白馬村(はくばむら)は、長野県の北西部に位置する北安曇郡の村である。北アルプスの麓にあり、冬はスキー、夏は登山の観光客が訪れ、避暑地として知られる。単体のスキー場としては国内最大規模の八方尾根スキー場があり、長野オリンピックの会場にもなった。
複数のスキー場を含むリゾート地としての「ハクババレー」は大町市、小谷村を含めた総称である。
村名は富山県と接する白馬連峰の白馬岳(しろうまだけ)に由来する。
かつては白馬岳を含む連峰に名前はなく、「岳」「西山」等々ひとまとめに呼ばれていたが、連峰の万年雪が季節ごとに変化する過程で、山肌の雪形の模様が変化し、代掻き(しろかき) を行う時期に現れる形の一つが、村から見ると馬の形をしていたことから、いつしか「代馬岳(しろうまだけ)」と称された。それがやがて「白馬岳(しろうまだけ)」に変化し、「はくばたけ」と音読されるようになり、麓の村や鉄道駅の名称ともなった。
今日の白馬村の中心地である白馬町の一帯は、糸魚川街道の開通に伴い、集落が築かれた明治時代には固有の名称がなく、地籍名の「平川」、あるいは現在の八方口のかつての呼称・四ツ屋(四ツ家とも)に由来する「四ツ谷」と呼ばれた。明治から大正時代にかけて平川や松川の氾濫が相次いだことから、平川という名が水害を招く要因ではないかと忌避され、四ツ谷の呼び名が年を追って盛んになった。四ツ谷の名称は、昭和以降も使われたが、太平洋戦争によって中断していた国鉄大糸線の中土駅~小滝駅間の開通工事再開によって、新潟県側の平岩に新設される駅の名に白馬の名が推されると、平岩に白馬の名を取られては困ると考えた四ツ谷住民は、区総会によって1954年(昭和29年)6月1日、区名を「白馬町」に変更。町内の駅を「白馬駅」と改称するように国鉄当局に陳情した。1957年(昭和32年)8月15日に大糸線は開通したが、白馬駅の名称はいずれの駅でも使用されず、1968年(昭和43年)になって信濃四ツ谷駅が白馬駅に改称され、今日に至る。
村の西側には標高2,900メートル (m) 前後の山々が連なる後立山連峰、東側には1,500 m前後の小谷山地があり、山塊に挟まれた白馬盆地は南北に細長い形をとっている。
盆地内を姫川がほぼ南北に縦断している。村内で松川、平川などの大きな支流が姫川に合流し、複合扇状地を形成している。
長野市、小谷村、大町市、小川村、富山県黒部市、朝日町と隣接するほか、隣接区間はわずか200 mほどではあるが、新潟県糸魚川市とも接している(道路はないため、登山以外で新潟県との県境を通過することは不可能。また、富山県との県境は地形が険しいため道路がなく、車両による往来は不可能で、最短ルートは糸魚川経由となる)。
夏は冷涼。冬は寒冷で大量の降雪がある「特別豪雪地帯」であることから、スキーを軸とした観光業が盛んである。
年間を通じ冷涼で、豊富な降水に恵まれる。冬に日照が短く、多量の積雪を見る日本海側気候と、通年で気温の日較差が大きい中央高地式気候ならびに大陸性気候の特徴をあわせもつ。ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候(Cfa)に属するが、最寒月の平均気温は氷点下2.8℃であり、湿潤大陸性気候(Dfa)に近い気候となっている。
以下に観測記録を列挙する。
鎌倉時代には佐野坂から現在の小谷村一帯まで含む六条院領の荘園千国荘が成立し、江戸時代には沢渡、佐野、飯田、飯森からなる四ヶ庄(四ヶ条)と呼ばれた。封建時代から松本藩による重税に苦しい生活を強いられてきた地域であった。
今日の白馬村一帯は1882年(明治15年)頃までは田畑や原生林であり、塩の道沿いの平川神社の付近に数戸の家屋のみ知られていた。糸魚川街道の開通が契機となり、街道に沿った新たな宿場町の設立を希望する有志が集まり、1888年(明治21年)末には31戸を数えた。
1975年までは6千人台で推移していた人口は、1980年代前半から増加に転じ、2000年代には、1万人台に迫る勢いであった。2010年代後半では減少に転じている。ただし、2010年代前半より定住外国人の増加が進んでおり、2012年末では総人口に対する割合が3.1パーセントであったのに対し、2017年末時点で7.39パーセントと増加している。
スキー業は明治末期に伝えられたとされ、その後大正、昭和と続いていった。そしてその中で日当たりが悪く雪持ちのよい裏山を開発してスキー場が作られたことによって白馬村においてスキー業は飛躍的に普及した。昭和30年代後半から40年代にかけるスキーブームにおいて村内のスキー場は拡張され、大手資本の進出もこれに拍車をかけ白馬村は一大スキーエリアへと変貌した。主要産業形態もそれまでの水田稲作農業に替わって観光が主産業である観光立村となった。そしてこのスキー村としての変貌は人口減少にも歯止めをかけ逆にペンションブーム到来による都市部からの移住から人口は増加した。そしてそこからインフラも成長していったわけである。
1990年代以降、バブル崩壊による不況が人々のレジャーに対する考え方を変えつつあり白馬村も高度経済成長期のような姿からやり方を変える必要が生じた。実際に1992年(平成4年)をピークに来客も減っている。
スキー低迷で長らく閑散とした状態が続いていたが、2005年頃から、韓国やオーストラリアなど海外からの観光客が増えた。年間宿泊者数は従前の3倍強の3万人前後に膨らみ、地元ではスキー客の減少対策として、和田野を中心に約10軒の宿泊施設が「ハクバ・ツーリズム」を結成し観光誘客に取り組んだ。海外での知名度があがるにつれて、廃業や経営難から売りに出されたペンションの買収が進み、白馬食品衛生協会の調査では2007年には外国人がオーナーの施設は30軒にのぼった。なかにはスキー場を買収するオーストラリアの投資ファンドもあった。「ハクババレー」全体としての2017年~2018年スキーシーズンの外国人来場者数は33万人。日米両国企業による高級ホテル開設、同じく外国人スキー客の人気が高い北海道ニセコ地域の企業による村内ホテルの買収など滞在型国際スキーリゾートとしての整備が進んだ。 村を訪れる観光客は、2012年-2013年以降、インバウンド客を中心に7期連続で増加していたが、2020年以降は新型コロナウイルスの感染拡大に伴い激減。2020年-2021年に白馬周辺の10スキー場を訪れた外国人スキーヤーは前シーズンの約37万人から約4万人へと9割の減少を見せた。
登山事故が非常に多く2005年からの約10年間で56名の死亡事故が起こっている。しかしながら基礎自治体レベルで講じられた対策は特になく、県により長野県白馬山岳遭難救助対策センターが設置されているが、無雪期においても死亡事故が相次いでいる。
2007年12月1日の「世界エイズデー」では、長野県がエイズ患者・HIV感染者の報告数が全国で2番目に多いと指摘され、白馬村などの外国人観光誘客に深刻な影響を与えうるものとして県レベルでの対策が急務とされた。その後は減少に転じ、公表されている限り2014年以降全国的にも低い報告数となっている。厚生労働省の「重点的に連絡調整すべき都道府県等」として2006年2月に含まれたが、2009年10月以降は入っていない。
村内に高速道路は通っていない。関東方面からは、上信越自動車道長野IC、中京方面からは、長野自動車道安曇野IC、北陸・関西方面からは北陸自動車道糸魚川ICからのアクセスが便利。
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