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悠仁親王


悠仁親王


悠仁親王(ひさひとしんのう、2006年〈平成18年〉9月6日 - )は、日本の皇族。身位は親王。敬称は殿下。お印は高野槇(こうやまき)。

第126代天皇・今上天皇(徳仁)の皇甥。

今上天皇の弟宮である皇嗣の秋篠宮文仁親王と同妃紀子の第1男子(1男2女のうちの第3子)。皇位継承順位は父・文仁親王に次ぐ第2位。

上皇(第125代天皇・明仁)の皇孫。

佳子内親王は姉にあたる。今上天皇の娘であう愛子内親王はいとこ。

住居は、東京都港区元赤坂二丁目の赤坂御用地内にある秋篠宮邸。秋篠宮邸の改修工事に伴い、2022年(令和4年)3月まで「御仮寓所(ごかぐうしょ)」に仮住まいしていた。

2023年(令和5年)現在、皇室構成者17名のうち唯一の未成年者である。

人物

父・秋篠宮文仁親王以来、40年9か月ぶりの皇族男子として誕生した。21世紀(3千年紀)に誕生した皇族としては従姉の愛子内親王に次いで2人目で、平成時代に誕生した唯一の皇統に属する男系男子である。

2023年(令和5年)1月1日現在、皇室構成員17名の中で皇位継承資格を有する唯一の50歳未満の男性皇族で、最年少かつ唯一の未成年皇族である。

来歴

誕生をめぐって

2006年(平成18年)2月7日の朝、文仁親王妃紀子が秋篠宮・宮邸にて超音波検査をしたところ、胎児の心拍が確認され、妊娠6週目であると宮内庁長官・羽毛田信吾により発表された。17日後の、2月24日に「秋篠宮妃殿下が妊娠3か月である」と、宮内庁が公式発表した。妊娠悪阻(つわり)などの症状があったが、2度目の検査では順調な経過が確認されたと、愛育病院 の院長・中林正雄によって発表された。また、皇室医務主管金沢一郎は、秋篠宮同妃夫妻の意向により性別の事前検査は行わない方針を示した。

2006年(平成18年)8月16日の午後、文仁親王妃紀子が陣痛のため、夫の秋篠宮が付き添って東京都港区南麻布の愛育病院に入院した。また、同日、主治医である中林院長らが会見を開き、早産の恐れなどがあるため帝王切開の処置を取ることを発表した(皇室史上初めての帝王切開による出産)。また、皇室において、天皇一族の出産で皇居内産殿、宮内庁病院ではない場所が使用されるのは史上初めてであった。2006年(平成18年)9月6日 午前8時27分に誕生した。出生時の身長は48.8cm、体重は2558g。秋篠宮家においては佳子内親王以来12年ぶりの子女の誕生であり、皇室においては愛子内親王の 誕生以来5年ぶり、父・文仁親王以来で実に40年9か月ぶりの皇族男子(親王及び王)であった(それまでは清子内親王から愛子内親王まで9人連続女子の誕生)。誕生時の皇位継承順位は第3位であった。

誕生当日には、賜剣の儀が行われ、祖父である第125代天皇明仁から守り刀(天田昭次作)が贈られた。9月12日、命名の儀が行われ「悠仁」(ひさひと)と名付けられた。

「ゆったりとした気持ちで、長く久しく人生を歩んでいくことを願って」、また過去の皇族との重複を避けつつ音と意味を重視して、父・秋篠宮文仁親王が字を選んだ。家族からは「ゆうゆう」の愛称で呼ばれている。お印は高野槇で、「大きく、まっすぐに育ってほしい」との思いが込められている。

9月15日の愛育病院からの退院時には、宮邸のある赤坂御用地までの沿道には約1800人が集まった。警備は警視庁の機動隊など計1200人態勢で行なわれた。

誕生の前年、2005年(平成17年)には皇族男子の減少により皇位継承問題が表面化していたこともあり、各地で奉祝をもって迎えられた。明治神宮をはじめ、各地の神社・神社庁で、神輿の奉納・提灯行列・奉祝行進など祝賀行事が行われた。また悠仁親王の誕生によって、皇統断絶の危機が当面は解消されたことで、皇室典範改正案の提出は見送られた。

成長

2010年(平成22年)4月(3歳7か月の時)にお茶の水女子大学附属幼稚園に入園した。母である秋篠宮妃紀子が同大学を拠点に研究活動を行っていることから、女性研究者を支援するために同大学が創設した特別入園制度での合格によるものであった。

