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狛江市


狛江市


狛江市(こまえし)は、東京都の多摩地域東部に位置する市。東京都区部に接し、ベッドタウン的な性格が濃いが、多摩川をはじめとする自然が多く残り、将来市像として「水と緑のまち狛江」を掲げる。日本で2番目に面積が小さい市として知られる。

概要

多摩地域の南東に位置し、東京都区部と接する。都心とは小田急小田原線や首都高速道路で移動でき、交通の便も良い場所にある。そのため住宅都市として発展し、逆に商業や工業などの発展はあまり見られない。

人類居住の歴史は古く、縄文時代まで遡る。縄文時代より人が定住しはじめ、古墳時代になると亀塚古墳などに代表される権力者が埋葬されたとされる古墳が多く築造された。以降、現在の調布や三鷹、武蔵野の辺り一帯は狛江郷と呼ばれ、狛江を中心として栄えた。その後一旦は衰退するも、江戸時代には泉龍寺が賑わい、武蔵名勝図会などにその記述が見られる。明治時代以降は農村として、農業や多摩川での鮎漁、養蚕業などで発達した。戦後、高度経済成長期に入り1969年に人口は5万人を突破、翌1970年には市制施行により狛江町から狛江市となった。都市化と共に農業や工業は衰退したが、人口はその後も増え続け、現在はベッドタウンとして機能している。

市名の由来

自治体の名称としての「狛江」は、狛江村成立時にこのあたりのかつての地名狛江郷から採られた。その後も町制施行時、市制施行時も改名されることなく現在の市名も「狛江市」となっている。なお市制施行の準備にあたり行われた新市名についてのアンケートでは、狛江の名前を継続させるという回答が最多で73.5%の町民が継続と回答したが、「こま江市」ないし「こまえ市」に変更し、ひらがな地名とするべきだという回答もあった。この狛江村の由来となった「狛江郷」の名前の由来については、いくつかの説が存在する。

朝鮮に関連するとする説

市が公式に紹介する説はおおよそ3つあり、いずれも朝鮮と関連した内容となっている。

  • 「高麗人が住んでいる場所」を意味するという説。高麗人のいる場所を意味する「高麗居」が「駒井」と変化し、それが訛った「狛江」が郷名となったという。
  • 「百済国王が高麗人を日本に帰化させた地」であることを意味するという説。この説はしばしば日本書紀の「7世紀ごろに朝鮮半島から渡って来た渡来人が帰化して武蔵国に移り住んだ」という記述を用いて説明される。狛江はかつて「狛の里」と呼ばれていたが、それが変化して「狛江」になったという説である。
  • 狛江は「高麗人が住む入江」を意味するという説。歴史の節で後述するように、亀塚古墳の発掘調査が行われた当時、その出土品から狛江古墳群は高句麗系の古墳群とされ、この説がこの説の1つの根拠である。しかし後の研究で、狛江古墳群を高句麗系の古墳群とする説はその時期などから否定されている。

その他の説

  • 楠原佑介は、駒井の「こま」は「曲流」を意味するという説を主張する。すなわち駒井という地名は「曲流する川」を意味し、狛江はその駒井が訛って生まれたものだとする。特にこの説の支持者である溝手理太郎は、市が公式に紹介している渡来人に関連するという説を「附会」だと断じた。
  • 考古学者である寺田良喜は、亀塚古墳の研究などから、駒(馬)のいる入江だったことに由来するという説を主張している。

歴史

ここでは、市制施行以前の現在の狛江市域にあたる地域での歴史についてもあわせて述べる。

慨史

有史以前

130万年前、この辺りは海であった。そのため、多摩川の河床にある飯室層からは海棲生物や貝などの化石が発見される。特にここで2006年9月に発掘された、ステラーカイギュウに進化する前の中間種とみられる化石の発見は極めて重要なものであったと評される。

原始の生活と人の定住

旧石器時代には狛江にヒトが現れたことがわかっている。1987年に現在の狛江弁財天池特別緑地保全地区のあたりで行われた弁財天池遺跡での発掘調査で、黒曜石製の槍先形尖頭石器やナイフ形石器が出土している。しかしこの時代ではまだヒトの定住は確認されず、遊動生活の一部として一時期的に残されたものだと考えられている。

縄文時代になると狛江でも竪穴建物が建てられ、縄文時代前期にはヒトの定住が開始されたと考えられる。縄文時代中期以降の遺跡はそれ以前より多く、その一つである弁財天遺跡では敷石建物や方形周溝墓、陥穽の跡が発掘されている。特筆すべきは弥生時代後期に造られたとする方形周溝墓の一辺が18メートルと大きいことで、少なくとも弥生時代後期までには指導者的立場の人物の存在とそれに伴う社会が存在していたことが推察される。

1939年に和泉本町一丁目で行われた東京航空計器の工場建設に伴う整地工事で、偶然古墳時代中期(5世紀頃)の竪穴建物跡からなる集落遺跡が発見され、遺跡からは高杯・坩・埦・甕・甑などの大量の土師器が出土した。これらは遺跡の発掘調査を行なった考古学者の1人である杉原荘介により遺跡は和泉遺跡と、土師器は和泉式土器とそれぞれ命名された。特に出土した土器は当時すでに知られていた前野町式土器と鬼高式土器の中間に当たる土師器として初めて発見されたため、関東地方における古墳時代中期の基準資料とされ、その学術的価値は高い。和泉式土器は轆轤を用いず輪積み法と手捏ね法という技法を用いて成形され、特徴としては文様がないことや、表面がよく磨かれていることなどがある。

古墳の造成

前述の和泉遺跡となる建物群が作られた後の5世紀半ばから6世紀半ばまでの約100年間に集中して、亀塚古墳などに代表される狛江古墳群に属す古墳が多く造成された。かつては狛江百塚とも呼ばれるほど多くの古墳が存在したが、戦後の宅地開発などにより破壊が進み、現在は13基のみが一部現存する。造られた古墳はほぼ全てが円墳で、現在確定している例外は帆立貝形古墳の亀塚古墳のみと少ない。

狛江における古墳の存在自体は江戸時代から認知されているが、初の本格的な調査は1951年から1953年にかけて行われた亀塚古墳の発掘調査である。この調査で豪華な鏡や鉄剣、装飾品などが大量に出土したが、特に出土した鏡と装飾品が特徴的で、鏡は「神人歌舞画像鏡」とよばれる中国で造られたとされるものであったことや、また装飾品は「金銅製毛彫金具」とよばれる馬具で、これに朝鮮半島の古墳壁画に似た麒麟や龍などに類似する絵が彫刻されていたことなどから、調査を指揮した國學院大學の大場磐雄らは狛江古墳群を高句麗系の古墳群とする学説を発表した。しかしながらこの説は現在では否定されていて、前述の弁財天遺跡や和泉遺跡における居住の跡などから、亀塚古墳の被葬者は渡来人ではなく、かつ格式高い鏡である神人歌舞画像鏡が出土したことから倭王権などと強い関係を持っていた国内の人物と推定されている。亀塚古墳調査後の1960年と1976年には市内全域で古墳分布調査が行われ、多くの古墳が発見された。中でも特筆すべきは土屋塚古墳である。5世紀半ばに造られた土屋塚古墳で出土した円筒埴輪は特殊で、世田谷区の野毛大塚古墳で出土したものに代表される種類のものと、東日本最大の太田天神山古墳でのみ発見された種類のものがほぼ同数出土したことから、埋葬者の権力は絶大なものであったとされる。調査を視察した甘粕健は埴輪の特徴から、土屋塚古墳には畿内もしくは毛野と関係を持つ豪族が埋葬されていたと推定したうえで、狛江を治めた豪族は周辺地域よりも強い権力を持っていたと結論づけた。これらの狛江古墳群に属す古墳は、6世紀半ばまでに一旦造成が終わった。

古墳の造成が終わった約100年後の7世紀中期に猪方小川塚古墳が造られたと考えられている。狛江古墳群最後の古墳とされていて、また他の古墳と違い埋葬施設が羨道・前室・玄室で構成される横穴式石室であることが特徴である。この古墳の出土品からもやはり埋葬者の畿内との関係が指摘され、埋葬者は畿内王権の序列に位置付けられた狛江郷の長であるとされている。これらの狛江古墳群の調査から、この時代は畿内における有力豪族などがこの地を治めていたと考えられている。

猪方小川塚古墳を最後に、狛江における古墳の造成は終わり、7世紀後期からは地下式墓が造られるようになった。

狛江郷の成立

『倭名類聚抄』によれば、713年(和銅6年)に、狛江とその周辺地域で構成される郷の名前が狛江郷とされたとされる。平安時代の869年(貞観11年)に成立した『続日本後紀』には狛江郷についての記述があり、これが史料における狛江郷の初見だとされる。その範囲は現在の狛江市、調布市を中心とする地域だと推定されている。『武蔵名勝図会』では「狛江」を井の頭池の古名としていて、「此沼あるゆへに其名を郷名に用ひたる旧池なり」「是全く狛江郷の狛江なり」との記述がある。現在でも井の頭恩賜公園内の井の頭池に架かる橋のひとつに「狛江橋」がある。また、同図会には「すへて此近辺深大寺辺迄四五里程の内は狛江郷と号し」とも記されていて、その広大さが窺える。しかしながら現在の岩戸にあたる部分は狛江郷に属さず、東の木田見郷に属していたとされる。

古墳の造成の終焉後

奈良時代末期に成立されたとする万葉集には、多摩川で布を洗う女性を詠んだ「多麻河泊尓 左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能児乃 己許太可奈之伎」が収められた。この和歌は狛江周辺で読まれたとされ、これを狛江に渡来した高麗人を詠んだものだと主張する人もいる。この和歌を記念して、後に市内に玉川碑(万葉碑)が建てられた(後述)。

『続日本後紀』の846年(承和13年)の項に狛江に刑部真刀自咩という人物がいたとの記述がある。刑部氏は畿内と関係を有する家系で、この人物は畿内から移住してきたと推定され、5世紀半ばからあったとされる狛江における畿内との関係は続いていたことが分かる。

889年(寛平元年)、武蔵国の国府から大國魂大神を分霊してきて、和泉に六所明神という神社が創建された。この神社は江戸時代に起こった洪水で流失した後遷座し、明治維新の時に伊豆美神社と改称した。

武士の世

9世紀になって、律令制が崩壊すると武蔵国には武蔵七党と呼ばれる武士団が生まれた。この武蔵七党のうち西党と狛江の関係は強く、その西党の武士の1人に狛江氏がいた。1208年(承元2年)6月26日には狛江氏の1人であった狛江入道増西が威光寺を50人ほどの悪党を率いて刈田狼藉を行なった。後に鎌倉幕府に呼び出され裁判が行われ、刑罰として100日間の宿直が科せられた。

鎌倉幕府の滅亡後、吉良氏が世田谷と狛江に影響を及ぼしたとされる。1336年(建武3年・延元元年)に室町幕府が成立すると吉良貞家は強い影響力をもつようになった。

江戸時代

16世紀初頭に、現在も残る多くの寺社が創られた。具体的には天台宗の尊祐法印による玉泉寺や明静院、岩戸八幡神社、圓住院などである。また、衰退していた泉龍寺も和祝和尚により復興され、旗本の石谷清定により寺が整備された。

江戸時代に、和泉村、猪方村、岩戸村、駒井村、覚東村、小足立村、上野村の7つの村と、多摩川の氾濫によって生まれた宿河原村の飛地が現在の市域に成立していた。7つの村は全て武蔵国多摩郡に属し、彦根藩によって治められた。これらの村のうち、1745年の『泉村鑑』によると和泉村が最も大きい規模を誇っていた。この時代、産業としては米や野菜などの栽培のほか、多摩川での鮎漁などで栄えた。

文化年間、寺子屋の師匠を務めていた平井有三により、猪方村半縄に玉川碑と呼ばれる碑が建てられた。碑には万葉仮名で万葉集に収められた東歌である「多麻河泊尓左良須弖豆久利 佐良左良尓 奈仁曽許能児乃 己許太可奈之伎」が刻まれている。この文字は松平定信による揮毫であった。しかし、文政12年の洪水で流され、流失した。

明治維新

1868年(明治元年)、武蔵国の属していた猪方村と岩戸村の2村と、和泉村のうち彦根藩領だった地域が彦根藩によって治められた。これらの地域は、3年後の1871年の8月29日に廃藩置県が行われた影響で、彦根県となり、翌年1872年1月2日に彦根県は長浜県となった。

1869年3月21日、行政官布告により和泉村の大部分と上野村、駒井村、覚東村、小足立村の計6村が品川県に移った。これらの地域は1872年1月14日に東京府に移管された。

1872年3月3日に長浜県に属した3村が、同年5月には東京府に属した駒井村、覚東村、小足立村、大町村の4か村が神奈川県の所管となり、同時に7か村組合会所が置かれた。また同年、明治政府が学制を公布したことから、7か村組合のうち大町村を除く村々が協力して泉龍寺境内にあった私塾を併合し、1872年9月25日に現在の狛江市立狛江第一小学校となる公立観聚学舎を設立した。

1878年7月22日、郡区町村編成法の施行により、北多摩郡が発足し、現在の狛江市域にあった村は全てこれに属した。

狛江村の成立

1889年(明治22年)4月1日、神奈川県における町村制の施行により、7か村組合を廃し駒井村、和泉村、猪方村、岩戸村、小足立村、覚東村の6村が合併し、狛江村となった。村役場は泉龍寺の境内に置かれ、初代村長に小川清平が就いた。このとき大町村は離脱し、のちの神代村の一部となった。

