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反ユダヤ主義


反ユダヤ主義


反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のこと。また、宗教的・経済的・人種的理由からユダヤ人を差別・排斥しようとする思想のこと。

19世紀以降の人種説に基づく立場を反セム主義(はんセムしゅぎ)またはアンティセミティズム(英: antisemitism)と呼び、近代人種差別主義以前のユダヤ人憎悪(英: judeophobia,独: Judenhass)とは区別して人種論的反セム主義ともいう。セムとはセム語を話すセム族を指し、アラブ人やユダヤ人を含む。19世紀にエルネスト・ルナンやヴィルヘルム・マルなどによってセム族とアーリア族が対比され、反ユダヤ主義を「反セム主義」とする用語も定着した。

本来、ユダヤ人に対する差別的な攻撃を指し、イスラエルの政策に対する批判は該当しない。しかし、近年ではパレスチナ問題などイスラエルの政策への批判を建前にした反ユダヤ主義があるとして、イスラエルでは国内の人権団体がテロ組織指定されたり、欧米では親パレスチナのデモが規制されたりしている。

歴史的概観

反ユダヤ主義の歴史的発展については、ジェローム・チェーンズによる次のような整理がある。

  1. キリスト教以前の古代ギリシャや古代ローマにおける反ユダヤ教。これは民族意識的な性格であった。
  2. 古代・中世におけるキリスト教的なもの。これは宗教的・神学的な性格を持ち、近代まで拡大していった。
  3. イスラームにおけるもの。ただし、イスラム教ではユダヤ教徒はキリスト教文化圏よりも厚遇された。
  4. 啓蒙時代の政治的経済的なもの。これは後の人種的なもの(反セム主義)の基盤をなした。
  5. 19世紀以降の人種的反セム主義。これはナチズムにおいて最高潮に達した。
  6. 現代のもの(新しい反セム主義ともいう)。

チェーンズは、さらに反ユダヤ主義を大きく以下の3つのカテゴリに分けることができるとする。

  1. 民族的な性格の強かった古代のもの
  2. 宗教的な理由によるキリスト教的なもの
  3. 19世紀以降の人種的なもの

実際には、古代ローマ以前で民族間の一般的な虐待や酷使と後世の意味での反ユダヤ主義を識別することは難しい。ヨーロッパ諸国家がキリスト教を受け入れてからは、明確に反ユダヤ主義と呼ぶべき事態が生じていった。イスラム教世界ではユダヤ人はアウトサイダーと見なされてきた。科学革命と産業革命以後の近代社会では人種に基づく反ユダヤ主義(反セム主義)が唱えられ、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺をもたらした。1948年のイスラエル建国以後は中東においても反ユダヤ主義がはびこるようになった。

以下では、反ユダヤ主義の歴史だけでなく、反ユダヤ主義が生まれた背景として、ユダヤ人をとりまく時代ごとの状況、各国各社会におけるユダヤ人の取り扱いのほか、ユダヤ側の反応などの歴史を述べる。

古代

紀元前586年、新バビロニア王国のネブカドネザル2世がユダ王国を征服した。エルサレム神殿は破壊され、ゼデキヤ王を含めたユダヤ人は捕虜となり、バビロニアに強制移住させられた(バビロン捕囚)。紀元前538年にペルシャ王キュロス2世が新バビロニアを征服し、ユダヤ人に神殿の再建を許可し、解放した。この時、一部のユダヤ商人はパレスチナへ帰還せず、バビロンや各地に留まり、こうしてペルシャ支配の時代(紀元前537年 - 紀元前332年)にユダヤ人は離散(ディアスポラ)した。

紀元前4世紀のギリシアの哲学者アブダラのヘカタイオスはモーセは人間らしさと歓待の精神に反する生活様式を打ち立てたと記した。

紀元前2世紀、セレウコス朝シリアの王アンティオコス4世はエジプトのプトレマイオス朝を打倒して当地のユダヤ人を支配した。紀元前167年にユダヤ人の反乱マカバイ戦争が起きると、アンティオコス4世は弾圧政策を開始したが、そこにはユダヤ種は他の民と友好関係を結ぼうとせずにすべてを敵とみなしているため、完全に絶やす意図があったと記録されている。

ローマ帝国と初期キリスト教において

1世紀、ユダヤ教の堕落に対して洗礼運動を開始したユダヤ人の洗礼者ヨハネは、生粋のユダヤ人ではないイドマヤ系のガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスが異母兄弟の妻ヘロデヤと結婚したことを姦淫罪として非難し、処刑された。洗礼者ヨハネから洗礼を受けたユダヤ人のナザレのイエス(イエス・キリスト)はユダヤ教を改革し、これを民族宗教から普遍宗教へ変化させた。

35年(36年)頃、ユダヤ人キリスト教徒ステファノはユダヤ教を批判したためファリサイ派に石打ちで処刑され、キリスト教で初の殉教者となった。ファリサイ派のユダヤ人サウロは当初キリスト教徒を弾圧していたが、回心してキリスト教徒となりパウロに改名し、後に聖人となった。ユダヤ教を批判したパウロは「ユダヤ人の敵」で反ユダヤ主義の源泉ともいわれる。

哲学者セネカは、ユダヤ・キリスト両教徒について「極悪な民族の習慣はますます強固となって、全世界に根を下ろすようになった。被征服者が征服者に法律を定めた」と述べた。

66年、ローマ帝国のユダヤ属州総督の迫害に対してユダヤ教過激派が反乱を起こしてユダヤ戦争が始まった。70年のエルサレム攻囲戦に際し、ローマ軍司令官(後皇帝)ティトゥスはユダヤ・キリスト両教徒を絶やすためにエルサレム神殿を破壊し、反乱を鎮圧した。ヨセフスもローマ軍に投降し、熱心党とサドカイ派とエッセネ派のクムラン教団はこの戦争で消滅し、パリサイ派だけが残った。

ユダヤ戦争後、ユダヤ教は存在を許されたが、エルサレムの神殿体制は崩壊し、ファリサイ派はヤブネの土地を拠点とした。10万近いユダヤ人捕虜は、全ローマ帝国に銀貨一枚で奴隷として売られた。ユダヤ戦争の際にキリスト教徒は反乱に加わらなかったため、ユダヤ教徒はキリスト教徒を敵視するようになった。

70年代にパレスチナと小アジアで成立したキリスト教の福音書では、エルサレム攻囲戦で生き残った唯一のユダヤ教集団のパリサイ派が偽善者として批判された。ヨハネ福音書ではユダヤ人は「悪魔から出てきた者」であって「彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない」と、ユダヤ人をキリスト殺し、悪魔の子と非難し、キリスト教の反ユダヤ主義に神学的表現を与えた。福音書で記されたイスカリオテのユダについて、ポリアコフはユダの名前は偶然というよりも意図が働いていたのではないかと疑っている。

当時の記録では、フラウィウス・ヨセフスがリュシマコスを引用して「モーセはユダヤ人に対して、何人にも愛想よくしてはならぬ」と説教したと書き、またタキトゥスはユダヤ人は彼ら以外の人間には敵意と憎悪をいだき、自分たちの間ではすべてを許すと書いた。

132年-135年、ユダヤ属州でバル・コクバの乱が発生した。ハドリアヌス皇帝は鎮圧後、ユダヤ教徒による割礼を禁止した。この乱以後、ユダヤ人のエルサレム居住は禁止され、ユダヤ教祭儀の実践は死刑となった。138年にアントニヌス・ピウス皇帝が割礼を許可したが、ユダヤ教の宗教活動を制限するために非ユダヤ人の割礼を禁止した。

3世紀のローマ帝国ではユダヤ教よりも新興宗教のキリスト教が迫害された。当時キリスト教は制度化が未熟で、キリスト教聖典学者はラビに教えを請うていた。しかし、キリスト教神学者からの反ユダヤ主義もみられ、オリゲネスは『ケルソス駁論』でユダヤ人は救い主に対して陰謀を企て、その罪のためにエルサレムは滅亡し、ユダヤ民は破滅し、神による至福の招きはキリスト教徒に移行したと論じた。

313年、ローマ帝国皇帝リキニウスとコンスタンティヌス1世は「キリスト者およびすべての者らに、何であれその望む宗教に従う自由な権限を与える」とのミラノ勅令を出した。

この頃、ユダヤ人はライン川流域に奴隷、ローマ軍兵士、商人、職工、農民としてやってきており、321年の勅令ではケルンのユダヤ人住民が記されている。

330年、コンスタンティヌス1世がローマからコンスタンティノープルへ遷都し、やがて西ローマ帝国と東ローマ帝国に分かれていった。

380年にローマ帝国がキリスト教を国教とすると、392年にはキリスト教以外の宗教、ローマ伝統の多神教が禁止された。ユダヤ教は多神教でなく一神教なのでこの時に迫害は受けていない。

4世紀から5世紀になると、ゲルマン諸民族がヨーロッパに勢力を拡大し、西ゴート族のアラリック1世がローマ帝国への侵入を繰り返し、457年には東西ローマ帝国が分離し、オレステスとオドアケルのクーデターによって476年に西ローマ帝国が滅亡した。以後、東ローマ帝国にローマ帝国は継承された。

カッパドキア教父ニュッサのグレゴリオスはユダヤ教徒を悪魔の一味、呪われた者と罵倒した。

コンスタンティノープル総主教ヨアンネス・クリュソストモスは、ユダヤ人は盗賊、野獣で「自分の腹のためだけに生きている」と罵倒し「もしユダヤ教の祭式が神聖で尊いものであるならば、われわれの救いの道が間違っているに違いない。だが、われわれの救いの道が正しいとすれば、ーもちろんわれわれは正しいのだがー、彼らの救いの道が間違っている」とし、ユダヤ教徒による不信心は狂気であり「神の御子を十字架に懸け、聖霊の助けを撥ねつけたのなら、シナゴーグは悪魔の住まい」だと述べた。

以来、ビザンティン帝国で反ユダヤ主義の伝統が形成され、千年後のモスクワ大公国でのユダヤ人恐怖をもたらした。ゴールドハーゲンはヨアンネスの事例は西洋近代へもつながり、キリスト教徒にとってのユダヤ教徒は有害で害虫であり、キリスト教徒であることそれ自体がユダヤ人への敵意を生み出し、ユダヤ人を悪の権化、悪魔とみなしていったとする。ヨアンネスの『ユダヤ人に対する説教(Adversus Judaeos)』はナチス・ドイツにおいて頻繁に引用された。

東ローマ帝国皇帝テオドシウス2世(在位408-50)はユダヤ人を公職追放し、この布告はヨーロッパで受け継がれ18世紀まで効力を持った。

5世紀初頭にアウグスティヌスはユダヤ人はキリスト教信仰を受け入れるだろうとし、ユダヤ人はイエス殺害により死に値するが、カイン同様地上を彷徨わせるべきで、再臨の時にユダヤ人は過ちを認めてキリスト教に帰依する、さもなければ悪魔の国に落ちるとし、ユダヤ人を悲惨な状態のままで生き永らえさせよと主張した。

キリスト教徒にとってのユダヤ人は、イエスの啓示を否定するとともにイエスを殺害した特別な民族であり、ユダヤ人は神の冒涜者で世界の道徳秩序の破壊者であり、これはキリスト教文化の原理となった。4世紀にキリスト教教会が勝利を収めてから中世を通じて反ユダヤ主義は断絶しなかった。

ゲルマン諸王国

ヨーロッパのゲルマン諸王国ではカトリックへの改宗が進んだ。496年にはメロヴィング朝フランク王国のクローヴィス1世が、またイタリアのランゴバルド王国、587年にはイスパニアの西ゴート王国がカトリックへ改宗し、キリスト教国家となった。

西ゴート王国
589年の第3回トレド公会議に西ゴート王国はアリウス派からカトリックに改宗したほか、ユダヤ人がキリスト教徒の奴隷や妻を持つことが禁止された。612年、シセブート王がユダヤ人にキリスト教の洗礼を強制したうえ、第4回トレド公会議では改宗したユダヤ人に訴訟を禁止した。第6回トレド公会議(639年)でユダヤ教儀礼を禁止する誓約書を提出されるキンティラ王の政策を追認し、第8回会議(653年)で西ゴート法典でユダヤ教の宗教儀礼を禁止した。680年の第12回トレド公会議でエルウィック王の反ユダヤ法が承認されてユダヤ人の強制改宗が法的に定められ、違反者は追放、奴隷や財産の没収が課せられた。
693年、エギカ王が前王の勢力の陰謀に対して第16回トレド公会議で陰謀に加担した大司教や貴族の財産没収を命じるとともに、キリスト教に改宗しないユダヤ人の財産没収を命じ、西ゴート法典にも記された。第17回トレド公会議(694年)でエギカ王はユダヤ人による王国転覆計画が発覚したと告発し、司教たちは「ヒスパニアのユダヤ人を全員奴隷とする」と議決した。
フランク王国
フランク王国では6世紀に、王の御用商人ユダヤ教徒プリスクスなどのユダヤ商人が地中海交易で活躍した。
636年、東ローマ皇帝ヘラクレイオスがイスラム勢力のアラブ人に敗北すると、占星術で「キリスト教王国は割礼をほどこされた民(イスラム教徒アラブ人、ユダヤ教徒)に滅ぼされる」との予言が出された。ヘラクレイオスから予言を伝えられたメロヴィング朝フランク王ダゴベルト1世は、王国内のユダヤ教徒に即時改宗か国外退去を命じた。
カロリング朝でもユダヤ人大商人が活躍し、カロリング時代には「ユダヤ人」と「商人」は同義語だった。王室の庇護を受けたユダヤ人はキリスト教共同体に対して改宗活動を展開したが、これにキリスト教聖職者は反発した。
8世紀初め、ウマイヤ朝が西ゴート王国を滅ぼしてフランク王国を征服しようとした時、ユダヤ教徒がイスラムに手を貸したとキリスト教側の記録に記されている。
732年にメロヴィング朝フランク王国の宮宰カール・マルテルによってウマイヤ朝の進撃が食い止められた後、ポワチエでの定住がユダヤ人に許可され、東方交易に従事した。
759年にサラセン人に占領されていた南フランスのナルボンヌを奪回したピピン3世は、武器を援助したユダヤ人にナルボンヌの3分の1に当たる領地へ居住することや、ユダヤ共同体の代表が「ユダヤの王」を名乗ることを許可した。
『サリカ法典』の8世紀写本の序文では、ゲルマン系のフランク族について「神自らつくりたもうた高名な人種、軍事に強く、結束にゆるぎなく、思慮深く、たぐいまれな美しさと白さを持ち、高貴で健康的な身体をもち、勇敢で俊敏な、恐るべき人種」と書かれた。
カール大帝(在位:768年 - 814年)はキリスト教への改宗を国民に強制したが、ユダヤ人は「聖書の民」であるために信仰が許可された。また、ユダヤ人は自由通商貿易を許可され、ユダヤ共同体内での裁判権も許可された。カール大帝は797年にアッバース朝へユダヤ人イツハクを派遣した。カールはイタリアからユダヤ人商人を招いてライン川・モーゼル川流域に住まわせ、シュバイヤー、ヴォルムス、マインツに三大ユダヤ共同体が成立し、ボンやケルンにもユダヤ植民地が築かれた。また、カールはバビロニアのマヒールをナルボンヌに招き「ユダヤの王」称号を名乗ることやイェシーバーを開設することを許可した。
イスラム教とキリスト教の境界が確定して以降、キリスト教世界にとって東方との交易が難しくなったため、ユダヤ人商人が東方交易に乗り出し、ペルシャ、インド、中国まで進出した。
9世紀前半のリヨンではユダヤ人が宮殿に出入りしたり、徴税官になったり、奴隷を所有することもあった。皇帝ルートヴィヒ1世(ルイ1世)はユダヤ教徒に改宗運動を許可し、839年に宮廷助祭ボード (Bodo) がユダヤ教に改宗した。リヨン大司教アゴバール(778-840年)はルイ1世にユダヤ人による改宗運動の禁止を訴えたが、王はユダヤ行政官エヴラ−ルを派遣してユダヤ人の特権維持を宣言し、追放されたアゴバールはユダヤ人の勢力拡大を嘆いた。
ユダヤ人がフランク王国の宮廷や貿易で活躍する一方、反ユダヤ主義も展開していった。843年のヴェルダン条約で王国が三分割された後、848年にヴァイキングのデーン人が西フランク王国のボルドーを襲撃した時には、ユダヤ人が裏切ったとされた。860年頃、リヨン大司教アモロンはユダヤ教の「感染」からキリスト教教徒を守るため、ユダヤ人の食べ物や飲み物を口にすることを禁じ、876年にはサンスのユダヤ教徒が修道女と関係を持ったとして追放された。
古代・中世ヨーロッパのキリスト教国家以外では、コーカサス・黒海地域に成立したトルコ系のハザール王国で8世紀に国王と高官がユダヤ教に改宗した。960年にはコルドバのラビ・ハスダイ・イブン・シャープルートがユダヤ教復興に期待し、ハザール王国に書簡を送った。

イスラーム

マディーナでムハンマドはユダヤ教徒による神の教えの曲解を正すために神がアラビア語でムハンマドに啓示したと宣言した。また、メッカとの戦争中、ムハンマドはユダヤ教徒のカイヌカーウ族(カイヌカー族)やナディール族を追放し、メッカ側についたユダヤ教徒のクライザ族の男は全て殺害され、女子は奴隷として売却された(クライザ族虐殺事件)。

628年にハイバルのナディール族が降伏すると、他のオアシスのユダヤ教徒も降伏した。以降、ユダヤ教徒はジンマの民(ズィンミー)とされ、反イスラム的行動をとらず、ジズヤ税(人頭税)を支払い、イスラムの公権力に従うことや戦費負担を条件に信仰や財産は認められた。

クルアーンではユダヤ教徒とキリスト教徒を「啓典の民」と呼び、多神教徒や異教徒たちから区別して認めたが、多くの箇所でユダヤ教徒が啓示を改ざんしたと批判される。また「禁じられている利息をとり、人々の財産をむなしいことに濫費した」ユダヤ教徒は不信心者であり「われらは痛烈な懲罰を用意しておいた」と非難される。一方で、イスラム教では宗教の強制的放棄や改宗は強要できないともされる。

833年にはサイダにシドン・シナゴーグが建立された。

イスラム王朝のファーティマ朝では、第6代カリフアル・ハーキム(在位996年 - 1021年)がキリスト教とユダヤ教を弾圧し、1009年には聖墳墓教会を破壊した。

1066年、イスラム支配下のアンダルスでベルベル・ユダヤ人が殺害される グラナダ虐殺が起こった。

北アフリカのイスラム王朝ムワッヒド朝(1130年 - 1269年)でもキリスト教徒とユダヤ教徒が迫害された。

中世

カペー朝フランス王国では、992年、リモージュ乃至ル・マンで、キリスト教に改宗したセホクがユダヤ共同体から追放された腹癒せに、蝋人形をシナゴーグの聖櫃に隠してユダヤ人はキリスト教徒への呪いの儀式を行っていると告発した。996年、ユーグ・カペーが死んだ場所が「ジュイ」であったため、ユダヤ人が死の原因とされた。1007年頃、ロベール2世敬虔王がユダヤ教徒へ改宗を強制し、従わない者は処刑すると命じた。ユダヤ教徒イェクティエルの直訴を受けた教皇は、フランス王に撤回させた。

フランスをはじめ西ヨーロッパ諸国で、1009年のファーティマ朝による聖墳墓教会破壊について、ユダヤ人が教会の破壊をそそのかしたという噂が流布し、局地的に強制改宗や追放がなされた。修道士ラウル・グラベールは「全てのキリスト教徒が、自分たちの土地と町から全ユダヤ教徒を追放するという点で意見の一致を見た」と記している。

これ以降、イスラム教徒とユダヤ教徒がキリスト教世界の覆滅を共謀しているという見方が一般的なものとなり、復活祭にはユダヤ共同体の長が平手打ちを受けるという慣習がはじまった。トゥールーズでは聖金曜日に大聖堂の前でユダヤ教徒への平手打ちがはじまり、12世紀まで続いた。ベジエでは枝の主日にユダヤ居住区への襲撃が司教によって赦された(1161年に禁止)。

1010年にルーアン、オルレアン、リモージュで、1012年にはマインツやライン川流域の都市、そしてローマなどでユダヤ人が強制改宗や虐殺、追放の対象となった。

1066年には - フランスのオルレアンで異端審問が行われ、イスラム支配下のアンダルスでグラナダ虐殺が起こった。この年、ノルマンディー公ギヨーム2世によるイングランド征服(ノルマン征服)によって、ルーアンのユダヤ人が経済金融政策を担当した。当時すでにユダヤ人は高利貸付や信用貸付に長けており、ドゥームズデイ・ブックにはユダヤ人による土地買収が記録されている。

1084年、ドイツのシュパイアー司教リューディガーは、ユダヤ人にキリスト教徒の下僕や農奴、畑や武器を持つことを許可しており、この時は反ユダヤ主義はまだ激しくはなかった。

十字軍

1096年、中世ヨーロッパで聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還するための十字軍の派遣が始まると、キリスト教の敵としてイスラム教とユダヤ教が看做され、反ユダヤ主義が強まり、各地でユダヤ人への襲撃が発生していった。

民衆十字軍を組織したと伝えられる隠者ピエールは、無駄な暴力を慎み、ユダヤ人には物資と資金を調達させたにとどめた。民衆十字軍からの攻撃に対してユダヤ教徒は買収によってまぬがれた場合もあった。ルーアンの十字軍参加者は東にいる神の敵を打ち負かしに行きたいが、身近にも神の敵であるユダヤ人がいるがこれは本末転倒であると述べ、実際、ルーアンをはじめフランス全土およびヨーロッパ各地でユダヤ人が放逐された。

ラインラント地方では、ライニンゲンのエーミヒョ伯爵の軍団が、ライン峡谷を下りながら、ユダヤ人集落に対して「洗礼か死か」と二者択一を迫って、襲撃した。1096年5月3日、エーミヒョ侯軍はシュパイアーではユダヤ人11人を殺害し、5月18日から25日にかけてヴォルムスでユダヤ人800人を殺害または集団自決に追い込み、5月27日(28日)にはマインツで同じくユダヤ人700人から1014人を殺害または自決に追い込んだ。

このほか、7月8日にケルン、7月14日にノイス、ほかにトリーア、バイエルンのレーゲンスブルクとバンベルク、メッツ、プラハなどで襲撃が起こった。各地の領主や司教は時には自らの命をかけてユダヤ人を守ろうとしたが、最下層民は十字軍兵士による虐殺に合流した。ザクセンの年代記作家はこうした十字軍兵士に対して「人類の敵」「偽の兄弟」と叱責している。エックスのアルベールは民衆十字軍がルーム・セルジューク朝に大敗北したのは、神の懲罰であり、ユダヤ人虐殺に対する正当な報いとした。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、改宗を強制されたユダヤ人にもとの信仰に戻ることを許可した。これが神聖ローマ皇帝とその臣民ユダヤ人という特殊な関係が生まれたきっかけとなった。他方、教皇クレメンス3世は強制改宗の取り消しに強く憤った。

1146年、エデッサ伯領の喪失を受けてローマ教皇エウゲニウス3世が第2回十字軍を呼びかけた。クリュニー修道院長ピエールは「マホメット教徒の千倍も罪深い」ユダヤ人が身近にいるのに、なぜ遠征するのかと唱え、ドイツの修道僧ルドルフも「今ここ、われわれに交じって暮らしている敵を討つ」べきであると説いた。この時、ケルン、シュパイヤー、マインツ、ヴュルツブルク、フランスのカランタン、ラムリュプト、シュリーでユダヤ人が襲撃された。ヴォルムスでも襲撃があった。

儀式殺人(血の中傷)

十字軍の時代には、ドイツとイギリス、フランスをはじめ、ヨーロッパ各地でユダヤ人による儀式殺人(meurtre rituel)が告発された。これは血の中傷といわれる。

  • 1144年、イングランドのノリッジで、ユダヤ人が儀式のために少年ウィリアムを拷問した後で体から血を抜き、その血を過越祭のパンに混ぜたという儀式殺人が告発されたが、これが最初の告発であった。告発者のケンブリッジの修道僧シーアボルドはキリスト教の洗礼を受けたばかりの改宗ユダヤ人だった。ユダヤ人名士が一文無しの騎士に殺害される事件も起こった。イギリスでは、1168年にグロースター、1181年にはベリー=セイントエドモンズで儀式殺人告発がなされ、ユダヤ人が犠牲となった。
  • 1147年、ドイツのヴュルツブルクでユダヤ人数名が儀式殺人で告発され、何名かが殺害された。
  • 1150年、ケルンで、改宗ユダヤ人の男の子が教会で聖餅(ホスチア)を拝領すると、大急ぎで家に帰って、聖餅を土に埋めた。僧侶が穴を掘り返すと、子供の遺体があり、光が下り、子供は天に上ったという話があった。
  • 1171年、ブロワでユダヤ人50人がキリスト教徒の子供を誘拐して儀式殺人を行ったと告発され、焚刑に処された。

儀式殺人を行ったとしてユダヤ人を告発する事件はこれ以降も中世ヨーロッパの各地で多発し、18世紀以降も東欧やロシアなどで発生が続いた。

ユダヤ金融業とユダヤ人の法的規制

ユダヤ人が金貸し業をはじめる前は、キリスト教修道院や教会管区(シュティフト)が営んでおり、はじめは困った人々の支援から始まった金貸しは、やがて修道院金融業としてが大々的に発展していった。フランシスコ修道院では年利4〜10%を受けるほどであった。これに対して、13世紀の修道院改革で、キリスト教徒間の利息をともなう金の貸し借りが厳格に禁止された。

12世紀に、教会はユダヤ人の土地取得にともなう十分の一税の補填を要求したため、ユダヤ人は土地を手放すようになり、また都市同業組織はキリスト教兄弟団の性格もあり、手工業はユダヤ共同体内部にとどまった。

こうしたことを背景に、ユダヤ人は金融に特化していった。利子つきの金融をカトリックでは禁止しており、またユダヤ教でも「あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸す時は、これに対して金貸しのようになってはならない。これから利子を取ってはならない。」(出エジプト記22-25)や戒律で禁止されていたが、ユダヤ教の場合は異教徒への金融は許されていた。

ユダヤ金融の利子は3割から4割にも及んだので、多くの債務者は担保物件を失った。こうしてユダヤ人金融業への敵意が増大していった。第2回十字軍を勧進して回ったクレルヴォーのベルナルドゥスは、金貸し業はユダヤ人の本業(ユダイツァーレ)であるとした。

フランス王フィリップ2世(在位:1180年 - 1223年)は1180年にフランス王国内のユダヤ人を逮捕し、身代金と引き換えに釈放し、さらにキリスト教徒の借金を帳消しにし、負債額の2割を国庫に収めさせた。翌1181年にはユダヤ人の債権の5分の1を王のものとし、残りを破棄させ、1182年税を支払えないユダヤ人を王領から追放し、ヨーロッパで行われた最初の組織的なユダヤ人追放となった。しかし、1196年にはユダヤ人を王領へ呼び戻した。

ルイ9世(在位:1226年 - 1270年)は証文作成や賃借記録提示を義務化などユダヤ金融業を規制し、1254年に十字軍から帰還するとユダヤ人を金融業から追放する勅令を出した。1235年、ノルマンディーでユダヤ人金融業が禁止され、ヨーロッパ初の行政権によるユダヤ人金融業禁止令となった。フィリップ4世(在位:1285年 - 1314年)もユダヤ金融を規制した。12世紀末から13世紀初めには、フランス領主が、ユダヤ人を相互に返還する取り決めをしていた。

ヘンリー2世(在位:1154年 - 1189年)のイングランドには、1096年の十字軍によるヨーロッパでの放逐から逃れてきたユダヤ人移民が多く住み着き、高利貸、医者、金細工師、兵士、商人などの職業に就いた。ユダヤ人商人は、財務代理人、国王代理人としてイングランド王にたえず貸付を行ったが、ユダヤ人商人の死後、その財産はイギリス王室帰属となった。このようにイギリスではユダヤ人商人は「王の動産」であり、またユダヤ人は自治上の特権と引き換えに特別税を上納した。ユダヤ人の貸付利子は年44.33%という高率であったため、債務者からは怨嗟の的となった。

12世紀末のイングランド財務裁判所にユダヤ財務局(Exchequer of the Jews)が作られ、ユダヤ人金融業が法規制の下におかれ、取引書類は王室官吏立会で行われるようになった。イングランドのユダヤ人は金融業を営み、王侯の付き人として特殊な封臣となっていた。

しかし1210年、ジョン欠地王在位:1199年 - 1216年)はユダヤ人に法外な納税額を請求し、支払えなかったブリストルのユダヤ商人を幽閉し、歯を抜いて処刑した。ジョン欠地王はユダヤ人を庇護したが財政が悪化すると、ユダヤ人に1万マークの罰金を課し、完済するまで抜歯されたり、目をえぐられたりした。マグナ・カルタの10・11条ではユダヤ人に債務を負う者の死後の弁済に配慮され、ユダヤ人高利貸しには不利なものであった。

このように高い利息によってユダヤ人金貸し業は営まれていたが、やがて世間ではユダヤ人の家には暴利をむさぼる搾取によって不正な財産があり、それは取り返してもよいとするユダヤ人財産略奪の思想が形成されていった。1247年には、ユダヤ人から、諸侯や聖職者が財産や金品を不当に奪い取るという訴えがあった。中世から19世紀までのドイツでのユダヤ地区への略奪は、このような高利貸し業像を源としている。

異端審問の時代

12世紀後半以降、ヨーロッパの教会において異端審問が広がった。1179年、ローマで開かれた第3ラテラン公会議で南フランスのカタリ派は異端の宣告を受けて破門された。1184年のヴェローナ宗教会議で教皇ルキウス3世は、リヨンのヴァルド派やアルノルド派に破門を宣告した。

  • 1188年、第3回十字軍に際してイングランドのロンドン、ヨーク、ノリッジ、リンでユダヤ人大虐殺が発生した。1189年、リチャード1世(在位:1189年 - 1199年)が十字軍出陣式場にユダヤ人の入場を禁止したことをユダヤ人迫害の勅許とみなした群衆が、ユダヤ人の家に放火したり、30人のユダヤ人が殺害される暴動が起こった。三人が処刑されたが、ユダヤ人と誤ってキリスト教徒の家に放火したり強奪した廉によるものだった。ダンスタブルではユダヤ人全員がキリスト教に強制改宗させられた。1190年、ヨークでは、ユダヤ人高利貸しへの負債を帳消しにするためにバロン(貴族)たちが、ユダヤ人に搾取された財産を取り戻すとして、ユダヤ人を襲撃した。城の塔に閉じ込められたユダヤ人は集団自決した。何人かいた生存者も改宗を誓ったが殺害され、債務証書は焼却処分された。ユダヤ人犠牲者は150人となり、住民側は罰金を課せられただけにとどまった。
  • 1191年、ブレ=シュール=セーヌで儀式殺人で告発されたユダヤ人約100人が焚刑に処された。
  • 1196年、ヴォルムスでユダヤ人襲撃があった。

1201年、教皇インノケンティウス3世は、暴力や拷問によってキリスト教の教えに導かれたものでも、キリスト教の刻印を受けたことには変わりはなく、西ゴート王シセブートの治下でのように、神の秘跡とのつながりが確立してしまった以上、強制によって受け入れた信仰にその後も忠実であるよう求められてしかるべきであると教書で述べて、一度改宗したユダヤ人は棄教できないとした。

1208年、アルルのローヌ河畔で教皇特使ピエール・ド・カステルノーが、カタリ派のレイモン6世の家臣によって暗殺されると、ローマ教皇インノケンティウス3世は北フランス諸侯に十字軍を要請して、1209年、第5代レスター伯シモン4世モンフォールに率いられたアルビジョア十字軍が南フランス諸都市の異端カタリ派勢力圏の攻略に向かった。このアルビジョア十字軍で南フランスは荒廃したが、そのなかでユダヤ人も迫害された。

ユダヤ人の識別・規制強化

それまでカトリック教会はユダヤ人への暴力による改宗を禁じていたが、1215年の第4ラテラノ会議でユダヤ人がキリスト教徒と性的関係を持てないように衣服に識別徽章をつけさせ、また法外な利息の取り立てなどユダヤ金融業を規制した。第4ラテラノ会議ではキリスト教徒に高利貸し業を禁止し、ユダヤ人を公職から追放し、ユダヤ人はギルドからも締め出された。

ユダヤ人をバッジ(徽章)によって識別する政策はフランスではじまり、ユダヤ章は黄色とされた。以降、違反者には罰金が課せられ、フィリップ4世はユダヤ章を有料として、財源とした。ユダヤ人の服装は1179年の第3ラテラン公会議でも規定されていたが守られていなかったため、ローマ教皇の使節は、ドイツ各地の教会に対して、キリスト教徒はユダヤ人との同席飲食の禁止、ユダヤ人の結婚式や祭儀への参加の禁止、ユダヤ人がキリスト教徒の公衆浴場や酒場への入店禁止、ユダヤ人商店で肉や食料を買うことを禁止すると厳しく命じた。

イギリスではヘンリー3世(在位:1216年 - 1272年)治世下においてユダヤ人とキリスト教徒の商取引と交際が禁止され、ユダヤ人はイエローバッジの着用を命じられた。20世紀のナチスドイツもイエローバッジを強制したが、これらはその先駆けであった。また、イングランドでは二枚の布を胸に縫い付けることが義務化された。

税を滞納して完済しないユダヤ人の財産は王室に没収され、ユダヤ嫌いだった修道僧やカオール人高利貸しさえもユダヤ人の過酷な扱いを憐れんだ。ヘンリー3世は、1232年にドムス・コンウェルソーム(改宗者の家)を建設し、ユダヤ人に改宗を促した。

ドイツでは、識別は頭巾や円錐形の黄色や赤色の帽子でなされ、ポーランドでも緑の帽子で識別された。1225年の『ザクセン法鑑』ではユダヤ人はまだ自由人であり、武器の携帯も許可されていたが、1275年の『シュヴァーベン法鑑』ではユダヤ人は厳しく制限された。

スペインとイタリアではユダヤ人に円形の章(ルエル)が義務づけられた。

フランスの獅子王ルイ8世は1223年、ユダヤ人は王に帰属するとの勅令を王領地以外のフランス全土に拡大した。ルイ8世は1226年にアルビジョア十字軍を引き継ぎ、1229年にトゥールーズ伯レーモン7世を破り、パリ条約によりレーモン領東部が王領化された。南フランスには異端審問裁判所が設置された。第6・7回アルビジョア十字軍はフランス西部で推定2500人のユダヤ人を殺害した。

続く聖王ルイ9世(在位:1226年 - 1270年)はユダヤ人の改宗政策を行った。1230年のムランの勅令ではユダヤ人の借用証書は法的価値を有しないとされ、ユダヤ人の金貸し業者は農民や職人などの庶民に限られるようになった。大口の取引はロンバルディア人やカオール人が行うようになった。

1232年、教皇グレゴリウス9世はフランス王にユダヤ人虐殺の首謀者の処刑と略奪した財産の返還を求めた。一方、勅書で教皇直属の異端審問法廷を設置して、地方の司教や世俗権力はドミニコ会とフランチェスコ会士の審問官に協力することが命じられた。自白、または2名の証言のみで有罪判決が可能で、拷問が公認され、密告が奨励された。この勅書と、アルビジョア十字軍でルイ8世が南フランスを制圧した1229年のトゥールーズ教会会議によって、異端審問制度が確立した。

その後フランスでは1361年にはジャン2世がユダヤ章を赤と白の2色に変更し、また旅行中はバッジを着用しなくてもよいと若干緩和された。

ユダヤ書籍の焚書と「皇帝奴隷」

1234年、フランスのモンペリエとパリで、マイモニデスを異端とするユダヤ教ラビのシュロモ・ベン・アブラハムの要請によってマイモニデスの著作が焚書された。

1236年、第6回十字軍でフランス、イギリス、スペインでユダヤ人虐殺が起こった。この年、ドイツで儀式殺人事件が数件発生した。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世(在位:1220年 - 1250年)は、改宗ユダヤ人による諮問委員会に儀式殺人の究明を命じると、ユダヤ教で人間の血を儀式で使用する根拠はどこにもなく、それどころか、ユダヤ教では人間の血をなにかに使用することは禁止されているとの報告がなされた。

1236年7月、フリードリヒ2世は金印勅書でユダヤ人を「皇帝奴隷」として血の中傷から守った。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は、ドイツのユダヤ人が皇帝の国庫(カイザリッへ・カンマー)に属すると宣言した最初の皇帝となった。

1240年、フランス全土でタルムードが押収され焚書された。改宗ユダヤ人のニコラ・ドナンがタルムードを背徳的であると告発し、教皇の要請でフランスの聖ルイ王(ルイ9世)がタルムードについての公開論争が繰り広げらた結果であった。

1246年、ベジエ公会議でユダヤ人医師にかかることが禁止された。一説では、シャルル禿頭王、ユーグ・カペー、シャルルマーニュ皇帝もユダヤ人医師によって殺害されたといわれた。一方で、ユダヤ人医師は人気を博しており、教皇のアレクサンドル3世や16世紀の教皇パウルス3世まで、伝統的にキリスト教指導者の主治医でもあった。また、ポワティエ伯アルフォンスもベジエ公会議を支持する一方で、ユダヤ人医師にかかった。

1247年、教皇インノケンティウス4世がユダヤ人に過越祭で子供の心臓を分け合っているという誤った告発がなされているという教書を公布し、1252年に教皇は取り調べに拷問を取り入れた。

1248年、ドミニコ会士アルベルトゥス・マグヌスはタルムード異端裁判での判決は正当とし、翌年ケルンの説教で普遍博士マグヌスはタルムードを弾劾した。

1255年、イングランドのリンカンにて儀式殺人。北フランスで異端審問。

1261年、神学者トマス・アクィナスは、ユダヤ人はイエス・キリストがメシアであることを拒否するために災難にあうのであるとし、ユダヤ人を永遠なる隷属に置くことは法に照らして正しいとした。。また、国王はユダヤ人を所有物(財産)として保有でき、また諸侯はユダヤ人の財産を国家に帰属するものとみなすことができる、ただしユダヤ人の生活に必要な物資を奪ってはならない、また、ユダヤの習慣になかったような奉仕を強要してはならないと論じた

1267年、教皇クレメンス4世は勅書で、キリスト教へ改宗した者をユダヤ教徒へ回帰させようとするユダヤ人、タルムード所持者にも異端審問官の手が及ぶようになった。それまでは異端審問所の対象はキリスト教徒に限定されていた。同年、ウィーン公会議やブレスラウ公会議で、ユダヤ人が密かに毒を盛リかねないという恐れから、ユダヤ人の店で食料を買うことがキリスト教徒に禁止された。

1268年、ヴュルツブルクの吟遊詩人コンラート(コンラート=フォン=ビュルツブルク)は「卑怯にして、聞く耳を持たないユダヤ人に災いあれ。彼らは邪な人々」で、タルムードによって愚かになったと歌い、またジークフリート・ヘルプリングはタルムードは「偽りにしておぞましき書」で焚書にできれば申し分ないと歌った。

イングランドのローマ法学者ヘンリー・デ・ブラクトンは『イングランドの法と慣習法』で「ユダヤ人はみずから何も所有することはできない。ユダヤ人が手に入れるものすべてが王の所有物となる」とした。

1273年にローマ教皇は儀式殺人による告発を戒める教書を公布した。

1274年-1276年のシュヴァーベン法書では、キリスト教徒とユダヤ人との性交は火あぶりの刑によって処罰するとされ、ユダヤ人は「永遠なる隷属」にあると書かれた。

ヨーロッパ各地でのユダヤ人追放

エドワード1世(在位1272年 - 1307年)の時代のイギリスでは、イギリス化(ノルマンとサクソンの融合)が進むとユダヤ人はさらに孤立し、ユダヤ人の子供も課税され、教会はユダヤ人への食品販売を禁止したため餓死者もでた。ユダヤ人医師による医療行為も禁止され、ユダヤ人による高利貸し独占を妨害するために教皇はカオール人など南フランス人、北イタリアの金融業者をロンドンへ進出させた。

また1275年、ユダヤ法(Statute of the Jewry)によって高利貸付は禁止された。ユダヤ人が生活苦によって貨幣変造をしたことが発覚すると、ユダヤ人全員が投獄され、そのうち263人が絞首刑のうえ四つ裂きの刑に処せされた。また、改宗施設に行くことを拒否したユダヤ人は財産没収の上、国外へ追放された。1290年、イングランドでロンバルディア商人が勢力を伸ばすと、ユダヤ人の特権は失われ、ユダヤ人商人は放逐された。

フィリップ4世端麗王(在位:1285年 - 1314年)の時代のフランスでは、1288年トロワでの異端審問裁判で13名のユダヤ人が儀式殺人で火刑に処せられた。トロワで犠牲になったイツハク・シャトランを称えた詩では「復讐の神よ、妬み深き神よ、これら不実の輩に復讐せよ」と書かれた。

1290年、ビエット街事件が発生した。パリでヨナタスというユダヤ人債権者が、債務者のキリスト教徒にサン・メリー教会(4区)から聖餅(ホスチア)を盗めば借金のかたを返すといって、聖餅を手に入れた。帰宅して聖餅をナイフで刺すと、血が流れ、熱湯に入れても血が流れ続けた。ヨナタスは隣のキリスト教徒の家に逃げて罪を告白し、聖餅はサン・ジャン・アン・グレーヴ教会司祭の手に渡り、ヨナタスは火刑となった。

1306年、財政窮乏に苦しんだフィリップ4世は、ユダヤ人とロンバルド人(イタリア)商人の財産を没収した上で国外追放し、その一部は南フランスへ移住した。これ以前にもフィリップ2世、聖ルイ王などもユダヤ人追放を計画したことはあったが、これがフランス史上初のユダヤ人追放となった。

追放令について年代記では、神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世が「皇帝奴隷」であるユダヤ人の返還を求めたためフランス王はこれに応じたとされている。フランスの庶民はキリスト教徒の金貸し業者よりも親切なユダヤ人金貸し業者を懐かしんだという記録もある。

1294年、スイスのベルンで儀式殺人事件が告発され、ユダヤ人が追放された。

1298年4月、レッティンゲンで聖餅(ホスチア)事件。聖餅を冒涜したとして、名士リントフライシュが復讐を叫び、ユダヤ人集落を襲撃して、殺害した。リントフライシュ率いる暴徒集団は、フランケン地方、バイエルン地方で「ユダヤの殺戮者」を名乗って、ユダヤ人の町を襲撃して、洗礼を受け入れた者以外を9月までの数ヶ月間に虐殺を続けて、ユダヤ人の犠牲者は数千人から10万人に及んだ。同1298年、ヴュルツブルクでも迫害が起きた。

1309年 - 十字軍計画が計画倒れになった際、ドイツのケルン、オランダ、バラバンでユダヤ人虐殺事件が起こった。

1311年、ウィーン公会議で金利貸しを裁判にかける権限が異端審問裁判所に認められた。

中世のユダヤ人学者の著作

中世のユダヤ人学者の著作では、十字軍時代での迫害の記憶から「キリスト」を「救いようのない男」「追放者の息子」「教会」を「不浄の家」「忌み」「十字架」を「悪しき印」などと言い換えた。シュロモ・ベン・シメオンは「罪深きローマ教皇」と呼んだり、迫害者エーミヒョの骨を呪ったりしたあとで「復讐の神よ、姿を現したまえ」、隣人に罵りを7倍にして返せと書き、エリエゼル・ベン・ナタンはキリスト教徒に対して「彼らに悲しみと苦しみをもたらしたまえ。彼らに汝の呪いを差し向けたまえ。彼らを滅ぼしたまえ」と書いた。

ナフマニデス(Nahmanides 1194–1270)は、イザヤ書:2-4の「彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない」を論拠にして、ユダヤ教は平和の宗教であるのに対して、キリスト教は夥しい血を流させてきて、戦争が主人として君臨していると論じた。

13世紀末、敬虔者イェフダ−(イェフダ−・へ・ハシッド)の『敬虔なる者の書』では、ユダヤ教徒は非ユダヤ教徒と二人きりになってはいけない、キリスト教の音楽で子供を寝かせてはならない、また盗みをすると、ユダヤ人が盗人であり詐欺師であるといわれるから、してはならない、などと教訓が説かれた。

中世のユダヤ人ラビは、イエスを詐欺師とみたり、また敬虔なユダヤ教徒であったが、弟子たちがイエスを聖人として新しい宗教を作ったとみた。このようにユダヤ教においても、キリスト教への憎悪がむき出しになっていた。

中世後期:14〜15世紀

14世紀から15世紀(1300年-1500年)にかけての中世後期のヨーロッパは戦争、飢饉、ペストの流行など危機と災厄に襲われた時代であった。フランスとイングランドは百年戦争(1337年 - 1453年)を戦った。フランスが勝利したが内乱が発生し、イギリスでは薔薇戦争へ続いた。ドイツは恒常的な無政府状態が続いた。百年戦争の長期化による略奪や課税強化などを理由として、フランスでジャクリーの乱(1358年)、イングランドではワット・タイラーの乱(1381年)が起こった。1315年から1317年の大飢饉や、ペストの流行(1348年 - 1349年)、そして世紀後半には魔女狩りがはじまった。他方でイタリアではルネサンスがはじまった。この時代には、聖体冒涜事件(血の中傷)がヨーロッパ各地で頻発し、フランス、ドイツ、スペインなどヨーロッパの各地でユダヤ人追放令が出され、またユダヤ人はペストの原因であるとして迫害された。

大飢饉と羊飼い十字軍

1315年から1317年にかけてのヨーロッパ大飢饉では、パリやアントワープでは何百人もの死体が街路に散乱した。飢えのために、各地で人食(カニバリズム)が行われた。ルイ10世は、フィリップ4世のユダヤ追放令(1306)は王国の経済にとって打撃となっていたため、1315年に高額賦課と引き換えにユダヤ人に2年の帰還を許可した。しかし、大飢饉の発生によって、1317年にはシノンでユダヤ居住区が襲撃され、1319年にはリュネルでユダヤ人が儀式殺人で告発された。

1320年、貧窮に耐えかねたフランス北部の農民や修道僧は行き先のない行進をはじめた。一人の若い羊飼いが、奇跡の鳥が生娘に姿を変えて、不信心者を打ち据えに行けと促した。これによって、羊飼い十字軍(パストゥロー十字軍、牧童十字軍)がはじまり、フランス南西部、ボルドー、トゥールーズ、アルビ、さらにスペインで、ユダヤ人が襲撃される大規模なポグロムが発生した。ユダヤ人は襲撃に抵抗したが、やがて集団自決を選び、ヴェルダン=シュール=ガロンヌでは500人が自決し、羊飼い十字軍によって、140のユダヤ居住地が絶滅した。襲撃するユダヤ人がいなくなると、羊飼い十字軍は聖職者に矛先を向けていったため、教皇ヨハネ22世は羊飼い十字軍をたしなめ、年末にはフィリップ5世がフランス軍を出動して制圧した。

同じ1320年、フランス南部オート=ロワール県のル・ピュイで起こった儀式殺人事件では、ユダヤ人が聖歌隊員を殺害して、民衆が取調を待たずに殺したために、1325年、シャルル4世は聖歌隊にユダヤ人に関する司法権を委ねた。

翌1321年、アキテーヌでユダヤ人がキリスト教徒を殺すために井戸に毒を入れたという噂が流れ、実際に井戸に毒が流された。パルトゥネーの癩病患者がユダヤ人から謝礼をもらって井戸にキリストの聖体(聖餅)と混ぜて毒を入れたと告白したという事件が起きた。フィリップ5世は調査を命じて、フランス全土でユダヤ人が逮捕、告発され、シャンパーニュ地方のヴィトリ−=ル=フランソワでは40人のユダヤ人が獄中で自殺し、トゥレーヌ地方シノンでは160人のユダヤ人が焚刑に処された。1322年、フランス王国で再びユダヤ追放令が出された。ポリアコフは、ユダヤ人が綿密な陰謀でキリスト教徒の滅亡を図るという、罪のなすりつけが行われたのはこれが初めてであり、また王権がユダヤ人の財産を没収するために行ったと説明することもできるが、ナチスが「潜在的な復讐屋」としてユダヤ人殺害を正当化するメカニズムと同一のものとする。これ以降、1361年までの40年間、フランスの資料、年代記で、フランス王国のユダヤ人の存在について言及するものはないため、フランスのユダヤ人はほとんどいなくなったとみられる。

  • 1336年、アルザス、シュヴァーベンでユダヤ人虐殺。その直後、バイエルンのデッケンドルフ、オーストリアのブルカで聖体冒涜事件が発生。
  • 1343年、神聖ローマ皇帝バイエルン公ルートヴィヒ4世は、12歳以上のユダヤ人に人頭税を課した。ルートヴィヒ4世は、ニュルンベルクのユダヤ人に対して、ユダヤ人はその身体や財産は皇帝が保有すると宣言した。
  • 1345年、ボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクは、レグニツァ、ヴロツワフで、ユダヤ人の墓地を壊して、その墓石で町の城壁を補修するよう命じた。

ペスト

1347年(1348年)から1350年(1349年)にかけての黒死病(ペスト)大流行ではヨーロッパの人口の3分の1以上が被害となったが、そのスケープゴートとしてユダヤ人迫害が各地で発生した。フランス王国ではユダヤ人による毒散布の噂が広まり、最大規模のポグロムが起きて、フランス王国内のユダヤ人共同体はほぼ消滅した。改宗しなかったユダヤ人家族は火刑台の火が見えてくると皆で歌いだして、歌いながら火に飛び込んでいったといわれ、こうしたことの背景には、集団自殺の契約、また殉教者としての固い決意があったとされる。

1348年、ジュネーヴにてペストの原因としてユダヤ人が迫害される。9月、教皇はユダヤ人もペストの被害にあっていると発布したが、ユダヤ人への襲撃はやまなかった。1349年、ベルンでペストの原因としてユダヤ人が迫害され、ストラスブールでは暴徒による内乱状態が三ヶ月間続き、市当局がユダヤ人にペストの罪咎はないと発表すると、市政府は転覆され、新しい市政府が2000人のユダヤ人を逮捕し、1349年2月14に全員を火刑に処して、ユダヤ人の財産をキリスト教徒住民に分配した。おなじような事件がヴォルムス、オッペンハイムでも発生して、ユダヤ人が集団自決をし、フランクフルト、エアフルト、ケルン、ハノーファーでユダヤ人が虐殺されたり、追放された。イギリスやフランスでのペストにともなう迫害によって、ユダヤ人は東欧へ逃れた。

また、ドイツやフランスでは苦行と改悔のために公衆の面前で自分を鞭打つ「鞭打苦行者」が現れた。1261年に鞭打苦行は異端として禁止されていたが、ペストの時代に大規模に展開した。鞭打苦行者は自分たちの儀礼と歌の方が、教会の聖職者よりも美しく、威厳があると主張した。この鞭打苦行者の通過後に病死や病気が止まなかったことから、人々は疫病はユダヤ人がキリスト教世界に毒を行き渡らせるために流行させたと信じられて、ユダヤ人虐殺事件が発生した。ユダヤ人がまったくいなかったチュートン騎士修道会の地方では、ユダヤ起源を疑われたキリスト教徒が虐殺された。

ユダヤ人への課税と保護政策

神聖ローマ皇帝はユダヤ人への徴税権を担保にして種々の取引を行った。1308年、ルクセンブルク家の皇帝ハインリヒ7世は、マインツ大司教に皇帝選挙で当選したらユダヤ人税を贈与すると約束した。ルードヴィヒ4世は「汝らは身も持ち物も全て我らのものなり。我らは望むまま、思いのままに汝らを処遇する」とユダヤ人を皇帝の財産であると述べた。封建制下で授封や贈与によって皇帝の収入が減るほど、ユダヤ人からの税収入は重視されたが、皇帝権が動揺するとユダヤ人への徴税権は次第に諸侯や司教、都市の手に移っていった。ユダヤ人は共同体として支払う税、個人で支払う税、滞在許可、結婚許可税など30種類の納税義務を負っていた。

14世紀半ばには各地でユダヤ人保護政策がとられた。1352年にドイツのシュパイヤーではユダヤ人を呼び戻すことが叫ばれ、『マイセン法書』ではユダヤ人のシナゴーグと墓地が保護された。1369年から1394年の間にはマインツ、フランクフルトなどでユダヤ人医師が厚遇されていた。

百年戦争中の1356年のポワティエの戦いでイングランドに敗戦したフランスはジャン2世善良王をロンドンへ捕囚され、身代金を要求された。また1358年にはフランスの農村でジャクリーの乱が起きた。1361年には王の身代金も払えないほどフランスの財政が破綻したため、王太子シャルルは、人頭税と引き換えにユダヤ人の家屋と地所の所有や高利貸しでの87%という高利も許可し、王の遠戚ルイ・デタンプをユダヤ人護衛官に就任させるなど厚待遇の条件でユダヤ人を呼び戻した。以降20年間、フランスのユダヤ人は平穏な生活を取り戻すが、かつての親しみのある金貸し業者から、忌み嫌われる金融ブローカーと見なされるようになっていった。

1370年にはブリュッセルの聖体冒涜事件でユダヤ人20人が火刑に処された。

カルトジオ会修道士ザクセンのルードルフの『キリスト伝』(1374年)では、ユダヤ人共同体から追放された者に唾を吐きかけるのがユダヤの習慣であるが、イエスも唾を吐きかけられ、また髭や髪を引っ張られ「悪魔の子」であるユダヤの民は磔刑を求めたと解説し、ユダヤ人は神の報いとして世界各地に散らばり隷属状態に置かれていると説教した。

1378年にキリスト教に改宗したユダヤ人によって、非改宗ユダヤ人が糾弾されるようになると、1380年代にフランスで再び大規模なユダヤ襲撃が起こり、1380年、1382年、パリとイル=ド=フランスで暴動が多発、ユダヤ人は証書や質草を略奪された。シャルル6世はユダヤ人保護に成功するが、ユダヤ人への課税が重くなる一方で、ユダヤ人の特権も拡大していった。

ドイツでもユダヤ人保護政策が続いていたが、1384年にはアウクスブルクとニュルンベルクでユダヤ人が収監され、莫大な身代金で釈放された。1385年にはドイツ38の都市代表がウルム会議で、ユダヤ人の債権を全面的に破棄して、キリスト教徒の債務者を解放した。1388年にはシュトラスブルクでユダヤ人が追放された。

フランス王国のユダヤ追放令

1389年2月のフランス王国勅令で、キリスト教徒とユダヤ人との間の紛争は「ユダヤ護衛官」が担当し、またユダヤ人には債務者を収監する権利が認められた。しかし、王国では反ユダヤ勢力が強くなっていったため、シャルル6世はユダヤ教の「贖罪の日(ヨム・キプール)」と同日の1394年9月17日にフランス王国で最終的なユダヤ追放令を発令した。このユダヤ追放令は1615年にも更新された。

ただし、フランス王国以外の教皇領やプロヴァンス伯領ではユダヤ共同体が存続した。しかし、プロヴァンス伯領でも1420年代からポグロムが発生した。ルネ・ダンジュ−プロヴァンス伯はユダヤ財力を利用するためにユダヤ人を保護したが、1473年以降教会と民衆のユダヤへの反感ははげしくなった。ダンジュ−死後1481年にプロヴァンス伯領はフランス王国へ合併されたため、ユダヤ人は離散した。

1394年のフランスでのユダヤ追放令以降は、ユダヤ人は領土が細分化していた神聖ローマ帝国に移っていったが、そこでもまた追放が続いた。

宗教劇、彫刻、絵画、文学におけるユダヤ人

中世宗教劇の神秘劇、聖史劇、奇跡劇などでは、ユダヤ人は悪人として描かれ、『聖餅の聖史劇』ではユダヤ人高利貸しがキリスト教徒の女をたぶらかし、聖餅を盗み出させた後、聖餅を石で踏みつけたりしても聖餅は血を流すのみで、この奇跡によって、ユダヤ人は改宗するが、有罪判決となって、焚刑に処されるという筋書きであった。ドイツ聖史劇の『アルスフェルトの受難劇』では、悪魔がイエスの謀殺を14人のユダヤ人にゆだねて、ユダヤ人集団は拍手喝采しながら、イエスを罵倒しながらイエス磔刑を行うが、釘打ちや縄縛りなどが原文で700行以上費やされ、また舞台上では赤い液体が用いられて迫真な演技が行われた。フランスのジュアン・ミシュレの受難劇では、ユダヤ人がイエスを拷問し、イエスの髪や髭が肉ごと引き抜かれ、イエスの体に担当ごとに投打が加えられた。イギリスの聖史劇、聖体祝日に行われたコーパス・クリスティ祝祭劇では「ノアの方舟」を船大工ギルド「最後の晩餐」をパン職人ギルド、など各ギルド(ミステリー)が分担した。キリスト受難は釘師ギルドによって担当され、残酷なシーンで演者の釘師が失神したり、観客には発狂するものもいたこうした聖史劇ではユダヤ人は黒布をまとった血に飢えたサディストとしてグロテスクに描かれた。

奇跡劇では、ユダヤ人が自分の財宝を守るためにキリスト教聖人聖ニコラに助けを求めて改宗する筋が描かれた。ゴーティエ・ド・コワンシ−(1177-1236)の奇跡劇では「獣よりも獣に近いユダヤ人」について「神もまた彼らを憎みたもう。よって誰しもが彼らを憎まなければならない」と書いた。

ストラスブール大聖堂などの教会ではシナゴーガ像とエククレーシア像が対比され、ユダヤ教会を表すシナゴーガ像は折れた槍を持ち、目隠しをされ、キリスト教会を表すエククレーシア像は十字架と聖杯を持つ。

14世紀末にはイタリア絵画で、ユダヤ人が蠍になぞらえられた。ドイツやオランダでは雌豚に育てられたユダヤ人という図案が教会石碑に刻まれ、レーゲンスブルク教会やヴィッテンベルク教会では豚の乳を飲むユダヤ人の壁面彫刻が飾られた。ヴィッテンベルク教会の豚の乳を飲むユダヤ人の壁面彫刻については、ルターがユダヤを攻撃した時に描写した。また、14世紀以降には、頭に角を生やしたユダヤ人が、オーシュ大聖堂のステンドグラス、ヴェロネーゼのキリスト受難などで登場した。

1378年、フィレンツェの作家ジョヴァンニ・フィオレンティーノは『粗忽者(イル・ペコローネ』は「人肉一ポンド」を抵当にするユダヤ人高利貸しを登場させ、シェイクスピアが『ヴェニスの商人』の底本とした。

1386年、ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』尼寺長の話で「リンカーンのヒュー」という少年がユダヤ人によって殺され肥溜めへ放り込まれたとある。これは1255年の儀式殺人についての『ヒュー殿、あるいはユダヤ人の娘』という14世紀に流布したバラッドからの影響とされる。チョーサーはまた、小アジアのユダヤ人ゲットーを「忌むべき金貸し業や道ならぬ金儲けのための区画」と描写した。

  • 1399年、プラハでユダヤ人迫害。

ゲットーの形成

15世紀初頭の1412年頃、バレンシアのドミニコ会士ビセンテ・フェレールが鞭打苦行者の先頭にたって、トレド、サラゴサ、バレンシア、トルトサなどスペインやフランス各地で反ユダヤ説教を繰り返し、シナゴーグに入ってトーラーを捨て、十字架を受け入れよとユダヤ人に改宗を迫った。しかし、フェレールは「刃でなく、言葉でユダヤ人を殺すべきである」として暴力は批判し、またユダヤ人であるという理由だけで毛嫌いする理由はないとして、キリストもユダヤ人であったとして「ユダヤ人を卑しめる者は、ユダヤ人として死ぬ者と同様の罰を受ける」とした。しかし、フェレールは改宗できないユダヤ人は隔離状態に置くべきであるとして、1412年にはスペインで初めてのゲットーが築かれた。

スペインをはじめとして、中世末期には従来のユダヤ人居住地が、ゲットーへと変化していった。1432年にドイツのフランクフルトにおいて、教会や市民の要望で繁華街に住んでいたユダヤ人を都市城壁の外に隔離する計画が始まり、1462年、皇帝フリードリヒ3世命で市が建設したフランクフルト・ゲットーが完成し、ユダヤ人が強制移住させられた。ゲットーには門が設けられ、ユダヤ人は昼間の間だけキリスト教徒の街区に出入りすることが許され、夕刻になるとゲットーの門は夜警によって施錠された。また、日曜日やキリスト教祭日もゲットーからキリスト教徒の街区への外出は禁止され、外出が可能な日でもユダヤ人であると識別するユダヤ服を着衣しなければならず、また二人以上徒党を組んで歩くことは禁止された。

各地のゲットーのユダヤ人住民は厳密に規定された質素で敬虔な生活を送った。ゲットーの生活は、キリスト教修道院の生活に似ており、周囲から隔絶され、神への奉仕をもっぱらとし、敬虔と自己犠牲、知的作業に染め抜かれた。

修道士と各地でのユダヤ人追放

  • 1413年-1414年 - 対立教皇ベネディクトクス13世がカタルーニャのトゥルトーザで69回に亘る会議を開催、ナザレのイエスがメシアであることをユダヤ教徒に説得しようとしたが、失敗。のち公開勅書により、キリスト教徒がタルムードを研究することを禁止した。

1420年、オーストリア、マインツではマインツ大司教によって、ユダヤ人追放令が出された。同年、アルザスのリクヴィルでは、領主の許可なしに住民たちが、自発的にユダヤ人を拉致して、殺害したり、追放した。1424年にはフライブルクとチューリヒ、ケルンから高利貸しの取り立てを理由に、ユダヤ人が追放された。フライブルクでは1401年からユダヤ人はキリスト教徒の血に飢えているため追放請願運動が行われてきた。以降、1432年のザクセン、1439年のアウクスブルク、1453年のヴュルツブルク、1454年のブレスラウとドイツ各地でユダヤ人が追放されていった。1434年のバーゼル公会議では、大学での研究にユダヤ人が従事することを禁止し、またユダヤ人を改宗させるために強制説教(predica coattiva)の必要が定められた。

シエナのベルナルディーノは1427年のオルヴィエートでの説教などで、ユダヤ人が金貸しと医学によってキリスト教への陰謀を企んでいると断じた。これは、アヴィニョンのユダヤ人医者が生涯を通じて毒薬を薬として渡して数千人のキリスト教徒を殺害してきたのは喜びであったという自白に基づいたものであった。

イタリアとドイツで伝道活動したフランシスコ会修道士カピストラーノのジョヴァンニは、ユダヤ人を保護している領主に神の怒りが降り注がれると脅して、1453年から1454年にかけてシュレージエンの儀式殺人裁判を演出し、ポーランドのユダヤ人の特権を停止することに成功した。

ドミニコ会修道士でフィレンツェ共和国の政治顧問サヴォナローラは、ユダヤ人を追放して、公営の質屋を開設した。しかし、教皇を批判したため1497年に破門され、1498年に処刑された。

1470年、ドイツのバイエルンのエンディンゲンで儀式殺人事件がおこった。翌1471年、マインツ大司教が再びユダヤ人追放令が出された。マインツでは追放令が出されたあと、撤回されたり、再度追放令が出されるなどした。1476年にはレーゲンスブルクでも儀式殺人を理由にユダヤ人が追放されたが、神聖ローマ皇帝から信頼されていたレーゲンスブルクのユダヤ人共同体の密使が宮廷に嘆願して一度取り消しに成功したが、1519年にはレーゲンスブルクからユダヤ人が追放された。1477年にはアルザス諸都市でスイス同盟兵士がユダヤ人を襲撃するので、あらかじめユダヤ人を追放するよう請願した。

  • 1476年のマドリガル、1480年のトレドの議会で、ユダヤ人の居住制限、公職追放、ユダヤ人標識の表示、キリスト教召使の雇用禁止、農地購入などが制限されたが、これは伝統的政策の踏襲であって、あくまでも国王隷属民としてのユダヤ人を保護するためのものだった。

フェルトレの福者ベルナルディーノは「ユダヤ人高利貸しは貧者の喉を掻き切り、貧者の蓄えによって肥え太る」 と説教したり、1475年、チロルのトレント(イタリアのトレント自治県)ではユダヤ禍が来れば分かるだろうと説教した。その数日後にシモン少年儀式殺人事件が起きた。この事件では、9人のユダヤ人が拷問を受け、少年の殺害を自白したユダヤ人たちは処刑された。このユダヤ人の自白によって、ユダヤ人への中傷は広がり、オーストリア、イタリアでも儀式殺人と血の中傷事件が起こり、トレントには殉教者少年シモン(Simon of Trent)を記念する礼拝堂が建設され、1582年には教皇シクストゥス5世 によって列福された。フェルトレの福者ベルナルディーノは、儀式殺人事件について広める一方で、高利貸しへの反対運動も行い、15世紀末にはフランシスコ会がイタリアの主要都市で公営質屋モンテ・ディ・ピエタ(哀れみの山)を開設し、フランス、ドイツにも開設された。

  • 1494年、スロバキア西部のティルナウ(トルナバ)で発生した儀式殺人事件では、ユダヤ人はキリスト教徒の血を儀式や薬として使っていると告発された。

スペイン・イベリアからの追放

スペインでは、718年からのレコンキスタ(イスラム勢力からの再征服)の過程で、十字軍のようにキリスト教国家の意識が高まっており、イスラム教への敵視から、ユダヤ教への敵視も強まっていった。

1366年以降、トラスタマラ朝のカスティーリャ王国のエンリケ2世が武装蜂起すると、エンリケ2世は、ユダヤ人を登用した前王ペドロ1世に対して、前王はユダヤ人と王妃との不義の子である、キリスト教徒の犠牲の上にユダヤ人を保護する残忍王であるとの反ユダヤのプロパガンダを行った。1370年以降、スペインのエシハ聖堂助祭フェラント・マルティネスが激しい反ユダヤ演説を繰り返した。

1391年6月9日、カスティーリャ王国のセビーリャで反ユダヤ運動が起こった。ペストの原因はユダヤ人とする反ユダヤ運動はカスティーリャ王国のブルゴス、コルドバ、トレド、バレンシア王国、カタルーニャ君主国のバルセロナ、アラゴン王国のバレアレス諸島に飛び火し、各地で虐殺(ポグロム)を引き起こして、ユダヤ人共同体は潰滅的な打撃をうけて、キリスト教への改宗を強制され、また国外へ追放された。改宗者はコンベルソと呼ばれた。

1480年以降、スペイン異端審問裁判所がスペイン各地で作られ、2000人のユダヤ人の改宗者コンベルソが処刑され、1万5000人が悔罪した。1491年、スペインのラ・グアルディアでユダヤ人が儀式殺人で処刑された。

1492年、スペインでユダヤ人追放令。これによって8万から15万のユダヤ人がスペインを退去し、他のヨーロッパ国家やオスマン帝国に逃れた。オスマン帝国は1453年にコンスタンティノポリスを占領し、東ローマ帝国を滅ぼした。多くのユダヤ人は新都市イスタンブールに移住した。ここでは、ムスリムが絶対的な優位を占め、キリスト教徒、ユダヤ教徒は差別を受けたものの、概ね共存が維持された。1497年には、ポルトガルでもユダヤ追放令が出された。

1499年、トレドで、ユダヤ人の改宗者コンベルソの商人が課税をフアン2世に献策すると、キリスト教民衆が激昂して、コンベルソ商人の自宅を焼き討ちした。

近世

ドイツ

人文主義

1490年から1510年にかけてアルザスで成立した匿名(高地ラインの革命家)の『百章からなる本』ではアダムはドイツ人であったとし、自由人であり貴族であるドイツ人は世界を支配し、ドイツ人以外の民を奴隷化し、ローマ・カトリックの聖職者を虐殺することを提唱した。背景には、ブルターニュ公国を巡るハプスブルク家マクシミリアンとフランス王シャルル8世の対立があり、ヴィムフェリングやセバスティアン・ブラントなどのユマニストもフランスを攻撃した。

15世紀末、ドイツは経済的に繁栄し、バイエルン公国のアウクスブルクでは鉱山・金融業の富豪フッガー家、金融業の富豪ヴェルザー家、イムホーフ家(Imhoff)、ホーホシュテッター家(Hochstetter)などが巨万の富を築いた。そうした経済の大物に対して庶民は「クリスト=ユーデ(ユダヤ人のようなキリスト教徒)」と呼んだ。セバスティアン・ブラントは『阿呆船』(1494年)で「ユダヤの高利貸しはまだよいが、それでも町には留まれぬ。自分の暴利を棚に上げ、ユダヤの高利貸しを追い出すクリスト=ユーデども」と皮肉った。

1508年の『ユダヤ人の鑑』で改宗ユダヤ人のドミニコ会修道士ヨハンネス・プフェファーコルンがユダヤ人の偏屈さの原因はタルムードにあると告発した。プフェファーコルンによる提案で神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は1509年の勅令でタルムード廃棄を命じた。ユダヤ人から請願されたマインツ大司教ゲンミンゲンの提案で、プフェファーコルンらによる書籍没収を調査するタルムード調査委員会が設立され、委員にはドイツ唯一のヘブライ学者だったヨハネス・ロイヒリンなどが就任した。ロイヒリンがタルムードやカバラーを擁護すると、1511年に両者は論争を開始し、エラスムスたち人文主義者はロイヒリンを支持し、パリ大学神学部はプフェファーコルンを支持するなど論争は国際的なものとなった。

ただし、ロイヒリン側も反ユダヤ的な思想を持っていた。ロイヒリンは論争の直前に書いた1505年の『回状』でユダヤ人は日々、イエスの御身において神を侮辱し冒涜し、イエスを罪人、魔術師、首吊り人と呼び、キリスト教徒を愚かな異教徒と見下していると説教していたし、論争においてもプフェファーコルンに対して「彼は先祖たるユダヤ人の精神のあり方をそのままに、嬉々として不敬の復讐に打ってでた」と述べている。また、ロイヒリン支持者でカトリック教会を批判した人文主義者のフッテンもプフェファーコルンがドイツ人でなかったことは不幸中の幸いで「彼の両親はユダヤ人だった。彼自身、どんなにその恥辱の肉体をキリストの洗礼水に浸そうと、依然としてユダヤ人であることに変わりはない」と批判し、同じくエラスムスも「プフェファーコルンは真のユダヤ人であり、まさにその種にふさわしい姿を公然とさらしている。彼の先祖たちは、たった一人のキリストを相手に猛り狂った。プフェファーコルンがその同宗者のために行うことのできる最良の貢献は、みずからキリスト教徒になったと偽善的に言い張ることによって、キリストの神性を裏切ってみせることなのだ」と批判した。

アルザスの人文学者ベアートゥス・レナーヌスは「ユダヤ人ほど他者を憎み、また他者に嫌悪を催させる民はほかに存在しない」と述べた。ドイツの人文学者コンラート・ツェルテスはユダヤ人は「人類の社会を侵し、混乱に招き入れる」と述べた。

ドイツの修道院長ヤーコプ・トリテミウスは高利貸しのユダヤ人には激しい怒りを覚える、その不法な搾取から守るための法的措置が必要で「異国の民が、われわれの土地で権勢を振るうなどということが許されてよいものだろうか」と述べ、またガイラー・フォン・カイザーベルクは「ユダヤ人は、みずから手を汚しての労働を欲しない」「金貸しを生業とすることは労働の名に値しない」と批判した。

一方、プファルツ領邦宮中伯フリードリヒ1世のハイデルベルク宮廷にいた人文主義者ヤーコプ・ヴィムフェリングは「唾棄すべきなのは、ユダヤ人と、ユダヤ人よりもさらに質の悪い一部のキリスト教徒が手を染めている高利貸しなのである」と、キリスト教徒の高利貸しのことも非難した。

  • 1516年 - 教皇国家アンコーナでユダヤ人に商業特権を与えた。
  • 1516年 - ヴェネツィアにユダヤ教徒強制居留地(「ゲットー」)が設置される。

ユダヤ人の唱道者ロースハイムのヨーゼルは1520年以降、神聖ローマ皇帝・スペイン国王のカール5世(在位:1519年 - 1556年)に寵遇され「帝国ユダヤ人指揮官ならびに統治者」の称号を与えられ、ドイツユダヤ人全共同体の代表となった。ヨーゼルはユダヤ人が法外に高い金利を要求しないこと、利子に粉飾をほどこさないこと、キリスト教徒への支払いを逃れようとするユダヤ人債務者を破門にして追放することなど、ユダヤ人商人が商業モラルを遵守するよう要求した。

ヨーゼルの論敵は、改宗ユダヤ人のアントニウス・マルガリータだった。ラビの息子だったマルガリータはレーゲンスブルクのユダヤ共同体を公権力に告発し、1522年にカトリックに改宗し、プフェファーコルンを模範としたユダヤ教批判を行った。アウクスブルク国会でヨーゼルが「ユダヤ教の背教者によるユダヤ教の主張は根拠を持たない」と主張すると、マルガリータは有罪としてアウクスブルクから追放された。またこの影響でハンガリーとボヘミアのユダヤ追放令は廃案となっている。マルガリータの著書はルターが最大の典拠の一つとするなどその後も影響力を持った。

ルター

1517年に宗教改革をはじめたマルティン・ルターは、反ユダヤ主義的な意識を持っていたことでも知られる。初期のルターは、ユダヤ教徒を反教皇運動の援軍とみなしていた。ヴォルムス国会の期間中にユダヤ人と討論したルターは、1523年に『イエスはユダヤ人として生まれた』などの小冊子を著して、愚者とうすのろのロバの教皇党たちが、ユダヤ人にひどい振る舞いをしてきたため、心正しきキリスト者はいっそユダヤ人になりたいほどだ、と述べたり、ユダヤ人は主と同族血統であるから、ユダヤ人はメシアであるイエスに敬意を表明し、キリストを神の子として認めるよう改宗を勧めた。他方で、教皇がドイツ人を利用して第二のローマ帝国を築いたが、その名を持っているのはドイツ人であり、神はこの帝国がドイツのキリスト教徒の王によって統治されることを望んでいると述べたり、1521年に「私はドイツ人のために生まれた」と述べるなどドイツ人の国民意識に立った発言を繰り返した。さらに騎士戦争や、ルター派のミュンツァーによる農民戦争が起きると、ルターは反乱勢力を批判し、それ以来ルターは人間世界のいたらなさや、政治的責任を強く感じるようになり、人間の内的自由に、神によってもたらせた地上の事物の秩序が対置され、服従の義務を唱え、キリスト教徒は従順で忠実な臣下でなければならないと説くようになった。そのうちにルターは、不首尾の原因をユダヤ人のなせる業とみなすようになっていく。ユダヤ人の改宗者はごくわずかで、改宗した者もほとんどが間をおかずしてユダヤ教に回帰したためか、1532年には「あのあくどい連中は、改宗するなどと称して、われわれとわれわれの宗教をちょっとからかってやろうというぐらいにしか思っていない」と述べている。同年「ドイツほど軽蔑されている民族はない」としてイタリア、フランス、イギリスはドイツをあざけっていると述べている。1538年、ロースハイムのヨーゼルに対してルターは、私の心はいまもユダヤ人への善意に満ちあふれているが、それはユダヤ人が改宗するために発揮されると述べた。その後まもなく、ボヘミアの改革派がユダヤ人の教唆のもとユダヤ教に改宗し、割礼を受けて、シャバトを祝ったという知らせが入ると、ルターは1539年12月31日には「私はユダヤ人を改宗させることができない。われらが主、イエス・キリストさえ、それには成功しなかったのだから。しかし、私にも、彼らが今後地面を這い回ることしかできないように、その嘴を閉じさせるぐらいのことはできるだろう」と述べた。

