江戸幕府(えどばくふ)は、江戸時代における日本の武家政権。1603年(慶長8年)に徳川家康が征夷大将軍に補任し、江戸を本拠として創立した。その終末は、諸説あるが大政奉還が行われた1867年(慶応3年)までの約264年間とされる。
徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。
江戸時代初期に行われた大御所政治(駿府政権)に関してもここで述べる。
徳川家の当主、徳川家康が従一位右大臣に叙任され、征夷大将軍に補されて260余りの武家大名と主従関係を結び、彼らを統制するという制度は、1600年代後半までに確立された。その将軍の政府を「幕府」、臣従している大名家を「藩」、さらに両者が複合した権力の体制を「幕藩体制」と一般に呼んでいる。ただし、「幕府」及び「藩」の語は幕末期に広く使用され、現在も歴史用語として定着しているものの、江戸時代を通じて使用されていたわけではない。それまでは、将軍の政府は「公儀」・「公辺」などと漠然と呼ばれていた。
幕府の始期及び終期については諸説あるが、征夷大将軍の任官時期に着目する場合には、家康がはじめて将軍職に任じられた1603年3月24日(慶長8年2月12日)から、いわゆる王政復古の大号令によって15代将軍徳川慶喜の将軍職辞任が勅許され、併せて幕府の廃止が宣言された1868年1月3日(慶応3年12月9日)までとなる。終期には他にも1867年11月9日(慶応3年10月14日)に慶喜が大政奉還を行った時、1868年5月3日(慶応4年/明治元年4月11日)の江戸開城とする説もある。
徳川将軍家が実質的に日本を支配した、この260年あまりの期間を一般に「江戸時代」と呼ぶ。江戸幕府は日本の歴史上、鎌倉幕府及び室町幕府に続く武家政権である。
幕府の支配体制は幕藩体制と呼ばれ、将軍の政府である幕府と、将軍と主従関係を結んだ大名の政府である藩で構成されていた。将軍は大名に対して朱印状を与えてその知行を保障し、大名は当該知行内において独自に統治を行う権限を一定程度有した。幕府は「公儀」として国内全体の統治を行うとともに、自らも1大名として領分(天領・御領)を支配し、京都所司代、大坂城代、遠国奉行、郡代・代官などの地方官を設置した。
江戸幕府の支配では、将軍と大名の主従関係を確認するための軍役として、各藩大名に対して参勤交代や、築城・治水工事などの手伝普請が課せられた。
なお、「藩」の語が公称として用いられるようになったのは明治時代のことで、公文書では「領」「領分」、あるいは「領知」などが使用された。公称としての藩は、1868年(明治元年)に公布された政体書によって設けられ、1871年(明治4年)の廃藩置県によって廃止された。
江戸幕府では権力の集中を避けるため主要な役職は複数名が配置され、一か月交代で政務を担当する月番制を導入し、重要な決定は合議を原則とした。常置の最高職である老中及び臨時に置かれる大老、その補佐役である若年寄は譜代大名から選任され、大目付・三奉行(寺社奉行・町奉行・勘定奉行)等の要職には譜代あるいは旗本が充てられて実務を担った。幕府組織は後期にはその全貌の把握が困難であるほど巨大化・複雑化し、幕末の慶応の改革では老中の月番制を廃止して、国内事務・会計・外国・陸軍・海軍の各総裁を専務する等の改革が行われた。
幕府の政策決定は、将軍・幕閣(老中・若年寄)・実務吏僚(大目付・三奉行等)、取次・補佐を行う将軍の側近である御側用人や御側衆、幕閣のサービススタッフである奥右筆や同朋衆により運営された。
基本的な流れとしては実務吏僚から挙げられた議案を幕閣が審議した上で、側近を介して将軍が決裁を行った。また親政や側用人政治の場合は、幕閣を経ずに直接議案が側近に持ち込まれ、将軍が決裁するため幕閣の役割は形骸化した。これとは別に将軍が直接意見を聞くため、実務吏僚を呼び出して直接諮問する事もあった。
軍事制度は徳川家当主・征夷大将軍として江戸在住の旗本、及び各地に封じられた譜代大名や外様大名を指揮・統率した。番方と呼ばれる平時編制の直轄部隊として、五番方(大番・書院番・小姓組・新番・小十人組)や、徒組・百人組・先手組・持組を有した。大番・書院番は単独の備として運用され、その他は将軍や大御所らの旗本備を形成した。有事には軍役として諸大名・旗本を動員して数十万の軍勢を揃えた。幕府直轄の軍事施設としては江戸城以外に大坂城・駿府城・甲府城等があり、譜代大名や旗本による城代・定番・在番・加番・勤番が置かれた。