狛江村は玉川上流自治体を管轄した神奈川県に属したが、下流自治体のみを管轄した東京府は、玉川上水の汚染によるコレラ等の健康被害の拡大を抑制したいという意図から、多摩地域の府への移管を1873年から国に要求し続けた。その後国が移管に関して議論をし始めると、移管に対し狛江村を含む多摩地域の自治体の多くが反対したが、1893年4月1日、 東京府及神奈川県境域変更ニ関スル法律が施行され、狛江村が属していた北多摩郡が神奈川県から東京府に移管、東京府北多摩郡狛江村となった。この東京府への境域変更に対し村は猛烈に反発し、当時村長だった小川清平と助役の石井正義が同年3月4日付で抗議の辞職をした。その後神奈川県に復帰することはなかったが、東京府に移管された日から30年も経った1923年に帝国議会に多摩地域の神奈川県復帰を目的とした法案が提出されたことからも、移管が多くの混乱をもたらしたことが窺える。なおこの法案は廃案となった。

1912年4月1日に 東京府神奈川県境界変更ニ関スル法律が施行され、東京府と神奈川県の府県境が多摩川を境に引き直された。狛江村の多摩川を挟んで対岸にあった飛地が橘樹郡稲田村に編入され、稲田村大字宿河原の飛び地が狛江村に編入された。解消された飛地は多摩川の氾濫によって生まれたもので、これによる行政の非効率さを改善する目的で制定された。これにより現在の狛江市域の形がほぼ完成された。法の制定に伴い、堤防の整備についての議論も大きく進展した。

1921年(大正10年)に初めて電話が通じた。調布電話局から架線され、玉翠園と東京府会議員だった石井寅三の自宅にそれぞれ電話が通じた。翌年1922年3月、村内の一部に初めて電気が通じた。

1922年ごろ、和泉多摩川観光協会の主催で「第1回花火大会」が開催された。狛江の花火大会は、多摩川沿岸の各地で開催される花火大会のうち最古のもので、現在に至るまで最も長く続けられている。

1923年、江戸時代に猪方村に建てられ、その後多摩川の氾濫によって流失した玉川碑が渋沢栄一や羽場順承などの尽力によって中和泉に再建された。1924年4月13日には除幕式が催され、渋沢が演説した。

小田急線の開通

この昭和時代初期は数千人であった人口も戦後になってからは大幅に増え、農村から住宅都市に変化していった。狛江村はついに市制を施行するに至り、狛江にとって大きな転換の時代となる。

1927年(昭和2年)4月1日に小田急小田原線が全線開通し、開通と同時に市内では和泉多摩川駅が開業した。これに2か月ほど遅れて、5月27日に狛江駅も開業した。当初は狛江駅は設置されない予定であったが、住民の強い要望により駅舎建築費を住民負担とする請願駅として設置が決定された。

1931年10月1日に村役場に普通電話が通った。同年4月に砧に新設された砧電話局から架線され、以降村民の家にも順に架線されていったものと考えられている。この際に世田谷区の砧電話局から架線されたため、現在まで狛江市の市外局番は03となっている。

戦時期

第二次世界大戦の発生当時、和泉原と呼ばれた現在の和泉本町三丁目にあたる場所には畑があり、その一角に大日本帝国陸軍の高射砲第一一二連隊第三大隊第一四中隊第六分隊が駐屯しており「狛江陣地」と呼ばれた。この部隊はこの陣地で昼夜を徹して照空灯を操作していた。そのほか狛江には、当時東京航空計器などの軍需産業関連工場もいくつか位置していたが、東京都区部を標的とした東京大空襲時にも空襲に遭うことはなく、むしろ都市部から疎開する人を受け入れていた。しかし1945年5月25日20時頃に「狛江空襲」が発生、上空にアメリカ軍のB-29が来襲し焼夷弾を投下して狛江全体を焼き払った。狛江における被害としては、家屋十数戸、農業会事務所、作業場、狛江国民学校が全焼し焼失したと報告された。終戦後、市は西河原公園に狛江市戦没者慰霊塔を建て戦没者を供養した。

戦争の終結と改革

1946年8月、現在東京都立狛江高等学校が建っている辺りにあった砂利穴から、雌の淡水クラゲ(マミズクラゲ)の集団が発見され発見後も発生が続いたため、1951年6月にこの砂利穴が狛江淡水クラゲ発生地として国指定天然記念物に指定された。しかしその3年後にクラゲの発生が途絶えたため、1969年12月に指定解除され穴は埋め立てられた。

1947年4月1日、学制改革により、現在の狛江市立狛江第一中学校である狛江村立狛江中学校が設立され、同年4月19日に開校した。

1949年5月3日、狛江青年文化会により日本初のユネスコ展が狛江村の狛江小学校で開催された。当日は国際連合と国際連合教育科学文化機関(UNESCO、ユネスコ)のポスター展が行われ、午後から『幻灯』の上映と日本国際連合協会常任理事佐藤尚武による講話が行われた。

1950年、戦争により中断していた多摩川での花火大会が復活した。

戦後の都市化とともに人口増加が続いていき、1951年にはとうとう人口は1,000人を数えた。そこで、村民の中では町制施行に対する機運が高まり、村議会では1950年11月に町制施行特別調査委員会が設置され、動きは加速された。翌年10月18日、村議会で町制施行が議決され、6日後には都議会で承認された。そうしてその1年後にあたる1952年(昭和27年)11月10日に町制が施行され、狛江町となった。町制施行の記念式典は、狛江市立狛江第一小学校の創立80周年式典と併せて行われ、同校の校庭で盛大に祝われた。

1953年12月12日、初代多摩水道橋が開通した。これにより狛江町内から直接渡し船や鉄道を使わずに神奈川県側へ渡ることができるようになった。同年、登戸の渡しが廃止された。

このころまでに調布町と神代町の3町で合併する構想があり、協議が進んでいたが、1954年に町長となった飯田敬輔は世田谷区による編入を主張し、ここから10年ほどの世田谷区編入派と調布町合併派との争いが続くことになる。結局、町は単独市制を行うこととなったが、2派の争いは激化し、町民生活に影響が出るほどであった(後述)。

明治時代からこの頃までは非常設の消防団により町内の消火活動が行われていたが、1962年1月に起きた狛江史上最悪の火災(佐藤病院火災)の反省から、同年8月に町内に常設消防本部が設置され、今日の狛江消防署となった。

1965年7月26日に日本住宅公団により建設された神代団地で入居が開始された。また、翌年の1966年8月には東京都住宅供給公社が手掛けた初の大規模団地である多摩川住宅でも入居が開始され、多くの住民が狛江に移住し、人口が増える一因となった。実際に、1975年の人口は1965年の人口の2倍となった。

1968年5月28日、町長の石井三四郎が在任中に死去した。

1968年、花火大会の規模拡大を図るため、花火大会の主催を和泉多摩川観光協会から狛江町観光協会に変更し「第1回多摩川花火大会」として開催。この際に「多摩川花火大会」の名称が使用されるようになった。

市制の施行

狛江町は1965年の国勢調査で人口が5万人に達しなかったため、市制を施行できずにいた。その後、1970年3月の地方自治法改正によって規定が一時的に緩和され、人口3万人以上であれば、政令で定める期間に申請すれば市制を施行できるとされた。これにより狛江町は市制施行の要件を満たすこととなった。

これを受け、同年4月3月18日には町議会により市制推進特別委員会が設置され、市制施行に向けて準備が行われた。同年8月12日の町議会で同年10月1日に市制施行することが議決され、同年8月19日に東京都議会に申請書を提出、同年9月の都議会で承認された。その後も計画は順調に進み、予定通り1970年(昭和45年)10月1日に市制を施行し狛江市となった。初代市長には第4代狛江町長の冨永和作が就任し、同日9時に市議会で市制施行を宣言した。同時に花火が打ち上げられた他、狛江第二小学校と狛江第三小学校の児童による鼓笛隊がパレードしたり、狛江第一中学校で記念式典が行われたりし、盛大に祝われた。

1972年3月31日、東和泉一丁目にあった狛江青果市場が閉場された。当時まだ農業は盛んであったが、流通の近代化などに伴い、新たに世田谷区砧に設置された世田谷市場にその機能が移されたためである。

1972年10月26日、東京都条例第114号により東京都立狛江高等学校が設置され、翌年4月8日より授業が開始された。当時は学校群制度により通学区域が決まっており、市内の高校生は東京都立神代高等学校、東京都立三鷹高等学校、東京都立立川高等学校、東京都立南多摩高等学校、東京都立千歳高等学校などの市外の高等学校に通う必要があった。そのため1960年代から市に対し市内にも高等学校を設置してほしい旨の陳情が多く寄せられ、開校することとなった。

1973年、市の木「イチョウ」市の花「ツツジ」が制定された。

1974年9月2日、台風16号に伴う豪雨により、猪方地区の堤防が260メートルに渡って決壊し、多摩川水害と呼ばれる大規模な水害が発生した。

1975年1月1日に住居表示整備事業の第1期として岩戸地区で住居表示を実施された。これにより岩戸地区は世田谷通りを境として岩戸北と岩戸南に分割された。その後も住居表示が各地域で順次行われ、1977年8月1日に東野川と西野川で、1979年10月1日に和泉本町で、1980年12月1日に中和泉と西和泉で、1981年11月1日に元和泉と東和泉で、そして最後に1982年11月1日に駒井町と猪方でも実施され、同日をもって市内の住居表示の整備が終了した。

1977年中に野川の暗渠化が完了し、同年6月に新たな流路に水が流れた。この工事により野川の氾濫の可能性は激減した。暗渠化された旧野川の地上部分は野川緑地公園として整備された。

1977年11月に市町村歌として、狛江市の歌「水と緑のまち」、狛江市の音頭「こまえ音頭」がそれぞれ制定された。また同年11月には市民センターが開設され、それを祝して「狛江市民まつり」が初めて開催された。市民センターの開館と同時に、狛江市立中央図書館が市民センター建設に伴い解体された「いずみ図書室」に代わって開館し、これが市内初の公立図書館の開館となった。

1979年3月、公共下水道を完備。日本全国の自治体で4番目の公共下水道完備都市となった。

1980年10月1日をもって、狛江市は市制10周年を迎え、記念として市が企画し学研映画が制作した動画作品『わがまち狛江 -水と緑の住宅都市-』が制作された。また、1か月後には市役所の新庁舎が完成した。

前述の『わがまち狛江 -水と緑の住宅都市-』によれば、市民の休養の地として伊豆の城ヶ崎海岸付近に「伊豆こまえ荘」という保養所があったとされるが、現存しない。

1984年に駒井町で行われた、自家用米の収穫のための稲作を最後にして、狛江で田植えをする農家はいなくなった。急速に水田が消えた理由として、人口の増加による水田の転用や、1970年12月に岩戸地域産の米から基準値を超えるカドミウムが検出されたことなどが考えられている。

現代

1990年(平成2年)、狛江市制20周年を記念して、多摩川で初めて多摩川いかだレースが開催された。開始当時は1回限りの開催とされ、参加チームも集まらず苦労したというが、開催後に翌年以降も継続することを望む声があがり、現在に至るまで毎年7月に開催され続けている。

1995年3月26日、小田急線連続立体交差事業により小田急小田原線が高架化された。市は渋滞問題などから積極的に反対派の説得をし、当時計画されていた区間の中で最も早く都市計画を決定した。この事業により市内13か所の踏切が廃止され、渋滞などの原因となっていた開かずの踏切問題が解消した。小田急線高架化に際しては、市は騒音対策として線路両側に側道を設置することを国に強く要望して実現に至った。この道路が現在の「ふれあい側道」である。また同時に市は狛江駅を急行または準急の停車駅とすることも要望したが、当時は実現しなかった。

同年11月、狛江駅北口再開発の一環として開発されていたエコルマホールが開館した。2年後の1997年には和泉多摩川駅前に交通広場が完成し、6月には喜多見駅から和泉多摩川駅間の複々線化工事が完了した。また、狛江駅北口再開発の一連の再開発事業はそのさらに翌年の1998年に全て完了した。

2000年中に狛江市公式ウェブサイトが開設された。

2008年11月24日に狛江市コミュニティバスのこまバスの運行が開始された。当日は狛江駅北口ロータリーで出発式典が催された。運行開始当時から車体カラーは空色で、車体側面に小さく「絵手紙発祥の地 - 狛江」とプリントされていた。こまバスは運行開始から7年経った2015年に累計乗車人数100万人を達成した。

2013年9月から10月にかけて、東京多摩地域をメイン会場として開催された第68回国民体育大会(多摩国体)では、バレーボール(少年男子)の会場となり、狛江市民総合体育館で競技が行われた。

2019年(令和元年)10月、令和元年東日本台風による豪雨で市内各地で内水氾濫が発生し、狛江市と調布市の市境付近など一部地域が冠水した。多摩川支流の根川は六郷排水樋管周辺で氾濫し、多摩川住宅でも深刻な浸水被害が発生した。

