山内 新一(やまうち しんいち、1947年12月3日 - )は、島根県大田市出身の元プロ野球選手(投手)。
島根県立邇摩高等学校を経て三菱重工三原に入社。1966年の都市対抗では準々決勝に進出し、大昭和製紙と対戦。リリーフで登板し逆転負けを喫するが、好投手として注目を集める。
1967年のドラフト2位で巨人に入団。
1969年から一軍で起用された。
1970年には主に中継ぎで8勝を記録する。同年のロッテオリオンズとの日本シリーズでも2試合に登板。第3戦では9回途中からリリーフ、延長11回まで無安打に抑える好投でシリーズ初勝利を飾り、チーム日本一に貢献した。
1972年は故障もあって低迷。
1973年に松原明夫と共に富田勝との交換トレードで南海ホークスへ移籍する。
巨人時代にヒジを痛め、くの字に曲がっていたため速球が投げられなくなっていたが、南海に移籍後、投げると自然とスライドする癖を見つけた野村克也監督の「村田(兆治)はスピードで20勝する。お前はコントロールで20勝したらそれでいい」の言葉で、外角へのスライダー(左打者にはインコースで詰まらせ、右打者には引っ掛けさせる)を武器にする技巧派に転向。同年は4月22日に初先発、太平洋クラブライオンズから完封勝利を奪って勢いに乗る。先発陣の中軸として20勝を記録、一緒にやってきた松原も7勝をマークし、ともに南海の7年ぶりのリーグ優勝に貢献する。古巣巨人との日本シリーズでは2試合に登板、第2戦では先発に起用され倉田誠と投げ合う。6回を2失点と好投するが勝敗はつかなかった。
この出来事がきっかけとなり、前年の江本孟紀の16勝と合わせて、球界に「野村再生工場」という言葉が出来たこと、以後、野村監督が目を付けた投手は他球団が出したがらなくなったことは有名な話である。
以後エースとして活躍し、1976年にも20勝をマークしたものの鈴木啓示、山田久志、成田文男、村田らがパ・リーグにおいて全盛を極めていた為に、20勝しても最多勝利のタイトルには届かなかった。
(73年成田21勝、山内20勝、76年山田26勝、村田21勝、山内20勝)このことについて野村は「時代が悪かった」と悔やんでいる。
1981年には、同姓の投手である山内和宏、山内孝徳が入団。背番号も山内和18番、山内孝19番、本人は20番と連番になり、山内トリオとして売り出された。
1984年に無償トレードで阪神へ移籍し7勝を挙げる。
1985年は5試合の登板に終わり現役引退。記録は残せなかったが、この年阪神の21年ぶりの優勝及び日本一のメンバーに名を連ねた。
引退後は、播磨興産(平成15年1月に大阪地裁へ民事再生手続き開始を申請。負債は約272億円)に勤務し、営業担当となる。
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