有事の際には該当地域に10万石前後の譜代大名がいる場合は周辺の外様大名を指揮下に置くが、いない場合は江戸から上使として指揮官が派遣された。しかしながら外様大名の石高が譜代大名より大きい場合は、その統制に困難を生じることがあった。前記の場合は何れも幕府の裁可を必要としたが、大坂城代は有事の際には独断での行動が特に許されていた。
これらの軍事制度は、島原の乱前後までは大砲の導入等の軍事改革が行われたが、太平の世によりその必要性も減少した結果、17世紀前半の軍制を19世紀まで維持し続けた。しかし外国勢力の来航による軍事危機に直面した幕末には、戦力の骨幹を成した侍の弛緩・疲弊、財政悪化や社会の変化・疲弊による従来の動員制度の破綻、制度・武器・教育といったあらゆる面での遅れから、西洋式軍隊の導入が唱えられ、新たに幕府海軍・幕府陸軍が創設された。ただしこれら新たな軍隊と旧来の番方は併存した状況が続き、後者の実質的な解体は幕府が終焉を迎える直前の慶応の改革時になった。
家康の時期に、勘定奉行が取り仕切る勘定方が設置されたが財政は安定しておらず、赤字などによりしばしば幕政改革が行われた。
幕末の1866年(慶応2年)には既にイギリスのオリエンタル・バンクの支店が横浜に設立されていたと言われ、幕府は長州征伐のため、同年同銀行と600万ドルの借款契約を締結した。
大名は以下のように分類された。
この分類は、政権内の権力において大きな差となっていた。特に、幕府の要職に全て譜代大名をもって充てた事は、鎌倉幕府、室町幕府からの大きな転換であった。鎌倉・室町幕府においては、時によっては将軍家・執権すらしのぐほどの有力御家人・守護大名が要職に就いていた。また、豊臣政権末期の五大老制は、有力大名による集団指導体制であり、外様大名である徳川家康の政権簒奪を防ぐことができなかった。これに対して、江戸幕府では譜代大名が幕府の要職を独占していた。元々は豊臣政権時代に一大名に過ぎなかった家康のさらに臣下であった譜代大名は、さほど有力ではない小大名が中心であり、徳川家以外の他の有力大名は、地方を統治する外様大名として中央政権の要職に就くことが無くなった。つまり、将軍個人の独裁体制ではないものの、徳川家という枠組において独裁体制を敷いていたのである。またこのことにより、あまり政治に関与しなかった将軍であっても、幕閣の完全な傀儡になることはなく、政権の簒奪も未然に防止することが可能となった。
しかしながらこれは、親藩や有力外様大名が幕閣よりも「目上の立場」になる事を意味し(例えば井伊家は譜代大名筆頭であるが、外様大名筆頭の前田家や、御三家・御三卿よりは下の席次であった)、幕末期において問題点として噴出する事となった。当時の大老である井伊直弼は強権をもって反対者を弾圧したが、その報復である桜田門外の変に倒れ、以降の江戸幕府は諸大名の統制が困難になり、大政奉還及び江戸開城を迎える事となった。
御側御用取次はもともと高級旗本の役職だったが、拝命後ある程度の時を経てから大名に取り立てられる場合が多かった。
以上が幕政の首脳。このうち「幕閣」と呼ばれたのは大老・大老格と老中・老中格で、側用人・御側御用取次は時代や個人によってその権限に大きな差があった。
諸太夫役と布衣役を『天保年間諸役大概順』に拠って列記、これに支配関係と伺候席を参考として添えた。なお『諸役大概』に記載があるものの、それが役職であるか世襲職であるかが不明瞭なもの (林家が代々勤めた大学頭など)についてはこれを省いた。
江戸幕府を開府した初代将軍・徳川家康は、1605年(慶長10年)に将軍職を子の徳川秀忠に譲り大御所となり、駿府城に隠居城を構えた。
大御所となった後も家康は現役将軍の権威に配慮しつつも政治を主導し大御所政治を行った。
主に西国政策(朝廷や豊臣家、西国大名との対応)を中心に、外交・内政への指示、法令起草など江戸幕府と連携した政策が行われた。
1616年(元和2年)の家康の死去により政権は江戸(将軍 秀忠)に統一された。
駿府政権下では、豊臣家との大坂の陣、以心崇伝による武家諸法度、禁中並公家諸法度起草など江戸幕府の支配体制が築き上げられた。