1543年にルターはユダヤ人を批判する『ユダヤ人と彼らの嘘について』を発表し、7つの提案を行った。

  1. シナゴーグや学校(イェシーバー)の永久破壊
  2. ユダヤ人家を打ち壊し、ジプシーのようにバラックか馬小屋のようなところへの集団移住
  3. ユダヤ教の書物の没収
  4. ラビの伝道の禁止
  5. ユダヤ人護送の保護の取消
  6. 高利貸し業の禁止。金銀の没収。
  7. 若いユダヤ人男女に斧、つるはし、押し車を与え、額に汗して働かせること。

ルターは「ユダヤ人はわれわれの金銭と財を手中にしている。われらの国にあって、彼らの離散の地にあって、彼らはわれわれの主になったのだ」として、ユダヤ人は労働に従事していないし、ドイツ人もユダヤ人に贈与していなのだから、ユダヤ人による物の所有を禁じて、彼らの財産はドイツに返還されるべきであると主張した。ユダヤ人はドイツにとっての災厄、悪疫、凶事であり、誰もユダヤ人にいて欲しいなどとは思っていない、その証拠にフランスでも、スペインでも、ボヘミアでも、レーゲンスブルクでもマグデブルクでも追放されたとして、ドイツ人はユダヤ人に宿を提供し、飲食も許しているが、ユダヤ人の子供をさらったり殺したりはしないし、彼らの泉に毒を撒いたり、彼らの血で喉の渇きを癒やそうともしていない、ドイツ人はユダヤ人の激しい怒り、妬み、憎しみに値することは何かしただろうか、と論じた。ルターは、大悪魔を別にすればキリスト(キリスト教徒)が「恐れなければならない敵はただ一人、真にユダヤ的であろうとする意志を備えた真のユダヤ人である」とし、ユダヤ人を家に迎え入れ、悪魔の末裔に手を貸す者は「最後の審判の日、その行いに対し、キリストは地獄の業火をもって応えてくださるであろう。その者は、業火のなかでユダヤ人とともに焼かれるであろう」述べた。数ヶ月後の冊子『シェム・ハメフォラス』でユダヤ人の改宗は、悪魔に改宗させるのと同じぐらい困難な業であり、ユダヤ人の福音書外典は四福音書が正統であるのに対して偽書であり、悪魔の使いのユダヤ人は「悪魔の群れよりもさらに悪辣」で「神よ、私は、あなたの呪われた敵、悪魔とユダヤ人に抗しながら、必死の思いで、これほどまでの恥じらいとともにあなたの神々しき永遠の威厳を語らねばならないのです」と論じて、最後に「私はこれ以上、ユダヤ人と関わりを持ちたくないし、彼らについて、彼らに抗して、何かを書くつもりもまったくない」と閉じた。ルターは死の四日前の2月18日の最後の説教では、ドイツ全土からユダヤ人を追放することが必要であると訴えた。また晩年のルターは無敵の常備軍を持った統一ドイツ帝国を夢見ていた。

ルター晩年のユダヤ攻撃に対しては、ルターの協力者メランヒトン、スイスのツヴィングリの後継者のブリンガー、ユダヤ人のロースハイムのヨ−ゼルらが批判した。「キリストは淫乱であったかもしれない」と述べたり、教皇に対してはユダヤ人攻撃の時よりももっと汚い言葉を使って罵詈雑言を浴びせた。ルターの反ユダヤ主義は、タルススのパウロス(聖パウロ)やムハンマドと同様の転機を経て、ユダヤに対する深い憎悪となった。ルターの反ユダヤ文書はルター死後あまり重視されなかったが、ヒトラー政権になって一般向けの再販が出てよく読まれた。

  • 1555年 - 教皇国家アンコーナで隠れユダヤ教徒の弾圧。
  • 1562年 - 1598年、フランスのカトリックとプロテスタントのユグノーがユグノー戦争。
  • 1572年8月24日、サン・バルテルミの虐殺でフランスのカトリックがプロテスタントのユグノーを虐殺。

フランクフルト・ゲットーとフェットミルヒの暴動

1614年8月22日、フランクフルトの豚肉商フェットミルヒたち職人層がユダヤ人のゲットーを襲撃し、暴徒は金品を強奪し、借用証書とトーラーを焼き払うために火を放った。ユダヤ人住民は命の犠牲は免れたが、財産を奪われ、また、他の土地へ移っていった。数ヶ月後、ヴォルムスでもユダヤ人ゲットーが同様の襲撃事件が起きた。地方政府も帝国政府も和解につとめたが、暴動の首謀者は熱烈な歓呼に包まれた。ドイツの大学法学部は「今回の襲撃は昼間の襲撃であったが松明をもって行われており、法範疇に属さないため、罪科の対象とはならない」と判断した。その後、神聖ローマ皇帝マティーアスによってユダヤ人は神聖ローマ帝国軍の厳重な護衛のもと、フランクフルトに戻った。このフランクフルト騒動後、国家権力によってユダヤ人は保護され、ドイツにおける反ユダヤの実力行使は途絶えた。その後数世紀、反ユダヤ主義を主張する多くの作家、思想家が登場したが、ドイツのユダヤ人には一定の平和が訪れた。

17世紀、ユダヤ人虐殺事件は少ないものの、フランクフルト市では、ユダヤ人識別章の着用が義務化され、キリスト教徒の下僕の雇用禁止、明確な目的になしに街路を通行することの禁止、キリスト教祭日や君主の滞在期間中の外出禁止、市場ではキリスト教徒が買い物を済ませた後でなければ買い物はできなかったなど、制限されていた。ユダヤ人はフランクフルトの「市民」ではなく「被保護者」または「臣民」と規定され、これはナチスドイツ時代も採用した区分であった。

マラーノ

16世紀、スペインやポルトガル出身の改宗ユダヤ人(マラーノ)が、オランダ、イタリアの金融市場、大西洋貿易、東方貿易の開拓者となっていった。スペイン支配下のアムステルダムは大西洋貿易の中心地となった。

マラーノが権勢を誇る一方で、ドイツのユダヤ人は生活の基盤を失われ苦しんでいたため、マラーノを「純粋ユダヤ人ではない」とする状況になった。1531年、アルザスのユダヤ人ロースハイムのヨーゼルは、富裕なマラーノの入植地が根を張っていたアントワープに対して、ここにはユダヤ人がいないと書いた。

フランス王国

1614年、フランシスコ会修道士ジャン・ブーシェはユダヤ人を「かつて祝福の対象とされながら、今では呪いの対象とされている種」「世界の四方を惨めにさまよい歩いている種」として、トルコ人はユダヤへの憎悪の結果、ゴルゴダの教会広場でユダヤ人を見かけたキリスト教徒はユダヤ人を殺しても罪に問われなかったし、またユダヤ人が1291年にイングランドで、フランスで1182年にフィリップ2世尊厳王、1306年にフィリップ4世美麗王、1322年にフィリップ5世長躯王によって、スペインで1492年にフェルディナンド2世によって追放されたのは、ユダヤ人がキリスト教徒に対して不敬の態度を示し讒言を差し向けたからであると述べた。

1615年5月12日、14歳のフランス王ルイ13世とその母で摂政のマリー・ド・メディシスが数年来、ユダヤ人が身分を偽って王国に入り込んだとして、1394年のユダヤ人追放令(シャルル6世による)を更新した。ただし、ボルドーとバイヨンヌのマラーノには適用されなかった。1615年について年代記作家は「不信心と良俗紊乱」の一年であり「魔法使い、ユダヤ人、呪術師が堂々とシャバト(安息日)を祝い、シナゴーグでの儀式を行った」と記録している。魔女はシナゴーグとも呼ばれ、また安息日を意味するヘブライ語のシェバトからサバトとも呼ばれるようになった。

三十年戦争と絶対王政フランスの覇権

1618年から1648年にかけて、宗教改革による新教派(プロテスタント)とカトリックとの対立のなか展開された最後で最大の宗教戦争といわれる三十年戦争が起こった。この戦争で、オーストリア・スペインの東西ハプスブルク家は打撃を受けた一方で、ブルボン家のフランスはヨーロッパ最強国家となった。また、神聖ローマ皇帝とローマ教皇を政治的・宗教的首長とする「キリスト教共同体」は崩壊し、ヨーロッパ世界では一つの国家の主権と独立とが原則となった。

戦後、フランスが中央集権的絶対王政を確立したのに反して、神聖ローマ帝国が名目的な存在となったドイツでは地方分権的な領邦国家体制が確立したことによって国民主義的統一が遅れた。神聖ローマ帝国内では諸侯たちが自分たちを領邦を代表する「国民」 と意識していたが、諸侯の共通言語はフランス語であり、民族よりも身分が重視されるなど、国民国家の形成は妨げられており、こうした領邦国家体制に対する反発が、近代の啓蒙と合理主義の影響で18世紀以降のドイツにおける国民主義(ナショナリズム)を形成していくことになる。

1627年、詩人マレルブは最晩年にユダヤ教はヨルダン川の岸辺におしとどめられるのが望ましいが、ユダヤ教徒はセーヌ川流域まで勢力を広げているとして「私はどこにいても神を頼みとして戦う」と書いた。

三十年戦争末期の1648年、フランス王国では10歳の国王ルイ14世(在位:1643年 - 1715年)の摂政ジュール・マザランが集権体制を強化させていたが、マザランに反発した高等法院官僚や法服貴族が反乱を起こした(フロンドの乱)。フランスは一時は無政府状態となり、王家は国外へ脱出する。1648年10月24日にヴェストファーレン条約が締結され三十年戦争が終結すると、フランス軍コンデ公ルイ2世がフロンド派を制圧し、さらにルイ2世もマザランに対抗したが、1653年にマザランが勝利してフロンドの乱は終結した。これ以降、王権による中央集権体制が確立されていった。

フロンドの乱の最中の1652年8月15日、ジャン・ブルジョワ殺人事件が発生した。トネルリーの古着商集団に対して、ジャン・ブルジョワ青年が「シナゴーグの殿方連のお通りだよ」とからかったところ、古着商集団は青年を矛槍とマスケット銃で滅多打ちにしたうえ、賠償金も払わせた。青年は代官に告発したが、古着商集団は青年をおびき出し、拷問の果てに殺害した。このような小規模な局地戦は当時いくつか発生していた。この事件後、ユダヤ人によって腐敗が撒き散らしてきたと非難する文書や古着商集団を弁護する文書が現れ、ユダヤ問題が世論で争われた。『ユダヤ人に対する憤怒』という文書では、ユダヤ人に識別するための印をつけるべきだと主張され、『シナゴーグに対する判決文』という文書ではユダヤ人全員を去勢すべきだと主張された。こうした文書の横溢によって古着商は隠れユダヤ教徒(マラーノ)かと疑われたが、事件における古着商集団は被害者も加害者もカトリック・キリスト教徒であった。

マザラン没後の1661年に23歳のルイ14世太陽王が親政を開始した。宮廷説教師でオラトリオ会修道士のボシュエは王権神授説とフランス教会のローマからの独立(ガリカニスム)を提唱し、ローマ教皇よりもフランス国王の権力を強化して絶対君主制確立に貢献する一方で、ユダヤ人を「誰からも哀れまれることなく、その悲惨のなかにあって、一種の呪いによりもっとも卑しき人々からも嘲笑の的とされるにいたった民」とし、ユダヤ人の最大の罪はイエスの処刑ではなく、処刑後に悔い改めない姿勢であると非難した。ルイ14世は「唯一の王、唯一の法、唯一の宗教」を方針として「最大のキリスト教徒の王」を自負し、異端のジャンセニストやユグノーを抑圧した。一方、ジャンセニスト哲学者ブレーズ・パスカルは遺稿『パンセ』で「栄誉に抗して純一であり、それがゆえに死んでゆく、ユダヤ人」とユダヤ人を称賛した。

1657年、東方への野心を持ったルイ14世は、軍馬調達、駐屯地への補給のためにアルザス=ロレーヌ地域のユダヤ人を利用しようとしてメッスのシナゴーグを訪れ、アンリ4世とルイ13世がユダヤ人に与えた勅許状を更新し、古物だけでなく新物を商う権利を付与した。

1670年にメッスで儀式殺人事件と裁判が繰り広げられ、ユダヤ人が処刑された。また、パリで行方不明になった若者についてユダヤ人が連行したという噂が流れた。 これに対して聖書学者リシャール・シモンがメッス儀式殺人裁判について匿名でユダヤ人を擁護し、1674年にはヴィネチアのラビ、レオン・ダ・モデナの著作を翻訳して、その序文で「新約聖書を書いたのはユダヤ人であった」と主張し、またユダヤ教徒の信仰心の篤さを賞賛した。しかし1684年になると、シモンは手紙でモデナ訳書の序文について好意的なことを書きすぎたと反省して「ユダヤ人が救いようのない民であるということを、私はその後、彼らのうちの幾人かと付き合ってみてはじめて理解した。彼らはいまだにわれわれのことを深く憎悪している」と述べた。シモンは1678年、近代聖書文献学のさきがけとされる『旧約聖書の批判的歴史』を著作したが、宮廷説教師ボシュエの激しい怒りを買い、1687年に発禁処分に至り、死ぬまで周囲から激しい攻撃を受けた。

  • 1675年〜1680年頃 サヴォイア公国ピエモンテで数年間の凶作によって救済保護政策のなかで、プロテスタントからの改宗者、貧民、ユダヤ人をゲットーに強制移住させて、管理を強めた。

ルイ14世は、1680年代にユグノー弾圧を開始。1682年新築のベルサイユ宮殿に移り、1685年、フォンテーヌブローの勅令で信教の自由を約したナントの勅令を廃止した。1688年から1697年にかけて領土拡大を図ったフランスは、フランドル戦争、仏蘭戦争後、1681年にストラスブールを占領して併合した。これに反発したドイツ、スペイン諸国によるアウクスブルク同盟とフランス王国との間で大同盟戦争となった。1689年に名誉革命でウィレム3世がイングランド王になると、イングランドとオランダもアウクスブルク同盟に参加した。講和条約レイスウェイク条約でフランスはストラスブールをのぞく1678年からの占領地の殆どを返還した。

  • 1693年–1694年 - フランスで飢饉。

スペイン継承戦争(1701年 - 1714年)中の1702年から1709年にかけて、南フランスのユグノーによるカミザールの乱が発生した。

  • 1709年、大厳冬の飢饉。

カトリック

1671年、アドリアン・ガンバールはカテキズムで、聖体を拝領することは全ての罪のなかで最も重い罪であり、それによって「ユダやユダヤ人たちと同じように、イエス・キリストの肉と血に対する罪を犯すことになる」とした。

イエズス会士・オラトリオ会修道院説教師ブルダルーは、ステファノを石で撲殺したユダヤ人は「神秘の石」であるステファノを殴打して、神の慈悲と神の愛の火花を散らしたといい「罪のうちに死ぬこと」をユダヤ人は天からくだされていると説教した。

ニーム司教フレシエは、不信心者のユダヤ人は神の正しき裁きによって、この世が終わり、神がイスラエルの残骸を集める時まで、あらゆる民から眉をひそめられる存在であり続けると説教した。

クロード・フルーリー神父(1640-1723)はカテキズム『歴史公教要理』で、イエスの敵は肉的なユダヤ人、ユダヤ人はイエスを死に至らしめたために隷属状態となり、離散させられた、と解説した。

クレルモン司教でベルサイユ宮廷説教者マシヨンは「血の罪の刻印」を受けて「見境を失った民」のユダヤ人は「盲目的な敵愾心」で怒り狂い「イエスの血がみずからとみずからの末裔の頭上に降り注ぐことを望んでいる」、ユダヤ人は「世界の恥辱とみなされたまま、さまよい、逃げまどい、軽侮され続けている」と説教した。

しかし、16世紀においては、反ユダヤ的な暴動はみられない。それは、宗教改革とそれに続く宗教戦争において、プロテスタント側がユダヤ人に近い立場に立たされ、憎悪が向けられたからであった。カトリック派は、改革派の秘密集会を蔑み、悪意に満ちた話に尾ひれをつけて触れ回った。

宮廷ユダヤ人とユダヤ人強盗団

1670年、神聖ローマ皇帝レオポルト1世(在位1658年 - 1705年)はウィーンからユダヤ人を追放したが、1673年、同じ神聖ローマ皇帝レオポルト1世が、ハイデルベルクのユダヤ人ザームエル・オッペンハイマーを帝国軍の補給係に任命して、1683年のトルコ軍のウィーン包囲やフランスとの戦争などを通じて食料、武器、輸送用の牛馬を提供して、首尾上々に任務を遂行した。当時は、外交取引に宮廷ユダヤ人が活躍し、ハノーファーのレフマン・ベーレンツはルイ14世とハノーファー公の間を取り持った。ハルバーシュタットの宮廷ユダヤ人ベーレント・レーマンは、ザクセン選帝侯アウグストをポーランド王位につかせたが、息子はザクセンから追放された。ヨーゼフ・ズュース・オッペンハイマーはヴュルテンベルク公カール・アレクサンダーの宮廷ユダヤ人として財政と行政を立て直し、権勢を誇ったが、最後は絞首刑に処された。宮廷ユダヤ人は豪勢な家屋敷を構え、ミュンヘンの銀行家ヴォルフ・ヴェルトハンマーが開いた狩猟競技会ではイングランド大使や貴族が参加した。宮廷ユダヤ人の大部分はユダヤ教を遵守していたが、シュタドラン(世話役)として、滞在禁止命令を追放令を解除させたり、ユダヤ人共同体を統轄して、ユダヤ人の敵対分子を牢獄につながせた。

この頃、オーストリアの説教者アーブラハム・ア・ザンクタ・クラーラは1683年のトルコ軍によるウィーン包囲に際して、トルコ人は「貪欲な虎、呪われた世界破壊者」、ユダヤ人は「恥知らずで、罪深く、良心を持たず、悪辣で、軽率で、卑劣でいまいましい輩、悪党」として、ペストはユダヤ人、墓掘り人、魔女によって引き起こされたと説教し、また「イエスを司直に売り渡したあのユダヤ人の子孫は、その後永劫の罰を受けねばならない」と説教した。

ブランデンブルク王家は17世紀半ばには武器・貨幣鋳造商人イスラエル・アロンに貴族位を授けたり、オーストリアから追放された富裕ユダヤ人を保護した。プロイセン王国では身柄保証金を条件にユダヤ人の自由な経済活動が認められた。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713 - 1740)はユダヤ人代表団の謁見に際して「主を十字架にかけた悪党」とは面会しないと断ったが、侍従がユダヤ人からの高価な贈り物があると聞くと、王は「主が十字架にかけられた時は、彼らはその場にいなかった」のだから、謁見を許可した。

一方で、ユダヤ人強盗団もおり、1499年の『放浪者たちの書』の盗賊仲間隠語集にはヘブライ語起源が多くを占めており、17世紀以降には、組織的ユダヤ人強盗団の記録がある。18世紀ドイツには強盗団首領ドーミアン・ヘッセルが死刑になった。しかし、宮廷ユダヤ人もユダヤ人強盗団も例外の部類であり、大多数のユダヤ人は、中世的な風習にこだわり、しきたりを忠実に守りながら暮らした。

イングランド

イングランドでは1290年にユダヤ人は追放されたため、イギリスに来るユダヤ人商人は王立の改宗者収容施設「ドムス・コンウェルソーム(Domus Conversorum)」(1234年創建)に滞在した。14世紀、15世紀には未改宗のユダヤ人も改宗ユダヤ人を偽って宿泊した。

1492年のスペインからの追放で、ユダヤ人が「スペイン人」としてイギリスにも来た。しかし、ヘンリー7世が、息子とアラゴン王女カザリンとの結婚に際して、ユダヤ人の立入りを禁じた。しかし、この禁止令は部分的にしか守られなかった。

ヘンリー8世(在位:1509年 - 1547年)治世下の1540年、ロンドンに37家族のマラーノによる植民地が形成されたが、1542年に解散させられた。なお、ヘンリー8世は亡兄ウェールズ公に嫁いだアラゴン王女カザリンと結婚していたが、カザリンとの離婚の根拠を探すために、イタリアのラビに問い合わせている。

エリザベス1世時代(1558年 - 1603年)には、ユダヤ人集会も公然と行われるようになり、ユダヤ人貿易商人エクトル・ヌネスはヨーロッパ大陸の機密情報をイギリス政府に伝えた。一方で、反ユダヤ主義も高まり、劇作家クリストファー・マーロウの『マルタ島のユダヤ人』(1590)では財産を没収されたユダヤ人が復讐する。ただしこれには無神論者だったマーロウがユダヤ人の悪魔が吐く台詞によってキリスト教体制の偽善を批判したという見方もある。1594年にはユダヤ人医師ロデリーゴ・ロペスがエリザベス女王毒殺の廉で裁判にかけられ処刑される事件が起きた。同じ頃、シェイクスピアの「ヴェニスの商人」(1596)では、高利貸しユダヤ人シャイロックが返金しないアントーニオに対して肉片を要求するが、裁判で逆に財産を没収されキリスト教に改宗されてしまう。

ジェイムズ1世時代(1603- 1625年)には、ユダヤ人同志の内紛で「ユダヤ教徒」という嫌疑をかけられたポルトガル系ユダヤ商人が国外追放された。

1649年の清教徒革命では、市民階級の清教徒が「イスラエルよ、汝らの幕屋に戻れ!」を合言葉とした。清教徒革命は王室と癒着した教会への攻撃でもあり、クロムウェルはユダヤ教徒と非国教派を保護した。また、至福千年説が流行し、ユダヤ人を解放してキリスト教に改宗させることがメシア降臨の条件とみなされるようになった。清教徒の至福千年派は、ユダヤ人の改宗のためにユダヤ人をパレスチナに呼び戻すべきだと主張した。こうしたことから、クロムウェルの出自はユダヤ人ではないかと囁かれ、またクロムウェルはセントポール大聖堂を80万ポンドでユダヤ人に売却しようとしているという噂が流れた。

一方、非国教会の分離派は、イギリスの内乱は過去のユダヤ人迫害への天罰であるとみなした。分離派に励まされたアムステルダムのラビマナセ・ベン・イスラエルはユダヤ人のイギリス入国を請願した。マナセは『イスラエルの希望』(1650年)において、終末の到来を確かならしめるためには、ユダヤ人の拡散を完全のものとして、世界の末端であるイングランド(アングル・ド・ラ・テール 地の角)をユダヤ人の植民地と化するべきだと主張した。背景には1648年のポーランドでのコサック反乱によるユダヤ人難民の存在があった。マナセは著書をイギリス議会に献呈し、ユダヤ人を迎え入れれば貿易が盛んになり繁栄すると力説した。クロムウェルは、キリスト教を否定する者に寛容を貫くのは本末転倒であるが、イギリス商業の保護と発展のためにユダヤ人国際ネットワークを利用することのメリットに理解を示し、またスペインの植民地を奪取するための協力をユダヤ人マラーノから期待していた。メナセは「卑見(Humble Address)」でシナゴーグの建設許可や、反ユダヤ法の改正を請求し、ユダヤ人の商才と高潔な血統を強調、キリスト教徒幼児の殺害は中傷だと否定した。11月、クロムウェルはこの請願を議会にかけたが、王党派は「王を殺した者が、救世主を殺した者と手を握った」と非難した。貴族マンモス伯はシナゴーグ建設案に不快感を示し、またロンドンでは傷痍軍人が「わしらも全員ユダヤ人になるしかあるまい」と噂し、商人は恐るべき競争相手と警戒し、聖職者は社会転覆の危険を見た。パンフレット作家で王党派の政治家ウィリアム・プリンは、1634年に演劇の観客は「悪魔、不敬の怪物、無神論的ユダの化身である。彼らはみずからの宗教に対しては喉を掻き切る殺人鬼」と述べ、仮面劇を支援した王妃ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランスへの誹謗中傷と名誉毀損の罪によって、両耳を切断され、左右の頬に煽動的誹毀者(seditious libeller)を意味する「S.L.」の烙印が押されたが、民衆の絶大な人気を博していた。1655年にプリンは、マナセとイングランド政府によるユダヤ人の召喚計画に反対して『ユダヤ人のイングランド移入に関する簡潔な異議申し立て』を書き、一週間で完売した。このほか、クレメント・ウォーカー『イングランドの無政府状態』やアレクサンダー・ロス『ユダヤ人の宗教』などでもユダヤ人召喚への反対が主張された。

1655年12月18日の一般公開議場ではユダヤ人受け入れに反対する者が多数詰めかけ、クロムウェルは諮問委員会の解散を宣言し、さらに、演説では、ユダヤ人の改宗は聖書に予告されており、そのためにはユダヤ人が聖地に住むことが唯一の手段であると述べ、閉会した。

マナセは1656年に『ユダヤ人からの要求(Vindiciae Judaeorum)』を書き、これに影響されたユニテリアン派のトマス・コリアーは、ユダヤ人によるイエス殺害は神の意志を実現するためであり、それによってキリスト教を誕生させるためであったと論じた。

英西戦争の悪化によって1655年秋に在英スペイン人の財産は没収された。在英ユダヤ人のほとんどはスペイン出身であり、法的にはスペイン人であったため、ユダヤ人の財産も没収された。裕福な商人ロブレスは自分はポルトガル人であるとして財産返却を請願し、異端審問の過酷さを主張してイギリスの反スペイン・反カトリック感情に訴え、財産没収の取り消しに成功、これによりイギリスでのマラーノの身分が保証される結果となった。

以後、イングランドでは公的な入国許可はなかったが、非公式の寛容政策によってロンドンのマラーノ入植地では、シナゴーグも建設され、イギリス国内の事実上の小国家となっていった。1657年イギリス最初のシナゴーグがクリーチャーチレインに建立された。

1659年の王政復古で復位したチャールズ2世は親ユダヤ的で、ユダヤ人の権益を保護した。王室の庇護を受けたためにユダヤ人は安定した地位を保ち、セファルディー系ユダヤ人が18世紀初頭にベヴィスマークにシナゴーグを建設、アシュケナージ系ユダヤ人も再入国が認められ、1690年には自派のシナゴーグを建設した。

なお、1661に成立した騎兵議会では、王党派によって、清教徒の一掃を企図するクラレンドン法典、市町村の役員に国教徒であることを義務づけた地方自治体令(Corporation Act)、非国教徒4人以上の会合を禁止したコンヴェンティクル条例(Conventicle Act)などが可決した。

日記で知られる海軍秘書サミュエル・ピープスは1663年にシナゴーグを訪問し、そこで見たシムハット・トーラの礼拝での騒ぎに対して嫌悪感を書いている。

1718年にはイギリス産まれのユダヤ人であれば土地所有が可能となった。

1753年、ヘンリー・ペラム政権は、ユダヤ人帰化の条件を緩和する法案を提出したが、世論の反発を受けて撤廃した。ユダヤ人帰化法が失敗すると、ディズレーリ家、リカルドー家、バーセーヴィ家などの上流ユダヤ人はイギリス国教に改宗した。

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理神論・合理主義とスピノザ

宗教改革と宗教戦争を経て、16世紀のソッツィーニ派は聖書の権威を批判し、三位一体説や予定説、キリストの神性を否定し、教会と国家の分離(政教分離)を主張し、神だけの神性を主張し,イエスの神性を否定するユニテリアンに影響を与えた。やがて、この潮流はチャーベリーのハーバート卿やトーランドなどイギリスの自由思想家によって理神論(自然宗教)という理性に基づく合理主義的な有神論となった。ハーバート卿の『真理について』(1624年)は哲学者デカルトに影響を与えた。

オランダのユダヤ・セファルディム系哲学者スピノザにとってユダヤ教は確かな論拠と証明に基いていないのでそれがユダヤ共同体から離れる原因となり、さらにユダヤ人の男に短剣で襲撃されたことでスピノザはユダヤ共同体と絶縁し、さらに破門され追放された。その後、スピノザは匿名で1670年に『神学・政治論』を書き、ヘブライ人の宗教は他の民族とは絶対に相反的なものであり、ユダヤ教において他の民族への憎しみは敬神と敬虔から生じた神聖なものと信じられていると、ユダヤ教について激しく攻撃的に論じ。スピノザはコレジアント派(ソッツィーニ派、メンノ派)の解釈に倣って、ユダヤ教における隣人をユダヤ民族に限定した。スピノザの聖書批判はキリスト教神学者の間でも反発を呼んだ。ピエール・ベールは『歴史批評辞典』 (1696年)でスピノザの聖書批判を紹介しフランスやイギリスでも知られるようになり、スピノザによってユダヤの神は憎しみの神であるという考え方、そしてユダヤ教は迷信にすぎないといった見方が啓蒙思想やイギリス理神論、ドイツの哲学者カントやヘーゲルまで広がっていった。ゴルディンやポリアコフは、スピノザは近代の反ユダヤ主義の形成において重要な役割を果たしたと論じている。

自由思想家で理神論(合理主義)の哲学者ジョン・トーランドは『キリスト教は秘蹟的ならず』(1696年)で教父たちは真のキリスト教を堕落させてきたとして「理に適った」(合理的な)教説を説き、キリスト教はもとはユダヤ教徒であったと論じた。トーランドは1714年の『ユダヤ人帰化論』でユダヤ人を擁護し、ヨーロッパ大陸からユダヤ人を受け入れるよう主張した。また『ナザレ人』(1718年)でトーランドは「ユダヤ教徒が奉じる真のキリスト教」はローマ帝国の異教徒たちによって圧殺され、また教皇制度はキリスト教を歪める一方で、ユダヤ教の儀式を非難してきたが、こうしたことの根拠は聖書には書かれていないと論じた。トーランドは、これまでのキリスト教世界を批判する一方で、ユダヤ人を擁護した。

聖公会の非正統的神学者トマス・ウールストンは1705年の著作『ユダヤ人と復活した異邦人に対するキリスト教の真実のための古い弁明』以来の著作やパンフレットで、ユダヤ人は「騒音と悪臭の根本」であり「世界はユダヤ人の毒に満ちている」と論じた。ヴォルテールはウールストンの著作を典拠にした。

ニュートンの推薦でルーカス教授職に就いたウィリアム・ホイストンは1722年の『旧約聖書再現試論』でユダヤ人は旧約聖書の写本を歪め、故意に改悪したと論じた。ドルバック伯爵に影響を与えたアンソニー・コリンズは『キリスト教基礎論』(1724)でユダヤ教は民族宗教にすぎないと主張した。マシュー・ティンダルの『天地創造と同じ古さを持つキリスト教、あるいは自然宗教の福音』(1730年)は理神論のバイブルといわれたが、ユダヤ人の悪しき影響力を論じたものでもあった。トマス・モーガンは『キリスト教徒の理神論者フィレラテスとキリスト教徒ユダヤ人テオファネスとの対話のなかの道徳哲学者』(1737年)で、スピノザに基づきイスラエルの神は戦の神であり、その土地の民族の神にすぎないとして、理神論者がキリスト教徒ユダヤ人に打ち勝つと描いた。ウィリアム・ウォーバートンの『モーセの聖使節』(1737年-1741年)では、神が最も粗野で卑しい民族を選んだということが啓示の根拠であると論じた。ボーリングブルックはユダヤ人とキリスト教教父たちはキリスト教を悪質なものへと変えたと非難した。

こうしたイギリス理神論は、ユダヤ人に取り憑かれたように非難していたわけではなかった。しかし、ジョン・トーランドを唯一の例外としてほとんどのイギリス理神論者が伝統的なキリスト教的な反ユダヤ主義を保持し続け、ユダヤ教とキリスト教の窮屈さや旧約聖書の排他主義を批判し、文明や人類の起源をエジプトやインドに求めていくようになり、これが後年の「アーリア神話」に行き着くことになった。イギリス理神論は、フランスのヴォルテールやルソーなどヨーロッパの思想に大きな影響を与えた。

人種学

すでに述べたように自民族を高貴な民族とみなす考え方は8世紀の『サリカ法典』にもみられるが、1434年のバーゼル公会議でスウェーデンのラーグヴァルトッソン司教が述べた「スウェーデン王国は最も古く高貴な王国であり、スカンディナビアは人類発祥の土地である」という発言には近代的な人種主義的ナショナリズムの萌芽がみられる。

16世紀後半、ドミニコ会の哲学者ブルーノは、インディアン、エチオピア人、ネプチューンの洞窟の住民、ピグミー、巨人は、人間と同じ出自ではなく、神の創造したものではないとした。

マラーノのアイザック・ラ・ペイレールは1655年の『前アダム人』で、聖書はユダヤ史のみを取り扱っているにすぎず、アダム以前に数百万の前アダム人がおり、またユダヤ史は「アダムからイエスまでの選びの時代」と「イエスから17世紀までの排除の時代」であったとし、その後にユダヤ人の復活の時代が訪れ、ユダヤ人(アダム人)以外の民も含めた万人が救済されるとした。

1689年、哲学者ジョン・ロックは『人間知性論』において、子供が人間の観念を形成する際に周囲の白人の肌色から白色が人間という複雑な観念の内の単純観念の一つとなるので黒色のニグロは人間ではないと判断する、と論じた。

ライプニッツは『人間知性新論』で「動物の習性とも見なしうるほどの残忍さにみちたアメリカの蛮人の習慣を認めるには、彼らと同じほど愚鈍でなければならない」と述べた

博物学者ジョン・レイは、色の違う花が異なる種に属すように、ニグロとヨーロッパ人は異なる種に属すと論じた

スウェーデンの博物学者リンネは1735年の『自然の体系』で人間を4つに分類し、白いヨーロッパ人は発明の才に富み、法によって統治され、赤いアメリカ人は自由で短気で習慣によって統治され、黄色いアジア人は高慢で貪欲で世論によって統治され、黒いアフリカ人は無気力で主人の恣意的な意志によって統治されているとし。

ヒュームは1742年、黒人などの白人以外の文明化されていない人種は、白人種のような独創的な製品、芸術、科学を作り出せないとし、非白人による文明民族は存在したことはないとした。

科学者モーペルテュイは、黒人から白い子供が突然生まれるのに対して、その逆はないことから、人間の最初の色は白であると論じた。

ドイツの哲学者G.F.マイアーは、最初の人間アダムは脇腹にすべての人間をたずさえ、その中のアブラハムの精子にはすべてのユダヤ人が含まれていたとした

解剖学者メッケルは1757年にニグロを解剖した結果、彼らの脳も血液も黒いため、白人とは別の人種であるとした。解剖学者カンペルは、ユダヤ人には色の黒いポルトガル系や、白いチュートン系もいて、皮膚の色が違っても始祖は同じアダムであり、ニグロも人間であるとメッケルを批判した。カンペルはヨーロッパ人、カルムイク人(蒙古人)、ニグロ、猿の順に「顔面角」が減少していくとした。

博物学者ビュフォンは『博物誌(1749-1788)』において、ロバが退化した馬であり馬に属するようにニグロは人間に属する、あるいは、白人が人間であるとすれば、ニグロは人間でなく猿のような別の動物であるとした。

ヴォルテールは、ニグロが猿より優れているように、白人はニグロより優れているとし、ニグロは猿との性交から生まれた怪物の種であるとした

カントは1764年の『美と崇高との感情性に関する観察』で「アフリカの黒人は、本性上、子供っぽさを超えるいかなる感情も持っていない」し、また東洋の住民は誤った趣味を持っているのに対して、ヨーロッパ人は美と崇高の正しい趣味を作り上げ、世界市民 (コスモポリタン)の人倫的感情を高めたと論じた。カントは1777年の「様々な人種について」では人間は共通の祖先を持つとしたが、『自然地理学』(1756-96年)で白色人種によって人類は最大の完全性に到達するとした。

1799年、医者チャールズ・ホワイトは白いヨーロッパ人は人類の最も見事な産物であり、ヨーロッパ人以外にこれほど美しい頭の形、これほど大きな頭脳をどこに見出すことができるだろうかと書いた。

エドワード・ロングは、ヒト種を、ヨーロッパ人、ニグロ、オランウータンの3つに分けて、白人とニグロの混血児もニグロとオランウータンの混血児も生殖能力を持たないとした。

クリストフ・マイナースは「美しい白人種」と「醜い黒人種」の二つに分け、白人、特にケルト民族だけが真の勇気などの美徳を持っており、黒人は無情で無感覚な恐ろしい悪徳を持っているとした。

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ポーランド・ウクライナ

ポーランドのユダヤ人は、ユダヤ教国ハザール帝国や、ビザンティウムから来たと考えられている。伝承では、一日だけユダヤ人がポーランドの王位に即位したといわれ、中世11世紀、12世紀の貨幣にヘブライ語で「ミエシュコ大王」「アブラハム・ドゥハス」などの銘が刻まれている。

ポーランドではユダヤ人への優遇政策は進んでいた。1264年、ポーランドのカリシュのボレスワフ王(1221-79)は、ドイツ諸侯のようなユダヤ勅許状を出した。しかし、1267年、ブラスラウ公会議は12条でポーランドはキリスト教徒の新しい入植地であるため、ユダヤ人の迷信や悪習からの影響を懸念した。1279年、ユダヤ人識別章が計画されたが実現しなかった。1364年、カジミェシュ王(1310-70)はユダヤ人を貴族と同等の扱いとして、ユダヤ人に危害を加えた者を罰した。しかし、14世紀末、ポーランドで聖体冒涜事件と儀式殺人事件が起こった。1454年、カピストラーノのジョバンニの影響で、ヤギェウォ朝のカジミェシュ4世がユダヤ人の特権を一部撤回した。1565年、ポーランドのユダヤ人は卑しい職業に従事しているわけでもなく、土地を所有し、医学、占星術を研究し、大きな富を蓄えて、武器の携帯も認められている、と教皇使節が報告しており、他国の境遇との隔たりがあった。当時、ポーランドのユダヤ人は商業、行政、森林開拓、岩塩採掘、農業、銀行、ポーランド貴族の御用商人、宮廷ユダヤ人など、多岐にわたって浸透しており、ユダヤ人から利益を得ていたポーランド貴族はユダヤ人を庇護した。他方で、ポーランドの聖職者はユダヤ人を攻撃し、イエズス会のスカルガは、トレントのシモン少年儀式殺人事件や、聖餅冒涜裁判の原告にもなった。イエズス会の神学生はユダヤ人へのポグロムを繰り返し、またポーランドの農民は農民が稼いだ金でユダヤ人は腹を満たすとして「ユダヤ人、ドイツ人、悪魔」の三人兄弟のうち、悪魔が一番ましという諺もあった。

ポーランド・リトアニア共和国の支配下にあったウクライナにおいて、ギリシア正教を奉じるウクライナ農民にとってカトリックの領主とその家令ユダヤ人は憎悪の対象であった。1648年、ギリシア正教徒ボフダン・フメリニツキーは「ギリシア人」を名乗り「ポーランド人とそのお抱えの家令、仲買人たるユダヤ人から受けた屈辱を忘れまい」と叫び、ユダヤ人、ポーランド人の別なく改宗を迫ったり殺害し、イエズス会士も追放された。このフメリニツキーの乱(1648年 - 1657年)はやがてロシアとポーランドの戦争(1654年-1667年)となり、ロシア軍もユダヤ人を殺害した。この戦乱でユダヤ人は奴隷としてトルコに売られていった。この大洪水時代によって、ポーランドは荒廃し、ポーランドのユダヤ人も致命的な打撃を受けて、17世紀後半にはポーランドのユダヤ人は銀行家の地位を追われ、1765年、ポーランド政府は、従来の集団単位の課税から人頭税に切り替え、ユダヤ人の組織「四邦議会」を廃止した。多くのユダヤ人が国外のハンガリーやルーマニアへ逃亡し、またポーランドのユダヤ難民を救済するための募金活動が各地のユダヤ社会で行われた。1768年、ポーランド領ウクライナでハイダマク(ハイダマキ運動)によるポグロムが発生した。

1648年、偽メシアのシャブタイ・ツヴィがトルコのスミルナに現れると、ヨーロッパ各地のラビは歓迎して、ユダヤ人は財産を売って、コンスタンティノープルへの船に乗ろうとしたほどであった。しかし、1666年、ツヴィはオスマン帝国において逮捕されイスラム教への改宗を選択した。なお、カバラー学者は1666年をメシア到来の時と解釈していた。

ウクライナのガリツィアのイスラエル・ベン・エリエゼル(バアル・シェム・トーブ)は、奇跡の治癒と悪魔祓いを行いながら、自然に聖なる花火として偏在する神の存在を説いて、ハシディズム運動を起こし、ポーランド、東ヨーロッパ各地に広まった。しかし伝統的なユダヤ教ラビはハシディズムを異端として排斥した。

ウクライナ・ロシア戦争 (1658年-1659年)の時、バシリ・ヴォシュトシロは、不実のユダヤ人が暴行、殺人、略奪を平気で犯し、キリスト教徒の女性を侵している、かくして「余は、キリスト教の聖なる信仰にたいする熱意に駆られ、数名の清廉の士を同士として、ユダヤの呪われた民を根絶やしにする決意を固めた」と宣告した。

1772年、第一次ポーランド分割前夜には、ポーランドの暴徒たちが、エカチュリナ大帝の皇帝勅書をふりかざし、全スラヴ的信仰を旗印として、ユダヤ人とポーランド領主に対する組織的な絶滅作戦を展開した。しかし、この皇帝勅書は、ロシア正教のメルヒセデブ神父が作成したとみられる偽の皇帝勅書であり、そこには、ポーランド人とユダヤ人が全スラヴ的信仰に対して軽侮しており、冒涜者たるポーランド人とユダヤ人を根絶やしにすることが目的であると書かれていた。

18世紀には、儀式殺人事件が多発した。リトアニアのラビであった改宗ユダヤ人のミハイル・ネオフィートはユダヤ教では儀式殺人が掟であり、自分はかつてキリスト教徒の子供を殺したと自白したが、このネオフィートの証言記録はポーランドやロシアで反ユダヤ主義の典拠となった。

ロシア

モンゴルのくびきから解放されたモスクワ大公国では、イヴァン3世(在位1462年 - 1505年)領土を四倍に拡大した時代にユダヤ人が移入した。

1470年頃、スハリヤという男がノヴゴロド公国でユダヤ教の優位を説教し、キリスト教聖職者もユダヤ教へ改宗したが、布教活動が公然と行われるようになると記録が途絶えた。スハリヤユダヤ教団はイエスはモーセと同じ位格であり、父なる神と同格ではないと主張したが、これは4世紀の東ローマ帝国アンキラのマルケロス派(Markellos of Ankyra)、フォティノス派(Photinus)の教えと同じであった。イヴァン4世治世下の1540年、教団の指導者は処刑された。この事件以降、モスクワ大公国では異邦人は特別居住区に住まわせられ、ユダヤ人隔離政策も行われた。

1550年、イワン雷帝は、ポーランド王からユダヤ商人のモスクワ入りの許可を求められると、毒薬を持ち込むユダヤ人を入国させることはできないと拒否した。

1698年、ロシア帝国のピョートル大帝は自由思想の持ち主であったが、アムステルダム市長からユダヤ商人のモスクワ滞在の許可を求められると時期尚早と断った。

エリザヴェータ皇帝は、ウクライナ、ロシアの全ユダヤ人を追放し、以後入国も禁止した。1743年に元老院がユダヤ商人の市場参加で国庫がいかに潤うかを報告しても、女帝はキリストの敵からの利益は不要であると認めなかった。

パーヴェル1世からポーランドのユダヤ人調査を命じられたガヴリ−ナ・デルジャーヴィンは、シナゴーグは迷信と反キリスト教的憎悪の巣、ユダヤ人自治機構カハルは危険な国家内国家、ユダヤ人は隣人の財産奪取を目的としていると報告した。

オーストリア・ハプスブルク帝国

神聖ローマ皇帝カール6世(在位:1711年 - 1740年)のウィーンではユダヤ人の人口増加を防ぐために、1726年の法で、正式に結婚できるのは長男だけとされた。この結婚制限法は、ボヘミア、モラビア、プロイセン、パラティナ、アルザスでも適用された。この結果、多くのユダヤ人若者がポーランドやハンガリーに流出した。

印刷術の発達によって、18世紀初頭には反ユダヤ的著作は毎年のように夥しい量が出版されるようになった。

ハイデルベルク大学の東洋学・ヘブライ学者アイゼンメンガーは1700年に『暴かれたユダヤ教』を著したが、オーストリア宮廷ユダヤ人のザームエル・オッペンハイマーによって発禁処分となり、アイゼンメンガーは無念のうちに4年後に死んだ。しかし、アイゼンメンガー死後まもなくして、プロイセン王フリードリヒ1世の後ろ盾を得て、遺族が再刊し、以後、ドイツの反ユダヤ主義の枕頭の書となった。

オーストリア継承戦争でユダヤ人がプロイセンのスパイとして活動したということから、1744年、オーストリア大公マリア・テレジアがボヘミアでユダヤ追放令を出した。しかし、ヴォルフ・ヴェルトハイマーがユダヤ人の国際連帯活動を行い、フランクフルト、アムステルダム、ロンドン、ヴェネツィアのユダヤ人居住地は警戒態勢を敷き、ローマのゲットーには教皇に働きかけるよう指示があり、宮廷ユダヤ人の国際ネットワークの力によって、イギリスとオランダがマリアテレジアへ抗議して、マリアテレジアは追放令を解除した。このウィーンでのユダヤ追放令が国家による大規模な追放政策としては最後のものとなった。

近代

啓蒙思想

ヴォルテール、カント、フィヒテなど啓蒙思想家のなかでも反ユダヤ主義は多くみられた。また、それはドイツの啓蒙思想、ドイツ観念論でも同様であった。

フランス啓蒙思想

1762年、ルソーは『エミール』で、ユダヤ人を「もっとも卑屈な民」と称し、ユダヤの神は怒り、嫉妬、復讐、不公平、憎悪、戦争、闘争、破壊、威嚇の神であり「はじめにただ一つの国民だけを選んで、そのほかの人類を追放するような神は、人間共通の父ではない」とした。

同じ1762年、ヴォルテールはユダヤ人のイザーク・ピントへの批判に対して「シボレットを発音できなかったからといって4万2千人の人間を殺したり、ミディアン人の女と寝たからといって2万4千人の人間を殺したり、といったことだけはなさらないでください」と「キリスト者ヴォルテール」と署名して答えた。1764年の『哲学辞典』ではヴォルテールは、ユダヤ人は「地上で最も憎むべき民」「もっとも忌まわしい迷信にもっとも悪辣な吝嗇を混ぜ合せた民」等と非難した。しかし、ヴォルテールは啓蒙主義の進展に寄与したため、当時のユダヤ人側から厳しい評価が寄せられなかった。

モンテスキューはオランダ人の一部の人以上にユダヤ的なユダヤ人はいないと旅行記で述べた。

無神論者ドルバックはユダヤ人は脆弱でみじめな存在であり、その熱狂的、非社交的な宗教と常軌を逸した法の犠牲者で、迷信的な無分別の結果であるとし、卑しく常軌を逸した迷信は愚鈍なヘブライ人や堕落したアジア人にまかせておけばいいと論じた。

ドイツ啓蒙思想とユダヤ人解放論

1776年、自由主義神学者のゼムラーは「無能にして不信心なユダヤ人」は「誠実なるギリシア人やローマ人とは比較の対象にすらならない」として、旧約聖書、とりわけエズラ書とネヘミヤ書にはキリスト教的精神が欠如しており、聖書として永遠に必要不可欠なものであるのかと問いかけた。

1779年、フランソワ・エルがアルザスのユダヤ人を「国家内国家」として非難した。「国家内国家」という表現はユグノーに対して使われたもので、1685年にはナントの勅令が廃止された。

啓蒙専制君主フリードリヒ2世は1740年の『反マキャベッリ論』で、モーセが「神感を受けていなければ、大極悪人、偽善者、ないし作者が困っているときに劇に大団円をもたらしてくれる機械仕掛けの神を用いる詩人のように、神を利用していた詐欺師としか」みなしえない「モーセはたいへん稚拙だったので、ユダヤ人を導くのに、六週間で非常に通れたはずの道に四十年もかかった。彼は、エジプト人たちの知識をほとんど利用しなかった。」「ユダヤ人の先導者は、ローマ帝国の建国者(ロムルス)、ペルシア帝国の大王、ギリシアの英雄たち(テセウス)よりも、はるかに劣っていた」と述べた。フリードリヒ2世はモーセ、キリスト、ムハンマドを詐欺師とする『三詐欺師論』などの無神論の影響を受けていた。ただし、フリードリヒ父王はユダヤ人が一般職業に就くことを禁止したが、フリードリヒ2世はユダヤ人取扱を改善しており、ロスバッハの戦勝記念(1757年)に際しモーゼス・メンデルスゾーンはユダヤ人保護法のもと建設されたベルリンのシナゴーグで、ユダヤ人解放を実現した国王として祝福した。

フリードリヒ2世は、1780年に『ドイツ文学論』 をフランス語で著述し、ドイツ文学の惨状の原因として戦争の影響があり、またドイツが政治的な統一国家を作れないこと、さらにドイツ語が多種の異なる方言をもつ未発達な言語であり統一言語がないことなどにあるとした。クラインは、フリードリヒ大王のプロイセンでは、言論の自由が保障されているが、服従が国家の核心にあったと述べ、またカントは日常の職務では自由を制約されると論じて、ハーマンはこれを批判した。

プロイセン王国枢密顧問官クリスティアン・コンラート・ヴィルヘルム・ドームは、エルのユダヤ人非難文書に刺激されて、メンデルスゾーンとともにユダヤ人の解放と信教の自由を訴え、1781年9月に『ユダヤ人の市民的改善について』を発表し、ユダヤ人が特別な許可がなくては結婚もできず、課税は重く、仕事や活動が制限されていることを批判した。ただし、ドームはユダヤ教の棄教を解放の条件とした。

ゲッティンゲンのルター派神学者・ヘブライ学者ヨハン・ダーフィト・ミヒャエーリスは、悪徳で不誠実な人間であるユダヤ人は背が低く、兵士としても役立たずで、国家公民になる能力を欠いており、さらにその信仰は誤った宗教であるのに、ドームは職業選択の自由だけでなくユダヤ人が固有の掟に従うことまでを許しているとして、ドームを批判して、ユダヤ人解放を拒否した。ミヒャエーリスは聖書と普遍史を批判したことでも高名だが、すべての言語が一つの言語、特にヘブライ語であったとは証明されていないとした。

1782年、オーストリアの神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世がボヘミアとオーストリアのユダヤ人の市民権を改善する寛容令を公布した。

ユダヤ人の工場経営者で哲学者であったモーゼス・メンデルスゾーンはユダヤ啓蒙運動を展開して、詩篇とモーセ五書をドイツ語に翻訳し、ユダヤ人子弟の教育では従来の律法重視を改めて世俗的な科目や職業訓練を訴えて、ユダヤ人のキリスト教社会への同化を進めた。1770年にはメンデルスゾーンは街路を歩くと罵声を浴びせかけられるのが日常であったため、外出しないようにしていた。1782年、メンデルスゾーンはメナセ・ベン・イスラエルの『イスラエルの希望』のドイツ語訳前書きで、国家が宗教への介入をやめるという政教分離原則を主張しながら、ユダヤ人社会の宗教的権威から独自の裁判権を放棄するよう求めた。

フランス革命と革命戦争の時代

1789年、フランス革命が勃発し、人権宣言が出された。フランス革命戦争(1792年-1802年)とそれに続くナポレオン戦争(1803年–1815年)で、オーストリア帝国、プロイセン王国がフランスに敗れ、神聖ローマ帝国が崩壊した。

フランス革命と反革命、ナポレオンの時代

フランスのアルザスでは、1784年、地方領主が徴収していたユダヤ人通行税が廃止され、同年7月にはユダヤ人への農地所有が認められた。これは外国人のユダヤ教徒の排除が目的であり、ユダヤ人の当地の人口を抑制するための政策であった。

1787年、メッスの王立学芸協会は「ユダヤ人をフランスでよりいっそう有益かつ幸福にする手段は存在するか」で論文を公募し、アンリ・グレゴワール神父とザルキント・ウルウィッツのユダヤ人擁護論が表彰された。グレゴワール神父は1789年ジャコバン派の三部会議員となり、ユダヤ人解放に尽力し、ウルウィッツは著書『ユダヤ人擁護論』を書いて、ミラボーに注目された。

ミラボー伯爵はドームとベルリンのサロンで親交して影響を受けて、フランス革命でユダヤ人解放を実現した。1791年1月28日、フランス革命中のフランスでは、イベリアから移住したポルトガル系ユダヤ人と、アヴィニョン教皇領のセファラディームの職業と居住地が保障された。反対者によって国民議会は分裂寸前となったが、1791年9月27日にユダヤ人解放令は議決し、11月に発効した。しかし、革命の動乱でユダヤ人が解放されることはなく、ユダヤ人の解放政策が進展したのはナポレオン時代以後のことであった。

フランスの覇権が拡大するなか、ドイツではドイツ至上主義・ゲルマン主義が台頭すると同時に、反フランス主義と反ユダヤ主義が高まっていった。ドイツの教養市民はゲーテを例外として、フランス革命を「理性の革命」として熱狂的に当初は歓迎したが、革命後の恐怖政治が現出すると革命を憎悪するようになった。詩人クロプシュトックはフランス革命を称えた数年後に「愚民の血の支配」「人類の大逆犯」としてフランスを糾弾した。当初革命を称賛したフリードリヒ・ゲンツは1790年にバークの『フランス革命の省察』をドイツ語に翻訳した。プロイセンではヴェルナー宗教令への反対者は「ジャコバン派(革命派)」として糾弾され、シュレージエンでは革命について語っただけで逮捕され。オーストリアでは外国人の入国が制限された。フランス以外の国が反革命国家となった要因としては、アルトワ伯などのフランスの亡命貴族たちの活躍があった。アルトワ伯はコーブレンツに亡命宮廷をひらき、ラインラントを拠点として反革命運動を策動した。

1791年6月、ルイ16世とマリー・アントワネット国王一家がフランスを逃亡しようとしたが、国境付近で逮捕されたヴァレンヌ事件が起きた。啓蒙君主であった神聖ローマ皇帝レオポルト2世は妹のマリー・アントワネットを危惧し、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世と共にピルニッツ宣言を行い、フランスに王権復旧を要求した。神聖ローマ帝国とプロイセンの反革命宣言はフランスへの挑発となって、1792年3月1日、フランスの好戦派はオーストリアに宣戦布告し、プロイセンもオーストリアの同盟国として参加して、革命戦争がはじまった。フランスの革命勢力は、外国の反革命勢力を倒し、また「自由の十字軍」として好戦的であり、ジロンド党のブリソは「戦争は自由をかためるために必要である」と演説した。革命側は短期決戦による勝利を期したが、軍の貴族将校の半数が亡命しており、フランス軍は敗退すると、革命派は国王一家がオーストリア・プロイセン軍と内通しているとみなして宮殿を襲撃して国王一家を幽閉する8月10日事件が起こった。また、反革命派1200人が虐殺される九月虐殺が起こった。9月、フランス国民軍はヴァルミーの戦いで傭兵を中心としたプロイセン軍に勝利して、フランスでナショナリズムが高揚した。この勝利によって、革命戦争が革命対反革命の戦争から、フランスの大陸制覇戦争へと性格を変えていった。

1793年1月にルイ16世が処刑されると、ドイツ側にイギリス、スペイン、イタリアなどの反革命諸国家が参加し、第一次対仏大同盟が形成された。フランスは1793年8月23日に国家総動員法を発令して徴兵制度を施行し、史上初の国民総動員体制をもって恐怖政治のもとに戦時下の非常処置がとられた。戦争はフランス軍に有利な情勢となり、1794年9月、フランス軍はオランダへ侵攻し、ネーデルラント連邦共和国は崩壊、1795年1月にはフランスの傀儡国(姉妹共和国)としてバタヴィア共和国が宣言された。バタヴィア共和国ではユダヤ人にも公民権を授与した。1794年から1795年にかけてウィーンでは「ドイツ・ジャコバン派」が処刑された。ゲオルク・フォルスターたちはマインツ共和国をつくったが、マインツがプロイセンとオーストリアの連合軍に占領され崩壊した。

1795年4月、フランスはプロイセンを破り、バーゼルの和約でプロイセンはフランス革命政府によるラインラント併合を承認して対仏連合から退き、ポーランド分割に関心を向けた。これによりオーストリアは単独でフランスと対峙した。1796年以来、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はオーストリア軍を連破し、1797年10月のカンポ・フォルミオ条約によって、フランスはイオニア諸島とネーデルラント、ライン川左岸地区を保有し、オーストリアはヴェネツィア共和国を領有した。これによって、対仏大同盟は崩れ、各地にフランスの衛星国がつくられた。

ナポレオンは征服した土地でナポレオン法典を施行してユダヤ人を「解放」していった。イタリア、ローマ教皇領、ライン地方のユダヤ人は市民権を授与された。他方、以前の身分制度に満足していたアムステルダムのセファルディは市民権を不必要としたがユダヤ共同体も分裂状態となっている。各地のユダヤ人はナポレオンを解放者として歓迎し、フランスはユダヤ人解放者としての名声を確立した。しかし、ナポレオンはユダヤ人はイナゴの大群のような臆病で卑屈な民族であるとして「ユダヤ人の解放はこれ以上他人に害悪を広めることができない状態に置いてやりたいだけだ」と述べ、ユダヤ人の非ユダヤ教化を望み、さらにユダヤ人とフランス人との婚姻を進めればユダヤ人の血も特殊な性質を失うはずだとユダヤ人種の抹消を目標としていた。なお、ナポレオンのユダヤ政策の作成過程では、好ましくない偏見があるので公文書から「ユダヤ人」名称を一掃することが提案されたこともあり、ドイツ諸邦では行政で「モーゼ人(Mosaiste)」が奨励されたが定着しなかった。

1798年、ロシア、トルコが参戦し、オーストリアも戦列に復帰して第二次対仏大同盟が結ばれ、1799年11月、ナポレオンがクーデターによって政権を握った。

ドイツ観念論

ドイツ観念論の哲学者イマヌエル・カントは、モーゼス・メンデルスゾーンなどユダヤ人哲学者と交流していたが著作では反ユダヤ主義的な見解を繰り返し述べており、『単なる理性の限界内での宗教』(1793年)で「ユダヤ教は全人類をその共同体から締め出し、自分たちだけがイェホヴァ−に選ばれた民だとして、他のすべての民を敵視したし、その見返りに他のいかなる民からも敵視されたのである」と述べ、また晩年の『実用的見地における人間学』(1798年)でも「パレスティナ人(ユダヤ人)は、追放以来身につけた高利貸し精神のせいで、彼らのほとんど大部分がそうなのだが、欺瞞的だという、根拠がなくもない世評を被ってきた」と書き、『諸学部の争い』ではユダヤ人がキリスト教を公に受け入れればユダヤ教とキリスト教の区別が消滅し、ユダヤ教は安楽死できると述べている。カントは、啓蒙思想によるユダヤ人解放を唱えながら、儀礼に拘束されたモーセ教(ユダヤ教)を拒否した。他方のモーゼス・メンデルスゾーンはラファータ−論争でキリスト教への改宗を断じて拒否した。また、カントは、フランス革命を賛美しつつも、教会や圧政などの「外界からの自由」というフランス革命の自由観を批判して、自律的な自己決定という概念によって、外界の影響に左右されない「完全な自由」観を生み出した。カントは、人間は外なる世界ではなく、自己の内なる世界、自律的な精神の中の道徳律に従うときに自由であると論じたが、このようなカントの哲学が政治に適用されると、自律性と自己決定をもって道徳に従う政治がよい政治とされ、自決権の獲得が政治目標となる。こうしたカントの思想はフィヒテによって継承された。

当初、フランス革命の熱心な支持者であったドイツの哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテは「フランス革命についての大衆の判断を正すための寄与」(1793年)で革命を理論的に根拠づけるとともに、ユダヤ人がドイツにもたらす害について述べた。フィヒテは「ユダヤ人から身を守るには、彼等のために約束の地を手に入れてやり、全員をそこに送り込むしかない」「ユダヤ人がこんなに恐ろしいのは、一つの孤立し固く結束した国家を形作っているからではなくて、この国家が人類全体への憎しみを担って作られているからだ」とし、ユダヤ人に市民権を与えるにしても彼らの頭を切り取り、ユダヤ的観念の入ってない別の頭を付け替えることを唯一絶対の条件とした。フィヒテは、世界は有機的な全体であり、その部分はその他の全ての存在がなければ存在できないとされ、個人の自由は全体の中の部分であり、個人より高いレベルの存在である国家は個人に優先すると論じて、個人は国家と一体になっ たときに初めてその自由を実現すると、主張した。このようなフィヒテの国家観はシェリング、ミューラー、シュライエルマッハーによって支持され、他方20世紀初期のシオニストもフィヒテを国民としての強い自覚によって道徳性を高める思想の先駆者とみなし、反シオニストのユダヤ系哲学者ヘルマン・コーエンもフィヒテは国民が全体の自由に奉仕するという旧約聖書の理想を認めたと称賛した。

フィヒテと同じく当時はまだフランス革命の熱心な支持者であったフリードリヒ・シュレーゲルは「共和主義の概念にかんする試論」(1793年)で民主的な「世界共和国」を論じて、革命的民主主義に疑念を呈したカントの『永遠平和のために』(1795年)を乗り越えようとしたが、シュレーゲルもナポレオン時代にはドイツ国民意識を鼓舞する役割を果たした。

1799年、自由主義神学者ゼムラーの弟子シュライアマハーは宗教論第5講話で、ユダヤ教は聖典が簡潔し、エホバとその民との対話が終わったときに死んだと述べた。また1804年、国家は道徳的権威であり祖国は生きることに最高の意味を与えてくれると論じた。

ヘーゲルはユダヤ人解放を支持した。しかし、『宗教哲学講義』でユダヤ人の奴隷的意識と排他性について論じ、『精神現象学』(1807年)でユダヤ人は「見さげられつくした民族であり、またそういう民族であった」、1821年の『法の哲学』ではイスラエル民族は自己内へ押し込められ無限の苦痛にあるのに対して、ゲルマン民族は客観的真理と自由を宥和させるとした。『キリスト教の精神とその運命』ではユダヤ人は「自分の神々によって遂には見捨てられ、自分の信仰において粉々に砕かれなければならなかった」「無限な精神は牢獄に等しいユダヤ人の心の中には住めない」と批判した。さらにヘーゲルは、ニグロはあらゆる野蛮性を持った自然人であり、その性格の中に人間を思い起こさせるものは何もないとした。ヘーゲルによれば、世界史はアジアに始まり、ヨーロッパに終わるが、アフリカは世界史の外にとどまる。東洋ではひとりだけが自由であり、ギリシア・ローマ世界は幾人かが自由であるのに対して、ゲルマン世界ではすべての者が自由であるとした。ゲルマン民族は純粋な内在性を持ったため精神が解放された。しかし、ラテン民族は分裂を保持していたため魂という精神の全体性がないため、自己の最も深いところで自己にとって外的存在なのであるとした。またヘーゲルは若い頃の未刊論文で「キリスト教はヴァルハラをさびれさせてしまい、神聖は小森を伐採し、民衆の空想を恥ずべき迷信、悪魔的な毒として窒息させた」と書いた。

哲学者シェリングは白人種は最も高貴な人種であり「ヤペテの、プロメテウスの、コーカサスの人種の祖先のみが、その行為によって観念(イデー)の世界の中に入り込むことできる唯一の人間である」とし、他の人種は奴隷になるか絶滅する運命にあると論じた。また、ユダヤ人は民族をなさず、純粋な人類の代表であり、他の者よりも観念の世界に近づくことができるとした。

哲学者ショーペンハウアーは白人種と新約聖書の起源はインドであるとし「インドの知恵から出たキリスト教の教義は、粗雑なユダヤ教というまったく異質な古い幹をおおった」「人類は、アダムにおいて誤りを犯し、その時以来罪、堕落、苦悩、死の絆の中に捕らえられていたが、救世主によって罪をあがなわれた。これがキリスト教や仏教の見方である。世界はもはや『すべては良い』としていたユダヤの楽観主義の光の中に現れることはない」と述べた。ショーペンハウアーにとって、シナゴーグも哲学の講堂も本質的に大差はないが、ユダヤ人はヘーゲル派よりも質が悪いと考えていた。ショーペンハウアーは「ユダヤ人は彼らの神の選ばれた民であり、神はその民の神である。そしてそれは、別にほかのだれにも関係のないことである」と述べている。またショーペンハウアーは、西欧はユダヤの悪臭によって窒息させられており、ユダヤ思想の影響を呪い「いつかヨーロッパがあらゆるユダヤ神話から純化される。おそらくアジア起源のヤペテ系の人びとが彼らの生地の聖なる宗教を再び見出す世紀が近づいている」と述べた。ショーペンハウアーはアーリア主義とセム主義の二元的な対照をドイツで普及させた。

ナポレオン戦争と神聖ローマ帝国の崩壊

1800年、ナポレオンがマレンゴの戦いやホーエンリンデンの戦いでオーストリア軍を撃破し、1801年のリュネヴィルの和約で神聖ローマ帝国はライン川西岸のラインラントを喪失した。講和後に作家シラーはドイツ帝国とドイツ国民は別であり「ドイツ帝国が滅びようと、ドイツの尊厳がおかされることはない」と述べた。

1803年2月25日の帝国代表者会議主要決議により、帝国騎士領は全て取り潰され、聖界諸侯ではマインツ選帝侯のみレーゲンスブルクに所領を得たが、ケルン、トリーアの聖界諸侯は消滅した。アウクスブルク、ニュルンベルク、フランクフルト・アム・マイン、ブレーメン、ハンブルクおよびリューベックの6都市と、ライン左岸4都市をのぞく41の帝国自由都市が陪臣化された。ナポレオンは西南ドイツを自立させて、プロイセンとオーストリアに対する政策をとった。バーデン、ヴュルテンベルク、バイエルンなど西南ドイツ諸国は、失ったライン左岸の補償として領地を拡大することとなった。

1803年、イギリスとフランスは再び開戦し、ナポレオン戦争(1803年–1815年)がはじまる。イギリスは、オーストリア帝国、ロシアなどと第三次対仏大同盟を結成した。

1804年、ナポレオンがフランス皇帝を称したのに対してフランツ2世はオーストリア皇帝を称した(オーストリア帝国)。この1804年、オーストリア帝国外相メッテルニヒの秘書官を務めたフリードリヒ・フォン・ゲンツ(Friedrich von Gentz,1764-1832)は、ユダヤ人サロンの常連であったが「近代世界のすべての害悪が最終的にすべてユダヤ人に起因している」と書簡で本音を述べた。ゲンツは、フランス革命が起きた時には「理性の革命」であり「哲学の最初の勝利」として熱狂的に歓迎したが、やがて反革命の騎手となっていた。

1805年からの第三次対仏大同盟戦争で、フランス軍は1805年10月のウルム戦役でオーストリアを降伏させ、12月アウステルリッツの戦い(三帝会戦)でオーストリア・ロシア連合軍に勝利した。プレスブルクの和約でドイツは「帝国」ではなく「連盟」と呼ばれ、皇帝は「ローマ=ドイツ皇帝」でなく「「ローマ=オーストリア皇帝」を名乗り、また、フランスの同盟国であったバイエルンとヴュルテンベルクとバーデンは選帝侯国から王国・大公国に昇格し、バイエルン王国にはオーストリア領チロル、バーデン大公国にブライスガウが割譲された。

1806年7月12日、バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンなど西南ドイツの16領邦諸国家はナポレオンを保護者とするライン同盟(ラインブント)を結成し、帝国脱退を宣言した。1806年10月、フランツ2世はオーストリア皇帝の称号は保持したまま、神聖ローマ皇帝としての退位を宣言し、こうして1512年以来の「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」は終焉を迎えた。この頃のドイツは大半がフランスの支配下にあり、マインツ、ケルン、トリーアなどのライン左岸地域は1794年以来フランス軍政下にあり、1801年にフランスに割譲された。ナポレオンはライン同盟をプロイセンやオーストリアに対する緩衝地帯として、またフランスはライン同盟と軍事援助協定を結んで、ライン同盟からの軍事協力を確保した。ライン同盟はその後、ナポレオンの傀儡国家であるヴェストファーレン王国、ザクセン王国など39のドイツ連邦が加盟した。

フランス占領下のドイツとその解放

1806年にプロイセンが、そして1807年にプロイセンの同盟国ロシアがフランスに敗北した。ティルジットの和約によってプロイセンは、エルベ川以西の領土とポーランドを失い、国の面積は半分以下となり、巨額の賠償金を課せられたうえに、15万のフランス軍が進駐した。プロイセン旧領の北西諸邦にはナポレオンの弟ジェロームを王とするヴェストファーレン王国が置かれた。

1807年にプロイセンがフランスに敗北するとオーストリアは独力で模索することとなり、1808年には一般兵役義務制度が導入され、正規軍とならんで民兵制が施行された。オーストリア外相シュターディオン伯爵は国内で愛国主義キャンペーンを実施して、バークの『フランス革命についての省察』を翻訳していた政論家ゲンツや、フリードリヒ・シュレーゲルもこのキャンペーンに協力した。しかし1809年、オーストリアはフランスに敗れ、シェーンブルンの和約でオーストリアはザルツブルク、ガリツィア、チロルを放棄し、巨額の賠償金を課せられた。

ナポレオン占領地域では、反フランス的報道は厳しく弾圧され、バーデンでは1810年に新聞発行が停止され、プロイセンでは検閲局が作られ、ラインラント新聞はフランス語との2言語表記が義務づけられた。ニュルンベルクの書店主パルムは『奈落の底にあるドイツ』 というビラを配ったために1806年に銃殺された。ナポレオンにライン左岸を奪われ、神聖ローマ帝国が解体し、40のドイツ領邦が支配され、新聞や出版の統制が進むと、ドイツ人は自分たちの弱さを自覚し、失望が広がるとともに、反ナポレオン運動はドイツ国家とドイツ民族を復古させるドイツ国民運動となっていった。

他方、戦勝国のフランスでは、1807年にユダヤ陰謀説が取沙汰されるようになり、その後、フリーメイソン陰謀説と交代して取沙汰されていき、これが19世紀以降の反ユダヤ主義の潮流と合流していった。

プロイセンでは1810年から宰相ハルデンベルク指導のもと、改革が進められた。ハルデンベルクは「リガ覚書」で「不死鳥よ、灰の中からよみがえれ」と書き、君主政治における民主的原則の実現が目指された。プロイセン改革では、フランス革命の刺激を積極的に受け止められ、自由と平等が主張されたが「フランス革命の血まみれの怪物どもがその犯罪の隠れみのした『自由と平等』」ではなく、君主国の賢明な方法によると説かれた。

ユダヤ教徒の「解放」と改宗

1812年にプロイセン王国がユダヤ教徒解放勅令を出す。前年の1811年にハルデンベルクの改革でユダヤ人の土地所有権が認められると、プロイセン王国の貴族は、国家の敵であるユダヤ人はやがて国の土地を買い占め、プロイセンはユダヤ人国家になってしまうと抗議した。法学者サヴィニーは1815年にユダヤ人解放令を批判して、従来のユダヤ人例外措置を復活して、ユダヤ人をゲットーに再送するべきだと主張した。

ゲーテもユダヤ人解放はドイツ人の家庭の倫理を台無しにすると批判し、ユダヤ人解放の背後にロスチャイルド家を見ていた。またゲーテは1811年に刊行した『詩と真実』において、フランクフルトのユダヤ人ゲットーに対して「少年時代だけでなく青年になっても、私の心を重くした無気味なもの」として「狭くて、不潔で、騒がしく、いやらしい言葉のアクセント、 それらが一つになって、市門のそばを通りすがりにのぞいて見るだけで、 なんともいえず不快な印象をあたえられた」と書いたが、ユダヤなまりのドイツ語を学習してもいる。1829年に刊行した『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』でゲーテは「人間は避くべからざるものに順応するがよい」として、キリスト教はそれを助勢して忍耐「つまり、たとい願わしい享楽のかわりに最も厭わしい苦悩が負わされるにしても、存在がなおどんなに貴い賜ものであるかを感じる甘美な感情」を生み出し、教育によって幼い時からキリスト教の長所を教え、最後に知識を与えて、始祖イエスに関する報道は神聖なものとなるが「この意味で、われわれはいかなるユダヤ人をもわれわれの仲間に許容しない。」「なぜなら、ユダヤ人がこの至高の文化の起源と由来を否認しているのに、どうしてわれわれはユダヤ人がこの至高の文化に関与することを許せるだろうか」と書いている。

ドイツでのユダヤ人解放は、ユダヤ人のドイツ人への同化とキリスト教への改宗を前提にしており、1822年に創立された「ユダヤ人・キリスト教普及協会」などが改宗を後押しした。

ユダヤ人解放の時代のドイツのユダヤ人は、理性を使えば誰でも人間性を高めることができるとする啓蒙思想と、ドイツ社会に融和しようとドイツのビルドゥング(教養による人間形成)を新しい信仰心として受けいれた。進取的ユダヤ人のうち3万人はキリスト教社会に同化するために率先してキリスト教へ改宗した。ベルネやハイネはドイツ人名に改名して改宗し、ユダヤ人法学者エドゥアルト・ガンスや作曲家フェリックス・メンデルスゾーンも改宗した。しかし、多くのユダヤ人はドイツの神話や感情の世界を退けがちであったためユダヤ人はドイツの民衆から孤立していった。

ロマン派とゲルマン主義

ドイツ・ロマン主義ではフランスの啓蒙主義に対抗して、ドイツ固有の国民文学の創造が主張された。1799年の『キリスト教世界あるいはヨーロッパ』でフランス革命は神聖なるものを根こそぎにしたと考えたノヴァーリス、ヘルダーリンにも「選民としてのドイツ人」という概念が見られた。

フィヒテの思想的影響を受けた作家エルンスト・モーリツ・アルントは農奴制廃絶運動を行った後、1806年の著書『時代の精神』や1813年の歌「ドイツの祖国とは何か」などで、ナポレオンのドイツ支配を批判した。アルントはナポレオン批判のなかで、ゲルマン人種が選民であると論じ、自由で誠実なゲルマン人の血の純粋さの根拠として、タキトゥスや創世記を引き合いに出して、主の怒りである大洪水は雑種化に対するものであったとする。ただし、アルントはドイツ人種への脅威としては主に「フランス人種」を見ており、ユダヤ人に対しては、ユダヤ系ポーランド人のドイツ受け入れには反対したものの、ユダヤ人は改宗すれば消滅すると考えていた。アルントの「ゲルマン人の血」の思想は、ハインリヒ・フォン・クライスト、ケルナー、愛国詩人のマックス・フォン・シェンケンドルフ(Max von Schenkendorf)と並んでドイツ国民に武器を取るよう促したが、他方のフランスでも革命後の国歌「ラ・マルセイエーズ」の歌詞では「汚れた血」についてあるなど、民族の血を優劣でみることに両国で違いはなかった。ナポレオン戦争での敗北がドイツ人にとって屈辱的であったことから、ゲルマン性への狂信が教科書でも載せられるようになっていった。教育家コールラウシュの教科書「ドイツ史」(1816年)ではドイツ人の純潔性が、ユダヤ人、ギリシア人、ラテン人とは好対照をなすとされた。