2011年(平成23年)春にも、着袴の儀が予定されていたが、東日本大震災を受け延期された。同年11月3日、赤坂東邸で、着袴の儀と深曽木の儀に臨んだ。

2012年(平成24年)11月7日、両親とともに奈良県橿原市の神武天皇陵に参拝し、玉串をささげた。悠仁親王が御陵を参拝するのはこれが初めてである。

同年12月14日、2013年(平成25年)4月にお茶の水女子大学附属小学校へ入学することが発表された。現行の皇室典範の下で皇族が学習院初等科以外の小学校に入学するのは初めてである。2013年4月7日、両親の秋篠宮と同妃紀子とともに、小学校の入学式に参加した。

2013年(平成25年)3月15日、お茶の水女子大学附属幼稚園卒園につき、両親とともに、武蔵陵墓地(昭和天皇陵)と武蔵野東陵(香淳皇后陵)を参拝した。同年3月25日から2日間、伊勢神宮に参拝した。

同年12月10日、沖縄県糸満市にある沖縄戦跡国定公園に供花、平和の礎を見学した。

2016年(平成28年)8月3日、新潟県津南町の『農と縄文の体験実習館なじょもん』 で縄文土器を見学した。10歳の誕生日には、秋篠宮邸の庭で田んぼや野菜を作っていることが発表された。

同年11月20日朝、友人らと山梨県へ山登りに行く途中、相模原市の中央自動車道下り線で、悠仁親王の乗る車両が前方の車両に追突するという事故が発生した。車には母・紀子妃と宮内庁職員ら計6人が同乗していたが怪我はなかった。事故の背景には内廷皇族と宮家皇族との警備体制の違いが挙げられた。

2017年(平成29年)9月6日の11歳の誕生日には、同年5月の校外学習で東京・両国国技館の大相撲を観戦し、友人とちゃんこを味わったことや、8月下旬に2泊3日で林間学校(長野県の白樺湖周辺)に初めて参加したこと、学校で栽培委員会に所属して花壇の水やりなどを担っていることなどが伝えられた。

2019年(平成31年)4月、お茶の水女子大学附属中学校に入学。同月26日には同中学校の悠仁親王の教室の机の上に果物ナイフが置かれる事件が発生した。犯人とされる男は同月29日に神奈川県平塚市のホテルで逮捕され、2020年(令和2年)2月14日に執行猶予付の懲役刑が言い渡された。

2019年(令和元年)5月1日に、伯父・徳仁親王の即位に伴い、父・文仁親王に次ぐ、皇位継承順位第2位となった。

2019年8月16日から8月25日までブータンを父母とともに私的旅行という形で訪問。悠仁親王にとって初の海外訪問である。また、トンボに興味を持っており、積極的に研究している。

2021年(令和3年)、北九州市立文学館主催の「第12回子どもノンフィクション文学賞」に投稿した作文「小笠原諸島を訪ねて」(題名)が中学生の部・佳作を受賞し、3月20日の表彰式にはオンラインで参加した。2022年2月、宮内庁は作文に関し参考文献の記載が不十分だったと明らかにした。2022年4月8日、宮内庁は悠仁親王が、参考文献や注釈などを追記して主催者に送ったことを明らかにした。これを受け同年4月12日、北九州市立文学館は、提出後の訂正を認めないと募集要項に記載していたが、訂正後の作文をネット上に公開した。修正版では文末に脚注を2つ加え、「参考にした資料」として従来は1点だったのが5点となった。(詳細については北九州市立文学館#文学賞をめぐる動向を参照のこと)

2021年12月1日、従姉の敬宮愛子内親王が成年を迎えたことで、現時点において唯一の未成年皇族となった。

2022年(令和4年)2月16日、筑波大学附属高等学校に合格した。これはお茶の水女子大学附属中学校との提携校進学制度において推薦の条件である「秀でた学業成績を十分に満たしている」と判断され、かつ一般受験生とともに5教科の学力検査を受験され、その結果確定したものである。4月より同校に入学。

2022年10月1日、単身で三重県の伊勢神宮に参拝した。悠仁親王が伊勢神宮を訪れるのは、2013年に両親や佳子内親王と参拝して以来2回目で、一人での参拝は今回が初めてである。その後、伊勢市にある神宮美術館を訪問し、伊勢神宮と正倉院のゆかりの文化財などを集めた特別展を鑑賞した。

前述の通り、悠仁親王は父・文仁親王以来実に40年以上ぶりに誕生した皇族男子であるが、平成時代(第125代天皇明仁在位中)に誕生した皇族男子は悠仁親王のみで、これ以降2023年(令和5年)現在までに皇族男子は1人も出生していない。 

