警視庁(けいしちょう、旧字体:警視󠄁廳)は、1874年(明治7年)から1948年(昭和23年)まで存在した東京府(後に東京都)の警察を管轄する内務省の地方官庁である。自治体警察(1948年-1954年)になる前の「東京警視庁」とも呼ばれた組織である。
概要
1874年(明治7年)1月15日、鍛冶橋内旧津山藩江戸藩邸に設置され、旧薩摩藩士の川路利良が初代大警視(後の警視総監)に任じられた。
警視長 - 三等、以下、大警視 - 五等、権大警視 - 七等、少警視 - 八等、権少警視 - 九等、権大警部 - 十等、中警部 - 十一等、権中警部 - 十二等、少警部 - 十三等、権少警部 - 十四等、などの官等と職制、事務年程が制定された。
府内を6大区に、各大区を16小区に分け、大区に警視出張所を、小区に邏卒屯所を配置した。2月2日に邏卒を「巡査」と改称した。
東京以外の府県警察部は知事が管轄していたが、東京に関しては内務省が直接警視庁を置き統制下においた。当時の東京府は予算以外に警察に関する権限がなかった(現在も、各警察への指揮命令権は国の機関である警察庁にある)。
1925年(大正14年)、本所区の本所相生警察署が、在郷軍人会と青年団とのあいだで国体警戒の協定を締結し、在郷軍人2300名、青年団1200名に出動要請を行うことができるようになった。
1948年(昭和23年)に内務省の地方官庁としての警視庁は廃止され、警視庁は国家地方警察東京都本部と東京23区を管轄する警視庁の自治体警察に解体・廃止された。
東京警視本署
警視庁発足時から各地で士族反乱が発生し、地方の警察力では対処できなかった。政府は全国の警察を一元化するため、1877年(明治10年)1月11日に警視庁を廃止し、内務省警視局直轄の東京警視本署へと改編した。(庁舎はそのまま使用された)
川路利良大警視は内務省に対し兵器の貯蔵を上申し、東京警視本署は陸軍省から7000挺の小銃を借用して、陸軍士官の派遣を受け、軍事訓練を行った。1877年(明治10年)、最大の士族反乱となった西南戦争に警視隊(9500名)を編成して従軍し、陸軍を支援した。
西南戦争終戦後、国内の治安が安定すると、武断的な警察に批判が高まり、1881年(明治14年)1月14日に警視庁が再設置され、本来の警察業務に戻った。
警視総監の地位
警視総監は東京府知事と同じ勅任官であったが、俸給は府知事よりも多く(内務次官、陸海軍中将と同額)、警視総監の方が格上とみなされていた。後に東京都制が施行され、親任官の東京都長官(俸給は国務大臣相当の待遇であり、また、1945年(昭和20年)8月23日の閣議了解で、必要に応じ閣議への参加も認められた)が置かれたことで逆転した。
また、警視総監は府県知事の「府県令」と同様の「警視庁令」という命令を発することができた。
沿革
以下の略年表は、主に『警視庁百年の歩み』の「警視庁略年表」を参考にしている。
- 1868年(明治元年)
- 4月16日 - 東征大総督府が薩摩藩ほか11藩から藩兵を拠出させ、江戸市中取締りを命じる。
- 7月17日 - 東京府庁内に捕亡方、断獄方を設置。
- 12月5日 - 政府は東京府を47区に分け、田安藩など30藩に兵を出させ巡邏を命じる。
- 1869年(明治2年)
- 11月15日 - 藩兵を府兵に改称し、東京府に府兵掛を設置(東京府達)。
- 1870年(明治3年)
- 12月 - 東京府が政府に西洋ポリス制度採用を政府に上申
- 1871年(明治4年)
- 10月23日 - 府兵が廃止され、東京府が邏卒3,000人による取締組を編成(東京府達)。邏卒には薩摩藩、長州藩、会津藩、越前藩、旧幕臣出身の士族が採用されたが、その内訳は薩摩藩出身者が2,000人、他が1,000人であり、日本警察に薩摩閥が形成される契機となった。
- 11月23日 - 取締組大体法則を制定。東京府を6大区に分け、大区ごとに取締出張所を設置し、屯所を96か所設置(東京府達)。
- 1872年(明治5年)
- 1月29日 - 大区取締出張所を大区役所と改称。
- 5月13日 - 東京府に邏卒総長以下の官が置かれ、薩摩藩出身の川路利良が邏卒総長(第5大区)に任命される(太政官達)。
- 5月19日 - 取締組を邏卒に改称し、正式官名とする(東京府達)。
- 8月23日 - 全国の警察事務を中央が掌握することになり、東京府邏卒は司法省警保寮に移管。川路利良は司法省警保寮警保助兼大警視に任命される。
- 8月29日 - 殺人犯人の写真撮影を開始。
- 9月8日 - 欧州警察制度研究のため、川路大警視がフランスに出発
- 10月28日 - 大区役所を大区警視出張所と改称(警保寮回達)。