政治経済学者のアダム・ミュラーはエドマンド・バークをタキトゥスと並べて賞賛し、またノヴァーリスはゲルマン詩の精神によって世界を征服しようとしたと称賛して、宗教改革とフランス革命によって崩壊していく中世的ゲルマン的な世界と中世の普遍的な団体「ゲマインデ」を賛美した。ミュラーは「いつの日か、ヨーロッパ諸民族からなる一大連邦が築かれるであろうが、その色調はなおドイツ的なものとなるであろう」と予言して、ヨーロッパの政体の偉大なものはすべてドイツに由来すると主張した。アダム・ミュラーはナポレオン支配に対してドイツ民衆の抵抗運動(ヘルマンの戦い)を呼びかけ、またハルデンベルクの改革を批判した。ミュラーは1811年にウィーンに亡命して、メッテルニヒに仕えた。

1806年から1815年にかけて、作家のブレンターノ、アルニム、『ドイツ民衆本』を刊行したヨハン・フォン・ゲレス、グリム兄弟たちが寄り集まったハイデルベルクでドイツ民族主義の「ドイツの火」が点火された。アルニムとブレンターノはドイツの民謡をあつめて『少年の魔法の角笛』(1806-8)を出版した。ゲレスは『ドイツの没落とその再生の条件』(1810年)で、かつてのユダヤ王国のようにドイツは現在の聖なる土地であるとした。グリム兄弟は民話を蒐集し、『子供と家庭のための童話』(1812-1822)、『ドイツの伝説』(1816 -18)を出版し、『ドイツ語辞典』(1852)ではユダヤ人を「利得ずくで、暴利を貪り、不潔である」と解説した。ヤーコプ・グリムは1835年に『ドイツ神話学』を刊行し、ワーグナーにも影響を与え、また1848年革命でのドイツ憲法動議では、ドイツ憲法はドイツフォルクの信条でなくてはならないと述べた。

1807年12月から翌1808年にかけてフランス軍占領下のベルリン学士院講堂において、哲学者フィヒテは『ドイツ国民に告ぐ』を連続講演し、フランス文化に対するドイツ国民文化の優秀さを説き、また、ドイツ国民の統一、ドイツ人の内的自由、商業上の独立を主張し、ドイツ国民精神を発揚しドイツ解放戦争を準備する力となった。フィヒテはすでに、個人は、個人より高い存在である国家と一体化することによって自由を実現すると論じていたが、『ドイツ国民に告ぐ』では、民族・国民(ネーション)に個人が没入することによって自由を達成すると論じられ、唯一正統な統治形態は国民による自治であると主張した。ドイツでは出版の自由が著しく制限されていたが、フィヒテの講演やシュライエルマッハーの説教は口コミで反響が広がった。

1808年、ベルリンでクライストが『ヘルマンの戦い』を書き、ナポレオンへの憎悪とドイツ民族の蜂起を託し、ドイツの解放戦争が期待された。

進歩主義的な教育者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンはアルント、フィヒテ、シュライアーマッハーとならんでドイツ国民運動の有名な組織者であった。ヤーンは1810年に秘密結社ドイツ同盟(Deutscher Bund)を結成しドイツ全域にわたる愛国組織の模範となり、またトゥルネンというドイツ国民体育を始めた。ヤーンは、1810年に著わした『ドイツの国民性』で、ドイツの国民性に基づいた全人教育をめざして体育を提唱するなかで「混血の民は国民再生産の力を失う」として、フランスの影響力を排除する国民革命を目指して、ドイツ語からの外国起源の人名の抹消、民族衣装の着用などの民族浄化を訴え、原始ゲルマン人の末裔であるドイツ人と古代ギリシア人だけが聖なる民であると論じた。ヤーンに先立って教育学者ヨハン・クリストフ・グーツ・ムーツが1793年にルソーの影響下に執筆した『青少年のための体育』において原始ゲルマン人の身体を理想的な目標として称賛した。ヤーンは「ドイツを救うことができるのはドイツ人のみである。異邦の救い主はドイツ人を破滅に導くことしかできない」とした。

1813年、言語学者でプロイセン政府大使であったフンボルトは「ドイツはひとつの国民、ひとつの民族、ひとつの国家である」と断言し、ドイツは自由で強力でなければならない「ただ外にむかって強力な国民のみが、すべての内的聖化がそこから流れ出る精神を内に蔵することができる」と宣明した。

解放戦争

フランスの支配下にあったプロイセンでは反ナポレオン感情が保持され、ドイツ解放戦争(ナポレオン戦争)となった。1812年、ナポレオンは60万の大陸軍を率いてロシア遠征を開始した。ナポレオン軍の3分の1は、ライン同盟諸邦、プロイセン、オーストリアなどのドイツ人であった。ドイツ軍のなかではナポレオン側に立つことを潔しとせずに寝返る者もおり、『戦争論』で知られるプロイセン将校クラウゼヴィッツはロシア軍へ身を投じた。1812年12月30日、プロイセン将校ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク(ヨルク)将軍は、国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世の同意を待たずに専断して、ロシア軍とタウロッゲン協定を結んで部隊を中立化し、ナポレオン軍から離脱した。

プロイセンとロシアが停戦すると、ヨルク軍が入った東プロイセンから北ドイツ諸邦でフランスの支配への蜂起に繋がっていき、プロイセン王国の元首相でロシア帝国の皇帝顧問カール・シュタインがロシアを説得して1813年2月27日にプロイセンとロシアが同盟した。プロイセンでは一般兵役義務が布告され、国軍と義勇軍が組織された。3月16日に、フランスへ宣戦が布告され、翌日プロイセンでは国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世が「わが国民へ」で祖国解放のための国民の決起が訴えられた。3月25日のカーリッシュ宣言では、ライン同盟の解散が宣言され「ドイツ国民の本源的精神からうまれる、若返った、強力な、統一されたドイツ帝国」の再興が約束された。ドイツ解放戦争の中心にいたのはシュタインであり「祖国はただひとつドイツ」とするシュタインはライン同盟諸君主を軽蔑し憎悪し、ライン同盟諸国家の主権剥奪を計画した。愛国記者アルントはシュタインとともにして、フランスの殲滅を鼓吹し、戦死した詩人ケルナーはドイツの聖戦を歌った。そして、学生、手工業者、農民の若者たちが、身銭を切って武装し、志願兵団や義勇兵団に身を投じ、反ナポレオン感情がこれまでになく高まった。ドイツ解放戦争で教育者フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンは1813年、リュッツォウ少佐と抗仏組織リュツォー義勇団を創設し、体操など体育教育を普及させ「体操の父」としてドイツの国民的英雄となった。ヤーンの傘下には学生結社ブルシェンシャフトもあった。ただし、リュツォー義勇団にはユダヤ人の参加者もおり、ユダヤ人を排斥していたわけではない。

1813年6月にイギリスが、7月にスウェーデンのベルナドットがプロイセンとロシアの同盟に参加し、8月11日、オーストリアもフランスへ宣戦して、第六次対仏大同盟が成立した。10月の最大規模の戦闘ライプツィヒの戦い(諸国民の戦い)で、36万の対仏連合軍はグナイゼナウの指揮下、19万のフランス軍を破った。メッテルニヒはライン川で講和しようとしたが、アルントはライン川はドイツの川で、国境ではないと論じ、ゲレスも反ナポレオンの論陣を張った。1814年にメットラーカンプと共同してハンブルク市民軍を創設したフリードリヒ・クリストフ・ペルテス(Friedrich Christoph Perthes) はゲレスへの手紙で「ドイツ人は選ばれた民、人類を代表する民である」と述べた。対仏連合軍は1814年3月30日にパリへ入城し、ナポレオンはエルバ島に流され、こうしてナポレオンのドイツ支配は打倒された。

ウィーン体制(1815-1848)の時代

ナポレオンの敗北以降のウィーン会議(1814-1815年)では1792年以前への復帰と勢力均衡が原則とされた。また各地のナポレオン法典は無効とされ、ユダヤ人政策は各国家の自由裁量となった。

ウィーン会議以降の国際秩序をウィーン体制と呼び、1848年革命に崩壊するまでの時代を指す。ナポレオン戦争に勝利したオーストリア、ロシア、プロイセンの復古勢力は革命の再発を防ぐために、1815年にキリスト教的友愛による平和を提唱する神聖同盟を締結、オーストリアの宰相メッテルニヒが主導して1818年にイギリスと敗戦国フランスを加えた五国同盟を締結してウィーン体制を確立した。五国はドイツの自由主義運動を弾圧した。

スペインではナポレオン軍の敗北によりジョゼフ・ボナパルトは追放され、スペイン・ブルボン復古王政のフェルナンド7世が復位した。これに対して自由主義者リエゴがスペイン立憲革命を起こし、イタリアでもカルボナリ党がスペインを模倣してナポリ・ピエモンテで蜂起したが、革命の波及を恐れた五国同盟によって両者は鎮圧された。

他方で、イスパノアメリカ独立戦争(1808-33)などを通じてラテンアメリカ諸国が相次いでスペイン帝国からの独立を果たし、スペインは中南米植民地を失っていった(ラテンアメリカの独立)。さらに1821年からオスマン帝国よりの独立を目指したギリシャ独立戦争が始まり、これをめぐる諸国の利害衝突によりウィーン体制は揺らいだ。当初ウィーン体制は正統主義を主張してギリシャの独立を否定していたが、ロシアが正教会弾圧を理由に介入を開始し、さらにイギリスとフランスが介入、ナヴァリノの海戦や露土戦争で連合軍に敗北したオスマン帝国は1832年ギリシャ独立を認めた。列強はバイエルン王子オットーをギリシャ王オソン1世とするギリシャ王国を樹立した。

一方、1830年のフランス7月革命に対抗してロシア、オーストリア、プロイセンが1832年10月に旧秩序維持を再確認したが、革命干渉を忌避したイギリスとフランスが真摯協商を結んだことでウィーン体制は分裂し、各国の1848年革命によって崩壊した。

ドイツ

愛国学生運動(ブルシェンシャフト)と自由主義

ウィーン会議で承認されたウィーン議定書によって出現したウィーン体制により、オーストリア帝国主導でかつての神聖ローマ帝国の領域にほぼ合致したドイツ連邦(Deutscher Bund)が成立した。しかし、ドイツ連邦はかつての神聖ローマ帝国の再興とはいいがたく、ナポレオン統治下の陪臣化で消滅した群小諸邦の君侯は復位できなかった。また、ドイツ国民にとっての新体制ドイツ連邦は、従来の領邦国家体制と変わらず、対ナポレオン戦争=ドイツ解放戦争で一体となって戦い、国民的な国家を期待していたドイツ国民は失望した。ライン川西岸一帯のラインラントはプロイセン王国に割譲され、また、プロイセンはオーストリア主導に反発を強めた。ウィーン体制は1848年革命で崩壊した。

エルンスト・アルントの発案で1814年10月に諸国民戦争(ライプツィヒの戦い)1周年記念式典が催され、最初のドイツ国民祝祭となった。式ではユダヤ人も参加した。

ドイツ解放戦争に志願兵として参加した学生たちはドイツ国民の統一国家を期待していたが、ウィーン体制ではドイツの君主国諸国家への分裂を固定化されたため、祖国の現状に不満を抱いて、学生結社ブルシェンシャフト運動を展開した。1815年に結成されたブルシェンシャフト主流派のイエナ大学の結社は愛国心の涵養と心身練磨をはかり、ギーセン大学のカール・フォレンはドイツに自由で平等な共和国を目指した。

1816年、新カント派で自由主義の哲学者ヤーコプ・フリースは『ユダヤ人を通じてもたらされるドイツ人の富ならびに国民性の危機について』において「ユダヤ人のカーストを根こそぎ絶滅に追いやること」を訴えた。

1817年10月18日、ルターが新約聖書をドイツ語に翻訳したアイゼナハのヴァルトブルク城で、宗教改革300周年のヴァルトブルク祭が学生結社ブルシェンシャフトによって開催された。ヴァルトブルク祭には全ドイツから460人以上のブルシェンシャフトの学生運動家が結集し、祖国ドイツへの愛と、ドイツ統一とドイツの自由と正義とが高唱された。教育者でドイツ国民運動家のヤーンは、哲学者ヤーコプ・フリースとともにこのヴァルトブルク祭の立役者であった。祭典にはフリース、医学者キーザー、科学者オーケン、法学者シュバイツァーが来賓として参列した。フリースの門下生レーディガーは「祖国のために血を流すことのできる者は,どうすれば最もよく平和のときに祖国に尽くすかについても語ることができるのだ。こうして我々は自由な空のもとに立ち,真理と正義を声高に口にする。何となればもはやドイツ人が狡猜な密偵や暴君の首切り斧をおそれることなく,またドイツ人が聖なるものと真理を語るときに誰も気兼ねする必要のない、そんな時代が有難いことにやって来たのだ。......我々はすべての学問が祖国に仕えるべきであり,同時にまた人類の生活に仕えるべきであるということを決して忘れまい」と演説し、この演説は国務大臣で文豪のゲーテも称賛した。この祭典では、反ドイツ的とされた書物が焚書され、ユダヤ系作家ザウル・アシャーの『ゲルマン狂』も焼かれ、後年のナチス・ドイツの焚書の先駆けともなった。こうしてドイツの大学を温床として、人種差別的な汎ゲルマン主義が生まれていった。メッテルニヒはこうした過激化した学生運動に警戒を強めた。

メッテルニヒによる学生運動の弾圧

1819年3月には、ブルシェンシャフトの自由主義と愛国思想を雑誌で揶揄していた作家アウグスト・フォン・コツェブー(August von Kotzebue)が、ロシアのスパイとして過激派の学生に暗殺された。この事件以後、メッテルニヒは1819年9月20日のカールスバート決議で学生運動と自由主義運動の弾圧を決定し、出版法による検閲制度、大学法、捜査法などによる革命運動の取締りをドイツ連邦全土で強化した。マインツには革命的陰謀や煽動的結社運動を監視する委員会が置かれた。フリースやアルントやヴェルガ−兄弟など著名な教授は大学から追放され、ヤーンは大逆罪で幽囚され、シュタインやグナイゼナウら改革派も政界から追放された。1848年の3月革命まで出版は制限され、新聞や雑誌の発行部数は激減したが、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになった。また急進派は地下に潜り、1833年4月にはフランクフルトで衛生兵襲撃事件が起こった。

飢饉と食料危機を契機として1819年8月から10月にかけて、プロイセン以外のヴュルツブルクなど全ドイツの各州、ボヘミア、アルザス、オランダ、デンマークで反ユダヤ暴動が発生し、ユダヤ人が暴行を受け、シナゴーグや住宅は略奪された。暴動では1096年に十字軍兵士が叫んでいたとされる「ヒエロソリマ・エスト・ペルディータ(Hierosolyma Est Perdita)」(エルサレムは滅んだ)という言葉に因んで「Hep! Hep!」という合言葉が使われたため「ヘップヘップ暴動」もいう。この暴動で、アメリカ合衆国へのユダヤ人移住が活発になった。ユダヤ教徒でサロン主催者のラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネは暴動の責任は作家アルニムやブレンターノ一派にあると見た。

1819年11月からの連邦議会でメッテルニヒはドイツ連邦は自由都市をのぞいて君主国であり、各邦はドイツ連邦国元首のもとに統轄されるというウィーン最終規約を定めた(1820年5月15日発効)。ドイツ各邦を連邦政府の監視下におく君主制原理が貫徹された。

1819年、フント・ラドヴスキは、16世紀の改宗ユダヤ人プフェファーコルンと同題の『ユーデンシュピーゲル(ユダヤの鑑)』を刊行し、ユダヤ男は去勢し、ユダヤ女は売春婦になれと主張した。『ユダヤの鑑』という同題の著作は、1862年にヴィルヘルム・マル、1883年にルーマニア出身の改宗ユダヤ人ブリマン、1884年にプラハ大学教授アウグスト・ローリング神父、1921年にドイツ民族防衛同盟員の詩人フィッシャー=フリーゼンハウゼンが出版した。

1820年、作家アヒム・フォン・アルニムは小説「世襲領主」で、世襲領主が零落するなか、路地から這い出てきた強欲なユダヤ人を描いた。アルニムは義兄のクレメンス・ブレンターノとともに、ベルリンで「ドイツキリスト教晩餐会」を開催し、ユダヤ人は改宗者であっても入会禁止とした。

1820年、オスマン帝国からの独立を目指してギリシアが独立戦争をはじめた。ギリシアでは、フランス革命やドイツロマン主義の影響でナショナリズムが台頭していた。当初ウィーン体制下のヨーロッパ諸国は正統主義によってオスマン帝国を支持したが、ロシアがロシア正教を攻撃したオスマン帝国へ国交断絶を通告し、1828年にロシアは露土戦争を始めた。ロシアの影響拡大を恐れたイギリスやフランスも介入して、1830年にロンドン議定書でギリシアの独立が承認された。

1823年にはベルリンのユダヤ人の半数がキリスト教に改宗した。

1824年、バイエルン王国皇太子ルートヴィヒ1世はドイツの偉人を祀ったヴァルハラ神殿を建設した。ヴァルハラ神殿にはドイツ2000年の歴史を示す偉人、例えばローマ帝国によるゲルマニア征服を阻止したアルミニウスから、西ゴート族の王アラリック1世、フランク王国の王クローヴィス1世、ベートーヴェンなどの銘板や胸像が収められている。

1820年代後半以降には、出版に代わって祝典や集会が盛んに行われるようになり、デューラー300年記念祭(1829)、ハンバッハ祭(1832)、グーテンベルク祭(1837、1840)、シラー記念祭(1839 )、ドイツ合唱祭(1845)などが開催され、政府による取締を逃れてドイツ民族の英雄が称賛され、ドイツ統一と国民連帯を要求することができた。また1841年からは記念碑が作られる運動が高まり、ジャン・パウル、モーツァルト、ボニファティウス、バッハ、ゲーテなどの記念碑が作られていった。

1830年と1834年にもドイツで反ユダヤ暴動が発生した。

民族の祭典:ハンバッハ祭とドイツ国民運動

1818年に公布されたバイエルン憲法では出版の自由も明記されるなど、ナポレオン法典で認められていた権利が保証されていたが、1830年のフランス7月革命以降、バイエルン王国政府は検閲を強化した。ジャーナリストのヤコブ・ジーベンプファイファーとゲオルク・ヴィルトはドイツの再統一のために自由な言論は唯一の手段であるとする「ドイツ自由出版祖国協会」を結成したが、バイエルンほかプロイセンやハンブルクでも禁止された。ジーベンプファイファーは憲法記念祭に代わる「民族祭典(Volksfest)」を計画して、5月27日に「ドイツ5月祭」をハンバッハ城で開催することを宣伝した。このハンバッハ祭は「内的 ・外的な暴力廃止のための祝祭」であり「法律に保証された自由とドイツの国家としての尊厳の獲得」を目的とした。ライン・バイエルン政府では、フランス占領時代から集会は禁止されていたが、祝典(Festmahl)や民族祭典(Volksfest)は許可されていた。しかし、祭典を禁止しようとしたライン・バイエルン政府に対して参事会が反対し、政府は禁止命令を撤回したが、撤回は前代未聞であり、政府の敗北とみなされた。

こうして1832年5月27日から6月1日までバイエルンのプファルツに3万余が集まった「ドイツ5月祭=ハンバッハ祭」が開催され、ドイツ統一と諸民族の解放、人民主権や共和制の樹立などが叫ばれた。参加者は「ドイツ祖国とは何か」「輝きの渦のなかの祖国」といった歌を歌いながら行進し、医師ヘップはドイツ統一とドイツの自由によってドイツは再生すると演説した。ハンバッハ祭にはドイツの自由の守護神として学生たちから歓迎されていたユダヤ系のルートヴィヒ・ベルネがパリから参加した。ベルネは、ポーランド・ロシア戦争でユダヤ人3万人がポーランド支援のためにかけつけ、ポーランドという祖国を戦い取ろうとしているのに対して「ユダヤ人をひどく軽蔑している誇り高く、傲慢なドイツ人には祖国が未だない」と述べている。また、フリッツ・ロイターも参加した。

ジーベンプファイファーは演説で「国民と呼ばれるうじ虫は地べたをうごめきまわっている」と述べ、祖国の統一を望むことさえ犯罪になるのだと主張し、34人のドイツ諸国家の君主を「国民の虐殺者」と罵り、君主が王位を去り市民になることを求めた。ヴィルトは祖国の自由のための戦いには、外国の介入なしで独力でなされなければならないと愛国主義を演説した。しかし、その後の演説では、革命を望まないという商人の演説がなされる一方で、弁護士ハルアウァーは臆病な奴隷でいるよりも名誉の戦死をすべきだと訴えたり、ブラシ職人ベッカーは武装市民だけが祖国を守ると演説するなど意見が分かれた。祝祭後、指導者は臨時政府国民会議の結成を模索したが、結局、祖国出版協会名が「ドイツ改革協会」に変わるにとどまった。

パリにいたハイネはドイツの本質は王党主義であり、ドイツは共和国ではありえず、ドイツ革命もドイツ共和国の誕生もそんなに早くはこない、と同情しながら批判した。ハイネは革命を説くベルネに対して「テロリスト的な心情告白」として批判し、ベルネが「最下層の人々のデマゴーグ」になったのは「人生において何もなしえなかった男の自暴自棄な行動」と非難した。ベルネもハイネも改宗者であり、ドイツ人名に改名していた。

ハンバッハ祭後、ドイツ各地で倉庫や市場が過激派によって襲撃されるなど、混乱が広まり、1832年6月24日、バイエルン政府軍は戒厳令を発令した。メッテルニヒは革命運動の拡大を恐れて弾圧を強化し、ヴィルトやジーベンプファイファーなど多くの活動家が逮捕拘禁されて有罪判決を受けた。1833年4月には「出版祖国協会」過激派50人がフランクフルトで警察を襲撃し、1800人が逮捕された。しかし、その後もドイツ国民運動は非政治的な協会の姿をとって持続し、10万人以上のメンバーを持った男性合唱協会はドイツ語の民謡を普及させ、またヤーンの体操協会なども、ドイツ国民意識の形成に大きな役割を持った。

青年ドイツ派

1834年にハイネは「キリスト教は、あの残忍なゲルマン的好戦心を幾分和らげたが、しかしけっして打ち砕くことはできなかった」として、カント主義者、フィヒテ主義者などの哲学者に気をつけるように警告して、ゲルマン主義者から大きな憤慨を買った。他方でハイネは同年、われわれドイツ人は最も強く知的な民であり、ヨーロッパの王位を占めており、わがロスチャイルドは世界のあらゆる財源を支配していると書いた。

1835年、フランクフルト議会はグツコー、ハインリヒ・ラウベ、ムント、ヴィーンバルクや、ユダヤ系作家のハイネとベルネなども参加していた青年ドイツ派の作品を禁書処分にした。青年ドイツ派はユダヤ系サロンの主催者ラーエル・ファルンハーゲン=レーヴィネの影響を受けていた。青年ドイツ派であったがゲルマン主義者でもあった文芸批評家メンツェルはドイツ人は地球史上最も好戦的な民族であり、ローマ帝国を解体し、全ヨーロッパを支配したと述べ、青年ドイツ派を「青年パレスティナ派」と告発した。青年ドイツのH・ラウベは親ユダヤ的だったが、1847年にユダヤ系作曲家マイアーベーアから盗作の嫌疑で告訴されてからユダヤ人を嫌うようになった。

1835年、作家ティークはユダヤ人は国家内異分子であり、ドイツ文芸を独占してしまったと述べた。作家インマーマンの『エピゴーネン』(1836年)では、ヤーンが指定した服装を着ていた登場人物が迫害されるが、ドイツ人に化けたユダヤ人の追い剥ぎであった。この作中でユダヤ人は「何かを手に入れようとしてうちは恭しく、きわめて低姿勢だが、いったんそれを手に入れると居丈高になる」と描かれた。

1842年、若い頃にドイツ解放戦争を経験したプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世(在位:1840 - 1861)はキリスト教ゲルマン主義を信奉し、忌まわしいユダヤ人はドイツを混沌とした無秩序状態におとしめようとしていると述べ、ヤーンに鉄十字章を授与し、アルントの名誉回復を行った。王の養育係はユダヤ人をゲットーに再送すべきであると考えていた法学者サヴィニーだった。プロイセン政府は、ユダヤ人の兵役義務を免除すると同時に公職から退け、王の庇護下にある「隔離民族」とするユダヤ人囲い込み法案を提出した。1842年2月、ラビのフィリップゾーンの批判に対してカール・ヘルメスは、キリスト教国家プロイセンにおいてキリスト教徒とユダヤ教徒との法的平等は自己矛盾になると反論した。ヘルメスは無神論哲学者ブルーノ・バウアーに対してもキリスト教の敵として批判した。ユダヤ人共同体からのドイツへの愛国心をアピールした抗議が相次ぎ、この政策は実現しなかった

1844年、ドイツで反ユダヤ暴動が発生した。1845年、小説家シェジーはユダヤ人がドイツ国民を隷属状態に置くために解放運動に精を出していると描いた。

1847年、プロイセン連合州議会代議士ビスマルクはフランクフルト市議会で、ユダヤ人が国王になると考えただけで深い当惑と屈辱の感情が沸き上がってくるし、フランクフルトのアムシェル・マイアー・フォン・ロートシルトは「正真正銘の悪徳ユダヤ商人」であるが、気に入ったと好意を寄せることも述べた。

フランス

フランス7月革命とドゥーズ事件

1830年のフランス7月革命でオルレアン家のルイ・フィリップが国王になり、ブルボン家はイギリスへ逃れた。

1832年、ブルボン家の元国王シャルル10世の息子の妻ベリー公爵夫人マリー・カロリーヌ・ド・ブルボンが、改宗ユダヤ人シモン・ドゥーズの密告によって、ルイ・フィリップ政府に引き渡された。これに対して作家フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンは「大いなる裏切り者と、サタンに取り憑かれたイスカリオテのユダの末裔」と非難した。また作家ヴィクトル・ユゴーも「卑しき異教徒、変節漢、世界の恥辱、屑ともいえるような輩」である「さまよえるユダヤ人」と述べて非難した。ユゴーはまた「クロムウェル」(1827)「マリー・チュードル」(1833)では大量のキリスト教徒の血が流れるのを望むユダヤ人を描き「嘘と盗み」がユダヤ人のすべてであるというセリフがあった。ユゴーは1882年の「トルケマダ」でイスラエルに謝罪した。

「さまよえるユダヤ人」

「さまよえるユダヤ人」の伝説は近世にさかのぼる。1602年、ドイツのクリストフ・クロイツァーが『アハスウェルスという名のユダヤ人をめぐる短い物語』で、ユダヤ人はイエス磔刑の証人としてイエス再臨(最後の審判の)までさまよい歩くという劫罰を言い渡されたという「さまよえるユダヤ人」の伝説を出版した。この伝説の背景には、1208年のインノケンティウス3世の勅書での「イエスの血の叫びを身に受けてやまないユダヤ人たちはキリスト教徒の民が神の掟を忘れないようにするため、決して殺されてはならない」が、ユダヤ人はキリスト教徒が主の名を探し求める時代が来るまで地上のさすらい人であり続けなければならないという記述がある。

「さまよえるユダヤ人」という主題は16世紀以来の伝説で、ゲーテ、シューバルト、シュレーゲル、ブレンターノ、シャミッソー、グツコー、バイロン、シェリー、ワーズワースたちが扱い、1833年には共和党左派の歴史家エドガール・キネが『さまよえるユダヤ人―アースヴェリュス』で労苦にあえぐプロメテウスやファウストの象徴を援用した。1844年、シューは「さまよえるユダヤ人」を連載した。こうしてユダヤ人への神話的なイメージは、裏切り者であった「イスカリオテのユダ」から「さまよえるユダヤ人」に変わっていった。

世紀末には精神科医シャルコーがユダヤ人は放浪生活という神経疾患にかかりやすいと考え、助手のアンリ・メージュに「さまよえるユダヤ人」の研究を委託し、メージュはユダヤ人の放浪癖、旅行病は人種的な神経疾患であると結論した。

ダマスクス事件

1840年2月、シリアのダマスクスでカプチン会修道士トマ神父が失踪した。フランス領事は地元のユダヤ教徒たちが事件の黒幕と断定し、ユダヤ教徒たちを儀式殺人の容疑で告訴した。ユダヤ教徒たち2名がオーストリア国籍であったため、オーストリア領事はユダヤ人を救援しようとした。当時エジプト・トルコ戦争(1831年〜1840年)でオスマン帝国とエジプトが対立しており、東方問題としてヨーロッパ各国の外交問題ともなっていた。エジプト・トルコ戦争の講和条約ロンドン条約でイギリス、ロシア帝国、オーストリア帝国、プロイセン王国各国はオスマン帝国を支持し、エジプトのムハンマド・アリーのシリア領有放棄とエジプト総督就任を認める一方で、フランスのティエール政府はエジプト総督ムハンマド・アリーを支持しており、ダマスクス事件の対処でも対立した。ダマスクス事件によって、フランス国内では、東方ユダヤではいまなお儀式殺人という迷信をユダヤ教徒の義務として定めており、カプチン神父はユダヤ人に食べられたなど、反ユダヤ主義と愛国主義が流布した。イギリスではフランスへの反発もあって、ロンドン市長がユダヤ人モンテフィオーレ卿(Moïse Montefiore)、フランスのアドルフ・クレミューとムンクの特使団を派遣した。ティエールの解任で国際紛争は幕切れとなった。この解任にはロスチャイルド家のジャムが働きかけたという見方もある。

この事件後、クレミューは国際組織「世界イスラリエット同盟(AIU, L'Alliance israélite universelle)」を創立し、1842年にはクレミュー、セルフベール、フールドの3人のユダヤ人がフランス下院議員となった。ユダヤ新聞「イスラリエット古文書」は、もはや分裂の種も、宗教の差異も、永年の憎悪もなくなった「ユダヤ民族なるものはもはやフランスの土地には存在しない」と報道した。

1848年革命とユダヤ人解放

1848年、イタリア、フランス、オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、ドイツ、デンマーク、スイスなどのヨーロッパ各地で1848年革命が起こった。

ドイツ三月革命では、ドイツ連邦の国家統一と憲法制定を目指して、民族的自由を獲得することが目指された。ドイツ革命の目標は、フランスが革命で実現した、階級や宗教にかかわりなく人民の権利が保障される共同体としての「国民」の実現であった。

選挙規則のないままであったが、選出された議員によるフランクフルト国民議会では四人のユダヤ教徒の議員がいた。フランクフルト国民議会副議長になったユダヤ人ガブリエル・リーサーはユダヤ人の平等権が実現していないのは「法に対する侮辱」と批判しながら「イスラエル民族」は虚構にすぎないと指摘して「ユダヤ教徒は公正な法律の下で、ますます熱烈な、そしてますます愛国的なドイツの信奉者となるでしょう」と演説し、満場の拍手で迎えられた。

他方で、ユダヤ教からルター派へと改宗した政治家フリードリヒ・ユリウス・スタールは、ユダヤ人は一般ドイツ人から隔離すべきだと主張してユダヤ人解放に反対し、ゲルラッハ兄弟とプロシア保守党を創設するなどした。またオットー・フォン・ビスマルク議員(のち宰相)は「私はユダヤ教徒の敵ではない」「私は彼らに対してどんな権利も惜しまない。ただ彼らがキリスト教国家における行政上の官職に就く権利だけは認めるわけにはいかない」とユダヤ人の公職就職を否定した。1848年9月28日にはバーデン大公国ヴァルデルン市から「ユダヤ教徒の解放は断じて民族の声ではなく、ドイツ民族はドイツカトリック教徒との同権を要求していない」と請願が出された。また、同年にドイツで反ユダヤ暴動が発生した。

一方、ドイツとデンマークのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題において、デンマークがシュレースヴィヒ公国を併合すると、1848年にドイツ民族主義者が叛乱してキール臨時政府を樹立した。ドイツがキール臨時政府に援軍を派遣すると、バルト海に利害を持つロシアとイギリスが介入し、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争となった。1848年8月26日にドイツとデンマークは休戦協定を締結し、ドイツ連邦軍は撤退し、キール臨時政府は解散した。しかし、急進派は休戦に反発して1848年9月18日フランクフルトで暴動を起こし、自由主義穏健派であったカジノ派のリヒノフスキー侯爵とアウアスヴァルト将軍を暗殺した。

翌年の1849年3月28日、フランクフルト国民議会が統一ドイツ憲法を採択した。「ドイツ国民の基本権」では「何人も宗教の如何により市民権、ドイツ国民の権利の享有につき条件が付されてはならない」として、ユダヤ人(ユダヤ教徒)へも市民権を付与するものとなった。また、プロイセン外交官ラドヴィツ指導の超党派組織カトリック・クラブは、憲法に「教会の自由」を保障するよう訴え、実現した。

同時に新憲法では、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を統一ドイツ皇帝に選出したが、王は人民主権の原則を持つ憲法を「犬の首輪」として嫌い、帝冠も新憲法も拒否した。

その後、ドイツ各邦国で帝国憲法の承認を求める帝国憲法闘争が展開した。4月末、ザクセンでは祖国協会などの革命派が憲法を求めたが、ザクセン王フリードリヒ・アウグスト2世は拒否して議会を解散させた。5月にバクーニンが指揮したドレスデン蜂起が起きたが、ザクセン王はプロイセン軍を派遣して鎮圧した。オーストリアの圧力で1849年5月から6月にかけてフランクフルト国民議会は解体した。

1848年革命の失敗によって「ユダヤ教徒解放」は撤回されたが、ザクセン、ワイマール、アイゼナハなどではユダヤ教徒が大学教授や裁判官に就任するなど、ユダヤ教徒の解放は進展した。

ドイツのユダヤ人が全きドイツ国民となり市民権が認められたのは、ビスマルクによるドイツ統一によって誕生したドイツ帝国においてであった。

革命を通じて1850年代には、ヨーロッパのナショナリズムはコスモポリタン的で寛容なユートピア的なものであった愛国主義から、排外的で自己中心的なものとなっていった。

イギリス

1828年、非国教徒を制限していた審査律と地方自治体令が撤廃され、カトリック教徒が解放された。1830年、ユダヤ教徒もカトリック教徒と同等の地位を持つことが請願されたが、失敗に終わった。

1830年頃、ユダヤ人はロンドンで店舗を開けなかったし、法曹界にも議員にも大学にも入ることはできなかった。ロンドンのユダヤ人の半数は中東欧のアシュケナージで、産業界から締め出されていたために犯罪に走りやすく、詐欺や盗品売買が横行した。

また、ユダヤ人は投票権もあり、議員に立候補もできたが、キリスト教徒宣誓を述べなければならなかった。このため1847年にライオネル・ド・ロスチャイルド男爵は当選したが着席できなかった。1866年の公共宣誓令によって、ユダヤ教徒の議員就任が完全に認可された。

作家ウォルター・スコットの『アイヴァンホー』(1820)ではユダヤ人アイザックが卑屈な吝嗇家として喜劇的に描写されるが、その娘はレベッカは美人とされ、ユダヤ人の家族愛も描写された。スコットはユダヤ人は金儲けを本職とするので彼らは心が狭くなると考えていた。また『医者の娘』ではユダヤ人ミドルマスが愛人のメニーをインドで売却しようとするが象に踏み殺されると描いた。

作家チャールズ・ディケンズは『オリバー・ツイスト』(1838)でユダヤ人強盗団の頭目フェイギンを、餌にする腐肉を探す「いやらしい爬虫類」と喩えた。この小説に抗議したユダヤ人に対してディケンズは「フェイギンがユダヤ人であるのは、物語の背景となった時代に、残念ながらあの類の犯罪者のほとんどが実際ユダヤ人であったからです」とし、ユダヤ人がこの小説を不当な仕打ちと受け止めたとしたら、そうしたユダヤ人は分別にかけ、公正ではないと申さねばならない、と返答した。ただし、ディケンズは改訂版で「ユダヤ人」を「フェイギン」と書き換えた。また1854年にディケンズはユダヤ系の学校での講演で「ユダヤ人がなぜ私のことを『反ユダヤ的』とみなし得るのか、わたしには見当もつかない」と述べた。しかし、晩年の『共通の友』(1865)で、ユダヤ人ライアーは、キリスト教徒高利貸しのフロント役として利用されるが、キリスト教徒の娘を救うユダヤ人を描写した。

作家ジョージ・エリオットはディズレーリの『タンクレッド』に反発する1848年の手紙で、ヴォルテールの反ユダヤ罵倒に呼応したい、ヘブライの詩にはすばらしいものもあるがユダヤの神話と歴史は不快極まりないとした。しかし1866年にユダヤ人学者ドイッチュとめぐりあってからは、ユダヤ人に可能な限りでの同情を持つべきだと述べたり、『ダニエル・デロンダ』(1876)ではユダヤ民族の復興を描写し、ロシアではヘブライ語訳でユダヤ人に読まれ、シオニストに影響を与えた。

イギリスではドイツ思想に詳しい評論家カーライルや教育家トマス・アーノルドによってゲルマン至上主義が広まっていた。アーノルドは、ギリシャ人、ローマ人のあと、ゲルマン人によってキリスト教ヨーロッパ文化は飛躍したし、サクソン人とチュートン人の祖先の国であるドイツは史上最も道徳的で、非暴力的で、最も美しい国であるとした。

ブルワー・リットンの小説『ザノニ』 (1842)では、キリスト教世界のギリシア人が世界の主人となるために生まれたとされた。

医師ロバート・ノックスは、最も才能に恵まれたのはゴート人とスラヴ人で、次がサクソン人とケルト人で、対極に黒人が置かれた。ヘブライ人は寄生的であり、文化的に不毛であるとした。

アングロ・サクソン人(ブリテン諸島人)がイスラエルの失われた10支族とするアングロ・イスラエリズムという思想潮流もある。ニューファンドランド島出身の作家リチャード・ブラザーズは著作『暴かれた預言の知』(1794年)や『新エルサレム』で、自らを全能者の子孫、ダビデ王の子孫であるとし、ヘブライ王子としてパレスチナに新エルサレム王国を建設すると述べ、1822年には『イスラエルの失われた10支族の末裔としてのイギリス人から見たイングランド征服』を発表した。続いてウィルソン『イスラエル起源のイギリス』(1840年)、グローバー『ユダの末裔としてのイングランド』(1861年)、エドワード・ハイン『失われたイスラエル族としてのイギリス国民』(1871年)が刊行され、アメリカやカナダでも一定の勢力を持った。ドイツではバックハウスが『セム族としてのゲルマン人』を出版したが反響はなかった。日本でもイスラエルの失われた10支族による日ユ同祖論がある。

ディズレーリのユダヤ主義

イタリア系セファルディムのユダヤ系イギリス人の政治家・小説家のベンジャミン・ディズレーリは1844年のロバート・ピールを批判した小説『カニングスビー』(1844)や『シビル(女預言者)』(1845)などで、ヨーロッパの修道院や大学にはマラーノなどのユダヤ人がひしめき、ヨーロッパではユダヤ的精神が多大な影響力を行使していることを描いて、ゲルマン至上主義の逆を突いた。『カニングスビー』でディズレーリは「ユダヤ人が大きく加わっていないようなヨーロッパにおける知的な大運動はない。最初のイエズス会修道士たちはユダヤ人だった。西ヨーロッパを大いに混乱させているロシアの謎めいた外交は主にユダヤ人によって導かれている。現在ドイツにおいて準備され、イギリスではあまり知られていない強力な革命は第二のより広大な宗教改革運動になるであろうが、これは全体としてユダヤ人の賛助のもとで発展しているのである」と書いた。『タンクレッド』(1847)では「思い上がりではりきれんばかり、叩いてみて響きだけはよい革袋のような鼻のひしゃげたフランク人(ゲルマン人)」を揶揄し、セム的精神(ユダヤ精神)を称揚し、セム的精神が光明をもたらすことがなかったらゲルマン民族は共食いで滅亡していたと、いった。同時に、ディズレーリはみずからの人種を恥とみなしたユダヤ人を批判し、ユダヤ人はコーカサス人種であると考えた。

1847年下院での国会演説でディズレーリは、初期のキリスト教徒はユダヤ人であったし、キリスト教を普及させたのはまぎれもなくユダヤ人であったし、カントやナポレオンもユダヤ人であり、そのことを忘れて迷信に左右されているのが現在のヨーロッパとイギリスであると演説し、議会では憤怒のさざ波が行き渡った。カーライルはディズレーリの演説に憤慨し、ロバート・ノックスは、ディズレーリが挙げたユダヤ人一覧には一人もユダヤ的特徴を示している者はいないと批判した。

1848年革命についてディズレーリは、この全ヨーロッパ的暴動の指導者はユダヤ人だと述べ、その狙いは選民たるユダヤ人種がヨーロッパのあらゆる人種もどき、あらゆる下賤の民に手を差し伸べ、恩知らずのキリスト教を破壊し尽くすことであると主張した。ディズレーリは歴史の原動力について「すべては人種であり、他の真理はない」と述べるなど、ユダヤ主義に基づく人種主義者でもあった。

ディズレーリのユダヤ主義的な歴史観は、フランスの反ユダヤ主義者ムソーやドリュモンによってユダヤ人の秘密外交の証拠として好意的に引用された。また、ナポレオンを嫌っていた歴史学者のミシュレも、ディズレーリのナポレオンユダヤ人説に梃入れした。

イタリア統一と教皇領の消滅

1848年初頭、ローマの司祭アンブロゾーリがユダヤ人の解放を訴え、教皇ピウス9世が1848年4月にゲットーの壁を取り壊した。しかし、11月にローマ革命が起ると、教皇はガエータに避難した。1849年7月にナポレオン3世のフランスがローマ共和国革命政府を制圧すると、教皇は1850年にローマに戻るが以後はユダヤ人対策を差し控えるようになった。

1858年、イタリアのボローニャでユダヤ人の6歳の少年エドガルド・モルターラが異端審問所警察によって連れ去られ、カトリック教徒として育てられ司祭となった。カトリック教徒の家政婦が極秘に洗礼を受けさせていたためであった。ヨーロッパ全土のユダヤ人が事件に抗議して、ローマのゲットー代表と教皇が交渉した。教皇は、ユダヤ人を憐れむためにこうした抗議を赦すと述べ、ユダヤ人代表は感動して、1848年革命の時にはローマのユダヤ人は教皇に忠実であったことを確認し、モルターラ事件で騒ぐのは政治的情念を充足させる下心でしかないと述べて和解した。1864年にはこれに似たフォルトゥナート・コーヘン少年洗礼事件も起きた。

1859年、オーストリア帝国からのイタリア独立戦争で、サルデーニャ王国はナポレオン3世と同盟し、ソルフェリーノの戦いでオーストリア軍に勝利した。しかし、ロマーニャ・トスカーナなどイタリア各地で教皇支配からサルデーニャ王国への合併運動が展開すると、フランス国内のカトリック派も戦争に冷淡となり、またプロイセンも干渉の気配を見せたことなどから、ナポレオン3世はサルデーニャ王国に黙ってオーストリアとヴィッラフランカで単独で講和して、オーストリアのヴェネト州保持、トスカーナなど亡命君主の復位も約束した。サルデーニャ王国は戦争継続を希望したが、やむなく容認した。1860年、ナポレオン3世はサヴォイとニースのフランスへの割譲を条件に、サルデーニャ王国による中部イタリア併合を承認した。1860年4月、共和主義者ガリバルディ率いる義勇軍赤シャツ隊が両シチリア王国を滅ぼしてローマに進軍したが、サルデーニャ王国は赤シャツ隊に先んじて教皇領とナポリ王国軍を撃破した。やむなくガリバルディは征服した南イタリアをサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に献上し、両者は並んでローマに入城した。1861年、ローマとヴェネト州をのぞくイタリア王国がヴィットーリオ・エマヌエーレ2世イタリア王の下に成立した。1866年、プロイセン・オーストリア戦争でプロイセンと同盟を結んだイタリア王国はヴェネト州を回収できた。

1870年、プロイセン=フランス戦争で在ローマフランス軍が呼び戻され、さらにセダンの戦いでフランスが降伏すると、イタリア王国は簡単な砲撃戦の後、ローマを占領した。教皇は教皇権の廃棄に関与するすべてのものを破門にすると宣告したが住民投票でローマ併合が可決し、翌1871年5月にイタリア王国は教皇保障法を制定しイタリア統一を完成させ、これにより教皇領は消滅した。

ロスチャイルド家と反ロスチャイルド、反ユダヤ的感情

フランクフルト・ゲットー出身の銀行家マイアー・アムシェル・ロートシルトが宮廷ユダヤ人となり、ロートシルト家(ロスチャイルド家))の基礎を築くと、ロスチャイルド家は19世紀ヨーロッパの政界と金融界を支配し、栄華を誇り「ユダヤ人の王にして諸王のなかのユダヤ人」と呼ばれた。1807年のベルリンの銀行52のうち30がユダヤ人が経営するようになっていた。その他、ドイツの百貨店、シュレージエン地方の鉱床などもユダヤ系事業が大部分を占めた。フランスではマイアーの五男でオーストリア領事でもあったジャム・ド・ロチルドがロスチャイルド家の筆頭格となった。ジャムはフランスに帰化することはなかった。ロチルド家(ロスチャイルド家)は、フランス中央銀行の大株主の200家族の1族であり、金融貴族(Haut Banque オート・バンク)と呼ばれた。

ロチルド家以外のユダヤ人銀行家としては、サン・シモン主義のペレール兄弟がおり、ナポレオン3世の金融改革と殖産興業政策を援助して、1852年にペレール兄弟はアシーユ・フール(Achille Fould)とともに投資銀行クレディ・モビリエを創設した。1860年代にはクレディ・リヨネとソシエテ・ジェネラルが創設された。

しかし、ロスチャイルド家の栄華は、その後数世代にわたって反ユダヤ主義宣伝活動の餌食となっていった。

1848年、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンは『墓の彼方からの回想』(没後出版)で「人類はユダヤ人種を癩病院に隔離した」と述べたり「今日のキリスト教世界を牛耳っているユダヤ人よ」と述べたり、ロスチャイルド家が原因で自らが政治家として不首尾に終わったとみなしていた。

アルフレッド・ド・ヴィニーは、ユダヤ人を金にがめつい唯物的な人種として嫌悪し、1822年の『ヘレナ』では「ユダの息子たちにはすべてが許され、彼らの財宝箱にはすべてが受け入れられる」と書き、1847年にユダヤ人アルフェンがパリ2区区長に任命されると驚くなど、世界が「ユダヤ化」ことを諦念をもって眺めた。1837年には7月革命をユダヤ人は金で購ったと書いている。1837年に書かれた小説『ダフネ』(生前未発表)ではユダヤ人銀行家について「現在、一人のユダヤ人が、教皇の上、キリスト教の上に君臨している。彼は君主に金を渡し、諸国民を買収する」と、ロスチャイルド家について記した。しかし、ヴィニーは改宗ユダヤ人ルイ・ラティスボンヌと友人になると、1856年にはユダヤ人は原初の光、原初の調和に満ちており、芸術の分野で頂点を極め、学業も優秀と述べるにいたった。

歴史家ジュール・ミシュレは『フランス史』(1833-1873)において、自分はユダヤ人が好きだが「汚らわしきユダヤ人」は「いつのまにか世界の王座に就いてしまった」、ユダヤ人は地球上で「最良の奴隷」だったと述べた。

1900年にはドイツの人口の1%にすぎないユダヤ人が、大企業、金融会社の取締役会の25%を占めており、こうしたユダヤ人の経済界での活躍が、ユダヤ人による侵略や支配という印象を深めることになった。こうした状況は、ロシアでも同様であった。ロスチャイルド家や政界に進出するユダヤ人などが活躍していくにつれて「ユダヤ人に支配された世界」という見方が広まり、フランスやドイツなどでは「ユダヤ人からの解放」を訴える主張が多数出されていくようになった。

インドと「アーリア人」の発見

啓蒙思想の進展によって、ユダヤ教とキリスト教的な世界観から徐々に抜け出していくとともに、人類と文明の発祥の土地としてインドが浮上していった。

フランスの東洋学者アンクティル=デュペロン(1731-1805)は「アーリア人」をヘロドトスから取ってペルシア人とメディア人を指すために用いていた。

文化的多元主義のヘルダーは民族の形成には地理的条件や歴史的条件があるため、どのような民族も神に選ばれたということはできないとユダヤ民族の選民思想を否定し、また「自称神の唯一の民」もドイツ人も選民ではないとした。しかしヘルダーはルター派であり、歴史は神によって統制され、文明は東から西へ向かって進展しているので必然的に文明はヨーロッパに集中しているのであり、ヨーロッパは優位にあるとした。またシナ人はユダヤ人のように他民族との混合を免れたために幼いまま停止しているとみた。また『人類史哲学考』(1791)で「人種」という語を批判し、ヨーロッパ人がニグロを悪として扱うのと同じように、ニグロはヨーロッパ人を白い悪魔と侮蔑する権利を有すとしながら、ニグロはヨーロッパ人のために何一つ発明しなかったとも述べている。また、人種的にドイツ人とペルシア人は近く、またインド人は自然の徳、穏やかさ、礼儀正しさ、優美さを持っているが、地上の民族すべてをヘブライ人の末裔にするような話はもう沢山であり、人類が最初に居を定めたのはアジアの原初の山であるとした。一方で同書第四部では、古代ユダヤが崩壊して、キリスト教世界を優位に立たせようと決めたのは神の摂理であるとした。ヘルダーはショーペンハウアーに影響を与えた。

ブルーメンバッハ(1752-1840)は白人を最も美しい人種であり、最も美しい人種のグルジア人のいるコーカサス山に因みコーカソイドという名を白人に与え、白い色はもともとの人類の肌の色であるが、容易に黒っぽく退化するとした

アウグスト・ルートヴィッヒ・フォン・シュレーツァーはセム系言語とヤペテ系言語(アルメニア語やペルシア語)との区別を提案し、ヤペテはヨーロッパの白人の先祖とした。

1788年、イギリスの言語学者ウィリアム・ジョーンズはインドのサンスクリットとギリシャ語、ラテン語、ゴート語、ケルト語の強い近親性を発見して、インド・ヨーロッパ語族が発見された。

社会主義者サン=シモンは1803年、ニグロは体質ゆえに平等に教育してもヨーロッパ人の高い知性に達しないとした。ヨーロッパ人はアベルの子孫で、有色人種はカインの末裔であるとし、アフリカ人は残忍で、アジア人は怠惰であるとした。

ドイツにおけるインド趣味はシュレーゲル兄弟の影響が大きかった。アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルは1804年「東洋が人類の再生が起こった地域だとすれば、ドイツはヨーロッパの東洋とみなされなければならない」と書いた。アウグストの弟フリードリヒはモーゼス・メンデルスゾーンの娘ドロテーアと結婚し、ユダヤ人解放のために闘った進歩派であったが「すべてがインドに端を発している」と述べ、エジプト文明はインドの使節によって形成されたし、エジプトはユダヤの地に文明的な植民地を築いたが、ユダヤ人はインドの真理を不完全に吸収したとした。フリードリヒは1808年の著書『インド人の言語と英知』で、偉大なインド人がいかにスカンジナビアに達したのかと述べ、ゲルマン人との関連を示唆し、1819年には「アーリア人」を種族の意味で用い、語根の「アリ」をゲルマン語の「エール(名誉)」と結びつけた。なお、ヤーコプ・グリムもヨーロッパ人のすべては太古にアジアから移住してきたとしたが「アーリア人」という用語は使っていない。

生物学者ラマルクは1809年の著作『動物哲学』で、改良された人種が他の人種を支配し、この人種に適したすべての地を占拠すると述べた。ここでは白人種を名指したわけではなかったが、当時のフランスの膨張と関連した発言であった。博物学者キュヴィエは『動物界』(1817年)で、ニグロ人種は猿に近く野蛮であるとし、文明の進歩はコーカサス人種の特性であるとした。

1810年、考古学者クロイツァーはユダヤ教以前の原始バラモン教が真の自然宗教であり、アブラハムはブラフマー、サラはサラスワディで、両者ともバラモンであったとした。

1811年、自然哲学者ローレンツ・オーケンは黒人種は猿、白人種は輝く人間、モンゴル人は空気、アメリカインディアンは水に対応するとした。自然哲学者カール・グスタフ・カルスは1849年から1861年にかけての著作で、黄色人種は夜明けの人種で胃の人種、白人種は昼の人種で脳の人種、赤色人種は夕暮れの人種で肺の人種、黒人種は夜の人種で生殖の人種とした。

J.C.プリチャードは『人類の自然史』(1813-47)で人類単一起源説を唱え、アダムとイヴは黒人であったとした。また、ハム人種(エジプト)、セム人種(シリア、アラブ)、ヤペテ=アーリア人種という三分類を行った。ただし、プリチャードはヤペテ=アーリア人種に卓越性を付与したわけではなく、セム人種を第一とした。1816年、トーマス・ヤングが「インド-ヨーロッパ人」という用語を作った。

人種決定論や人種主義がフランスなどで盛んになったのに対してイギリスではJ.S.ミルやバックルのように人種や文化を気候や生活様式の多様性に帰着させる環境主義が説かれていた。19世紀前半イギリスでは聖書崇拝や生気論が強く、フランス流の唯物論や遺伝説には反感が持たれ、無神論であると批判された。解剖学者ウィリアム・ローレンス準男爵が1816年に精神を脳の機能とした講義を出版すると、生気論のジョン・アバーネシーは唯物論と批判した。ローレンスの『人類の自然史』(1819)は人間と動物における知的性質を決定する法則が同一であるとしたことや遺伝についての記述も無神論と批判された。

1823年、東洋学者クラプロートが「インドーゲルマン人」という用語を作り、たちまち普及した。19世紀後半までのドイツでは「アーリア人」よりも「ゲルマン」「インド=ゲルマン」という用語がよく使われた。

1824年,シュレーゲルに影響を受けた改宗ユダヤ人エクシュタイン男爵が王党派雑誌『Le Catholique』を創刊し、ヨーロッパは血と文化をゲルマン人に負っており、インドと東洋の神秘について宣伝し、ユゴー、ラマルティーヌ、ラムネー、歴史家ミシュレ、ティエリ、アンリ・マルタンなどに影響を与え、ハイネはエクシュタインを「ブッダ男爵」と呼んだ。ユゴーはドイツをひとつのインドと呼んだ。

博物学者ボリ・ド・サン=ヴァンサンは1827年『人類の動物学的研究』で最高の人種はヤペテ人種(白人種)、第二はアダム人種(アラブ)、最低はオーストラリア人種であるとした。

社会学者オーギュスト・コントは白人種は人類の選良であり、特権を与えられており、西欧白人の歴史の研究だけが利益になるため、オリエント研究は無駄であるとした。

博物学者カトルファージュは奴隷制反対論者だったが1842年にアメリカ合衆国へ旅行直後、ニグロは、知性の形成が途中で止まった白人であり、知的な畸型であるとし、黒人にあっては精神の高貴な産物が動物的な機能にとって替わられているとした。

「セム人」とアーリア主義

19世紀にはアーリア人とセム人という二分法が研究者によって受け入れられた。

歴史家ジュール・ミシュレは『ローマ史』(1831)でセム人とインド-ゲルマン人との長い戦いについて語り、またインドを人種と宗教の発祥地であるとし、『人類の聖書』(1864)では、われわれの祖先であるアーリア人・インド人・ペルシア人・ギリシア人は太陽の下で生まれた光の息子であるとし、他方のメンフィス (エジプト)人・カルタゴ・ティールとユダヤ人は南部の暗い性格であり、ユダヤの聖書は偉大ではあるが陰気でやっかいな曖昧さに満ちていると書いた。また、ミシュレはユダヤ人は純粋な人種であり、ユダヤの不幸はこの純粋さにあるとみなした。それに対しドイツはスイス、スウェーデンにズエーヴェン人を、スペインにゴート人を、ロンバルディアにランゴバルド人を、イギリスにアングロサクソン人を、フランスにフランク人を与えたようにドイツ人はすすんで自国から出て、また自分の国に快く外国人を受け入れ歓待する。ドイツ人のエゴイズムを捨て去る自己犠牲の精神を「南部の人たち」は嘲笑するが、これがゲルマン人種を偉大にしたとミシュレは論じた。

バルザックの『ルイ・ランベール』(1832)では「モーゼの書は恐怖の刻印が押されている」とし、破局のもとで生きのびるた人が避難したのはアジアの高原であり、聖書の民はヒマラヤとコーカサスにぶらさがっていた人間の巣箱からの一群にすぎない、と書いた。

1843年、人類学者グスタフ・クレムは、人類を能動的人種と受動的人種に分けて、人類が完全になるのはこの二つの人種の混合によるとした。受動的人種にはスラブ人、ロシア人があり、能動的人種にはラテン人が入るが、ゲルマン人はそのラテン人をつねに打ち負かし、ヨーロッパの王位を占めているとした。

1845年、インド学者クリスチャン・ラッセンは、エゴイストで排他的なセム人はインド-ゲルマン人を特徴づけている魂の調和のとれた均衡を持っていないし、哲学はセム人のものでなく、インド-ゲルマン人から借り受けただけだとした。同1845年、スウェーデンの頭蓋学者アンドレーアス・レツィウスは、すぐれた魂の能力を持っているのはスカンジナビア人、ドイツ人、イギリス人、フランス人の長頭の人種で、ラプランド人、フィン人、スラブ-フィン人、ブルトン人のような短頭人種は遅れた民であるとした。

フランスは人種決定論の発祥の地であり、キリスト教から解放された科学法則によって、人種の研究が進展した。フランス系イギリス人の博物学者W.F.エドワーズはユダヤ人を人種とみなした。バルテルミ・デュノワイエは人種の不平等を嘆きながら、チュートン人・ゲルマン人は優秀人種であるとした。ジョゼフ・ド・メーストルは、野蛮人を改良不可能の生まれながらの犯罪者であるとし、その祖先はなんらかの前代未聞の罪を犯したとして、人間は神の前で平等でなはいとした。東洋学者エミール・ビュルヌフはセム人や中国人はキリスト教や形而上学の美しさを理解できないとした。

1850年代には遺伝学者プロスパー・ルーカスや『変質論』(1857)を刊行したベネディクト・モレルらの遺伝学やモロー・ド・トゥールの『病理心理学』(1859)などが流行したが、その背景には革命を起こしたブルジョワジーが労働者を抑圧し、自らの普遍性を標榜できなくなっていたため、遺伝学によってブルジョワジーの権力と財産の相続権を正当化することがあった。

サン=シモン主義者ピエール・ルルーはヨーロッパ人の祖先の地はアジアの高原であるのだから「われわれは今どうしてユダヤの万神殿にとどまっている必要があるだろうか」「キリスト教、モーゼの啓示、イエスの啓示と呼ばれている切り離された分枝のみを人類の中にみるのだろうか」として「われわれはイエスの息子でもモーゼの息子でもない。人類の息子なのだ」と述べた。同じくサン=シモン主義者クルテ・ド・リルはゲルマン人を至高の人種とみるブロンドの賛美者であり、人種の質は支配能力によって決定されるのでヨーロッパ人は混血しても地球規模で優秀であることが証明されるの対して、黒人は異人種を支配したことがなく、彼ら自身の間で隷属しあっているため絶対的な劣等性が証明されているとした。また、血の混合は産業と進歩の観点から見てよいものとした。

クルテ・ド・リルの弟子だったアルテュール・ド・ゴビノー伯爵は『人種不平等論』(1853-56)で、黒人は全人種の最下位にあり、黄色人種は体力は弱く無気力の傾向にあり自分たちで社会を創造できないとして、この二つの人種は「歴史における残骸」であるが、これに対して白人種だけが文明化の能力と思慮を備えたエネルギーを持つ歴史的な人種であるとし、インド・エジプト・アッシリア・中国・ギリシアなど歴史上の文明はすべて白人種のアーリア民族によるイニシアチブによってのみ可能であったとした。アーリア人の血は、ローマ人、ギリシャ人、セム人と混合して溶けていき、白人種は混交によって世界の表面から消えたとした。ゴビノーによれば、白人種にはセム人、ハム人、ヤペテ(アーリア人)がいるが、このなかでアーリア民族はセムやハムとは違って純血を保ち、金髪、碧眼、白い肌を持っており、卓越している。しかし、古代ギリシャはセム化によって単一化し、ローマ帝国もセムの血が流入したため、中背で褐色の肌をした「凡庸で取り柄のない人間」「横柄で、卑屈で、無知で、手癖が悪く、堕落しており、いつでも妹、娘、妻、国、主人を売り飛ばす用意ができていて、貧困、苦痛、疲労、死をむやみに怖がる」退廃的な人間を産出した。ただし、この「セム化」はこれまで反ユダヤ主義として嫌疑がかけられてきたが、これは白人の血に黒人の血が混入することを指しており、ユダヤ人による世界支配を批判したわけではなかった。ゴビノーは有色人種を軽蔑していたわけではなく、黒人は力強い普遍的な想像力を持っているとしたし、ユダヤ人は自由で強く知的な民であるとした。これは歴史家ミシュレが「黒人であることは人種というより、病いである」といったのに比べれば抑制がきいたものであった。ワーグナーはゴビノーと固い友情で結ばれていた。ゴビノーは同時代では影響力はなかったが、1894年にルートヴィヒ・シェーマンがドイツとフランスでゴビノー協会を設立し、ワーグナー派に支援された。シェーマンの友人ルートヴィヒ・ヴィルザーは「ゲルマン人」(1914)などで北方ゲルマン人は太陽の子どもであるとした

影響力の少なかったゴビノーに対して、宗教史家エルネスト・ルナンは第三共和制の公式のイデオローグとなり、アーリア主義の宣伝者として大きな影響力を誇った。1855年『セム系言語の一般史および比較体系』でルナンはアーリア人種が数千年の努力の末に自分の住む惑星の主人となるとき、偉大な人種を創始した聖なるイマユス山を探検するだろうと書き、また『近代社会の宗教の未来』(1860)で「セム人には、もはやおこなうべき基本的なものは何もない。ゲルマン人でありケルト人でありつづけよう」「セム人種は使命(一神教)を達成すると急速におとろえ、アーリア人種のみが人類の運命の先頭を歩む」と書いた。ルナンによれば、セム人とアーリア人の間には深い溝があり「世界で最も陰気な土地」であるユダヤの地は極端な一神教を生み、他方のキリスト教を作った北のガリラヤは快活で寛容でさほど厳格でない。キリスト教の人類愛(アガペー)は、自分の兵の妻バテシバと姦淫しその夫を戦場で討死させたダビデの利己主義や、前王ヨラムを殺し、異教神バアルを廃した虐殺者イスラエル王エヒウ(Jehu)からではなく、異教徒であったアーリア人の祖先が産んだとした。イエスの思想はユダヤ教から得たものでなく、完全にイエスの偉大な魂が単独で創造したのであり、イエスにはユダヤ的なものは何もなく、キリスト教とはアーリア人の宗教であり「文明化された民族の宗教」であるキリスト教だけがヨーロッパ共通の倫理と美学を提供できるとした。ルナンは、有害なイスラム教がユダヤ教を継承したと論じた。1863年、化学者マルスラン・ベルトゥロはルナンへの手紙で「われわれの祖先のアーリア人」と述べ、イポリット・テーヌは「血と精神の共同体」であるアーリアの民を賛美した。他方、R・F・グラウはルナンを批判して、学芸・政治の男性的な能力を持つインド・ゲルマン人に対して、セム人は宗教を独占する女性的存在であり、神はセム的精神とインドゲルマン的性質の結婚を決定しており、この夫婦は世界を支配すると論じた。また、イグナツ・イサーク・イェフダ・ゴルトツィーハーは「セム人は神話を持たない」とするルナンを批判し、ヘブライ神話もあるし、ヘブライ人もアーリア人と同様に人類史の建設者であったとし、ユダヤ人をヨーロッパ文化に同化させることを要求した。

東洋学者で急進的保守主義者のパウル・ド・ラガルドは1850年代から合理主義や近代主義の侵入によってドイツ精神が腐食しているなどとして、プロイセンのユンカー支配、官僚制、資本主義化を批判しドイツ人によるドイツ信仰を主張した。『ドイツ書』(1878)では「ドイツ性は血の中にではなく、気質の中にある」として、内面的・霊的態度によるドイツ国民の霊的再生と、ドイツ民族の活性化によるドイツ統一を目指した。ラガルドは、パウロによってキリスト教はヘブライの律法のなかに閉じ込められ、ルター派は「腐った遺物」であり、カトリックは「あらゆる国家とあらゆる民族の敵」であると伝統的キリスト教を批判した。ラガルドは「神の王国とは民族にある」として、原始キリストの霊性にもとづくゲルマン的キリスト教を主張した。ラガルドは初期ヘブライ人を称賛したが、ユダヤ人は律法と教義によって化石化され、近代のユダヤ人は真の宗教を欠落させ、物質主義的な欲望によって陰謀をめぐらすような悪に転落したと批判し、ユダヤ教の破壊を主張した。また、ユダヤ人がドイツ人になりたいのなら、なぜ霊的価値のないユダヤ教を棄てないのかと述べ、人間はバチルス菌や旋毛虫と談判するのではなく根絶するのだとし、ユダヤ人をマダガスカル島への追放を主張した。このラガルドの提案は、ナチスのマダガスカル計画に影響を与えた。ただし、ラガルドは宗教的な見地からの反ユダヤであり、人種的な見地からではなかったとモッセはいう。ラガルドはユダヤ人以外にも、スラブ人は滅ぶべきだし、トゥラン人種であるハンガリー人は滅ぶだろうとした。ラガルドは世紀末ドイツの青年運動、ヒトラー、ローゼンベルグに影響を与え、トーマス・マンはラガルドを「ゲルマニアの教師」と称賛し、カーライル、ショー、ナトルプ、マサリクもラガルドを称賛した。

アーリア主義が高まる一方で、ユダヤ人の人種的な強さについても論じられていった。ジャン・クリスチャン・ブダンは『医学地理学・医学統計学』(1857)でユダヤ人は長寿で死亡率が低く、あらゆる気候に適応できる「唯一のコスモポリタン民族」であるとした。自然科学者カール・フォークトは『人間学講義』(1863)でブダンを参照してユダヤ人は土着の人種の助けなしに暮らしていける唯一の人種であるとした。人類起源多系統説のフォークトは、人間の形態の系列はニグロから始まってゲルマン人によって絶頂に達したとした。一方、フィルヒョウはゲルマン人種は熱帯に適応できないと確証していた。ドリュモンも『ユダヤのフランス』で、ユダヤ人だけがあらゆる気候のもとで生きる先天的能力を持っているが「同時に他人に害を与えずに自らを維持することができない」とした。地理学者リヒャルト・アンドレーは、ユダヤ人は遺伝的に伝えられる古いユダヤ精神を保持するために外部の血の注入や輸血に打ち勝つことができたとした。

スイスの言語学者アドルフ・ピクテは、1859年『言語古生物学』で原始アーリア人の故地をイランとし、アーリア人は「血統から来る美しさと知性によって他のすべての人種に優越して」おり、神の企図を担うとした。ピクテによれば、アーリア人は文明化の能力を賦与されており、発展させる自由を持ち、展開し適応する受容性を持つのに対して、ヘブライ人は文明化の能力に欠けており、保守と不寛容を特徴とする。

アーリア主義の宣伝者としてルナンよりも影響力があったのが、フリードリヒ・マックス・ミュラーである。ミュラーは1860年、自分はアーリアという用語をインド=ヨーロッパという意味で用いた責任者であると述べ、ミュラーはインド人、ペルシア人、ギリシア人、ローマ人、スラヴ人、ケルト人、ゲルマン人は同一の祖先であり、そのなかでアーリア人はセム人やトゥラン人種との戦いを続けて歴史の主人となったとした。しかし、1872年、ミュラーはストラスブール大学講演でドイツへの愛国心を明らかにし、貨幣の支配と民族主義の肥大化に警戒しながら、ドイツは昔の素朴な美徳を失いつつあるとしたうえで、アーリア人種説は非化科学的であるとした。

1862年,解剖学者ポール・ブロカはアーリア理論は確実性のあるものではないが「アーリア人種」という用語は完全に科学的であるとした。セム人種という用語は大きな誤りであるとし、ヘブライの民について「ヘブロイド」という新語を提案した。またブロカは頭蓋測定器具を数多く作った。当時の頭蓋学ではヨーロッパ人の頭蓋は複雑な凹凸を持ち、劣等人種よりも優秀であるとされた。ブローカの弟子のトピナールは、フランス人は純血アーリア人ではないとしながら、有色人種は数えることに遺伝的生理学的な不適性があり、アーリア人は数学への適性を持つとした。1893年にトピナールは、ガリア人は金髪で長頭の征服者と、褐色の髪で背の低い短頭の被征服者から成り立っているとして、金髪の戦死は商人や実業家になったが、短頭人は多産で将来フランスは彼らのものになるのではないかと述べた。

1867年、聖職者ダンバー・ヒース卿はセム人種はキリストを悪魔とみたが、アーリア人種はキリストに神をみたと述べた。アーリア人種はキリスト教の教義を作ったが、三位一体はセム人の本能に無縁であったとして、キリスト教はあらゆる点でアーリア的な宗教であるとした。

ルイ・ジャコリオの『インドにおけるバイブル』(1868)でモーゼはインド神話のマヌであり、イエスはゼウスで、旧約は迷信の寄せ集めにすぎず、ユダヤ人は堕落した民であり、モーゼはファラオの慈悲で育てられた狂信的な奴隷であるとした。イギリスの政治家(首相)グラッドストーンはジャコリオの信奉者であった。ニーチェは『悲劇の誕生』(1871)でアーリア的本質とセム的本質を区別した。

アメリカの奴隷制支持者のノットとグリッドンは『人類の類型』(1854)でユダヤ人種や黒人種は別個に作られたとした。文化人類学エドワード・タイラーは、言語と人種は正確に一致しないと警戒しながら「わがアーリアの祖先」について語った。オーストリアの文化史学者ユリウス・リッペルトはアーリア人を農耕民族とし、セム人は遊牧民族で農業の能力がなく、白人種の「枯れた小枝」とした。

フランスの博物学者カトルファージュは普仏戦争(1870-71)でパリが包囲された時、プロイセンによる野蛮はアーリア人に先行する原始住民のものでしかありえない、プロシア人は真のゲルマン人ではなく、フィン人またはスラブ-フィン人であり、高い文明に対するフィン人の暗い恨みによってパリの美術館は砲撃されたとした。カトルファージュの説に対してドイツ、イタリア、イギリスの学者は非難した。ドイツの民族学者アドルフ・バスティアンは、プロイセンにはフィン人もスラブ人もいないし、ゲルマン人はこれらを完全に吸収して解体してしまったとし、東へ進むドイツ人は強者の法則、生存闘争の法則に従って弱い人種を仮借なく放逐したし、ゲルマン人はケルト-ラテンのおしゃべりによって心をくもらされる必要はなかったとした。

解剖学者ルドルフ・フィルヒョウは1871年、統一ドイツの全域で兵士の頭蓋測定を試みたが軍が拒否したため、髪、眼、顔色などの特徴の生徒の調査へと変更し、オーストリア、ベルギー、スイスの協力も得られた。調査ではユダヤ人は除かれた。10年間の調査では生徒1500万が対象となり、またフィルヒョウは1885年にフィンランドも調査した。フィンランドが一般の意見と逆に圧倒的な比重で金髪であったため、フランスのカトルファージュの説は無に帰した。フィルヒョウの調査で、西へ向かったゴート人、フランク人、ブルグンド人などのゲルマン人は土着の住民のなかに埋まってしまったが、東へ向かったゲルマン人は「純粋にドイツ的な新しい民族性」を形成し、またスラヴ人の侵入も確認されなかった。なお、フィルヒョウはゲルマン民族主義者ではなく、汎ゲルマン主義や反ユダヤ主義を批判して警告していた。

エルンスト・フォン・ブンゼンは1889年、アダムはアーリア人であり、セム人は蛇であるとした。哲学者フイエは1895年、フランス人はアーリア的要素が減少してケルト-スラヴ人またはトゥラン人種になりつつあり、ヨーロッパはゆっくりとロシア化していると警告した。

19世紀までのドイツの学者、ペシェ、ペンカ、ヘーン、リンデンシュミットらは原始アーリア人を金髪で青い目をした長頭人種とした。他方、フランスのシャヴェ、ド・モルティユ、ウィヴァルフィらは原始アーリア人をガリア人のような短頭人種であるとした。これらの大陸の理論に対してイギリスの言語学者アイザック・テイラーは1890年に、原始アーリア人はウラル・アルタイの短頭人種であるとした。

19世紀末になるとアーリア説について懐疑的な見解が出されるようになり、1892年、考古学者サロモン・ライナハは原始アーリア人についての説は根拠のない仮説で、それが今も存在しているかのように語ることはばかげたことだと述べた。

フリードリヒ・フォン・ヘルヴァルトは『文化史』(1896-98)において、ユダヤ教とキリスト教の矛盾はセム人とアーリア人の矛盾に帰着されるとした。

進化論から優生学・人種衛生学へ

ネアンデルタール人をフールロットと共同で1856年に発見した解剖学者シャーフハウゼンは、宗教の高度な思想を受け入れることのできない土着民は動物に近く、またアジアとアフリカの猿は土着の人種に類似していることから、人類多重起源説を主張した。

1864年の『自然選択理論から導かれる人種の起源』でウォレスは自然選択説から導かれることとして、精神組織が発達した知性の高いゲルマン人種のような優等人種は増加する一方で、劣等人種は逐次消滅してきたとし、人間の進化は有色人種の消滅まで続くとした。

チャールズ・ダーウィンは、異人種交配による退化の原因は交配によって決められる隔世遺伝のせいであると論じ、また『人間の由来』(1871)では人種の優劣を前提していた。イギリスではアーリア主義が進化論によって普及していったが、フランスやドイツのような反ユダヤキャンペーンとはならなかった。ダーウィンを弁護したハクスリーはアーリア人は芸術と科学を作り、セム人はヨーロッパの宗教の基本を作ったとした。ハクスリーは女性とニグロの解放に好意を示しながらも双方の遺伝的劣等を確信していた。

ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルは『自然創世史』(1868)で病弱の幼児を殺害した古代スパルタ人に見られるような人為淘汰を肯定した。