幕府御金改役の後藤庄三郎光次が著した駿府政事録が残されている。
秀忠の居る江戸では主に東国に対する政策を行った。秀忠が政治を実際に取り仕切るようになったのは家康の死後からである。一方で、幕府内の軍権は秀忠により増強・統制され、財政も段階的に駿府から江戸へ移管された。
幕閣では主に譜代が登用された。
以下に述べる内容は跡部信が提唱した初期の幕府が大坂へ移転する計画があったする論だが、当時の幕府がこのような移転を正式に表明した史料は無く、また2022年の段階では定説でもない。
結果的に徳川幕府は武蔵国の江戸に本拠を置くことになったが、徳川家にとってこれは不本意なものであった。大坂夏の陣終了直後の元和元年(1615年)6月、徳川家康は大坂を将軍・秀忠の居城とし政権の本拠地とする考えを示した。天正18年(1590年)、徳川氏は豊臣秀吉の命令により関東・奥羽経営のため東国に転封されていたが、豊臣氏の滅亡によって東国を本拠地とする理由を喪失していた。
大坂は太田牛一が『信長公記』巻13で「そもそも大坂は日本一の境地」であり、堺・奈良・京都に近く四方を山に囲まれ要塞堅固なうえ、明・朝鮮・南蛮から貿易船が来航し、五畿七道の産物が集まり経済力の秀でた都市、と記すように近世初頭の日本において最重要の地であった。永禄13年/元亀元年(1570年)、織田信長は西国攻略の拠点として大坂本願寺に土地の明け渡しを求め、これを拒否した本願寺と10年間にわたって戦争が行われ、信長の後継者の豊臣秀吉は政治・経済・対外交流・軍事の要衝である大坂を本拠として天下統一を成し遂げていた。また秀吉は大坂・京都・伏見の3都市によって、中世の荘園制に立脚した市場構造とは異なる新たな中央市場圏を確立しており、その重要性はさらに増していた。だが、この最初の大坂幕府構想は翌元和2年(1616年)の家康の死没により中絶することになった。
一度は断念した幕府の大坂移転構想だったが、公武合体政権の樹立を念願とする秀忠によって再び動き出した。
元和5年(1619年)、大坂城代を務めていた松平忠明が大和国郡山藩に国替され、幕府は大坂を直轄地とした。その後藤堂高虎、小堀遠州の主導のもと大坂城を幕府の新たな拠点とすべく再築が進められ、長期に及ぶ天下普請の末寛永5年(1628年)に新たな大坂城が完成した。
一方で朝廷と幕府による公武合体構想は迷走していた。幕府による公武合体構想は既に家康の時代から秀忠と江の女、和子を後水尾天皇に入内させる計画が進んでいた。家康は後水尾天皇と和子の間に生まれるであろう皇子に皇位継承させ、徳川家が天皇の外戚になろうと目論んでおり、慶長19年(1614年)には和子の入内が決定した。しかし元和2年の家康の死没に続いて元和3年(1617年)の後陽成上皇の薨去で和子の入内は一旦延期されることになった。
その後、和子の入内が元和5年(1619年)に行われることが改めて決定したが、元和4年(1618年)後水尾天皇と四辻与津子の間に後継者となる第一皇子・賀茂宮が誕生していた事実は徳川家に打撃を与え、再び入内が延期された。
元和6年(1620年)、ようやく和子の入内が実施され寛永3年(1626年)11月には第二皇子・高仁親王が誕生した。既に第一皇子の賀茂宮は元和8年(1622年)に夭折しており、徳川家が天皇の外戚の地位を得る可能性が高まった。
寛永4年(1627年)4月、後水尾天皇は高仁皇子が4歳になれば譲位する考えを明らかにした。更に高仁親王の天皇即位とセットで秀忠・家光父子の大坂城の入城が寛永6年(1629年)に予定され、公武合体政権構想の実現は目前に迫っていた。
しかし寛永5年(1628年)6月、高仁親王が3歳で夭折。和子がこの年に出産していた皇子も9月に亡くなった。寛永6年(1629年)11月、後水尾天皇は和子との間に誕生していた明正天皇に譲位したが、女性天皇であったため徳川家の天皇家外戚の地位は一代で終わることが確定し、さらに公武合体構想の推進者である秀忠が大坂城再築後3年で亡くなってしまった。結果、家康・秀忠が2代にわたっての念願であった公武合体政権構想は頓挫し、徳川幕府は先進地の畿内を本拠地とすることを断念し、後進地域に本拠を据えざるを得なくなった。
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