![松永怜一 松永怜一](/modules/owlapps_apps/img/nopic.jpg)
松永 怜一(まつなが れいいち、1931年11月3日 - 2022年5月12日)は、福岡県北九州市出身のアマチュア野球指導者。
学生・社会人野球界で監督を歴任。野球が公開競技であったロサンゼルスオリンピックでは野球日本代表を監督として金メダルに導いた。
八幡市立(現在の北九州市立)槻田小学校時代、家の近くの八幡製鉄のホームグラウンド大谷球場(現在の北九州市立大谷球場)で八幡製鉄と門司鉄道管理局の春・秋の定期戦「製門戦」に夢中になる。
福岡県立八幡中学校(1948年の学制改革により福岡県立八幡高等学校となる)では三塁手、三番打者として活躍。同じ北九州の福岡県立小倉中学校(のち福岡県立小倉高等学校)がエース福嶋一雄(2013年野球殿堂入り)を擁し、1947年から夏の甲子園で連続優勝、打倒小倉高が目標となる。1949年夏の甲子園県予選決勝で小倉高(この1年のみ小倉北高校と改称していた)と対戦、福嶋に抑えられ2-5で敗れるが、松永は甲子園出場の手応えを感じる。八幡高は秋季九州大会県予選で好成績を挙げられなかったが、松延一男野球部長は頻繁に中・四国の強豪校との練習試合を組み、これらをことごとく撃破する。松延部長の戦略が功を奏して、1950年春の選抜出場校に選出され、甲子園初出場を果たす。1回戦で萩北高のエース椙本勝を打ち崩し初勝利を飾る。準々決勝に進み韮山高の東泉東二投手から5点を奪うが、激しい雨中の激戦の果て9回裏逆転サヨナラ負けを喫する。チームメイトのエース渡辺雅人(法大-三重交通)、遊撃手の森下正夫とともに大会優秀選手に選ばれた。同年夏の県予選準決勝でも、福嶋の後継エース重台昭彦(立大-日本石油)を擁する小倉高と対戦。1点差を追う9回、先頭打者の松永は初球を右前安打、これを小倉高の右翼手が後逸、松永は二塁を回るが、三塁のコーチャーズ・ボックスには誰もいない。そのとき八幡高の選手たちはまだベンチ前で円陣を組んでいた。松永は「えーい、ままよ」と本塁を狙うが寸前でタッチアウト、後続も凡退し夏の甲子園初出場はならなかった。
1951年、法政大学に入学。東京六大学野球リーグでは優勝に届かなかったが、1年生の春季リーグからレギュラーとして活躍する。しかし腰を痛め、4年生時は春・秋季ともに欠場を余儀なくされた。
腰痛のため現役を引退し、浦堅二郎、藤田信男(1987年野球殿堂入り)という良き理解者の支援により指導者の道へ進む。
2022年5月12日2時51分、老衰のため、横浜市内の病院で死去。90歳没。
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