学術研究

高校の学業と並行して生物学に関する研究を進め、高校在学2年時に研究成果を学術雑誌に発表している。

帝王学

定まった帝王学の師はいないが、教育については母親の紀子妃が主導し、2018年には作家の半藤一利による近代史(太平洋戦争)についての進講を受けている。

年譜

  • 2006年(平成18年)9月6日 、東京都港区南麻布の愛育病院に生まれる。
  • 2006年(平成18年)9月12日(0歳)、命名の儀を行う。
  • 2010年(平成22年)4月(3歳)、お茶の水女子大学附属幼稚園 に入園。
  • 2011年(平成23年)11月3日(5歳)、着袴の儀と深曽木の儀を行う。
  • 2013年(平成25年)4月(6歳)、お茶の水女子大学附属小学校に入学。
  • 2019年(平成31年)3月(12歳)、お茶の水女子大学附属小学校を卒業。
  • 2019年(平成31年)4月(12歳)、お茶の水女子大学附属中学校に入学。
  • 2022年(令和4年)4月(15歳)、筑波大学附属高等学校に入学。

系譜


悠仁親王の男系(父系)直系祖先

  • 伯父:今上天皇(第126代天皇)
  • 従姉:愛子内親王
  • 姉:眞子内親王
  • 姉:佳子内親王

系図

家系図形式

 

家族・親族

系図


著名な親族としては、叔母に元外務省アルバイトで銀座でホステスをしていた実業家の栗原菜緒、義兄に米国弁護士で法務博士の小室圭がいる。

皇位継承順位

令和元年5月1日時点では、父・文仁親王(58)に次いで第2位。天皇徳仁に皇男子(皇太子)が誕生するか、悠仁親王自身が即位前に薨去、あるいは皇室会議で皇位継承順位を入れ替えられない限り第128代天皇となる。平成生まれでは唯一であり、最年少の皇位継承資格者である。

称号・宮号の有無や敬称の表記など

一宮家(秋篠宮家)の生まれであり、また当主ではないため、天皇の皇子や皇女に与えられる御称号は持たず「秋篠宮」という宮号も冠さない。

身位・敬称を含めた表現は宮内庁公式HPでは「悠仁親王殿下」と表記している。

ただし、幼稚園においては姉の小室眞子、佳子内親王同様、便宜上「秋篠宮」を名字の代わりとして用いていた。

逸話

誕生時には、21か国の元首から天皇明仁・皇后美智子へ、31か国の元首から天皇明仁へ、それぞれ皇孫誕生の祝電が寄せられた。悠仁親王が誕生したことで、2006年(平成18年)の今年の漢字に「命」が選ばれた。また2位には「悠」がランクインした。

祝賀

天皇・皇后が初めて見舞いに訪れた際には、白いベビーシューズを母子に贈った。この靴は、悠仁親王1歳の誕生日の記念写真でソファ脇の机に飾られているのを見ることができる。

トルコのトプカプ宮殿博物館からは国宝「金のゆりかご」が貸し出され、2007年(平成19年)8月から9月まで東京都美術館で開催された「トプカプ宮殿至宝展」で特別展示された。これは門外不出の国宝で、トプカプ宮殿博物館館長の厚意により実現したもの。

お印が高野槇と決まった後、高野槇を市の木とする岐阜県中津川市の中津川観光協会が高野槇の写真入のパンフレット用紙袋を製作した。また高野槇の名の由来である高野山への交通手段である南海電気鉄道では、誕生記念として難波駅で高野槇1000本を乗客に無料配布した。

記帳所

悠仁親王は皇室では41年ぶりの男子誕生だったが、宮内庁はあくまで一宮家の生まれであるとして誕生を祝うための記帳所を設けなかった。しかし地方自治体や寺社などでは独自に記帳所を設けたところもあった。

国内外メディアの報道

悠仁親王の誕生は世界各国のメディアで報道された。王室を持つイギリスでは日本の皇位継承問題に関心があったこともあり、BBCニュースはトップニュースで報道。アメリカのCNNでは速報で東京特派員が「It's a boy!」と伝えた。またアメリカのニューヨーク・タイムズ紙電子版やTIME誌、中国の新華社通信、韓国の聯合ニュースや朝鮮日報紙 なども速報記事や特集記事を出した。また日本国内でも各メディアが報じたが、独立局である三重テレビでは10:59のスポットCM枠で特設ニュース枠が設けられ報じられた。

研究業績

  • 2023「赤坂御用地のトンボ相―多様な環境と人の手による維持管理」『国立科学博物館研究報告A類(動物学)』49(4), 129-53

脚注

注釈

出典

関連項目

  • 皇位継承問題
  • 万世一系

外部リンク

  • ウィキソースには、文仁親王妃紀子殿下は、愛育病院において御出産、親王が御誕生になった件の原文があります。
  • ウィキソースには、御誕生になった文仁親王殿下の第一男子は、御名を悠仁と御命名になった件の原文があります。
  • 文仁親王同妃両殿下(秋篠宮) - 秋篠宮同妃と子女の紹介(宮内庁)
  • 紀子さま ご懐妊とご出産 - NHK放送史
  • 2006年 悠仁さま誕生 皇族41年ぶりの男の子(2006年9月)【映像記録 news archive】 - YouTube(ANNnewsCH)

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 悠仁親王 by Wikipedia (Historical)