- 1873年(明治6年)
- 1月25日- 東京府は市中取締りのために、番人を1180人採用。同年巡査制度が制定され、巡査は番人を監督した。
- 9月 - 川路利良が政府に対し「警察制度改革の建議書」を提出。
- 11月10日 - 内務省が設置される。
- 1874年(明治7年)
- 1月9日 - 司法省警保寮が内務省に移管される。
- 1月15日 - 川路利良の建議書が採用され、首都警保のために内務省管轄の東京警視庁が設置される。これにより日本初の近代的警察制度が発足する。
- 1月27日 - 太政官特達により日本初の行政警察規則である「東京警視庁職制並びに事務章程」が制定され、警視庁の長たる警視長には川路大警視が任命される。同章程により国事犯については全て警視庁の長に執行権限が与えられ、これにより全国各地の士族反乱に際して、警視庁の警察官が各地に派遣されて、反乱の鎮圧と警戒警備にあたった。その権限は、1906年(明治39年)の警視庁官制改正まで全国におよんでいた。
- 1877年(明治10年)
- - 士族反乱に対処するため、東京警視庁を廃止し、内務省直轄の東京警視本署へと改編。
- - 西南戦争が勃発。東京警視本署に警視隊と抜刀隊を編成し、西郷軍征討に参加。
- 1881年(明治14年)
- 1925年(大正14年) - 本所相生警察署(東京市本所区本所相生町。当時の両国税務署の近く)が在郷軍人会・青年団と「国体警戒の協定」を締結。
- 1931年(昭和6年)
- 1932年(昭和7年)
- - 武装した海軍青年将校によって五・一五事件が発生し、総理大臣官邸、警視庁、日本銀行、変電所などを襲撃。これにより警視庁の警察官複数人が死傷。警視庁では警察官1万人を動員して徹夜で警戒。
- 1936年(昭和11年)
- - 二・二六事件が発生し反乱軍によって警視庁や総理大臣官邸などが襲撃・占拠された。これにより麹町警察署が警視庁本部の代わりに機能する。また、神田錦町警察署(現:神田警察署)に「非常警備総司令部」を設置する。
- 1946年(昭和21年)
- 1月24日 - 警視庁防護隊を設立。
- 3月18日 - 警視庁は全国に先駆けて婦人警察官(現在の女性警察官)を63名採用した。婦人警察官第1期生は制服が間に合わず、モンペ姿で訓練していた。
- 4月27日 - 婦人警察官第1期卒業式が田村町警察練習所で行われ、ニューヨーク市警前警視総監のルイス・ヴァレンタインによる査閲が行われた。
- 1948年(昭和23年)
- 3月7日 - 旧警察法が施行され、警視庁 (内務省)は、国家地方警察東京都本部、特別区(23区)を管轄する警視庁 (旧警察法)、市町村自治体警察に解体・廃止される。
組織
1935年(昭和10年)時点
- 総監官房
- 警務部
- 特別高等警察部
- 外事課、労働課、特別高等課、内鮮課、検閲課、調停課
- 刑事部
- 捜査第一課、捜査第二課、庶務課、鑑識課、家出人収容所
- 保安部
- 衛生部
- 消防部
警察署
1927年(昭和2年)時点
歴代警視総監
主な事件
脚注
出典
参考文献
- 史料
- 警視庁総監官房文書課記録係『警視庁事務年鑑 大正14年・大正15年』警視庁総監官房文書課記録係、1926年。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442613/216。
- 参考文献
- 警視庁創立100年記念行事運営委員会 編『警視庁百年の歩み』1974年。ASIN B000J9K0CU。
- 福地, 重孝『士族と士族意識―近代日本を興せるもの・亡ぼすもの』春秋社、1956年、333頁。ASIN B000JB01MW。
- 警察政策学会(編)『警察政策』第20号、立花書房、2018年、274頁、ISBN 978-4803700343。
- 『警視庁史 [第1] (明治編)』警視庁史編さん委員会、1959年1月1日。NDLJP:3035536。
- 警視庁史編さん委員会 編『警視庁史 [第2] (大正編)』警視庁史編さん委員会、1960年3月1日。NDLJP:3035411。
- 警視庁史編さん委員会 編『警視庁史 [第3] (昭和前編)』警視庁史編さん委員会、1962年3月31日。 NCID BN14748807。NDLJP:3022570。
関連項目
- 警視庁
- 日本の警察
- 日本の消防
- 弥生慰霊堂
- 警視庁武術世話掛
- 警視庁の三郎三傑
- 日本における検閲
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