年表

  • 1872年03月03日 - 7か村組合会所が置かれた。
  • 1872年09月25日 - 公立観聚学舎が設立された。
  • 1878年07月22日 - 北多摩郡が発足した。
  • 1889年04月01日 - 6村が合併し狛江村となる。
  • 1893年04月01日 - 狛江村は神奈川県から東京府に移管された。
  • 1927年04月01日 - 小田急線全線開通。
  • 1945年05月25日 - 空襲を受ける。
  • 1947年04月01日 - 初の中学校である狛江村立狛江中学校が開校。
  • 1952年11月10日 - 町制施行。
  • 1953年12月12日 - 初代多摩水道橋の開通。
  • 1965年07月26日 - 神代団地の入居開始。
  • 1970年10月01日 - 市制施行。
  • 1972年10月26日 - 東京都立狛江高等学校が設置される。
  • 1974年09月02日 - 多摩川水害が発生。
  • 1995年03月26日 - 小田急線が高架化。
  • 2000年02月01日 - 公式ウェブサイトを開設。
  • 2008年11月24日 - こまバスが運行開始。
  • 2009年10月01日 - 平和首長会議に参加。
  • 2010年09月01日 - 公式Twitterアカウントを開設。
  • 2018年12月26日 - 公式Instagramアカウントを開設。
  • 2019年10月12日 - 令和元年東日本台風が通過し、甚大な被害を受けた。

市域の変遷

狛江市は、現在の市域にあった6村が合併して誕生したため複雑な歴史をもつ。多摩川の氾濫による流域変更で宿河原村の一部地域が駒井へ編入されたことがあるが、それ以外での大幅な市域変更は少ない。

年表

合併議論

2022年現在狛江市に合併計画などはないが、過去に合併議論(合併問題)は存在した。

各地では、1953年の町村合併促進法の公布後より町村合併が盛んに議論されるようになったが、かねてより行政区画を超えて経済の発展や都市計画を共にしてきた狛江町調布町神代町の3町はそれ以前から特別委員会が設けられ、議論が進んでいた。そのまま合併は確実なものと思われていたが、1953年に新たに狛江町長の座についた飯田惠輔は世田谷区への編入を主張、3町合併を推進してきた狛江町議会と対立し、計画は暗礁に乗り上げた。飯田町長は議会に住民投票を提案し、1954年3月1日に臨時議会の招集を告示した。しかし、議会審議前夜になり町役場に訪れ、宿直の職員に臨時議会延期の告示を作らせて退庁、さらに公印を持ち出して行方不明になるという異常事態に発展し、結局住民投票案は立ち消えとなり、合併の参加も一旦見送られることとなった。翌年議会は町長に対する不信任案を可決し、飯田は辞任した。

しかし、世田谷区編入を公約に掲げた飯田は再選を果たし、議会も世田谷区編入派が多数を占め、世田谷区編入に向けた動きが加速することとなった。町民に世田谷区と合併する際の利益などが書かれたチラシが配布されたが進展はせず、東京都知事から調布市との合併するよう勧告書が出されたほか、東京都北多摩地方事務所から調布市との合併によって得られる利益などについてや世田谷区との合併が不可能であることの説明が書かれたチラシ「狛江町の皆様にお知らせ」が配布された。実際、東京都は区部の拡大を認めておらず、世田谷区編入はほぼ不可能であった。

東京都は世田谷区長に対し狛江町の調布市合併に協力するよう要請し、町長へは激化する議会との対立から、飯田へ町政運営の是正を要請した。その後議会の承認を経ない専決処分を乱発する町長に対し、反町長派議員らは東京地方裁判所に町議会の解散無効確認の訴訟および専決処分執行停止の仮処分などを申請し受理された。しかしながらその後も街頭放送などを続け、両陣営は街全体を争いに巻き込んでいった。

1958年、町長は辞表を提出し、議会の解散命令と専決処分を撤回した。翌月に行われた町長選挙に飯田は立候補したが、石井三四郎が当選し、町を混乱させた原因は合併問題にあると考え、狛江町独自で町制を継続する道を選択し事態の収拾に努めた。その後も世田谷区編入派は独自に合併の可能性を模索したが、具体的な成果は残せず、1962年に活動を終えた。

地理

地勢

狛江市は多摩川中流北岸、地質学的に言えば武蔵野台地の南縁部、立川段丘上に位置する。

市域はそのほとんどが台地上にある。土質は洪積層で、更新世に形成された比較的強固な地層である。また水捌けがよく、畑作にも適する。その台地面はさらに関東地方に特有の関東ローム層で覆われ、非常に安定した地盤となっているところが多い。対してかつて野川の流路だった現在の野川緑地公園周辺、かつての清水川周辺、岩戸川が流れていた岩戸川緑地公園周辺、六郷用水流路周辺は周りに比べ土地が低く、低地(谷)となっている。これらの地域は前述した自然河川が土砂を削ってできたもしくは人の手によって削られてできたもので、水流の作用によって腐植土の堆積や土砂の再堆積がなされていたことから、特に軟弱な地盤となっている。また、多摩川に面する駒井町・猪方・元和泉・西和泉などの内一部地域も低地となっていて、地盤は軟弱で、建造物の圧密沈下が問題となるほか、令和元年東日本台風の通過時には駒井町の一部地域、猪方二丁目、西和泉二丁目と調布側の千町耕地一帯が浸水し被害をもたらした(災害も参照)。猪方と駒井町の多摩川に面する地域では周辺の低地より微妙に海抜が高く、また硬質層である土地が帯状に分布しており、自然堤防を成していると思われる。

市域の北は国分寺崖線及び野川に、南は多摩川によって、それぞれ調布市・世田谷区・川崎市と隔てられている。標高は20メートルから30メートルの間にあり、北端の上和泉から南端の駒井地域に面する多摩川に向かって緩やかに傾斜しているが、概ね平坦といえる。市内最高点は狛江市によれば中和泉三丁目に位置する兜塚古墳の墳頂であり、標高は30.4メートルで、墳頂には三等三角点が設置されているが、国土地理院が提供する地理院地図によれば西野川四丁目の道路上の標高は31メートルとなっていて、実際の最高点はここであると思われる。

都心と呼ばれる新宿までの直線距離は13キロメートルで、小田急小田原線で約20分の距離に位置する。公共交通機関による30分以内到達圏内には新宿の他、武蔵小杉や町田、府中、渋谷などがある。車による30分以内到達圏内には横浜、八王子、羽田空港、池袋などがあり通勤や買物などにおいて利便性が高く、ベッドタウンとして機能するようになった要因をなす。

河川

  • 多摩川
  • 野川
  • 根川
  • 六郷用水
  • 清水川

広袤

東西長は2,940メートルで、南北長は3,660メートルとなっている。そのため微妙に縦長である。市は市域の形を枝豆の豆の形であるとしている。

面積は6.39平方キロメートルである。東京都の市としては最も小さく、日本国内では蕨市に次いで2番目に小さい市である。長らく鳩ヶ谷市に次いで3番目に小さな市であったが、2011年10月に鳩ヶ谷市が川口市に編入されたことにより、現在の順位になった。なお、面積が大きい順に並べると790番目に位置する。面積が小さいことから、人口密度が非常に高くなっている(後述)。

気候

気候は太平洋側気候に属し、ケッペンの気候区分においては温暖湿潤気候 (Cfa)に属する。夏の暑さが厳しく、猛暑の年には気温は連日35 ℃を超える。冬は冷え込むが、雪となることは少ない。雨は秋にかけて特に多く、台風によって甚大な被害をもたらす。多摩川に向かって微妙に傾斜しているため、日当たりが良い。

災害

過去の事例

市内で発生する災害は台風による河川の氾濫が多い。過去最も大きな被害をもたらした災害は多摩川水害であり、台風がもたらした大雨により多摩川の堤防が決壊し民家19戸が流される凄惨な災害となった。家を失った住民は損害賠償を求め国を相手取って裁判を起こし、「施設の欠陥から国は災害の発生を事前に予見できた」とされ、住民らが勝訴した(多摩川水害訴訟)。

以降は堤防の強化が進み、多摩川では決壊や越水こそは起きてはいないが、令和元年東日本台風の接近時には、猪方や駒井町を中心に内水氾濫などの被害が生じ、都市機能が麻痺した。多摩川では越水まで数メートルのところで水位は低下に転じたが、根川では氾濫が発生、多摩川住宅が浸水し、自衛隊が災害派遣された。

気象警報・防災気象情報

狛江市において、気象注意報や気象警報、特別警報は以下の基準に基づいて発表される。かつては市全体が平坦な地形で土砂災害が起こる可能性がないとして、気象庁は土砂災害警戒情報に関する指数である土壌雨量指数の基準値の設定を行なっていなかったが、東京都は2020年9月26日に東野川四丁目30の一部地域を土砂災害警戒区域を設定した。なお、記録的短時間大雨情報は市内の1時間雨量が100ミリメートルを超えた場合に発表される。

また2022年8月現在、多摩川と野川において、越水による防災気象情報は以下の基準に基づき発表される。これらの予報は多摩川は調布市の石原水位観測所、野川は三鷹市の大沢池上水位観測所の水位をもとに発表される。なお野川は川幅が狭いため、大雨により急激に増水し事態が急変するおそれがあることから多摩川のよう段階的に避難情報などの発表は行われず、氾濫危険水位に達した時に避難指示のみが狛江市により発令される。以下の表は2021年3月の狛江市の資料及び2021年5月の内閣府の通知、それに対応する改正された資料を参考に作成した。

防災

狛江市で大規模な災害が発生した際は、市役所敷地内にある狛江市防災センターに市の意思決定機関として災害対策本部が設置され、対応にあたる。この施設は2014年に完成した施設で、地上6階地下1階建てとなっている。地下1階は非常用汚水槽と防火水槽が設置されていて、1階には災害対策用備蓄倉庫が、6階には非常用発電機がそれぞれ設置されている。これらの設備により下水道施設の損壊や大規模火災の発生があっても一時的に対応することができるほか、停電が発生しても狛江市役所へは2日間電気供給がなされる。そのほか市は8つの自治体(締結自治体一覧)と災害時相互応援協定を締結していて、非常時には応援を受ける。

市は2020年のハザードマップで多摩川が氾濫した場合、おおよそ狛江通りと世田谷通り以南は全て浸水被害に遭うとしていて、その場合避難にはこれよりも北上することが必要となる。野川が氾濫した場合には特に旧野川の流路を辿る野川緑地公園と岩戸川緑地公園周辺とその南部が浸水被害に遭うとしていて、その場合西への避難が必要となる。このように、市はそれぞれの河川の洪水ハザードマップを発表しているが、多摩川と野川が同時に氾濫することは想定していない。同時に氾濫した場合、東京新聞の調べによると市内の85%の範囲、人口にして約71,000人が浸水被害を受けるとしている。市内に浸水しない場所はほぼないに等しく、市外に脱出するという広域避難が必要だとしている。さらに令和元年東日本台風接近時には、避難所が満員になり新規避難民を収容することができなくなってしまうという事態が発生し、市議会の議場を臨時に避難場所として提供するまでに至った。そのため避難所の収容人数の拡大が現在の課題になっている。

地域

全部で11つの町が存在する。大まかに分けると小田急小田原線以北を北部、以南を南部と分けることができる。南部は道路が入り組み、また畑などが多いのに対し、北部は道路が比較的整っているほか商業施設も充実し、少なからず南北で差が生まれている。これはかつて南部が宅地開発されることが想定されていなかった点や、小田急小田原線の高架化以前は、北部と南部が踏切で分断され移動が不便であったことなどに由来する。

町名

狛江市では、全域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。全ての町丁は設置と同時に住居表示が実施された。

和泉地域

和泉地域は、和泉だけで市域の半分を占めるため、住居表示実施時に和泉本町・中和泉・西和泉・元和泉・東和泉の5つの町に分割された。和泉地域は歴史的にも特に大きな規模を誇るが、特にかつて役場が存在した和泉本町が現在でも狛江市の中心として機能する。旧和泉村。 『武蔵名勝図会』には、和泉はかつて「出水」と書かれたとの記述があり、弁財天池などに代表される湧水が語源になっていると考えられている。

  • 和泉本町(いずみほんちょう)
    市中央部。1979年10月1日設置。一丁目から四丁目まで存在。
    南には市役所が位置し、行政の中心地となっている。北には慈恵第三病院と都営狛江団地が位置する。現在グランドメゾン狛江が建っている場所には東京航空計器の工場があり、取り壊し時に和泉式土器が発掘された。
  • 中和泉(なかいずみ)
    市西部。1980年12月1日設置。一丁目から五丁目まで存在。
    住宅地が広がる。和泉本町とは違い一戸建ての家が多い。南部には和泉の鎮守である伊豆美神社が位置する。過去には市内でも観光地として栄え、特に玉翠園や玉川碑などである。玉翠園は高級料亭で、鮎料理などを提供していた。
  • 西和泉(にしいずみ)
    市西部。根川の西。1980年12月1日設置。一丁目と二丁目が存在。
    多摩川住宅の狛江市部分に一致する、市内最小の町である。この地域の人口は全て多摩川住宅に住む住民である。
    かつては狛江村成立前に和泉村と合併した上野村であった。この地域は千町耕地と呼ばれ、多摩川住宅が建設されるまではただの沼地で、神社は疎か人家すら存在せず、水田が広がるのみだった。
    多摩川住宅の建設により狛江市立狛江第四小学校が開校し「飛行機型校舎」で親しまれた。現在は統廃合により消滅し、残る体育館と校庭は「西和泉体育施設」として利用されている。
    令和元年東日本台風接近時には根川が氾濫し、一帯が浸水した。
  • 元和泉(もといずみ)
    市西部。1981年11月1日設置。一丁目から三丁目が存在。
    都道114号以西はかつて和泉多摩川緑地として整備されることが決定されていた地域で、現在も公園や空地などが多い。一帯を東京都立和泉多摩川緑地公園として整備する計画がある。以東は主に住宅地が広がるが、狛江駅前として商業が発展する。前述の空地や狛江弁財天池特別緑地保全地区、泉龍寺などが集まり、比較的緑の多い町である。また西域は一部多摩川南部の河川敷にかかる。
  • 東和泉(ひがしいずみ)
    小田急線沿線地域。1981年11月1日設置。一丁目から四丁目が存在。
    狛江駅と和泉多摩川駅の両方が所在し、狛江駅南口や和泉多摩川商店街を擁す、商業が発展する地域である。この町の北東部に位置する狛江三叉路交差点は、かつて銀行町と呼ばれていた。その名は1899年にこの地に設立された旭貯金銀行や1908年に移転した勧業貯蓄銀行に由来する。銀行の移転以前はこの地は駄倉弐ツ塚と呼ばれていたが、銀行が設立されると商店街が形成され、矢田部米店や蕎麦屋の高麗屋など、現在にも残る店が多く開業した。商店街は1913年に銀行がなくなった後も拡大を続け、洋食屋も開業した。のち、昭和になるとこの辺りは狛江銀座と呼ばれることが多くなり、今に至る。