ダーウィンの従兄弟の遺伝学者フランシス・ゴルトンは『遺伝的天才』(1869)で知性は血統による遺伝的なもので、白人種はニグロやオーストラリア人種よりも優秀で、また人為選択による改良で高度な人種を作り出せるとした。ゴルトンは、聖職者に独身を強要したり異端裁判で大胆な種子を弾圧してきたカトリック教会や新教徒を弾圧したルイ14世を非難する一方で、イギリスは移民によって利益を得てきたとしてロシアからのユダヤ人移民を好意的に扱うなど反ユダヤ主義者ではなかった。しかし、ゴルトンは共同体の良い血統を残すために、わが人種の能力を弱体化させる習慣や偏見に対する聖戦を宣言する時が来るだろうとした。ゴルトンは1883年に優生学(Eugenics)を造語した。フランスの解剖学者ブローカも雑種現象は生物学的に有害としていた。

進化論は、適者生存の法則によって人類は白人種の下に進化していくとした社会学者スペンサーやサムナー、ヘッケルによって社会進化論へと発展した。スペンサー、ウォレス、サムナーも優良人種の保持は自然淘汰によって実現すると楽観していた。一方、社会主義者の優生学者・統計学者ピアソンは、アーリア人種とキリスト教徒は奴隷として見下してきた人々によって押し返されて目を覚ますだろうと悲観的に見た。イギリスではピアソンやロナルド・フィッシャーなどのネオダーウィニズムへと発展していった。

1873年、スイスの植物学者カンドルは遺伝の絶大な力を説明するなか、ヨーロッパにユダヤ人のみが住んでいれば戦争も道徳感覚が傷つけられることも失業もなくなり、文芸や科学は前進していくが、自然史の法則によって、ユダヤ人の理想都市はギリシア人、ラテン人、カンタブル人(古代スペイン)、ケルト人、ゲルマン人、スラブ人の末裔によって略奪されるだろうと論じた。カンドルは他の箇所では、厳しい旧約聖書に対して新約聖書には優しさ、思いやり、謙虚さがあり、宗教教育だけで育成したイスラエル人は暴力的であるとした。哲学者リボーは『遺伝-心理学的研究』(1873) でユダヤ人種は文明への憎悪に満ちており、悪徳を宗教のように愛しており、彼らの最大の野心はキリスト教徒から盗むことであると論じた。ニーチェは、プラトンやアリストテレスが「理想国家」にとって無用な者の遺棄を肯定し、古代ギリシアでは不具の新生児遺棄は普通であったことから「不具の子供を生かしておく方がもっと残忍なことだ」と書いた。

進化論や社会ダーウィニズムは、ドイツ帝国やアングロサクソン諸国で力の福音が説かれる際に権威となった。トライチュケは諸民族は生存競争によってしか繁栄できないとし、また戦争が永久になくなってしまえば、人間の魂の至高の力が減退し、エゴイズムが支配すると論じた。ドイツのジャーナリストのベータは『ダーウィン、ドイツおよびユダヤ人、またはユダヤ-イエズス会』(1876)で寄生的なセム人と生産的なゲルマン=アーリア人との間での生存競争に対して、反ユダヤ法の公布を要求し、ゲルマンの民族精神を退化させる「寄生生物の根絶」を主張した。農業家アレクサンダー・ティレは社会進化のために醜い人間の結婚を禁止すべきだと説いた。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルト(任期1901-9)は絶えず生存闘争を語った。

1899年、遺伝学者・人類学者ヴァシェ・ド・ラプージュは、フランス革命の破産は権力者が金髪の長頭人から短頭人に代わったためであり、民主主義の進展によって短頭人種の下層階級に権力が集中していき、フランスの偉大さを作った長頭人種のアーリア人は消滅し、生まれながらの奴隷である短頭人種は犬のように自分の主人を探すためアーリア人がいないところでは中国人やユダヤ人の支配下で生きるとした。そして、20世紀には頭指数が高いか低いかのために数百万の人々が殺し合い、大量虐殺を目の当たりにするだろうと予言した。ラプージュは「悪貨は良貨を駆逐する」のグレシャムの法則を援用して「悪い血は良い血を駆逐する」とも述べた。ラプージュは反ユダヤ主義者というよりもアーリア主義者であり、劣等の短頭人種を「アルプス人」とし、長頭人種アーリア人を「ヨーロッパ人」と定義し、短頭人種と長頭人種の混血を避けるために優生学による断種政策を提唱した。法学者でもあったラプージュは遺産の相続と遺伝について考察し、父権を否定しながら、近親交配が遺伝の力をひきあげるし、優れた人種が死ねば国家は死滅するとし、子に去勢を強いる父である神とキリスト教を否定して、太陽と男根を崇拝する宗教を提唱した。ヴィルヘルム2世はラプージュを「フランスの唯一の偉人」と称賛した。

人種衛生学を人類学者オット・アモン、優生学者アルフレート・プレーツ、シャルマイヤーらが展開した。1892年にはスイスの精神科医オーギュスト・フォレルが民族衛生学の観点から精神障害者の女性に対して断種手術を施し、1897年にはドイツで婦人科医エルヴィン・ケーラーが遺伝病の女性の断種手術(卵管切除)を行った。法律家アドルフ・ヨストは『死への権利』(1895)で、不治の病人は安楽死への権利をもつし、不治の精神病患者の殺害は本人の意思表示がなくとも医師の判断によって可能とした。

優生学者アルフレート・プレーツはカウツキーの社会主義やフェリクス・ダーンの人種主義を融合した『我々の人種の能力と弱者の保護:人種衛生学と社会主義的理想の研究』(1895)において、遺伝子次元での不適切な要素を除去することによって適者生存と社会主義の調和を図り、アーリア人種を保護するための人種衛生学を提唱した。ただし、ユダヤ人もアーリア起源とした。彼は人種の感覚を鈍らせた原因としてキリスト教と民主主義を批判した。1904年、プレーツは社会学者A・ ノルデンホルツや動物学者L・ プラーテらと世界初の優生学専門誌『人種社会生物学』を創刊し、第二次世界大戦前後には攻撃的な生物学思想の主要機関誌となった。1905年、プレーツは人種衛生学会を作り、ヘッケル、ヴァイスマン、ゴルトンが加わった。1907年には北方協会(Ring der Norda)を創設した。社会学者マックス・ヴェーバーによって1910年の第一回社会学者大会へ招待されたプレーツは講演「人種概念と社会概念」で、社会発展の鈍化の原因は社会的弱者の保護政策や生存闘争に基づく自然淘汰の低減にあるとし、民族衛生学的な解決策として性的淘汰によって劣悪な遺伝子の継承を防ぐこと、そして究極的な解決策として生殖細胞の淘汰による劣等生殖細胞の消滅(後の遺伝子操作)を提唱した。ヴェーバーはプレーツの人種概念が曖昧であり、民族生物学固有の問題の実質的な限界を踏みはずしてはならないと批判した。ただし、ヴェーバーも黒人やインディアンにも知的な上層部がいるが白人種と混血が多く、また知的に未熟な黒人を「半猿ども」と表すように白人種の優越を認める一方で、外見が白人なのに黒人との混血を重視するアメリカ人を批判した。またヴェーバーは「職業としての学問」(1917)では重態の患者や精神障害者の家族が安楽死を嘆願した場合でも医師は患者の命を保持しようとするが「生命が保持に値するかどうか」は医学の問うところではないとした。

1908年にはイギリスで優生教育委員会、1910年にはアメリカで優生記録局が作られた。アメリカでは優生学者ダベンポートが1911年には『人種改良学』を発表した。ゴルトンの優生学では常習犯の隔離や精神障害者の生殖の制限も主張され、アメリカでは1907年以降各州で断種法が制定され、移民排斥法や禁酒法などにも影響が見られた。

ワーグナー

作曲家リヒャルト・ワーグナーは若い頃には青年ドイツ派の影響を受けて、新しい音楽はイタリア的でもフランス的でもドイツ的でもないところから生まれると論じていた。

1839年からパリに移ったワーグナーは、ユダヤ人作曲家マイアベーアから庇護を受けた。ワーグナーもマイアベーアはドイツ人としての感情や良心を保持しており、フランスとドイツのオペラを美しく統一したと称賛した。なお、マイアベーアは多くのユダヤ人がキリスト教に改宗する時代において、改宗を拒否した唯一の例であった。一方でマイアベーアは聴衆のほとんどは反ユダヤ主義であるとハイネへの手紙で述べている。1840年にワーグナーは、ドイツは諸王国・選帝侯国・自由都市に分断されており、国民が存在しないために音楽家も地域的なものにとどまっていると嘆いたうえで、しかしドイツはモーツァルトのように、外国のものを普遍化する才能があると論じた。同年フランスがライン川を国境とすべきだと要求したことに反発したドイツ愛国運動(ライン危機)が広がり愛国歌謡が作られたが、ワーグナーはこれを嫌悪した。

しかし、成功しないワーグナーはパリに反感を持つようになり1841年にドイツ人は社交界から排除されているのに、ユダヤ系ドイツ人はドイツ人の国民性を捨て去っており、銀行家はパリでは何でもできる、と書いた。ユダヤ人銀行家の息子だったマイアベーアは偽客(サクラ)の動員やジャーナリスト買収などもしており、ハイネも批判していた。1842年にワーグナーはシューマンへの手紙でマイアベーアを「計算ずくのペテン師」と呼んだ。一方でワーグナーはこの頃、ハイネと親しくし、ハイネを素材に『さまよえるオランダ人』(1842年)を作成し、またハイネがユダヤ系のルートヴィヒ・ベルネをで批判すると、ワーグナーは擁護した。

1842年、ワーグナーはザクセン王国に戻り、ドレスデンのザクセン宮廷歌劇場管弦楽団指揮者となり、成功した。またワーグナーは歌劇場監督で社会主義者のアウグスト・レッケルの影響で、プルードン、フォイエルバッハ、バクーニンなどアナーキズムや社会主義に感化され、国家を廃棄して自由協同社会(アソシエーション)を目指し、1846年には楽団の労働条件の改善や団員の増強を要求し、翌年に宮廷演劇顧問のカール・グツコーの無理解な専制を上訴したがいずれも却下されたため辞任した。1847年夏には、ヤーコプ・グリムの『ドイツ神話学』に触発され、古代ゲルマン神話を研究した。

1848年のドイツ三月革命ではフランスのような「国民」を実現することが目指され、レッケルが「祖国協会」を組織し公職を追放された。ワーグナーは5月に宮廷劇場に代わる「国民劇場」を大臣に提案したが却下された。6月にワーグナーは祖国協会での演説において、共和主義の目標とは、貴族政治の消去、階級の撤廃とすべての成人と女性への参政権付与、金権とユダヤ人からの解放だとし、プロイセンやオーストリアの君主制が崩壊した後に美しく自由な新ドイツ国を建設して人類を解放すべきであると述べたが、共和主義者と王党主義者からも批判された。ワーグナーは、レッケルを通じてバクーニンと知り合い、1849年4月8日の「革命」論文では、革命は崇高な女神であり、人間は平等であるため、一人の人間が持つ支配権を粉砕すると主張した。

1849年5月のドレスデン蜂起でワーグナーも主導的な役割を果たし、指名手配を受けてスイスのチューリッヒに亡命した。そこでワーグナーは『芸術と革命』(1849)を著し、古代ギリシャ悲劇を理想としたが、アテネも利己的な方向に共同体精神が分裂したため衰退し、残忍な世界征服者のローマ人は実際的な現実にだけ快感を覚え、キリスト教は生命ある芸術を生み出せなかったし、ゲルマン諸民族もローマ教会への抵抗に終始し、ルネサンスも近代芸術も金儲けのための産業となって堕落したと批判し、未来の芸術はあらゆる国民性を超越した自由な人類の精神を包含する、と論じた。また、同年の『未来の芸術作品』では、共通の苦境を知っている民衆(Volk)と、真の苦境を感じずに利己主義的な「民衆の敵」とを対比させて「人間を機械として使うために人間を殺している現代の産業」や国家を批判して、未来の芸術家は音楽家でなく民衆である、と論じた。また、ヘーゲルの歴史哲学に影響を受けた『ヴィーベルンゲン 伝説から導き出された世界史』(1849年)で伝説は歴史よりも真実に近いとし、ドイツ民族の開祖は神の子であり、ジークフリートは他民族からはキリストと呼ばれ、ジークフリートの力を受け継いだニーベルンゲンは全民族を代表して世界支配を要求する義務がある、とするゲルマン神話について論じた。1848年革命の失敗によって、各地のコスモポリタン的な愛国主義は1850年代には排外的なものへと変容したが、ワーグナーもドイツ性を追求していった。

1850年、ワーグナーは変名で冊子『音楽におけるユダヤ性』を発表し、ユダヤ人は模倣しているだけで芸術を作り出せないし、芸術はユダヤ人によって商品・嗜好品へと堕落したと主張した。冊子ではユダヤ人の支配は、金が権力である限りいつまでも続くと述べ、1847年に死去したユダヤ系作曲家メンデルスゾーン・バルトルディを攻撃し(マイアベーアを名指しはしなかった)、またユダヤ解放運動は抽象的な思想に動かされてのもので、それは自由主義が民衆の自由を唱えながら民衆と接することを嫌うようなものであり、ユダヤ化された現代芸術の「ユダヤ主義の重圧からの解放」が急務であると論じた。ただし、ワーグナーはメンデルスゾーンの『ヘブリデス』序曲を称賛し、完全な芸術家であるとも評価しており、メンデルスゾーン本人よりも、メンデルスゾーン一派を台頭させた価値を創造せずにただ商品を流通させているだけの「音楽銀行家」を批判している。1851年、ワーグナーはリストに向けて、以前からユダヤ経済を憎んでいたと述べた。

1851年の『オペラとドラマ』でワーグナーは、古代ギリシャ人の芸術を再生できるのはドイツ人であり、ドイツ語だけが完璧な劇作品を成就できる、と論じた。

ワーグナーの知り合いでもあった自由主義者の作家フライタークの小説「借方と貸方」(1855)ではドイツ人商人が浪費癖の強いドイツ人貴族を助ける一方で、ドイツを憎むユダヤ商人は没落し川で溺死する話が書かれ、当時ベストセラーとなった。

1865年、ワーグナーはバイエルン国王ルートヴィヒ2世のために『パルジファル』を書き「ゲルマン=キリスト教世界の神聖なる舞台作品」と呼んだ。ワーグナーは『パルジファル』創作にあたって、大ドイツ主義者の聖書学者グフレーラーの『原始キリスト教』に影響を受けており「私はもっともドイツ的な人間であり、ドイツ精神である」と日記に書いた。

1867年にワーグナーは、フランス文明は退廃的な物質主義であり、すべてを均一化させ死に至らしめるものだが、これから逃れることができるのが、ローマ帝国を滅ぼしてヨーロッパを作ったゲルマン民族のドイツであると論じた。『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(1868年)では「たとえ神聖ローマ帝国は雲散霧消しても、最後にこの手に神聖なドイツの芸術が残る」(3幕5場)と述べられた。しかし、この作中でユダヤ人は出てこない。

1869年に北ドイツ連邦で宗教同権法(宗教の違いに関係ないドイツ市民同権法)が承認され、1871年にドイツ帝国全域で施行されると、反ユダヤ主義運動が高まりを見せたが、ワーグナーは同時代の反ユダヤ主義には同調しなかった。他方でユダヤ人資本家、宮廷ユダヤ人によって操られているプロイセン政府を軽率として批判した。またワーグナーはマルやデューリングの反ユダヤ主義は評価しなかったが、ユダヤ人の儀式殺人をとりあげたプラハ大学教授のアウグスト・ローリング神父の『タルムードのユダヤ人』(1871年)を愛読した。

普仏戦争の始まった1870年にワーグナーは、独創性のないフランス近代芸術は芸術を売りさばくことで計り知れない利潤をあげているが、ベートーヴェンがフランス的な流行(モード)の支配から音楽を解放したように、ドイツ音楽の精神は人類を解放する、と論じた。

1873年にはビスマルクの反カトリック政策である文化闘争を支持し、さらにカトリックだけではなく、横暴なフランス精神との闘争を主張した。しかし、ビスマルクがワーグナーの計画や要請を拒否すると、ワーグナーはプロイセンに失望し「アメリカ合衆国とロシアこそが未来である」と妻に述べ、アメリカへの移住を計画した。

ワーグナーは1880年の論文「宗教と芸術」で、音楽は世界を救済する宗教であり、キリスト教からユダヤ教的な混雑物を取り除き、崇高な宗教であるインドのバラモン教や仏教などを参照して純粋なキリスト教を復元しなくてはならないと論じ、失われた楽園を菜食主義と動物愛護と節酒によって再発見し、南米大陸への民族移動すべきだと提案した。ワーグナーに影響を与えたショーペンハウアーは、キリスト教の誤謬は自然に逆らって動物と人間を分離したことにあるが、これは動物を人間が利用するための被造物とみなしたユダヤ教的見解に依拠する、と論じた。ワーグナーの菜食主義は、ヒトラーの菜食主義にも影響を与えた。また、1880年には哲学者ニーチェの妹エリーザベトの夫フェルスターによって、ユダヤ人の公職追放や入国禁止を訴えるベルリン運動(Berliner Bewegung)の署名を求められたが、ワーグナーは拒否している。

晩年の1881年2月の論文「汝自身を知れ」でワーグナーは現在の反ユダヤ運動は俗受けのする粗雑なものと批判し、古代ギリシアの格言「汝自身を知れ」を貫徹すればユダヤ人問題は解決できると論じた。ワーグナーはユダヤ人の現実の排斥を主張したのではなく、フランスの流行や文化産業と一体化した現代文明におけるユダヤ性(Judenthum)全般を批判した。ワーグナーにとって、ユダヤ人は「人類の退廃の化身であるデーモン」であり「われわれの時代の不毛性」であり、ユダヤへの批判はキリスト教徒に課せられた自己反省を意味し、またユダヤ教は現世の生活にのみ関わる信仰であり、現世と時間を超越した宗教ではないとした。

同年9月の論文「英雄精神とキリスト教」では、人類の救済者は純血を保った人種から現れるし、ドイツ人は純血種族であったが、東欧からのユダヤ人の侵入によって衰退させられ、宮廷ユダヤ人によってドイツ人の誇りが慢心や貪欲と交換されてしまったと嘆いた。ユダヤ人は祖国も母語も持たず、混血してもその絶対的特異性が損なわれない人種で「世界史に現れた最も驚くべき種族保存の実例」であるに対して、純血人種のドイツ人は不利だとされた。なお、ワーグナーはユダヤ系の義父ガイアーが実父かもしれないとの疑惑を持っていた。同年、ワーグナーはルートヴィヒ2世への手紙でユダヤ人種は「人類ならびになべて高貴なるものに対する生来の敵」であり、ドイツ人がユダヤ人によって滅ぼされるのは確実であると述べている。しかし、この頃、反ユダヤ主義者に攻撃を受けたユダヤ人歌手アンゲロ・ノイマンを擁護しローエングリンとジークフリート役に好んで起用してもいる。この他、後年のワーグナーはユダヤ人奏者ルービンシュタインやタウジヒらを庇護して起用した。

1882年、ウィーンのリング劇場で800人が犠牲となった火災事故に対してワーグナーは「人間が集団で滅びるとは、その人間たちが嘆くに値しないほどの悪人だったということだ。あんな劇場に人間の屑ばかり集めて一体何の意味があるというのか」と述べ、鉱山で労働者が犠牲になった時こそ胸を痛めると述べた。また、ワーグナーは「人類が滅びること自体はそれほど惜しむべきことではない。ただ、人類がユダヤ人によって滅ぶことだけはどうしても受け入れがたい恥辱である」と述べている。

1882年夏、ワーグナーの崇拝者であったユダヤ人指揮者ヘルマン・レーヴィはルートヴィヒ2世の命によって『パルジファル』のバイロイト祝祭劇場初演を指揮した。『パルジファル』でワーグナーはインドの仏教やラーマーヤナをモチーフにしたが「キリスト教世界の外部」の中世スペインとして設定された。宗教と芸術の一致を目標としたワーグナーはレーヴィにキリスト教への改宗を要求したがレーヴィは拒否した。レーヴィは、ワーグナーのユダヤとの戦いは崇高な動機からのものであり、低俗なユダヤ人憎悪とは無縁であると考えた。前年に匿名で、コジマと不義の関係にあるユダヤ人に指揮させるなという手紙が届いたため、レーヴィは辞退を申し出たが、ワーグナーは気にせず指揮をするよう言った。ワーグナーの娘婿で反ユダヤ主義者チェンバレンはレーヴィを例外的ユダヤ人として称賛した。ワーグナーは1883年に死ぬ直前に「われわれはすべてをユダヤ人から借り出し、荷鞍を乗せて歩くロバのような存在である」と述べた。

ワーグナーの影響力は強く、フランスではサン=サーンスとグノー、ドビュッシーら、ドイツではブルックナーらが影響を受け、ユダヤ人マーラーはワーグナー派で度々ワーグナーを指揮しており、1898年には「ニーベルングの指環」作中のミームはユダヤ人への風刺だが、ミーメとは私であると述べた。ユダヤ系オーストリア人の作曲家シェーンベルクは1933年にワーグナーの『音楽におけるユダヤ性』に反論しながらも「私にとってワーグナーは永遠の現象である」と称賛している。

フランスではワーグナーから招待されたボードレール、マラルメ、モーリス・バレスがワーグナーに熱狂し、カチェル・マンデスはパルジファルに巨大で輝かしいアーリアの神々が浮かび上がるのを見た。1886年、ヴォルツォーゲン男爵は、ドイツ人とフランス人はアーリア人種であり、アーリア芸術を称賛した。雑誌『ルヴュ・ヴァグネリアン』の発行者で作家のエドゥアール・デュジャルダンはワーグナーは宗教を創始し、パルジファルは第三のアダムで、イエスが世界の終わりに現れるときにとる姿であるとした。ワーグナーは新異教主義(パガニズム)に大きな影響力を持ち、ヒトラーもワーグナーの崇拝者であった。

社会主義・無神論

フーリエ、トゥスネル

フランスの反ユダヤ主義は、フランス革命の後遺症とみなすこともできるとポリアコフはいう。なかでも、フランスの社会主義者はサン=シモン主義者を唯一の例外として反ユダヤ主義に染まっていった。

1808年、社会思想家シャルル・フーリエは人々を破産に追い込み稼いだユダヤ人についての教訓話を書き、ユダヤ人がフランスに拡散すると、フランスは巨大なシナゴーグになると論じた。1829年、フーリエはユダヤ人解放政策は金儲け精神の助長であり悪政であるとして「高利貸しの民族」であるユダヤ人は文明化を遂げていないと論じた。しかし、フーリエは1838年には『偽りの産業』でロスチャイルド家を旧約聖書のエズラ、セルバベルになぞらえ、ダビデ、ソロモンの王を復活させ、ロトシルト(ロスチャイルド)王朝を創始できると称賛しており、ポリアコフはフーリエはロスチャイルド家の共感をとりつけようとしたのではないかと指摘している。しかし、フーリエの思想に共鳴したフーリエ主義者は第二共和政時にユダヤ人議員クレミューが司法省にいることは脅威であるといったり、ドレフュス事件では反ユダヤ主義を標榜し、またフーリエから影響を受けたロシアの小説家ドストエフスキーもユダヤ嫌いであった。

1845年、フランスでシャルル・フーリエの弟子アルフォンス・トゥースネルが『ユダヤ人、時代の王 - 金融封建制度の研究』を刊行した。トゥスネルは産業革命のもとで生じた7月王政期の議会の腐敗や社会不安について、フランスが道徳的に無気力に陥り堕落したのはユダヤの金融資本家を中心とした「金融的封建支配」のせいだと主張し、大臣たちはフランスをユダヤ人に売ったと非難し「貨幣の貴族支配」を除去するため王と人民との結合を主張した。トゥスネルは「ユダヤ人」を「他人の資材と労働を食い物にしている通貨の取引人すべて、みずから生産に従事しない寄生者のすべて」といい、ここにプロテスタント、神の意思を読み取るのにユダヤ人と同じ書物を読むイギリス人、オランダ人、ジュネーヴ人も指し示しているという。トゥスネルのこの本は、ドリュモンの『ユダヤ人のフランス』(1886)が登場するまでは反ユダヤ主義の古典となった。

1846年、キリスト教社会主義のピエール・ルルーはトゥースネルと同じ題の『ユダヤ人、時代の王』をものし「ユダヤ人」とは高利貸し、貪欲に金を稼ぐことに熱意を示す人間すべてを意味するが、ユダヤ人の病は人類の病であり、投機売買と資本によってイエスは磔刑に処されていると論じ、敵は「ユダヤ的精神」であり、個々のユダヤ人ではないといった。

プロイセンのフェルディナント・ラッサールはユダヤ人の社会主義者・労働運動指導者だったが、奴隷として生まれついたユダヤ人に対して正しい復讐がわかっていない、と自己指弾し「私はユダヤ人のことをまったく好きになれない」と述べた。

ヘーゲル左派

ヘーゲル左派(ヘーゲル青年派)のユダヤ系社会主義者モーゼス・ヘスはユダヤ人は魂のないミイラ、さまよい歩く幽霊のような存在であり「ユダヤ教とキリスト教の神秘が、ユダヤ=キリスト教徒の商店主の世界に開示された」と述べるなどしていたが、後年、人種主義者となり、1862年の『ローマとイェルサレム』などでヨーロッパ社会にユダヤ人は同化できないとして、シオニズムのテオドール・ヘルツルに影響を与えた

1847年、理神論者のゲオルク・フリードリヒ・ダウマーは『キリスト教古代の秘密』で聖書批判を行い、過去数世紀にわたってキリスト教徒による儀式殺人を列挙した。儀式殺人はユダヤ教徒によってなされたとみなされてきたもので、血の中傷ともよばれるが、ダウマーはハーメルンの笛吹き男などの中世の幼児誘拐事件、異端審問、魔女裁判、サン・バルテルミの虐殺、ユダヤ人の大量虐殺などもキリスト教徒による儀式殺人であったと論じた。これは厳密な証拠ではなく、漠然とした疑いで書かれたものであったが、共産主義秘密結社「義人同盟」のパリ代表ヘルマン・エーヴァ−ベック(August Hermann Ewerbec)はダウマーの『キリスト教古代の秘密』をフランス語に訳し、1848年にロンドンにいたカール・マルクスはダウマーによってキリスト教儀式で人間の肉や血を食べたことが実証され、これは「キリスト教に加えられた最後の一撃」であると評価した。ダウマーはキリスト教側から攻撃を受けて、ユダヤ教に近づき、1855年には『ユダヤ人の知恵』を書いて、ユダヤ人共同体への加入を表明したが、ユダヤ共同体側は断っている。ダウマーの弟子フリードリヒ・ウィルヘルム・ギラニ−はダマスクス事件以後、ユダヤ人の食人風習を告発した。

無神論哲学者フォイエルバッハはダウマーの親友であり、ダウマーから影響を受けていた。フォイエルバッハは『キリスト教の本質』でユダヤ人の原理は利己主義と述べている。

レオン・ポリアコフは、ヴォルテールの反宗教キャンペーンから、ソ連の反宗教政策まで、反キリスト教を掲げる無神論の十字軍は、ダウマーと同種の思考様式が共通して見いだせると指摘している。ハイネは「無神論の狂信的な修道士たち」と述べている。

アルノルト・ルーゲはゲルマン主義の学生運動の活動家であったが、青年ヘーゲル派となり、1838年に機関誌『ハレ年報』を創刊した。ルーゲは1839年、『ハレ年報』で「キリスト教世界というチーズのなかに巣くったウジ虫ともいうべきユダヤ人」は無神論的であると論じた。ルーゲはマルクスと悶着した際に「恥知らずのユダヤ人」と言い、社会主義運動を「忌まわしきユダヤ魂の寄り合い」と非難している。ルーゲは後年、ビスマルク支持者となった。

マックス・シュティルナーは、人類の歴史の第一の時期にニグロ的な性質が棄てられ、第二のモンゴル(中国)の時期は暴力によって終わらせねばならないとした。そのためにあらゆる既成の信仰を転覆し、コーカサスの血をモンゴルの禍から解放して、コーカサス人のみのものとされる天を征服することを提唱した。

ブルーノ・バウアー

ヘーゲル左派の哲学者で無神論を根底に据えたブルーノ・バウアーは1841年、『無神論者・反キリスト教徒ヘーゲルに対する最後の審判ラッパ』で神への信仰は普遍的自己意識の獲得を阻害するとして批判し、また神聖同盟下のドイツにおける教会と国家の結合を批判した。しかし、プロイセン政府の検閲によってバウアーは1842年春にボン大学講師職を剥奪された。また、バウアーは福音書を「神話」としたダーウィト・シュトラウスの「イエスの生涯」(1835年)に影響を受けて福音書をマタイ・マルコ・ルカによる創作とした。

1843年の『暴かれたキリスト教』でバウアーは、神への拝跪による思考喪失を批判して、キリスト教からの人間の解放を主張し、発禁処分となった。同年、社会主義者で無神論者のヴィルヘルム・マルが『暴かれたキリスト教』の縮約版を刊行した。後年マルは「反セム主義(Antisemitismus)」を造語した。

同年の1843年の『ユダヤ人問題』でバウアーは、ユダヤ人への圧迫の原因はユダヤ教の偏狭な民族精神にあり、律法の命じる愚かしい儀礼がユダヤ人を歴史の運動の外におき、他の諸民族から切り離したとして、ユダヤ教徒が「空想上の民族性」にしがみつこうとする限り、ユダヤ教徒の解放はありえないし、それはキリスト教が自分の特権を保持しようとする限り解放されないのと同じだと批判した。またユダヤ人は市民社会の隙間に巣くい、不安定要素から暴利をむさぼり、普遍的人権を受け入れないし、ユダヤ人は金融でも政治でも一大権力をほしいままにしているとした。バウアーはすべての人間が宗教から解放されなけれならないのに、ユダヤ人だけを解放の対象とみなすことに反意を表明して、ユダヤ人解放論へ反論した。バルニコルは、バウアーの『ユダヤ人問題』は19世紀の最も知的で鋭い反ユダヤ主義の著作であると評した。また1843年から1844年にかけてバウアーは傍観者である「大衆」に対して、怠惰で自己満足であり「精神の敵」であると批判した。

1848年革命の翌年の1849年に発表した『ドイツ市民革命論』でバウアーは、ドイツ3月革命について市民階級が国王と妥協して労働者を締め出したし、フランクフルト国民議会も旧体制の連邦議会を再生したものと批判し「ドイツ市民」を思考喪失者として批判した。ローマ教会を批判してドイツ・カトリック運動を起こしたシレジアの司祭ヨハネス・ロンゲ(Johannes Ronge)を市民は理性を救う者として歓迎したが、バウアーは理性は自由な聖書解釈を行うとしてドイツ・カトリック運動を批判した。またバウアーはプロテスタントの自由ゲマインデ運動についても、領邦教会制度を批判せずに「愛と真理」といった空言を繰り返すだけで、ドイツ・カトリック運動と同じく聖書の自由研究を許していないと批判した。バウアーはモーゼス・ヘスたちの社会主義についても「凡庸な宗教」として、社会主義者はすでにある労働者組織に追随しているだけだと批判した。

1853年の『ロシアとゲルマン』でバウアーは、1848年革命以後、フランスは立憲主義から帝政主義へ変化し、帝政ロシアと対立し、ドイツは統一に失敗して分立しており、ヨーロッパは分裂と対立の時代となったとし、また、イギリスのユダヤ人首相ディズレーリ、フランスのユダヤ人銀行家フルドなどヨーロッパはユダヤ人に支配されており、ヨーロッパ諸民族の精神的宇宙は奈落に沈没したと論じた。

1863年、バウアーは『異郷のユダヤ』で、ユダヤ人によるドイツの支配は「人道主義的に軟化した瞬間に我々がユダヤ教徒を同等なものとして取り扱った」ことにあり、キリスト教徒にその責任があるとした。「我々がユダヤ人に対して自らを防衛しなければならないことの責任は、我々のみに、とりわけ我々ドイツ人にある。ユダヤ人が一時的に手に入れた勝利は、彼らが闘い取ったものではなく、我々が彼らにプレゼントしたものなのだ。彼らではなく、我々こそが現代にそのユダヤ的性格を刻印したのだ」と述べ、しかし「我々の責任であるがゆえに、我々はまだ負けてはいない」と述べた。

また、1848年ドイツ革命ではフランクフルト国民議会副議長リーサ−、治安委員会議長フェッシュホーフ、ジーモン議員、ヤコービ議員などユダヤ人政治家が活躍した。バウアーによれば、フェッシュホーフは皇帝位に代わって立ち、キリスト教を冗談とみなし、ウィーンをタルムードの占領権によって所有し、ジーモンを革命代表者とする顕彰運動のドイツ民族は代表者を生み出せず、歴史の目印をドイツ人はユダヤ人に借りなければならないという主張は厚かましいと批判した。バウアーは「革命は新しいものはなにも生み出さない。少なくとも、その怒りの爆発の瞬間には。それは、古い血の沸騰、歴史の下層の堆積物の露出、新しい時代のなかへの古代の闖入にすぎない」と革命思想を批判し、ユダヤ人が革命に期待しているのは自分の古代、自分自身だけであるとした。

バウアーはユダヤ的なあり方(Judentum)は単に宗教的教会だけでなく、人種的性質でもあるとし、ユダヤ人は扁平足で下半身はニグロ同様弱いのでしっかり立てず、分厚い皮膚と炎症性の血液からユダヤ人は「白いニグロ」といえるが、黒人の頑強さにも欠けており「われわれは、ドイツの労苦とドイツの血でもって築かれているドイツ国家のなかのドイツ人にすぎない。そして、われわれはドイツ国家の名前を、世界の最も不良化した者たちの更生施設として貸すつもりは絶対にない」と主張した。バウアーによれば、ユダヤ的なあり方(Judentum)とは「現代の世界威力」「キリスト教世界の均一化」「一党派の手中にある議会の決定」を指し、キリスト教徒の政治家がその代表とされた。

晩年のバウアーは『キリストと皇帝たち』(1877年)で、キリスト教はローマ帝政期のストア哲学の精神からユダヤ教を骨格として誕生したものとし、現代を紀元後1-2世紀のローマ帝政期にユダヤ人の寵臣がアウグストゥス、ティベリウス、カリグラ皇帝を取り巻き、ユダヤ教が勝利を誇っていた時代と重ね合わせ、『ディズレーリのロマン主義的帝国主義とビスマルクの社会主義的帝国主義』などを著し、反ユダヤ雑誌の創刊にも関わった。

マルクス

社会思想家カール・マルクスはラッサールと同じくユダヤ系であったが、ラッサールを嫌ってラッサールは黒人、ユダヤ人、ドイツ人の交配から生まれた「ユダヤ人のニグロ」とエンゲルスへの書簡で述べるなど、反ユダヤ主義的でもあった。1843年、マルクスは『ユダヤ人問題によせて』において、ユダヤ教の基礎は、実際的な欲求と利己主義であるとする。そして、ユダヤ教の世俗的祭祀は商売であり、その世俗的な神は貨幣であるとして、商売とあくどい貨幣からの解放が、現実的なユダヤ教からの解放であり、自己解放となり「ユダヤ人の解放は、その究極的な意味において、ユダヤ教からの人類の解放である」と論じた。マルクスは「貨幣は世界の支配権力となり、実際的なユダヤ精神がキリスト教的諸国民の実際的精神になった」「貨幣はイスラエルの妬み深い神」であり、手形はユダヤ人の現実的な神である、ユダヤ人の民族性は金銭的人間の民族性であるなどと論じた。マルクスは生涯を通じてみずからをユダヤ人と認識することを拒み、ユダヤ人による社会主義を快く思わなかった。マルクスは「ユダヤ人」を他人を批判するときに使っており、ユダヤ教学者シュタインタール、ウィーンのジャーナリストフリートレンダー(Max Friedländer)を「呪われたユダヤ人」、銀行家ルートヴィヒ・バンベルガー (Ludwig Bamberger) を「パリの証券シナゴーグ」の一員と呼んだり、また「ニューヨーク・デイリー・トリビューン」では匿名で金の商人は大部分ユダヤ人であるなどと書いた。マルクスにとってユダヤ主義は資本主義や利己主義の別名であり、ユダヤ人は高利貸しの別名であった。またマルクスはロシア人はモンゴル起源であるというドゥヒニスキーの説によって、ロシア人はスラブ人でなく、インド=ゲルマン人種に属してはおらず侵入者であると述べた。

フリードリヒ・エンゲルスはセム人とアーリア人は最も進化した人種であるが、黒人は数学を先天的に理解できないし、下等な野蛮人は動物の状態にかなり近いとした。

1848年にマルクスが編集長となった新ライン新聞の特派員エードゥアルト・テレリングは、1848年革命後、テレリングはプロイセン政府の御用記者となり、1850年に小冊子「来るべきマルクスとエンゲルスによるドイツ独裁制の前兆」でマルクスを批判した。テレリングは反ユダヤ主義と反マルクス主義の一大勢力の前兆であった。

プルードン

フランスの社会主義・無政府主義者プルードンはユダヤ人は「でっちあげ、模倣、ごまかしをもって事に当たる」、ユダヤ人は金利の上昇と下降、需要と供給の気まぐれに通称しており、まさに「悪しき原則、サタン、アーリマン」であると非難した。1858年に出版したプルードンの主著『革命の正義と教会の正義』では近代世界の退廃はユダヤ人が原因であると論じた。プルードンは、カトリシズムという有害な迷信の生みの親であるユダヤ人は頑迷で救いようがなく、進歩派の行動指針としては、ユダヤ人のフランスからの追放、シナゴーグの廃止、いかなる職業への従事も認めず、最終的にユダヤ信仰を廃棄させるとしたうえで「ユダヤ人は人類の敵である。この人種をアジアに追い返すか、さもなくば絶滅にいたらしめなければならない」と手帳に記した。プルードンは、ユダヤ人だけでなく、外国人労働者に対しても憎悪と懸念を抱いており「彼らは国の住民ではないのだ。彼らは単に利益を手に入れようとして国に入ってくるだけである。こうして政府自体が外国人を優遇することで得をし、外国の人種がわれわれの人種を目に見えないかたちで追い払っているのだ」と見ていた。プルードンは、ベルギー人、ドイツ人、イギリス人、スイス人、スペイン人などの外国人労働者がフランスに侵入して、フランスの労働者に取って代わることを嘆き、フランス革命、人権宣言、1848年革命の自由主義も、外国人に利益をもたらすのみであったとし「私は自分の民族に原初の自然を帰してやりたい」と述べて、フランスの民族はこれまでにギリシア人、ローマ人、バルバロイ、ユダヤ人、イギリス人によって支配されてきたことを嘆いた。プルードンにとって、ユダヤ人作家ハインリヒ・ハイネ、アレクサンドル・ウェイルは密偵であり、ロトシルト、クレミュー、マルクス、フールドは妬み深く刺々しく、フランス人を憎悪している。またプルードンは、女性解放運動に対して激しく攻撃する男性至上主義者でもあった。ポリアコフは、こうしたプルードンには20世紀のファシストの原型として権威主義的人格の先駆けを見て間違いないとしている。

パリでプルードンに感銘を受けて政治活動を展開した無政府主義者で無神論者のロシア人革命家ミハイル・バクーニンは、ドイツ人とユダヤ人を憎悪する反ドイツ・反ユダヤ主義者であった。

19世紀末までに社会主義、反資本主義と反ユダヤ主義とが密接に関連していくことで反ユダヤの言説が強大になっていった。社会主義と反ユダヤ主義のむすびつきは、1873年からの世界大不況の時代にさらに大きく展開していった。

キリスト教社会運動

19世紀の労働者の貧困問題については、1848年革命やマルクス主義よりも、キリスト教社会運動が解決に大きく貢献した。1837年4月25日に国際法学者で議員のヨゼフ・ブスが「工場演説」で労働時間の短縮、日曜労働の禁止などの動議を提出した。1840年代にはケルンのアドルフ・コルピングが職人組合運動を開始、カトリック労働者同盟が組織された。1862年、ヴェストハーレン農民組合が結成された。

1848年のリヒノフスキー侯爵とアウアスヴァルト将軍暗殺事件についてマインツ司教ケテラーは、犯人は気高い朴訥なドイツ国民ではなく、キリスト教をあざ笑い、口汚く罵っている者、革命を原理として家庭を破壊しようとしている者、邪神の前に国民を拝ませようとしている者こそが真犯人であると演説し、評判になった。「労働者の司教」と呼ばれたマインツ司教ケテラーは、1864年の『労働者問題とキリスト教』で労働者窮乏化の原因を労働に対する資本の優位に求め、1869年の演説で、フランス革命以降、国民経済が各国へ浸透した結果、労働者は自由になったが孤立し、労働者が肉体しか持たない一方で、金銭は大金持ちに集中し、資本は適性に配分されていないし、ロスチャイルド家とはこうした国民経済の産物であり、労働者は恐るべき悲惨な境遇に陥ると述べ、労働時間の短縮、安息日の確保、児童労働の禁止、女性・少女の工場労働の禁止を要求した。

当時は、労働者運動はキリスト教社会運動が主導していたが、マルクスが1875年にドイツ社会主義労働者党のゴータ綱領を批判、特に1891年のエルフルト綱領を革命的ではなくて改良主義的で日和見主義であると批判して以降、マルクス主義が労働者運動の主導権を握っていった。ケテラーは未完の原稿で、ゴータ綱領について、労働者の状況を改善する実践的な要求、結社の自由などに賛成する一方で、人工的で強制的な設計による結社では、サンジュストの「立法の任務は、こうあれ、と自分たちが望むように人間を造りかえることにある」という言葉のように、自分たちを理性の化身とし、敵は無知蒙昧の反理性であり、人間改造を受け入れない者は抹殺されてしまうため、結社は自生的なものでなければならないし、また労働者の結社は政治扇動や夢想ではなく、経済的改善を目指すべきであると批判した。ケテラーはゴータ綱領は、具体的で実践的な要求が後退しているし、労働者の求めていない空想的な制度転覆やユートピアの夢想、そして暴力は暴力を呼び、不当であり、憎悪と報復の上に築かれた社会は自己崩壊するとして、労使協調を訴えて批判した。また、ケテラーは社会主義はすべての人が充分な餌を与えられる完全な福祉国家を提唱するが、それは奴隷国家であり、家畜小屋には精神的な自由も行動の自由もないと批判した。

キリスト教社会運動は、1880年に労働者福祉会、1882年全ドイツ的農民組合、1890年ドイツ・カトリック国民協会を結成し、カトリック国民協会は1913年には会員87万人でドイツ最大規模の団体になった。他方、反ユダヤ主義を掲げキリスト教社会党を結党したアドルフ・シュテッカー、またオーストリア・キリスト教社会党を率いたカール・ルエーガーもキリスト教社会運動の影響を受けた。

1891年、レオ13世が回勅『レールム・ノヴァールム(新しき事:資本主義の弊害と社会主義の幻想)』。この社会回勅で、労働者の境遇について意見され、また社会主義と対決するため,私的所有権を堅持し、市場による需給調整の欠陥を社会政策で補うとされた。20世紀の1967年に教皇パウロ6世は私有権は無条件の権利でも絶対的な権利もないとし、1981年には教皇ヨハネパウロ2世は回勅「働くことについて」で「資本と所有に対する労働の優位」を語った。

「ユダヤ人からの解放」論

これまでに見てきたように、マルクスの『ユダヤ人問題によせて』(1843)、ワーグナーの『音楽におけるユダヤ性』(1850)やプルードンなどの反ユダヤ思想では、ユダヤ人が一大勢力となっていることを脅威に感じ、支配勢力であるユダヤ人からの解放が論じられてきた。そして、19世紀後半から20世紀にかけて「ユダヤ人からの解放」はユダヤ陰謀論などともなり、様々に現れていった。世界大不況時代の1880年代には、ドイツ語圏で「ユダヤ教徒の解放」をもじった「ユダヤ人からの解放」というスローガンが流布した。

1861年 - 匿名で『ユダヤ人迫害とユダヤ人からの解放』が刊行された。そのなかで「貨幣の権力、すなわち、自らは労働せずに、いわゆる営業の自由の利益を独り占めし」ている権力が批判され、金権支配の物質主義と官僚支配の機械主義が進行しているなか、貨幣権力は大部分ユダヤ教徒の手中にあり、ユダヤ人は近代自由主義のすべてを独占することに成功したと主張された。ここでは「ロートシルト家(ロスチャイルド家)を筆頭としてヨーロッパの証券取引所を支配しているユダヤ人金融家」を論じる一方で、ユダヤ教徒迫害は愚かで退けるべきであるとし「ユダヤ人からの解放」が主張された。

同1861年 - ドイツで匿名(著者はH.G.ノルトマンとされる)で『ユダヤ人とドイツ国家』が発表され、ベストセラーになった。この本は伝統的なキリスト教的なユダヤ教徒への嫌悪(Judenhaß)を復活させ、シェイクスピアの『ヴェニスの商人』からシャイロックの台詞が何度も引用され「ユダヤ人であること(das Judenthum)は、極端な分離主義と人種的思い上がりによって特徴づけられ、ユダヤ人の人間としての範囲はアブラハムの 子孫を越えることはない」「ユダヤの血とユダヤの意識は分離できないのであり、我々は、ユダヤ教(das Judenthum)を宗教や教会としてだけではなく、人種的特性の表現として把握しなければならない。だから、ユダヤ人とドイツ人の宗教的分離が廃止されれば二つの民族のあらゆる本質的区別がなくなるとか、両者の融合がさらに進めばユダヤ的性格がドイツ人に影響を及ぼすことはなくなるとか、思ってはならない」と主張し、ユダヤ人を人種(Race)、種族(Stamm)として論じ、またユダヤ人が公職に就く権利を要求しているのを批判した。同書によれば、キリスト教は普遍的平等と人間愛の世界宗教であるのに対し、ユダヤ教はイスラエル一族だけがエホヴァと盟約しており他の人類と敵対する排他的宗教であり、ユダヤ教は神政制度を基礎とした国家教会であるため、非ユダヤ的な者を無条件に同権者として承認することは神との決裂になり、従ってユダヤ教徒は非ユダヤ教徒を同権者として承認できないとする。これに対してヨーロッパのキリスト教諸国家は寛容思想によって宗教の隔壁を廃棄しようとしているが、ユダヤ教を誤解しているとヨーロッパのユダヤ政策を批判した。ただし同書末尾では、著者はユダヤ人への侮辱や憎悪を説くつもりはなく、ユダヤの本質の認識を目指したと説明している。

市民的リアリズムを代表する小説家ヴィルヘルム・ラーベの『飢餓牧師』(1864)は正直で貧しく慈悲深い牧師となるキリスト教徒に対して、不正直で権力欲に燃えるユダヤ教徒の野心は阻まれるという話で、改宗ユダヤ人の野心家が「私には、気の向くままにドイツ人になったり、その栄誉を手放したりする権利がある」と述べる。同じく市民的リアリズムの作家テオドール・フォンターネの小説では、ユダヤ人は一定の好意をもって描かれているが、ユダヤ人はユダヤ人同士でキリスト教徒と分かれて暮らした方がいい、レッシングの三つの指環という宗教的寛容を説く『賢者ナータン』の物語は不都合を引き起こしたと述べている。ヘルマン・ゲドシュ(筆名サー・ジョン・レットクリフ)の小説「ビアリッツ」(1868)では、ユダヤ人陰謀家がプラハの墓地で世界支配を計画したと描かれ、人気を博した。

聖書学

19世紀には聖書学が進展した。青年ヘーゲル派のダーフィト・シュトラウスは1835年に『イエスの生涯』を発表し、福音書での奇跡を神話として批判的に研究した。後年、ニーチェから批判された。

エルネスト・ルナンは1861年にコレージュ・ド・フランスでの開講初日にイエスを「神と呼んでもいいほどに偉大なる比類なき人間」と呼んで講義が停止され、翌1863年、『イエスの生涯』を刊行した。なお、ルナンはフォイエルバッハの反キリスト教の立場やゲルマン主義には批判的であり、新約と旧約を分離する反ユダヤ主義者ではなく、1882年ハンガリーのティルツラル・エツラルでの儀式殺人事件には抗議し、ロスチャイルド家から資金を調達して反ユダヤ主義の標的にもなった。しかし、ルナンは初期イエスはユダヤ教の枠の中にあったが、ユダヤ共同体での論争の激しさの犠牲となり、イエスはユダヤ教を徹底的な破壊者となり、偏狭なユダヤ性を克服していったと論じて、ユダヤ教を拒絶した。ルナンやダーフィト・シュトラウスによって史的イエスの研究が展開していった。

ダーフィト・シュトラウスから大きな刺激を受けたユダヤ教改革派ラビのアーブラハム・ガイガーは『ユダヤ教とその歴史』(1865-71)で、イエスの教えはオリジナルなものではなく、パリサイ派の倫理の延長にあり、イエス教では天国崇拝が新しいだけであるとして、イエスはガリラヤ出身のパリサイ派ユダヤ人であるとした。ガイガーは、リベラル・プロテスタントの視線でユダヤ教の歴史を描き、パリサイ派を進歩派、サドカイ派を保守派とみた。ガイガーによるパリサイ派のサドカイ派の対立の図式は、モムゼンにも影響を与えた。ガイガーは、当時1870年代の文化闘争などでカトリックに対抗するドイツのプロテスタントやリベラルな国民主義に接近し、ラビのユダヤ教を改革することで、ユダヤ社会の近代化を目指した。

ユリウス・ヴェルハウゼンは『パリサイ派とサドカイ派』(1874)『イスラエル史』(1878)などで、モーセ五書の律法よりも預言者エレミヤの個人的敬虔を重視し、さらに『申命記』などの祭祀法典はバビロン捕囚後に成立したとみた。ヴェルハウゼンは、6世紀頃からユダヤ教は古代イスラエル宗教を圧迫し、祭祀階層が預言者をとどめを刺して、律法が固定されたとして、このことによってパリサイ派は権力を把握した一方で、精神的イスラエルとしてのキリスト教が成長したとみた。ヴェルハウゼンは、ニーチェ、ヴェーバー、フロイトにも大きな影響を与えた。

普仏戦争とドイツ帝国の成立

1866年に7週間で終わった普墺戦争(プロイセン=オーストリア戦争)でプロイセン王国が勝利したことによってドイツ連邦は解体され、翌1867年にオーストリアと南ドイツを除いた北ドイツ連邦が成立した。

ケーニヒスベルク歴史学教授フェリクス・ダーンはイタリア統一直後に小説「ローマとの闘争」(1867)をイタリア化からのチロルの防衛を目的として書いた。この小説では中世のゴート人によるイタリア遠征を題材に、誠実で情潔なゲルマン人に対して、卑劣で臆病で計算ずくのユダヤ人の非業の最後が描かれる。

1869年、教権派のグージュノー・デ・ムソーが著書『ユダヤ人、ユダヤ教、そしてキリスト教諸民族のユダヤ化』において、世界イスラリエット同盟、儀式殺人、フリーメイソンのユダヤ人などの害悪を論じ、反キリスト教の陰謀を企て、各地で革命の種を蒔いているとする一方で、ユダヤ人の血には価値があり、高貴な民族であり、神秘的な生命力を持っていると称賛した。グージュノーは、野蛮なタルムードは憎悪と横領の教えであり、タルムードが破棄されるまではユダヤ人は非社会的な存在であり続けるが、それに先立ち、これまでにないほどの苛酷な試練が待ち受けている、そしてユダヤ人は「父の家」にふたたび加わり「永遠に選ばれた民、諸々の民のなかにあってもっとも高貴にしてもっとも威厳に満ちた民」として祝福されると論じた。グージュノーは、教皇ピウス9世から称賛され、教皇庁騎士号を与えられた。

1871年、普仏戦争でプロイセンと南北ドイツ諸邦がフランス帝国に勝利し、プロイセン王ヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿で皇帝に即位してドイツ帝国(正式名ドイツ国 Deutsches Reich)が成立した。ルター派市民は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」の比喩で「ドイツ国民の神聖福音主義帝国」として歓迎した。ドイツでゲルマンの人種的優越性が主張されるようになったのはナポレオン戦争で神聖ローマ帝国が1806年に崩壊したためであったが、フランスの反ユダヤ主義は普仏戦争での敗北で高まった。ルネ・ラグランジュは『フィガロ』でプロシア軍のパリ凱旋について、軍人の後を広いふちの帽子をかぶり、眼鏡をした長い髪の集団が行進し、これは間違いなくドイツ軍に従軍するユダヤ人金融業者であったとした。ドリュモンもこの行進を目撃していた。

プラハ大学教授アウグスト・ローリング神父は『タルムードのユダヤ人』(1871年)でユダヤ人の儀式殺人について書いた。これはヨハン・アンドレアス・アイゼンメンガーの『暴かれたユダヤ教』(1700年)を底本にしたものだったが、1885年、ラビのヨーゼフ・ザームエル・ブロッホから名誉毀損裁判を起こされ教職を辞した。しかし、ローリングの著作はヨーロッパのカトリック界で支持され、フランスでは1889年に翻訳三種が出版された。また、ローリング神父の著書を読んでキリスト教に改宗するユダヤ人も多くいた。

ドイツ語圏では、1867年から1914年までに儀式殺人訴訟が12件繰り返された。1899年、ボヘミアの儀式殺人訴訟では、レーオポルト・ヒルスナーが有罪となったが、これ以外の儀式殺人訴訟はすべて被告は無罪であった。ヒルスナー事件では、プラハ大学の哲学教授マサリクが弁護して、儀式殺人は退けられるが、ヒルスナーは19歳の娘を殺害したとして死刑判決を受けたが恩赦された。

19世紀後半期ドイツのマスメディアでは、自由主義者エルンスト・カイルが1853年に啓蒙的・進歩主義的な家庭雑誌『ガルテンラウベ(Die Gartenlaube)』を創刊し、1848年革命で目指されたドイツ統一を主張する「国民自由主義」の立場を展開し、1848年の3月革命で失敗した市民が政治や社会から目を背けて家庭に心の避難場所を求めていた時代に発行部数を伸ばした。同誌の専属作家E.マルリットは1873年の「荒野のプリンセス」でユダヤ人の祖母を排除しようとしたプロテスタントを批判して寛容をテーマとした。普仏戦争期には従軍記事も多く掲載し「全ドイツ人の一体感が呼び起こされた」という記事も掲載された。1873年の文化闘争でカトリックやイエズス会を批判し、1874年には「ユダヤ人は自分では働かず、他人の知的、肉体労働による生産物を搾取している。この異族はドイツ国民を支配し、その骨の髄までしゃぶりつくしている」という記事を掲載した。すでにカイルら3月革命の自由主義者はエリート層となり、既得権を守ろうという意識が働いていた。

1870年代当時は、プロテスタントの『十字架新聞』とカトリック系の『ゲルマーニア』が二大新聞であり、『ゲルマーニア』はユダヤ人迫害とは宗教上のものではなく異民族の侵入に対するゲルマン民族の抗議であると主張したが、反ユダヤ運動には加担しなかった。またビスマルクの内政を批判した。一方で、『十字架新聞』は反ユダヤ主義記事の掲載を続け、同紙に掲載されたヘルマン・ゲートシュの幻想小説は『シオン賢者の議定書』に影響を与えた。

世界大不況の時代 (1873年-1896年) とユダヤ資本主義論

産業革命によってイギリスは世界経済の中心となったが、19世紀末になると後発資本主義国家のアメリカ合衆国とドイツが成長してイギリスを追い越した。ドイツが統一されドイツ帝国が成立すると1871年から1872年にかけて投機ブームが起こった。しかし、この投機ブームは1873年恐慌からの世界大不況によって終焉を迎え、多くの投資家が破産し、企業の倒産が続いた。1873年恐慌の震源地は米国とドイツであった。その後ドイツは1887年に好況に入ったが、1890年の恐慌はドイツから始まった。1873年から1896年まで展開した世界大不況の時代にヨーロッパ各地で反ユダヤ主義が高まっていった。

ドイツのユダヤ人が全きドイツ国民となり市民権が認められたのはドイツ帝国においてだった。かつて高利貸しなどの金融に限定されていたユダヤ人は法的身分を保障され解放されるともに産業経済に進取的に参入し、さらに国際規模で経済活動を展開し、産業資本主義を発達させるのに主導的な役割を果たした。解放されたユダヤ人は盛んな投資活動を行いさまざまな商工業分野で成功した。進出した業種は金融、繊維、鉄鋼、化学、製油、電気、衣料、鉄道、海運、百貨店、武器弾薬などの軍需産業に及んだ。また、ユダヤ人資本家はドイツ帝国主義を支持してアフリカのダイヤモンド鉱山の開発を主導し、こうしたユダヤ人の国際的な活躍は「国際ユダヤ資本」理論を生み出した。1880年にはフランクフルトの銀行業85%がユダヤ人経営となり、1933年のナチ政権まで全ドイツ百貨店の80%がユダヤ人経営となった。1900年頃、フランクフルトのユダヤ人市民の納税額はキリスト教市民の4倍から7倍にもなった。ユダヤ人の大学入学率はプロテスタントの10倍、カトリックの15倍となった。ユダヤ人は近代化、近代社会の象徴とされ、憎悪された。躍進著しいユダヤ人に対する人々の妬みや反感は反ユダヤ主義の潮流を高めた。ユダヤ人は社会主義者からみれば敵のブルジョアジーであり、反対に資本家の眼には社会主義者・革命家とうつる存在であり、ユダヤ人が国際ネットワークを使って世界支配の陰謀をめぐらすというユダヤ陰謀論(脅威論)が様々な形態をとって繁殖していった。

19世紀末に人種主義的反ユダヤ主義が強かったのはオーストリア・ハンガリー帝国、フランス、ロシアであり、ドイツ帝国でも個人に対する国家の優越、秩序と権威の重視、国際主義と平等への反発などを背景にユダヤへの敵意が膨れ上がった。

フランスでも社会主義者やカトリックからの反ユダヤ主義が強く、ドイツと同様のユダヤ陰謀論が跋扈した。またドレフュス事件は大きな分岐点となり、数々の反ユダヤ主義団体が結成されていった。

ドイツ

コンスタンティン・フランツは1874年にドイツ帝国とビスマルクの軍国主義を批判し、永久平和を保障するヨーロッパキリスト教連邦を計画した。フランツは、かつてヨーロッパのキリスト教共同体を統轄した神聖ローマ帝国であったドイツがその担い手となるし、ビスマルクの偽帝国に代わる真の帝国の樹立がドイツの使命とした。フランツはこのキリスト教帝国においてはユダヤの影響からの解放が条件とした。フランツによれば、人種を超えて普及したキリスト教やイスラム教と違ってユダヤ教は一つの人種に基づくし、ユダヤの民はメシアを死に至らしめたあと、神の呪いによって放浪し、このことが他の民を罰するための神の道具となって、キリスト教徒間の戦争はユダヤの支配を強めることとなり、ビスマルクは「ユダヤ民族のためのドイツ帝国」の樹立に向かっているとし、真の進歩は「ユダヤ的進歩」にとって代わる必要があると論じた。

社会主義

大不況下の帝政ドイツでは社会主義運動が高まり、ラッサールの全ドイツ労働者協会と、ベーベル・リープクネヒトのドイツ社会民主労働党が合併したドイツ社会主義労働者党が1875年に結成された。しかし、社民党や共産党でもユダヤ知識人は攻撃され、ベーベルもユダヤ人社会主義者を頭はよいがめざわりとし、この見方は正統的社会主義に深く根をおろし、特に共産党では反ユダヤ主義が強かった。ユダヤ人は労働運動のなかでも孤立した。1878年5月11日と6月2日に元ドイツ社会主義労働者党員によってドイツ皇帝ヴィルヘルム1世暗殺未遂事件が二度起こると「社会民主主義の公安を害する恐れのある動きに対する法律(社会主義者鎮圧法)」が作られたが1890年には失効した。ドイツ社会主義労働者党は1890年帝国議会選挙では第一党となり、同年9月、ドイツ社会民主党へ改称した。

1878年、帝宮礼拝堂付司祭アドルフ・シュテッカーは、社会主義を穏健なキリスト教社会主義と破壊的なユダヤ社会主義とに区別して、ユダヤ人の市民権制限、公職追放、ユダヤ人移民制限、工場法、利子制限法、累進課税と相続税、徒弟制度などを主張して、勤労者のためのキリスト教社会党(Christlich-soziale Partei)をベルリンで結成してベルリン運動を展開、1879年にはプロイセン議会議員、1881年には帝国議会議員となった。経済学者アドルフ・ワーグナーも党の創設に関わったキリスト教社会党は反ユダヤ宣伝を行った。

1879年にA・ピンカートがドレスデンでドイツ改革協会を設立し、さらに1882年に国際反ユダヤ会議を設立した。政治家E.ヘンリチやM.L.フォン・ゾンネンベルクらが参加し、シュテッカーの支持者も合流した。

なお、1878年にドイツ主催で締結された露土戦争の講和条約ベルリン条約では諸宗教の平等規定が含まれた。

1879年、無神論者で社会主義者だったジャーナリストのヴィルヘルム・マルが「反セム主義(Antisemitismus)」という語を用いた。ハンブルク出身のマルはブルーノ・バウアーらの影響を受けて無神論に傾倒して、1844年にスイスで労働運動を組織して失敗し、1848年革命ではハンブルクで革命に参加後、スイスに亡命して無政府主義グループに参加した。マルは1862年に『ユダヤの鑑』を発表して、1879年に『非宗教的見地から見たゲルマン主義に対するユダヤ世界の勝利』というパンフレットを出版した。マルはこのなかで、金融界の慣習はユダヤ的であることに疑いはなく、ユダヤ人は迫害に耐えて生き抜くことを可能にした人種的素質によって勝利したとし「ユダヤ人は、いかなる非難を受ける筋あいはない。彼らは、18世紀もの長きにわたって西洋世界を相手に戦い抜いてきたのだ。彼らはこの世界を打ち負かし、支配下に置いた。われわれは敗者であり、そして、勝者がウァエ・ウィクティス(敗者に災いあれ)」を叫ぶのは当然のことなのだ」として、ドイツ人はすでにユダヤ化しており、反ユダヤ感情が暴発しても、ユダヤ化した社会の崩壊をくい止めることはできないと論じて「われわれにとっては神々の黄昏の始まりだ。あなた方(ユダヤ人)は支配者であり、われわれ(ドイツ人)は農奴となった。ゲルマン世界は終焉を迎えた」と結論した。マルはドイツの自由主義がドイツ財政および産業をユダヤ人が支配することを許していると批判した。この書物は出版から数年で十数回の版を重ねた。マルは、同じ1879年に反セム主義者連盟(Anti Semiten Liga)を結成して、反ユダヤ主義の最初の大衆運動となり、フリッチュに影響を与えた。こうしたマルの活動は、ドイツ民族によるユダヤ的本質の絶滅を目標にしていたとされる。

マルクスやラッサールを批判した社会主義経済学者オイゲン・デューリングはエンゲルスによっても批判されたが、『人種、風俗、文化問題としてのユダヤ人』(1881)、『完全な宗教への代替と近代民族精神によるユダヤ性の除去』(1883)などで、事実的なことや現実的なことに関して才能がないユダヤ人は形象や夢にとらわれて暮らし、比輸によって思考している空想家、神話形成者であるため「北方の人間はより厳しいより冷静な天空の下で、際限を知らないこの民族を論理で撲滅しなければならない」と述べ、ユダヤ人を抑えつけるためには社会主義以外の方法はないとし「ユダヤ人からの解放」を主張した。

トライチュケ・グレーツ・モムゼン論争

ルター派の歴史学者で国民自由党議員のハインリヒ・フォン・トライチュケは、1879年に発表した論文「われらの展望」で、ユダヤ人は株式相場や出版界を支配するが、ユダヤ人とゲルマン的人間との間には深い溝があり「ユダヤ人こそわれらが不幸」であり、寛容な最良のドイツ人でも心の奥底ではこうした見解を共有していると論じた。「ユダヤ人は我々の不幸だ」というフレーズはナチス時代にもよく引き合いに出された。

この論文の背景にはユダヤ教徒の歴史家ハインリヒ・グレーツの存在があった。シオニズムに近いユダヤ民族主義者だったグレーツは大著『ユダヤ人の歴史』でキリスト教を「宿敵」「不倶戴天の敵」と明確に敵視し、ユダヤ人のキリスト教への改宗を「裏切り者」として厳しく批判した。グレーツは新約聖書をタルムードを使って読み直し、ユダヤ教とキリスト教の亀裂を拡大した。グレーツによれば、イエスは神の子だと主張したために告発されたのであり、福音書はメシアの出現を後知恵で証明しようとした物語にすぎないと批判した。また、タルムードでイエスはヨセフ・パンデラと処女ミリアムとの不倫の子であり、ユダヤ共同体から追われて神の名を用いて奇跡の力を学んだがラビ団のユダに打ち負かされて死刑となったとされるが、グレーツはこれも作り話としてイエスはユダヤ教エッセネ派であるとした。

トライチュケはグレーツの本はキリスト教に対する狂信的な怒り、ゲルマン人への憎悪であると批判した。トライチュケはユダヤ人の同化と改宗による編入を希求したが、改宗を拒否したグレーツに対して「わが(ドイツ)民族を理解することも、また理解しようともしないオリエント人」と非難した。トライチュケは人種主義者ではなかったが、ポーランドから流入する東欧ユダヤ人はいつかドイツの新聞と株式を支配するだろうと警告した。実際、ポーランド(ポーゼン)からの東欧ユダヤ人には、『ベルリナー・ターゲブラット』紙社長・新聞広告業でモッセ・コンツェルンを築いたルドルフ・モッセ(弟アドルフは日本の憲法起草に携わった)、国民自由党指導者エドゥアルト・ラスカー、経済学者アルトゥール・ルッピン、ゲルショム・ショーレムの曽祖父がおり、そして歴史家グレーツがいた。

歴史家テオドール・モムゼンはトライチュケによって反ユダヤ主義は品行方正なものとなったが、反ユダヤ主義は国民感情の堕胎であり、狂信的愛国主義であると評した。モムゼンは『ローマの歴史』などでユダヤ人は歴史を動かす酵母であり、ユダヤ人が諸部族を解体したことでローマ帝国の建設に貢献したと評価し、またテオドール・フリチュやチェンバレンらのユダヤ人を国民集団の破壊者とする反ユダヤ主義に対しては国民感情の妖怪として批判した。しかし、そのモムゼンも、キリスト教は文明人同士をつなぐ唯一の絆であり、ユダヤ人にキリスト教への改宗を執拗なまでにすすめ、トライチュケと同じようにユダヤ人のドイツへの融合(同化)を願った。モムゼンは、ユダヤ人がドイツ人に同化するには犠牲を払う必要があり、ドイツ文化に友好的に参加すべきであるし、公民の義務を果たし、ユダヤ人の特殊な作法を廃すべきであるとした。モムゼンもユダヤ民族主義者のグレーツを支持したわけではなく、モムゼンはグレーツについて文芸界の隅っこにいる「タルムード学史の編纂屋」にすぎず、ローマ帝国にいたユダヤ人歴史家ヨセフスや哲学者フィロンとは比較にならないほど小さな存在であるのに、なぜそんな相手に論争を挑むのか、とトライチュケを戒めた。モムゼンはトライチュケと同じく国民自由党に所属していたが、トライチュケがビスマルクを支持した一方で、モムゼンはビスマルクを国民統合の破壊者とした。また、モムゼンはリベラル・プロテスタントの「反ユダヤ主義防衛連合」を創立したが、同連合はユダヤ民族主義(シオニズム)に不快感を表明し「ユダヤ信仰のドイツ国家市民中央連合」を創設してシオニズムに対抗した。反ユダヤ主義防衛連合のアルプレヒト・ウェーバーは、ユダヤ人にも反ユダヤ主義についての責任があるとして、同化を拒否するユダヤ人を批判した。シオニストのヘルツルは、反ユダヤ主義を批判しながらユダヤ人に同化をすすめる反ユダヤ主義防衛連合に対して、自尊感情を持って最後の避難所を見つけようとしているユダヤ人を貶めようとしていると批判した。

トライチュケの論文に対するユダヤ人知識人の反応は、ユダヤ人はすでに同化しておりドイツへの愛国心を保有しているというものが多く、同化を拒否するグレーツはヘルツルのシオニズムが登場するまでは例外であった。新カント派のユダヤ系哲学者ヘルマン・コーエンはユダヤ教を信奉しながらも同化を勧め、ユダヤ人は皆ドイツ人の容貌を備えていたらどれほど幸せであっただろうと常常感じていると主張した。ユダヤ人の平等を訴えてきた自由主義者のユダヤ人ベルトルト・アウエルバッハは晩年にキリスト教社会党のシュテッカーやドイツ保守党のハンマーシュテインによるユダヤ人批判に対して「私はドイツ人であり、ドイツ人以外の何ものでもなく、生涯全体を通してもっぱらドイツ人であると感じてきた」「消え失せろ、ユダヤ人、おまえはわれわれとは何の関係もない」と手紙に書いた。

1880年代ドイツのその他の思想

ベルリンでは1880年から1881年にかけて、暴徒がユダヤ人を襲撃したり、ユダヤ人商店やシナゴーグに放火するという暴動が続いた。19世紀末ドイツの反ユダヤ主義を広めたのは学校教員、学生、公務員、事務員、レーベンスレフォルム(Lebensreform 生活改革運動)、菜食主義者、生体解剖反対論者、裸体運動や自然復帰主義のナチュリストなどの都会人であり、田舎の農民や貴族の大地主や聖職者ではなかった。裸体運動では、ゲルマン人種と、ロマンス人種・スラヴ人種・ユダヤ入種との婚姻が禁止された。

反ユダヤ主義が高まるなか哲学者ニーチェはユダヤ人に対して繰り返し称賛と感謝を表明し、反ユダヤ主義者を「絶叫者ども」と批判した。ただし、ニーチェは若い頃には反ユダヤ的な偏見を持っており、ワーグナーへの手紙ではドイツの豊かな世界観が「哲学上の狼藉や押しの強いユダヤ気質」によって消え去ったと嘆いたこともあったし、東欧ユダヤ人のドイツ流入には後年でも反対だった。

ニーチェは『反時代的考察』(1873年-1876年)で、ダーフィト・シュトラウスや雑誌『グレンツボーテン』の執筆陣を教養俗物として批判し、『グレンツボーテン』もニーチェを批判した。雑誌『グレンツボーテン』の中心にいた作家グスタフ・フライタークは、皇太子フリードリヒ3世のブレーンであった。ニーチェは1875年に「粗野な力と鈍感な知識人」によるキリスト教が「諸民族にあった貴族主義的天才」に対して勝利したと批判し、またキリスト教はその「ユダヤ的性格」のため、ギリシャ的なものを不可能にし、古代ギリシャの範型が消滅したと論じた。1878年の『人間的な、あまりに人間的な』では「ヨーロッパをアジアに対して守護したのはユダヤの自由思想家、学者、医者だった」として、ユダヤ人によってギリシア・ローマの古代とヨーロッパの結合が破壊されずにすんだことについてヨーロッパ人は大いに恩に着なければならない、と述べた。1881年『曙光:道徳的先入観についての感想』では、ユダヤ人の美徳と無作法、反乱奴隷特有の抑えがたき怨恨について論じたあと「もしイスラエルがその永遠の復讐を永遠のヨーロッパの祝福に変えてしまうならば、そのときはかの古きユダヤの神が、自己自身と、その創造と、その選ばれた民を悦ぶことができる第七日が再び来るであろう」とユダヤ人に人類再生の希望を見た。

ヨーロッパ主義者であったニーチェは「反セム主義」を皇帝とビスマルクのドイツ帝国の下でのドイツ統一運動であるとし「国粋主義の妄想」「畜群」「奴隷の一揆」と批判した。さらにヨーロッパはユダヤ人に最善で同時に最悪なもの、すなわち「道徳における巨怪な様式、無限の欲求、無限の意義を持つ恐怖と威厳、道徳的に疑わしいものの浪漫性と崇高性の全体」を負うており「ユダヤ人がその気になれば(…)、いますぐにもヨーロッパに優勢を占め、いな、まったく言葉通りにヨーロッパを支配するようになりうるであろうことは確実である」と述べ、ユダヤ古代の預言者は富と無神と悪と暴行と官能を一つに融合し、貧を聖や友の同義語とするなど価値を逆倒し、道徳上の奴隷一揆をはじめたとも論じ、ユダヤ人を「ルサンチマンの僧侶的民族」とも評した。ニーチェはユダヤ教を古代の純粋なユダヤ教と、第二神殿以降の祭祀ユダヤ教とを区別し、新約聖書は祭祀ユダヤ教を体現したものであり、キリスト教と祭祀ユダヤ教は奴隷道徳を生み出したと批判し、古代の純粋なユダヤ教を称賛した。

ニーチェは、皇帝ヴィルヘルム2世が1888年にルター派教会を把握したことでリベラル・プロテスタントが国民主義の担い手となった結果、反ユダヤ主義が形成されたとみており、パウロの出自であるユダヤ人を称賛したのは、こうした背景があった。さらにニーチェはパウロや使徒によるイエスの神学化を嘘つきでイカサマ師であると非難した。

1888年9月の『アンチキリスト』では「ユダヤ人は人類を著しくたぶらかしたために、キリスト教徒は、自身このユダヤ人の最後の帰結であることを悟らずに、今日なお反ユダヤ的な感情を抱いている」と書いた。ポリアコフはこの箇所で、ニーチェは反ユダヤ的な方向へ屈折したとみている。オーバーベックはニーチェの反キリスト教は反ユダヤ主義から来ているとする。また、ニーチェの妹エリーザベト・フェルスター=ニーチェは夫のベルンハルト・フェルスターとともに反ユダヤ主義運動を展開し、のちにナチ党の支援者となった。

「世界帝国」ドイツと全ドイツ連盟

1891年、英独の植民地を交換したヘルゴラント=ザンジバル協定に抗議してアルフレート・フーゲンベルク(のちドイツ国家人民党党首)が提唱し、軍人、政治家、実業家などによる全ドイツ連盟(Alldeutscher Verband,汎ドイツ連盟)が結成された。全ドイツ連盟は、汎ゲルマン主義の中心となって、アフリカでの植民地帝国の建設、中央ヨーロッパでのドイツの覇権の確立を要求した。社会学者マックス・ヴェーバー、シュトレーゼマン(1923年に首相)、生物学者ヘッケルやラッツェル、汎ゲルマン主義者チェンバレン、歴史家カール・ランプレヒトも加入した。

ドイツナショナリズムを支えたのは、フランス、イギリス、スラヴへの敵意や恐れ、国内では社会民主主義の脅威、ドイツは堕落したという意識などであった。普仏戦争(1870-71年)で敗北したフランスが復興するとドイツは予防戦争としてシュリーフェン計画を策定した。さらに1894年に露仏同盟が締結されると、ドイツにとって対フランス・ロシアの二正面作戦が現実の課題となったため、軍の増強を図った。保護関税と艦隊建設を軸とした農本主義および全ドイツ主義的な「結集政策」が展開され、次第にドイツ・ナショナリズムは帝国主義へ傾斜していった。この頃ドイツ帝国は極東の中国や日本にも干渉するようになった。またドイツ帝国はイギリス海軍に対抗できるドイツ海軍の拡張を目指し、政府はドイツ艦隊協会を結成して帝国主義を鼓舞した。

