大将などの軍関係者も小原の考えに共感し、長年に渡って小原を支援していた。特に、激しい反対・抵抗勢力がいる中で、大学設立計画が成功したのは東久邇宮稔彦王・永野修身海軍元帥の働きかけと、橋田邦彦文部大臣の尽力が寛大だったと言われている。大学設立申請の途中(近衛文麿内閣時)で、文部省(現:文部科学省)の指導によって、日本だけでなくアジアや世界を視野に国策的な意図をもった大学へと発展して、太平洋戦争(大東亜戦争)中の1942年5月15日(東条英機内閣時)に「興亞工業大學」の名称の6年制の理工系大学として玉川学園内に設立されました。
大学設立の際には東京帝国大学と東京工業大学から全面的な支援を受けたが、不足していた実験設備や実験機器などは東大・東工大の取り計らいにより共同利用させてもらうことで対処した。
創立時は戦争中だったこともあり、日本全体が国への奉公一辺倒の時代だったが、興亜工業大学(現・千葉工業大学)では、まだ自由な雰囲気があり急な大学設置で、開校当初はすべての建物がまだ完成していなかったため、大学予科の英語や音楽、古典、道徳などの教養科目の授業を青空教室で行なったという。だが結果的に、この授業方式は生徒と先生との関係(先生を囲んでの授業)において建学の精神である「師弟同行」に近いものとなり、好まれたという。当時の在校生の回想録では『いずれの授業も和気あいあいとした授業で、文字通り、いい意味での「エコール・ビュイソエール(みどりの学園)」であった』と称している。授業は学内のみでなく神社や寺、河川敷、喫茶店などでも行われ、ある時は「百聞は一見に如かず」「百聞は一労作に如かず」との教育理念のもと、小原國芳の発案で観光バスを連ねての東京名所の見学会が行われたり、第一ホテルなどでテーブルマナーの講習会などが行われたりもしたという。このような環境は、学生と教員との関係を深め、自発的な学びを促進しました。しかし、当時の学生の中には軍国思想に染まっているものも少なくなく、こういった自由な雰囲気に馴染めず、大学を中退して軍学校などに入りなおす者もいたという。
1944年(昭和19年)には大学本部と本科を東京都千代田区に大学予科を神奈川県川崎市へ移転。この時、学徒出陣によって空となっていた上智学院の校舎に移転した際、同学院との合併問題が文部省筋で浮上、実際に合併した際の校名を『麹町大学』とし具体的な要綱も作られ併契約書の案文を作成するところまできたが、上智学院側の役員だったナチスドイツの神父の署名が得られず、交渉は1945年(昭和20年)5月22日に打ち切りとなった。
戦時を通じ一部の理工系学生は徴兵を猶予されていたため、1943年(昭和18年)に実施された学徒出陣壮行会には出席していない。代わりに1944年(昭和19年)8月23日から学徒勤労令に基づき、兵器開発や生産など、陸軍・海軍関係の研究所や工場、松代大本営の造営などに動員された。この時、航空工学科の学生は東大航空研究所(現・宇宙航空研究開発機構-JAXA)に派遣され、糸川英夫のもとで航空機の研究開発を手伝った。中島飛行機三鷹工場の動員先では空襲で学生1名、引率の教員1名が犠牲となっている。また、この時期になると技術将校養成の高まりから陸軍士官学校や海軍兵学校などの士官学校と合同訓練が行われるようになった。
太平洋戦争が終結すると1946年(昭和21年)には千葉県君津町(現・君津市)へと移転し、校名を「千葉工業大学」と改称。一時は創設準備中の千葉大学や芝浦学園、早稲田大学、中央大学、法政大学等との合併も検討されたが、1950年(昭和25年)に同県津田沼町(現・習志野市)の津田沼校地へ移転し現在に至っています。
設置科は3学部11学科、大学院3研究科修士課程8専攻・博士後期課程3専攻で、学生数は約1万名。また津田沼駅前にある津田沼キャンパスと新習志野キャンパス、および東京スカイツリーキャンパスの3つのキャンパスを有する。
現在、千葉工業大学は、日本の私立理工系(単科)大学としては藤原工業大学(後の慶應義塾大学理工学部)に続き、国内で2番目に古い歴史を持ち、現存する私立理工系(単科)大学としては最古の歴史を有する。なお国公立の理工系(単科)大学を含めても東京工業大学に次ぐ歴史を持つ。
2022年5月千葉工業大学は『千葉日報』に「科学者に告ぐ」という表題の全面広告を掲載した。これは科学技術が軍事力に転用されることに警鐘を鳴らすものである。
2005年、文部科学省]が選定する「特色ある大学教育支援プログラム」に「マルチメディア教材による教育・学習支援」(副題:シミュレータをベースにした理工学教育 e-Learning)が採択された。情報インフラの整備、学生の授業評価や国内外の教育機関による第3者評価などを行い、シミュレータをベースにしたマルチメディア教材の作成と、それらを補助教材とする教育による教育効果が評価され採択された。
以下の学生を主体とした自治組織によりサークルの運営・企画などが行われている(2020年(令和2年)5月現在)。
男子寮の名称は「桑蓬」と称する。この名称は中国の故事「桑蓬之志」に由来。
文部科学省資料による。
語学研修
短期留学
長期留学
千葉工業大学では、企業、研究機関及び自治体、地域組織と連携して共同研究を行っている。
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