猪方地域

  • 猪方(いのがた)
    市南部、多摩川沿い。1982年11月1日設置。一丁目から四丁目まで存在。旧猪方村。
    住居表示実施前後で唯一、町名が変更されなかった。普通「いのがた」と読むが、「いかた」「いのかた」とも呼ばれる。また過去には「猪ノ方」とも表記されたことがわかっているが、猪方の由来は不詳である。
    前原塚古墳や猪方小川塚古墳に代表される古墳が多く残る地域である。また、多摩川に近いことから水害に度々悩まされている。近代だけでも堤防は6回以上決壊し多大な被害が出た。
    かつての小字に、久保・前下・中村・天神森・水神下・前原下・中河原・道下・大河原があった。大正時代には半縄(はんなわ)という地名もあったとされるが、昭和には見られなくなっている。鎮守は白幡菅原神社で、中河原に位置する。
    農業が盛んであるが、昭和初期には多摩川の砂利採掘でも栄えた。そのため各地に砂利穴と呼ばれる穴ができたが、砂利採掘の禁止後には埋め立てられ住宅地となった。

駒井地域

  • 駒井町(こまいまち)
    市南東部、多摩川沿い。1982年11月1日設置。一丁目から三丁目まで存在。旧駒井村。
    「狛江」は「駒井」が変化したものとも言われる。狛江村発足時も「駒井」のみの地名だったが、狛江と聞き間違えやすいことから、住居表示実施時に「町」が付いた。三丁目の多摩川沿いの地区はかつて宿河原に属していたが、多摩川の氾濫による流域変更に伴い1912年に編入されたという歴史をもつ。かつては駒井宿河原とも呼ばれたが、現在は宿河原という地名はなく、町域内の宿河原稲荷神社に旧地名が唯一残る。
    かつての小字に、本村・上村中・下村中・南河原・供養塚・十一耕地があった。このうち本村に鎮守の日枝神社がある。
    農業で栄えていたが、現在では市街地化が進んでいる。また明治時代ごろから養蚕も盛んに行われていたが、大正期には衰退した。その後は多摩川梨と桃の栽培が行われていたが、こちらも1960年ごろから衰退し、現在果樹園は存在しない。

岩戸地域

岩戸地域のみで市域の約2割の面積を占める。そのため住居表示実施時に世田谷通りを境に南北に分けられた。東側で世田谷区喜多見に接する。旧岩戸村。

  • 岩戸北(いわどきた)
    市北東部。1975年1月1日設置。一丁目から四丁目まで存在。
    世田谷区喜多見に接し喜多見駅に近いため、一部地区では第三次産業の発展が見られる。町の中央を貫く松場通り周辺は二の橋通り商店街に付随する商店の集合体として賑わう。松場通りは狭隘路のため将来的に拡幅される予定である。この道路に接続する一中通りは電力中央研究所が面していて、この研究所の敷地は岩戸北の面積の1割ほどを占める。
    かつての小字に、三嶋・松場・宿屋敷などがあった。慶岸寺が南に位置する。
    柿やソバの栽培が特に盛んだった。
  • 岩戸南(いわどみなみ)
    市南東部。1975年1月1日設置。一丁目から四丁目まで存在。
    昭和時代中期まではこの町を貫くように清水川が流れていた。埋め立てられた後は地上部分が岩戸川緑道として整備されている。また、世田谷通りの南側一帯に広がる緑地帯はかつての六郷用水の名残である。六郷用水に架かっていた橋に「一の橋」「二の橋」があり、交差点名やバス停留所名、商店街の名称として残されている。
    二丁目にはニトリの大型の郊外型店舗が位置し、その南に事業所や工場が集まる地域がある。
    かつての小字に、駄倉・古屋敷・相之原・堀上・稲荷森・平川戸などがある。江戸時代に見られた他の地名には、五軒屋・長トロなどがあった。岩戸南には岩戸村の鎮守であった岩戸八幡神社があり、その西には明静院が位置する。

野川地域

東野川と西野川を指す地名。またかつての地名である覚東と小足立の2つを合わせて覚東地域(がくとう)とも呼ばれる。

  • 小足立 - 由来は不詳である。野川の水を用水とした畑作が盛んだった。かつての小字に、前原・三長(みつおさ)・箕輪田(みのわだ)などがあった。
  • 覚東 - 室町時代は「学童村」と書かれたとされるが、江戸時代の初期にはすでに覚東と書かれるようになったとされる。そうなった経緯はわかっていない。小足立と同じように畑作が盛んだった。バス停留所名として現在も残されている。

この2つの地域は交互に位置し、西から小足立(上小足立)・覚東(上覚東)・小足立(下小足立)・覚東(下覚東)という配置だった。複雑な地区となっていたため、1977年8月1日の住居表示を機に、町名を「野川」に改めるとともに、松原通りを境に東西に分け簡略化された。2つの地域の合併に伴う、町名変更時に実施された新町名決定の住民アンケートに示された選択肢は、「小覚町」「緑町」「野川」「富士見町」であった。

  • 東野川(ひがしのがわ)
    市北部の東寄り。1977年8月1日設置。一丁目から四丁目まで存在。
    西部に千手院が位置する。道路は非常に入り組んでいる。
  • 西野川(にしのがわ)
    市北部の西寄り。1977年8月1日設置。一丁目から四丁目まで存在。
    町域を八幡通りが貫く。南西部には前原公園や愛光女子学園が位置する。また中央には小足立の鎮守である小足立八幡神社が鎮座するほか、覚東の子之三島神社も北東部に鎮座している。

主な集合住宅

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人口

概要

狛江市の人口は43,316世帯83,025人である(2022年5月)。なお、男性人口より女性人口の方が2,500人ほど多い。同時期に東京都総務局統計部が公表した狛江市の推計人口は84,437人となっており、狛江市の住民基本台帳を基にした人口よりも1千人ほど多くなっている。

歴史的には、郊外の農村であった1930年代までは人口は3,000人程度であったが、太平洋戦争が始まると疎開などを理由に9,000人程度まで増加した。高度経済成長期の1960年代には急激な増加を見せ、一気に都市化が進み、この時期に市立小中学校が続々と開校した。しかしその後は少子化により児童数は減少し、4校の小学校が閉校となった。2022年現在も人口は増え続けてはいるが、伸びは鈍化しており、市は2016年に実施した将来人口のシミュレーションにおいて、2025年を人口のピークとし、その後2060年までに66,380人ほどにまで減少すると見積もっている。

現在までの人口増加は、出生率が高いことによる影響などではなく、あくまでも東京一極集中等に伴う人口流入によるものであり、1980年からの30年間に老年人口は16ポイント増加、若年人口は11ポイント減少し、市内でも少子高齢化が進行している。なお、出生数は1995年から3,000人前後で概ね横ばいで推移している。

昼夜間人口

2020年時点において、夜間人口は84,772人、昼間人口は62,979人で、昼は夜の0.74倍の人口になる。残留人口は21,793人と昼夜間人口比率は低くなっている。2020年の通勤者と通学者で見ると市内から市外へ出る通勤者27,165人、市内へ入る通勤者は18,937人と通勤者では市外へ出る通勤者の方が多く、また学生は市外から市内へ入る通学生は1,522人であるのに対し、市内から市外に通学する通学生は3,005人と、学生も昼は市外へ流出する傾向を見せている。

人口密度

市域が小さいこともあり、人口密度はかなり高くなっている。2019年10月時点での推計人口を基にしたデータによると、狛江市の人口密度は13,112.36人/km²で、この値は全国の市町村で3番目に大きい。なお、人口密度が1番高い市町村は面積がもっとも狭い蕨市である。

経済

産業

第一次産業

江戸時代よりこの地域では農業や多摩川での漁業が盛んであった。しかし戦後の急速な都市化に伴い多摩川が汚染されてしまったことや、市が住宅地として発展した影響でかなり衰退して、特に稲作は1984年に駒井町で行われたのを最後に、漁業は昭和時代中期までにもう行われなくなった。一方で現在でも野菜の栽培は続いている。

もっとも大きい作付面積を占める野菜は枝豆で、全体の23%の面積を占める。市は枝豆を特産品としていて、市のマスコットキャラクターのモチーフが枝豆であるなど(えだまめ王子)、狛江市産の野菜でも特に推している。GAPという手法で安全を管理した野菜を狛江ブランド野菜と位置づけ販売したり、直売所マップを制作し頒布したりなど、農業振興の取り組みを進めている。市域369 haのうち35 haが農地となっていて、割合としては10%にあたる。2019年度で農業労働人口は121人、農業産出額は合計1億8000万円で、規模が大きいとも言えない。近年では畑の面積の割合も、農業労働人口の高齢化に伴い、宅地化されたり駐車場になったりと減少を続けている。

1955年ごろからは花卉園芸も盛んに行われるようになった。技術は宇奈根から伝わったものとされるが、完成度や市場価格などから、東京都の品評会において農林水産大臣賞を受賞した。

昭和時代後半まで、多摩川周辺での砂利採掘も狛江の主要な産業として賑わった。昭和時代に入ってしばらく経つまでは多摩川の河原での採掘が主流であった。小田急電鉄も当時は和泉多摩川駅の東側から河原まで線路を敷設し、トロッコを川まで引き込み採掘していたが、砂利の掘りすぎによって多摩川の水位低下が目立つようになり、鉄道橋や道路橋の土台などの構築物が破壊される危険性が生じたほか、岩盤の露出によって鮎が消えたりしたため禁じられた。その後は流域の田の地下に存在する砂利が採掘されるようになり、現在の猪駒通りの両側は穴だらけになった。昭和時代後半になるにつれ周囲の地価が上がっていき、穴も埋め戻され住宅用地として販売されるようになると、砂利の採掘は行われなくなった。

第二次産業

昭和時代中期まで、東京航空計器などに代表される軍需産業が盛んであったが、現在までにいずれも移転などして工業も衰退しているのが現状である。一応、日東綜業工業団地や、和泉本町東部、岩戸南北部などに工業が集中する地域がある。

第三次産業

第一次産業、第二次産業の衰退に比べ商業やサービス業に代表される第三次産業は発展している。歴史的には、商店が各地に点在していたのが、1960年代から御台橋ストアーの成立を筆頭に各地に商店街が誕生し、このころ和泉多摩川商店街や猪駒商店街、狛江ショッピングセンターなども成立した。その後、全国で百貨店やショッピングセンターなどが台頭し、狛江にもその波がやってくるが、大規模小売店舗における小売業の事業活動の調整に関する法律によって、出店に地元商工会との調整が必要になった結果、多くの出店計画は糾弾された。

狛江には1978年に岩戸南への高島屋ストアの出店計画があったが、多くの反対に遭い中止されたほか、シズオカヤなども出店計画が撤回されることとなった。現在狛江駅南口に位置する三和に対しても激しい反対運動が生じたが、度重なる話し合いの結果、出店が認められることとなった。1985年の『狛江市地域商業振興計画書』では市内のスーパーマーケット出店などに反対運動を展開した商業者に対して、地域内での競争を回避した結果、他都市との商業競争に全面的に敗れていると指摘している。

現在では後述の狛江駅北口の再開発に伴い建設されたエコルマ(後述)の他、2017年には世田谷通りにニトリ狛江ショッピングセンターとヤマダデンキが、2021年には和泉多摩川商店街にイオングループによるまいばすけっとなども開店し、狛江市への大手企業の参入も相次いでいる。

また、市周辺に撮影スタジオなどが多く所在するため、市内はよくドラマや映画の撮影に使われ、撮影を有償で支援する組織として狛江市観光局に狛江ロケーションサービスが設置されている。

開発

狛江駅北口整備事業

1975年に市は小田急線の高架化に併せ、狛江駅北口の北口の再整備が決定し、その後5年間調査や計画の策定を行った。当初、狛江の町の核として大規模に開発する必要性が指摘され、初期の計画図によると、当初あった狛江一小を移転させ、駅前に交通広場を整備し南口と道路で連絡、その西側にコミュニティセンターを、正面および東側に再開発ビル8棟を建設するという非常に大規模なものであった。

この計画は、今後の市の発展の起爆剤になるとされ重要な地位を占めていたが、住民は反対運動を展開し「狛江駅北口問題を考える会」(以下考える会とする)を発足させ、また再開発予定区域に緑地が含まれていたことから緑地保全を求める運動も併せて行なった。考える会は独自に再開発の計画を立て、ケースA、ケースBを提示した。ケースBは大量の資金が必要ながらもある程度の効果は見込めるものであったのに対し、ケースAは開発は容易だが、再開発の完全性としては疑問が残るものだった。しかしながら、市は開発の容易さからケースAを採用し、計画の規模は大幅に縮小され、かつ計画に遅れが生じた。