1890年以降、ビスマルク崇拝、皇帝崇拝=ホーエンツォレルン崇拝が広まった。1896年に皇帝ヴィルヘルム2は「ドイツ帝国は世界帝国となった」と演説した。同年バルバロッサ神話に基づき、ヴィルヘルム1世を称えてキフホイザー記念碑が建造された。バルバロッサ神話では、第3回十字軍総司令官として出征中に死亡した神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサが帝国が再興される日までテューリンゲンのキフホイザー近くの山に眠るとされた。また、トイトブルク森の戦いでローマによるゲルマニア征服を阻止したアルミニウス記念碑も建造された。ヒトラーは1914年フランドルの会戦に向かう途中で訪れている。

資本主義の進展に伴い、農村の危機が意識されるようになると、ユダヤ人は農民を根こそぎにしてドイツ民族の最も真正なものを破壊する近代産業文明と同一視された。オットー・ベッケルのヘッセン農村運動、1893年に設立された農業者同盟(Bund der Landwirte)は反ユダヤ的であり、フェルキッシュで反ユダヤ的な運動は農村地域でも浸透していった。ヴィルヘルム・フォン・ポーレンツの小説「ビュットナーの農民」(1895)では、農民がユダヤ人に借金し土地を抵当に入れるが、ユダヤ人はその土地を工場に売り、農民は自殺するという筋書きで、ユダヤ人への反感を扇動した。カトリック文学改革運動のカール・ ムートは、科学・通商・株式・ジャーナリズムが国際的(インターナショナル)であるのに対して、文学・農耕・手工業・芸術は国民的(ナショナル)なものであるとし「ユダヤ人はどこにも家を持たず、従ってまたどこにでも家を持つが故に、凡庸な精神の代表者なのである」と批判した。

1904年から1907年にかけてドイツ領南西アフリカでヘレロ族の反乱をドイツ帝国が鎮圧した時に、ヘレロ・ナマクア虐殺が起こった。

フランス第三共和政

フランス第三共和政(1870年 - 1940年)が1881年に出版の自由法を成立させると、フランス市民は自分たちの政治的な意見を自由に表明することが可能となり、反ユダヤ主義的な意見の公表もその権利を保護されることとなった。1881年7月、カトリックの機関誌『同時代人』はロシアのポグロム、そしてドイツとルーマニアでも反ユダヤキャンペーンが猛威を振るっているが、カリクスト・ド・ウォルスキのユダヤ人の今回の不幸は自分の責を問うよりほかに仕方がないのであり、ユダヤ人は太古の昔より地上の支配権を持つことを目的にしていると報じ、その典拠はゲートシュの小説『ビアリッツ』(1868)に求められ、これは『シオン賢者の議定書』で取り入れられた。同じく1881年、パリで『反ユダヤ人(L'Anti-juif) 民族防衛機関誌』が週間で出版された。

1881年末にフランスのカトリック資本系の大手銀行ユニオン・ジェネラル(Union générale)銀行が破綻すると、同銀行の創始者ボントゥーは破綻の原因をロスチャイルドによる金融操作と述べた。カトリック聖母被昇天修道会のバイイ兄弟が発刊した『クロワ』紙や雑誌「ペルラン(巡礼者)」などで、銀行の倒産はユダヤ系財閥のロスチャイルド家の策謀によるものであるというユダヤ陰謀論が繰り広げられ、財産を失ったカトリック市民の反ユダヤ感情を醸成させていった。この騒動はモーパッサンの『モントリオル』(1887)、ゾラの『金』(1891)、ポール・ブールジェの『コスモポリス』(1893)などの小説で描かれた。また、シャボティー師による『我らの支配者ユダヤ人』やシラクの『共和国の王』など、ユダヤ資本主義論が登場した。

左翼のウジェーヌ・ジェリオン=ダングラールは、1882年に刊行した『セム人とセム主義』で、歴史学者ミシュレの『人類の聖書』での昼の民族と夜の民族の区分を引いて、アーリア民族あるいはインド・ヨーロッパ民族だけが偉大な文明と正義と美を持ち、セム人は退化と退廃にあるとし「セムの血と教義がアーリアを本質とする住民と文明に浸透していくのではないか」と懸念し、セム主義(ユダヤ主義)を「真の国家内国家。これこそは考えうる限りの唯一の社会悪、もっとも恐ろしい国際的災厄である」と主張した。

プルードン派社会主義者のオーギュスト・シラクはフランス第三共和政の背後にロスチャイルド家をはじめとするユダヤ系銀行家の策謀をみて、1883年に『共和国の王者たち、ユダヤ金融の歴史』を発表した。

1882年には、反ユダヤ主義の週刊誌『反セム主義 我らが敵、ユダヤ人!』、1883年には週刊誌『L'Antisémitique(反セム)』が創刊された。

1884年、革命家ブランキの右腕でパリ・コミューン政府のコミューン評議会議員をつとめた革命的社会主義者のギュスタヴ・トリドンは『ユダヤのモロク主義』を出版した。トリドンは同書で、劣等人種セム族は文明の闇、地球の悪であり、ペストをもたらすとして、セム族との戦争は貴種アーリア人の使命であるとした。古代パレスチナのモロク神信仰での人身御供を批判した。なお、レビ記ではモロク神に子供を儀式で捧げることを禁止している。

このように第三共和政では、反ユダヤ主義は反教権主義の左翼によって担われた。しかし、1880年代になると、フランスの反ユダヤ主義を主導するのは、社会主義からカトリック陣営に引き継がれた。

1879年から1881年にかけて、シャボティー神父、クローディオ・ジャネ、ダルゾン神父などが反フリーメイソンと反ユダヤの思想を展開した。エマニュエル・シャボティー神父は1880年には偽名サン=タンドレで『フリーメイソンとユダヤ人』を発表していたが、出版自由法施行後の1882年には本名で『われらが主人、ユダヤ人』を刊行した。

1882年4月、『歴史問題評論』は「ユダヤ人が世界を牛耳っている。必然的に結論づけられるのは、フリーメイソンがユダヤ化を果たし、ユダヤ人がフリーメイソン化を果たしたという事実である」と報じた。イエズス会は隔月の教皇庁機関誌『チヴィルタ・カトリカ』で中世以来の儀式殺人を取り上げて、ユダヤ攻撃を開始、19世紀末まで間断なく続けられた。

1884年、クローディオ・ジャネとルイ・デスタンプは共著『フリーメイソンとフランス革命』を発表した。ジャネは1892年の『19世紀における資本、投機、金融』では、反ユダヤ運動は元来宗教運動であり、反資本主義闘争として反ユダヤを掲げる社会主義は、キリスト教から本質を奪おうとする扇動であると論じた。

カトリック勢力による反共和主義・反ユダヤ主義の背景には、フランス革命以来の反キリスト教化運動と政教分離の過程があり、第三共和政政府とフランス・カトリック教会との熾烈な対立があった。教会は公教育から分離され、カトリックが家庭を破壊すると反対していた離婚法も、フリーメイソンのジュール・フェリーや、ユダヤ系のアルフレッド・ナケによって成立した。1880年には政府無許可の宗教団体が解散され、1886年には公立学校教師を非聖職者に限定する法律も成立した。ナケはユダヤ系であったためカトリック司教たちが差別的な言辞を受けた。

1880年代当時、フランスのユダヤ人の人口は8万人弱であり、全体の約0.2%であったが、実業や文学、芸術で活躍するユダヤ人が目立った。

1880年代に多くの著作でコレージュ・ド・フランス心理学教授ジュール・スーリは、人間は人種に由来する本能によって動かされ、アーリア人種の勇敢さやセム人種の無気力さは本性によるものとした。

ドリュモン

1886年、ジャーナリストのエドゥアール・ドリュモンが1200ページの大著『ユダヤのフランス』を出版した。ドリュモンはフーリエ派のトゥースネルやプルードンなど社会主義的反ユダヤ主義の影響を受けていた。ドリュモンはこの書物の冒頭で「フランス革命で唯一得をしたのはユダヤ人である。すべてはユダヤ人に由来し、すべてがユダヤ人の手元に帰っていく」とし、十字軍から聖ルイ王、アンリ4世、ルイ14世のフランスではユダヤ人に門戸を閉ざしていたのに、共和主義と非宗教性(ライシテ)の近代フランスは「ユダヤ人のフランス」となったとする。さらに、ユダヤ人は「金ずくめで強欲、陰謀と策謀を好む狡猾なセム人」であり、それに対して「情熱豊かで英雄的で人を疑うことを知らないアーリア人」とを対比し、昨今のキリスト教徒迫害は、フランスの破滅を目的をした陰謀の序章にすぎず、巻末では、1800年前からな変わることなくキリストは民衆の家の窓に吊るされ、罵詈雑言にさらされ、そして町には神殺しの執着に衰えをみせないユダヤ人が溢れかえっているとした。また、ユダヤ人は敵国ドイツ人のスパイであり、ドイツのユダヤ人であるロスチャイルドの銀行によって、フランス民衆はドイツとユダヤに搾取されていると論じた。この書物は19世紀フランス最大のベストセラーとなり、フランスの反ユダヤ主義を醸成した。ドリュモンは、従来のキリスト教の反ユダヤ教主義と近代の科学的人種理論とをつなぎ合わせて、新しいタイプの反ユダヤ主義としての反セム主義(antisémitisme)を拡散させた。

ドリュモンは無名で出版社を見つけるのに苦労していたが、ユダヤ人嫌いで有名な流行作家アルフォンス・ドーデが尽力して出版が実現した。

ドリュモンの『ユダヤのフランス』が出版されると、ドーデは「人種の啓示者」として、批評家でアカデミー・フランセーズ会員のジュール・ルメートル(Jules Lemaître)は「19世紀最大の歴史家」、ベルナノスは「千里眼を超えた観察者」としてドリュモンを絶賛した。この本に対してユダヤ系メディアは批判したが、聖職者の間で熱狂的な反響を呼び、カトリック系『クロワ』 紙は、反ユダヤ主義者のジョルジ ュ・ド・パスカル神父がユダヤ人に対する「戦友」であると支持し、カトリック系の若いジャーナリストに影響を与えた。さらに高級日刊紙『フィガロ』で編集長フランシス・マニャールが、ドリュモンの主張するユダヤ人財産の没収とは共和主義者によるカトリック教会の財産没収と同じであるし、ドリュモンは共和主義者富裕層に対する「カトリック社会主義者」であると紹介すると、当時最大の大衆紙『プチ・ジュルナル』『マタン』『プチ・パリジャン』、ボナパルティスト、リベラル派カトリック、社会主義急進派など右派と左派を問わずに他のメディアもドリュモンを取り上げた。ただし『プチ・パリジャン』は「狂信的な憎悪の書」「中傷文書」であると批判した。ドリュモンの『ユダヤ人のフランス』には3000人のユダヤ人名一覧が掲載されていた。右派オルレアニストの「ゴーロワ」編集長メイエルがドリュモンの本で「ユダヤ人」として中傷されているのに怒り、決闘を申し込んだ。決闘でメイエルが規則違反をすると、ドリュモンは「汚いユダヤ人!ゲットーへ消えろ!」とわめいて決闘が中止になると、メディアのトピックとなり、やがて「善良なアーリア人が卑怯なセム人にやられた」という噂が広まっていった。ドリュモンの『ユダヤのフランス』はフランスの反ユダヤ主義の醸成に多大な影響を与えていっただけでなく、ドイツ、イタリア、ポーランド語へ翻訳され、また、カリクスト・ド・ウォルスキ『ユダヤ人のロシア』(1887)、ジョルジュ・メーニエ『ユダヤ人のアルジェリア』(1887)、フランソワ・トルカーズ『ユダヤ人のオーストリア』(1900)、ドエダルス『ユダヤ人のイギリス』(1913)などの模倣書が続々と刊行されていった。ドリュモンはその後も著作を立て続けに刊行した。

同じ1886年に、社会心理学者ギュスターヴ・ル・ボンは、ユダヤ人は芸術、科学、産業など文明に寄与しうるものを一切手にしてこなかったし、旧約聖書は卑猥な物語を満載したものと非難した。

1888年のパナマ運河疑獄事件では、実業家レセップスがスエズ運河を建設したあとにパナマ運河の建設に着手したが、技術的に工事が不可能であることが発覚したため債券を発行して資金を集めたが破綻した。レナック男爵とコルネリウス・エルツ、アルトンなど買収工作人がみなユダヤ人であったため反ユダヤ主義が高まった。

革命100周年の1889年に、改宗ユダヤ人のジョゼフ・レマン神父は論文『ユダヤ人の優位』でユダヤ人は無実な神の子を死にいたらしめたと述べ、2年後に風刺週刊誌に「ロスチルド家」を発表した。1889年9月、カトリック系ジャーナリストのジャック・ド・ビエと陸軍士官学校のマルキ・ド・モレス侯爵が「フランス反ユダヤ同盟(Ligue antisémitique de France)」を設立し、ドリュモンは会長となった。副会長のビエの肩書は「民族社会主義者(National-Socialiste)」であり、ナチス党(国家社会主義ドイツ労働者党,Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )の先駆けであった。マルキ・ド・モレス侯爵は北米ダコタ準州に牧畜王国を築き、パリでは反ユダヤ主義とサンディカリスム(労働組合主義)を融合させて、屠殺業者による武闘集団を組織した。

1890年、パリ国立割引銀行の経営が行き詰ると、ロスチルド家が原因とされた。同年、カトリック系の新聞『ラ・クロワ』は「フランスで最も反ユダヤ的な新聞である」と自称したが、これは反ユダヤ主義であるということが支持されたためである。1891年にはユダヤ人の蔑称であるyoutre(ユダ公)を冠した新聞『反ユダ公(L'Anti-youtre)』が創刊され、これまでの反ユダヤ主義は教権派によるものだったと不満を表明した。

1892年、ドリュモンが反ユダヤ主義日刊紙『リーブル・パロール』を創刊し、1892年5月より同紙上でユダヤ人将校は国防機密を取引すると非難するキャンペーンを始めた。ユダヤ人の子弟には軍職に就くものが多く、士官学校でも1%の4万人中300人がユダヤ人であった。なお、『リーブル・パロール』の出資者の利権屋ゲランはその2年前には反ユダヤ主義への戦いと称してユダヤ人に資金提供を求めており、また『リーブル・パロール』の管財人クレミューは改宗ユダヤ人であった。またユダヤ系将校マイエールとモレスの1892年6月23日の決闘でマイエールが死ぬと、ドリュモンはこれほどの勇者の血が戦場で祖国のために流されなかったことを嘆かわしく思うと述べるなど、ユダヤ人であっても「血のよる洗礼」を経れば「よきユダヤ人」になるという観念があり、フランスの反ユダヤ主義はドイツやオーストリアよりも弛みがあったとポリアコフはいう。

カトリックの思想家レオン・ブロワは同1892年、ドリュモン一派を批判して「中世の純粋な反ユダヤ主義」への回帰を主張する『ユダヤ人による救い』を刊行した。ブロワによれば、ドリュモンたちの商業化された「左翼的反ユダヤ主義」は、ユダヤ人はフランスの金を盗んだのだから返還すべきだという金儲け主義的な主張にすぎず、これは中世からの反ユダヤ主義の遺産を台無しにした。ブロワは「ユダヤ人の歴史は、あたかも堤防が川を堰き止め、その水位を上昇させるがごとく、人類の歴史を堰き止めている」とし、ユダヤ人とは「キリストの忠実なる友、初期の殉教者全員を生み出した民」であり、中世のヨーロッパはユダヤ人を「専用の犬小屋に押し込め、特殊なぼろ着でくるむことにより、一般人に彼らとの出会いをあらかじめ回避させるという良識(ボン・サンス)を発揮した」と論じた。ブロワの同書では、ユダヤ人は「世界中の醜悪なるものすべての合流点」であり、腐ったボロ着に身を包んだユダヤ人古物商について「チフスを輸出するためか」と不快感を書いている。

同1892年、ランス教区広報ではロトシルド家はユダヤ人種のドイツ国籍であり、フランス人ではないと書かれた。クレルモン教区広報では、ドイツ人とユダヤ人はフランス人を敗者・奴隷として扱ってきたと批判した。

ドレフュス事件から祖国同盟・アクションフランセーズまで

1894年、ドイツ大使館付き武官シュヴァルツコッペンのゴミ箱から発見された軍事機密文書は、筆跡鑑定からユダヤ人大尉ドレフュスのものとされ、さらにドレフュスはイタリア大使館からも買収されていると告発された。軍は証拠不十分のまま非公開の軍法会議においてドレフュスに有罪判決を下し、南米仏領ギアナ沖の悪魔島で禁錮刑とした。このドレフュス事件は冤罪事件であったが、それまで常軌を逸した奇習にすぎなかったフランスの反ユダヤ主義はこれ以降決定的な潮流となった。

ドレフェス事件は国際的な話題となり、ドリュモンは、ドイツ人、イギリス人、イタリア人はなぜ反フランス的な人間であるドレフェスの肩を持つのかと述べた。後にアクシオン・フランセーズの中心的な活動家となるレオン・ドーデは「ドレファスはわれわれフランス人の破滅を画策した。しかし、彼の犯罪はわれわれの意気を高揚させもしたのだ」として「われらが人種、われらが言語、われらが血のなかの血」以外は信を抱くまいと表明した。作家のモーリス・バレスは、ユダヤ人を「比類なき論理学者で、銀行口座そのままの明晰さ、非人称性に裏打ちされている」と賞賛したり、ディズレーリにも賛辞を捧げた。しかし、ドレフェス事件が発生すると「ドレフェスが裏切りをやりかねないということを、私は彼の属する人種から判断する」と述べ、バレスはドレフェス事件以降は「国民的エネルギー」三部作でユダヤ人金融業者が「われわれの政府」であると描いた。

1896年に情報部長ピカール中佐は、真犯人はハンガリー生まれのエステルアジ少佐であることを突き止めたが、軍は権威失墜を恐れてもみ消しを図り、ピカールを左遷、エステルアジを無罪釈放した。

作家ゾラは、1898年1月13日新聞「オーロール」で「私は弾劾する」を発表し、ドレフュスの不法投獄を告発した。しかし、ゾラは告訴され、名誉棄損で有罪となった。1898年の1月と2月にフランス各地で69件の反ユダヤ暴動が起き、アンジェとマルセイユで約4000人,ナントで約3000人、ルアンで約2000人の群衆がユダヤの商店やシナゴーグを破壊した。反ユダヤ主義のデモや暴力沙汰が相次ぐなか、ドレフェス派のフィガロ編集長ロデーは更迭された。アルジェリアで反ユダヤ暴動が発生すると、マックス・レジはドリュモンに立候補を打診した。1898年5月総選挙で、ドリュモンは当選し、アルジェリア選出の3名の議員と議会内で反ユダヤグループができた。

1898年夏、ドレフェス有罪の証拠とされてきた文書が偽書であったことをアンリ大佐が認めた後、自殺した。9月6日ガゼット・ド・フランスでシャルル・モーラスはアンリ大佐は「国家の偉大な利益への英雄的奉仕者」であると論じた。またモーラスは「ユダヤ教の育まれた真のプロテスタントは、生まれながらにして国家の敵」と、プロテスタントも敵視していた。1898年12月にドリュモンはアンリ大佐未亡人のための募金活動を開始、ドリュモンやモラスらはアンリ大佐は祖国への殉教者であると主張し、アンリ大佐記念碑のための募金には73名の議員、モーリス・バレス、詩人ジャン・ロラン、ジープ、ピエール・ルイス、フランソワ・コペ−、ポール・ヴァレリー、ポール・レオトーなどの文人詩人が名を連ねた。

1898年にはフランス祖国同盟、ドリュモンの「全国反ユダヤ青年会」、シャルル・モーラスとアルフォンス・ドーデの息子レオン・ドーデによるアクション・フランセーズなどの反ユダヤ主義組織が誕生し、フランスにおける反ユダヤ主義の頂点であると同時に出発点となった。政治活動家ポール・デルレードは反ドレフュス活動を展開した。

ゾラやフランス人権同盟を結成した人権派がドレフェスを擁護したことに対抗して1898年10月末、教師のドーセとシブトンが哲学教授アンリ・ヴォージョアの助力を得て反ドレフェス文書を作成してリセを一巡した。1898年12月、ヴォージョアとジャーナリストのピュジョが「アクション・フランセーズ」記事でフランスの社会を再建して強力な国家になることを主張した。ドーセらの活動に賛同したアカデミー・フランセーズ会員の詩人フランソワ・コペ、ジュール・ルメートル、モーリス・バレスらは1898年年末から翌年にかけてフランス祖国同盟を結成した。画家のドガやルノワール、作家のフレデリック・ミストラル(ノーベル文学賞)、SF小説のジュール・ヴェルヌ、コレージュ・ド・フランス教授・数学者カミーユ・ジョルダン、物理学者ピエール・デュエムなど多数の学者・芸術家が加盟した。バレスは「ドレフェス事件それ自体は無意味である。重大なのは反軍国主義と国際主義の教義のために、ドレフェスが捏造され利用されている」ことであると宣言した。ただし、祖国同盟では反ユダヤ主義とナショナリズムの教義は退けるとしながら、反ユダヤ主義者も受け入れるとした。1899年1月19日、祖国同盟議長ルメートルが、ユダヤ人、プロテスタント、フリーメイソンが連帯して過去の復讐を償わせるために、ここ20年フランスの権力を握っていると演説をした。ただし、同盟会員のアナトール・フランスはドレフェス擁護派だった。

しかし、祖国同盟の目的のなさに不満を持ったプジョとヴォージョワとシャルル・モーラスは1899年6月、反ユダヤ主義-反議会主義-フランス伝統主義を明言した右翼組織アクション・フランセーズを結成した。アクション・フランセーズはフリーメイソン精神、プロテスタント精神、ユダヤ精神に対して、カトリックを称揚した。モーラスは完全なナショナリズムは君主制の復興にあるとして王政主義を主張した。アクション・フランセーズはドイツの国家社会主義との共通点を持っていたが、民族の祖先についてはキリスト教教派を超えた結束を目指すエキュメニズムの立場をとり、ユダヤ人は考慮外として、ゲルマン人だけでなく、ケルト人、リグリア人、ガラチア人、ギリシア人、ローマ人も神殿に迎え入れた。純粋なアーリア人の血統を顧みないアクション・フランセーズに対して、後年1940年代にパリのナチス支持のフランス人民党員の人類学者ジョルジュ・モンタンドンは「アクション・マラーノ」と批判した。

社会主義者ギュスタヴ・テリーは反軍国主義、反教権主義、反ユダヤ主義であり、創刊したルーブル紙では「ユダヤ人は敵」「ユダヤ禍」「権力が組織するユダヤ侵略」「いたるところにユダヤ人」という決まり文句が多用された。また、『シオン賢者の議定書』は1897年から1899年のあいだにパリで練り上げられた。『シオン賢者の議定書』はロシア帝国内務省警察部警備局パリ部長のピョートル・ラチコフスキーが現在も身元不明の作者に依頼して作成したものであった。

ゾラの「我弾劾す」を掲載した「オーロール」紙主幹で社会主義者のクレマンソーはドレフェス擁護派であったが、1898年の『シナイの麓にて』ではユダヤ人は「爪を尖らせた両手でいかがわしい品々にがめつくしがみつく」、活力に満ちた人種であり「この世で最も貴重な人間の宝」であると賞賛する一方で「みずからの神々をわれわれに押しつけようとしたがために、蔑まれ、憎まれ、迫害され続けてきた彼(セム人)は、地上の覇者となることによって立ち直り、みずからを完成に導こうとしている」と述べ「アーリア的理想主義の見地から、私はこの事実(ユダヤ人の活力)を一つの不幸としてとらえている」と論じた。クレマンソーによれば、キリスト教徒はユダヤ人を根絶する必要性を感じているが、しかし、それはキリスト教徒の素行を正すだけでその必要はなくなるとした。

1899年9月の軍法会議再審でドレフェスは禁錮10年に減刑された。

反セム主義政党・団体とシオニズム運動

19世紀末には反セム主義を標榜した政党が続出した。一方でユダヤ人はシオニズム運動を展開していった。

  • 1878年、キリスト教社会党(Christlich-soziale Partei)がベルリンで結成。ドイツ宮廷司祭アドルフ・シュテッカー。
  • 1879年、ドイツで反セム主義者連盟(Anti Semiten Liga)結成。ヴィルヘルム・マル。
  • 1886年、ドイツでテオドル・フリッチュがドイツ反ユダヤ協会を設立。
  • 1889年、ジャック・ド・ビエとマルキ・ド・モレスがフランス反ユダヤ同盟(Ligue antisémitique de France)を結成した。ドイツではゾンネンベルク(Max Liebermann von Sonnenberg)がドイツ社会党(Deutschsoziale Partei)を結成した。
  • 1890年、ベッケル(Otto Böckel)が反ユダヤ国民党(Antisemitische Volkspartei)結成。
  • 1892年、ドイツ保守党がティヴォリ綱領で反自由主義・反社会主義・反ユダヤ主義を掲げた。また、ドイツ中部・西南部では困窮した農民による反ユダヤ農民運動が展開した。
  • 1893年
    • テオドール・ガルニエ師がカトリック的ポピュリズムの組織「ユニオン・ナショナル」を設立。
    • ドイツ帝国議会選挙でドイツ社会党、反ユダヤ国民党など反ユダヤ諸党の議席数が5席から16席となった。ドイツ社会党らは院内会派としてドイツ改革党を結成し、代表にジンマーマンが就任した。背景は農業関税の引き下げにあるとされる。
    • 5月、ドイツユダヤ人最大組織のユダヤ教徒ドイツ国民中央連盟が結成。
  • 1894年
    • フランスでデュビュ(Dubue)が「反ユダヤ青年(Jeunesse antisemitique)」を設立
    • ドイツ改革党はドイツ社会改革党(DSRP)へ改名し、最大の反ユダヤ主義政党となり「ユダヤ人問題は20世紀最大の問題となるであろう、そしてそれはユダヤ人の完全な分離と、最終的にはその絶滅によって解決される」と党の方針に明記した。
  • 1896年、ドレフュス事件に衝撃を受けたテオドール・ヘルツルは『ユダヤ人国家』を著してシオニズム運動を起こした。ヘルツルは「フランスのユダヤ人はもうユダヤ人ではない」と述べたが、これはフランスのユダヤ人の同化が進んでいたためであり、フランス人への同化を主張するユダヤ長老会議(コンシトワール)は「フランス革命をもってすでにメシアの時代が到来済みである」と唱え、また多くのユダヤ人思想家たちがキリスト教徒よりもフランス人でありたいと公言していた。翌1897年、ヘルツルはバーゼルで第1回シオニスト会議を主催した。ヨーロッパのみならず、ロシア、パレスチナ、北アフリカなどから200人以上の代表が集まり、白と青の二色旗が掲げられた。
  • 1897年春、実業家ジュール・ゲランが「反ユダヤ同盟」を結成した。モレス侯爵が国政選挙活動のためにつくった反ユダヤ組織を再建したもので「国民の労働」を擁護して、フランスで銀行や鉄道等の企業を所有するユダヤ人のくびきからフランス人と国民を解放することが目指され、ユダヤ人の公職追放を主張した。
  • 1902年、シオニストのヨーゼフ・クラウスナーは『タンナイ時代におけるユダヤ民族のメシア的理念』で、イエスはメシアではありえず、預言者として認められたわけではないとした。

オーストリア・ハンガリー帝国

1866年の普墺戦争でプロイセンに敗北したオーストリア帝国ではフランツ・ヨーゼフ1世(在位1848年 - 1916年)治下の1867年、アウスグライヒ(妥協策)でハンガリー王冠領におけるマジャール人指導者に自治権を認め、オーストリア・ハンガリー帝国として再建された。しかし、支配階級のドイツ人の間ではドイツナショナリズムが高まり、オーストリア帝冠領では人口3分の1のドイツ系マイノリティの支配が続くことに対してスラブ系住民は不満を高じた。多民族国家であったオーストリアは対ユダヤ人融和策をとり、1860年代の自由主義的な風潮の中で、職業・結婚・居住などについてユダヤ人に課せられていた各種制限を撤廃した。これは、前世紀のヨーゼフ2世の「寛容令」の完成であり、アメリカ独立宣言やフランス人権宣言において唱えられた自由・平等の実現でもあった。土地所有が禁じられていたユダヤ人たちに居住の自由が与えられたため、それまで縛り付けられていた土地から簡単に離れることができた。しかし、オーストリアでも反ユダヤ主義が徐々に高まっていった。1880年のアウストリアクス筆名の著作『オーストリア ユダヤに縁取られた宝石』は、ターフェ伯爵が祖国をユダヤ人に売ったとして批判された。

ハプスブルク帝国のオーストリアで最初に大々的な反ユダヤ主義を主張したのはゲオルク・フォン・シェーネラーである。シェーネラーは反教権主義的社会主義とゲルマン民族主義を主張し、またオーストリアとドイツの関税同盟を目標にした。シェーネラーは普墺戦争での敗北に衝撃を受けて、帝国が北ドイツ連邦から締め出されたことを屈辱と感じ、ビスマルクを信奉して、オーストリア帝国とドイツ帝国の統一(汎ゲルマン主義)を主張した。シェーネラーは初期の国民社会主義者であり、自由主義、ユダヤ、カトリック、ハプスブルク多民族国家を敵視し、ドイツ帝国やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を崇拝した。シェーネラーは「ハイル」という挨拶「フューラー(総統)」を称号とし、これはヒトラーが後にナチ党に持ち込んだ。

1882年、納税額にもとづく制限選挙が改正され、オーストリアは普通選挙となった。これによって中間層、下層、手工業者、小地主にまで選挙権が拡大し、政治団体が支持を取り付けるために反ユダヤ主義的政策を打ち出していった。1882年、ドレスデンで反ユダヤ主義の国際会議が開かれ、1883年にはケムニッツで開かれた。当時、ウィーンの社会主義者クローナヴェッターは「反ユダヤ主義とは愚者の社会主義である」といった。またウィーンのユダヤ人社会学者ルートヴィヒ・グムプロヴィッツは『人種の戦い』(1883)でユダヤ人は古代フェニキア人の影響から商人となったが「ユダヤ人は消滅することを知らなかった」とした。

ハプスブルク帝国では、自由主義が凋落し、ナショナリズム、キリスト教社会主義、社会民主主義が大きな勢力となった。ヒトラーは社会民主主義のデモ隊の組織力と行動主義に強い印象を持ち、大衆は中途半端で弱いものを決して受け入れないという教訓を学んだ。オーストリア・キリスト教社会党を率いたカール・ルエーガーは反ユダヤ主義を旗印として、オーストリアの貴族や聖職者からは批判されたが、下層中産階級や職人層、都市プロレタリア層、また教皇レオ13世やマリアーノ・ランポッラ枢機卿の支持を受けて、1897年4月にウィーン市長となった。ルエーガーはクレメンス・マリア・ホフバウアーをその精神上の父とし、啓蒙合理主義を主要な敵とするキリスト教社会運動(Christlichsoziale Bewegung)に影響を受けていた。自由主義と資本主義を批判するルエーガーは雑誌『アルゲマイネ・ルントシャウ』に「祖国を救うためにユダヤ人に握られている自由主義と戦う」という論文を掲載した。1890年の演説では、巨大な船にユダヤ人を積み込んで海に沈めればユダヤ人問題は解決すると述べた。1899年の演説では、ユダヤ人は資本と報道を統制して凶悪なテロ行為をはたらいているとして「ユダヤ人支配からのキリスト教徒の解放」を訴えた。また狼や豹や虎の方が「人間の顔をした肉食獣」であるユダヤ人より人間に近いとも述べ「ユダヤ人の最後の一人が消えるまで、反ユダヤ主義は消えない」とのべた。ウィーン市長になると「誰がユダヤ人であるかは私が決めることだ」としてユダヤ人を公職追放したが、知己のユダヤ人は解雇しなかったし、また貧しいユダヤ人には寛大でシナゴーグの祭式にも参列した。ウィーンで美術を学んでいたアドルフ・ヒトラーはルエーガーの演説に感動し称賛した。ただし、後にヒトラーはルエーガーは親ハプスブルクでカトリック色が強く、底が浅いと批判もした。

ヘッセン農村運動を展開した民主化運動家・民俗学者のオットー・ベッケルは1887年の冊子『時代の王、ユダヤ人』で、反教権、反資本主義を論じた。ユダヤ人に搾取された富を取り返せば、ドイツの農民は救済されると主張したベッケルは反ユダヤ主義者として初めて帝国議会議員となった。1893年にはベッケル率いる反ユダヤ国民党(Antisemitische Volkspartei)は議席数が16席にもなった。この1893年はオーストリアにおける反ユダヤ主義における絶頂であった。世紀末ウィーンは当時の反ユダヤ主義運動の中心地であり、1897年の普通選挙では反ユダヤ主義陣営が帝国議会に送り込まれていた。

他方、ユダヤ系の心理学者フロイトは1882年の手紙でノートナーゲル教授の容貌に対して「ゲルマンの森に住む野蛮人」「金髪で、頭、頬、頸、眉、それらすべて毛で被われ、皮膚と毛とはほとんど見分けがつかない」と述べており、ユダヤ系知識人にも人種的な考えがみられた。

世紀末ウィーンの音楽界では、音楽的に保守的であったブラームス派はバッハ、ベートーヴェンなどのドイツ伝統音楽を模範として、ワーグナー派のブルックナー派はワーグナーやリストなど「未来の音楽」を標榜する進歩派であった。しかし、ワーグナー派のブルックナー派はドイツ民族主義と反ユダヤ主義と結びついており、他方でブラームス派は自由主義者で親ユダヤ的であった。なお、ユダヤ人マーラーはワーグナー派でブルックナー派に属しており、反ユダヤ主義政治家で知られるカール・ルエーガーがウィーン市長になった同じ1897年にウィーン宮廷歌劇場監督に就任している。

ユダヤ系哲学者のテオドール・レッシングによれば、ユダヤ系オーストリア人知識人の中には自分がユダヤ系であるにも関わらず、ユダヤ人であることを憎悪する者が多数おり、ユダヤのブルジョワジーを心底憎みあらゆる表現で愚弄した作家カール・クラウスを筆頭に、ヴァイニンガー、アルトゥール・トレビッチュ、ヴァルター・カレ、マクス・シュタイナー、ニーチェの知己パウル・レー、カトリックの伝統を信奉してユダヤのテーマを除外した作家ホーフマンスタール、同化政策を支持したボルヒャルト、同化ユダヤ人ヴァッサーマンなどがいた。

オーストリアのフランツ・シュタインは、シェーネラーの影響を受けて1899年にゲルマニア・ドイツ労働者連盟(Bund der deutschen Arbeiter Germania)を創設し、その汎ゲルマン労働者階級運動は社会民主主義と赤色テロを攻撃し、ヒトラーに影響を与えた。

ロシア

アレクサンドル1世は、ユダヤ人を市民として解放すれば、ユダヤ人のキリスト教への改宗を早めることができるとして、ユダヤ人解放を計画した。

ニコライ1世の時代 (1825-55)

ニコライ1世(在位:1825 - 1855年)はユダヤ人対策を強化し、教育相ウヴァーロフの提案でユダヤ人に対してロシアの学校への通学、ロシア語での授業を強要した。しかし、帝国公認の学校に通うユダヤ人生徒数は数千人にとどまり、ユダヤ人への不信感をつのらせ皇帝は密輸入やスパイ容疑をかけられたユダヤ人は定住地域の境界線から50km以内の町や村からの強制退去を命じた。なお、デガブリストの乱の指導者の一人ペステリは皇帝のユダヤ政策に同調して、ユダヤ人は強制的にロシア人に同化させるか、パレスチナ追放かのいずれかだと述べた。

1827年に成立したユダヤ人徴兵法では、それまで人頭税で兵役免除されていたユダヤ人の兵役を義務づけ、プロイセンのカントン制度を模して7歳以上のユダヤ人の子供をカントニストとして軍事教練に送り、キリスト教に改宗させた。

ダマスクス事件(1840)の発生によって、ニコライ1世は併合したポーランドのユダヤ人の調査を命じ、ヴラディーミル・ダーリは一部の狂信的ハシッド派は儀式殺人を行っていると報告した。

ニコライ1世は1844年にはユダヤ人自治機構カハルを解体し、ユダヤ書物検閲を始めて、モーシェ・ベン=マイモーンの本が儀式殺人を教唆するとして差し押さえ、イディッシュ語で執行される正教会ミサへの参列をユダヤ人に義務づけた。

作家アレクサンドル・プーシキンは小説でユダヤ人を裏切り者やスパイとして描き、未完の『吝嗇の騎士』では騎士がユダヤ人高利貸しに向かって「いまいましいユダ公、いや、敬愛するソロモン君」と述べる。

作家ニコライ・ゴーゴリは小説『タラス・ブーリバ』(1835年)で、卑怯な搾取者のユダヤ人ヤンキェルが、コサック領主によってドニエプル川に沈められる姿や「羽をむしられた鶏」のような姿を滑稽に描いた。この「羽をむしられた鶏」としてユダヤ人を滑稽に描く手法は、ドストエフスキーの『死の家の記録』、ミハイル・サルトィコフ=シチェドリンの『ペテルブルクのある田舎者の日記』、アントン・チェーホフの『広野』、バーベリの『騎兵隊』(1926)でも継承された。

イワン・ツルゲーネフの『ユダヤ人』(1846年)では、密偵のユダヤ人の死刑執行が「本当に滑稽」とで「奇妙な仕草、実に非常識な叫びや身震いなどによって」「その光景がどれほど嘆かわしいものであってもわれわれはどうしても微笑んでしまうのだった」と描いた。しかし、後期ツルゲーネフはユダヤ人は人間味溢れる者として描いた。

アレクサンドル2世の時代 (1855-81)

アレクサンドル2世(在位:1855年 - 1881年)はユダヤ人徴兵法を廃止し、学校での宗教教育を自由選択として、ユダヤ人からは「解放ツァーリ」と呼ばれ、ユダヤ人富裕層ではロシア語使用がすすみ、ユダヤの新聞がロシア語で出版されるようになった。

ロシアの富裕ユダヤ人には、銀行や金鉱開発や鉄道事業で成功したギンツブルク家や、金融資本家で南ロシア炭鉱会社を経営してロシア貴族ともなったポリャーコフ家があった。ニコライ・ネクラーソフはスラヴ人商人は良心の呵責によって窓から金を投げ捨てる一方で、富裕ユダヤ人は平気で搾取横領し、その成果を外国で貯蓄運用すると述べた。

1862年、汎スラブ主義の評論家イヴァン・アクサーコフはユダヤ人解放に反対し、ロシアの民衆とキリスト教徒をユダヤ人から解放することを主張した。

1869年、ロシア正教会に改宗したユダヤ人のヤコブ・ブラフマンは『カハルの書』などで、ユダヤ人は非ユダヤ教徒を商業・産業から追い出し、あらゆる資本や不動産を自分の懐に集めてロシア民衆を搾取して服従させてロシアに国家内国家を形成しようとしており、ユダヤ人国際組織は世界中のユダヤ共同体(カハル)を統率し「世界イスラリエット同盟」はフランス革命を起こしたと論じた、ドストエフスキーへ影響を与えた。

1877年のロシア・トルコ戦争によって、ロシアでは反ユダヤ主義が国家上層部と大衆の間で広まった。

ドストエフスキー

作家フョードル・ドストエフスキーは、改宗ユダヤ人ブラフマンの『カハルの書』(1869)から影響を受けた。1873年以降死去するまで評論『作家の日記』や小説でユダヤ人への攻撃を繰り返した。

1873年には、ロシア民衆が飲酒で堕落したままであれば、ユダヤ人は民衆の血をすすり、農村はユダヤ人に隷属させられた乞食の群れとなると警告した。

1876年6月にはユダヤ財界人が利益のために農奴制の復活をもくろんでいるとし、ユダヤ人がロシアの土地を購入し元利を戻そうとして土地の資源が枯渇することを批判すればユダヤ人は市民同権の侵害だと騒ぐだろうが「土地だけでなくやがては百姓も消耗させられてしまうとしたら同権も何もあったものではない」と反論し、ユダヤ人はタルムード的な国家内国家を重視しているとした。また、ロシアがクリミアを獲得しなければユダヤ人が殺到してしまうと危惧し「最近の、いまわしい堕落、物質主義、ユダヤ気質」に挫けないロシア人を称賛した。同年10月には、ロシアでは農村を食い物にする高利貸しユダヤ人が君臨しており「金があれば何でも買える」という歪んだ不自然な世界観の持ち主である商人長者は儲けになればユダヤ人と結んで誰でも裏切り、愛国心がなく、教育で武装したロシア知識人は「汚らわしい取引所的堕落の時代」における物質主義の怪物を撃退できるが、民衆は「すでにユダヤ人に食い入られた」と診断した。同年12月にはロシア知識人には「ユダヤ化した人々」がいて、経済面からのみ戦争の害を言い立て、銀行の破産や商業の停滞で人を脅迫し、トルコに対してロシアは軍事的に無力であるなどと主張するが、彼らは当面する問題の理解が欠けていると批判した。

1877年3月の『ユダヤ人問題』では、ユダヤ人は虐げられていると主張するが、これまでユダヤ人は高利貸し業によってロシアの農民、アメリカの黒人を搾取してきたと反論した。無慈悲で非礼なユダヤ人はロシア人を軽蔑し憎み、ヨーロッパの金融界に君臨して国際政治を操作し「ユダヤ人の完全な王国が近づきつつある」と論じた。

1877年4月には、ヨーロッパで2世紀もロシアを憎んでいるユダヤ人と、ユダヤ人に協力するキリスト教徒はロシアの宿敵であるとした。

露土戦争についてドストエフスキーは、コンスタンティノープルを征服してキリスト教教会を解放するために十字軍を派遣すべきだし、ロシアがスラブ的理念を放棄して、東方キリスト教徒を投げ出すことはロシアの解体絶滅になると論じ、ユダヤ人の手中にあるロシア国民は自分の使命を遂行しなければならないとして戦争を支持した。同年11月には、コンスタンティノープルを自由都市にしてしまうと「全世界の陰謀者の隠れ家となり、ユダヤ人や投機人のえじきとなる」というスラブ主義者ダニレフスキーの見解を正しいと称賛した。

1879年夏にドイツの保養地バート・エムスに療養で訪れた際にドストエフスキーは、湯治客の半分はユダヤ人であり、ドイツはユダヤ化されたと友人の宗務院長ポベドノスツェフに報告した。ポベドノスツェフは、新聞・雑誌、金融市場を支配したユダヤ人は「すべてを侵略し、蝕んで」おり、社会民主主義運動や皇帝暗殺運動を推進していると返信した。ポベドノスツェフは「寄生虫」であるユダヤ人の三分の一を国外へ移住させ、三分の一をキリスト教に改宗させ、残る三分の一は「死に絶える」のがよいと政府に提案し、ロシアではユダヤ人の海外移住が推進された。

小説では、『悪霊』(1872)で改宗ユダヤ人が共犯者を告発し、『カラマーゾフの兄弟』(1880)では、肉欲と物欲の権化であるフュードルがオデッサのユダヤ人に下で金を稼いで貯め込む才覚を磨いたとし、また儀式殺人で快楽を引き出すユダヤ人について描写した。

1880年8月にはアーリア人種の全人類的再結合がロシア人の使命であり、全民族をキリスト教に従って和合させ、偉大な全体的調和をもたらすべきだと主張した。

死の直前の1881年1月には、土地を領有するものは鉄道家や実業家や銀行家やユダヤ人でもなくて、誰よりも農民であるべきだとし、農民は国家の核心であるとした。

ドストエフスキーの反ユダヤ主義とアーリア主義は、ポリーナ・スースロワの夫ヴァシリー・ローザノフに影響を与え、ドストエフスキーの聖ロシア第三帝国論は、『第三帝国』を著したドイツの右翼知識人メラー・ファン・デン・ブルックに影響を与えた。

トルストイ

作家レフ・トルストイはヘブライ語で旧約聖書を読んだが、戒律と愛との関係においてユダヤ教とキリスト教は根本的に対立するとしており,ユダヤ教の選民思想については「民族的思い上がり」と批判する一方で、ユダヤ教は我々の似非キリスト教共同体の道徳よりも高いと述べるなど、アンビバレントな評価をしていた。しかし、死去するまで手紙や日記では反ユダヤ主義的な発言を繰り返した。

ドレフュス事件についてトルストイは「私はドレフュスのことは知らない。だが,私は多くのドレフュスたちを知っており、そうした人々は有罪であった」 とし、この事件は「フランスにとって取るに足らぬ重要性しか持たず、ましてや他の世界には全くといっていいほどつまらぬ問題」で「ロシア人が、ドレフュスという何ら際立ったところもない人間の擁護にかまけているのは、なんともおかしなことだ」とした。

小説『アンナ・カレーニナ』(1877年)では、アンナの兄の貴族オブロンスキが権限を持つユダヤ人に「勝ち誇ったように」就職を拒絶する場面を描いた。

1903年のポグロムについて、自分に言えることがあるとしても出版には適さないと発言した。日露戦争に際して彼は、ロシアの敗走ではなく「偽キリスト教文明の敗走」だったとして「芸術・科学的活動において、金銭を得て成功するための戦いにおいて、ずっと前から崩壊は始まっていた。ユダヤ人はそれらの活動において、あらゆる国々ですべてのキリスト教徒に打ち勝った」として、日本がユダヤ人と同じように行動していると日記に書いた。

1906年、トルストイはヒューストン・ステュアート・チェンバレンの著書『19世紀の基礎』を、キリストがユダヤ人ではなかったことを証明したと賞賛した。

皇帝暗殺とポグロム

1881年3月13日、アレクサンドル2世がテロ組織「人民の意志」のポーランド人メンバーのイグナティー・グリネヴィツキーによって暗殺された。暗殺グループにはユダヤ人女性ハシャ・ヘルフマンもいた。『ノーヴォエ・ヴレーミャ』は「鉤鼻をした東洋風の男」が、『ヴィリニュス通信』はユダヤ人が犯人であると報道した。

皇帝暗殺後の翌4月、聖週間にウクライナのエリサヴェトグラード、キエフ、オデッサで大規模なポグロム(迫害)が発生し、1884年まで農民や出稼ぎ労働者によるポグロムが発生した。扇動者一団は鉄道で訪れ「ユダヤ人は皇帝を殺害した」というビラが街中に貼られ、暴行がなされていった。扇動者一団には、皇帝派の大公や将校が結成した聖従士団の一部が関わっていた。ポグロムについて作家シチェドリンやレスコフ、ゴーリキーはユダヤ人に同情した。他方で反ユダヤ主義が称賛されていた1880年代のロシアの左翼団体では、社会主義雑誌も一誌をのぞいてポグロムを好意的に語った。

続くアレクサンドル3世は1882年にユダヤ人の搾取からキリスト教徒を保護する条例を定め、1883年には「ユダヤ人法見直し委員会」を設置し、5年間の討議の末、委員会はユダヤ人とキリスト教徒との融和を目指し、反ユダヤ法の廃止を結論したが、空文となった。皇帝は「ユダヤ人がキリスト教徒から搾取し続ける限り、この憎悪が和らぐことはない」と述べた。1890年にモスクワでユダヤ人商店にヘブライ語看板の掲示を義務づけ、1891年には過越祭(ペサハ)に合わせてモスクワからほとんどのユダヤ人が追放された

最後のロシア皇帝ニコライ2世(在位1894 - 1917年)は1882年の条例よりもユダヤ定住地域をさらに狭めて、ロシア人農民がユダヤ人から搾取されないように田園地帯、キエフ、皇帝離宮のあるヤルタなどでのユダヤ人の居住を禁じた。定住地域外ではユダヤ人への検挙が行われ、ユダヤ人がロシア風を名乗る改名を禁止し、ユダヤ商店はユダヤであると分かるように明示することが義務づけられ、また1887年から学校でのユダヤ人定員が制限された。

1881年のポグロム以降、1891年までにアメリカへ移住したユダヤ人は13万5000人、1891年から1910年の間にはほぼ100万人のユダヤ人が米国、カナダ、ヨーロッパ、オーストラリア、南アフリカへ移住した。ロシアのポグロムから逃れた東欧ユダヤ人のうちドイツに留まったのは10万人以上で、7万人はパレスチナへ移住した。

アメリカ合衆国

アメリカ大陸に渡った清教徒たちは古代イスラエル人に自らをたとえた。しかし、同時代のユダヤ教徒を受け入れることはできなかった。清教徒たちはヨハネ黙示録で予言された千年王国、キリスト再臨を待望したが、千年王国の朝明けの前にユダヤ人がキリスト教に改宗しなければならないとした。ユダヤ人ジューダ・モニスは1722年にキリスト教に改宗してからハーバード大のヘブライ語講師に任用されたし、1776年制定のメリーランド州憲法ではキリスト教宣誓が要求されており、ユダヤ教徒の権利を認められたのは1826年であった。他方でロードアイランド植民地を開いたロジャー・ウィリアムズは1647年にユダヤ教、イスラム教、反キリスト的な信仰も認められるべきであると主張した。ロードアイランドカレッジでは学生に宗教的自由が認められ、ニューポートはユダヤ人に人気となり、1770年代にはニューヨークを凌ぐ繁栄を誇った。

1654年、ポルトガルが当時世界最大の製糖輸出港だったブラジルのレシフェ港をオランダから奪い返すと、ユダヤ人は異端審問を恐れて16隻の船で四散し、その内一隻がニューアムステルダム(のちニューヨークへ改称)に上陸した。これがユダヤ人最初のアメリカ上陸となった。

1775年からのアメリカ独立戦争では在米ユダヤ人の大半がアメリカを支持した。ユダヤ人は各地に離散している仲間と連携して貿易を行っていたため、イギリスの航海条例などに反発していたためであった。戦争中はユダヤ人は独立派のウイッグ派からは親英派のトーリーとして、トーリーからは独立派として排斥されることもあった。ニューポートの指導的なユダヤ大商人アイザック・ハートは親英派であったために群衆に殺害された。ポーランド出身のユダヤ人金融業者ハイム・サロモンは、アメリカ植民地軍の軍資金を用意し、財務長官ロバート・モリス顧問となり、またジェファーソン、ランドルフ、マディソンなどの議員を私財によって支援し、その功績はアメリカでのユダヤ人の社会的地位の確立につながった。

第6代アメリカ合衆国大統領ジョン・クィンシー・アダムズは1780年、アムステルダムのユダヤ人について「こんなみじめな風体をした人間に会ったためしがない。ひとの頭から両眼を盗むことだってしかねない」と書き、大統領就任後の1825年にはユダヤ人をキリスト教に改宗させる米ユダヤ人環境改善教会を支援した。

文学

詩人ヘンリー・ワズワース・ロングフェローは1852年に訪れたニューポートのユダヤ人墓地についての詩で、ユダヤ人に同情しながらも「死せる民族が再び立ち上がることはない」とした。

詩人オリヴァー・ウェンデル・ホームズはキリスト教徒もユダヤ教徒も同じ人間であると主張して、反ユダヤ主義に対してキリスト教徒は謙虚になるべきだとした。

ジョージ・リパードの小説『クェイカーの都市』(1845)では悪徳業者を手助けするユダヤ人ゲルトを馬の頭と背中の瘤を持ち、両肩は耳までせりあがった畸形者として「三千年昼寝をしたヘブライ人」と罵倒して、五年間で17万5000部も販売したベストセラーとなった。

小説家ナサニエル・ホーソーンは1856年にユダヤ人のロンドン市長デイヴィッド・サロモンズと面会すると、市長の義姉はユダヤ人にしては美しいが、その夫はイスカリオテのユダ、彷徨えるユダヤ人に典型的なタイプで「ぞっとするほどユダヤ的で、残忍で、鋭敏なのだ」と日記で評した。1858年にはローマのバルベリーニ宮でデューラー作「博士と議論するキリスト」でのユダヤ人描写について「これほど醜く、悪意に満ち、頑迷で、実利的で、狷介な者はいない」と評し、またリヴォルノのシナゴーグを汚くて神聖さと無縁であるとした。『大理石の牧神』(1860)ではユダヤゲットーを腐敗したチーズにたかるウジ虫のように窮屈で不潔とした。

作家ハーマン・メルヴィルは、『レッドバーン』(1849)でユダヤ人質屋を鉤鼻と描写し、アメリカは移民の国際的合同体であるが「われわれは頑迷なヘブライ的民族性を持った心の狭い部族的人間ではない」とし、ユダヤ人は排他的な世襲を保つことで血統を高貴ならしめようとしていると批判した。『白鯨』(1851)では、中世の人々がユダヤ人の悪臭を嗅ぎ分けたようには鯨捕りを嗅ぎ分けられないと描いた。1856-7年にはパレスチナを旅行すると、パレスチナでユダヤ人がキリスト教に改宗しないことに対して「ばかげたユダヤ狂い」と批判、また「ユデアの地の大半を占める悪魔的な風景から、ユダヤの預言者たちは、あの恐るべき神学に思い至った」と日記に書いた。『クラレル』(1876)ではユダヤ民族の排他性、儀式殺人、無神論者で唯物論者のユダヤ人マーゴスへの反感などが描かれる一方で、キリスト教文明のユダヤ教への負い目についても描かれた。

南北戦争(1861-65)では、従軍僧はプロテスタントとカトリックに限られており、ユダヤ教ラビは除外された。しかし1862年7月、ユダヤ人従軍僧も服務可能になった。また、戦時中に騰貴した綿花の闇取り引きが横行し、一部のユダヤ人も行っていたため、1862年12月17日、ユリシーズ・グラント将軍はユダヤ人をテネシー軍管区から追放する一般命令11号を布告した。ユダヤ商人がリンカーン大統領に直訴してこの命令は撤回された。戦後、大統領となったグラントは多くのユダヤ人を公職につけた。一方の南部では敗戦の責任をユダヤ人に転嫁して非難された。南部連邦国務長官ジュダ・ベンジャミンは「忌まわしいユダヤ人」と呼ばれ、戦時中にユダヤ人が商品を買い占めたためにインフレが起きたし、ユダヤ人は徴兵拒否と通敵行為に走り、また民衆を搾取して蓄財したと噂された。

ジョン・クィンシー・アダムズの孫でピューリッツァー賞受賞作家ヘンリー・アダムズはイディッシュ語を話すユダヤ人をみると背筋が寒くなると嫌悪し、また訪日した際には「ジャップは猿だ」とした。1879年にはスペインでユダヤ人とムーア人といやというほど出くわしたので、異端審問については寛大な見方ができるようになったとした。ヘンリーは中世のノルマン人を称賛する一方で、ユダヤ人を金融資本と同一視し、キリスト教文明に敵対する経済的類型の権化とみなした。1896年にはユダヤ金融資本が銀貨の自由鋳造を妨害しているとし「われわれはユダヤ人の手中にある」とした。ドリュモンの著作を愛読したヘンリーは、ドレフェス事件でのドレフェス擁護派はユダヤ人の金で動いているとし、ドレフェスを擁護するゾラはドレフェスやユダヤ人ジャーナリスト、演劇人、株式ブローカー、ロスチャイルドなどと一緒に悪魔島へ送るべきだとした。また「ユダヤ人が死滅するのをみたい一心で生きているのだ。わたしはすべての金貸しが拘引され処刑されるのをみたい」とも書いた。

作家ヘンリー・ジェイムズは「あらゆる桎梏から解き放たれたユダヤ人」の子供が溢れているのは、復讐をともなった増殖だろうかと述べた。1904-5年、アメリカのゲットーを訪れたジェイムズは「巨大で黄ばんだ水族館のなかで、大きすぎる鼻をした無数の魚が、山積みされた海の獲物のなかでいつまでもぶつかりあっている感じだった」、蛇か虫かのように「千切りにされても這い出していき、刻まれる前と同じく達者で生きる」と喩え、また豪華なユダヤ商店に対して「ユダヤ人が巧妙な商才を発揮するのは、概してユダヤ人以外が相手のときだ」、また酒場でイディッシュ語を聞いたジェイムズは、合衆国の未来の言葉が英語でなくなることを憂慮した。

マーク・トウェインは1883年の「ミシシッピ河の生活」では、ユダヤ店主は不要なものも無知な黒人夫婦につけで売りつけて、生活が苦しくなった黒人は去るという、ユダヤ商人に手こずる話を書いた。1878年から1900年までヨーロッパに滞在したトウェインは、ユダヤ知識人とも交歓したため、反ユダヤ新聞はトウェインをユダヤ人贔屓として非難した。「ハーパーズ」1899年6月号に発表した「ユダヤ人に関して」でユダヤ人の家庭は模範的で暴力犯罪も稀であるが、ただし、詐欺、高利貸し、保険金目当ての放火などで信用を落とす一面もあり、公務員としては優秀だが、兵士として馳せ参ずるのをためらいがちで愛国心が少ないとした。トウェインは、ユダヤ人の優秀な頭脳と金への崇拝が他民族から憎悪される原因であるとし、古代エジプト宰相のユダヤ人ヨセフが飢饉に際して国民の財産をパンと交換に買い占めた経済的手腕こそ反ユダヤ主義の淵源であるとした。

反カトリック「人種のるつぼ」

清教徒を国民的伝統とするアメリカ合衆国では憎悪のはけ口がユダヤ人よりもカトリック教徒に対して向けられていた。アイルランドのカトリック教徒はローマ教会の扇動で陰謀を企てているとさかんに告発され、1834年にはボストンのチャールズタウンでのプロテスタント暴徒が聖ウルスラ女子修道会に放火し(聖ウルスラ修道会暴動事件)、1836年の『マリア・マンクの暴露話』ではモントリオールのカトリック修道院での司祭による修道女への性的虐待と子殺しが告発されるなど、反カトリック運動が盛り上がった。1850年代には反カトリック政党ノウ・ナッシングが結成され、デイゴー(Dago)と呼ばれたイタリア人カトリック移民はカインの印を刻まれた生来の犯罪者とされ、1890年代にはリンチを受けた。

作家ジョン・ヘクターは『アメリカ農民の手紙』(1782)でアメリカ人を「全民族が融合した新しい人種」とし、この新人種は世界を変えるだろうと述べた。19世紀半ば、民族のるつぼ(メルティング・ポット)が米国の原則として明確化すると、思想家エマーソンや作家メルヴィルは民族混合の利点を主張した。ダーウィンは移民は自然淘汰から生まれた優秀な産物であるとし、スペンサーは1882年に移住と混合は優れた民族を生み出すとアメリカで述べた。チェスタトンは、アメリカでは反ユダヤ主義は禁止されており、アメリカの愛国主義はあらゆる人の同化を誇りにすることであると述べている。しかし、ドイツ系ユダヤ人の哲学者ホレス・カレンは1915年にメルティング・ポットによる同化主義を否定して「人々は衣服、政治、妻、宗教、哲学を程度の違いはあれ変えることができる。しかしながら、彼らはその祖父を変えることはできない」として、人々はエスニシティを生涯変えることはできないと論じた。またカレンは、1928年の「反セム主義のルーツ」では、キリスト教国家は反セム主義を普遍的準則としてしまうと論じた。

「成り上がり者」のユダヤ人

1840年にアメリカのユダヤ人口は15000人ほどであったが、ドイツのユダヤ人が大量に移住して、1880年には30万人となった。ジーンズの創始者リーヴァイ・ストラウスもドイツ系ユダヤ人移民であった。ドイツ系ユダヤ人の半数は実業家で、20人中1人が知的職業につき、行商人は100人中1人だった。ユダヤ人はアイルランド人やイタリア人移民と比べると短期間に裕福になったため「成り上がり者」というイメージが現実味を帯びた。また、ヤンキー行商人はいかさま師で、嘘つきの詐欺師という点ではユダヤ人と相通じるというヨーロッパでの常套句も見られた。

1876年、ニュージャージー沿岸地方のホテルでユダヤ人お断りという広告を発表した。1877年にはサラトガのホテル業者ヒルトンが「ユダヤ人と犬の立ち入り禁止」を入り口に貼り、実際に大富豪ジョーゼフ・セリグマンをユダヤ人であるため入館させなかった。ニューヨーク・タイムズは1877年6月19日「サラトガ大事件」として報道し、ユダヤ人富豪はサラトガのホテルをいくつも買収して、その相剋の結果、ニューヨーク近隣の夏季保養地が「キリスト教徒の保養地」と「ユダヤ人の保養地」に二分された。

世紀末に東欧出身のユダヤ人が大量に移住してくると、ドイツ系ユダヤ人が東欧出身の新移民ユダヤ人の退去を1882年のボストンで要求するようなこともおこった。連邦上院議員ヘンリー・キャボット・ロッジは東欧ユダヤ人は劣等であるとした。1890年から1914年までに1651万6081人の移民がアメリカに入国し、そのうちユダヤ人は169万人4842人にのぼった。

1896年大統領選挙での民主党候補ウィリアム・ジェニングス・ブライアンは「金の十字架演説」で、ユダヤ人がキリストを裏切ったのと同様に、大資本は金で農民を裏切るとした。また、銀貨の無制限鋳造(フリーシルバー)を主張した1895年の文書では、世界の金の半分はロスチャイルド家が所有し、残り半分のほとんどもロスチャイルド家の衛星機関が握っているとした。

他方、1896年の共和党大会ではプロテスタントとカトリックの緊張関係によってユダヤ教ラビが開会の祈祷を唱えたが、このように三宗派が同等のものとされることは当時のヨーロッパ諸国では見られないものであった。

20世紀

イギリス

1880年代以降ロシアのポグロムから避難した250万人の東欧ユダヤ人は西欧諸国に殺到し、ロンドンだけでも1883年に4万7千だったユダヤ人人口は1905年に15万に膨れ上がり、各地方都市でも流入がすすみ、1880年に6万5千人だった在英ユダヤ人は1905年までに3倍以上になった。ロンドンのスラムホワイトチャペルスターニー地区には東欧からのユダヤ人移民が10万人以上入植し、ステップニー地区の司祭はユダヤ貧民集団がキリスト教徒を追い出そうとしていると非難した。第一次世界大戦時にはタイムズ紙がこの地区にユダヤ人が国家内国家を形成していると批判した。

ドレフェス事件に際してはイギリスでもイエズス会士が反ユダヤ的な新聞記事を掲載した。

イギリスの社会主義者でフェビアン協会シドニー・ウェッブは、イギリス人は多数の家庭が産児制限をしている一方で、カトリック系のアイルランド人やポーランド人、ロシア人、ドイツ系のユダヤ人たちが制約もなく子どもを産み続けているが、これはイギリスの国民的な衰退をもたらすとした

ジェームズ・マレー(1837年 - 1915年)が編集した『オックスフォード英語辞典』で「ユダヤ人」では侮蔑の意味があり「強欲、高利貸し、狡猾な商売人」を意味すると定義された。

イギリス王エドワード7世(在位:1901 - 1910年)はドイツ出身のユダヤ人銀行家アーネスト・カッセルを腹心として、カッセルはドイツ皇帝のユダヤ人側近アルベルト・バリン(Albert Ballin)とホットラインを築いたが、イギリス上流界では反発を買った。青年トルコ人革命の後の1911年にオスマン帝国再建のためにカッセルが招かれると、トルコ革命はユダヤ人とフリーメイソンの陰謀だと青年トルコに敵対するイスラム教徒が主張し、タイムズ紙やモーニングポスト紙も報道した。ただし、デンメーなどユダヤ教徒が青年トルコ人革命に加担したことは事実である。

ユダヤ人の自由党議員ルーファス・アイザックスはデビッド・ロイド・ジョージの腹心として活躍した。また、ユダヤ教徒ハーバート・サミュエルがアスキス内閣で非キリスト教徒として史上初めて入閣すると、反発を買い、1912年にはユダヤ人が結託したという疑惑のマルコーニ事件が発生したが、国会調査で嫌疑は晴れた。カトリック作家チェスタトンはマルコーニ事件がイギリス史の分水嶺であるとした。

ハーバート・ヘンリー・アスキス首相(在任期間1908 - 1916年)は反シオニストで、シオニストを人種差別主義者であると非難した。

植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンは、イタリアのユダヤ系外務大臣シドネイ・ソニーノに対して、卑怯なユダヤ人は自分が唯一軽蔑する人種だと発言した。

第一次世界大戦・ロシア革命

イギリスでは、第一次世界大戦中に反ユダヤ主義が盛り上がり、それに続くロシア革命でもさらに盛り上がった。

イギリス外交官セシル・スプリング=ライス(Cecil Spring Rice)は1914年11月の報告書で、アメリカでは大銀行家ジョン・モルガンの死以来、ウォーバーグ家のポール・ウォーバーグが連邦準備制度理事となるなどユダヤ人銀行家がはびこり、ユダヤ人は米国財務省や有力新聞を掌握していると報告し、銀行家ベルンハルト・デルンブルクやジェイコブ・シフ、ユダヤ系財閥クーン・ローブなどのユダヤ-ドイツ系銀行家を警戒すべきであると報告した。1917年にスプリング=ライスは、ウィルソン大統領の盟友だったシオニストのルイス・ブランダイスに対して、国際ユダヤ組織が各地で革命派を支援していると非難した。スプリング=ライスは1918年、ロシア革命もトルコ革命もユダヤ人の陰謀とみて、イギリスにいるドイツ系ユダヤ人への警戒を呼びかけた。

1915年5月7日にドイツ海軍潜水艦によりルシタニア号が沈没して乗客1,198名が死亡すると、イギリスではヴァレンタイン・チロルがこの戦争犯罪をドイツ系ユダヤ人のアルベルト・バリン個人の責任として、またドイツ出身のユダヤ人銀行家アーネスト・カッセルからイギリス国籍を剥奪する反ユダヤキャンペーンも行われ、暴徒が外国人商店を襲撃した。ユダヤ系新聞は、タイムズ紙はユダヤ人を敵国のドイツ人呼ばわりしていると批判した。また、外国籍住民はイギリス軍への入隊が許可されなかったが、『デイリー・メール』紙は「国の蓄えを食い荒らすロシアの黄色いユダヤ人」は軍務忌避していると批判し、ザ・クラリオン紙はプロイセン人とユダヤ人は不毛な土地の盗賊と非難した。1916年6月にロシアに向かうキッチナー卿を乗せた船艦が魚雷攻撃で沈没すると、リーオウ・マクシーは国際ユダヤ人がドイツに情報を提供したと論じた。

第一次世界大戦中の1917年にロシア革命が起きると、さらにイギリスの反ユダヤ主義が強まった。ヒレア・ベロックによれば、イギリスで明け透けの反ユダヤ主義が台頭したのはロシア革命を契機としており、ボリシェビズムは本質的にユダヤ的なもので、出自を隠そうとするユダヤ人は立場を悪くするだけだと批判した。

マスメディアは反ユダヤ報道を繰り返した。『タイムズ』『デイリー・メール』『オブザーバー』の社主ハームズワース・ノースクリフ子爵は反ユダヤ意識を持っており、配下の各新聞ではボルシェヴィキと国際ユダヤ人の陰謀が繰り返し報道された。タイムズは、ロシア革命でユダヤ人学生がエストニアのユーリエフで義勇軍を結成し多くの財が破壊されたと1917年春に報道し、11月にはレーニンたちはドイツから革命資金を得ており、ドイツ系ユダヤ人の血を引く山師であると報道、1919年にはモスクワでボルシェビキがイスカリオテのユダ記念碑を建立したと報道した。七月蜂起でのケレンスキー政権の声明に対してタイムズは「ペトログラードのソヴィエトは、国際ユダヤ人によって構成されている」と報じ、作家ギルバート・キース・チェスタトンは10月に、もしペトログラードのようにロンドンでも人々に教えを説くならば、ユダヤ人が我々に対して支配権をふるうことだけは断じて許容しないと忠告した。このほかモーニングポスト紙でもマーズデン記者がロシアで囚われた際にユダヤ人が拷問係であったし、ロシアの破壊者はユダヤ人だと証言し、『シオンの賢者の議定書』という証拠もあると述べた。

1917年12月にレーニンとスターリンがインドでの共産主義革命を扇動すると、大英帝国はあらゆる手段を用いて防いだ。1918年夏にイギリス政府は、ボルシェビキ政府打倒のためにロシアで反ユダヤのビラを飛行機で散布した。政府報告書では、ロシアにおけるボリシェヴィズムはドイツのプロパガンダの産物であり、国際ユダヤ人に指揮されており、ユダヤ人が企業の大部分を手中に収めると、飢餓が日常化し、1918年10月には女性の国有化がほぼ完成していたというロシア駐留イギリス海軍付き牧師B.S.ロンバードの証言も採録された。

1918年の冊子『ユダヤ人に踏みつけにされたイギリス』ではロシアとルーマニアを裏切ったドイツ皇帝の工作員のトロツキーとレーニンの指示で、ユダヤ人がイギリスを汚染していると主張された。

1919年1月から9月までのパリ講和会議でウィルソン米大統領とロイド・ジョージ英首相が、トルコのプリンキポ諸島で白軍と赤軍を招いて会議を開催すると提案し、ロシアのボリシェヴィキ体制を承認する姿勢を見せると、タイムズ紙はニューヨークのユダヤ人金融業者に吹き込まれたものと憤慨し、シベリアにいたノックス将軍も抗議した。タイムズ紙主幹ウィッカム・スティードがパリの『デイリー・メール』紙でボリシェヴィキは西洋文明の基礎を公然と覆す無法者であると主張すると、スティードはウィルソン米大統領腹心のハウス大佐から呼び出され、米国がボリシェヴィキを承認してしまったらヨーロッパでのボリシェヴィキの台頭をくい止めることはできなくなり、そうなるとウィルソン米大統領も信用を失い、国際連盟も瓦解すると諭し、プリンキポ諸島会議計画は、シフ、ウォーバーグたち国際金融業者であると語った。この対談が英米首脳にボリシェヴィキ体制を承認するのを思いとどまらせたとされる。ノースクリフ卿ハームズワースは、ロイド・ジョージ首相がシオニストのメルチェット卿アルフレッド・モンド(Alfred Moritz Mond)の政策を採用したことを攻撃していた。またタイムズは社説で、選民意識を持った人種のユダヤ人はモーセの掟に忠実で、人に赦しを与えようとせず、ロシアへの仇討ちはユダヤ人にとって甘美なる喜びであったと主張された

モーニングポスト紙がイギリスのユダヤ人は共産主義から距離を置いていることを公示すべきであると訴えると、モナッシュ将軍、ライオネル・ロスチャイルドなど著名なユダヤ人が共産主義とシオニズムを否定して要求に応えた。

ウィンストン・チャーチルは1919年11月5日のロシア白軍への物資援助予算審議国会で、レーニンはチフス菌を都市の貯水槽に流し込むようにしてロシアに送り込まれ、またニューヨーク、グラスゴー、ベルンなどに潜む革命家を指揮するなど悪魔的に器用であると述べ、また1920年1月3日には社会主義者は全ての宗教を破壊しようとしており、ロシアとポーランドのユダヤ人が作り出す国際ソビエトに信を寄せていると演説した。チャーチルは1920年2月8日にサンデイヘラルド紙上の『シオニズム対ボルシェヴィズム:ユダヤ民族の魂のための闘争』で、ユダヤ人には祖国を再建しようとしているシオニストがいて、国際ユダヤ人がいる。国際ユダヤ人の運動は「スパルタクス」と呼ばれたアダム・ヴァイスハウプト(Adam Weishaupt)はイルミナティを結成してフランス革命の悲劇をもたらしたほか、マルクス、トロツキー、ハンガリーのクン・ベーラ、ドイツのローザ・ルクセンブルク、米国のエマ・ゴールドマンまで世界中で共謀しており、さらにテロリストで無神論のユダヤ人は実際にロシア革命を実行し、ハンガリー評議会共和国やバイエルン・レーテ共和国を築き恐怖をもたらしたが、大英帝国臣民であるユダヤ人国民は他のイギリス臣民のようにロシアの陰謀と戦うべきだし、ボルシェヴィズムはユダヤ人の運動ではないと明らかにすべきで、またパレスチナにユダヤ人国家を早急に建設すれば、不幸なヨーロッパからの避難所となり、ユダヤ教の栄光ある教会となる、と新聞で論じた。一方で、オスカー・ワイルドの恋人だったアルフレッド・ダグラス卿はチャーチルをシオン賢者の工作員として告発した。

1920年、モーニングポスト紙編集者ハウエル・アーサー・グウィンが序文を書いた『世界の不穏の原因』でも「シオン賢者」と「ユダヤ禍」が主張された。

1920年4月にはロイド・ジョージ首相とボルシェビキとの交渉が始まり、レオニード・クラシンが非公式にロンドンに招待された。タイムズは『シオン賢者の議定書』を引用して、ダビデの世界帝国を樹立しようとしている陰謀家との交渉であると批判した。また、スペイクテイター紙も議定書を引用して、ユダヤ人議員の入閣や、ユダヤ人への市民権授与には慎重であるべきで、ユダヤ人は危険因子で国際争乱の源泉であり「社会のペスト」であると繰り返し報道した。

1921年1月16日、在英ユダヤ人代表団(Board od deputies of British Jews)は反ユダヤ主義批判の声明を出した。これにはウィルソン、ハーディング、ルーズヴェルト、タフトら米国歴代大統領、銀行家モーガンなど、アメリカ人の著名人が名を連ねた。

タイムズ紙は1921年8月16・17・18日にフィリップ・グレイヴス記者による「議定書の終焉」記事を掲載し、タイムズ紙は以後、『シオン賢者の議定書』を情報源として使用しなくなった。

文学

文学作家たちにも反ユダヤ主義的な意識が見られる。1913年にはラドヤード・キップリングが「イスラエルの士師、雪のごとき白き癩病者」と詩で書いた。

第一次世界大戦から第二次世界大戦までの戦間期には、イギリスに帰化した詩人T・S・エリオットが『ゲロンチョン』(1920)で「わたしの家はぼろ家です。おまけに主は窓の敷居に蹲るユダヤ人」が「どんよりしたどんぐり眼のまなざしが原生動物の粘泥のなかからカナレットの透視画を凝視している」「積荷の下にはネズミばかり、せり売り台の下にはユダヤ人」と書いた。エリオットはカトリックによる文化統一を主張し「異神を追いて」では国民は同種族でなければならず、自由思想のユダヤ人が混じるのは好ましくないとして、極端な寛容は排すべきだとした。1940年にもエリオットは自分は反ユダヤ主義者ではないし、人種的な偏見は持っていないが、自らの信仰から遊離したユダヤ人は危険であり無責任であると述べた。

他方、作家ジェイムズ・ジョイスは「彷徨えるユダヤ人」の系列につながる『ユリシーズ』(1922)で、妻と結婚するためにカトリックに改宗したユダヤ人主人公ブルームを描き、作中でタルムードからの影響や、イギリスがユダヤ人に支配されているという校長に対して反論するスティーブンを描いた。

ジョン・ゴールズワージーは戯曲『忠義』(1922)で金持ちで不遜なユダヤ人の失墜を描いた。カトリック作家ヒレア・ベロックは『ユダヤ人』(1922年)でユダヤ人問題は恐るべき結末を迎えようとしているが、文明の未来を脅威にさらすことを防ぐにはユダヤ人が隔離政策を受け入れることだと論じた。聖公会牧師ウィリアム・ラルフ・イングは、イギリスでユダヤ人問題など見聞した覚えはないし、イギリスは世界最良のユダヤ人を獲得したにすぎず、一人の人間を個人の価値において遇し、移民だからという理由で処罰することは断じてない、またチェンバレンはイエスをドイツ人としたがイエスはユダヤ人であるとベロックを批判した。

作家ジョージ・オーウェルは、『パリロンドンで落ちぶれて』(1933)で、ユダヤ人古物商を不愉快な男として描き、またユダヤ人詐欺師についても描いた。1931年8月の「ホップを摘む」では、いつも豚のようにがつがつしているユダヤ人の少年の顔は「腐肉にたかる卑しい獣を思い起こさせる」と書き「空気を求めて」(1939)では講演会に参加しているトロツキストを「抜け目ない顔つき、もちろんユダヤ人だ」と書いた。1940年10月25日の日記では、ロンドン空襲時に地下鉄に避難したユダヤ人について「ことさら自分から目立とうとする」「こわい顔をしたユダヤ人の女」が、列車から降りるのに邪魔な人を誰彼なく打擲していると書いた。1942年1月1日のロンドン通信では、イギリスの反ユダヤ主義はドイツの反ユダヤ主義ほど暴力的ではないと書いた。第二次世界大戦後のオーウェルについては#現代のイギリスを参照。

イギリス委任統治領パレスチナと反シオニズム

イギリス帝国は第一次世界大戦の中東戦域でオスマン帝国に勝利すると、パレスチナを占領した。このパレスチナ作戦には、シオニストのゼエヴ・ジャボチンスキーも協力した。

第一次世界大戦中の1916年5月9日にイギリス、フランス、ロシアはサイクス・ピコ協定を締結し、オスマン帝国領の分割とパレスティナの国際管理化を定めた。5月16日にはデビッド・ロイド・ジョージ首相はパレスチナの偉大さを取り戻すとして、パレスチナをイギリス委任統治領とした。サイクス・ピコ協定の原案を作成したマーク・サイクスは反ユダヤ主義であったが、シオニズムを支持した。その後ロシア帝国は革命で解体し、イギリスが現イスラエル、パレスチナ、ヨルダン、イラクを、フランスはレバノンとシリアを委任統治した。イギリスのパレスチナ政策については各国で反発があった。

1917年11月2日には外務大臣アーサー・バルフォアがユダヤ系貴族院議員ウォルター・ロスチャイルドに対してシオニズム支持を表明し、パレスティナへのユダヤ人入植を許可した(バルフォア宣言)。バルフォアは、キリスト教はユダヤ教に借財があると考えていた。

フランスでは、ユダヤ系フランス人のジョゼフ・レナックが1917年4月にイギリス軍がガザを占領するとガザ地区でのフランスの権利を強調するとともにシオニズムを「考古学的夢想」と称した。また1919年のパリ平和会議で、世界イスラリエット連名会長のシルヴァン・レヴィは、近東にボリシェビキ的アナーキズムの危険が迫っているし、西洋諸国ではユダヤ人の二重国籍問題があるのに対して、パレスチナのユダヤ人だけに特権と例外的状況を要求するのは容認できない、自分の国で市民権を行使している者が他国でも同じように権利を行使するように説きすすめることは由々しき前例になると批判した。モーラスは、パレスチナをユダヤ人に与えたのは、ロイド・ジョージ英首相ではなく、ブリアンフランス首相であり、ブリアン首相は十月革命ももたらしたと1922年1月に述べた。

カトリック側も反発し、教皇ベネディクトゥス15世は、先人のキリスト教徒たちが異教徒の軛から解き放つ努力をしてきた土地をユダヤ人に提供することに怒りを表明した。『チヴィルタ・カットーリカ』紙は聖地が「神殺しの民」「キリスト教文明の敵」の手に落ちようとしていると報じた。ローマ・カトリックにとってシオニストのユダヤ人とプロテスタントのイギリス人は種類の違う「異教徒」であった。フランスのカトリック司祭エルネスト・ジュアンは『シオン議定書』を紹介し、パレスチナがフランスからイギリスの手に渡り、ユダヤ人の手に渡ろうとしていることは背信行為であると述べた。ジュアン司祭の協力者オリコストはエルサレムはユダヤ人による世界征服の要塞となるとした。『ドキュメンタシオン・カトリック』紙はユダヤ人は王国を再建しようとしているとし、ユダヤ教の政治的支配に対抗してキリスト教徒はイスラム教徒と連帯するべきだと主張した。また同紙は『シオン賢者の議定書』の信憑性は保証すると紹介した。ポリアコフは、反シオニズムは1948年の中東戦争以降のものと受け止められることが多いが、このように第一次世界大戦直後からフランスの反シオニズムは存在していたと指摘している。

ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は、パレスチナが東方進出の足がかりにもなることから、シオニズム運動支援を公言したが、裏ではドイツからユダヤ人を送り出す意図もあった。1918年11月27日に「バイエルン急報」は、ドイツに勝利したのは、フランスでもイギリスでもアメリカでもなく、ユダヤ人だと主張した。

第一次世界大戦の賠償を決定する1921年2月のロンドン会議では、パレスチナ問題についてフランスのジュール・カンボンは、聖地エルサレムは15世紀以来フランスの手中にあったし、教皇もそのことを承認してきたと述べた。フランス代表フィリップ・ベルトロ(Philippe Berthelot)はシオニストはあたかも自分たちが大国代表団のように振る舞っているが、シオニストの大多数は自称ユダヤ人であり、ユダヤ人の血を宿していないと述べた。

1922年7月24日には国際連盟でイギリス委任統治領パレスチナが承認された。高等弁務官にはユダヤ人で1931年に自由党党首にもなったハーバート・サミュエルが就いた。

第一次大戦で敗戦したオスマン帝国は英仏伊ギリシャなどの占領下におかれて解体し、トルコ革命を経て1922年にトルコ共和国となった。1923年のローザンヌ条約でトルコは元オスマン帝国領を放棄して、イギリスとフランスによる中東分割が正式に認められた。その後、アラブ人・パレスチナ人による反ユダヤ人暴動が度々発生し、1929年8月の嘆きの壁事件ではユダヤ人・アラブ人双方が100名以上が犠牲となった。

1936年、世界ユダヤ人会議が結成された。同年、パレスチナ・アラブ大蜂起(パレスチナ独立戦争)が始まり、1939年まで続いた。この大蜂起ではイギリス軍の報復によってアラブ人の犠牲者がユダヤ人、イギリス人よりも上回った。

1941年11月28日、反シオニストのアラブ人指導者アミーン・フサイニーがヒトラーと会見し「ドイツとアラブはイギリス人、ユダヤ人、共産主義者という共通の敵がいる」と述べた。パレスチナ問題は第二次世界大戦後も中東戦争などをもたらしていった。

アメリカ合衆国

デューイ事件とアメリカユダヤ人委員会の結成

1905年、ニューヨーク州知事付き図書司書メルヴィル・デューイがレイク・プラシード・クラブを設立したが「伝染病患者、障害者、ユダヤ人」を入会拒否にしていたため、ユダヤ人弁護士ルイス・マーシャルや、銀行家ジェイコブ・シフ、ニューヨーク・タイムズ社主アドルフ・オックスらが州当局に抗議した。デューイは解雇され、マーシャル弁護士たちは、1906年にアメリカユダヤ人委員会(AJC)を結成した。AJCは1907年には、ユダヤ人の入店を断るホテルや娯楽場の宣伝を全米で禁止することに成功した。ロシア政府によるユダヤ系アメリカ人の入国ビザ拒否に対してAJCは、ロシアへの報復を求め、1912年にはロシアとアメリカの条約撤廃が決議された。しかし、このことによって、ロシアのユダヤ人の境遇は改善しなかっただけでなく、AJC代表のジェイコブ・シフが「ユダヤ金融」の象徴とみなされるようになってしまった。

1913年、レオ・フランク事件が起こる。

第一次世界大戦

第一次世界大戦でアメリカが参戦すると、ドイツ人憎悪が高まり、ドイツ工作員がマッチや蛍光洗剤を不足に追い込もうと画策したり、伝書鳩でスパイに便宜を図っているという噂が流布し、クー・クラックス・クランがドイツ系アメリカ人をリンチにするなどした。

1916年、弁護士・人種学者のマディソン・グラント『偉大な人種の消滅、またはヨーロッパ史の人種的基礎』で、米西戦争で目にした米兵出征の風景では、金髪の北方人種は勇士として戦地に赴き、勇士を見送る褐色の短躯な市民は銃後のいる。こうして北方人種は無頓着な勇士として「人種の自殺」に向けて突進して、戦争の勝者となるのは褐色の髪の小柄な人間であるとした。グラントはノルディック(北方人種)、ラテン、スラブのヨーロッパの3民族のいずれかとユダヤ人が掛け合わせるとユダヤ人になるために異人種間の雑婚は行われるべきではないと主張した。

1917年6月、非戦派の左翼作家ランドルフ・ボーンは「ユダヤ人は自分たちの民族だけが宇宙の神の真の人民として選ばれたことに畏敬の念を表わす。同じぐらいにおめでたいのが、すべての戦争のなかで我々の戦争だけが一点の穢れもなく、胸躍らせるような善を達成するだろうと語る我々(アメリカ)の知識人」であると述べ、アメリカの主戦派をユダヤ選民思想に例えて批判した。

反共主義

第一次世界大戦中にロシア革命が起きると、イギリスと同じようにアメリカでも反ボルシェビキ・反共主義運動が高まった。1918年9月には『反ボルシェビスト(The Anti-Boshevist)』が発刊され、アメリカを参戦に駆り立てたのはユダヤ人であるとされた。

ペトログラードでエヴゲニー・セミョーノフがアメリカ人外交官エドガー・シソンに渡した文書をもとに、1918年9月、アメリカ政府は『ドイツボルシェビキの陰謀』を刊行し、トロツキーはドイツのユダヤ人銀行家マックス・ヴァールブルクとライン=ヴェストファーレン労働組合から資金提供を受け、ユダヤ人はドイツとオーストリア=ハンガリー帝国でユダヤ共和国を築いたとされた。この文書は1919年9月23日にロストフで出版され、1920年にはパリの『古きフランス』紙やロンドンのザ・モーニング・ポストでも報じられた。

1918年11月30日付けの国務省内報告書「ボリシェヴィズムとユダヤ」では、ユダヤ人がアメリカ、日本、中国の軍事力を利用してゴイーム(非ユダヤ人)の反抗を抑えつけると結論された。報告書はロシア亡命者ボリス・ブラソルによって作成された。

1919年にはストライキが被服工場で頻発し、ストライキ参加者の大半がユダヤ人であったし、1923年時点でアメリカ共産党の45%が旧ロシア帝国領のフィンランド人で、ロシア人工作員とみなされた。当時のユダヤ人の政治活動についてアメリカ・ユダヤ委員会のサイラス・アドラーは、我々ユダヤ人はデモ行進をして騒ぎすぎた。ここまで注目を集めておいてその注目が好意的なものであったほしいとは無理な相談であると、ユダヤ人として自己批判した。

上院特別委員会では、クエーカー教徒ケディーはロシア新体制は平和主義で良きキリスト者であると証言し、またジャーナリストのウィリアムズはロシアは人類の新たな兄弟愛を目指していると証言する一方で、ウィリアム・ハンティントン領事や、ナショナル・シティーバンクロシア支店長、ロシア・メソディスト教会のシモンズ牧師らはロシア革命の大多数はユダヤ人によってなされたと証言した。シモンズ牧師は、自分は反ユダヤ主義者ではないし、ポグロムを嫌悪するが、トロツキーの数百人の部下はニューヨークのイーストサイド出身であり、ロシア新体制は反キリスト教的であり危険であると証言した。シモンズ牧師への情報提供者の軍医ハリス・A・ホートン博士は『議定書』の信奉者だった。翌日、各紙は、アメリカのユダヤ人がロシアで権力を握ったというシモンズ牧師の証言を報道した。しかし、上院特別委員会では、リトアニア・クディルコス・ナウミエスティス出身のユダヤ人ジャーナリスト、ハーマン・バーンシュタインの陳述等によって「ニューヨークのユダヤ人による陰謀」という見方は採択されなかった。なお、歴史学者A・サットンは、ボルシェビキ体制への支援はユダヤ系銀行家よりも、モルガン、ロックフェラー、トンプソンなど非ユダヤ系銀行家や投資家が行っていたと論じた。

シカゴ・トリビューン紙は1920年6月19日記事で、英仏露三国協商の秘密諜報機関の情報将校たちによるボリシェヴィキ革命報告書によれば、革命運動国際組織の本部はドイツの首都にあり、実行部隊の最高責任者はトロツキー、そしてこのユダヤ急進党はユダヤ人の解放と、東方での商業、ならびに大英帝国の基底部を掌握することを目的としていると報じた。

クー・クラックス・クランの構成員であったジャーナリスト・人種学者ロスロップ・スタッダードは1920年の著書『有色人の勃興』において、レーニンは中国人に取り巻かれており、ボリシェヴィズムによって創造的な個人が退廃し、無知で反社会的な横暴が「非優生学的大勝利」を収めるだろうと論じた。スタッダードはユダヤ人を白人の一種とみなして「有色人」とはみなしていなかったが、東欧と南欧からのユダヤ人によってアメリカは手の施しがないほど損なわれたと考えていた。

ハースト社の大衆誌「Good Housekeeping」1921年2月号で副大統領カルヴィン・クーリッジはアメリカは北方系アメリカ人のものであると主張した。

ジャーナリスト・小説家のケニス・ロバーツは雑誌サタデー・イブニング・ポストで連載されたルポルタージュ『なぜヨーロッパは故郷を離れるか』(1922年)で、ロシア亡命者が美しく優秀なのは北方人種だからだとし、それに対して「地上の屑」のユダヤ人はポーランド人やルーマニア人の見せかけの下に大量にアメリカに流入しているが、ユダヤ人はアジア人であり、ヨーロッパ人ではないとした。ロバーツは、少なくともユダヤ人は「ハザル人」と混ざり合っており、部分的には蒙古人種であり、すでにカリフォルニア州は白人地区の入り口で蒙古人種を遮断したが、彼らは今度は何百万という単位で西から東に流れ出すと警告した。また、ロバーツは、何の制限もない移住の結果として古代ギリシャにおいてギリシャの人種は跡形もなく姿を消したと主張した。ただし、ロバーツはユダヤ人による世界征服を信じていないとも述べていた。

フォードとその時代

自動車メーカーフォード・モーター創業者のヘンリー・フォードは反ユダヤ主義者であり、『国際ユダヤ人』(1920-1922年、四巻)を刊行した。フォードによれば、ユダヤ人を敵視するようになったのは、1915年末にユダヤ系ハンガリー人のフェミニスト・平和主義者のロージカ・シュヴィンメルと、ジャーナリストのハーマン・バーンスタインの企画でフォードが出資して「平和巡航船」を巡航させた時であった。フォードは、シュヴィンメルとバーンスタインを「非常に尊大なユダヤ人」といい、二人はユダヤ人による金権支配とマスコミ支配について語り、ユダヤ人だけが世界大戦を中止できると述べたことに嫌気がさし、同時に世界戦争と革命の原因がユダヤ人にあることを見抜いたと述べた。

フォードは新聞「ディアボーン・インディペンデント」を買収してフォード販売店に定期購読者を義務づけ、反ユダヤ記事を多数掲載した。編集長はアングロ・イスラエリズムの影響を受けた宗派ブリティッシュ・イズリアライツ(British Israelites)に属するカナダの記者ウィリアム・キャメロンだった。キャメロンはユダヤ人は古代イスラエル12部族の一つにすぎず、イスラエルの民を代表するものではないし、ユダ族は聖書時代から常に不和の種を撒いてきたと論じた。1921年フォード名義記事で「ユダヤ人は2000年間平和な生活を送ることができなかったし、今日でも衝突で引っ掻き回す運命にあるが、イスラエルの失われた10支族(アングロサクソン人のこと)に「反セム主義」と告発できるとは誰も考えない」とされ、アングロ・イスラエリズムの影響が見出される。

1920年12月1日、アメリカユダヤ人委員会は、ブナイ・ブリス、アメリカ・ユダヤ会議、アメリカ・シオニスト会議、アメリカ・ラビ中央協議会と連名で冊子「議定書:ボルシェヴィズムとユダヤ人」を発行した。12月4日、プロテスタント長老派教会は兄弟であるユダヤ人への攻撃を遺憾に思い、ユダヤ人の市民精神を信頼すると表明した。12月24日、ユダヤ教、カトリック、プロテスタント三宗派連合で少数民族とユダヤ人への迫害を断罪する三宗派共同声明を発表し、ユダヤ人のなかには革命運動で際立った役割を果たしていることは認めるし、ユダヤ人には善人も悪人もいるが、スラム、炭鉱、家畜処理場でユダヤ人が憎しみを減ずるものでなかったことについてはアメリカ人は恥をもつことになるだろうと述べられた。1921年1月16日のウィルソンら歴代大統領ほか著名人の共同声明は、反ユダヤ主義は反アメリカ的で反キリスト教的であると抗議した。『アメリカ』誌はフォードに抗議するユダヤ人について、ユダヤ人の素早さは称賛すべきであると報道した。

1921年に「ディアボーン・インディペンデント」紙は、ロンドンとニューヨークに代理政府を置いている「オール・ジュダーン(All Judaan)」はドイツへの復讐に成功したあと、イギリスを手中に収め、ロシアもユダヤ人に敗北してしまうだろうと述べて、寛容なアメリカはユダヤ人にとって約束の地なのだと述べた。また、フォードはニューヨークのユダヤ人がロシア最後の皇帝に代わる人物を任命したとも述べた。この記事に対してルイス・マーシャル弁護士は抗議したが、フォードは反論した。ジェイコブ・シフはフォードと揉めると大火事になってしまうと考え、抗議を断念した。さらに「ディアボーン・インディペンデント」紙は『シオン賢者の議定書』の紹介を始めた。1921年8月には『シオン賢者の議定書』のアメリカ版が出版され、経済界有力者や国会議員の手に入った。1921年末、フォードは、南北戦争を誘発したのはユダヤ人であり、リンカーンを暗殺したのもユダヤ人であると述べた。

作家チェスタトンはフォードを訪ねた後、フォードは慈善家であり発明者であり芸術家であるが「このような人間がユダヤ人問題の存在に気づいたというのなら、それは現実にユダヤ人問題が存在するということの証拠である。それは断じて反ユダヤ的な偏見のなせる業ではない」と評した。

1922年には「ディアボーン・インディペンデント」紙がユダヤ人弁護士アーロン・サピロから訴えられた。

同年、フォードの『国際ユダヤ人』ドイツ語版が出版者テオドル・フリッチュによって刊行された。ドイツ語版『国際ユダヤ人』では注釈がおびただしくあり、フォードが「ユダヤ人には悪玉も善玉もいる」と書いた箇所については「これは恐るべき幻想であり、全ユダヤ人が一体となって人類を蔑んでいるのである」とフォードを批判した注釈もあった。

1922年6月、ハーバード大学のアボット・ラッセル・ロウエル学長はユダヤ人学生を10%に制限する案を提出したが、これをボストンポスト紙がリークすると、アイルランド人、黒人組織やアメリカ労働総同盟などが非難し、ルイス・マーシャル弁護士らの活動で却下された。

1922年12月10日付のベルリナー・ターゲブラット紙や12月20日付ニューヨーク・タイムズ紙は、フォードはナチスを財政支援していると報道した。

1924年の移民制限法ジョンソン法(日本では排日移民法と呼ぶ)で、1890年を基準として移民の国籍別割当てを3%から2%に引き下げられると、1890年以後の東欧・南欧が制限され、また日本を含むアジアからの移民は禁止された。ポリアコフは、この移民制限法の目的は、ユダヤ人移民を制限するためのものであったとする。また、すでに1897年にロッジ共和党議員は移民に識字テストを義務づけるべきだと主張していた。

1927年夏、フォードはこれまでの反ユダヤ著作物でユダヤ人に対する不正があったと謝罪して、これらの出版物を廃棄した。フォードはドイツ語版『国際ユダヤ人』の回収を出版者フリッチュに依頼したが、フリッチュは損害賠償を要求したため、回収を断念した。後にナチスの機関誌『フェルキッシャー・ベオバハター』はフォードの謝罪について、ユダヤ人銀行家が英雄的な老兵をねじ伏せたと評した。また、フォードはワーグナー、チェンバレン、ヒトラーと同じく菜食主義者であり、強い酒、コーヒー、紅茶、タバコを御法度としたが、こうした「異物拒否」の強迫がユダヤ人に差し向けられたとポリアコフは見ている。しかし、フォード以後も、飛行家チャールズ・リンドバーグやカトリック司祭チャールズ・コグリンは1930年代に反ユダヤ主義発言を主張した。

文学

作家フィッツジェラルドの1922年の『美しく呪われし者』ではニューヨークに溢れるユダヤ人の名前や「Jew Yoyk(ジューヨーク)」という表現がみられる。『偉大なギャッツビー』(1925)で主人公は、イディッシュ訛りのユダヤ人相場師マイヤー・ウルフスハイムによって暗黒街に誘われる。ウルフスハイムはスワスティカ(鉤十字)株式会社を経営していた。しかし、後年にはガートルード・スタインやナサニエル・ウエストなどのユダヤ人作家との交友や、ユダヤ人愛人シーラを持つなどして、フィッツジェラルドは反ユダヤ主義を否定するようになった。

ウィラ・キャザーは、ボヘミア人、スウエーデン人、フランス人を美化して描くのに対してユダヤ人を否定的に描いた。小説『教授の家』(1925)はアメリカ人が発明した装置をユダヤ人が特許を取得して商業化に成功するという話で、創造的なアメリカ人と、他人の創造したものに寄生して搾取する成り上がり者のユダヤ人という構図を描いて、ユダヤ人を批判した。

アーネスト・ヘミングウェイ「日はまた昇る」(1926)で、反ユダヤ的な空気のなかでボクシングを始めたユダヤ人コーンがぐずでどじな男として描かれる。

トーマス・ウルフ『天使よ故郷を見よ』(1929)ではユダヤ人を「あひる油臭い」と叫ぶ子どもなど嘲罵する様子やまた「浅黒い琥珀色をしたユダヤ人」が大量に在籍している大学が描かれ、ユダヤ人がアングロサクソン風に改名することを欺瞞として批判する。また「イギリスへの道」原稿では、反ユダヤ主義が存在する理由はユダヤ人の商業的成功と、ユダヤ人が社会的孤立を維持しようとするためであり、自分たちの世界には外部からの侵入を拒みながら、外部では参政権を主張するユダヤ人を批判した。ウルフは私生活でユダヤ人の人妻と愛人生活を続けており、小説でもユダヤ性をめぐっての喧嘩などが描かれた。ウルフが1936年にベルリンオリンピックに訪れると、ナチスのユダヤ人政策を野蛮なものとみなした。

トマス・ディクソン「ザ・クランズマン」は白人処女を強姦しようとした黒人がリンチされ、KKK団が馬にのって燃える十字架をながめるという戯曲で、1908年までに観客動員は400万人にのぼった。フォークナーも観劇した。

ウィリアム・フォークナーの『標識塔』ではユダヤ人の下水局長であるファインマン大佐が歓心を買おうとして欠陥飛行機に無理やり飛行士を搭乗させて事故死させてしまう冷酷で俗悪な人間として描かれた。『響きと怒り』(1929)では、ろくでなしのジェイソン4世が東部ユダヤ人を忌々しいと語る。『サンクチュアリ』(1931)ではスノーブス議員が床屋でユダヤ人はこの世で最も下劣で安っぽい連中だと語ったり、ユダヤ人弁護士が臆病で非情な人間として描かれた。短編「死の宙吊り」では、ものすごい鼻をした鮫面のユダヤ人実業家が破産したあと曲芸に打ち込み、約束の報酬の不足分を飛行機から飛び降りて取り立てると描かれた。『寓話』(1954)では、ユダヤ人少尉を悲劇的英雄として描写する一方で、反乱の責任を問われたフランスの軍人を冷酷に殺害するブルックリン出身のユダヤ人を描いた。

体制批判の批評家ヘンリー・ルイス・メンケンは、ユダヤ人の掲げる大義は忌まわしいもので、それはポグロムを正当化するものであると論じ、1934年にはユダヤ人のパレスチナ入植を歓迎した。

詩人エズラ・パウンドは高利貸し的慣行(USURA)を除去する経済改革が必要だとしてムッソリーニを支持した。1942年4月3日、パウンドはローマからの連合国に向けた放送で、ユダヤ人上層部のポグロムが必要だとして、世界大戦をはじめた60人のカイク(ユダヤ人)と非ユダヤ的ユダ公をセントヘレナ島へ送還しようと述べた。1915年から書き継がれた『詩章』では「ロスチャイルドやその同類は、黄金を売ろうと思ったら、必ずその値段をつり上げる」(48編)「ロスチャイルド(Stinkshuld 罪の臭う男)の罪で、哀れなユダヤ人(poor yitts)が償いをしている」(52編)とユダヤ人による国際金融支配(Usuracracy)を批判した。ヒュー・ケナーはこの箇所は分析を試みたものであり、反ユダヤ主義を減らすものとしたが、ケイジンはロスチャイルド家が戦時中に他のユダヤ人よりも特権を享受していたことはなく、フランスのギー・ド・ロチルドは将校として前線に立ち、ギュイの従兄弟は捕虜となり、母方の親戚のほとんどが強制収容所でなくなったと反論した。『詩章』52編ではベンジャミン・フランクリンにならって、ユダヤ人と国際金権の追放を書いた。フランクリンのユダヤ人追放策はW.D.ペリーによって流布したが、1934年に文学史家カール・ヴァン・ドーレンはこれを捏造とした。戦後の1955年に刊行された『詩章』91編では、民主勢力は下水溝への道を選び、糞を流したのはユダ公(Kikery)のマルクス、フロイト、アメリカの低級な連中であると書いた。一方、パウンドはユダヤ人の弟子ズーコフスキーを評価していたし、1967年にはユダヤ人詩人のアレン・ギンズバーグに自分の犯した最大の間違いは反ユダヤ主義の偏見だったと述べた。

ロシア

『シオン賢者の議定書』

1895年、ロシア警察に保管されていた『ユダヤ教の秘密』という文書では、ユダヤ人はキリストを十字架にかけた時から壮大な陰謀を仕組み、キリスト教を世界に普及させた後でキリスト教をあらゆる手段を用いて破壊すると計画したとされたが、この文書は皇帝に提出されなかった。

他方、1897年にはユダヤ人労働者政党ブンド(Bund)が結成された。

ロシア帝国内務省警察部警備局パリ部長のピョートル・ラチコフスキーが作成を命じた『シオン賢者の議定書』(1899年から1902年にかけて成立)では、シオンの賢者らがユダヤ人専制君主を全世界の法王とするためにフランス革命を起こし、世界すべての民をユダヤ教の前に平伏させることを目的としていると書かれた。こうした陰謀論は、イエズス会、フリーメイソンを悪役とする陰謀論でもみられた。しかし、ストルイピン大臣が憲兵隊に調査を命じると、偽書であることが判明したため、皇帝ニコライ2世はこの文書の廃棄を命じた。ラチコフスキーはその後、反ユダヤ団体黒百人組のロシア民族同盟の結成に関わった。また、当時のロシア宮廷にはパピュスことジェラール・アンコース等のオカルティストがコネクションを有しており、『議定書』の草稿のロシアへの持ち込みに関与したユリアナ・グリンカも神智学に傾倒していた。

ロシアでのユダヤ人行政が強硬になると、ユダヤ人はアメリカ合衆国へ移住したり、またユダヤ人の間では、パレスチナへの愛とシオニズムが広まっていったが、1903年にはロシア政府がシオニズムを禁止した。

ロシア革命が発生すると、『シオン賢者の議定書』はロシアだけでなく、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、日本でも翻訳され流布していった。1921年8月に英『タイムズ』紙が議定書は捏造であると報道し、この文書は沈静化したものの、反ユダヤ主義的言動は各地で継続した。

儀式殺人事件、ポグロム、そして第一革命

1903年2月、ユダヤ人が住民の半数を占めるベッサラビアのキシニョフでの少年殺害事件はユダヤ人が犯人とされ、クルーシェヴァンの地方新聞は反ユダヤ報道を続けた。キシニョフでユダヤ人への復讐を宣言する「真のキリスト教徒労働者党」が結成され「キリスト教徒の血を吸うユダヤ人が、民衆を反皇帝運動に扇動している」と主張した。復活祭の日曜日の1903年4月6日、ポグロムが発生した。死者は49人、負傷者数は500人、町の3分の1が破壊された。軍が暴徒を鎮圧したのは翌日の夕方であった。このキシニョフ事件に対して欧米諸国は非難し、ロシア語の「ポグロム」が広く認知された。ウルーソフ公爵は、当時のロシア警察、官吏にとって反ユダヤは義務と捉えられていたとし、一方で、ロシア民衆にユダヤ人への敵意は見られないと回想している。同1903年ドゥボサリーで儀式殺人事件が起こった。

1904年から1905年にかけての日露戦争では、反ユダヤのパンフレットが招集兵に配布され、ユダヤ人がロシア敗戦のスケープゴートとされた。

1905年1月に血の日曜日事件が起きると、春にかけて各地で大規模な抗議ストライキが起きて、ロシア第一革命が6月まで続いた。2月にはモスクワ総督でロシア大公のセルゲイ・アレクサンドロヴィチが爆弾で暗殺された。6月には戦艦ポチョムキンの水兵が叛乱した。夏には農民一揆や、ビアウィストク、ブレスト=リトフスク、ミンスク、クリミア半島のケルチでのポグロムが発生した。8月にニコライ2世はドゥーマ(議会)の創設を許可した。9月に日本との講和条約ポーツマス条約が結ばれたが、国内の騒乱は収まらなかった。ロシア第一革命を通してユダヤ人への猜疑は深まり、セルゲイ・ヴィッテはユダヤ=フリーメイソンの陰謀に加担したとして告発された。しかし、ヴィッテもユダヤ人の横暴が度を越したと見ていた。10月、セルゲイ・ヴィッテは「国家秩序の改良に関する詔書」で立憲主義を導入して皇帝の専制権力を制限したが、ロシア皇帝はニコライ2世は反発した。十月詔書を歓迎するデモが起こり、皇帝派の対抗デモが起こった。「ユダヤ人と革命派打倒」をスローガンとする皇帝派は、数百箇所の町でポグロムを起こした。ポグロムは、ラチコフスキーの指示によって行われ、憲兵隊長コミサーロフ(Kommissarov)は、ポグロムはいつでも組織できると豪語していた。オデッサではネイドガルド総督がポグロム犠牲者に対して「これこそはユダヤ的自由だ」と言った。1905年10月の最後の10日間だけで数百件のポグロムが発生した。この年のポグロム全体の犠牲者は死者810人、負傷者1770人となった。

十月詔書直後、皇帝ニコライ2世は革命運動の9割がユダヤ人であったために反ユダヤのポグロムが起こったと母親への手紙で報告し、2ヶ月後にはユダヤ人国際的共同行動についての法案が認可した。ロシア政府は「革命家」を「ユダヤ人」の類義語としていた。また、ニコライ2世はユダヤ人の破壊活動に脅かされているドイツとカトリック教会との協調路線外交を支持した。モスクワに発した暴動は、ポーランドやロシア各地でも勃発しており、ヴィッテやストルイピン首相もユダヤ人組織が世界規模で動いていると考えていた。他方、革命運動におけるユダヤ人の活動については、ロシア・マルクス主義の父と称されるゲオルギー・プレハーノフは、ユダヤ人活動家を「ロシア労働者軍の前衛部隊」として、またレーニンもユダヤ人の国際主義と前衛的な運動に対するユダヤ人の敏感さを賞賛した。

1906年、蔵相ココフツォフはユダヤ人の侵入を防ごうとしても、彼らは簡単に合鍵を見つけるので無駄であり、抑圧政策はユダヤ人を苛立たせるだけであるし、行政側の不正や越権行為を助長することにしかならないので、反ユダヤ法の制定には反対した。1906年以降は、ビアウィストクとシェドルツェのポグロムで合計110人が殺害された。

1906年から1916年にかけて、反ユダヤの著作物が2837冊出版され、皇帝も1200万ルーブルの財政援助をした。クルーシェヴァンの『軍旗(ズナーミャ)』紙は、ユダヤ問題は宗教問題ではなく、人種の問題であり、ユダヤ人は「寄生虫的で貪欲な本能」を持ち「彼らの侵入を許してしまった社会には確実に死をもたらす」と報道した。政治家ニコライ・マルコフは、左派代議士に向かって「ロシア人の子供の喉を切り裂いてその血を吸うユダヤ国の末裔の正体」を暴くこともできなくなった時、正義も司法も頼りにならないとロシア民衆が確信した時には、最終ポグラムが発生して、ユダヤ人の「一人残らず、最後の一人にいたるまで、文字通り喉を掻き切られる」と演説した。

1911年3月20日、13歳の男の子の死体がキエフ郊外で発見されると、ロシア民族同盟らが儀式殺人の方向で調査し、ユダヤ人の煉瓦工場職工長メンデル・ベイリスが逮捕された。作家ウラジーミル・コロレンコは、ベイリス事件について特定の民族への偏見であると抗議した。アメリカも抗議して米ロ通商条約を破棄し、内相マカロフは訴追を断念した。しかし、法相イヴァン・グリゴリェヴィチ・シチェグロヴィートフは裁判を再開し、ベイリスは無罪とされたが、少年が儀式殺人で殺害されたことは事実と認められた。9月、キエフでアナーキストのユダヤ人が皇帝の目前でストルイピン大臣を銃撃した。

1912年、改宗ユダヤ人の2世、3世は士官への昇進を禁止された。

第一次世界大戦とボリシェヴィキ革命による帝政崩壊

第一次世界大戦下のロシアでユダヤ人は祖国ロシアへの愛国心を宣言していた。1914年7月にはユダヤ人議員ナフタリ・フリードマンがユダヤ人とロシアには数百年の絆があり、ユダヤ人は深い祖国愛を持っているとし、またユダヤ系新聞『ノーヴォ・ヴォスホード』はユダヤ人同胞は祖国のために志願兵となったと報道した。他方で、反ユダヤ組織黒百人組による印刷物の軍内での無料配布も続き、ユダヤ人は捕虜になるとロシア人捕虜を虐待するとも報道された。

1915年にロシア軍が対ナポレオン戦来の焦土作戦に切り替えて大退却を始めると、ユダヤ人がドイツのスパイとみなされるようになった。1月に「ユダヤ人、その他スパイの疑いがある人物」の強制退去が通達され、西部地域から60万人のユダヤ人が内陸部へ追放された。1915年秋にはユダヤ人の検挙や略式裁判での絞首刑なども行われるようになり、シナゴーグでの慣習であった村を囲む紐を敵と通話するための電話線であるとして被疑者が処刑されたこともあった。1915年に『ゼムシチナ』紙は宣戦布告してきたのはドイツではなくユダヤ人であると報道し、1916年には『グラジュダニン』紙はニコライ2世の従兄弟であるイギリス国王ジョージ5世をフリーメイソンで革命派であるとした。1915年8月、ドイツ軍がロシア領ポーランドを征服してリガに進軍すると、内相ニコライ・ボリソヴィチ・シチェルバトフは、ニコライ・ニコラエヴィチ・ヤヌシケヴィチ将軍が失敗の責任をユダヤ人に帰して軍内部でポグロムが推進されていると閣議で発言した。ルフロフ通信大臣は、ロシア人で戦争で苦痛に耐え忍んでいる間にユダヤ人銀行家は国民から搾り取っているし、1905年の非常事態(革命)にユダヤ人が果たした役割を思い出すべきであると発言、シチェルバトフ内相はユダヤ人の破壊活動についてルフロフ通信大臣の指摘は正しいが、戦争資金はユダヤ人の手中にあると述べた。ロシア国内のスパイへの恐怖は、最終的に帝政崩壊をもたらした。一方、作家ゴーリキーやコロレンコ、メレシュコフスキーやアンドレーエフは親ユダヤ発言を行って反ユダヤ主義に抗議した。

ロシア革命で臨時政府が全市民の平等を宣言すると、ユダヤ人集団は臨時政府を支持した。1917年、アナトリー・ルナチャルスキー(ソ連初代教育人民委員)がクーデター直前に作成した順位表によれば、1位のレーニン、2位のトロツキー、3位のスヴェルドロフ、6位のジノヴィエフ、7位のカーメネフはユダヤ人であり、指導者グループでユダヤ人でなかった者は4位のグルジア人スターリン、5位のポーランド貴族のジェルジンスキーの2名であった。

2月革命後の3、4月にはロシア軍脱走兵によるポグロムが発生した。3月にニコライ2世は退位した。反ユダヤ主義は親皇帝派に浸透していたが、革命派でもウクライナのフルスタレフ=ノサリは「反ユダヤ共和国」を打ち建てようとした。ケレンスキー政府によれば、1917年7月、ボルシェビキ総司令部のクシェシンスキー家や無政府主義者のドゥルノボ荘の家宅捜索で反ユダヤ文献や儀式殺人の絵葉書などが見つかった。10月にレーニンはケレンスキー臨時政府の打倒を主張し、十月蜂起(グレゴリオ暦11月)でのボルシェビキ政府閣僚では反ユダヤ主義へ配慮して、ユダヤ人はトロツキーのみとなった。しかし、すでにロシア国内では革命はユダヤ人によるという見方が浸透しており、『ルプティジュルナル』はボルシェビキとユダヤ人へのポグロムを呼びかけた。

また、ロシア革命とユダヤ人は諸外国でも同一視されていき、各国で反ユダヤ主義が強まった。

内戦:1917-1922

ロシア白軍総司令官のコルチャークは1918年7月のロマノフ家処刑直後に『シオン賢者の議定書』に没頭し、1919年2月15日には「ロシアを破滅に追い込んでいるユダヤのごろつきどもを追い立てよ」と宣言し、ロシアの大地は反ユダヤ十字軍を必要としていると宣言した。アントーン・デニーキンが指導した南ロシア白衛軍は1919年秋にモスクワからトゥーラまでのかつてのユダヤ人定住地区を進軍し、デニーキンはポグロムを禁じたものの、ポグロムが行われた。デニーキンは反ユダヤ熱は兵士に蔓延し、キリスト教徒兵士からの虐待を防ぐためにユダヤ人部隊を編成したり、また白軍義勇兵のユダヤ人将校数十人が追放されたこともあったと記録している。

革命の結果無一物となった白系ロシア人はユダヤ脅威論を吹き込まれていたため、革命は危惧が的中したこととなり、敵意はボリシェビキのユダヤ人幹部に向けられ、次に革命を逃れてシベリア、満州に避難した一般のユダヤ人にも向けられた。1919年6月、ロシアでキリストと皇帝を殺害しロシアを破滅させようとしているユダヤ人についてのパンフレットが広く配付された。

1919年、ロシア内戦期のウクライナのキエフ県、ポドリア県(ポジーリャ)、ヴォルイニア県でポグロムが625件発生し、ポドリア県のプロスクロフでは1650人・ヘルソン県のエリザヴェトグラートでは1526人のユダヤ人が殺された。ポグロムに参加したのはウクライナ軍、赤軍、白軍(義勇団)、農民であった。ウクライナ軍は「ウクライナを救うためにユダヤ人を殺せ」というスローガン、旧皇帝軍の義勇団は「ロシアを救うためにユダヤ人を殺せ」というスローガンによってポグロムを行った。ウクライナの緑軍は指導者アタマンがユダヤ人のトロツキーは正教会を破壊すると扇動した。1918年から20年にかけてウクライナで殺害されたユダヤ人は6万人以上となった。

赤軍のユダヤ人指揮官が所持していたといわれたツンダー文書(Zunder Document)も1918年5月頃以降のロシア白軍で流布し、1922年にはチェコスロバキア共和国議会で読み上げられた。

ドイツのナチ党にはバルト海沿岸地域出身のドイツ系ロシア人が大きく寄与した。1917年の革命以前はロシア帝国領だったリガ出身のマックス・フォン・ショイプナー=リヒターはナチ党最大の資金調達者であり、シッケダンツ、クルゼル、マントイフェルなどもリガ出身であった。1935年に『ユダヤ帝国主義』を刊行したボストゥニツはSSでユダヤ人問題担当科学専門家となるが、元ロシア帝国領ウクライナ出身であった。

ソ連におけるユダヤ人

1917年-ロシア革命が起こる。ロシア帝国でのユダヤ人差別法を廃止した。

1918年1月、ロシア正教のヴォストーコフ総主教は「わたしたちはツァーリを転覆したが、代わってユダヤ人に隷属させられた」と発言した。レーニンからソ連を追放されたイェカテリナ・クスコヴァによれば、当時のソ連では、キリスト教が追放された学校は「ユダヤ的」であると憎まれ、ボルシェビキの宗教政策を「ユダヤによる抑圧政策」とみなす者もいた。

1922年3月、自由主義の政治家ウラジーミル・ドミトリエヴィチ・ナボコフ(作家ウラジーミル・ナボコフの父)は、シャベリスキー=ボルクとタボリツキーによって暗殺された。シャベリスキー=ボルクの師は、チェンバレンを信奉する反ユダヤ主義者のロシア人フュードル・ヴィンベルク大佐であった。

バーベリの小説『騎兵隊』(1926年)では、女性密売者が兵士に向かって「お前たちはロシアのことを考えていない。ユダヤのレーニンとトロツキーばかり助けている」と非難する。この箇所は検閲で「レーニンとトロツキー」が削除され「ユダヤばかり助けている」と変更された。また、『ザモスチエ』ではユダヤ人は誰からも悪者にされ、戦争後はわずかしか残らないだろうと百姓が語る。

1926年のモスクワでのユダヤ人住民は15万人以上となり、一般のロシア人にとっては『シオン議定書』のユダヤの権力を裏付ける証拠となった。

1928年、カリーニン議長は極東の地域ビロビジャンへのユダヤ人入植を提案し、ユダヤ民族区(現在のユダヤ自治州)が設置された。国内でのシオニズムの影響力を警戒したためだった。1928年には反ユダヤ主義を罪状とする裁判が38件となった。

1929年、レダットの著書『反ユダヤ主義と反ユダヤ主義者』ではロシア共産党とコムソモール(青年団)で反ユダヤ主義が浸透しているとされ、また党中央委員会104名のうち11名がユダヤ人であり、公務員におけるユダヤ人の割合はモスクワで12%とされた。

1931年にヨシフ・スターリンの独裁が始まると親ユダヤ的な文献は発刊されなくなり、スターリンはユダヤ主義などカニバリズムの名残にすぎないと述べた。スターリンは「ボリシェヴィキはポグロムを組織して党内のユダヤ分子を片付ける」と述べ、大粛清のなか、ヒトラーと同様の「ユダヤ人世界陰謀説」を持ち出し、ソ連とその衛星国家においてユダヤ人迫害を行った。1934年から1938年のスターリンの大粛清によりユダヤ民族区のユダヤ人指導者は大量に処分され、ユダヤ系の政治家カーメネフ、ヤキール、ソコリニコフ、ラデック、トロツキーなども犠牲になった。ユダヤ系詩人マンデリシュタームはスターリンに対して「ゴキブリのような大きな髭」と挑発したため逮捕され、ウラジオストクのグラーグへ移送され没した。極貧だったスターリンの父ペソは裕福なユダヤ人を憎悪し、その息子ヨシフも同じくユダヤ人を憎悪した。ヨシフの長男ヤーコフも捕虜となった際の尋問で「ユダヤ人は働くことをしらない。彼らにとって大切なのは商売だけだ」と陳述しており、スターリン一族では反ユダヤ主義が浸透していた。

1944年には、ソビエト占領下のポーランドにおける反ユダヤ運動が勃発した。

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フランス

1902年、ドリュモンの影響を受けたサンディカリストのビエトリーは「フランス黄色全国連盟」を結成し、黄色社会主義を提唱した。

1904年、アーリア説を批判するジャン・フィノは現代の社会学、政治学、文学では「アーリア的」と「非アーリア的」という対置が公理のようになっていると指摘した。

作家ロマン・ロランはユダヤ人を擁護したが、1908年『ジャン・クリストフ』でモークというユダヤ人学者がの外見が「あまりにもユダヤ人的だった。ユダヤ人ぎらいの者が描き出すとおりのユダヤ型、背の低い頭の禿はげた無格好な身体、すっきりしない鼻、大きな眼鏡の後ろから斜視やぶにらみする大きな眼、荒いまっ黒なもじゃもじゃした髯ひげに埋まってる顔、毛深い手、長い腕、短い曲がった足、まったくシリアの小バール神であった」とされ、クリストフが「ユダヤ人であることは不幸だ」というと、モークは「人間であることはもっと不幸である」と答えたと描かれ、さらに「セム種族の広大な倦怠、それはわれわれアリアン種族の倦怠とは別種のものである」とも書かれた。また、同小説では反ユダヤ主義者のオリヴィエがユダヤの神を憎悪の英雄として語る場面がある。

1913年、アクション・フランセーズ分派とジョルジュ・ソレル派の労働組合主義者(サンディカリスト)が合併して、セルクル・プルードンを結成した。セルクル・プルードン創建メンバーの作家ジョルジュ・ベルナノスは、この組織は右翼というよりもサンディカリズム組織であり、アンリ4世万歳とインターナショナルを交互に歌ったと回想している。セルクル・プルードンは第一次世界大戦中に消滅した。

レオン・ドーデは1913年、『戦争前:ドイツ・ユダヤ人のフランスにおける諜報活動の研究と資料』を刊行し、ドイツ人はドレフェスなどユダヤ人スパイを使っていると告発した。

作家アンドレ・ジッドは『法王庁の抜け穴』(1914)や『贋金つくり』(1925)でユダヤ人を不快な登場人物として描き、また第一次世界大戦勃発前の1914年1月24日の日記では「ユダヤ人種の特質はフランス人の特質ではない」とし「フランス人が言うべきことはフランス人によってしか語られ得ない」、ユダヤ的要素の文学への貢献は新たな要素をもたらすことはないと書いた。1948年にサルトルの『ユダヤ人』を読み終えた後にジッドはこの1914年1月の日記について今現在もこの一節は正確なものであると信じると書いた。サルトルの書物については、恣意的で混乱しているとして「ユダヤ人は人間のうちで、最もおだやかな人々である」という文句について「心から賛同する。もっとも、そうはいいながら、執拗で、なおかつ人に不安を抱かせる『ユダヤ人問題』は実在しており、それはすぐに解決を見るどころではない」と批判した。

第一次世界大戦下

第一次世界大戦下のフランスではユダヤ人が戦場で祖国フランスのために犠牲になったことで反ユダヤ主義が低下し、またユダヤ人も愛国主義によってドイツ人を敵視した。1914年8月、従軍ラビのアブラアム・ブロックが瀕死のキリスト教徒フランス兵士に十字架を差し出した瞬間に銃殺され、戦争美談としてフランスで反響を呼び、さらにスイス、カナダ、メキシコでも報道された。1914年12月にユダヤ長老派機関『イスラリエット古文書』は、ユダヤ人兵士の愛国主義の結果、反ユダヤ的敵意が消滅するとし、1915年6月には「ユダヤ人、キリスト教徒の別なく、あらゆるドイツ野郎(ボッシュ)がおぞましい」、12月には「フランス人の神とドイツ野郎の神はいかなる共通点もない」とした。1915年夏、オーストリアとドイツのラビが中立国のアメリカのユダヤ人に向けてドイツの大義を訴えると、フランスのラビはドイツは反ユダヤ主義的な人種理論を作り出したと対抗してアメリカのユダヤ人に訴えた。ユダヤ人作家のスピールは第一次世界大戦でオーストリアから17万、ドイツから6万、ブルガリアでは5000人のユダヤ人が兵士として参加しているのは、祖国の名誉と、これまで糾弾されてきたユダヤ人の戦死としての名誉のためであると述べた。ユダヤ人作家アルノー・マンデルは、はるか昔からラビたちはトーラーをフランク王国に帰化させ、今やトーラーはラ・マルセイエーズを歌い、ドイツ野郎を倒すのであると述べた。反ユダヤ的新聞『ルーヴル』編集長ギュスターヴ・テリーは、戦死者にユダヤ人兵士が多いことから反ユダヤ主義を物置に置くことにしたと述べるにいたった。

戦時中、フランスの知識人はドイツを野蛮人として非難していた。フランスのユダヤ系哲学者ベルクソンは、ドイツとの戦争は「野蛮性に対する文明の闘争」であるとして「わがアカデミーは、ドイツの凶暴性と破廉恥のなかに、一切の正義と真理を侮蔑する態度のなかに、野蛮状態への復帰をみとめることによって、ひとつの科学的義務をはたす」と演説した。作家メーテルリンクは「ドイツだけは、国の端から端まで肉食獣」と述べた。作家バレスは、ドイツという野獣に棍棒になれて、文明の法則に服従するまで足枷を強いると述べる一方で、ユダヤ人兵士の戦死者に対して武勲を称え、カトリック・プロテスタント・社会主義者・ユダヤ人という分類をやめれば、不特定多数の「フランス人」が出現するとして、王党派も社会主義者も母なる祖国フランスに結びついており、ユダヤ教も「フランス教」の一つであるとした。

『アクション・フランセーズ』のシャルル・モーラスは1914年8月1日の総動員令の翌日、敵の打倒のみを考えよう、大事なのは市民の同盟であると訴えた。またモーラスは1915年12月、ユダヤ人言語学者でドレフェス擁護派だったミシェル・ブレアルの死に対して、ブレアルはユダヤ人でありながらフランスに愛着をもり、彼はフランスの精髄、古典を発見したと追悼した。1916年6月20日、『アクション・フランセーズ』は、ユダヤ人兵士を英雄と称賛し、我々はユダヤ人がフランスを支配することに不満を訴えてきたが、ユダヤ人がフランスに奉仕することに不満を訴えたことはないと述べた。他方で、モーラスは1916年5月に、ロシアで共和国政府ができた場合、それはドイツ系ユダヤ人によって支配されていることだろうと述べている。

ランス大聖堂がドイツ軍に爆撃されると、フランスのラビとキリスト教司祭が愛国の契りを交わし、こうして第一次世界大戦下のフランスではユダヤ教とキリスト教の連合が実現した。

一方で、反ユダヤ的な言論も継続しており、ドリュモンの『リーブル・パロール』は1915年11月、大ラビの勅令でパリに国籍不明のユダヤ人1万人が匿われており、彼らはロシア籍、ルーマニア籍、ギリシャ籍を自称しているが実際にはドイツ語とイディッシュ語を話していると告発し、また社会学者デュルケームは「付け鼻をつけたドイツ人」であるとした。『ルーヴル・フランセーズ』紙でユルバン・ゴイエは自著『優等人種の権利』や偽造文書を利用してユダヤ人を攻撃した。また、ユダヤ人陸軍少尉エルツは、新しく移住してきたドイツのユダヤ人はいかがわしく非合法的であるから、この戦争でそうした状況が改善される絶好の機会とみていると手紙で書くなど、ドイツ系ユダヤ人に猜疑心が向けられている

フランス国籍を持つユダヤ人は徴兵されたが、外国籍のユダヤ人の中には徴兵事務所に出頭しなかったものもいたため、1915年7月にロシア、ギリシア、ルーマニア、ポーランド、イタリア、スペイン、アルメニア国籍のユダヤ人に身元確認の目的で警察への出頭を要求すると、フランス国籍を持たないユダヤ人はパニックになりアメリカへ退去していった。また、ユダヤ人志願兵は外国人部隊に組み込まれ、新兵虐待を受けたため、1915年11月に外国人義勇兵は正規軍に組み込まれた。

マルティニスト会の作家ジョゼファン・ペラダンは1915年、ドイツでキリスト教が破産したのはドイツがタルムードを実践してユダヤ化したためであったとした。

ロシア革命と戦間期

戦時中のフランスの親ユダヤ主義と違って戦間期フランスでは、ロシア革命の反響で反ユダヤ主義が高まっていった。1917年2月にロシア革命が始まると、『アクション・フランセーズ』も『リーブル・パロール』も最初は好意的に解説したが、ユルバン・ゴイエは革命はロシアをロシアの人民のためか、それともユダヤ人のために引き渡すのか。ヘブライ人に隷属するフランスとヘブライ人に権力を握られたロシアとに挟まれたヨーロッパにおいて、ドイツの軛から逃れたとしても、さらに屈辱的な隷属に陥るのではないかと解釈した。7月にボリシェヴィキが権力を掌握しようとすると、フランスでは警戒感が強まり、『リーブル・パロール』はユダヤ要因が革命の背後にあるとし、主たる扇動者たちの本名を掲載した。ジュルナル・デ・デバ紙も革命の扇動者たちは本名さえもロシア的ではないとユダヤ人を暗示させて報道した。また、クレマンソーも『ロムアンシェネ』紙でロシア革命主導者ユダヤ人の本名一覧を掲載した。4大日刊紙の一紙『ル・プティ・ジュルナル』もボリシェビキの本名を掲載した。1917年10月に社会主義者マルセル・サンバの『ルール』紙は、イギリスで反ユダヤ報道をしていた『モーニングポスト』から情報を得て、ロシアで革命を行ったユダヤ人は行き過ぎであり、仮名を名乗るユダヤ人を批判した。

11月にボリシェヴィキが権力を掌握すると、フランスの新聞の3分の1はユダヤ人による犯罪として報道した。クレマンソーは愛国主義なしに故郷はないし、故郷なしの民族とは何でありえるだろうか、ドイツ・ユダヤ人はドイツの同胞に唆され、ロシア人の偽名を名乗り、ロシアを非ロシア化しようとしたためポグロムが起きたと10月10日に書いた。独仏協調を主張していたジョゼフ・カイヨーもロシアを転覆したのはユダヤ人であり、ユダヤ人はスキタイ人を支配下に収め、反西洋の運動へ駆り立てた、ユダヤ人は破壊を嗜好し、支配欲が強いと書いた。第一次世界大戦後は反ユダヤ発言を差し控えてきたバレスも「ロシアは消えていく。ユダヤ人がはびこったせいだ。ルーマニアも同じ理由で消えていく」「ユダヤ人はアメリカ合衆国ならびに英国の主となった」と書いた。他方で、『ル・タン』紙は、ユダヤ人は新生ロシアを苦しめているすべての悪を一身に背負わされているとした。

1918年11月11日に第一次世界大戦が休戦すると、フランスでは反ユダヤ主義の芽が吹き、さらにバイエルン、ハンガリーでの共産主義政権の誕生や、フランスでのストライキの怒涛によって鼓舞されていった

1920年5月には新聞各紙が反ユダヤ主義的は報道を繰り返した。パリの『ラントランシジャン』紙はシオニストがウクライナを支配するという「同志ラポポールの報告書」を掲載した。5月17日付『レクセルシオール』紙でルポルタージュ作家ロンドルはモスクワを統治しているのは亡命者、シベリア人、モンゴル人、アルメニア人、アジア人であり、その王はユダヤ人であると主張した。『ル・プティ・パリジアン』はトロツキーことイスラリエットのブランシュテインは、セム人・東洋人の側近に取り巻かれ、東方のナポレオンになろうとしていると報道した。カトリック紙『コレスポンダン』は5月25日に『シオン議定書』を紹介し、『ラントランジャン』紙は5月27日に「ツンダー文書」を掲載した。7月2日にはギュスタヴ・テリーが『ルーヴル』紙で『シオン議定書』を紹介し、『アクション・フランセーズ』も9月27日にモーラスが「ユダヤ人問題」では、ロシア、アメリカの参戦はユダヤ人の影響力によるもので、ドイツがユダヤ的な政体を受け入れるためであったと論じた。1920年末には『両世界評論』でベルノーやタロー兄弟がユダヤ人を批判した。1920年11月には、ペスト感染がポーランドとロシアからの移民ユダヤ人によってもたらされたとパリ市議会で取り上げられ、左派の『ラペル』紙も東方ユダヤ人が疫病をもたらしたと報じた。詩人ファギュスはユダヤ人は反ユダヤ主義の先手を打ってどこかにユダヤ人国家を建設すべきであると述べた。ポール・クローデルは1920年の『辱しめられた神父(Le Père humilié)』で「ユダヤ人に洗礼を施すには大量の水が必要」とし、ユダヤの血を引くキリスト教徒パンセが「水でなく、血で洗礼を」という場面を描いた。

モーラスは1921年5月12日「反ユダヤの普遍政治」を求めて、反ユダヤ勢力の結集を呼びかけた。1921年当時、フランスでは、イギリスはユダヤの支配下にあるという見方が推進力を持っていた。ユダヤ人ジャーナリストのポール・レヴィーは『レクレール』紙5月21日にフランスのユダヤ人は英米の首脳に罠をしかける金融資本家の悪巧みを退けなければならないと述べた。同年、モラス主義者のロジェ・ランブランは『アングロサクソン人のもとでのイスラエルの支配』でイギリスはユダヤの支配下にあると論じた。

1922年、モーラスの支持者であるユダヤ人ルネ・グロスが『ユダヤ人問題をめぐるアンケート調査』を出版し、我々ユダヤ人はフランスという家で人一倍奉仕しなくてはならないため特別法を提案した。作家ジャック・ド・ラクルテルは『シルベルマン』(1922)でユダヤ人シルベルマンの不快なアジア的な顔をしており、続編の『シルベルマンの帰還』(1930)では復讐する悪魔のような男として描いた。

劇作家ジャン・ジロドゥの小説『ジークフリートとリムーザン人』(1922)とその舞台用脚本『ジークフリート』(1928)では、フランスびいきのドイツ人ツェルテンは反共和主義者・反資本主義者でありドイツの復興を目指してユダヤ人を標的にした革命を起こしてユダヤ人ジェノサイドを起こす。しかし、英米からの制裁でツェルテンは追放される。1922年の本ではオイゲン・レヴィーネをモデルとしたユダヤ人リーヴェンは「ドイツは私たち(ユダヤ人)のもの」「ドイツの鷲の嘴は私たちの鼻の形をしている」という。ジークフリートはワイマールドイツの大立者で、素顔はフランス人ジャーナリストのフォレスティエであるが、このモデルはジロドゥの友人でアクション・フランセーズのアンドレ・ドゥ・フレノワだった。1922年にはユダヤ人劇作家ベルンシュタインの『ユディット』が大成功していた。ジロドーはこれに対してユダヤ人たちの手からユディットを奪回しようと試み、『ユディット』(1931)では、傲岸なユダヤ娘がユダヤ人ジェノサイドを計画していたアッシリアの将軍ホロフェルネスを殺害する。メールマンは、この作品は失敗したユダヤ人ジェノサイドを悔やむ内容であるとした。『エグランティーヌ』(1927)では、ユダヤ人銀行家モーセの愛人エグランティーヌが十字軍兵士の末裔の貴族が作るサラダを見て、今まで自分が「肉食獣」であったと気づき、モーセを捨てる。

他方、ジャーナリストのアンドレ・シェラダムは、三国協商加盟国は、ユダヤ=ドイツ組合の国際金融活動と、国際ボリシェビキ運動に挟まれているが、ユダヤ人による世界征服という陰謀は誤謬であり、ユダヤ人は汎ゲルマン主義に抗する組織を創出すべきだと提案した。またベルギーのピエール・シャルル神父は1922年4月に、『シオン議定書』は荒唐無稽で悪意に満ちた偽書であると論じ、またアンリ・デ・パサージュ神父もユダヤ陰謀論を批判し、1927年頃にはフランスのイエズス会は反ユダヤ陣営から撤退した。

人種学者ラプージュは1923年に「いまだ精神生活の始まりの地点にとどまる、これら猿の進化のし損ないども」と述べ、また1926年にはマディソン・グラントの『偉大な人種の消滅』を翻訳した。

1925年、作家ポール・モランは世界中のユダヤ人を溜め込んだ貯水槽は破裂したが、約束の地としてユーラシアが余っていると書いた。同年、作家ブノワは、敗れた敵に一切の譲歩を拒む恐るべき人種と述べた。

ユダヤ系ウクライナ人の作家ネミロフスキーの『ダヴィッド・ゴルデル』(1929年)ではユダヤ人ソイフェルが孤独死をし「善良なユダヤ人ならば誰もが背負っている不可解な運命を最後まで遂げた」と描いた。なお、1942年8月17日にネミロフスキーはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で獄死している。

1931年、カトリック作家ジョルジュ・ベルナノスは『良識派の大恐怖』において、反ユダヤ主義者で有名なエドゥアール・ドリュモンを「祖国の預言者」として称賛した。また、クレマンソーは第一次世界大戦という詐術によって古き良きフランスを解体しようとした悪魔であると決めつけた。同年ベルナノスは「ユダヤ人という小さな獣がアメリカという巨人、無意識の怪物の延髄を貪り尽くし、今度は、脳みそを抜かれたロシアの巨魁に襲いかかる」と書いた。

1933年、作家ジェローム・ジャン・タロー兄弟は『さまよえる雌馬』で、ユダヤ人はツァーリの場所に身を置き、ハンガリー、ミュンヘン、そしてウィーンからハプスブルク家を追放したと書いた。

1933年12月にウクライナ・キエフ出身のユダヤ人による巨額詐欺スタヴィスキー事件が発覚すると、左翼急進社会党政権のショータン・ダラディエ内閣に対してアクション・フランセーズや火の十字団、愛国青年団などの右翼団体が大規模な反政府デモを起こした。国会前のデモ隊が国会内へ侵入し、15人の死者が犠牲者となった2月6日事件が起きた。フランスの2月6日事件は、ムッソリーニのローマ進軍や、ナチスのミュンヘン一揆につながるフランス・ファシズムの大衆運動だった。

1934年、作家マルセル・ジュアンドーは小説『シャミナドール』でユダはキリストの血を金儲けの種にすると書き、また1937年には『ユダヤ人禍』を発表した。

1936年夏、スペイン人民戦線政府への反攻が始まると、『クロワ』紙は「ある日、モスクワから60人のユダヤ人がやってきた」、彼らはスペイン人に自分たちが非常に不幸であると信じ込ませ、スペインをロシアに屈従させた、と報じた。

アクション・フランセーズ筆頭のシャルル・モーラスの後を継いだティエリ・モーニェは1936年に『コンバ』を創刊し、文芸批評家モーリス・ブランショが政治主筆を担当した。ブランショは1936年の「穏健派たちの大いなる情熱」で、ユダヤ人レオン・ブルムの人民戦線と叩くべきときに、右翼エリートはムッソリーニやヒトラーやフランコに欣喜雀躍して戦線逃れする様を批判した。ドイツのラインラント進駐に対して消極的だったフランス政府に対してブランショは、サロー首相は「ヒトラーに対してただちにあらゆる制裁を加えるべきだと神学的憤怒にかられて申し立てる鎖を解かれたユダヤ人どもと革命派の言い分に耳を貸した」し、また政府内ではモスクワやイスラエルの名のもとに「いかがわしい外国人どもが画策している」と非難した。また、1934年2月6日の危機の大衆蜂起を再現すべきだとし、暴力革命を主張した。

マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』(1936)ではユダヤ人スカダの顔立ちは醜いが、眼差しには無限のやさしさがあると書かれた。小説におけるユダヤ人の美化はデュアメルの小説『パスキエ家の記録』(1933 - 1945)においても見出され、この小説ではユダヤ人ジュスタンの名前は「正義の人」という意味に由来し、マルヌ会戦で我々フランス人の救済のために戦死する「救世主」として描かれた。

1936年には、共産党から転向したジャック・ドリオによってファシズム政党フランス人民党が結成された。

作家セリーヌは1938年に「ユダヤ人が、われわれを戦争に駆り立て、しかも同時に、その戦争反対に示す同じ激しい強情さ」「われわれは、ユダヤ人の戦争に行くのだ」と書いた。

1938年12月6日、ヒトラー内閣のリッベントロップ外務大臣が訪仏した時には、フランス閣僚の内、ユダヤ系のマンデルとジャン・ゼーだけがレセプションに招待されず、翌日にフランス外相ボネはユダヤ人問題がフランスにとっても重大であるとドイツ外相に語った。

第二次世界大戦

1939年、当時ダラディエ内閣情報局長だった劇作家ジロドゥは政治文書『全権』で、ユダヤ人は隠密行動、公金横領、腐敗を撒き散らし、フランス精神を脅かしていると述べた。ジロドゥによれば、パリのオープンスペースは投機家たちに次々と収奪され「パリは排他的で無責任な寡頭支配体制によって好きなように操られて」、人種的に不適切な分子であるユダヤ人移民を制限しないフランスは「被侵略国となってしまった」。東欧ユダヤ人は、フランスの労働者の伝統を破壊し、被服・靴・皮革などの手工業界からフランスの労働者を駆逐したし、ユダヤ人は非合法活動、公金横領、汚職を持ち込むために「人種省」を設立してフランスを救済すべきだとして「政治は人種的なものでない限りその至高の形態に到達しえない」という点で「私たちはヒトラーと完全に意見を同じくする」と主張した。『ベレニス』(1943)ではユダヤ戦争でユダ王国を征服したティトゥス皇帝が、民衆の要求でユダヤの愛人ベレニスをやむなく追放する。ジロドゥの戯曲『雅歌』『エグランティーヌ』『ソドムとゴモル』『ベレニス』『シャイヨーの狂女』『アタリヤ』では、ユダヤ人は追放され、虐殺される者として描かれた。

1940年のナチス・ドイツによるフランス占領以降、コラボラシオン(対独協力)を行った者もいた。ファシズム政党フランス人民党員で作家のドリュ・ラ・ロシェルは1941年8月に、ドイツ人の登場するはるか以前から400万人の在仏外国人(うちユダヤ人は100万人)による占領の恐怖があったと述べた。

後年哲学者となるベルギーのポール・ド・マンは親ナチス新聞 Le Soir1941年3月4日号に「現代文学におけるユダヤ人」を発表し「ヨーロッパ人の生活のあらゆる局面にユダヤ的な干渉があったにもかかわらず、われわれの文明はその完全な独自性と特質を維持することで、その根本性質が健全なものであることを立証した」「ヨーロッパから隔離された地にユダヤ人居留地を設営するというユダヤ人問題への解決策(マダガスカル計画)は、西洋の文学生活には少しも嘆かわしい結果をもたらさない」と述べた。

1944年に作家ジョルジュ・ベルナノスは敗戦国ドイツに民主主義国家を確立させよとするリーダーズ・ダイジェスト誌に対して、1918年以降ドイツを再建したのは国際資本主義であり、国際資本主義は今再びドイツの破綻を危惧しているが、何百万の無罪のユダヤ人が犠牲になったあとでも、ユダヤの民の利害はオートバンク(Haut Banque)の利害と緊密に結びついていると反論した。

ヒトラー以前の時代、ナチスによるユダヤ人大量虐殺が発覚する以前、フランスにおける反ユダヤ主義は、一流の知識人に奉持された「格式高い世界観」であった。

オーストリア

オーストリアのユダヤ系哲学者オットー・ヴァイニンガーは1903年の主著『性と性格』で男性的精神と女性的自然を対置して最も高尚な女性は野卑た男性よりも劣っているとし、しかし、女性は男性を信頼しているが、ユダヤ人は何も信じておらず、したがって何者でもないとして、永遠の生命を考えることのできないユダヤ人は唯物主義的な退廃の化身とした。ヴァイニンガーはユダヤ人は中国人やニグロと近親性があるが、真のアーリア人は反ユダヤ主義者であることはできないとも述べ、選択すべきは「ユダヤ教かキリスト教か、商売か文化か、女性か男性か、無価値か価値か、地上の生か高次の永遠なる生か、無か神か」であると論じ、23歳で自殺した。ヴァイニンガーの本は物理学者マッハ、ユダヤ系の社会学者ジンメル、哲学者ベルクソンやマウトナー、アロイス・ヘーフラーなども読み、ヒトラーはヴァイニンガーの著作を称賛した。ユダヤ系哲学者ウィトゲンシュタインはヴァイニンガーを座右の書とし、反ユダヤ主義について「糸玉をほどくことができなくなった時、一番利口なのは、ほどけないということをはっきり認めること」と書いた。

汎ゲルマン主義の社会主義者ヨーゼフ・ライマーは『汎ゲルマン主義ドイツ』(1905)で、ヨーロッパ大陸からシベリアまでを支配するドイツについて論じ、ユダヤ人とスラヴ人のようなゲルマン化不可能のものは生殖共同体から除外すべきだとし「ヨーロッパのあらゆる民族のゲルマン人プロレタリアよ、前進せよ!」と訴えた。

1903年には、ゲオルク・フォン・シェーネラーの汎ドイツ運動(Alldeutsche Vereinigung)を支持したドイツ労働者党(Deutsche Arbeiterpartei)がオーストリア=ハンガリー帝国領チェコで結成され、1918年にはドイツ国家社会主義労働者党(Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei、DNSAP)と改称した。オーストリアのドイツ国家社会主義労働者党は帝国議会でズデーテン地方選出の3議席を持った。(1920年にドイツのドイツ労働者党が改称した国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス、Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei,NSDAP)と党名が似ているが違う政党である。)

1907年にはハプスブルク帝国におけるドイツ系住民は民族集団として最大勢力ではなくなり、議会でナショナリストは帝国を罵倒し、帝国の権威は失墜し、代議士が殴り合って審議が中断するなど帝国議会は混乱を極めた。

ウィーンのインド学者レオポルト・フォン・シュレーダーは『アーリア宗教』(1914)で、ユダヤ人が一神教をアーリア人に開明しにやってきたとき、瞑想的哲学的であった原始アーリア人の信仰は精神的なものになったとした。また、自然崇拝を迫害するユダヤ的一神教に対して、ワーグナーはパルジファルでアーリアの自然崇拝、インドの憐憫の倫理、キリスト教の贖いを総合したと絶賛した。

第一次世界大戦時には、ハンガリーが不作のため穀物供給を停止したため、1918年にはオーストリアで食料危機が先鋭化し「物価上昇や食料不足の原因はユダヤ人の買い占めのせいだ」「ユダヤ人には兵役逃れ、戦時利得者が多い」という噂が広まった。

フロイト

精神科医ジークムント・フロイトは1908年に「ユダヤ人のタルムード的な思考様式がすぐに消えることはありえない」とユダヤ人の協力者カール・アブラハムに対してユダヤ人への「人種的偏愛」を警告した。フロイトは1926年に自分は精神的にはドイツ人だが、高まる反ユダヤ主義に直面して以来、ユダヤ人であると自称することを優先していると述べ、1935年には世界シオニスト組織の金融手腕について「私はこの組織が自分たちの祖先の土地に新しい国を建国するために、いかに巨大な規模で社会制度を運用しているかをよく知っている。これは、我々ユダヤ人の無敵の生存意志が、2千年間の耐え難い迫害をものともしないということの証拠なのだ。我々若者もこの闘争を続けなければならない。」とシオニズムに賛同する発言も行った。

1939年、フロイトは亡命先のロンドンで『モーセと一神教』を発表した。反ユダヤ主義の解明を執筆動機としたこの本でフロイトは、キリスト教徒は不完全な洗礼を受けたのであり、キリスト教の内側には多神教を信じた先祖と変わらないものがあるし、キリスト教への憎悪がユダヤ教への憎悪へと移し向けたとした。また、キリスト教徒は神殺しを告白したためその罪が清められているが、ユダヤ教はモーセ殺しを認めないためにその償いをさせられた、と論じた。パウロはユダヤ民族の罪意識を原罪と呼んだが、キリスト教での原罪とは後に神格化される原父の殺害であり、ユダヤ教においてもモーセ殺害という罪意識があるとフロイトはいう。フロイトによれば、キリスト教には「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう」という、神の肉と血を拝受する聖餐式の儀礼があるが、ここには父=神を殺害して食べるというトーテム饗宴、カニバリズムの記憶があるとする。他方、ユダヤ教は中世からキリスト教徒によって儀式殺人やモレク崇拝などの嫌疑で攻撃されてきた。フロイトはこうしたキリスト教徒による反ユダヤ主義の嫌疑は、聖餐式を教義によって昇華させたキリスト教がユダヤ教から犠牲の観念を引き継ぎながら、ユダヤ教の儀礼の起源に対して嫌悪を憤激をもよおしていることが深層にあるとした。つまり、キリスト教は罪を告白して浄化されたのに対して、ユダヤ教は昇華されていない律法を墨守しているという論理が、反ユダヤ主義の内側にひそんでいるとした。

フロイトは宗教は人類の集団的強迫神経症であるとしていたが、『モーゼと一神教』では宗教は単なる幻想というよりも、文化を推進する力とみなし、さらにキリスト教以後のユダヤ教は化石であるが、またパウロ以後のキリスト教も退行であり、いまやユダヤ人だけが一神教の活気を保持しており、キリスト教よりもユダヤ教が優位にあるとし、ユダヤ人が特殊な精神的適性を持っていたため苦難に耐えることができたと記憶痕跡説によって論じた。フロイトは、カント以来のリベラル・プロテスタントにおけるイエスのモーセ教に対する優位を転倒させ、モーセのイエスに対する優位を宣明した。しかし、『モーゼと一神教』に対しては世界中のユダヤ人から、エジプト人のモーセという捉え方、ユダヤ民族によるモーセ殺害について抗議が殺到し、ユダヤ系宗教哲学者ブーバーは非科学的で根拠のない推定であり嘆かわしいと否定した。なお、ムッソリーニはフロイトを丁重に扱うようにヒトラーに依頼していたという。

スイスの精神科医ユングはフロイトが超自我という概念をもって心理学のなかに「エホバに関する古びた暗いイメージ」を導入したと1929年に批判した。ユングは1933年、アーリア的無意識とユダヤ的無意識を対置して、ユダヤ人は古い人種であるため自分自身に自覚的であるのに対して、アーリア人の無意識は緊張と創造的な芽を含んでおり、これを幼稚なロマン主義として価値を下げると魂を危険にさらすことになるとし「まだ若いゲルマンの民は文化の新しい形態を作り出すことができる」と論じた。放浪者のユダヤ人は、客をもてなす文化的な民として発展するためにその本能を費やすために、固有の文化を一度も作らなかったとした。ユングは、全世界が驚いている国家社会主義という壮大な現象のエネルギーはゲルマンの魂の深みに隠されていたが、フロイトはドイツの魂を知らなかったのであると論じた。

ハンガリー

第一次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、ハンガリでは人民共和国が成立したが、1919年3月に共産党のベーラ・クーンがハンガリー革命を起こし、ハンガリー評議会共和国を創設した。しかし、王国の復活を掲げたハンガリー国民軍のホルティ・ミクローシュの反革命によって崩壊した。ホルティは反ユダヤ主義者一団も従えており、革命軍のユダヤ人が虐殺された。

ドイツ

ドイツ帝国(〜1918年)

ドイツ民族の宗派対立は真のキリスト教によって統一されると考えた平和主義者の軍人モーリッツ・フォン・エギィディは、高利貸し根性と物質主義のユダヤ人がドイツで優位にたったことにはドイツ人にも責任があるとし、ドイツ人が純化されればユダヤ人は衰弱していくと述べた。