考える会はその後も活動を続け、新たに建設される予定の再開発ビルのデザインについても検討を行って市に報告書を提出した。その後計画は承認され、再開発ビル3棟、北口交通広場、地下駐車場、交通広場西の緑地について整備を行うこととなった。再開発ビルの名称は一般公募によって決定され、EcologyCommunityOriginalityRebornMessageAmenityの頭文字をとって合わせた「エコルマ(ECORMA)」に決定し、第一再開発ビル4階から6階にかけて設置される市民ホールの名称も「エコルマホール」に決定された。緑地保全については考える会の要求を全面的に受け入れ、都市計画法の基づく緑地保全地区の指定を受け、狛江弁財天池特別緑地保全地区として保存されることになった。

なお、この再開発計画によって市の財政が悪化したうえ、、規模も当初より大幅に縮小された。

関連企業

狛江に拠点を置く企業

  • 東京電線工業 - 配線部品製造業者。
  • 山田かつら - かつら業者。大正15年創業。
  • 和泉園 - 造園工事業者。
  • 東都 - 不動産会社。
  • アルファワン - 芸能事務所。
  • アルカブース - 音響効果の会社。
  • 京立電機 - カメラ、医療機器の設計製造。
  • 戸井田工業 - 金属加工会社。

狛江に拠点を置いていた企業

財政

狛江市の財政力指数は2020年度で0.88であるから、地方交付税が支給される自治体である。狛江市の財政に類似する自治体として、 福生市・国立市・東大和市・清瀬市・武蔵村山市・稲城市・あきる野市がある。

政治

市政

狛江市の執行機関は狛江市役所である。狛江市役所は市民により正当に選挙された狛江市の首長たる狛江市長を長とする組織で、狛江市の執行機関としての事務を行う。市長の任期は地方自治法により4年と定められている。

狛江市の議決機関は狛江市議会である。狛江市議会は地方自治法第89条に基づき狛江市議会が設置されている。定数は22名。狛江市役所とともに狛江市庁舎内に設置されている。

国政・都政

衆議院議員選挙において狛江市は調布市、三鷹市、稲城市の一部とともに東京都第22区に属す。東京都議会議員選挙においては狛江市と調布市で構成される北多摩第三選挙区に属す。定数は3名。

機関

警察

警視庁の調布警察署が調布市と狛江市を管轄しているため、狛江市内に警察署はない。調布警察署の庁舎は管轄地域の中心である調布市国領町の甲州街道沿いにある。過去に市の中心に警察の拠点がほしいという要望から「大型交番」が設けられたが、現在までに廃止、残った建物は市商工会館として使われ、交番としての機能は狛江駅前北口ロータリーに移転された。

交番

消防

消防は市町村の事務であるが、本市は多摩地域の多くの自治体と同様に東京消防庁へ業務を委託している。119番通報は立川市にある第八消防方面本部の多摩災害救急情報センターにつながる。多摩川対岸の狛江市市域での水難事故などでは川崎市消防局が出動する場合がある。

狛江における消防の歴史は、1895年12月に創設された消防組から始まった。消防組は各地域ごとに組織された5個の組を基本単位とし、211人で構成される大規模な組織だった。のち警防団令により警防団となり、終戦後の1948年に197人で構成される狛江村消防団となった。長らくこの体制は変わらなかったが、1962年1月25日午前4時9分に発生した佐藤病院火災が転機となった。病院の杜撰な危機管理体制や消防資材の不足から事態は急速に悪化し、佐藤病院の敷地約1,000平方メートルが全焼、入院患者7人が焼死するという結果となった。この火災から、町では常設消防設置の動きが加速し、同年8月には町内に常設消防本部が設置され、今日の狛江消防署となった。

消防署

狛江消防署と猪方出張所が存在する。かつて南部地域へは小田急線踏切により移動に時間がかかったため猪方出張所が1974年5月に新たに開設された。

消防団

消防団は現在第一分団、第二分団、第三分団、第五分団、第八分団、野川分団の6個分団となっている。各分団に1台のポンプ車が配備され、それぞれに自動体外式除細動器(AED)を搭載している。

医療

市内には東京慈恵会医科大学附属第三病院と東京多摩病院が位置する。

明治時代中期になっても狛江には医者がおらず、狛江村発足後もしばらくは無医村となっていたが、1927年に小田急線が開通すると狛江駅前に「片岡医師」が開業し、無医村を脱した。1950年7月19日には東京慈恵会医科大学附属第三病院が開設され、医療は充実した。当時村民は、役場で発行された診察券をこの病院で利用すると診察費等が減額されるという、当時にしては画期的なシステムがあった。

郵便

郵便番号は「201」から始まる。以前は調布郵便局管轄で郵便番号は182であった。現在は、狛江局が配達、調布局が取集め、消印は東京北部郵便局で行っている。

郵便番号

ただし、大口事業所の固有番号として、狛江市役所の郵便番号201-8585など、いくつかの例外が存在する。

郵便局

狛江郵便局で日本で初めて絵手紙教室が開かれたことから、狛江市は「絵手紙発祥の地 - 狛江」として宣伝している。狛江郵便局には絵手紙メモリアルポストが設置され、各種絵手紙に関わるイベントを後援している。

施設

上下水道

上水道

給水は市町村の事業であるが、多摩地域の多くの自治体は上水を供給する東京都水道局から事務委託されていた。本市もそれに倣っていたが、2007年4月1日に事務委託を廃止して都営一元化された。市独自の水源は地下水のみで、現在も西野川に4か所と和泉本町に2か所の取水井戸を持っている。それ以外の水は東村山浄水場から送られており、その水源の割合は〈多摩川:利根川 = 3:7〉となっている。

多摩川の分は羽村取水堰から取水しているものである。これらの割合は〈井戸:都 = 1:9〉で、和泉本町の浄水場で両者は混合され給水される。

市内には多摩水道橋や水道道路などがあるが、これらは川崎市多摩区にある長沢浄水場と田園調布エリアを結ぶ長沢系と呼ばれるもので、本市への給水には直接関与しない。しかし前述した都の東村山系の事故発生時には、この長沢系も使えるようになっていて、バックアップのようには機能する。世田谷区喜多見の砧浄水場は一部敷地が狛江市になっているものの、世田谷区南西部の給水を担っており、こちらも本市には関わらない。

狛江市唯一の浄水場として和泉本町給水所がある。東京都水道局が管理し、大規模災害発生時に応急給水拠点となる。確保水量は2,260 m³。過去、狛江浄水場が存在していたが、現在は廃止され狛江市立狛江第三中学校になっている。また、元和泉の3 haにも及ぶ空地は東京都水道局の資材置き場と水道局員の住宅となっている。後者の空地について、市は都立公園として開発するため努力している。

下水道

下水道に関しては、1969年から100億円余を投じて整備が進められ、1979年に市内全域が完備された。下水道完備の自治体としては全国で4番目である。下水処理は大田区の東京都下水道局森ヶ崎水再生センターで行っている。

また、市はマンホールカードを作成し配布している。カードは「コサギ」と「絵手紙」の2種類があり、市役所の下水道課窓口において受け取ることができる。

ごみ処理

ごみ処理は有料である。ごみを廃棄する場合は市指定の有料ごみ袋を購入する必要がある。

多摩地域の他市と多摩川衛生組合を構成していて、稲城市大丸の多摩川沿いにあるクリーンセンター多摩川などの処理施設を共有している。組合は長らく狛江市、稲城市、多摩市の3市で構成されていたが、1990年代に多摩市が脱退、府中市と国立市が加入し、現在はこの4市で構成されている。最終処分場には日の出町の二ツ塚廃棄物広域処分場を利用している。ただし、市内で回収された缶や瓶、ペットボトルは市内の狛江市ビン・缶リサイクルセンターに運ばれ、分別や減容などが行われる。

多摩川衛生組合が組織されるまでは町が独自にごみ処理を行なっていた。1959年からごみ処理が行われるようになり、当時ごみは砂利採取によってできた穴に埋め立てたり、堆肥として利用したい農家の畑に積み上げるなどの方法で処理されていた。その後ごみは増加し、穴が満杯になってしまうと、小足立の林に埋めるようになった。翌年には稲城町の林に、次は浦和市に、最終的に溝口の残土捨て場にと、最終処分場は点々とした。

電話

狛江局収容。電話普及期に世田谷区内の砧電話局から架線されたという経緯があるため、市外局番は市域のほとんどが東京23区と同じ03である。東京23区外における03は調布市や三鷹市の区部に接する一部地区でもみられるが、市内全域で市外局番が03であるのは狛江市のみであり、珍しい。狛江で初めて電話を引いたのは料亭であった玉翠園である。

なお、狛江市と調布市にまたがる多摩川住宅(西和泉)と神代団地(西野川)では、調布局の042が使われている。

メディア

  • 狛江ラジオ放送 - 狛江市を放送対象地域としてFM放送する放送事業者。愛称はコマラジ。
  • k-press - 狛江市と川崎市の情報を主に伝えるインターネット新聞。狛江市に所在する。

その他

  • 愛光女子学園 - 東京矯正管区に所属する女子少年院。法務省矯正施設。。
  • 防衛省狛江スポーツセンター - 元和泉に位置する防衛省共済組合が直営する総合運動施設。ゴルフ練習場やテニスコート、野球場などがある。防衛省共済組合員以外も施設を利用することができる。
  • 東京都大気汚染測定室 - 中和泉の伊豆美神社そばにある観測所。大気汚染にかかわる各種物質の量の測定などを行なっている。
  • 電力中央研究所 - 日本の発電技術の開発を担うシンクタンク兼研究機関。
  • 送電線 - 市を北西から南東に貫いている送電線はJR東日本のもので、新潟県小千谷市の発電所から横浜市鶴見区の変電所を結んでいる。総延長は約300 kmに及ぶ。

教育

狛江における教育は泉龍寺にあった私塾を起源とする。私塾は1872年(明治5年)9月25日に併合され、公立観聚学舎として和泉村、猪方村、岩戸村と駒井村の計4村の協力により新たに設立された。観聚学舎は名前を変え、現在の狛江市立狛江第一小学校として今も残る。

学校教育

小学校

かつて狛江市立狛江第八小学校までの計8校が存在していたが、現在は6校の小学校が存在する。

前述の通り、公立観聚学舎を源流とする狛江市立狛江第一小学校が最も長い歴史をもつ。公立観聚学舎の設立により、児童は教育を受けることができるようになったが、1874年の調査によれば就学率は37%で、高いとはいえない状況であった。市はこの状況について学校が生徒から授業料を徴収していたことなどに起因するとしている。和泉学校は1878年に慶岸寺に移転されたが、これにより一部地域の児童が遠距離通学を強いられるようになり、組合の足並みが揃わなくなった結果、1880年5月に廃された。

廃止後1年もせずに駄倉に新しい和泉学校が設立され、初等教育が再開されることとなった。1882年には就学率は51%に達し、明治後半になるとほとんどの児童が学校に通うこととなった。同時に、農業教育も重点的に行われた。また、5月から6月にかけて農業に従事するために多くの児童が欠席するため、農繁休業が設けられた。さらに1908年には、新しい科目として農業が追加された。その後1910年、狛江尋常高等小学校に狛江実業補習学校が附設され、将来農業に従事する児童を対象に授業料無料で農業・修身・算術・国語を教えた。この実行補習学校の就学期間は2年間とされ、農業閑散期の冬に開校していた。

その後地震や戦争により狛江国民学校の校舎は2度焼失したが、青空教室などを経て児童数は増え、狛江村立狛江小学校和泉分校が設置された。この分校は2年後に狛江村立狛江第二小学校となり、同時に狛江小学校は狛江村立狛江第一小学校と改名した。

1957年には狛江町立狛江第三小学校が開校し、南部で初めての小学校となった。狛江第三小学校では翌年より市内で初めて学校給食が開始された。また、町の失業対策事業の一環として各学校にプールが建設された。

その後も人口増加が続き、1966年に狛江町立狛江第四小学校が設置され、2年後には狛江町立狛江第五小学校、さらに3年後には狛江市立狛江第六小学校、そのさらに2年後には狛江市立狛江第七小学校と、各地に学校が設置された。特に狛江第四小学校の校舎は初めて木造でない校舎として建設され、また特徴的な形だったため「飛行機型校舎」と呼ばれ親しまれた。この時期は町(市)内各地で団地やマンションなどの建設が進んでいたため開校時からプレハブ校舎での授業が行われるなど、人口増加に間に合わず立て続けに学校の設置が行われた。10年で4校の学校が新設されたが、それでも狛江第四小学校では多摩川住宅の入居開始8年を迎え児童数は増加し、児童数1,257人とマンモス校となったため、1975年に狛江市立狛江第八小学校が開校した。同年、狛江第五小学校でも児童が急増したため、狛江市立狛江第九小学校の設置が計画されたが児童数は減少に転じたため立ち消えとなった。その後も狛江第一小学校の児童数がマンション建設により急激に増加するなどしたが、どれも学区域変更によってその場を凌いでいる。

平成になり、市内の児童人口は減少に転じた。特にそれぞれ団地やマンション建設に伴って設置された狛江第四小学校(多摩川団地)と狛江第八小学校(都営狛江住宅)、狛江第二小学校(都営狛江住宅)と狛江第七小学校(都営狛江住宅)で児童数の減少が目立ち、前者の2校は2001年に狛江市立和泉小学校に、後者の2校は2005年に狛江市立緑野小学校にそれぞれ統廃合された。

小学校一覧
廃止小学校一覧
KoKoA

すべての小学校に狛江市の放課後児童クラブであるKoKoAが設置されている。各小学校に属す全児童は登録していれば、KoKoAに放課後17時00分ごろまで滞在し、遊んだり宿題をしたりするスペースとして利用できる。