マルクス主義・ダーウイン主義人類学者ルートヴィヒ・ヴォルトマンはカントとマルクスとダーウィンの総合を目指し、人類の最前線に立つドイツ人=アーリア人の美を称賛、イタリア・ルネサンスの指導者はローマ人でなくゲルマン民族のゴート族やランゴバルド族の子孫であり、偉大な教皇やフランス革命もフランスにおけるアーリア性の勃興であるとした。ヴォルトマンはまたラプージュの信奉者でもあり、北方人種にとってモンゴル人、黒人、アルプス人、セム人との混血は有害であるが、闘争的なゲルマン人は相互に破壊しあうと悲観した。ヴォルトマンは農村貴族の財産を分割し、優れた人種の農民に分配することを提唱し、労働者階級の保護を訴えた。モッセは、ヴォルトマンは反ユダヤ主義ではなかったとする。

東洋学者アドルフ・ヴァールムンクは、自然を略奪する砂漠の民ユダヤ人はセム人の覇権をめざして放浪し、森を神聖視する森の民、アーリア人という若い民をもて遊ぶとした。

1912年、ユダヤ系のドイツ語学者モーリツ・ゴルトシュタインは「ユダヤ人はドイツの文化活動を掌握しつつある」「ユダヤ人はある一国民の精神的財産の管理者となった」として「愚かで妬み深いゲルマン系キリスト教徒」も敵であるが「最悪の敵といえば、見てみぬふりをしているユダヤ人だ。[…]ユダヤ人の贋物の類型を体現してひどく目立っている彼らこそ、その地位から引きずり下ろし、黙らせて、徐々に根絶やしにしていかねばならない」と主張した。ゴルトシュタインがこれを書いたのは、ドイツの大学でユダヤ人との決闘を拒むという習慣が、ユダヤ人が名誉心なき被造物であるという前提にもとづいていることに刺激されてのことであった。ゴルトシュタインの文章は、1935年にゲッベルスの国民啓蒙・宣伝省ユダヤ問題研究所機関誌「ドイツのユダヤ人」に「ドイツ文化の管財人としてのユダヤ人」と改題されて転載された。

1911年のモロッコ事件でフランスのモロッコ支配が確立すると、世論はドイツ海軍へ失望し、ホルヴェーク首相の意向もあって、海上覇権よりも陸上覇権が目標とされるようになり、1912年に結成されたドイツ国防協会は陸軍増強プロパガンダを推進し、1913年に陸軍増強法案が可決した。この他、未来の兵士を育成するための青年ドイツ同盟は会員75万、ドイツ在郷軍人協会は会員300万となった。軍備拡張の結果、1875年にドイツ陸軍の兵力は43万人だったのが1913年には80万以上となり、ドイツ海軍は1897年に17000人だったのが1914年には約8万人まで増大した。また、ドイツ国内では、戦争を経済的利益のための戦争としてではなく、ドイツの戦争を倫理的にも正当な「聖戦」ととらえる主張が増えていった。

1908年に全ドイツ連盟代表となったハインリヒ・クラス(クラース)はチェンバレン名誉毀損裁判で弁護人をつとめ、ユダヤ人は近代物質主義の担い手、ゲルマン精神の敵であり、ユダヤ人移民は制限されるべきであるし、またドイツ生まれのユダヤ人の文化活動も制限されるべきとした。クラスはユダヤ人は土地を所有してならず、税金も二重に徴収されるべきで、ユダヤ人の文芸活動は禁止すべき、ユダヤ人記者を雇う新聞はダビデの星を表示すべきだと主張とした。クラスは「(雑種民族などの)ドイツの名をけがす存在が居すわりつづけるよりも、恐怖の中の最後、名誉ある最後の方がずっとよい」とし、人類を政治的道徳的衛生的に改革して人種の純粋性を保持するには思い切った政策が必要であり、そのために社会民主主義とユダヤ人と戦い、ユダヤ人から市民権を剥奪しなければならない「いかなる犠牲も大きすぎることはない」と論じた。クラスは外国にいるドイツ人を祖国へ復帰させ、ユダヤ人をパレスチナに追放し、ドニエプル川西側の併合などを主張し、第一次世界大戦中にクラスは独裁政府樹立を計画した。クラースは国家人民党党首フーゲンベルクの親友であった。全ドイツ主義者はその後ナチスに吸収されたため、クラースはヒトラーを成り上がり者として攻撃した。

優生学者オイゲン・フィッシャー(Eugen Fischer)は1913年、一貫した人種政策がなければヨーロッパの民族は消滅すると告げた。また神経科学者・昆虫学者アウグスト・フォレルは、日本とドイツの孤児を両国で育てることを観察してアーリア人種とモンゴル人種の比較研究を提唱した。

ドイツ民族自由党党員の作家アルトゥル・ディンターは小説『血に背きし罪』(1917)で、ユダヤ人という「悪魔的人種を滅ぼし、人民を解放するまでけっしてその戦闘をやめないであろう。この災いに満ちた人種から最終的に解放されるまで、われわれドイツ民族は神から託された使命を果たすことができないであろう」と書いた。また、アーリア女性が金持ちのユダヤ人によって陵辱され、その後その女性がアーリア人男性と結婚しても、生まれてきた子どもはユダヤ人の姿をしていたという話も描き、ディンターは過去に受胎した精子が以後の受胎にも現れるとする感応遺伝説をもとに雑種の雄と交わった純血の雌は永久に穢されるとみなした。この小説は100万部ベストセラーとなった。

作家ウィルヘルム・シュターペルスは著書『反ユダヤ主義』で「ユダヤ人の頭を叩き割れ。そうすれば将来は明るくなろう。サーベルからユダヤ人の血がほとばしればわれらの国旗は誇り高く風になびこう」と書いた

社会学者マックス・ヴェーバーは『古代ユダヤ教』(1917)で、ユダヤ人をパーリア(Paria)民族(賎民)すなわち、インドにおけるような「儀礼的に、形式上あるいは事実上、社会的環境世界から遮断されているような客人民族」であったとし、ユダヤ民族の経済倫理は「パーリア資本主義」を生み出したと論じた。パーリアという用語には、ゲットー状況という貶下の意味だけでなく、預言者が苦難に耐えるというイスラエルの苦難の神義論が含意されている。パーリアという用語に反ユダヤ主義的な軽侮の意味をかぎつける一部のユダヤ系学者については、神経過敏の誇張とする批判もある。またヴェーバーはヴェルハウゼンの影響で、捕囚後の『エズラ記』『ネヘミヤ記』以降のパリサイ派のラビ・ユダヤ教体制を「後期ユダヤ教」ととらえ、第二イザヤ書とエレミヤ書の預言者の精神のような古代イスラエル宗教とを区別した。汎ゲルマン主義を掲げる全ドイツ連盟に一時は加入していたヴェーバーであったが、全ドイツ連盟やドイツ祖国党などの急進的ナショナリズムを批判するようになるとともに、ドイツ国家を敵視する平和主義も批判した。またヴェーバーは、第一次世界大戦でイギリスやフランスが黒人やグルカ族など「アフリカやアジアの野蛮人や盗賊、与太者」を兵士として徴用したことは、文化国家ドイツを荒廃させようとする卑劣な行為であると批判した。

ゾンバルト:ユダヤ的資本主義とドイツ的社会主義

ドイツ歴史学派の経済学者・社会学者のヴェルナー・ゾンバルトは社会主義に影響され初期には資本主義を批判していたが、やがて「資本主義の精神」のうち冒険的企業家的要素はドイツ人に、打算的ブルジョワ精神はユダヤ人に属するとした。1911年の『ユダヤ人と経済生活』で中世の封建制のキリスト教共同体は、近代資本主義に移行し、ユダヤ的な利益社会となったとし、人格的で自然なドイツ経済のなかにユダヤ人は嵐のように侵入し営利の優位を掲げたとした。ゾンバルトによれば、国際的なネットワークを持つユダヤ人は地域的な伝統よりも経済合理性を重んじ、また市民権が剥奪されていたので政治でなく経済に注目し、近代資本主義の重要な担い手となった。ユダヤ人は地域的でなく普遍的であり、国民的ではなく国際的で、具体的でなく抽象的である。資本主義制度の創始者である砂漠の民族ユダヤ人は放浪的で抜け目がないのに対して、森の民族ゲルマン人は心がひろい。ユダヤ教は悟性の宗教であり、感性と情感に欠けるため、自然の世界や有機的な世界とは対立し、合理主義と主知主義はユダヤ教と資本主義の特色である。したがって、近代合理主義を推進したのはヴェーバーのいうようなプロテスタンティズムでなくユダヤ教であるとした。資本主義とユダヤ教の本質は、貨幣によって表現され、貨幣と流通は社会関係を抽象化し、抽象化の精神はユダヤ人に具体化される。彼はユダヤ世界と資本主義を同一視するという、ブルーノ・バウアーやマルクスらの考え方を再利用して「太陽のようにイスラエル(ユダヤ人)はヨーロッパを飛翔した。そして彼らが来るところに新しい生命が生い立ち、彼らが退くところでは、今まで咲き誇っていたものはすべて荒廃に帰する」と述べた。ゾンバルトのこの著書は友人のマックス・ヴェーバーから批判され、またヒトラーが資料として用いた。

翌1912年の小冊子『ユダヤ人の未来』では、聡明で器用なユダヤ人はドイツの芸術と新聞を支配しているが、このユダヤの優位性は放置すると取り返しのつかないことになる「人類最大の問題」であると主張した。また、スペイン、ポルトガル、フランスもユダヤ人追放後の後遺症に悩み、またユダヤ人とヨーロッパ人との同化や融合も自然の法則に反しており、ユダヤ人種と北方民族の血の融合は不吉である、しかしドイツはユダヤ人なしにはやっていけないと論じた。ポリアコフは、こうしたゾンバルトの主張をアパルトヘイト政策だとする。1915年の『商人と英雄』では英雄の国ドイツと商人国家イギリスを対置し、戦争の近代化においてテクノロジーの意味は、義務、犠牲、共同体、名誉、勇気、権威といった崇高な美徳からその真価を引き出すようになったとした。ゾンバルトは第一次世界大戦を、ドイツを商業主義に陥れようとする営利的エートスに対するドイツ的理想主義の戦いであると称賛した。1927年の『高度資本主義の時代における経済生活』ではゲルマン民族が前向きの推進力、ファウスト的意志、忍耐力、粘り強さに貢献したのに対し、ユダヤ人は勤勉、投機的敏感さ、計算力、進歩への願望を持つと対置し、商人と金融業者によって非合理主義的で情緒的で自発的な企業家が消滅する危険にさらされたと論じた。

ナチス政権以後の1934年の『ドイツ的社会主義』においてゾンバルトは、ユダヤ的な国際的社会主義・国際的資本主義に対して、ナショナリズムと社会主義が融合した国民的社会主義としてのドイツ的社会主義を主張した。これによれば、19世紀には経済がその他の領域(強さ、善良さ、賢明さ、芸術、家族、伝統、人種)を支配したため、知性化と即物化によって魂と人格が剥奪され、またマルクス主義も魂のない近代工場を進歩として歓迎した。これに対してドイツ的社会主義は、経済時代と資本主義を放棄し、現在の「文明」状態をなくして以前のような「文化」状態に到達し、ドイツ国民を経済時代の砂漠からドイツの森へ戻す。しかし、ユダヤ精神はドイツのすみずみまで浸透しており「たとえ最後のユダヤ人とユダヤ人家族を絶滅したとしても」存続するだろうから、反資本主義闘争であるドイツ的社会主義はユダヤ精神との闘争であるとされた。同年の国民投票で、ゾンバルトは哲学者のハイデッガーやハルトマンや生化学者アブデルハルデンと連名でヒトラー総統を支持する学者声明をナチ党機関紙フェルキッシャー・ベオバハターに発表した。

教育界・学生運動

反ユダヤ主義はドイツ教育界にも浸透していた。1880年にはベルリンの市電で教師ジーケが反ユダヤ的な発言をしていたのでユダヤ人が怒って殴った。教育学者ヘルマン・アールヴァルトは「アーリア民族とユダヤとの絶望的な闘争」(1890)を発表し、ユダヤから免れた民族は自然に発展して世界を支配できる、民族はユダヤの脅迫と闘うために断固として行動しなくてはならない、ユダヤ人はドイツからだけでなくヨーロッパ全土から追放されなければならないと主張した。1907年ポーゼンの学校の校長は、ユダヤ人は神聖な感覚を持っていないからユダヤ人の生徒は郷土学の授業を受けさせるべきではないと主張した。また全ドイツ連盟は教師が多く、36%が教員だった。

改革教育学者ヘルマン・リーツは田園教育舎運動をし、授業ではフライタークの「借り方と貸方」、ポペルト「ヘルムート・ハリンガ」、トライチュケ「19世紀ドイツ史」、テオドール・フリッチュの「鉄槌(ハンマー)」などが生徒に推薦された。新設校で当初はユダヤ人にも開放され、ユダヤからの寄付金を受け入れていたが、ドイツ愛国心を持つユダヤ人教員テオドール・レッシングを他のユダヤ人と共謀したとして解雇した。1910年にはユダヤ人の子どもは特別な推薦がいるとされた。リーツは第一次世界大戦で陸軍志願兵となり、戦中の著作で、資本主義の悪魔に魂を売り渡したユダヤ人の物質主義を批判し、ドイツ理想主義を称賛した。

体操の父ヤーンの影響をうけてワンダーフォーゲル運動をはじめたカール・フィッシャーは、郷土の自然への愛はゲルマン民族と祖国愛を呼び起こすとし、ゲルマン起源の儀式を行いもした。1913年、女性支部でユダヤ人少女が排除されたことで、ワンダーフォーゲル内部でユダヤ人問題が議論され、フィッシャーはユダヤ人には民族として敬意を表すが、ドイツ民族ではないとした。

1880年、ドイツ学生協会はユダヤ人を教職や公職から排除する請願運動を行った。1881年,ドイツ学生協会キフホイザー同盟が創設、合理主義を広めたユダヤ人との闘争を使命とした。1894年までにドイツ学生組合からユダヤ人は排除され、1919年に学生組合は、改宗によってはユダヤ人の人種性を緩和できないとするアイゼナハ決議に署名した。

新異教主義(ネオパガニズム)とゲルマン的霊性、そして「血と土」

ドイツでは新異教(ネオパガニズム)が攻撃的な愛国主義、民族主義の役割を担った。ハンマー同盟、ウルダ同盟、ヴェルズング騎士団、アルタム同盟、オスタラ派などのネオパガニズム的な反ユダヤ主義団体(ブント)が結成された。

1889年、オーストリアの元シトー会修道士・神秘主義者イェルク・ランツが新テンプル騎士団を結成した。ランツは1904年の著書『神聖動物学』でアーリア人を神人として、劣等人種との隔離を主張した。1905年、ランツはゲルマン民族の春の女神からその名をとった機関誌『オスタラ、金髪と男性権利のための手帳』を創刊した。ランツは黒い肌の人種は野獣の本能で金髪女性を襲い、人類の文化を破壊するとし、人種の純化、劣等人種の絶滅、社会主義・民主主義・フェミニズムの粉砕、アーリア女性の夫への服従を説き「万国の金髪碧眼の人々よ、団結せよ」と述べた。なお、ヒトラーは『我が闘争』で当時の反ユダヤ主義雑誌を「非科学的で浅薄な議論」で、不当な非難ではないかと感じたと述べており、フェルキッシュ(民族至上主義)なセクトや過激なゲルマンカルトを軽蔑した。ナチスはランツを「人種思想を捻じ曲げた」として非難した。

批評家ユリウス・ラングベーンは「教育者レンブラント」(1890年)でスウェーデンボルグや神智学などの見地からゲルマン的霊性を論じ、自然な限界を超えて不法侵入してドイツ民族の血の純血を汚した同化ユダヤ人はペストやコレラのように「ドイツの永遠の敵」であり、根絶すべきであるとした。ラングベーンによれば、ドイツ民族の精神は民主化、平準化、細分化によって崩壊しつつあるが、ドイツ人はもっとも個性的で独自的な民族であるため芸術的にもっとも重要であり、ドイツ郷土は理想であるとして「血と土」を重視し、ハイマートクンスト(郷土芸術)運動、ヘンツェルのアルタム同盟、ナチスなどに影響を与えた。

19世紀末にはラングベーンやニーチェの影響から自然保護運動、ドイツ青年運動、ワンダーフォーゲル、集団生活と指導および奉仕を重視したブント組織が展開した。1893年ユンカーにより結成された営農家同盟 (Bund der Landwirte)は農業保護を訴えて農産物の関税引き下げに反発し、反近代文明、反資本主義、反ユダヤ主義的な主張をして、1913年には会員数33万を数える影響力の大きな団体となった。青年運動の影響で結成されたナチスのヒトラー青年団では全ドイツ青少年の加盟が義務化された。

エックハルトなどドイツ神秘主義の著作を刊行した出版者オイゲン・ディーデリヒスは、反ユダヤ主義を批判しながら、ユダヤ人は中近東からの外来人種であり、不毛な律法によって内的な霊性を窒息させてしまったとみた。

テオドール・フリッチュは『照明弾(ロイヒトクーゲルン)』(1881) でユダヤ人は人間と類人猿との中間の存在であり、不完全な人間であるとし、1887年『反ユダヤ主義のカテキズム』を出版、1902年に雑誌「ハンマー」を創刊し「ハンマー同盟」を結成した。フリッチュはフォードの『国際ユダヤ人』を翻訳した。

フリッチュの親友ヴィリバンド・ヘンツェルは「ヴァルーナ」(1907)で、人種は純化によって維持されねばならないとし、アーリア人の貴族と戦士を淘汰と選抜的な生殖によって形成するためのゲルマン的コロニー(植民地)「ミットガルト」の創設を主張した。「ミットガルト」は一夫多妻制のユートピアであり、指導者が結婚の相手を決定して、アーリア人種の栄光のために出産するとされ、金髪で美しいアーリア人種は裸体でなければならないと主張した。ヘンツェルはアーリア人の神であるアルタム神にちなみアルタマーネン(アルタム同盟)というコミュニティを作った。アルターマネンでは、ザクセンで農業をしながら、東部ドイツへの入植と東方への領土拡張が主張され、1928年には1500人の会員がいた。アルタム同盟には、ドイツの郷土と民族に根ざした「血と土」の思想を主唱してナチ党農政全国指導者となったリヒャルト・ヴァルター・ダレや、ハインリヒ・ヒムラーも青年期に加盟していた。ほかに人種の完全性は農民の中に見いだされるとしたアルターマネンの指導者ホルフェルダーや「ハーケンクロイツ・カレンダー」を出版してアーリア的農民を称賛したブルーノ・タンツマンはナチ党に入党、その後アルターマネンはナチスに吸収された。

ダンツィヒ近郊のブリートハブリーク(1919-24)はアーリア協会を名乗り、菜食主義、禁酒運動、ヌーディズム(裸体主義)を唱えた。

クラウス・ヴァーグナーは『戦争』(1906)で、イエス=ジークフリートの宗教を唱え、すべてのゲルマン部族による人種的統合を主張した。

禁酒運動家で人種優生学を信奉した作家ヘルマン・ポペルトは小説「ヘルムート・ヘリンガ」(1910)で、金髪でエネルギーに輝くアーリア人の主人公に対して、アルコールと禁断の愛で死ぬ兄弟を描き、1911年に先遣隊(フォアトルツプ)を創設した。

チェンバレンのアーリア主義

汎ゲルマン主義で反ユダヤ主義のヒューストン・ステュアート・チェンバレンは、1899年の著書『19世紀の基礎』で、ヨーロッパ人をアーリア人と呼び、その支配者はゲルマン系のチュートン人とノルド人として、アーリア人を高貴な人種とした。チェンバレンは、神秘・秘儀(Mysterien)を真の宗教の源泉とみており、ユダヤ教には神秘と神秘主義が欠如しているが、キリスト教にはアガペー、聖餐における実体変化、復活など現代に生きる神秘主義があるとする。ただし、プロテスタント的世界観を受け入れていたチェンバレンは、カトリックを認めたのではなく、秘儀がドイツ人の心情として精神化することを案出した。チェンバレンはカトリックを攻撃し、非アーリア人のバスク人ロヨラによって作られたイエズス会は動物的な本性でゲルマン精神、アーリア精神に組織的な攻撃をおこなったとした。チェンバレンはキリスト教の聖餐は、ギリシア密議やヘレニズム密議を引き継ぎ、魔術的・物質的な要素が排除されていったものであり「真のヘレニズム人」の心情がアーリア人に受け継がれたとした。中世ゲルマン神秘主義のエックハルト、ベーメ、そしてルター、カント、ゲーテ、ベートーヴェン、ワーグナー、ホーエンツォレルン家がキリスト教の生きた真髄であり、ゲルマン民族を守護する神性の体現者であるとした。また、イエスについては、当時のガリラヤはアッシリアによる植民地化でギリシャ人やフェニキア人が移住しており、バビロン帰還後の純血思想の強かったユダヤ人との通婚は認められなかったために、イエスはユダヤ人ではなく、アーリア人の血統にあると主張した。イエス=アーリア人説は社会主義者のデューリングも唱えていた。チェンバレンは、セム系のベドウィン、ヒッタイト、シリアとアーリア系アモリ人の混血人種であるユダヤ人は、数千年にわたって純粋人種を人工的に作ろうと計画し、その力を作り上げて、ケルト人、スラブ人、テゥートン人を支配したとする。ペルシア王キュロスは新バビロニアを倒したあと、アーリア人の寛大さでユダヤ人を解放して帰還させたが、ここからセムの不寛容さが毒のように広がり、この不幸はキリスト教の永遠の恥となったとした。そして、ユダヤ人によってオリンポスとヴァルハラはさびれ、ヤハウェはインドヨーロッパ人の神となり、そして現代の政府、司法、科学、商業、科学、芸術は自発的にユダヤ人の奴隷となったが、その中でアーリアの魂を救出するにはキリスト教を非ユダヤ化しなければならないとチェンバレンは考えた。『19世紀の基礎』でもディズレーリのユダヤ主義的人種決定論が引かれた。

『19世紀の基礎』は多大な反響をよび、イギリスでもタイムズ、スペクテーター、バーミンガム・ポスト、グラスゴー・ヘラルド各紙が絶賛し、バーナード・ショーは「真に科学的な歴史の傑作」と熱狂的に称賛した。ほかにセオドア・ルーズベルト、レフ・トルストイが称賛し、ナチ幹部アルフレート・ローゼンベルクに強い影響を与えた。

改宗ユダヤ人のアッシリア学者フリードリヒ・デーリッチュは『バビロンと聖書』(1902)で、旧約聖書の一神教はバビロンが出自であるとし、反発したユダヤ教徒・キリスト教徒と論争となったが、反ユダヤ団体からは熱狂的に迎えられ、デーリッチュはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に私的な謁見を許された。当時ドイツの宗教政策に悩んでいた皇帝ヴィルヘルム2世はデーリッチュ説に興味を持ったが、デーリッチュがキリスト教もユダヤ教も信仰していないことから悩みが深まったところへ、チェンバレンから皇帝へ手紙が届いた。チェンバレンは、アッシリアもセム族の影響を受けており、イスラエルもバビロンも、古代ペルシャに起源を持つアーリア文化の借り物に過ぎないとデーリッチュの説を批判した。皇帝は自由主義神学(文化プロテスタンティズム)のハルナックをルター派の保守派の反対を押しきってベルリン大学教授に就任させるなど、リベラリズムを重視していたが、チェンバレンはリベラリズム、民族主義、反ユダヤ主義、文化闘争という当時のドイツに適合した思想を持っていたため、皇帝はチェンバレンに感化され、アーリア主義を抱くようになった。皇帝はチェンバレンへの手紙で「抑圧されていたわれわれの青年期には、あなたのような解放者が欠けていたのです」と述べ、魂の奥深くに眠る原ゲルマンのアーリア主義はさびしい戦いを行ってきたとして感謝し、皇帝はその後20年にわたって文通し、皇帝の政策に影響を及ぼし続けた。1905年1月、リガのデモに対してヴィルヘルム2世は「またもユダヤ人!」と書きつけた。また、デーリッチュも1921年にユダヤ教には大いなる欺瞞があると批判した。

ゲルマン騎士団、トゥーレ協会、ドイツ労働者党からナチスへ

オカルティストのグイド・フォン・リストは古代ヒンドゥー教で太陽を表す鉤十字を「無敵の人間」「超人」「ゲルマン英雄」を表すために用いた。リストやランツから影響を受けて1912年に結成されたゲルマン騎士団は、スワスティカ(鉤十字の卍)をシンボルとして、北方人種の優越と反ユダヤ主義を説いた。ゲルマン騎士団は解散し、トゥーレ協会として再編された。

第一次世界大戦末期の1918年8月、ルドルフ・フォン・ゼボッテンドルフ男爵を名乗るルドルフ・グラウアーが、伝説の極北の島ウルティマ・トゥーレから名付けたトゥーレ協会を設立した。トゥーレ協会にはディートリヒ・エッカートやアドルフ・ヒトラーがいた。1919年、トゥーレ協会のアントン・ドレクスラーはドイツ労働者党(Deutsche Arbeiterpartei)を結成した。同党初期党員には共同設立者カール・ハラーのほか、ゴットフリート・フェーダー、エッカート、アルフレート・ローゼンベルク、ハンス・フランク、エルンスト・レーム、ヒトラーがいた。

劇作家で政治活動家のディートリヒ・エッカートは、神秘主義詩人アンゲルス・シレジウス、ショーペンハウアー、ニーチェから影響を受け、ヘンリック・イプセンの『ペール・ギュント』の改作(1912年)では、ギュントはトロール(ユダヤ人)と戦う超人的なゲルマン英雄とされた。エッカートは1919年7月の論文「ルターと利子」で、ルターは高利に引きずられる現代のヨーロッパを予見していたとし「金の呪いからの人類の解放」という目的のためにドイツは崩壊という受難をうけたが、破局のなかで新世界がうまれようとしており、ドイツ民族こそが第三帝国を実現し、救済の時を招き寄せるだろうと述べた。「第三帝国」の出現についてはイプセンが『皇帝とガリラヤ人』(1873年)で描いており、エッカートはイプセンを参考にしたとされる。エッカートの詩「ドイツよ、目覚めよ!」では「ユダが帝国を簒奪せんと現れる。鐘を鳴らせ、綱が血に赤く染まるように。周囲は火災と責苦と殺戮ばかり。嵐を打ち鳴らせ、救いとなる復讐の雷鳴の下で、大地がさからうように」と謳われ、ユダヤ人を『ヨハネの黙示録』の7つの頭を持つ獣とみなした。ヨハネ黙示録の獣は、頭に神を汚す名がついていて、竜によって全ての国民を支配する権威をさずかった。またエッカートはキリストをアーリア精神の化身とみていた。

1920年2月24日にドイツ労働者党はオーストリア=ハンガリー帝国のドイツ国家社会主義労働者党を意識して国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、ナチス)へと改称した。トゥーレ協会はミュンヒェナー・ベオバハター紙を発行、1919年8月にフェルキッシャー・ベオバハターへ改称、20年にナチ党が買収した。

アルトゥル・マーラウンは1920年にアーリア人であることのみが団員の条件とする青年ドイツ騎士団(jugdeutscheorden)を創設し、13万人の団員を有した。しかし、理想主義的で大衆を組織できず、ナチス党のような権力を獲得できなかった。

1922年にゲルマン主義者のオランダ人文献学者ヘルマン・ヴィルトは1933年に「北方人種の聖書」と称して『オエラ・リンダの書』をドイツ語に訳した。1934年5月にベルリン大学で行われた「オエラ・リンダの書」シンポジウムで、ヴィルト、ハインリヒ・ヒムラー、リヒャルト・ヴァルター・ダレが参加し、1935年7月に、ヒムラーは「ドイツ先祖遺産(アーネンエルベ)」研究機関を設立した。

トゥーレ協会でエッカートグループに属したアルフレート・ローゼンベルクは、ドイツ労働者党および国民社会主義ドイツ労働者党党員となり、1922年に『フェルキッシャー・ベオバハター(民族の観察者)』主筆、1934年にナチス全精神的・世界観的教育と育成の監視のための総統受任者となり、1939年にはユダヤ人問題研究所(Institut zur Erforschung der Judenfrage)を設立した。ローゼンベルクは中世ドイツの神秘主義者エックハルトを信奉して真の宗教をドイツ神秘主義とし、1934年には『マイスター・エックハルトの宗教』を上梓、1938年に『二十世紀の神話』を出版した。ローゼンベルクは反ユダヤだけでなく、反キリスト教の立場にもあり、キリスト教のアガペー(愛)、謙遜、ヘセド(憐憫)、ヘーン(恩寵)よりも、魂の美、自由で高貴な魂を重視し、ユダヤ教には不死の信仰や形而上学的な宗教がないとして、ユダヤ的=ローマ的世界観に代わって、北方種族のゲルマン的人間の内的側面を称揚した。ローゼンベルクの思想はヒトラーに深い影響を与えた。

モッセによれば、ドイツ右翼はパラケルススやヤーコプ・ベーメなどのドイツの黙示録的伝統こそを「ドイツ革命」と呼び、神と自然が一体となるゲルマン民族をユートピアとし、千年王国的、終末論的な革命待望の思想は右翼を強力にした。

第一次世界大戦

ドイツのユダヤ人は第一次世界大戦で祖国ドイツを支持した。1914年8月に「ユダヤ展望紙」は「ドイツユダヤ人は他のドイツ国民をまったく同じ気持ちである。われわれは友愛をもって、全ての国民と一緒に戦線に立っている」とし、ドイツユダヤ人帝国同盟やドイツ・シオニスト同盟は同胞に対して「全身、全霊、全力をもって祖国ドイツの軍役に奉仕する」ことを求めた。

開戦当初のドイツでは、ドイツ人とユダヤ人の類縁性が主張された。ユダヤ系哲学者ヘルマン・コーヘンは、ドイツ語使用者のユダヤ人は精神の祖国ドイツを支持すべきだし、ユダヤ精神とドイツ精神は兄弟愛でむすびついているとした。ユダヤ系ドイツ人でハーバード大学心理学教授フーゴー・ミュンスターベルクも祖国ドイツへの愛を説いた。他方、反ユダヤ主義者のオイゲン・ツィンマーマンもドイツはユダヤ人と同様に世界の憎悪を一身に集めているとした。ドイツ人とユダヤ人の類縁性については、ユダヤ系作家ヤーコプ・ヴァッサーマンやトーマス・マン、アルフレート・ヴェーバー、シオニストのナーフム・ゴルトマンも述べている。他方で、ユダヤ系社会学者フランツ・オッペンハイマーは「反ユダヤ主義を「自国礼賛と攻撃性を特徴とするナショナリズムが自国に向けて見せる顔貌」とした。

第一次世界大戦に従軍したドイツのユダヤ人は10万人にのぼり、戦死者は1万2千人であった。

ユダヤ人実業家の名門海運企業HAPAG社長アルベルト・バリーンと、多国籍企業電機メーカーAEG会長ヴァルター・ラーテナウによる「バリーン・ラーテナウ体制」は反ユダヤ主義の標的となった。HAPAGは皇帝の信任厚く戦時運輸を指導した。トーマス・エジソンの特許を取得したヴァルターの父のユダヤ人実業家エミール・ラーテナウによって創設されたAEGは電気、銀行、紡績、製紙、陶磁器、鉄工、航空、自動車、鉄道電化、軍事産業など大コンツェルンを築いていた。ラーテナウは世界大戦に反対であったが、プロイセン軍事省戦時原料局長に就任し、ドイツ戦時経済を整えた。ラーテナウはアーリア神話を信奉しており、ユダヤ人は臆病で防衛的であるのに対して、北方の金髪のアーリア民は南を征服し文明を豊かにし、ドイツは勇気と徳を持つゲルマン人種の血がよく保存されているために世界の中心になったと述べていた。さらに彼はユダヤ教によって近代産業文明のなかに「恐怖と知性と術策の権力」が定着したと考え、見えないゲットーの中に半ば自分からすすんで暮らしいるユダヤ人は悪行もすべて人のせいにしてしまうが、ユダヤ人は嘲笑されないように自己を訓練しなければならないと1897年に発言していた。キリスト教へ改宗しなかったラーテナウの戦時中の祖国への奉仕は反ユダヤ主義者によって攻撃され、戦後暗殺された。また、ロスチャイルド家以上の富裕を誇ったユダヤ系シュパイヤー家のJames Speyerは軍事生産に投資し莫大な富を築いた。他方で東欧ユダヤ人が軍事工場で過酷な労働を強いられた。愛国者でもあり改宗ユダヤ人だった化学者フリッツ・ハーバーは、同じくユダヤ人であったジェームス・フランク、リヒャルト・ヴィルシュテッター、マックス・ケルシェバウムらと毒ガス兵器を開発し、ドイツ軍はベルギーで使用し、戦後は戦争犯罪人として非難された。

軍ではユダヤ人が兵役をのがれ一儲けしようとたくらんでいるという噂が流れた。1915年末、レーヴェントロー伯爵やバルテルスらが参加した講演会では、冊子『ドイツ軍内部のユダヤ人』を将校と学生への無料配布が決議された。この会に参加した化学者ハンス・フォン・リービヒはホルヴェーク宰相の和平政策を「ユダヤ人宰相による腐りきった妥協」と酷評し、大戦はドイツのユダヤ人とドイツのゲルマン人との戦争にほかならないと主張した。しかしリービヒは改宗ユダヤ人の曾孫であったことが暴露され、全ドイツ連盟から除名された。一方、1915年にはユダヤ系言語学者ジークムント・ファイストがアーリア起源説は、紀元前のトロイア神話のような神話であるとし、アーリア神話がやがてもっと道理にあった科学的な考えに席を譲るべきだと批判した。

1916年3月、テオドール・フリッチュとアードルフ・ロートは、国籍不明の拝金政治はドイツ民族に反旗を翻し、国際金融の利益を追求していると皇帝などに意見書を出した。1916年夏には、ドイツ陸軍では、戦時動員を逃れているユダヤ人を告発する意見書が溢れた。作家トーマス・マンは1916年、ドイツ人は超ナショナルな民族であり、ドイツ人にはナショナルな枠を超えた責任があり、ヨーロッパの良心を体現する使命が課されているとして、フランスでは憎悪に満ちたドイツ人蔑視があるが、ドイツ側にはそのような照応物はないとした。

1916年8月のヴェルダンの戦いでドイツ軍がフランス軍に反撃されると責任をとって参謀総長ファルケンハインが辞任し、後任にヒンデンブルクが就任、参謀次長にはルーデンドルフが就任した。10月に参謀本部は40万人のベルギーの労働者を強制移住させ、またマックス・バウアー大佐の発案で動員されたユダヤ人の調査を開始した。バウアー大佐は『シオン賢人の議定書』ドイツ訳の出版者で「ユダヤの傲岸不遜に抗する会」のミュラー・フォン・ハウゼンをルーデンドルフに紹介している。同10月にカトリック中央党もユダヤ人官吏の調査を政府に求めた。

1917年1月にはハンブルクの『ドイツ民族新聞』が表紙に鉤十字を掲げ、4月にはハインリヒ・クラスとチェンバレンが『ドイツの刷新』を創刊した。同年初頭、哲学者マックス・ヒルデベルト・ベームが『プロイセン年鑑』で同化ユダヤ人を告発する一方でシオニズムには賛同すると表明すると、シオニストの作家アルノルト・ツヴァイクはベームのユダヤ人による世界支配というのは反ユダヤ主義の常套句であると批判した。ツヴァイクに対してベームは、ドストエフスキーはヨーロッパの一大変事が起こる時にユダヤ人の権力がいや増しに増すと述べたが、同化ユダヤ人の国際ネットワークは事実である、しかし我々の敵はユダヤ世界ではなく「ヨーロッパの、そしてゲルマン世界の目に見えないユダヤ化現象」であると反論した。

大戦当初からドイツ政府はロシアの弱体化を狙って革命勢力を支援しており、ユダヤ系革命家パルヴスやエストニア人ケスキュラのほかレーニンは1917年4月に封印列車で帰国してロシア革命を主導した。3月27日、ペトログラード労兵ソヴィエトは「無併合・無償金・ 民族自決による講和」を掲げ、ドイツ社会民主党は無併合講和を支持、さらにドイツ各地でストライキが組織され、ロシア革命を模範としたキール水兵の軍務ストライキが起きると、ドイツ体制派も無併合講和を支持するようになり、7月19日に無併合和平決議を採択した。これ以降、ドイツでは無併合講和に反対する激しい反動が表面化した。1917年夏のドイツでは、軍務忌避のユダヤ人は革命派ユダヤ人を意味するようになった。ロシア革命にユダヤ人が参加したのも、またドイツのユダヤ人の一部に革命派がいたのは事実であったが、ユダヤ人であるとうだけで攻撃対象になることが激しくなると、ユダヤ人のなかから革命派に合流するものが増えていった。

1917年夏、全ドイツ連盟が大戦勃発以来控えていたユダヤ非難を再開した。議会の平和決議に対しては「ユダヤ講和」と呼び、帝国市民に巨額の負債を抱え込ませるし、金を握っているのはユダヤ人「第三のインターナショナル」であるとした。1917年9月に全ドイツ連盟はドイツ祖国党を結成し「ユダヤ人にとっては、生きるか死ぬかの闘争の開始である」と宣言し支持者120万を数えた。1918年6月、全ドイツ連盟会長クラース、チェンバレン、ディートリヒ・シェーファー、ゲオルク・フォン・ベロウらとの雑誌『ドイツ国の改革』は、第一次世界大戦はユダヤ世界資本による世界支配のための陰謀であるとした

また、フランスが植民地からアフリカ人やアジア人55万を動員したことに対してドイツは非白人兵の配置をヨーロッパ文明を汚すと抗議した。

講和交渉の混乱とドイツ革命による帝政崩壊

ドイツ軍の最後の攻勢である1918年春季攻勢が7月の第二次マルヌ会戦で失敗し、ヴィレール=コトゥレでもドイツ軍が敗れると8月14日にルーデンドルフは軍の規律弛緩を非難し、またユダヤ人青年を早く戦線に送るべきだと演説した。9月には同盟国のオーストリア=ハンガリー帝国とブルガリアが降伏した。同9月、全ドイツ連盟会長ハインリヒ・クラスとフォン・ゲープザッテル将軍がユダヤ主義に対する抗戦組織ユダヤ委員会を結成した。クラスは、1813年にクライストがフランス人に対して述べた『奴らを殺せ、世界の法廷はあなたにその動機を尋ねたりはしない』というスローガンを掲げ、ユダヤ人問題は単なる経済問題ではなく「世界観にかかわる闘争」だと布告した。同時期にトゥーレ協会が設立された。

臨時政府

ルーデンドルフが即時休戦条約締結を申し入れ、9月29日ベルギースパの大本営は講和交渉の開始を決定した。ヘルトリング首相は辞任し、10月3日には議会多数派のドイツ社会民主党の支持を受けた自由主義者のバーデン辺境伯マックス大公子を宰相とする社会民主党・中央党・ドイツ民主党の臨時政府が成立した。10月23日、アメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンは講和条件としてドイツ帝国における軍国主義と王朝的専制主義の除去を要求した。独立社会民主党らは皇帝ヴィルヘルム2世の退位を要求し、これに反発したルーデンドルフが一転して戦争継続を主張したが、マックス宰相はルーデンドルフを解任して後任にヴィルヘルム・グレーナーが就任した。この臨時政府をユダヤ人指導者に屈した政府と見たバウアー大佐は、ルーデンドルフ、大企業家フーゴ・シュティネスとともにユダヤ人アルベルト・バリンを担ぎ出したが、バリンは12月に自殺した。

10月29日、休戦に反対するドイツ海軍はイギリス艦隊に決戦を挑もうと大洋艦隊主力の出撃を命じたが、疑惑を持った水兵達約1000人が出撃命令を拒絶して反抗した。海軍司令部は作戦中止をもたらした反抗兵士たちを逮捕し、キール軍港に送った。11月1日、キール軍港に駐屯していた水兵たちが釈放を求めたが、司令部は拒絶したため、兵士と労働者によるデモが行われた。鎮圧しようと官憲が発砲したことで、11月4日には労働者・兵士レーテ(評議会、ソビエトのドイツ語訳)が結成され、4万人の兵士・労働者が市と港湾を制圧し、艦に赤旗を掲げた。政府は社会民主党員グスタフ・ノスケを派遣し、水兵らの待遇改善を約束して平常化した。ドイツ海軍の将校が貴族・教養市民層出身者であったのに対して一般兵員は労働者で占められていたため階級対立が反映しやすかったとされる。キールの反乱は鎮圧されたが、レーテ運動はリューベック、ハンブルク、ハノーファーなど各地で展開し、将校は逮捕されて武装解除され、各軍は兵士労働者評議会に制圧された。

11月7日から始まったバイエルン王国におけるバイエルン革命(ミュンヘン革命)ではバイエルン王ルートヴィヒ3世が退位し、レーテが権力を掌握した。独立社会民主党のユダヤ人活動家クルト・アイスナーがバイエルン共和国を宣言して首相となった。皇帝への風刺で不敬罪に問われ収監され監獄を出たばかりのアイスナーは静かなデモを指導してバイエルン王国を崩壊させたが、バイエルン王家のヴィッテルスバッハ家はプロイセン王家のホーエンツォレルン家よりも古く、保守的なカトリック国であったバイエルンでユダヤ人社会主義者が首相になったことは、ドイツの王侯貴族に衝撃を与えるとともに、ドイツ帝国崩壊の前段階となった。フランスの『ル・タン』紙は、アイスナーを「みすぼらしい老人」「シャイロック」「ガリツィアのユダヤ人」と描写した。

人民委員評議会政府と休戦条約

連合国から退位を要求されていたマックス内閣はバイエルン革命を知ると皇帝に退位を要求し、皇帝は拒否した。11月9日にベルリンでゼネストが起こると、マックス宰相は政府をドイツ社会民主党党首フリードリヒ・エーベルトに委ね、さらに社会民主党員のフィリップ・シャイデマンが独断で共和政の樹立を宣言した。11月10日朝、皇帝はオランダに亡命した。こうして社会民主党、独立社会民主党、民主党からなる人民委員評議会(Rat der Volksbeauftragten)が樹立し、ドイツ帝国が打倒された。革命の早期終息を図るエーベルトは陸軍グレーナー参謀次長との会談で、議会の下の秩序回復、混乱の鎮圧のための軍の出動、そして軍の維持と将校の権威の回復が約束された。1918年11月11日、中央党の国務次官マティアス・エルツベルガーとグレーナーが連合国との休戦条約に調印した。

しかし、署名したのが皇帝やドイツ軍の代表でなかったことや、戦勝国の厳しい要求を容認したこと、またエルツベルガーがホテル来客帳に「なすべきことをせよ(条約承認)。そして飲んで愉快にやろう」に書いたことも右翼の怒りを買った。さらに中央徴税を推奨したために伝統的な領邦国家体制の維持を主張する地方保守層からも怒りを買い「戦勝国のためにドイツから金を搾り取る敵の手先」とされ、戦後ドイツで最も嫌われた政治家となった。エルツベルガーはユダヤ人ではなかったが「ユダヤ人の同胞」とされ、元軍人でコンスルのハインリヒ・シュルツとハインリヒ・ティレッセンによって1921年8月に暗殺され、犯人は喝采された。休戦交渉に参加したユダヤ人銀行家カール・メルヒオールも批判された。

12月16日全国労兵レーテ大会では、急進派がドイツ軍の解体と「国民軍」の創設を要求したが、エーベルトはこれを無視して、翌1919年1月19日の国民議会選挙を決定、反発した独立社会民主党は政府から離脱し、同党左派のカール・リープクネヒトとローザ・ルクセンブルクのスパルタクス団は12月末ドイツ共産党を結成し、選挙ボイコットを決定した。1919年1月5日から1月12日にかけてスパルタクス団が蜂起したが、エーベルト首相はノスケ国防相に命じてヴァイマル共和国軍およびドイツ自由軍(義勇軍)を派遣して討伐した。ローザ・ルクセンブルクも東欧ユダヤ人で、保守層から危険視されていた。

ヴァイマル共和政(1919年 - 1933年)

敗戦後のベルリンは革命派と軍部の相互対立と虐殺が横行したため、政府はワイマールで国民議会を開催した。1919年1月19日の国民選挙で第一党の社会民主党と中央党・ドイツ民主党の連立政府が成立し、ヴァイマル共和国が成立した。しかしドイツ国民は「ユダヤ人にお膳立て」されたものと非難した。事実、ワイマール体制はドイツユダヤ人にとってかつてない政治活動の場となり、ユダヤ人が政府中枢に参与し、議会を運営したり、憲法起草などに関わり、またドイツ革命にユダヤ人が大きく関わったこともあり、保守層はワイマール共和国を「ユダヤ人国家」「ユダヤ共和国(Judenrepublik)」とみなした。

1919年から1923年にかけてのワイマール時代は敗戦と貧困と社会混乱を背景に「ユダヤ人こそ我等が不幸」というトライチュケの言葉を掲げた反ユダヤ主義が強まり、その規模は1933年のナチス政権獲得以降を上回るものだった。当時、グライフスヴァルト大学の哲学教授は「反ユダヤ主義はドイツの良心の一部である」とした。

ドイツ共和制成立直後、帝政時代の政党ドイツ保守党が改組され、ドイツ国家人民党が結成された。ヴァイマル共和国軍は3月のベルリンゼネスト、5月にミュンヘンのレーテ共和国を鎮圧し、ドイツ革命は終焉を迎えた。

バイエルン革命の失敗

バイエルン共和国のアイスナー首相は中産階級をレーテに取り込もうとしたためプロレタリア独裁が実現できないとして共産主義者から批判され、また社会民主党の要求で実施した選挙では独立社会民主党は3議席しか獲得できなかった。さらにアイスナーが世界大戦の端緒となったオーストリアのセルビアへの最後通牒にドイツが共謀していたという公文書を公開すると、国家への背信であるとして2月21日にトゥーレ協会会員のユダヤ系のアルコ・ファーライ伯爵に辞任宣言を行う途中で暗殺され、バイエルンは無政府状態となった。

ユダヤ人のアイスナーによる革命に反発した民族派の反攻も開始された。1919年1月5日、アントン・ドレクスラー、ディートリヒ・エッカート、ゴットフリート・フェーダー、カール・ハラーはドイツ労働者党をミュンヘンで結党した。1919年2月、バイエルン州バンベルクでアルフレッド・ロートが、ユダヤ主義と闘うことを目的としたドイツ民族防衛同盟(Deutschvölkischer Schutz- und Trutzbund)を設立し、この組織はドイツ民族連盟共同体の中核をなしていった。1920年に会員数30万人となったドイツ民族連盟共同体は、ユダヤに関する書籍を多数出版し、1919年3月にミュンヘンで出版された『ユダの借財書』では、ユダヤ人はアーリア人女性を口説いてアーリアの血への罪を犯すとされた。ドイツ民族防衛同盟に参加したルター派牧師フレンスブルクのアンデルセンは「ドイツの魂は旧約聖書に踏みじられた」とし、またベルリンのヨーンセン牧師は「人種差別思想こそ唯一の希望」と述べた。また民衆啓蒙委員会の1919年のビラでは、幼児の肉のソーセージなどのユダヤ人のカニバリズムが取り上げられた。

4月6日から7日にかけて独立社会民主党でユダヤ人劇作家のエルンスト・トラーとシオニズム指導者グスタフ・ランダウアーによってバイエルン・レーテ共和国が樹立した。しかし、一週間後の1919年4月13日、ロシア出身のユダヤ人ドイツ共産党員オイゲン・レヴィーネによって「プロレタリア独裁を打ち立てた」としてバイエルン・レーテ共和国樹立が宣言された。ドイツに亡命していたメンシェヴィキ派のユダヤ人指導者パーヴェル・アクセリロードもバイエルン革命に参加した。このようにバイエルン革命の指導者の多くがユダヤ人だったことは、背後の一突き説の根拠の一つとなった。なお、革命中にヒトラーは兵士評議会管理下のバイエルン軍に所属しており、ミュンヘン中央駅警備や革命政府にプロパガンダ部門に協力した。革命の指導者エルンスト・トラーによればヒトラーは当時社会民主主義者を名乗っており、またヒトラー自身も「誰しも一度は社会民主主義者だったことがある」と1921年に述べた。

4月30日、水兵エグルホーファーがトゥーレ協会会員を含む白軍人質8人と政府軍兵士2人を拷問の果てに処刑したことで、エーベルト大統領はノスケ国防相に鎮圧を命じてヴァイマル共和国軍・義勇軍と赤軍との市街戦が展開、死者660人を出し、バイエルン=ミュンヘン革命は終焉した。

5月11日、バイエルン軍による軍政が敷かれ、ミュンヘンは革命派は一掃された。ミュンヘンでは革命と内戦は、ソ連等の国際共産主義勢力がもたらした「恐怖支配」として住民の記憶に残った。ドイツ全土でも、バイエルン革命はロシアのボリシェヴィキとユダヤ人による乗っ取りだったという見方が広まり、新聞ミュンヒナー・ノイエステ・ナハリヒテン紙は「ロシア・ボリシェヴィズム工作員」である共産党が無実の人々を虐殺し、革命は「人道と正義の法に対する犯罪」であったと報じた。共産主義への恐怖は保守的な中産階級と農村部に浸透し、これ以降、バイエルンは反革命の巣窟となった。40万の兵士を擁するバイエルン住民防衛軍が編成された。6月にバイエルン軍の反ボルシェビキ講座に参加したヒトラーは才能を認められた。

1919年8月にヴァイマル憲法が成立する。しかし、起草したのはユダヤ人法学者で内務省次官のフーゴー・プロイスであったことはドイツ人の反発を招き、さらにこの憲法は理想論を盛り込んだためにすぐに実践上困難となり、右翼左翼双方から批判された。

9月16日、ヒトラーはアドルフ・ゲムリヒへの書簡で、ユダヤとは宗教ではなく人種の問題であり、感情的な反ユダヤ主義はポグロムにとどまるが、理性的な反ユダヤ主義はユダヤ人の権利を体系的に剥奪し「最終目的はユダヤ人の完全な排除」にあると回答した。9月後半、ヒトラーの弁論の巧みさに強い印象を受けたアントン・ドレクスラーは、ヒトラーをドイツ労働者党に誘い、ヒトラーは入党した。

ドイツ労働者党の政策思想を展開したゴットフリート・フェーダーは『貨幣による利子奴隷制打倒宣言』(1919)でユダヤ的金融資本と国民的資本を区別し、国際的ユダヤ権力からのドイツ経済解放を論じ、『国民的社会的基礎にたつドイツ国家』(1923)ではユダヤ人は生産的労働から疎遠な寄生的存在であるとし、『金融界への闘争』(1933)で寄生的資本は少数の国際的金融家の利益のために国民的資源を枯渇させるとした。

1920年2月、ドイツ労働者党は党名に「国民社会主義」を付け加え、国民社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、略称NSDAP、通称ナチス)へ改称した。同党の25カ条綱領では、ドイツ人の民族自決権による大ドイツへの合同、ヴェルサイユ条約およびサン=ジェルマン条約の廃止、ドイツの血を引く者のみが民族同胞(ユダヤ人は除外)、非ドイツ人の移民の阻止、不労所得と寄生地主の打倒、地代徴収の禁止と土地投機の制限、企業の国有化による利益の分配、中産階級の育成、高利貸し、闇商人等の禁止、社会保障、公教育の拡充、ドイツ的報道機関の創造、宗教的信条の自由も謳われたが「ユダヤ的・唯物論的精神と戦う」積極的キリスト教によってドイツ民族を救済するとした。

保守革命

第一次世界大戦敗戦後、哲学者オスヴァルト・シュペングラー、アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックらは伝統的なプロイセン保守主義にとらわれない新しいナショナリズムを提唱した。これらはホフマンスタールの用語から「保守革命」と呼ばれ、ワイマル共和国、第一次世界大戦の敗戦、1923年のインフレーション、ユダヤ人、世界市民的文化、政治的自由主義を敵視し、強力な新しい帝国の建設を心に描き、資本主義や自由主義、アメリカニズム、マルクス主義、世界市民的な文明を魂が剥奪された人工的なものと批判し、ドイツ国民の美徳とドイツ民族に根ざしたフェルキッシュ文化を優れたものと見なし、断片化された利益社会に対して民族共同体を対置して、個人の自己犠牲と権力への服従のための道徳的基盤を作り上げていった。

シュペングラーは、社会主義をドイツ(プロイセン)の伝統的な徳性であると見なし、これに対してマルクスは社会主義というプロイセン的な概念を「プロレタリアート」に、さらに資本主義というイギリス的な理念を「ブルジョワジー」に帰属させたことで、ドイツ的精神とイギリス的精神の人種的矛盾を誤って転写したと批判し、イギリスの産物であるマルクス主義からドイツを解放すべきであると主張した。また、イギリスは市場競争において権力が個人にばらまかれているのに対して、プロイセンでは権力は全体に所属しており、個人は全体に奉仕するとし、フランスは無政府状態と平等主義に向かっているとした。シュペングラーによれば、農村は血と伝統と生産の世界であるのに対して都市は貨幣と知性による寄生的世界である。古代中世のユダヤ人、ビザンツ人、ペルシア人、アルメニア人のような都市商人はドイツの特殊性を消滅させ、貨幣は民主主義を政治的武器として民衆を奴隷に変え、自然資源を金融エネルギーに変える。しかし「血の共同体」による国民的社会主義は、貨幣と民主主義の独裁および資本主義を打ち破り「貨幣は血によってのみ克服される」。また、軍隊と家族は貨幣関係の影響を受けず、戦争は偉大な事柄の創造者である。さらに現代はナポレオン主義からカエサル(皇帝)主義へ推移し、そこでは憲法的法式化は問われず、カエサルの個人的権力だけが意味を有し、血の力、生命の本源的衝動が古い支配を再開する。カエサルは統一的活動の流れを解放し、ギリシア・ローマ世界が神と呼んだような者になり、若い人種の精神的祖先となる。シュペングラーはナチ党員ではなかったが、ユダヤ的資本主義に対抗する国民的社会主義と皇帝主義といった世界観を提供し、世論に影響を与えた。

第一次世界大戦の敗戦後、前線の兵士が共通の精神でむすびつき、ともに血を流したブント(結社)が破局のあとに唯一残ったとみなされた。鉄兜団、前線兵士同盟のフランツ・シャウヴェッカーは、200万人のドイツの血が生ける大地を濡らし、われわれは『民族・国民』を経験した「破壊があるところにのみ、奇跡の天啓がある」と論じた。思想家エルンスト・ユンガーも「鋼鉄の嵐の中で」(1919)で、炎の洗礼をものともしない兵士ら国民を真の貴族とした。多くの若者が休戦直後に73のブントを結成、そのなかで最も活発だったのがフライコール(義勇軍)だった。ヴェーアウルフブント(人狼同盟)は社会主義、自由主義、金権政治と闘争した。

敗戦責任と「背後の一突き」

大戦の敗戦責任をめぐってドイツ帝国軍では、ユダヤ人にそそのかされたドイツ革命派(共産主義者)によって背中を刺されたという「背後の一突き(匕首伝説)」が広がった。

1919年11月13日、ミュンヘンでのはじめての演説でヒトラーはヴェルサイユ条約締結の責任はユダヤ人にあり、ワイマール共和国政府はユダヤ人に支配されていると述べる。国家社会主義ドイツ労働者党は、ドイツ軍は戦争遂行の余力があったのに、共産主義者とユダヤ人に支持された政府が勝手に降伏したと主張した。ヒトラーはドイツ革命を国際ユダヤ陰謀による「国家と民族への犯罪」とし、また「戦争開始時、また戦争中に1万2千〜1万5千のドイツ国民を腐敗させるヘブライ人に毒ガスを浴びせていれば、前線の100万のドイツ兵士は救われた」と演説で述べ、支持者を獲得していった。

1919年11月18日の敗戦責任諮問委員会で、ヒンデンブルク元帥は「帝国は戦争に敗れたのではなく、背後から鋭い刃物で一突きにされたのである」と弁明し、共産主義やドイツ革命に責任があるとした。マクス・パウエル大佐、フォン・ヴリスベルク将軍、ルーデンドルフも匕首伝説の見方をした。各地で国粋主義団体が次々に結成、会員20万人の「ドイツ民族攻守同盟」に発展し、彼等は匕首伝説を信じ、敗戦はユダヤ人の責任であるとした。

1919年、化学者ハンス・フォン・リービヒは筆名リークで冊子「ドイツ崩壊におけるユダヤの役割」で、ユダヤ人はドイツ革命をそそのかし、ドイツ民族に不意打ちを食わしたとし、革命がなかったら休戦条件の受諾も必要なかったと論じ、この冊子は13万部売れた。

1918–19年、ロシア革命でウクライナから逃亡してきたシャベルスキー・ボルク(Piotr Shabelsky-Bor)は『シオン賢者の議定書』をドイツ福音教会の神学者ミュラー・フォン・ハウゼンに手渡し、1920年にミュラーは仮名でドイツ語訳『シオン賢者の秘密』を出版し12万部を売った。タイムズ紙が1920年5月に好意的にミュラーの本を紹介すると、ベストセラーとなった。ホーエンツォレルン家とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は出版費用を助成し、皇帝は夕食会で本の一部を朗読した。フリーメイソンとユダヤ人が結託して陰謀をめぐらしているという俗説が広まったため、ドイツのフリーメイソンリーはミュラーの本が出版されるとユダヤ人の加入を断るようになった。ミュラーは1912年に「ユダヤ人支配への対抗協会」を設立しており、またミュラーはフランス革命はフリーメイソンとユダヤ人の陰謀で、大戦端緒のオーストリア皇太子暗殺はユダヤ人とセルビアのフリーメイソンの陰謀と考え、ラーテナウと皇帝のユダヤ対策を批判した。ミュラーは、ユダヤ問題の解決のためにはポグロムや国外追放では足らず、ユダヤ人を閉じ込めるしかないと主張して、外国籍ユダヤ人のドイツ入国禁止、ドイツ人学校への入学禁止、金融業の国有化、ユダヤ人が経営する商店へのダビデの星の掲示義務化、ドイツ名の名乗りの禁止、ユダヤ人団体の禁止などの、のちのナチスユダヤ法のようなユダヤ人条例(Juden Ordnung)を提案し、違反したユダヤ人は死刑と主張した。全ドイツ連盟のクラースはミュラーのユダヤ人条例案を支持した。

詩人パウル・エルンストは1919年『理想主義の崩壊』で労働の分業形態や機械的な心性を批判し、『マルクス主義の崩壊』でマルクス主義を批判した。

1919年にはユダヤ系の物理学者アインシュタインに講義の自粛が求められ、1920年には実業家ヴァイラントによる反相対性理論キャンペーンがはられ、ノーベル物理学賞受賞者のフィリップ・レーナルトやヨハネス・シュタルクなどの物理学者も参加した。レーナルトはナチ党員となり「日本物理学」「アラブ物理学」「黒人物理学」「イギリス物理学」に比べて「ドイツ・アーリア物理学」が唯一本物であり「ユダヤ物理学」は最も有害だとした。1933年のナチ党の権力掌握以後、反相対性理論キャンペーンの規模は拡大した。

ワイマール体制を批判するユダヤ人もおり、左翼のクルト・トゥホルスキーなどが批判した一方で、中流階級ユダヤ人はユダヤ人がドイツで達成したものを台無しにするとして左翼ユダヤ人を攻撃した。ユダヤ系作家ヤーコプ・ヴァッサーマンはドイツ人のユダヤ嫌悪を攻撃する一方で、ユダヤ人は現代のジャコバン派だといって根なしの「教養ユダヤ人」を嫌い、ユダヤ嫌悪の責めは物質至上主義でずるがしこいユダヤ人が背負うべきだとした。ユダヤ人作家ゲオルク・ヘルマンも「イエットヒェン・ゲーベルト」で安定したドイツ中流生活を賛美した。ドイツ教養文化へのユダヤ人の同化は深く、改革派ラビの息子ルートヴィヒ・ガイガーはゲーテ協会で指導的役割を果たし、1920年代のベルリンゲーテ協会はユダヤ人が過半数を占めた。

ヴェルサイユ体制;莫大な賠償金と第三帝国への道

1919年1月からのパリ講和会議で調印されたベルサイユ条約でドイツは、海外植民地と普仏戦争で得たアルザス=ロレーヌ等を失い、ラインラントは非武装化され、ザール地方は国際連盟の管理下に置かれた。さらに賠償支払いを課せられ、軍備は厳しく制限された。これ以降、1936年にナチス政権がラインラントを再武装化するまでをベルサイユ体制とよぶ。

1920年3月13日に軍の縮小とドイツ義勇軍の解散に反発したクーデターカップ一揆がベルリンで発生し、国家人民党、ドイツ国民党、経済界は新政府を支持した。ベルリンを制圧したエアハルト海兵旅団はユダヤ人へのポグロムを始めようとしたが、指導者カップは制止した。一揆に参加したルター派牧師ゴットフリート・トラウプはユダヤ問題への暴力的な解決には反対したが、ユダヤ人の物質主義を批判した。しかし、社会民主党、独立社会民主党、共産党、ドイツ労働総同盟はカップ一揆に対抗してゼネストを行い、また左翼復員のルール赤軍によるルール蜂起が発生したため、カップは退陣した。ルール蜂起もヴァイマル軍によって鎮圧された。

1921年1月、賠償額交渉で総額2260億マルクという莫大な賠償金が課せられたため、ドイツ全土は激しい怒りに満ちた。ドイツ政府は修正を要求したが、連合国は拒否してライン地方を占領し圧力をかけた。1921年5月のロンドン会議で総額1320億マルクへと修正され、ドイツが拒否する場合はルール地方を占領するという最後通牒を通達した。中央党のフェーレンバッハ首相は退陣し、中央党左派のヨーゼフ・ヴィルトが首相となり、賠償支払いに応じたが、右派は批判した。1921年10月に連合国はオーバーシュレージエンの4分の1をポーランド帰属と断定したが、そこは鉱工業が集中していたためドイツは反発した。1921年は物価が急激に上昇し、食料品は大戦末期の8倍、1922年には130倍となり、1923年にはハイパーインフレーションとなった。

1922年1月、ヴィルト首相は賠償支払いの不可能を宣言した。同年2月1日、ユダヤ人のヴァルター・ラーテナウが外務大臣就任を要請され、周囲は就任は危険だと説得したが彼は承諾した。4月、ドイツがロシアのボルシェビキ政権を国際的に初めて承認する一方でロシアが賠償権を放棄するというラパッロ条約を締結すると、戦勝国側からもドイツ保守層からも怒りを買い、ドイツ民族防衛同盟(シュッツ・トゥルッツ・ブント)はラーテナウを一番の祖国の敵だとした。6月24日にラーテナウ外相はコンスルに暗殺された。暗殺の首謀者エルヴィン・ケルンは「ラーテナウの血は永久に隔てられてあるべきものを、もはや和解不能なまでに隔てなければならない」と述べた。暗殺翌日の大学でのラーテナウ追悼集会は反対デモで中止となり、1922年9月のライプツィヒ大学での集会で、共和派ドイツ人は忠誠心を持たないと決議された。

この他1922年にはドイツ国家人民党の右翼が分離してドイツ民族自由党を結成した。

ドイツ青年運動、ワンダーフォーゲル運動の思想家ハンス・ブリューアーは、男性同性愛を擁護して、フェミニストを批判する反ユダヤ主義者であった。ブリューアーは『男性同盟の原理としてのエロスの役割』(1919)、『ドイツ帝国:ユダヤと社会主義』(1920)を発表後、『ユダヤ人の分離』(1922)で第一次世界大戦の敗戦以来ドイツ人はユダヤ精神から軽蔑されていることを知っているため「背後の一突き」を作り話として否定しても無駄であり、たとえ10万人のユダヤ人が祖国のために犠牲になったとしてもこうした事態は変わらないし、ユダヤ人問題はドイツの政治問題の核心となっていると論じた。ただし、ブリューアーはシオニストのブーバーやランダウアーには敬意を払っていた。1933年には宗教史学者ハンス・ヨアヒム・シュープスと『イスラエルを巡る闘争』を発表した。シュープスはドイツ革命でのホーエンツォレルン家追放にドイツの悲劇を見たシュペングラーの「プロイセン主義と社会主義」に影響を受けていた。

1923年1月11日、フランスとベルギーが木材賠償の支払いが遅れているという理由でルールを占領した。ドイツ国民は社民党から国家人民党まで怒りが広がり、反フランス「国民統一戦線」が成立した。ヒトラーは同日、フランスに占領された責任はマルクス主義、民主主義、議会主義、国際主義の背後にいるユダヤ人にあると演説した。3月31日にはフランス軍の銃撃でクルップ社の13人の労働者が死亡し、41人が負傷した。フランスとドイツの交渉が膠着したことでルール地方を事実上失ったドイツは石炭を外国から輸入せざるをえなくなり、またルール地方の企業支援のために通貨を無制限に発行し、5月には1ドル=15000マルク、11月には1ドル=4兆2000億マルクと下落し、ハイパーインフレーションが進行し、貨幣マルクはパピエルマルク(紙くずマルク)と呼ばれた。

バイエルン・ミュンヘン一揆

1923年夏、バイエルン州政府は、中央政府がルールでの「消極的抵抗」を中止したことをドイツへの裏切りとして非常事態を宣言し戒厳令が敷かれ、フォン・カールを州総監に任命して全権を委任した。シュトレーゼマン中央政府も大統領緊急令で対抗したが、バイエルンはバイエルン駐在軍を州軍として編成し、州司令官ロッソウをバイエルン軍司令官として任命し、バイエルンは独立国家の様相を呈した。ただし、カールはナチ党を抑えようとしたため、ナチ党は反発を強めた。さらにライン地方も中央政府からの分離運動を開始し、共産党・コミンテルンも中央政府をファシズムとして批判した。

コミンテルンはドイツ共産党に武装革命を指示し、共産党は1923年10月23日にハンブルクで武装蜂起して党員24人と警官17人が死亡、ザクセンでは軍とデモ隊の衝突で23人の死者、31人の負傷者が出て、鎮圧され、各州で共産党は非合法化された。共産党による反乱に対して、ナチ党は自分たちも行動しなければナチ党支持者が共産党に転向することを恐れた。

バイエルン首相カール・警察長官ザイサー・バイエルン軍司令官ロッソウの三巨頭は、ナチ党とルーデンドルフを外してベルリンでナショナリスト独裁政府を樹立する計画を持っていた。1923年11月初頭、ザイサーがベルリンで陸軍最高司令官ゼークトとクーデター計画の交渉をするが、ゼークトは拒絶した。これに対してナチ党とルーデンドルフを中心とした闘争連盟(Kampfbund)もベルリンへの進軍を計画した。ヒトラーはカールが会合に現れなかったためクーデターを決心、11月8日カールの集会に武装したナチ党が乱入し、ヒトラーは聴衆に向かって、ロッソウは国防大臣、ザイサーは警察大臣、カールは州摂政に任命し「ベルリンのユダヤ人政府」を標的とするミュンヘン新政府を樹立すると宣言した。ヒトラーは「今夜、ドイツ革命がはじまる」と宣言し、群衆は賛同の声にどよめいた。しかし、バイエルン軍も州警察も一揆に協力はせず、翌9日ヒトラーたちの行進に対して銃撃戦がはじまり、一揆勢力14人、警官4人が死亡し、こうしてミュンヘン一揆は一日で鎮圧された。ナチ党は禁止されたが、三巨頭も翌年に失脚した。

ヴィルヘルム・マルクス内閣では授権法(全権委任法)が与えられ、公務員40万人を解雇するなど大幅な予算削減を行った。

1920年代の思潮

1923年にはアルフレート・ローゼンベルクが『シオン賢者の議定書』を翻訳し、『国家社会主義ドイツ労働者党の本質、原則および目的』も出版した。1924年1月、ローゼンベルクは「大ドイツ民族共同体」を創設した。

メラー・ファン・デン・ブルックはドストエフスキー全集のドイツ語訳を監修し、敗戦後のドイツ人に衝撃的な影響を与えた。ドストエフスキーの第三帝国論に影響を受けて書かれた著書『第三帝国』(1923年)でメラー・ファン・デン・ブルックは「ドイツ的社会主義」による自由主義の除去を主張した。ファン・デン・ブルックはヴェルサイユ条約による講和は平和でなくドイツの奴隷化をもたらしたとし、作家トーマス・マンも同様の見方をしていた。ファン・デン・ブルックは、ドイツに押しつけられているイギリスやフランスの自由主義は強者の論理であり、自由主義における個人の強調はドイツの伝統的な共同体を崩壊させるし、また議会制や政党政治は国民の意志を反映できないと批判し、ドイツとロシアの「東方」の青年と資本主義的で唯物主義的な「西方」の青年とを対置してマルクス主義の終焉後に出発するドイツ的社会主義の課題は自由主義の痕跡をすべて除去することにあるとした。メラー・ファン・デン・ブルックのサークルには、ナチスのオットー・シュトラッサーも加入していた。

当時文学研究者だったヨーゼフ・ゲッベルスは、ドストエフスキーの影響を強く受けており、ゲッベルスによればドストエフスキーは「西欧に対する憎悪が彼の魂を焼き尽くしてしまうがゆえに書く」のであり「我々は彼の後についていく」とドストエフスキーの弟子を自認した。ゲッベルスは劇作家ヴィルヘルム・フォン・シュッツに関する博士論文(1921年)の扉に、ドストエフスキーの小説『悪霊』から、理知と科学は第二義的なものにすぎず、国民は「命令したり、主宰したりする力」によって生長しており「この力こそ最後の果てまで行き着こうとする、渇望の力であって、同時に最後の果てを否定する力だ」という文章を引用していた。ゲッベルスはユダヤ人教授フリードリヒ・グンドルフを尊敬し、グループに加入しようとしたが断られた。また小説『ミヒャエル・フォーアマン』をユダヤ系出版社ウルシュタインやモッセに送ったが拒否された。ゲッベルスの小説『ミヒャエル』(1924-29)では「政治的奇跡はナショナルなもののなかでしか起こらない」「民族の奇跡は頭脳のなかにあるものではなく、血のなかにある」と論じたり、キリストはユダヤ商人を鞭で神殿から追い出すように「峻厳にして仮借ない」とした。1925年にナチスに入党したゲッベルスはヒトラーをキリストとみなした。

1919年にミュンヘンに帰国したルーデンドルフは、ユダヤ人は戦時中はドイツを裏切った戦争受益者であり、ドイツはユダヤ民族によって売り渡されたと主張した。ルーデンドルフはオーバーラント団、国旗団、ナチ党と1923年にミュンヘン一揆を起こしたが、精神状態が重度の疲弊状態にあるとして無罪放免になったあと、1924年に国家社会主義自由運動の国会議員となった。ルーデンドルフの妻マティルデは神秘主義者であり、その影響でルーデンドルフは共産主義で飾りたてたユダヤ人と、フリーメイソンの秘教主義に根ざすローマ・カトリックの「超=民族的な秘密権力」について述べるようになり、フリーメイソンによってキリスト教徒が「人工的なユダヤ人」に造り替えられているとして、週刊誌『民族監視所』も創刊した。ルーデンドルフは1925年ドイツ大統領選挙に出馬したが得票数最低で落選し、1926年には超国家的権力と戦うためにタンネンベルク団を結成し、大統領となったヒンデンブルクやヒトラーをドイツへの裏切り者とした。晩年のルーデンドルフはユダヤ人がキリスト教を通じてドイツ民族を破壊していると論じたり、ナチスの立法はユダヤ人とローマのプロパガンダに梃入れするものと批判した。

文学者アードルフ・バルテルスは、ドイツ文学史のなかでドイツ人とユダヤ人を区別し、第三帝国期にドイツ的著作物の「浄化」のための指導者とみなされた。バルテルスは『ユダヤ人とドイツ文学』(1912) 『なぜわたしはユダヤ人と闘うのか』 (1919) などでユダヤ化されたドイツ文学を救済すると論じ、主著『ドイツ文学史』(1924-28年,3巻)はドイツの教養書となった。1926年ヒトラーはバルテルスを訪問し、1937年5月にはドイツ帝国の最高勲章であった「鷲の紋章」が授与され、80才の誕生日には最前衛の闘士のみに贈られる黄金紋章が授与されナチ党名誉会員になるが、入党はしなかった。

1924年1月、ドイツ経済の破壊なしに賠償支払いを円滑にするドーズ案が出され、8月に連合国とドイツは了承した。国際環境の好転によって12月総選挙ではナチ党も共産党も後退した。しかし、国内では右翼、左翼の準軍事組織の結成が相次いだ。1924年2月、社民党系の「黒赤金国旗団」が310万を擁し、夏には共産党系の赤色戦線闘士同盟が結成され10万の勢力となった。ナチ党の突撃隊、鉄兜団、ドイツ民主党系の青年ドイツ騎士団などが展開した。1924年4月のバイエルン州選挙、および5月の国会選挙で民族ブロックが第一党となった。

ミュンヘン一揆で収監されたヒトラーは支持者からのプレゼントや賛辞であふれ、来客も絶え間なく訪れ、法廷で演説すると歓声が沸いた。1924年4月の判決では禁錮5年と200金マルクの罰金にとどまり、警官の犠牲や社民党事務所の破壊、14兆6050億マルクの強奪などの責任は問われなかった。ヒトラーは獄中で『我が闘争』を執筆、1925年から1926年にかけて出版し「全能の造物主の精神において」「私はユダヤ人を防ぎ、主の御業のために戦う」と宣言した。ヒトラーによれば、寄生的存在であるユダヤ人は有害なバチルス菌のようにどこまでも広がっていき、定着した先で宿主の民族を消滅させる。ユダヤ人は平等と労働者の条件の改善を主張しているが、その目的はユダヤ人以外のすべての民族を奴隷にして絶滅させることにあり、黒髪のユダヤ人は若い娘を奪ったり、ライン川にニグロを連れてくるなどあらゆる手段を用いて混血による退化をもたらし白色人種を滅ぼそうとしている。人類のプロメテウスであり、輝く額から神々しい天才のひらめきによって文化を創造したアーリア人が絶滅すれば地上は深い闇につつまれ、人類の文化は消え失せ、世界は荒廃するだろうと述べた。またアーリア文化を「ギリシア精神とゲルマン的テクノロジー」の総合であるとし、ドイツ国民経済から株式取引所資本を排除することでドイツ経済はユダヤの国際支配に抵抗できるとした。830年頃にバイエルン方言で筆写された『ムースピリ』では、最後の審判の前にエリヤと反キリストが戦い、両者のたらす血によって世界が業火に包まれ破壊される様子が描かれるが、ヒトラーは『ムースピリ』や、ワーグナーの『神々の黄昏』といった黙示録的終末論を信奉していた。

1925年2月、禁止処分が解除されたためナチ党が再結成され、新規約では「ドイツ国民の最大の敵はユダヤ人とマルクス主義」とされた。2月27日の党集会は盛会となった。27年までナチは公の場での意見表明は禁じられたが、1926年7月のヴァイマル党大会では演説が許可され、親衛隊(SS)も初めて姿をあらわし、推定8000人の参加者は熱烈にヒトラーを歓迎した。