学童クラブ

狛江市内小学校に通う保護者の就労などの理由で帰宅しても十分な保護を受けることができない児童を対象に学童クラブが設置されている。前述のKoKoAと違い、最も遅くて20時00分ごろまで、また学校がない土曜日も受け入れていることが特徴。ただ、希望者に対し定員が少ないため、非常に入ることが難しい。学童クラブは下記の5つがある。

中学校

市内における中学校の歴史は前述の狛江尋常高等学校に遡る。狛江尋常高等学校は1941年に狛江国民学校に、1947年に狛江小学校となり中学校と完全に分離された。

1947年4月1日には学制改革における新制中学校として狛江村立狛江中学校が設置され、同年4月19日より授業が開始された。設置後20年間は狛江における唯一の中学校であったが、生徒数は1,000人を超え、また南部に住む町民にとって狛江中学校は遠方に位置し不便であったことから、1967年に南部に狛江町立狛江第二中学校が設置され、同時に狛江中学校は狛江町立狛江第一中学校に改名された。しかしながら狛江第一中学校では生徒数が増え続け、1972年には再び1,000人を数えた。1973年に狛江浄水場の跡地に狛江市立狛江第三中学校が開校したが、それでも再び狛江第一中学校の生徒数が増加したため1980年に狛江市立狛江第四中学校が開校した。

狛江第四中学校は開校当時から児童数減少が予想されていたため市内最後の開校となった。その後、狛江第三中学校の狛江第一中学校への統合や狛江第三中学校の狛江第四小学校跡地への移転なども議論されたが、全て実現には至らなかった。

中学校一覧

高等学校

市内唯一の高等学校として東京都立狛江高等学校がある。野球部とダンス部、箏曲部で有名。

狛江高等学校は1972年に開校した都立学校であるが、かつて狛江には東京府立玉泉中学校が建設される予定だった。この旧制中学校ははじめ東京府立第十八中学校といい、1940年4月に東京府立第十中学校を仮校舎として開校した。翌年には校舎を建てるため和泉本町一丁目が用地として確保され、同時に校名が玉泉中学校に変更されたが、着工には至らなかった。その土地は町が取得し、1948年に校舎が竣工、この校舎に前述の狛江中学校が移転した。玉泉中学校の校舎は完成することなく、1946年に東京都立第十中学校に併合された。

その後は狛江に高等学校が設置されることはなかったが、人口が増えていくにつれ市内への高校設置を求める請願が増え、1972年の東京都立狛江高等学校の開校に至った。

その他の学校

  • 和泉本町四丁目に、看護系の専門学校である慈恵第三看護専門学校が所在する。
  • 狛江市内に大学はないが、狛江市と調布市にまたがる敷地に東京慈恵会医科大学医学部国領キャンパスがある。
  • 狛江駅北口の元和泉一丁目に明治大学の学生寮である狛江インターナショナルハウスがある。2011年4月に竣工した。国際交流寮と位置付けられている。
  • 第二次世界大戦の終戦後、在日本朝鮮人連盟(以下朝鮮総連と略す)は玉翠園の跡地を買収し、同敷地に1946年3月に朝鮮中央高等学校を、1947年に朝鮮中央師範学校を建設した。この2校は1949年に文部科学省の指令により接収された。その後1955年8月16日、朝鮮総連は町内に朝鮮総聯中央学院を設置し、朝鮮総連の幹部や学習班などの人員(北朝鮮のスパイ)を育成していた。その後この機関は八王子市に移転されたが、2000年代に消滅した。

幼児教育

2022年現在、市内に幼稚園は3園、認可保育園は20園存在する。

以下の一覧は狛江市公式ホームページを参考にして作成した。なお、保育園は認可保育園のみ掲載している。

幼稚園一覧
認可保育園一覧

社会教育

公共図書館

狛江市立図書館は市内各地の6か所に設置されている。市内における公共図書館は1966年に開設された水曜図書室が最初で、名の通り水曜日にのみ開館する小規模な図書室だった。1977年11月23日には水曜図書館は狛江市立中央図書館となり、市民センターと同時に開館した。その後も各地域センターなどに図書室が建設され現在に至る。2020年6月10日にはオンライン上で一部書籍を閲覧できる「こまえ電子図書館」が開館した。

体育施設

博物館・古墳公園

交通

鉄道

市内には小田急小田原線が通っており、市内には狛江駅、和泉多摩川駅の2駅が設置されている。世田谷区喜多見にある喜多見駅も利用しやすい。また、市北部からは調布市内にある京王線仙川駅、つつじヶ丘駅、柴崎駅、国領駅も利用できる。狛江駅と国領駅間の南北のアクセスはバスが担っている。

小田急小田原線

至町田 ← 和泉多摩川駅 - 狛江駅 - (喜多見駅) → 至新宿

1995年に高架化されるまで各地に踏切などが存在し、開かずの踏切問題や交通渋滞、沿線の騒音被害などのほか、線路も2線しかなく、電車はピーク時には混雑率は200%を超え、前述の踏切問題で電車の増発もできないなどと、多くの問題を抱えていた。その後高架複々線化がなされ、現在では安全に通行できるようになったとともに、輸送力なども飛躍的に向上した。現在市内に踏切は存在しない。

最大の駅は狛江駅で、市の中心部にある。唯一準急が停車する駅で、狛江市役所はこの駅が最寄りとなる。接近メロディには市の歌「水と緑のまち」が採用されている。かつては市内では和泉多摩川駅のみが設置される予定であったが、住民の請願駅として開設された経緯をもつ。また、喜多見駅は駅の住所こそ世田谷であるものの、駅舎は狛江跨って建っていて、一部地域では喜多見駅が最寄駅となる。喜多見駅にはかつて「狛江市側臨時改札口」が存在したが、現在までに廃止されている。

バス

小田急バスと京王バスが乗り入れており、主に京王線、東急田園都市線の駅とを結ぶなど市内の南北方向の交通を支えている。市内から多摩川を渡って神奈川県方面へ越境する路線バスはない。狛江市内を発着する路線バスは東京23区内と同じ前乗り中降り均一運賃である。市内に小田急バス狛江営業所がある。また所在地は調布市国領町であるが京王バス調布営業所も市内のバスの運行を担当する。

こまバス

他に狛江市内を走るバスとしてはコミュニティバスである「こまバス」がある。2008年11月24日より運行が開始された。小田急バスに運行を委託している。こまバスの名前は狛江の「狛」のみを表すのではなく、市内を「細」かく走るバスという意味がある。ルートは北回りと南回りの2種類がある。バスは北回りは時計回りに、南回りは反時計回りにしか巡回しない。運行間隔は40分である。

道路

市内を東京都道が3路線通る。市内に国道と自動車専用道路は通らない。市道は市内に900路線ほどある。それらの道路の総延長は2019年時点で128,340メートルで、そのうち117,767メートル (92%) が市道、6,651メートル (5%) が主要地方道、3,922メートル (3%) が一般都道となっている。川で隔たれている川崎市とは、多摩水道橋で接続される。市は橋名を「狛江橋」とすることを提案したが川崎市と話がまとまらなかったため、水道局の提案で現行の名前となった。この橋が建設される以前は、対岸との交通を渡し船である登戸の渡しが担っていた。

狛江市を通過する東京都道は東京都道3号線世田谷町田線(世田谷通り)・東京都道11号大田調布線(狛江通り水道道路本町通り)・東京都道114号武蔵野狛江線(松原通り六郷さくら通り)の3路線がある。いずれも一部が緊急輸送道路として指定されていて、狛江市における道路の根幹である。また、市内の堤防道路全部が緊急河川敷道路に指定されている。高速道路は2023年現在市内を通過しない。周辺のインターチェンジとしては東名高速道路の東京ICもしくは東名川崎IC、中央自動車道の調布ICもしくは高井戸IC、首都高速3号渋谷線の用賀出入口、首都高速4号新宿線の高井戸出入口がある。

狛江市は、多摩ナンバー(多摩自動車検査登録事務所)が割り当てられている。

かつてあった計画

鉄道

かつては狛江市内を通る鉄道の新路線を建設する計画がいくつかあったが、いずれも住民による反対などにより実現には至らず未成線に終わっている。

狛江駅を起点とする新線計画
小田急電鉄は小田原線の開通前後から多くの新線の建設を申請していたが、その1つである1928年6月に申請された計画は、狛江駅を始点として、砧、神代、千歳、高井戸、中野を経由して高田馬場に至る路線を建設するというものだった。この路線は当時の狛江の主力産業であった砂利採掘で採れた砂利を戸山の軍事施設に輸送するためのものだったとされている。この路線は資料に乏しく、計画後どうなったのかはわかっていないが、少なくとも計画は実現することはなかった。
地下鉄の喜多見駅乗り入れ
現在の東京メトロ千代田線である地下鉄9号線は、1964年の時点で世田谷通りの地下を通って喜多見駅に乗り入れることが決定されていた。後述の小田急線新線計画は、この千代田線の延長として計画されていた。千代田線が喜多見駅に乗り入れられるよう用意されたのが、現在喜多見検車区およびきたみふれあい広場として使われている広大な土地である。しかしこの計画は変更され、現在小田急線と千代田線は代々木上原駅で接続するようになっている。
多摩ニュータウンに至る新線計画
多摩ニュータウンの開発時、小田急電鉄は多摩ニュータウンに至る新線として、1962年に喜多見駅から分岐し狛江町内を経由する路線の計画をたて、免許が与えられていた(東京8号線)。この路線は喜多見駅で分岐したのち役場北側を通過、そのまま高架で西へ進み現在の中和泉三丁目の北側に新駅を開設し、多摩川を橋で渡るというものだった。この計画で小田急は新駅開設による恵沢としてその後建設される予定であった多摩川住宅へのアクセスのしやすさの向上に言及し、その意義を強調した。しかし、住民による騒音や立ち退きに対する不安から反対活動が活発化し、町議会も小田急による事前の説明が不十分なまま計画が進められたことに対する不信感から反対に傾いた。さらにこのルートは、多摩川に新たに架橋する必要があることや、京王相模原線と似たルートになる懸念が生じたことから、小田急は計画を取り下げるに至った。結局この路線は実現することなく、代わりに建設された路線が現在の小田急多摩線である。
小田急線以外の鉄道
1927年に小田急線が開通する以前から狛江を通過する路線の建設計画は複数存在した。1つは武相中央鉄道によるもので、千駄ヶ谷付近で甲武鉄道(現: 中央本線)から分岐し、世田ヶ谷や溝ノ口などに至るものであったが、狛江村の石井正義はこの「溝ノ口線」に代わって世田ヶ谷から狛江、生田、原町田を通過して厚木へと至る「登戸線」を提示し、実際に免許交付に至ったが会社の資金難により建設は叶わなかった。
また、多摩川電気鉄道による路線を狛江に敷設する計画もあった。この計画では狛江村内で生産される砂利や向丘村で生産される氷の輸送を目的として計画されたが、前述の武相中央鉄道と計画が一部重複していたため免許交付とはならなかった。その後は渋谷から三軒茶屋まで至る路線が計画され、玉川まで至る路線が1907年に開通している(東急玉川線)。開通後も砧線の砧停留所から小田急起業線玉川停車場(現: 和泉多摩川駅)まで延伸する計画もあったが、実現には至らなかった。
他、明治末期には軽便鉄道敷設計画があり、城西軽便鉄道によるものと京西軽便鉄道によるものの2つがあった。前者は立川停車場(現: 立川駅)から谷保村、調布町などを通過する計画で、後者は大崎停車場(現: 大崎駅)付近から目黒村、碑衾村、駒沢村、喜多見村、狛江村を経由したのち国領に至る計画であった。どちらも狛江村の政治家などが数名参加したが、実現には至らなかった。

道路

多摩川堤防沿い自動車専用道路計画
過去には1970年ころに東京都によって立川と羽田を結ぶ自動車専用の路線である多摩川堤防沿い自動車専用道路を建設する計画があったが、各通過自治体で反対運動が起こり、狛江でも多摩川住宅の住民を中心に反対運動が展開され、東京都が案を凍結したため実現には至らなかった。
トラックターミナル建設計画
日本自動車ターミナル株式会社によるトラックターミナルが、千町耕地と呼ばれた2万5000坪の土地に建設される計画があった。さらに計画では、東京外郭環状道路から分岐し、狛江の中央を貫きこのトラックターミナルまでつなぐ高速道路も建設するとされた。町は騒音などによる公害を懸念し一貫して反対の立場を採り、この計画は白紙撤回された。

宗教

神社

前述の通り、狛江村は6村が合併してできた。各村には鎮守として1ヶ所ずつ神社があり、現在もこれを受け継いでいる。特に伊豆美神社が最大。

  • 伊豆美神社 - 和泉
  • 岩戸八幡神社 - 岩戸
  • 白幡菅原神社 - 猪方
  • 小足立八幡神社 - 小足立
  • 子ノ権現三島神社 - 覚東
  • 日枝神社 - 駒井

寺院

  • 泉龍寺(せんりゅうじ) - 狛江駅の駅前にある。伝説によれば狛江で1番長い歴史をもち、過去この境内に役場や小学校などが置かれた。現在でも珈琲参道というイベントを開催するなど活発。
  • 玉泉寺(ぎょくせんじ) - 和泉多摩川駅の駅前にある。創建当初は現在地より多摩川寄りにあったが、度重なる洪水で現在地まで移転した経緯をもつ。
  • 慶岸寺(けいがんじ) - 市区境の狛江側にある。幼稚園を敷地内に有していたが、道路建設につき2014年度をもって廃園した。
  • 千手院(せんじゅいん) - 市北部の東野川二丁目に所在する。
  • 慶元寺(けいげんじ) - 市区境の喜多見にある。幼稚園を持つ。江戸の名の由来である江戸氏の氏寺として、鎌倉時代に江戸城内に建立され、室町時代にこの地に移転した。

キリスト教会

  • 日本基督教団 狛江教会
  • 日本基督教団 和泉多摩川教会
  • 日本バプテスト連盟 多摩川キリスト教会

新興宗教

  • 天理教 江東分教会
  • 創価学会 多摩川平和会館
  • エホバの証人の王国会館

観光

住宅都市と呼ばれる狛江市であるが、狛江市観光局を中心として観光政策も行っている。狛江市観光大使として狛江出身のお笑い芸人であるハリセンボンの近藤春菜を起用している。市内には川田旅館と呼ばれる民宿がある。大規模なホテル等はない。

過去、多摩川が貸ボートや釣り、バーベキューなどで栄え、市の強力な観光資源のひとつとなっていた。

名所

過去には、狛江村の名所として玉川碑のほか「千町耕地古戦場」や「ペルリ(ペリー)提督来航記念樹」が挙げられているが、資料に乏しい。

グルメ

  • 枝豆アイス。市の特産品である枝豆を粉砕したものをバニラアイスと混ぜたもの。
  • 東野川にある蕎麦屋「志美津や」は狛江のグルメの中でも有名で、2000年3月14日には元アメリカ合衆国大統領のジミー・カーターが来店した。

イベント

狛江・多摩川花火大会

1922年ごろに始まったといわれ、戦争によって中断した後、1950年に復活し、その後毎年7月下旬から8月上旬に催されていたが、2004年の第32回大会を最後に市の財政難により中断された。その後、2010年に市制40周年を記念し「音楽と花火の祭典」と題し復活。現在は「狛江・多摩川花火大会」の名称で、以降、2015年、2019年と不定期で夏に開催されている。

多摩川いかだレース

自作のいかだを用い、多摩川の五本松から河川敷グラウンド付近までの1,300 mの川下りにかかったタイムを競う。タイムの他、いかだのデザインやアイデアにも賞が贈られる。優勝チームには和泉式土器をモチーフにした陶器製の「狛江古代カップ」が贈呈される。1991年に市政20周年記念行事として開催されて以来、毎年7月中旬に開催されている。出場者としては各狛江市立学校のおやじーずが多いが、近年では市外からの参加者も増えているという。イベントのキャラクターとして「古代くん」がいる。

その他

  • 狛江市民まつり - 1977年に市民センター開館記念として催されたイベントだったが、その後も毎年11月中旬に催されるようになった。市役所前広場、狛江一小、市民グラウンドなどが会場に使われる。パレードが行われたり、露店が出店するほか、歌手やヒーローによるショーなども行われる。毎年7万人ほどの来場者が集まる。
  • 狛江わんぱく駅伝 - 狛江青年会議所主催で行われていた青少年育成事業。25回の歴史を持つ。現在は実行委員会組織により運営されている。第25回大会より狛江市民まつりと同時開催となる。
  • こまえ桜まつり - 根川さくら通りや西河原公園を中心として開催されるイベント。根川さくら通りは歩行者天国となり、屋台が出店するほか、桜のライトアップなどが行われる。2015年4月に市制施行45周年を記念し初めて開催された。
  • こまエコまつり - 6月の環境月間に合わせ開催されるイベント。過去にはグリーンカーテン用のゴーヤの苗の無料頒布や、リユース品自転車の抽選会などが行われている。

文化

絵手紙発祥の地 - 狛江

絵手紙とは、はがきに水彩で絵を描き、一筆沿える形式の手紙。狛江で最初の絵手紙の教室が開かれたことから、絵手紙発祥の地とされる。狛江郵便局ではこれに協賛するイベントを行っている。なお日本絵手紙協会の代表者は狛江市在住で名誉市民。

2005年に狛江郵便局が実施した「絵手紙発祥の地 - 狛江・絵手紙発祥23周年記念キャンペーン」では、全国から募集した約1600枚の絵手紙が商工会の手を経て市内約1000か所の店舗や事務所に配布された。この動きを受け、2007年には狛江市がこれを市の事業と位置づけ、市民による「絵手紙発祥の地 - 狛江」実行委員会が設立された。同委員会は、2008年3月、狛江駅前に「絵手紙発祥の地 - 狛江」と書かれた巨大な懸垂幕と横断幕、そして街灯フラッグを設置するなど活動。同年8月23日には、狛江市内各地域から選出された10組の親子をむいから民家園に集め、「第1回親子絵手紙サミット」を開催。これを記念して園内に丸型ポストモニュメントの設置も行った。同年10月には絵手紙創始者である「小池邦夫講演会」を開催。これと同時に、同委員会が製作した絵手紙マップや絵手紙はがき「小池邦夫童謡絵手紙」がお目見えした。さらに、同年11月に運行開始された狛江市コミュニティバス「こまバス」には、側面に大きな「絵手紙発祥の地 - 狛江」のステッカーが貼られ、車内には絵手紙が展示されるなど、「絵手紙美術館」として市内を巡回している。

音楽の街 - 狛江

狛江駅北口の再開発時に建設された噴水ステージや、エコルマホールなどを活用したいとの目的で、「音楽の街 - 狛江」のスローガンの下活動している。近年の活動としては市立小、中学校でのオペラ公演などが主であるが、各学校とも音楽活動が活発であったり、過去には狛江駅にストリートピアノを設置したりなどの効果や実績などを生み出している。キャラクターとして「こまねちゃん」がいる。

狛江ロケーションサービス

また、日活調布撮影所や角川大映スタジオを擁する調布市内をはじめ、市周辺には撮影スタジオなどが多く所在するため、市内はよくドラマや映画の撮影に使われ、撮影を有償で支援する組織として狛江市観光局に狛江ロケーションサービスが設置されている。

狛江ロケーションサービスとは、狛江市内で行われる映画やテレビドラマの撮影の誘致と支援を行う狛江市観光協会内に設置された組織。狛江市周辺に映画関連企業が多く存在することから、市内の河川敷などが多く撮影に使われる。また、市内に在住、在勤、在学する者は狛江ロケーションサービスを通じて市民ボランティア・エキストラとして登録することができる。

多摩川戦隊コマレンジャー

元は狛江関連の個人サイト上で創作されたものが街おこしグループの目にとまり、2003年に実体化されることになった。市内のイベントなどに登場する。各地のローカルヒーローと提携している。いわゆる戦隊シリーズの設定に準じているが、頭部は地球防衛軍に登場する「ミステリアン」に、胸の部分は人造人間キカイダーに登場する「ハカイダー」に類似した形状を持つ。

ゆるキャラ

  • こまえねちゃん - 音楽の町 - 狛江のキャラクター。楽器を持った人を図案化したもの。
  • えだまえ王子 - 「子育てネット」に登場する枝豆の妖精。えだまめ王国の王。
  • えこまさん - 狛江市環境マスコットキャラクター。カービィのような形状。
  • 守助 - 日本一安心で安全なまち推進キャラクターの内の1つ。犬がモチーフ。
  • 団吉 - 日本一安心で安全なまち推進キャラクターの内の1つ。狼がモチーフ。
  • 古代くん - 狛江古代カップ多摩川いかだレースのマスコットキャラクター。

上記の他、かつて安安丸(あんあんまる)というブルドックを模したキャラクターが、前述の守助と団吉の仲間として存在していたが、セクハラ疑惑が浮上し辞職した高橋都彦が安安丸について「自分がモデル」と言っていたことが分かると、新たに就任した松原俊雄新市長は観光大使の任を解任した。

対外関係

友好都市

  • 新潟県長岡市川口地域 - 川口町出身の狛江市民との住民同士の交流をきっかけに川口町と1987年7月25日に「ふるさと友好都市」となり、翌年には災害時相互応援協定を締結した。その後川口町は2010年3月31日に長岡市に編入され消滅したが、長岡市が提携を継承したため、現在も関係は続いている。市民まつりでは川口町のブースが設けられる。特に2004年に発生した新潟県中越地震では市は応援物資を素早く届け、これに対する礼として「感謝の碑」が贈られた。また、この地域のゆるキャラのかわぐっちの好きな場所のひとつに狛江がある。
  • 山梨県北都留郡小菅村 - 同村とは1994年に行われた多摩川いかだレースに多摩川の源流にある村として招待したことを期に交流が始まった。その後2006年に「住民交流友好都市」となった。

組織・機関

  • 平和首長会議
  • 多摩川衛生組合
  • 東京たま広域資源循環組合

災害時応援協定締結自治体

関連作品

狛江を舞台とする作品

  • 『岸辺のアルバム』- 1974年の多摩川水害をモチーフとし、多摩川水害の当時の実写映像もドラマ中で印象的に使われている。
  • 『ドロップ』– 品川庄司の品川ヒロシによる狛江を舞台にした小説。不良になるため私立中学から狛江市内の公立中学校に転校した主人公の、不良としての生活を書く。後にコミカライズされ漫画が出版されたほか映画化もなされた。
  • 『おれはキャプテン』- コージィ城倉作。『週刊少年マガジン』2003年9月24日号(41号)から連載開始。狛江市立狛駒中学校の野球部を舞台にした作品。冒頭は狛江市の紹介から始まるが、その後は市に関する描写はほとんどない。
  • 『虹のかなた』- 主人公であり小川ちひろの通う小学校は狛江市立狛江東小学校という架空の小学校。居候先の叔父の経営するうどん店「けむりや」は、東和泉6丁目15-1(6丁目は架空の丁番)に立地する。叔父の娘奈緒子がコマレンジャーと撮影している場面などが描写されている。
  • 『相棒』-「通報者」という回では狛江が舞台になっており、いずれも架空の「狛江市立北野川中学校」「狛江警察署」が登場する。
  • 『獣医さん、事件ですよ』- 2014年7月クールに読売テレビ制作・日本テレビ系列で放送された連続ドラマ。主人公が経営する動物病院が狛江市に所在するという設定。
  • 『翼は心につけて』- 関根庄一によるノンフィクション小説。及びそれを映画化した1978年公開の作品。狛江第三中学校に通った、骨肉腫を患い右腕を切断した生徒の闘病生活を描く。
  • 『わが子よ』- 昼ドラマ。『翼は心につけて』のリメイク作品。

狛江が登場する作品

  • 『3年B組金八先生』 - 金八先生は、足立区に赴任する前は世田谷の中学校に勤務しており、狛江に住んでいたという設定。1作目の第1話では狛江駅のホームでロケが行われている。第2話での引っ越しの際には「駅から徒歩15分から20分の場所に住んでいる」旨の台詞がある。
  • 『太陽にほえろ!』 - 小田急線多摩川橋梁下付近の河川敷は、第81・92・223・406・454・463話ほか度々ロケで使用されたほか、野崎刑事(長さん)は多摩川沿いの団地に居住という設定であった。
  • 『西狛江中学3年B組』 - 2004年1月2日フジテレビ系で放送された『新春ドラマ 愚痴2』で、5本のオムニバスドラマの内の1本。
  • 『闇金ウシジマくん』 - 真鍋昌平の漫画。劇中に登場する多重債務者が都営狛江アパートに居住という設定。
  • 『ソラニン』 - 浅野いにおの漫画。劇中に和泉多摩川付近が描かれている。世田谷通と津久井道を結ぶ多摩川水道橋は舞台の象徴として登場する。
  • 『蓮丈那智フィールドファイル』 - 北森鴻の推理小説。主人公の助教授が勤める「東敬大学」が狛江市にあるという設定。

関連人物

名誉市民

狛江市名誉市民は、学問や学芸の進展に寄与した狛江市民もしくは縁故の深い人物で、郷土の誇りとして市民により深く尊敬されている人物に贈られる称号である。この名誉市民制度は市制施行50周年記念の一環として2020年に始まったもので、現在は以下の2人に称号が贈られている。

出身人物

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  • 荒木貞夫 - 陸軍軍人、陸軍大将。現在の狛江弁財天池特別緑地保全地区に家を構えていた。
  • 石井しおり - フリーアナウンサー、元九州朝日放送、現北海道文化放送アナウンサー。
  • 石井正義 - 狛江村長、郷土史家。『狛江村誌』を著した。狛江古墳群に狛江百塚と名づけたことで知られる。
  • 石井干城 - 郷土史家、石井正義の息子。『狛江百塚の書』を著した。
  • 石原千秋 - 夏目漱石研究者。狛江二中卒業。
  • 石渡明 - 地質学者、環境省原子力規制委員会委員。
  • 井丸ゆかり - 元女優、元グラビアアイドル。狛江二中卒業。
  • 上野聡行 - 熊本県民テレビアナウンサー。
  • 大川めぐみ - 元女優。
  • 大久保剛 - ミュージシャン(音速ライン)。
  • 小川和幸 - 北海道放送アナウンサー。狛江二中卒業。
  • 小野武彦 - 俳優。
  • 香川愛生 - 女流棋士。狛江市生まれ、調布市育ち。
  • 勝又温史 - プロ野球選手(横浜DeNAベイスターズ)。狛江六小 - 狛江二中卒業。
  • 五神真 - 物理学者、第30代東京大学総長。狛江三小 - 狛江二中卒業。
  • 近藤智子 - 元歌手(BaBe)
  • 近藤春菜 - お笑い芸人(ハリセンボン)。居住。狛江市観光大使を務める。
  • 紺野美沙子 - 女優。
  • THE PEPPERMINT JAM - 横浜市内で活躍したインディーズバンド。
  • 清水次郎 - 元朝日放送アナウンサー。
  • Snail's House - ミュージシャン。狛江一中卒業。
  • 冨永こよみ - バレーボール選手、バレーボール女子日本代表、上尾メディックス所属。「狛江セブン」出身。
  • 野田朱美 - 元女子サッカー選手、サッカー日本女子代表。狛江二小 - 狛江一中卒業。
  • 春野寿美礼 - 女優、元宝塚歌劇団花組トップスター。
  • 黛英里佳 - 女優。埼玉県本庄市出身。狛江市生まれ。
  • 前田公平 - 自転車競技選手。