エーベルト大統領が死去したため行われた1925年の大統領選挙では与党ヴァイマル連合(社民党・中央党・民主党)は中央党のヴィルヘルム・マルクスを、一方、国家人民党ら右派は戦時英雄ヒンデンブルクを担ぎ、ヒンデンブルクが勝利した。ヒンデンブルクは穏健な統治をすすめ、右翼過激派から批判されるほどであった。ヒンデンブルクは1925年末ロカルノ条約を締結し、国際連盟への加盟を実現させ、これによりヨーロッパの国際政治は安定したが、ソ連はロカルノ体制を警戒した。

1927年、第四次マルクス内閣は失業保険制度など失業政策を実現させた。1927年3月、ナチスはバイエルンで演説禁止が解かれたが、聴衆の数は減少していき、勢力は伸びなかった。ドイツ経済も回復し、アメリカ文化が浸透するなか、1928年5月の国会選挙でナチ党の得票率はわずか2.6%にとどまり、社民党が第一党として躍進し、国家国民党も後退した。選挙で惨敗したナチ党は結束を強めた。

ゲッベルス1929年1月21日に党紙「攻撃」で「否定的なユダヤ人は、ドイツ民族の責任において消し去らなければならない」と主張した。

他方、ワイマール時代には国内のシオニズム運動も盛んになり、ヴァンダリング、青年スポーツ団体バルコフバ、シオニスト連合が結成され、東欧ユダヤ人のアメリカ、パレスチナ移住の援助を行った。これらはユダヤ人の国際的結託として右翼から憎悪された。ユダヤ人青年団体「青と白連盟」(1907設立)は1920年代に4万人以上の会員を持った。また、ユダヤ人はメディアでも活躍し、新聞のフランクフルト新聞、ベルリナー・ターゲブラット、フォシッシェ新聞、ウィーン日刊紙、ベルリン市民紙、南ドイツ日刊紙などは全てユダヤ人によるもので、雑誌のヴェルトビューネ、ファッケル、ノイエメルクァー、ノイエ・ルンドシャウもユダヤ人が編集主宰した。ドイツユダヤ人は世界のユダヤ人をリードし、シオニズムやパレスチナ、イスラエル建国でも主導的な役割を演じた。

世界恐慌とナチスの台頭

1929年10月、米国市場が暴落し世界恐慌が起こった。ドイツ国家人民党は1929年、ユダヤ人の入党を取りやめる。なお、党の院内総務R.G.クヴァーツは半ユダヤ人だった。 1929年12月のテューリンゲン州選挙でナチ党は11.3%を獲得し6議席を得て連立政権に加入、内相と文相に就任した

1929年、エルンスト・ユンガーはドイツ民族に内在する形態と美という理想は、ユダヤ的形姿を排除するとした。哲学者ルートヴィヒ・クラーゲスは『魂の対抗者としての精神』(1929)で保守革命の立場から科学的合理性に対して精巧な攻撃をし。機械は生を破壊するが、生を創造することはできないと機械文明やテクノロジーを批判した。ドイツ社会民主党にいたエルンスト・ニーキッシュ (Ernst Niekisch)はナショナルボルシェヴィズムを主張し、生に敵対的なテクノロジーを批判した

1930年3月、ヒンデンブルク大統領は賠償を緩和するヤング案に署名したが、国家人民党、鉄兜団や全国農村連盟、ナチ党はヤング案は「ドイツ国民の奴隷化」だとして反発し、ナチ党は過激な行動で一挙に名をあげた。1930年5月、フランスのブリアン首相がヨーロッパを統一する計画を発表すると、ドイツは現状固定化になると反発した。9月の国会選挙でナチ党は650万票を獲得して、107議席の第二党となった。第一党の社会民主党は後退し、ドイツ国家人民党、ドイツ人民党は票を減らし、共産党は支持を伸ばした。選挙期間中にナチ党支持の国軍ウルム駐屯地の士官3人が軍事クーデターを計画していたという嫌疑で国家反逆罪に問われた裁判でヒトラーはナチズムは合法的に権力を奪取し、ナチ政権下の憲法裁判では「1918年11月の罪」(ドイツ革命のこと)が問われるだろうと法廷で述べ、傍聴人から歓声があがった。1930年10月5日のブリューニング首相との会談でヒトラーは「共産党、社民党、フランス、ロシアを絶滅させる」と語った。

1931年3月、ドイツはヴェルサイユ条約で禁止されたオーストリアとの関税同盟を発表した。しかし、1931年5月にオーストリア最大の銀行クレディートアンシュタルト(ロスチャイルド家創立)が破綻すると、金融危機がはじまった。ドイツ=オーストリア関税同盟を非難していたフランスはクレディートアンシュタルトへの借款を拒否し、同盟の成立を阻止した。アメリカなど諸外国の資本はドイツから撤退し、続けて大手紡績会社が倒産すると主力銀行の一つダナート銀行が破産したため、ドイツ政府は7月に金融機関に休業を命じた。しかし、恐慌は加速し、1931年末には失業者は600万人近くにのぼり、1932年にはホームレスが40万人、失業率は約30%となった。労働組合の行動力は低下し、就業者と失業者の溝が深まり、鉄兜団は国粋政府樹立をとなえた。

ラインハルト・ヴレ『北方人の使命』(1931)で「罪の汚れのないドイツ人は貴族であり、その祖先は農民である」とした。

1932年4月の大統領選挙に際して、ブリューニングとヒトラーはヒンデンブルク大統領の続投を目指して交渉し、ブリューニングはナチ党を弱めようとし、ヒトラーはブリューニングの罷免を条件に支持すると交渉したが、ヒンデンブルクは拒否した。ヒトラーは出馬しなければ支持者を失うとおそれ立候補した。ヒンデンブルクは社民党や中央党の支持を得て53%の票を獲得し、ヒトラーも37%の1300万以上の票を獲得した。同時期の1932年4月州議会選挙ではブリューニング首相と国防相グレーナーによってナチ突撃隊と親衛隊の活動が禁じられたが、左翼の準軍事組織が適用外であったのでナチスは当局は偏っていると批判した。州議会選挙では、プロイセンとアンハルト州においてナチ党は第一党となった。

ヒンデンブルク大統領側近のクルト・フォン・シュライヒャー将軍は軍とナチ党による政権を計画しており、ブリューニング倒閣運動を展開した。1932年5月、国防相グレーナーの国会演説中で騒ぎがおき、シュライヒャー将軍が軍の支持は失ったと告げるとグレーナーは辞任した。5月29日、ヒンデンブルクが辞任を求めると即座にブリューニングは辞任した。同日午後、ヒンデンブルクはヒトラーと会談し、突撃隊禁令の撤回などが約束された。続けてシュライヒャー将軍は旧友フランツ・フォン・パーペンに打診し、パーペンを首相とした「男爵内閣」が6月1日に成立した。ヒンデンブルク大統領は国会を解散し、総選挙が7月31日に行われることになった。

5月から6月にかけてナチ党はオルデンブルク州、メクレンブルク=シュヴェリーン州、ヘッセン州で44〜49%の得票率を記録し、突撃隊と親衛隊の禁令も解除された。6月から7月にかけてドイツ各地でナチ党員と共産党員による衝突と殺人事件が多発し、相互に犠牲者を出していった。7月17日、プロイセン州アルトナでの血の日曜日事件では突撃隊のパレードに対して共産党員が発砲し、17人が死亡、64人が負傷した。社会民主党の牙城であるプロイセン州では、社民党のオットー・ブラウンが州首相を務めていたが、パーペン内閣は血の日曜日事件の責任などを理由に、ブラウン州首相を解任し、パーペンがプロイセン総督となった。社民党は抵抗できなかった。

1932年7月ドイツ国会選挙では国家社会主義ドイツ労働者党が第一党となり、議席数230となった。ヒトラーは自分を首相とする内閣改造案をシュライヒャー将軍に打診したが、ヒンデンブルク大統領は拒絶した。またヒトラーも副首相としての入閣提案を拒絶した。会談で、ヒンデンブルクは「異なる考え方をもつ者に対してこれほど寛容ではない党」に政権を渡すことはできないし、テロ行為には厳しく対応すると回答し、ヒトラーは怒りで爆発寸前だった。折しもパーペン内閣が8月9日に発効させた対テロ闘争緊急令によって、シュレージエンのポテンパ村での突撃隊による共産党員の殺害事件に対して死刑判決が出された。ナチ党は「血の判決」だと非難したため、パーペンは政治的判断で減刑に応じた。ナチ党は対テロ闘争緊急令をマルクス主義に対するものと考えて歓迎しており、フェルキッシャー・ベオバハター紙はナチ政権での緊急令では共産党と社民党幹部は逮捕され、強制収容所に収容されると論じていた。

9月12日の本会議で共産党議員トルグラーがパーペン内閣不信任案を提出した。賛成512、反対42の圧倒的多数で不信任案が可決され、パーペン内閣を信任したのはドイツ国家人民党とドイツ人民党だけだった。次回選挙は11月6日に定められた。前回の選挙で資金を使い果たしたナチ党にとっては厳しい選挙戦となり、大多数のメディアはナチ党に敵対的で、ナチ党はラジオの利用も許されなかった。選挙期間中、ナチ党は保守主義者パーペンを攻撃し、またベルリン交通労働省のストライキを共産党と一緒に支持したことなどから、ナチ党を共産主義・社会主義とみなすイメージが中産階級の間で広まった。

1932年、プロイセン保健局は経済悪化による福祉削減のため断種法案を提出した。法案に先立って刑法学者ビンディングと精神科医ホッヘは『生きるに値しない生命の根絶の許容』(1920)で不治の者や不治の痴呆者の安楽死の合法化を主張し、また遺伝学者バウアー、フィッシャー、レンツは1923年に民族衛生のために安楽死や断種によって劣等遺伝子を排除することを主張していた。レンツは障害児を養育することは、古代スパルタでの障害児遺棄よりも非人道的とした。プロイセン断種法案はヒトラー内閣成立によって廃案となったが、ナチ政権下の1933年7月14日に遺伝病子孫予防法が成立し、精神遅滞などの「遺伝病」者と重度のアルコール中毒者の断種が合法化された。また、プロイセン司法大臣ハンス・ケルルは、ナチズム刑法草案(1933)で安楽死の合法化を主張したが、1935年帝国司法大臣フランツ・ギュルトナーは、教会からの反発、民意の未熟、また「民族共同体」への攻撃と見なされること、すでに成立している遺伝病子孫予防法による断種政策などを理由に反対した。

ナチスの時代(1933年 - 1945年)

1932年11月ドイツ国会選挙でナチ党は第一党は確保したが、前回比200万票を減らし議席数も230から196に減った。支持を伸ばしたのは共産党とドイツ国家人民党だった。ヒンデンブルク大統領は変わらずヒトラーを嫌っていた。

1932年12月1日、ヒンデンブルク・シュライヒャー・パーペンの三者会談で、シュライヒャーは自分を中心とする内閣を提案し、一方のヒンデンブルクはお気に入りのパーペンに組閣を依頼したが、シュライヒャーは非常事態を宣言して憲法違反を犯す計画がなされてしまえば内戦になることは避けられないし、ストライキと混乱が起きると軍は国境を防衛できないと大統領に忠告したため、大統領は不承不承ながらシュライヒャーを首相に任命した。シュライヒャーはヒトラーに協力を求めたが拒絶されたため、ヒトラーの右腕で現実的穏健派だったグレゴール・シュトラッサーに副首相として入閣を打診した。しかし、ヒトラーらがシュトラッサーを非難すると、シュトラッサーは党の全役職を辞任し、ナチ党は結党以来最大の分裂の危機を迎えた。ヒトラー、ゲッベルス、レーム、ヒムラーらは、シュトラッサーの作った組織を廃止して、大管区指導者をヒトラーが直接指導する体制を作り上げ、党内ではヒトラー支持のキャンペーンが実施された。シュトラッサーは1934年の長いナイフの夜でレームと一緒に殺害された。12月初頭のテューリンゲン州の町村議会選挙でナチ党は壊滅的な結果に終わった。

パーペンはシュライヒャーに政権を追われたことから、自分を副首相とすればヒトラーの首相就任に働きかけるとヒトラーに提案し合意した。シュライヒャー首相は輸入関税に消極的であるとして農村同盟から闘争を宣言され、さらにドイツ国家人民党からも抵抗を宣言されたため、1933年1月28日に内閣総辞職した。パーペンによる閣僚リストでは外相ノイラート、財務相クロージク、運輸郵政相リューベナハはシュライヒャー内閣からの引き継ぎで、プロイセン内相にゲーリング、経済相に国家人民党アルフレート・フーゲンベルクだった。ヒトラーはパーペンを副首相とすることを認めたため、ヒンデンブルクもヒトラー内閣を承認した。懸念に対してパーペンは「われわれはヒトラーを雇ったのだ」と語り、またヒトラーの就任に反対した鉄兜団に対してフーゲンベルクはヒトラーの封じ込めは可能だと反論した。ヒトラーは選挙後に大統領の同意に頼らないようにするための全権委任法を通すとパーペンに伝え、頻繁な国会選挙を望まないパーペンとヒンデンブルクも了承した。

こうして1933年1月30日、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)、ドイツ国家人民党、鉄兜団の連立内閣ヒトラー内閣が誕生した。副首相にドイツ国家人民党のパーペンが就任した。ヒンデンブルク大統領は国民的右翼勢力が遂に結束したことを歓迎した。ヒトラーはその日の夕方、閣僚に対して、共産党を禁止すればゼネストとなり軍の動員となるがそれは避けたい、最善の策は国会を解散し次の選挙で政府が過半数をとることだと主張した。パーペンとヒンデンブルクは国民による承認の必要性ということから選挙を承認した。選挙にあたってヒトラーは、パーペン内閣が準備していた「ドイツ国民を防衛するための大統領緊急令」を発効させ、メディアや集会を押さえ込むために活用された。2月1日、ヒトラーはラジオ演説で、1919年のドイツ革命以来14年間、共産主義によってドイツ国民は汚染され、このままではドイツは崩壊すると警告し、経済政策によって苦境を克服すると述べた。

2月27日、元オランダ共産党のルッベが国会議事堂に放火するドイツ国会議事堂放火事件が発生した。放火は単独犯だったが、ナチ党は共産党による組織的暴動とみなし大弾圧を開始、4月までにプロイセンだけで約2万5000人が拘禁された。2月28日「国民と国家の保護のための大統領緊急令」を出し言論と集会の自由を制限し、秩序回復のためには州自治権よりも政府の干渉権が優先するとされた。こうしたヒトラー内閣の強硬策は各地で「ドイツの天敵であるボリシェヴィズムへの対決」として歓迎され、1933年3月ドイツ国会選挙でナチ党は288議席を獲得した。ただし、一方で社民党と共産党も議席を伸ばしてもいる。

大統領の意志に左右されることを忌避したヒトラーは1933年3月23日に授権法の一種である「国民および国家の苦境除去のための法(全権委任法)」を成立させた。この法案に対して社会民主党は批判したが、他の保守派は左翼を撲滅したいと願っていたため賛同した。

ユダヤ人政策

反ユダヤ主義はナチス・ドイツの国策の一つとなった。ヒトラーはドイツの戦いはパスツールやコッホによる細菌との戦いと同じ性質であるとした。また第三帝国では「アーリア性」や「ゲルマン性」よりも、金髪の長頭人種の「北方性」が人気になった。

1933年3月、ユダヤ人が所有するデパートを敵視する「営業中間層闘争同盟」がドイツ各地でユダヤ人に対する襲撃や強盗などの暴行を繰り返した。これに対してユダヤ人知識層はアメリカなど海外から反ドイツ世論を喚起し、ドイツ商品ボイコット運動を始め、さらにこれに反発してドイツでユダヤ人商店やデパートへのボイコットが展開した。ヒトラーは「外国による扇動」を企んだ者に対して対処するとして、3月28日には首相命によるユダヤ人企業、商店、医師、弁護士へのボイコットを実現するための党声明が出された。イギリス、フランス、アメリカ政府とドイツ政府との交渉でユダヤ人による反ドイツボイコット運動も抑えられ、4月5日のボイコットではナチ党員のプラカードを無視して買い物をする市民も多かった。

1933年4月7日、ユダヤ人と政治的敵対者を官吏から排除する「職業官吏再建法」が制定された。同じ頃、法曹界、病院、学校でユダヤ人を制限する反ユダヤ法が制定された。1933年4月から5月にかけてドイツ学生協会(ドイツ学生会)がルターに因んだ12条論題を出して、1817年のヴァルトブルク祭に合わせて非ドイツ的な書物が焚書された。この5月10日の焚書はゲッベルスの発案とされてきたが、ライヴァルの国民社会主義ドイツ学生連盟を出し抜くためにドイツ学生会が発案したものである。ゲッベルスは5月10日の焚書演説でユダヤ人が支配してきた知性偏重の時代は終わり、ドイツの革命によってドイツの自由が獲得されるのだと述べた。

5月1日は社会主義インターナショナルの祭典の日であったが、ゲッベルスはこれを「国民労働の日」というイベントにする計画を立て、ヒトラーは50万人の聴衆を前に階級分断をやめて民族共同体として団結する必要性を訴え、ナチスに共感していない者でさえも感動した。その翌日、突撃隊とナチ企業細胞組織は労働組合の財産を接収して、幹部は逮捕された。5月10日には新たな労組としてロベルト・ライ率いる「ドイツ労働戦線」が成立した。5月26日には共産主義者の財産を没収する法律が定められた。社会民主党の支持も急速に失われていき、3月から4月にかけて準軍事組織の国旗団は解散し、党支部も閉鎖された。一部の亡命者が6月18日にプラハで機関誌を発行すると、ドイツでの社会民主党の活動は禁止され、党の資金も没収された。6月26日、フーゲンベルクはロンドン会議において首相や閣僚への相談なしに、ドイツの植民地返還と東欧植民地獲得を主張した責任をとって辞任した。諸政党はナチ党に吸収されたり、解散していった。6月27日にドイツ国民戦線(ドイツ国家人民党)が、6月28日に国家党(旧ドイツ民主党)が、6月29日にドイツ人民党が、7月4日にバイエルン人民党が解散し、鉄兜団も突撃隊に組み込まれた。7月5日にナチ党以外の最後の政党であった中央党も解散した。一週間後の政党新設禁止法で、ナチ党による一党独裁体制が確立した。

一方、1933年5月にユダヤ文化を守るためにユダヤ人文化同盟が創立し、会員は5万人以上となり、1938年に解散させられるまで美術展、コンサート、演劇、オペラ、講演会を実行した。

詩人ゴットフリート・ベンはヴァイマル共和国の自由とは「堕落の自由」であったとしてナチズムを支持し「わが民族の道が拓ける」と述べた。ハイデガーやカール・シュミット、ユリウス・ペーターゼンはナチスを支持し、エルンスト・ベルトラムは「生に敵対する合理性、破壊的な啓蒙主義」への闘争に敗北すれば、白人世界は終焉し、害虫のはびこる世界となるとした。ヒトラーを嫌った作家トーマス・マンも4月1日のボイコットの後の4月10日「法曹界からのユダヤ人追放は不幸なできごととはいえない」と日記に書いた。

ナチ党は文化創造力を持つアーリア人種も混血によって「劣等な血」が混じれば退化するので アーリアの「血」を守らねばならないとした。

1934年7月、オーストリア・ナチス党員がクーデターを計画し、エンゲルベルト・ドルフース首相を暗殺したが、クーデターは未遂に終わった。当時のオーストリアでの経営者がユダヤ系である割合は、銀行、出版界、広告業、百貨店は75%、鉄鋼流通は100%、セルフサービス食堂は94%であった。

1935年夏、ミュンヘンで反ユダヤデモ隊が暴徒化したことに市民が怒り、密かにデモを扇動していたバイエルン内相アドルフ・ヴァーグナーは「テロ」の責任を厳しく非難せざるをえなくなった。ベルリンではユダヤ人が反ユダヤ映画に抗議したことに反発したナチの暴徒がユダヤ人を襲撃したことに市民が怒り、警察長官マグヌス・フォン・レヴェツォウは免職となったナチ党は反ユダヤ政策をとっていたが非合法な手段での襲撃を戒めており、8月8日にヒトラーは「個別行動」の禁止を命じ、20日には反ユダヤ犯罪行為を行った者を厳罰に処すと明言した。ナチ党内において暴行を行う急進派と、法治主義を優先すべきとする保守派との間で対立があり「人種汚染」に対する厳しい反ユダヤ法の制定を保守派は望んでいた。急進派のシュトライヒャーはユダヤ人と性交渉したアーリア人女性は二度と純粋アーリア人を産めなくなるので、ユダヤ人とアーリア人との通婚は人種汚染であるとして禁止するよう機関紙で主張していた。

1935年9月15日、国旗法、ドイツ人の血と名誉を守る法、公民法(帝国市民法)の三法案 (ニュルンベルク法)が可決した。国会演説でヒトラーは首相就任以来初めて「ユダヤ人問題」に触れた。ドイツで反ユダヤボイコットが行われる責任は国外のユダヤ人にあるとし、ボルシエヴィキの扇動も、ニューヨークで港湾労働者が汽船ブレーメン号からドイツ国旗を引き下ろしたのも、すべてユダヤ分子の責任である。こうした国際的混乱が、ドイツ国内のユダヤ人を扇動して組織的な挑発行動をとっており、(突撃隊などのナチ急進派の)「怒れる人々」による統御不能な「防衛行動」の問題なども解決させるには、法的に規制するしかない。政府は一度にすべてを解決するためにドイツ国民とユダヤ人とが相互に許容できる関係を築き上げる基盤としてこの法を提案する。しかし、それでもなお、国際的扇動が続くようであれば、最終的解決の段階に移ると弁じた。同時にヒトラーはユダヤ人への野蛮な攻撃である「個別行動」を抑制するよう命じた。こうした外交上の配慮からなる「妥協策」に対して、ナチ急進派は法案に不満だった。ドイツ国公民法(帝国市民法)ではユダヤ人と「ドイツの血を宿すアーリア人」との婚姻および性交渉が禁止された。しかし、純粋なユダヤ人以外の混血に関する「ユダヤ人」の定義に時間がかかり、11月になって、祖父母のうち2人がユダヤ人で2人がアーリア人の「2分の1ユダヤ人」については、ユダヤ教徒である場合、ユダヤ教徒と結婚している場合、ユダヤ教徒の配偶者との子である場合、ユダヤ人とアーリア人の婚外子である場合に「ユダヤ人」とみなされるとされた。また、1935年には親衛隊保安部(SD)のユダヤ人問題を専門とする第4部B4局長にアドルフ・アイヒマンが就任した。ニュルンベルク法によってユダヤ人問題が「合法的に解決」したことによってその後二年間は、ユダヤ人問題は政治の中心からは外れた。たとえば1936年2月にスイスのナチ党幹部ヴィルヘルム・グストルフがユダヤ人青年に暗殺された時も「個別行動」は禁じられたため、報復はなされなかった。

1938年3月13日、ドイツによってオーストリアが併合された。併合をウィーン市民は熱狂的に歓迎し、カトリック教会会議はドイツ軍の実力行使を希望の実現として祝い、プロテスタント教会は奇跡の到来と祝った。ナチス統治下のオーストリアでもユダヤ人は弾圧され、3月28日にユダヤ教団体は公法団体として取り消された。1938年10月、親衛隊によってポーランド系ユダヤ人をポーランドとの国境地帯に移送した。

11月7日、パリでポーランド系ユダヤ人の男娼グリュンシュパンがドイツ人外交官ラートを暗殺した。犯行動機はラートが同性愛の相手をする見返りとしてドイツ再入国を許可するという約束を守らなかったために起こったが、ナチスはこれを公表しなかった。二日後の11月9日に反ユダヤ暴動「水晶の夜」がドイツ各地で発生し、数十箇所のシナゴーグが焼き打され、ユダヤ人商店数100軒が略奪破壊された。ナチス当局はユダヤ人共同体に外交官暗殺の賠償金として10億マルクを課した。同時に2万以上のユダヤ人が強制収容所へ送られた。また経済界からのユダヤ人資本の排除、経営の解体も進行した(アーリア化)。

1939年1月30日、ヒトラー総統は国会で「国際的な金融資本のユダヤ人が、もう一度諸国民を新たな世界大戦に投げ込んだならば、地球のボリシェビキ化とユダヤ人の勝利をもたらすのではなく、ヨーロッパにおけるユダヤ人種の絶滅という結果をもたらすことになるだろう」と演説した。

1939年8月23日、オーバーザルツベルクの山荘でオーロラを目撃したヒトラーは流血の前兆だと語った。9月1日にドイツ軍と同盟軍のスロバキア軍がポーランド侵攻を開始した(第二次世界大戦)。ポーランドの制圧に成功したドイツは、現地のユダヤ人をゲットーに隔離し、強制労働を課した。 大戦直後の1939年秋から、ナチスは「生きるに値しない生命の除去」を目的として精神障害者などの安楽死政策 (T4作戦)を実行した。

1940年6月にフランスがドイツに降伏した。ドイツ占領下のフランスにおいてドイツ当局はフランスが自発的に反ユダヤ主義政策を開始することを望んだ。占領下フランスではユダヤ人の弁別作業が困難を極め「非アーリア人(ユダヤ人)」登録は自己申告として課された。占領初期にはユダヤ人を狙って強請りや詐欺が頻発した。1940年夏、外国籍ユダヤ人がギュルス強制収容所、リヴザルト、レセベドゥー収容所に連行された(フランスの強制収容所)。1941年5月から8月にかけて、SD第4部B4局指揮下のパリ警察はポーランド、チェコスロバキア国籍のユダヤ人を拘束し、ロワレ県のフランス憲兵隊が収容所に連行した。25000人の対象者のうち半数が数人の官吏やレジスタンスによって危機を逃れたが、9000人が引き渡された。1941年12月、パリSD第4部B4局はフランス籍ユダヤ人を拘束し、ロワイヤリュー収容所に移送した。1943年春にスターリングラードでドイツ軍が敗退すると、フランス行政・警察は非協力的な態度が一般化した。

ドイツ占領下のオランダでは、1941年2月に最初のユダヤ人検挙が行われたが、港湾労働者のストライキが抗議の意味で行われた。しかし、オランダのユダヤ人はその4分の3が殺害された。

強制収容所

1941年3月、ヒトラーがユダヤ人と共産主義者の絶滅を命じた。

6月、ドイツはバルバロッサ作戦によってソ連侵攻を開始した。SS長官ヒムラーは共産主義者とユダヤ人の除去を目的として、アインザッツグルッペンを編成した。アインザッツグルッペンは軍事制圧が完了すると、人種別の住民登録を行い、ユダヤ人は外縁部で銃殺された。しかし、大量銃殺は兵士に精神的重圧をもたらし、またレースラー少佐や帝国弁務官ローゼはユダヤ人の大量銃殺に抗議した。やがてドイツ占領化のロシアやユーゴスラヴィアでは、トラックの排気口からの一酸化炭素を車内に送り込むガストラックが導入された。

また、ヒムラーは同6月にSS中佐ルドルフ・フェルディナント・ヘスにアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の建設を命じた。ヘスは陸軍の消毒剤ツィクロンBの使用を考案し、死体焼却炉も建設した。ヘスは「人道的な配慮」から、収容者に害虫駆除の処置を受けると思わせるよう、カポに脱衣場で自分の衣服の番号を覚えておくように言い渡し、また砂石でできた石鹸を収容者に渡した。フランス、ハンガリー、ポーランドのユダヤ人、ジプシーが収容されたアウシュヴィッツでは、ユダヤ人医者、化学者、音楽家は保護され、オーケストラも組織された。1944年10月6日、死体焼却炉のユダヤ人作業部隊が、ウニオーン弾薬工場で働いていた女性ユダヤ人が持ち帰った爆薬を集めて作った小さなダイナマイトによって死体焼却炉三号機を爆破し、4人のSS隊員を殺害した。ジプシーは人種的には「アーリア人」だったが「非社会的存在」であったため、2万人が収容された。ヘスはジプシーを気に入り「家族収容所」を特設したが、1944年夏にヒムラーがジプシー全員の処分を命じた。

1941年10月-11月、ドイツのユダヤ人7万人が東方移送されるが輸送の故障で数ヶ月休止された。ユダヤ人はウッチ、リガ、ベラルーシのミンスク・ゲットーに収容された。ミンスクでは、ベラルーシ総弁務官のヴィルヘルム・クーべが収容者にはアーリア人が含まれていると友人ローゼに憤慨しているが、1942年7月28・29日に約1万人のユダヤ人が殺害された。

1941年12月、ポーランドで最初の絶滅収容所ヘウムノ強制収容所が作動した。ヘウムノのガス室は可動式荷台で、一度に40人ずつガス殺害し、死体は近隣の森に処分され、犠牲者は15万から25万とされる。

1942年1月20日のヴァンゼー会議でラインハルト・ハイドリヒ警察大将は「ヨーロッパのドイツ勢力圏におけるユダヤ人問題の全面的解決のために組織的及び実務的及び物質的観点からみて必要なあらゆる準備を行う」こと、および「ユダヤ人問題の最終的解決を実行するための組織的・実際的・物質的準備措置に関する全体的計画」を委任されたと宣言し、ボヘミアとモラヴィア保護領を含め帝国領からユダヤ人は一掃され、東方で労働奉仕を行うが自然淘汰されるだろう、生き残りについてはしかるべき処理すると述べた。また「アーリアの血」混入割合については、プロイセン貴族が富裕ユダヤ人と婚姻関係を結んできた歴史もあり、ドイツ有力者のなかにもユダヤ人の祖父母を有する者が多数存在したため、会議に出席していたヴィルヘルム・シュトゥッカート内務省次官はセム化50%以上の混血者も生かして、避妊処置を施すという案を出し、ヨーゼフ・ビューラーポーランド総督府代表はポーランドは「感染の中心源」なので優先してほしいと提言した。

1942年3月にベウジェツ強制収容所、同5月にソビボル強制収容所、同7月にトレブリンカ強制収容所の三大絶滅収容所が作動開始した。三大絶滅収容所はポーランド地区親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボツニクが管轄し、ウクライナの補佐役集団の下、大量殺害が遂行された。収容者は建前上「労働収容所」また「ユダヤ自治領」に移送されることになっており、収容所には「自治区入り口」「シナゴーグ」といった標識が掲げられていた。ユダヤ人の衣類は、ドイツ人の貧民層に配布されるために回収された。ベウジェツではガス室が6つあり、一日に5千人を処理できた。ソビボルではユダヤ人が反乱を起こして、数人の看守を殺害した。ユダヤ人、ロシア人戦争捕虜を含めて犠牲者は25万人とされる。トレブリンカにはガス室が10数個あり、ユダヤ人犠牲者は70万人とされる。

マイダネク収容所は労働キャンプだったが、1942年夏にガス室が設置され、ツィクロンBも使われ、犠牲者は12万5千人とされていた、最新の調査では、マイダネクの死亡者は相当少ない事が判明しており、(ニュルンベルク裁判時はマイダネクだけで150万人が殺害されたと検察側は主張していた)2023年12月現在の時点で7万8千人程度(ユダヤ人は6万人程度)と大幅に下方修正して推定されている。マイダネクはニュルンベルク裁判時から約95パーセント減っている。テレージエンシュタット強制収容所には過去の功績が認められたユダヤ人が収容され、国際赤十字社の視察団に公開して、人道的な扱いをしていると印象づけるために用いられた。ヒムラーは1943年10月にSS指導者を前に、諸君は死体の山積みを見てきたが、いくつかの弱い例外を除いて「皆、まともな人間であり続けた」「これによってわれわれは屈強なる人間になった」と述べた。

ドイツと同盟したブルガリアは総人口5万人の内2万人をドイツに引き渡したが、政治家や聖職者によって抗議され一部しか実行されなかった。ドイツ占領下のギリシャでもユダヤ人は収容所に送られた。ルーマニアには70万人のユダヤ人がいたが、旧ルーマニア王国領内のユダヤ人は保護された一方で、1918年に併合されたベッサラビア州とブコビナ州のユダヤ人30万人は占領下ソヴィエト内のトランスニストリアに移動され、ポグロムの犠牲となった。ハンガリーでは1938年、厳格な反ユダヤ法が導入されたが、ホルティ提督はドイツの内政交渉を嫌った。1944年3月、ドイツのハンガリー統治が始まり、アイヒマンが現地入りした。1944年4月から6月にかけて45万人のユダヤ人が移送され、7月にはブダペストのユダヤ人20万人が移送予定だったが、連合軍のノルマンディー上陸によって実現されなかった。

オトマル・フォン・フェアシューアは1943年に「ドイツの人種帝国の最高指導者」のヒトラーについて「遺伝生物学および優生学のデータから国家の行動の指導原理をつくった最初の政治家」と称賛した。

神学者カール・バルトはナチスを批判したが、1944年7月に「われわれは概してユダヤ人が好きではない。それゆえに人類への普遍的な愛を彼らに傾けることは容易ではない」と講演で述べた。

計画されたが実現されなかったものとしては、スラブ人政策やユダヤ人をマダガスカル島に移送するマダガスカル計画などがある。スラブ人政策については、ポーランド占領直後の1939年11月に東部占領担当官アルファート・ヴェッツェル博士は、ポーランドの非ドイツ人をゲルマン化するために、組合、クラブ、ポーランド料理店、カフェ、劇場、映画館を閉鎖し、ポーランド語新聞や書物、ラジオの禁止を計画し、さらに1942年4月にロシアには「原始的なヨーロッパ亜種」しか受け入れないし、ドイツ人とは隔離して支配するとした。司法相オットー・ティーラックは、ゲルマン的類型を示す人間以外のポーランド人とロシア人は純粋単純に絶滅させると意図した。また、17歳から45歳までのイギリス人男性を全員大陸に移住させる計画や、フランスに対してはブルゴーニュとブルターニュを保護国として切り離し残りを「ガリア」として「15世紀の国境線」を再現すると計画した。これはフランス革命への憎悪のためとされる。

こうしてナチスによる「ユダヤ人問題の最終的解決」を目的としたユダヤ人政策によって、ヨーロッパの各地のユダヤ人が絶滅収容所等で大量虐殺の被害にあった。これは「ホロコースト」と呼ばれている。

1945年3月19日、ヒトラーはドイツの軍事施設の破壊を命じ、シュペーアに「よきものは滅びる運命にある」と述べた。

イタリア

ムッソリーニは1936年にはヒトラーのユダヤ政策を鼻であしらっていた。しかし1938年になると、ナチスと連携を深めたイタリアでは科学者グループが、ユダヤ人はアーリア人種に属さないと声明。当時、ファシスト党の属したユダヤ人は約7000人いたが、この声明以降、入党も禁止され、公職追放、財産没収、外国籍ユダヤ人の国外退去などの政策がとられた。1939年の鋼鉄協約以降、反ユダヤ法制が導入されたが、ムッソリーニ政権下でユダヤ人が収容所に送られることはなかった。また、ギリシア南部、クロアチア、フランス南東部をイタリアが占領した時には、ユダヤ人を組織的に救済した。しかし、1943年7月にイタリア敗戦が決定的となってムッソリーニは失脚、ピエトロ・バドリオがイタリア王国首相となった。ムッソリーニを救出したドイツ軍は9月23日にイタリア社会共和国を宣言し、ムッソリーニを元首とした。イタリア社会共和国でSD第4部B4局はユダヤ人検挙を行った。

オランダ

1907年、オランダの民族学者ステインメッツは「戦争がなければ、すべての人がユダヤ人のように悪賢く、冷酷で、卑劣になる」と述べた。

日本

歴史上、日本ではおおむね反ユダヤ的な主張とは縁がなかった。1918年のシベリア出兵で日本軍は白軍経由で『シオン賢者の議定書』を知り、1920年代以降は樋口艶之助や陸軍の安江仙弘や四王天延孝中将、海軍の犬塚惟重などが紹介し、外務省等と「ユダヤの陰謀」の研究を行った。同時にフリーメイソンの陰謀を説く『マッソン結社の陰謀』という小冊子が持ち込まれ、1923年に全国の中学校校長会に配布された。一方、吉野作造、厨川白村、新見吉次、八太徳三、満川亀太郎らは陰謀論を批判した。

また、日本が1930年代後半から1940年代にかけて日独防共協定や日独伊三国同盟を締結し、ドイツと同盟関係になってからは新聞でも反ユダヤ的報道がなされるようになり、経済学者黒正巌は大阪毎日新聞で「国民を利子の奴隷より解放しようとするならば、当然にユダヤ人を排斥せざるを得ない」とドイツの政策を称賛した。一方で日ユ同祖論も展開された。1936年には貴族院議員赤池濃を中心に国際政経学会が結成され、『国際秘密力の研究』や『猶太研究』が発行された。

しかし1937年12月に第1回極東ユダヤ人大会が満州国で開催された際に、この席で日本陸軍の樋口季一郎陸軍少将は、前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国であるドイツの反ユダヤ政策を激しく批判する祝辞を行い「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と言い、列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。これを知ったドイツのリッベントロップ外相は、駐日ドイツ特命全権大使を通じてすぐさま抗議したが、上司に当たる関東軍参謀長東條英機が樋口を擁護し、ドイツ側もそれ以上の強硬な態度に出なかったため、事無きを得た。

さらに1938年には五相会議でユダヤ難民の移住計画である「河豚計画」が日本政府の方針として決まり、『外務省ユダヤ難民取り扱い規則』が発せられた。さらに同年起きたオトポール事件では樋口季一郎陸軍少将による数千人のユダヤ人の亡命が実現された。同年に在カウナス領事代理杉原千畝が多くのユダヤ難民にビザを発給した。12月には猶太人対策要綱が出され、日満支のユダヤ人を公正に扱うこととされた。

しかし第二次世界大戦中の1944年1月26日の第84回帝国議会では、四王天延孝議員の質問に対して安藤紀三郎内相、岡部長景文相、天羽英二内閣情報局総裁らはドイツに偏った反ユダヤ主義的回答を行った。大阪毎日新聞は「国際思想戦とユダヤ問題講演会」などを開催したり、連合国指導者を「ユダヤ民族の総帥」としたり、白鳥敏夫、大串兎代夫、大場彌平、長谷川泰造などの執筆陣で反ユダヤ的論説を掲載した。

また作家山中峯太郎は『少年倶楽部』で連載した小説『大東の鉄人』で日本滅亡を画策する「ユダヤ人秘密結社シオン同盟」を登場させ、また海野十三や北村小松らも同種の小説を書いた。宗教界ではキリスト教伝道者酒井勝軍、法華宗系の田中智學や禅僧の安谷白雲らが反ユダヤ的発言を行った。

現代

パレスチナ問題と反シオニズム・反イスラエル

1944年、過激派シオニストによってイギリス中東大臣ウォルター・ギネス ・モイン卿が暗殺された。第二次世界大戦後の1946年7月22日には過激派シオニストイルグンによってキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件が起こり、91名の死者を出した。1948年9月17日には過激派レヒによって国連特使フォルケ・ベルナドッテ伯が暗殺された。

1947年11月に国際連合でパレスチナ分割決議が採択されると、アラブ側は反発し、パレスチナ内戦が始まった。1948年4月にはデイル・ヤシーン事件やハダサー医療従事者虐殺事件が起きた。1948年5月14日にイギリスが委任統治を終了すると、同時にイスラエルが独立を宣言した。翌日、中東戦争が勃発した。当初はアラブ軍優勢であったが、イスラエル側は国防軍を編成して反攻し、1949年7月の停戦までにパレスチナの大部分をイスラエルが獲得した。その後も1956年に第二次中東戦争、1967年に第三次中東戦争、1973年の第四次中東戦争が起こった。

1980年代にイスラエルはゴラン高原併合、レバノン侵攻、1987年の第1次インティファーダ弾圧などを実施していったが、こうした軍事行動に対する国際的な批判に対してイスラエルは「シオニズム批判は反ユダヤ主義である」と反論して内外の言論人を脅かした。

イスラエル人とパレスチナ人との紛争は続き、2000年の第2次インティファーダ、2006年のガザ侵攻、2008年のガザ紛争、2014年のガザ侵攻が起こった。2014年のガザ侵攻に際しては、学校なども攻撃対象にして市民を巻き込む作戦も実行するイスラエルに対してアメリカ政府も非難した。また、欧米でイスラエルを批判するデモなどが発生し、フランスでは2014年7月13日のデモでイスラエル支持派と反イスラエル派が衝突しており、7月20日のデモではパリのユダヤ人地区で反ユダヤ主義的な主張が起こった。ドイツでは7月後半にユダヤ人への軽蔑やシナゴーク批判が発生し、火炎瓶の投げ込みも起こっており、7月末のオランダでも反ユダヤ主義を煽るデモが起こった。また、ペネロペ・クルスやハビエル・バルデムなどの俳優や映画監督など数十人は、イスラエル軍のパレスチナ人大量虐殺を批判、停戦を求める書簡に署名した。この時、ジョン・ヴォイトは「今回のような行動は、世界中で反ユダヤ主義をあおりかねない」とコメントし、中東問題に関して行動を慎むよう警告した。このヴォイトの発言に、署名したバルデムは「私たちは悲惨で痛ましい戦争を心から憎むと同じように、反ユダヤ主義を嫌悪している」と反論した。

2016年12月24日には国連がイスラエルのパレスチナ自治区内入植活動を非難する決議を採択した。イスラエルのダノン国連代表は、ユダヤ人の心である首都エルサレムでの住居の建設を非難する行為であり、フランス人がパリに、アメリカ人がワシントンに住居を建設するのは禁止するのかと反発した。

ドイツ

1946年、ニュルンベルク裁判でユリウス・シュトライヒャーは「もしルターが生きていたなら、必ずや本日、私の代わりにこの被告席に座っていた」と述べた。

1949年、元ドイツ国防軍のオットー・エルンスト・レーマーとフリッツ・ドールスが西ドイツでドイツ社会主義帝国党を結成し、フレンスブルク政府を正統政府としてドイツ連邦共和国はアメリカの傀儡政権とみなし、1951年にはニーダーザクセン州選挙で11%の得票があったが、翌年に「ネオナチ組織」として解散を命じられた。

1952年のドイツの世論調査では、ヒトラーについて国民の24%が肯定的に評価した。ナチ党で最も評価が高かったのはカール・デーニッツで46%、次にゲーリングが国民の37%が肯定的に評価し、ヒトラーは第三位の人気があった。また国民の44%がドイツ国民の全階級と全利益を代表する強力な単一政党を望んでいると回答した。

1960年に歴史家のゴーロ・マンは、第二次世界大戦後のドイツ連邦共和国でドイツ人の大多数がヴァイマール共和制の時代よりも安心しているのは、現実としてユダヤ人が少なくなったことになんらかの関わりがあると述べた。1962年に哲学者ショーレムは、ドイツ人とユダヤ人の対話は歴史として存在しなかったし、メンデルゾーンの弟子たちがいう「共生」は空虚な叫びにすぎないと批判した。

1964年、元ナチス党武装親衛隊ヴァルデマル・シュッツがドイツ国家民主党を創設し、党は現在も活動している。1971年にはドイツ民族同盟(Deutsche Volksunion)が結成された。

キリスト教社会同盟党首フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスは、経済で偉業をなしとげたドイツ国民はもはやアウシュヴィッツでとやかく言われずに済ませる権利があると1969年に発言し、1977年にはドイツの過去を何かにつけて引き合いに出すのは止めにしてもらいたいし、イスラエルを含めて近隣諸国から何か言われる筋合いはないと発言した。

1983年、元ナチス党武装親衛隊のフランツ・シェーンフーバーらがドイツ共和党をミュンヘンで創設したが、シェーンフーバーは「国家社会主義国家は法の支配と矛盾するし、人種主義とファシズムはドイツに恐ろしい破局をもたらした」とナチスを批判した。

1991年1月の南ドイツ新聞の調査では、好感を持てる国としてイスラエルは最下位であった。1992年1月のデア・シュピーゲル・エムニート世論研究所の世論調査では、国民の62%が戦時中のユダヤ人迫害を話題にするのはそろそろ止めるべきだと答えた。1992–93年には、旧東ドイツのネオナチの若者がトルコ人移民や、ユダヤ人墓地を襲撃した。

ギリシャ経済危機と欧州債務危機を背景に2013年にドイツのための選択肢(オルタナティブ・フュア・ドイッチュラント,AfD)が創設され、反EU、反イスラーム、難民政策批判などを主張した。AfD党員には反ユダヤ主義的発言をする者もおり、AfD党テューリンゲン州代表ビョルン・ヘッケ州議会議員はホロコースト慰霊碑を「恥の記念碑」と批判、またヒトラーは絶対悪ではないと発言した。これに対して世界ユダヤ人会議会長ロナルド・ローダーはAfD党を「ドイツの恥」と批判した。フラウケ・ペトリーAfD党首(当時)はホロコースト慰霊碑には賛否両論があると述べ、ユダヤ人中央評議会の前代表クノブロッホは反ユダヤ主義的だと批判した。AfD党は、2016年元日に発生した難民集団によるケルン集団性暴行事件をきっかけに支持され、2017年9月の連邦議会選挙では94議席を獲得して第3党となった。2018年にはドイツキリスト教民主同盟のアンネグレート・クランプ=カレンバウアーがAfD党の反ユダヤ主義を批判した。

2018年にはユダヤ教徒の帽子キッパを被った二名が襲撃され、ユダヤ人中央評議会はキッパを着用しないよう呼びかけた一方で、ユダヤ人フォーラムは着用して闘うべきだと述べた。メルケル首相は右翼だけでなく、イスラム教徒の難民にも反ユダヤ主義があると述べた。ドイツではイスラム系からの反ユダヤ主義も高まっており特に難民の増加した2015年ごろから攻撃が増えている。

1989年以降ドイツでは旧ソビエト連邦からのユダヤ人移民が増加し、それまで3万人だったユダヤ人人口は2018年には20万人を超えるにいたった。

オーストリア

オーストリア社会党首で初のユダヤ人オーストリア首相ブルーノ・クライスキーはラジカルにシオニズムを批判する左翼であるだけでなく「ユダヤ人が人間だとすれば、吐気を催す類の人間だ」とも述べる反ユダヤ主義者であった。

オーストリアの作家トーマス・ベルンハルトの1988年の戯曲『英雄広場』では、作中人物(シュスター教授)がユダヤ人嫌いはオーストリア人の持って生まれた本性というセリフがある。

フランス

第二次世界大戦後になると、戦時中に反ユダヤ主義的発言を繰り返したジョルジュ・ベルナノスはユダヤ人によるワルシャワ・ゲットー蜂起を称賛し、アクション・フランセーズのモーニェも戦後はユダヤ人の名誉を論じた。

『ジャン・クリストフ』や『チボー家の人々』などでのユダヤ人の容貌に対する紋切り型のイメージは、サルトルの反ユダヤ主義を批判した『ユダヤ人』(1946年)においても受け継がれ「鷲鼻」「唇が厚い」などと描写された。またサルトルの同書では「ユダヤ人は、人間のうちで、最もおだやかな人々である」とされた。ポリアコフはこの本が書かれた1946年では「ユダヤ人について、良きにつけ悪しきにつけ誇張を述べずに済ませることは困難だった」と述べている。

精神分析家ジャック・ラカンは『精神分析の四基本概念』(1963-4)で、レオン・ブロワの『ユダヤ人による救い』を引用して、フロイトを「得体の知れぬ頭陀袋を囲んで古物売買というあのユダヤ的職業」における選別作業になぞらえた。メールマンによれば、ブロワに影響を受けたラカンが精神分析で果たした役割は、ブロワが反ユダヤ主義の伝統で果たした役割と同様のものである。

1979年3月、パリのユダヤ人学生寮の食堂で爆弾テロがあり、負傷者30人に及んだ。同年9月、ユダヤ系極左活動家で武装強盗を繰り返していたピエール・ゴルドマンが路上で射殺された。1980年10月3日にもコペルニク街のシナゴーグで爆弾テロがあり、死者4人、負傷者20人の犠牲者を出した。レイモン・バール首相は犠牲者を「罪のないフランス人」と「シナゴーグに通うイスラリエット」と分け、失言として批判された。

1982年8月9日、パリのユダヤ人街の中心部のロジエ街のユダヤ料理レストラン、ジョー・ゴルデンベルグに手榴弾が投げ入れられ、死者6人、負傷者22人となった。

1983年以降、ジャン=マリー・ル・ペンの国民戦線が急速に伸びを示す。ルペンは1987年9月に「ガス室の存否問題は些事」と発言した。ルペンは、ユダヤ人以外にも黒人、アラブ人などの外国人の流入に反対した。

1987年に逮捕された極左組織アクシオン・ディレクトのマックス・フレロ(Max Frérot)は裁判でユダヤに占領されたパレスチナや、ユダヤ人のロビー活動を批判した。また、左翼的カトリック思想家で雑誌『エスプリ』編集長のジャン=マリー・ドムナックはユダヤ人作家エリ・ヴィーゼルに対して「アウシュヴィッツの配当金をせしめるような挙」とし「一部のユダヤ人がジェノサイドの唯一絶対性を独り占めしようとしている」と批判した。

1990年5月10日、カルパントラのユダヤ人墓地陵辱事件では、遺体が掘り起こされ、串刺しにされた。前日にはテレビで国民戦線のル・ペンがユダヤ人を批判していた。

1990年、フランス共産党議員ジャン=クロード・ゲソによって「人種差別・反セム主義・排外主義行為抑止法(ゲソ法)」が成立した。ルペンらはゲソ法を「法的差別」と抗議し、また人種差別について研究する哲学者ドラカンパーニュも歴史問題を解決するのに司法に頼る以外に方策はないという印象を一般に与えることは果たして得策であったかと述べた。

1991年4月7日、フランスのエコロジー運動の指導者ジャン・ブリエールはイスラエルとシオニストのロビー活動が戦争を誘発していると書いた。

2015年1月9日のパリで発生したユダヤ食品店人質事件では、ISILに感化された犯人が犯行の際に店の客らに向かって「お前たちはユダヤ人だから全て殺す」と発言した。

イギリス

作家ジョージ・オーウェルは、ナチスのユダヤ人虐殺が報道されて以降の1945年2月の「イギリスにおける反ユダヤ主義」では「反ユダヤ的感情を自認するくらいなら、いっそ死んだほうがまし、などと言いたがる人々の多くは、反ユダヤ的になりがちな傾向を胸に秘めている」とし、反ユダヤ主義について書かれたものの大半がだめなのは、筆者が自分は汚染されていないと想定しているためであり、筆者内面の調査ができなくなっていると論じ、パブリック・スクールでユダヤ人生徒は必ずひどい目に会ったし、ユダヤ人であることは一種の身体障害であったと述べている。また、ドイツ軍捕虜収容所で、訊問を担当しているウィーン出身のユダヤ人案内役が、元親衛隊将校を「豚野郎」と叫んで蹴飛ばしているのを目撃したオーウェルは、復讐は「子供じみた白昼夢」であり、残虐行為をせずにはいられないサディストの少数派だけが、戦争犯罪人や反逆者を追い詰めることに熱中すると論じた。

サルトル『ユダヤ人』(1946)への書評でオーウェルは「反ユダヤ主義者」は各階級に分散して多種多様であるのに、サルトルは一見して見分けのつく肉体的外見を備えた人物として描いているが、これはユダヤ人も一見して見分けがつくといわんばかりであり、またユダヤ人の同化志向を否定してユダヤ人は民族出自を重視すべきだとする箇所は反ユダヤ主義的であると批判した。

オーウェルの小説『1984年』(1949)では、ユダヤ人で人民の敵のゴールドスタインを顔も声も羊そっくりで「生まれつきいやらしい顔」とし、またユダヤ人による地下陰謀組織を描き、ユダヤ人を危険なものと描いた。オーウェルはアイルランド民族主義運動を批判したが、ユダヤ民族主義運動のシオニズムも批判し、特にモイン卿やベルナドッテ伯の暗殺事件やキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件、ベルナドッテ伯暗殺などの過激派シオニストによるテロリズムを批判していた。ユダヤ人作家アーサー・ケストラーやジャーナリストのマッガリッジによれば、オーウェルは内心では反ユダヤ的であった。

労働党左派には反シオニズムの傾向があるといわれ、同党員ナズ・シャー下院議員はイスラエルを米国に移動させれば問題解決すると述べ、元ロンドン市長で同党員ケン・リビングストンは1932年のヒトラーはユダヤ人はイスラエルに引っ越すべきだと述べるシオニストだったと発言し、労働党は二人の党員資格を停止した。ジェレミー・コービン労働党党首は、古い反ユダヤ主義は19世紀ドイツの社会主義者アウグスト・ベーベルなどに見られるようにユダヤ人資本家が労働者を搾取しているという種類のものだが、現代の反ユダヤ主義はイスラエル政府批判と一体になっていると述べ、労働党では反ユダヤ主義にはゼロ・トレランス(非寛容)で処すると2018年に述べた。

アメリカ

小説家ウィリアム・スタイロンは『ソフィーの選択』(1979)で、ナチスのガス室で処刑されたのはユダヤ人以外にも100万人の非ユダヤ人がいて「ホロコーストに関するユダヤ人のまったく独占的な考え方」を弱点とする対話があり、アウシュビッツを理解することは誰にもできないと論じた。エリ・ヴィーゼルは、スタイロンが「アウシュビッツの意味が分かるのは、アウシュビッツの生存者だけだ」として犠牲者よりも迫害者を「人間」として描いたことを批判したが、スタイロンは迫害者も人間であったからあのような恐るべきことができたと反論した。「ソフィーの選択」映画化に際しては、ヴィーゼルの「想像不可能なことを想像できるのか」という批判をのぞけば、ユダヤ人からも絶賛された。

アメリカ政府周辺にはイスラエル・ロビーが活躍しているとされ、親イスラエル外交をアメリカ合衆国は行っていると指摘されているが、近年はそうしたロビー活動はアメリカとイスラエル双方にとっても有益ではないとする批判も出てきている。

2018年10月27日、ペンシルベニア州スクイレルヒルのユダヤ教会シナゴーグで「全てのユダヤ人は死ね」と叫びながら銃を乱射した事件が発生し、11人が死亡した(ピッツバーグ・シナゴーグ銃撃事件)。

ブラックナショナリズム

ユダヤ系新保守主義者のノーマン・ポドレッツやアーヴィング・クリストルらが大学での黒人への優遇措置に反対したことで、黒人側から反発を買い、ユダヤ人と黒人が対立した。

黒人作家ジェイムズ・ボールドウィンは、ハーレムでのユダヤ人家主やユダヤ人商人を批判して「ユダヤ人は、ずっと以前にキリスト教徒から任された役割をハーレムで果たしつつある」と論じ、ハーレムでユダヤ人が目の仇とされるのは白人と同じ振る舞いをするからだとした。

ユダヤ系作家バーナード・マラマッドは「天使レヴィーン」(1958)で黒人とユダヤ人の融和を描いたが、『借家人』(1971)では、ブラックナショナリズムの黒人作家志望者とユダヤ人作家が殺し合い、ともに相果てる。同じくユダヤ系のソール・ベローの『サムラー氏の惑星』(1974)では、知識人のユダヤ人と、ペニスを誇示する獣性に満ちた黒人スリとが対置された。

ユダヤ人と対立したアメリカの黒人運動では、イスラエル弾劾とアラブ支援路線が強化された。ブラックナショナリズムのネーション・オブ・イスラムを指導するルイス・ファラカーン(Louis Farrakhan)は反ユダヤ的発言を繰り返し、1985年には「ユダヤ人をオーブンに入れたのは神だ」と述べて、名誉毀損防止同盟から批判された。また新ブラックパンサー党も反ユダヤ主義的な発言を繰り返している。

ソ連・ロシア

第二次世界大戦後のスターリン政権

ユダヤ人は革命や戦争で重要な役割を果たしたが、反ユダヤ主義を先鋭化させていったスターリン政権下の1940-50年代初頭には責任あるポストに一人のユダヤ人も任命されなかった。

第二次世界大戦後の1946年、ユダヤ系の作家エレンブルクとグロスマンは戦中のユダヤ人の悲劇を『黒書』として印刷したが、刊行を差し止められた。

1948年1月、ユダヤ自治州ビロビジャンでユダヤ人反ファシスト委員会議長ミホエルスが暗殺、11月には委員会も廃止され、12月にはユダヤ人指導者がアメリカのスパイとして告発された。

1953年1月13日、アメリカのユダヤ人組織ジョイントの指示で政治家ジダーノフとシチェルバコフ将軍を暗殺したとして、ユダヤ人医師たちが逮捕され、マスコミでは「シオニストの犯罪」としてキャンペーンが繰り広げられるという医師団陰謀事件が発生した。歴史家ゲレルは、この事件はスターリンによるユダヤ人政策の第一幕であり、最終的にはユダヤ人を東方地域へ強制移送することが計画されていたが、スターリンの死によって実現しなかった。

フルシチョフ政権

スターリンに続いてフルシチョフ書記長も反ユダヤ主義者であり、フルシチョフはユダヤ人が高い地位につくと住民から悪く見られるとし、ユダヤ人の昇進を遠ざけるなど、反ユダヤ主義的な政策をとり、ソ連では非ユダヤ民族は適性を有しているが、ユダヤ人の否定的な精神には付ける薬がなく、ユダヤ共同体の存続には懐疑的であると発言した。

ユダヤ系の作家パステルナークは当局から「個人主義的である」として出版が阻まれ、1958年にノーベル賞を受賞するとソ連作家同盟から除名され、パステルナークからソ連国籍を剥奪する運動が起こされた。

1959年10月、戦中にナチスによって3万人以上のユダヤ人が犠牲となったバビ・ヤールでスタジアム建設が計画されると、作家ネクラーソフが抗議し、1961年には詩人エフトゥシェンコが『バビ・ヤール』を書いたが、ソ連当局から弾劾された。1962年にショスタコーヴィチが交響曲第13番でバビ・ヤールを扱うと、当局は物々しく警備し、報道も規制された。エフトゥシェンコが当局の対応を批判すると、1963年にフルシチョフは「ファシストが犯した犯罪の犠牲者がもっぱらユダヤ人だけだったとなりかねない」と返答した。

1962年、イギリスの哲学者ラッセルがモーリヤックやユダヤ人哲学者ブーバーの支持を得て、フルシチョフ体制下のユダヤ人迫害に抗議した。フルシチョフ体制下では「経済的犯罪」「社会的寄生罪」という罪状で多くのユダヤ人が告発されていた。その跳ね返りとして、ソ連では、反イスラエルのキャンペーンが繰り広げられ、アイヒマン裁判はイスラエルとドイツの共同謀議であり、シオニズムはナチズムになぞらえられた。

1963年、ユダヤ系の詩人ブロツキーは祖国を裏切ったとして告発され、5年間の懲役刑を宣告されたが、ブレジネフによって大赦を得て、のちにアメリカに移住した。フルシチョフは反ユダヤ主義を学問へと押し上げようとして、1963年に出版されたトロフィム・キチェコの著書『素顔のユダヤ教』を支援した。キチェコの著書には、イスラエル兵がナチスの鉤十字やプロイセンの鉄兜を被ったカリカチュアが掲載され、ユダヤ部族は自分たちが動物の子孫であると考え、またカナーンに侵入した後、カナーンの住民を皆殺しにしたと書いた。

ソ連崩壊まで

ブレジネフ書記長(任期1964年 – 1982年)の時代になっても、反ユダヤ主義は続いた。1966年、ユダヤ系作家ユーリー・ダニエリはグラグに5年間強制収容され、アンドレイ・シニャフスキーは「アブラム・テルツ」というユダヤ風の筆名でエッセーを刊行したため、7年のグラグ収容が言い渡された。

1967年の6日戦争後、ソ連では反シオニズムキャンペーンが展開し、ユーリー・イヴァノフは著書『シオニズムにご用心』でシオニストとナチスの連携について論じた。

1961年に反体制的であるとして収監されたユダヤ系作家エドゥアルド・クズネツォフは、釈放されると1970年に航空機ハイジャックを起こして死刑を言い渡されるが、国際世論によって刑は軽減された。クズネツォフは獄中で囚人たちがブレジネフ書記長やアンドロポフKGB議長をユダヤ人とみていたことを報告している。クズネツォフは1972年、イスラエルに亡命した。

青年団コムソモールの宣伝部書記であったが一度共産党から追放されたヴァレリー・スクルラートフは1975年に学位論文『シオニズムとアパルトヘイト』を刊行し、1976年に偽書『ヴェーレスの書』でギリシャ人とユダヤ人によって原ロシア人の文明は根こそぎ消失させられたと主張した。

レフ・コルネイエフはショアーの犠牲者はシオニストによって2倍3倍に水増しされたとし、ロベール・フォリソンの後継者を自任した。

1970年代にロシアでの数学界からユダヤ系学者が追放され、熱狂的な反ユダヤ主義者のイワン・マトレヴィチ・ヴィノグラードフとポントリャーギンが支配するようになり、フランスのユダヤ系数学者ローラン・シュヴァルツは抗議した。

1985年、ドミトリー・ヴァシリーエフが創設したロシア愛国主義団体パーミャチは、反ユダヤ主義を公然と掲げ、ロシアはシオニズムの攻撃、タルムードの無神論、コスモポリタニズムの侵略に屈服させられ、富を掠め取られていると主張する。1987年、ヴァレリー・エメリヤーノフは反シオニスト・反フリーメイソン世界戦線を創設した。

アレクシイ2世が1991年にイスラエルを訪問し、反ユダヤ主義を非難すると、同年2月27日雑誌『若き親衛隊』は、ユダヤ人は人類を隷属状態におとしめており、異教徒を根絶やしにする目的でアインシュタインやオッペンハイマーなどのユダヤ人学者は原子爆弾を作り、同じくユダヤ人のテラーは水素爆弾を、サミュエル・コーエンは中性子爆弾を開発したと批判した。また、ニュルンベルク裁判での処刑は10月16日に失効されたが、この日はユダヤ教の休日贖罪の日(ヨム・キプル)であり、ヤハウェの復讐の日であったとした。

ソ連からのユダヤ人の亡命者は1971年に1万3022人、1972年に3万1681人、1973年に3万4733人、1990年から1991年には数十万人が国外へ亡命した。1991年12月、ソビエト連邦の崩壊。

1993年10月、ロシア自由民主党のジリノフスキーは、イスラエルとシオニストは、アメリカと結託してソ連に第二のユダヤ人国家を創設しようとしているとし、またユダヤ人がロシアの新聞を支配していると発言した。

その他の地域

第二次世界大戦後、ホロコースト否認も登場したが、反ユダヤ主義として批判されている。

  • ポーランドでは1968年に、反ユダヤ主義に反対したアダム・ラパツキが解任された。2017年にはポーランドやハンガリーで反ユダヤ主義が蔓延しているとされる。
  • 1979年にヨハネ・パウロ2世はローマ教皇として初めてアウシュヴィッツ強制収容所を訪問し、1983年4月には教皇として初めてローマの大シナゴーグを訪れた。
  • イタリアでは1992年11月にネオファシストがローマの商店街に黄色の星と「シオニストは出て行け」と記したステッカーを貼り付けた。
  • 戦後日本では反イスラエルの日本赤軍が26人を殺害するテルアビブ空港乱射事件を起こしたほか、日ユ同祖論、ユダヤ陰謀論などが度々刊行されている(詳細は日本における反ユダヤ主義)。
  • ジンバブエ共和国大統領ロバート・ムガベは2001年に南アフリカのユダヤ人がジンバブエの産業を支配しようとしており、また織物産業を閉鎖しようと共謀していると非難した。
  • サウジアラビアでは、すべてがユダヤ人のせいにされ、エアコンや蛇口の故障もユダヤ人のせいにされるとアヤーン・ヒルシ・アリは報告している。

地域差

ユダヤ人の迫害についても時代と地域によって大きな差がある。セファルディムのエリアス・カネッティは、オスマン帝国領であったブルガリアからドイツ語圏に移住して初めてヨーロッパのユダヤ人差別の実態を知り「驚いた」と述べている。イスラーム教国でもユダヤ人は二等市民として厳しく差別される存在であったが、ヨーロッパに比べれば比較的自由と権利が保障されていた。

南フランスでは歴史的にユダヤ教徒追放はあったものの、フランス革命前まで南フランス文化の一部として、数々の美しいシナゴーグが建設され、数多くのラビが誕生した。ヴィシー政権下、村ぐるみでユダヤ人を匿った歴史も知られるところである。歴史的に見て、南フランス・ラングドックはある時期までイル・ド・フランスの中央政府の政治とは無縁で、中世にアルビ派・ヴァルド派が弾圧された地域でもあり、ユダヤ教徒を迫害の標的にする必要などなかった、ということが言われるが、中世には南フランスでもユダヤ人に対する迫害があった。14世紀フランスで井戸や泉に毒が入れられたという噂が流れ、多くのハンセン病者とユダヤ人が犯人とされ、火刑に処されたが、これはカルカソンヌでも発生した事件である。

脚注

注釈

出典

参考文献

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  • 永田善久「ヤーコプ・グリムの「フォルク」」『福岡大学人文論叢』第40巻第2号、福岡大学、2008年9月、369-386頁。 
  • 中谷猛「フランス第三共和政(ドレフュス事件前後)の反ユダヤ主義-「国民」=「祖国」=「フランス」のジレンマ」『立命館法學』第6巻、立命館大学、2002年、587-618頁。 
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  • 森田信博「F.L.ヤーンの体育遊戯諭について」『秋田大学教育学部研究紀要 教育科学部門』第41巻、1990年、97-107頁。 
  • 山口和人 (2014年9月1日). “ドイツ公務員制度の諸問題” (PDF). 国立国会図書館. 2014年11月12日閲覧。
  • 山岸喜久治「1848年3月革命とドイツ近代立憲主義の萌芽―混乱からフランクフルト(パウル教会)憲法の制定へ――」『人文社会科学論叢』第23巻、宮城学院女子大学、2014年。 
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  • 山田晟『ドイツ近代憲法史』東京大学出版会、1963年。 
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  • 横山茂雄『聖別された肉体』書誌風の薔薇、1990年。 
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  • 渡部重美「18世紀末ドイツ文学・文化の様相 : フリードリヒ2世のドイツ文学論を中心に据えた記述の試み」『藝文研究』第81巻、慶應義塾大学藝文学会、2001年12月。 
  • ハンナ・アーレント『全体主義の起源 3』大久保 和郎 , 大島 かおり、みすず書房、1974年12月。 
  • ミシェル・ヴィノック『知識人の時代―バレス/ジッド/サルトル』塚原史・立花英裕・築山和也・久保昭博 訳、紀伊國屋書店、2007年2月。ISBN 978-4314010085。 
  • モーリス・オランデール 著、浜崎設夫 訳『エデンの園の言語 アーリア人とセム人 摂理のカップル』法政大学出版局〈叢書ウニベルシタス〉、1995年。 
  • イアン・カーショー『ヒトラー(上)1889-1936 傲慢』石田勇治監修、川喜田敦子訳、白水社、2016年1月20日。ISBN 978-4560084489。 
  • イマヌエル・カント 著、久保光志 訳『美と崇高との感情性に関する観察』 カント全集2、岩波書店、2000年。 
  • イマヌエル・カント 著、宮島光志 訳『自然地理学』 カント全集16、岩波書店、2001年。 
  • ツヴィ・ギテルマン 著、池田智 訳『ロシア・ソヴィエトのユダヤ人100年の歴史』明石書店、2002年。 
  • カルロ・ギンズブルク『闇の歴史』竹山博英、せりか書房、1992年。 
  • W.E.フォン ケテラー 著、桜井健吾 訳『自由主義、社会主義、キリスト教』晃洋書房、2006年6月。ISBN 978-4771017573。 
  • エリ・ケドゥーリー 著、小林正之、栄田卓弘、奥村大作 訳『ナショナリズム』学文社、2003年9月。 
  • ダニエル・J・ゴールドハーゲン、望田幸男(監訳)『普通のドイツ人とホロコースト』ミネルヴァ書房、2007年11月30日。ISBN 9784623039340。 
  • ノーマン・コーン『ユダヤ人世界征服陰謀の神話―シオン賢者の議定書』内田樹訳、ダイナミックセラーズ、1986年。ISBN 4884932196。 [原著1981年]
  • オスヴァルト・シュペングラー 著、村松正俊 訳『西洋の没落 第2巻 世界史の形態学の素描』五月書房、1987年。ISBN 978-4772700955。 
  • F. シュライエルマッハー 著、高橋 英夫 訳『宗教論―宗教を軽んずる教養人への講話』筑摩書房、1991年11月。ISBN 978-4480013583。 
  • オットー・ダン 著、末川清・高橋秀寿・姫岡とし子 訳『ドイツ国民とナショナリズム 1770‐1990』名古屋大学出版会、1999年12月。ISBN 978-4815803735。 
  • フョードル・ドストエフスキー 著、川端香男里 訳『作家の日記 I』新潮社〈ドストエフスキー全集17巻〉、1979年。 
  • フョードル・ドストエフスキー 著、川端香男里 訳『作家の日記 II』新潮社〈ドストエフスキー全集18巻〉、1980年。 
  • フョードル・ドストエフスキー 著、川端香男里 訳『作家の日記 III』新潮社〈ドストエフスキー全集19巻〉、1980年。 
  • Sigfrid Henry Steinberg 著、成瀬治 訳『三十年戦争』〈ブリタニカ国際百科事典〉1973(1988年改訂)、401-409頁。 
  • ジェフリー・ハーフ『保守革命とモダニズム』中村幹雄、谷口健治、姫岡とし子訳、岩波書店、2010年。ISBN 978-4000271660。 
  • エドゥアルト・フックス『ユダヤ人カリカチュア―風刺画に描かれた「ユダヤ人」』羽田功訳、柏書房、1993年5月。ISBN 978-4760109760。 
  • ロニー・ポチャシャー『トレント1475年―ユダヤ人儀礼殺人の裁判記録』佐々木博光訳、昭和堂、2007年7月。ISBN 978-4812207406。 
  • レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 第1巻 キリストから宮廷ユダヤ人まで』菅野賢治訳、筑摩書房、2005年3月25日。ISBN 978-4480861214。 [原著1955年]
  • レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 第2巻 ムハンマドからマラーノへ』合田正人訳、筑摩書房、2005年8月10日。ISBN 978-4480861221。 [原著1961年]
  • レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 第3巻 ヴォルテールからヴァーグナーまで』菅野賢治訳、筑摩書房、2005年11月25日。ISBN 978-4480861238。 [原著1968年]
  • レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 第4巻 自殺に向かうヨーロッパ』菅野賢治・合田正人監訳、小幡谷友二・高橋博美・宮崎海子訳、筑摩書房、2006年7月。ISBN 978-4480861245。 [原著1977年]
  • レオン・ポリアコフ『反ユダヤ主義の歴史 第5巻 現代の反ユダヤ主義』菅野賢治・合田正人監訳、小幡谷友二・高橋博美・宮崎海子訳、筑摩書房、2007年3月1日。ISBN 978-4480861252。 [原著1994年]
  • レオン・ポリアコフ『アーリア神話―ヨーロッパにおける人種主義と民主主義の源泉』アーリア主義研究会訳、法政大学出版局、1985年8月。ISBN 978-4588001581。 [原著1971年]
  • ヴィクトル・ファリアス『ハイデガーとナチズム』山本尤訳、名古屋大学出版会、1990年。ISBN 9784815801427。 
  • コレルス・J・リュカス『スピノザの生涯と精神』渡辺義雄訳、学樹書院、1996年。ISBN 978-4906502059。 
  • ジェフリー・メールマン『巨匠たちの聖痕 フランスにおける反ユダヤ主義の遺産』内田樹、合田正人、高尾謙史、安田俊介訳、国文社、1987年。 
  • ジョージ・モッセ『ユダヤ人の<ドイツ>』三宅昭良訳、講談社〈選書メチエ〉、1996年。 [原著1985年]
  • ジョージ・モッセ『フェルキッシュ革命 ドイツ民族主義から反ユダヤ主義へ』植村和秀, 城達也, 大川清丈, 野村耕一訳、柏書房、1998年。 
  • E.A.リヴィングストン編『オックスフォードキリスト教辞典』木寺廉太訳、教文館、2017年。ISBN 9784764240414。 
洋書
  • Anthony Julius (2010). Trials of the Diaspora: A History of Anti-Semitism in England. Oxford University Press. ISBN 978-0199297054. https://books.google.co.jp/books/about/Trials_of_the_Diaspora.html?id=BGkSLxDBNTgC&redir_esc=y 
  • Kellogg, Michael (2005), The Russian Roots of Nazism White Émigrés and the Making of National Socialism, 1917–1945, Cambridge University Press, ISBN 978-0521070058 .
  • Jon M. Mikkelsen, ed (2013-8). “Translator’s Introduction : Recent Work on Kant’s Race Theory , The Texts , The Translations”. Kant and the Concept of Race: Late Eighteenth-Century Writings. State University of New York Press. p. 1-20. ISBN 978-1438443614 
  • Charles W. Mills (2005). “Kant's Untermenschen”. In Andrew Valls. Race and Racism in Modern Philosophy. Cornell University Press. p. 169-193 
    • Charles W. Mills , Black Rights/White Wrongs: The Critique of Racial Liberalism, Oxford University Press,2017年収載。
  • Charles W. Mills (2016-7). Herman Cappelen,Tamar Szabo Gendler,John Hawthorn. ed. The Oxford Handbook of Philosophical Methodology. p. 709-732. ISBN 978-0199668779 
  • Pipes, Daniel (1997), Conspiracy: How the Paranoid Style Flourishes and Where It Comes From, The Free Press, Simon & Schuster, ISBN 978-0684871110 

関連文献

  • 佐藤唯行『アメリカのユダヤ人迫害史』集英社新書、2000年。 
  • 鈴木董『オスマン帝国』講談社〈講談社現代新書〉、1992年。ISBN 4-06-149097-4。 
  • 立山良司『揺れるユダヤ人国家』文藝春秋〈文春新書〉、2000年。ISBN 4166600877。 
  • 土井敏邦『アメリカのユダヤ人』岩波新書、2002年。 
  • 野村達朗『ユダヤ移民のニューヨーク』山川出版社、1995年。 
  • 藤原和彦『アラブはなぜユダヤを嫌うのか 中東イスラム世界の反ユダヤ主義』ミルトス、2008年6月。ISBN 978-4-89586-030-7。 
  • ヤン・T・グロス『アウシュヴィッツ後の反ユダヤ主義―ポーランドにおける虐殺事件を糾明する』染谷徹、白水社、2008年。ISBN 978-4-560-02631-1。 
  • C・E・シルバーマン 著、武田尚子 訳『アメリカのユダヤ人』明石書店、1988年。 
  • ジョルジュ・ベンスサン『ショアーの歴史 ユダヤ民族排斥の計画と実行』吉田恒雄訳、白水社〈文庫クセジュ〉、2013年8月。ISBN 978-4-560-50982-1。 
  • ジョーゼフ・W. ベンダースキー『ユダヤ人の脅威―アメリカ軍の反ユダヤ主義』佐野誠・樋上千寿・関根真保・山田皓一訳、風行社、2003年8月。ISBN 4-938662-60-4。 
  • R.L.J.レヴィンジャー 著、邦高忠二、稲田 武彦 訳『アメリカ合衆国とユダヤ人の出会い』創樹社、1997年。 
  • Marc Crapez (2002). L'antisémitisme de gauche au XIXème siècle. Broché. ISBN 2-911289-43-9 

関連項目


Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 反ユダヤ主義 by Wikipedia (Historical)


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