ゆかりの人物

50音順

  • 相島一之 - 俳優。居住歴あり。
  • 青山光二 - 小説家。2003年、90歳で川端康成文学賞を受賞し話題になった。
  • 青山景 - 漫画家。狛江市猪方のマンションに住んでいたが、2012年10月に自宅で首を吊って自殺した。
  • 秋葉長正 - 日本画家。晩年を狛江市内の自宅で過ごした。
  • 荒木経惟 - 1977年から1982年まで居住していた。自身の作品に狛江付近の情景が描かれたものが多い。
  • IKUO - ミュージシャン。BULL ZEICHEN 88、Rayflowerのメンバー。ベーシスト。居住歴あり。狛江ラジオ放送で自分のラジオ番組(IKUOのMAZE OF LIFE)を持ち、パーソナリティーをしている。
  • 池田光夫 - 音楽家。バンドネオン奏者。
  • 石井淳雄 - 弁護士。第13代甲府市長。
  • おいでやす小田 - お笑い芸人。居住。過去に狛江市について、「悪いところではないけどね」としつつも、「狛江に住んだことに後悔している」と発言している。
  • 桂紋四郎 - 落語家。居住。
  • 川田龍吉 - 実業家。男爵。男爵いもの由来として有名。かつて玉翠園の隣に別荘を構えた。
  • 菊地秀行 - 居住歴あり。
  • 岸浩太郎 - 俳優。歌手。居住。
  • 小林正寛 - 俳優。居住。
  • 黒澤明 - 映画監督。戦前より住んでいた文京区の自宅が戦火により焼失したため1949年より狛江に住み始めた。当時家は泉龍寺の東にあり、隣の家に森繁久彌一家が住んでいたが、直接の交流はなかったとされる。
  • 斉藤暁 - 俳優。居住。狛江市民吹奏楽団でトランペットを吹く。
  • 櫻井孝宏 - 声優。居住歴あり。
  • 品川祐 - 芸人。在住歴あり。狛江三中時代、春野寿美礼と同期であった。
  • 鈴木英哉 - Mr.Childrenのドラマー。『Atomic Heart』に収録された『雨のち晴れ』という曲では自身がコンセプトになっていて、歌詞に「狛江」が登場する。
  • 高山善廣 - プロレスラー。2000年頃居住していた。
  • 竹林進 - 映画監督。居住。監督したドラマ作品では本市内の多摩川での撮影も多かった。
  • 田原健一 - Mr.Childrenのギタリスト。
  • 利光鶴松 - 小田急電鉄創業者。現在の岩戸北の電力中央研究所付近に広大な屋敷を有し、晩年を過ごした。
  • 利光永松 - 小田急電鉄常務。居住。
  • ドン荒川 - プロレスラー。居住。
  • 中川敬輔 - Mr.Childrenのベーシスト。
  • 中田浩二 - プロサッカー選手。鹿島アントラーズ所属。2002年・2006年FIFAワールドカップ日本代表。帝京高校在学時は狛江に居住し通学。
  • 中野正剛 - 大正から昭和にかけての衆議院議員。1935年ごろ、猪方三丁目12のあたりに土地を購入し、別荘「慈雨荘」とそれに隣接して馬場を造った。暇があれば別荘に来て、乗馬を楽しんだという。別荘の管理は矢田部氏に任せていて、矢田部には「起向高楼撞暁鐘」と書いた書を送っている。
  • 仲村秀生 - 声優。居住。市民向けカルチャー教室で朗読講座を持つ。
  • 原田泰造 - 芸人。狛江市で児童期を過ごした。狛江七小出身。
  • 原節子 - 女優。1947年10月に岩戸の電力中央研究所の西に土地を購入した。家族と共に住み、1964年まで拠点として住んでいたが、小津安二郎の死後は表舞台に出ることはなくなり、その後は専ら鎌倉市で生活した。1993年に狛江の土地を売却するが、この時約12億円の所得を獲得したため1994年の高額納税者番付75位に登場し、再び話題となった。
  • フリードリヒ・ヘルマン・ウォルシュケ - ドイツ人実業家。第二次世界大戦後、狛江村にあった牛肉加工工場の一角を借り、ハム・ソーセージの製造を開始した。1947年にヘルマンウォルシュケ食品株式会社を設立しソーセージなどを製造した。泉龍寺に墓碑がある。2013年に市民によってヘルマンを研究する団体である「ヘルマンさんの会」が結成された。
  • 丸山永畝 - 日本画家。シベリア抑留を経て、1951年より長男の呼びかけで岩戸に住んだ。晩年は狛江と世田谷、多摩川など農村風景を写生し、膨大な写生帖を残した。残った300冊余りの写生帖は世田谷区立郷土資料館に展示されている。
  • 三塚幸彦 - 尺八演奏家。遠TONE音。居住。
  • 宮尾登美子 - 小説家、直木賞作家。1979年より狛江駅近くのマンションに移って生活を始めた。『序の舞』『蔵』などを著したのち、多摩川ぞいに移り、1995年に新居をたてた。狛江市立中央図書館の1日図書館長となったり、市立図書館に自著の寄贈をするなどの活動も行なった。墓地は市内の妙静院にある。
  • 本山一城 - 漫画家。居住。
  • 森繁久彌 - 映画俳優、アナウンサー。NHKのアナウンサーとして満洲国の新京中央放送局に勤務したあと引き揚げ、家族で狛江に移り住んだ。当時家は泉龍寺の東にあり、隣の家に黒澤明が住んでいたが、直接の交流はなかったとされる。わずか3年で狛江を出ているが、次男によると狛江での生活は「気力を養い再出発の原点」であったと言う。
  • 安田亘宏 - 観光学者。居住。

脚注

注釈

出典

参考文献

  • 狛江市史編集専門委員会『新狛江市史』狛江市、2021年3月31日。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=308750&m=%E6%96%B0%E7%8B%9B%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%8F%B2+%E9%80%9A%E5%8F%B2%E7%B7%A82022年8月16日閲覧 
  • 狛江市史編集専門委員会『市史研究狛江』7号、狛江市、2020年3月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=2781652022年8月16日閲覧 
  • 帝国市町村地図刊行会 編『東京府北多摩郡狛江村土地宝典』帝国市町村地図刊行会、1941年。NDLJP1184234。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184234 
  • 並木米一、竹内秀雄、下村栄安、伊藤好一、沢井義雄、稲葉芳亭、鈴木樹造、白川宗昭 ほか『多摩のあゆみ』8号、たましん地域文化財団、1977年8月25日、16-19頁。https://adeac.jp/tamashin/text-list/d100010/ht0000802022年7月15日閲覧 
  • 竜門社『渋沢栄一伝記資』 49巻、渋沢栄一伝記資料刊行会、1965年2月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=278165 
  • 狛江市史編集専門委員会『猪方の民俗』狛江市、2015年3月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=273319&m=%E7%8C%AA%E6%96%B9%E3%81%AE%E6%B0%91%E4%BF%97+%28%E6%96%B0%E7%8B%9B%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%8F%B2%E6%B0%91%E4%BF%97%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%29 
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  • 狛江市史編集専門委員会『岩戸の民俗』狛江市、2017年3月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=275480&m=%E5%B2%A9%E6%88%B8%E3%81%AE%E6%B0%91%E4%BF%97+%28%E6%96%B0%E7%8B%9B%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%8F%B2%E6%B0%91%E6%97%8F%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%29 
  • 狛江市史編集専門委員会、宇佐美哲也『和泉の民俗』狛江市、2020年3月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=275480&m=%E5%B2%A9%E6%88%B8%E3%81%AE%E6%B0%91%E4%BF%97+%28%E6%96%B0%E7%8B%9B%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%8F%B2%E6%B0%91%E6%97%8F%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%29 
  • 狛江市総務部安心安全課 著、狛江市総務部安心安全課 編『狛江市防災ガイド』狛江市、2019年12月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=272427&m=%E7%8B%9B%E6%B1%9F%E5%B8%82%E9%98%B2%E7%81%BD%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%89 
  • 狛江市総務部安心安全課 著、狛江市総務部安心安全課 編『狛江市防災ガイド(令和2年度版』狛江市、2021年3月。https://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/42,62393,c,html/62393/20210408-103239.pdf2022年8月15日閲覧 
    • なお、この『狛江市防災ガイド(令和2年度版)』pp.19-21における情報は全て改正されたので、出典には用いず、改正情報が記されたページを代わりに出典とした。また、この資料は2019年発行の『狛江市防災ガイド』の更新版であるから、内容が更新されたページに関しては令和2年度版の方をもとに記述した。
  • 石谷清隆、佐藤匡、松村隆寛、冨岡佑太、安田将志、堀口剛、浅野慶子 著、狛江市小学校社会科副読本編集委員会 編『3・4年生 わたしたちの狛江市 令和2年度版』狛江市教育委員会、2020年4月1日。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=273507&m=%E3%82%8F%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E7%8B%9B%E6%B1%9F%E5%B8%82%E3%80%803%E3%83%BB4%E5%B9%B4%E7%94%9F+%E4%BB%A4%E5%92%8C2%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E7%89%88%5B2020%5D2022年8月16日閲覧 

関連文献

ここでは、この記事の出典としては用いなかったが参考になる文献を列挙する。

  • 今はむかし - この文献は『広報こまえ』に連載されている「今はむかし」を市制50周年を記念して書籍に纏めたものであり、一部は市の公式ホームページ上で公開されている。本項では、それらのインターネット上に公開されているもののみを引用した。
    • 狛江市企画財政部秘書広報室、井上孝、中島恵子 著、狛江市史編集専門委員会 編『狛江・今はむかし 上巻』狛江市、2020年10月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=282918&m=%E7%8B%9B%E6%B1%9F%E3%83%BB%E4%BB%8A%E3%81%AF%E3%82%80%E3%81%8B%E3%81%97+%E4%B8%8A%E5%B7%BB+%E7%8B%9B%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%88%B6%E6%96%BD%E8%A1%8C50%E5%91%A8%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5 
    • 狛江市企画財政部秘書広報室、井上孝、中島恵子 著、狛江市史編集専門委員会 編『狛江・今はむかし 下巻』狛江市、2020年10月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=282919&m=%E7%8B%9B%E6%B1%9F%E3%83%BB%E4%BB%8A%E3%81%AF%E3%82%80%E3%81%8B%E3%81%97+%E4%B8%8B%E5%B7%BB+%E7%8B%9B%E6%B1%9F%E5%B8%82%E5%88%B6%E6%96%BD%E8%A1%8C50%E5%91%A8%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5 
  • 市史研究狛江
    • 狛江市史編集専門委員会 編『市史研究狛江』1号、狛江市、2014年3月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=273318&m=%E5%B8%82%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%80%E7%8B%9B%E6%B1%9F+%E7%AC%AC1%E5%8F%B7 
    • 狛江市史編集専門委員会 編『市史研究狛江』2号、狛江市、2015年6月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=277020&m=%E5%B8%82%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%80%E7%8B%9B%E6%B1%9F+%E7%AC%AC2%E5%8F%B7 
    • 狛江市史編集専門委員会 編『市史研究狛江』3号、狛江市、2016年3月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=277166&m=%E5%B8%82%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%80%E7%8B%9B%E6%B1%9F+%E7%AC%AC3%E5%8F%B7 
    • 狛江市史編集専門委員会 編『市史研究狛江』4号、狛江市、2017年3月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=277167&m=%E5%B8%82%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%80%E7%8B%9B%E6%B1%9F+%E7%AC%AC4%E5%8F%B7 
    • 狛江市史編集専門委員会 編『市史研究狛江』5号、狛江市、2018年3月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=278045&m=%E5%B8%82%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%80%E7%8B%9B%E6%B1%9F+%E7%AC%AC5%E5%8F%B7 
    • 狛江市史編集専門委員会 編『市史研究狛江』6号、狛江市、2019年3月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=278164&m=%E5%B8%82%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%80%80%E7%8B%9B%E6%B1%9F+%E7%AC%AC6%E5%8F%B7editor=狛江市史編集専門委員会 
  • 狛江市企画財政部秘書広報室 編『躍動 狛江市市制施行50周年記念誌 ~さらなる飛躍に向けて、私たちは未来につなぐ~』狛江市、2020年10月。https://web.d-library.jp/komae/g0102/libcontentsinfo/?conid=283986&m=%E8%BA%8D%E5%8B%95+%E7%8B%9B%E6%B1%9F%E5%B8%82%E3%80%80%E5%B8%82%E5%88%B6%E6%96%BD%E8%A1%8C%EF%BC%95%EF%BC%90%E5%91%A8%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%AA%8C%E3%80%80%EF%BD%9E%E3%81%95%E3%82%89%E3%81%AA%E3%82%8B%E9%A3%9B%E8%BA%8D%E3%81%AB%E5%90%91%E3%81%91%E3%81%A6%E3%80%81%E7%A7%81%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%90%EF%BD%9E 
  • 東京府総務部地方課『市町村概観』東京府総務部地方課、1938年。doi:10.11501/1462372。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462372 

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