八丁堀(はっちょうぼり)は、東京都中央区の地名で、旧京橋区に当たる京橋地域内である。現行行政地名は八丁堀一丁目から八丁堀四丁目。郵便番号は104-0032。
一般商店や出版社など、オフィス街としての色と、住宅地としてマンションの進出が目立った町並みを形成している。複数の主要バイパス道路に面していることから、交通の便が良い土地柄である。
京橋地域の東部に位置する。
町名としての八丁堀が誕生するのは1931年(昭和6年)のことで、区画整理により、それまでの本八丁堀1丁目から5丁目を分割した上で周囲の町が統合され、高代町、松屋町、岡崎町、本八丁堀の一部から西八丁堀1丁目から4丁目、元嶋町、長沢町、幸町、日比谷町、八丁堀仲町、永嶋町、水谷町と本八丁堀の一部から八丁堀1丁目から4丁目が誕生した。その後1969年(昭和44年)の区画整理で西八丁堀と八丁堀が統合され、現在に至る。
江戸時代初期には、多くの寺が建立され、寺町となっていた。しかし、1635年、八丁堀にあった多くの寺は、浅草への移転を命じられた。その後、寺のあった場所に、町奉行配下の与力、同心の組屋敷が設置されるようになったという。時代劇で同心が自分達を“八丁堀”と称したのはこれに因む。
江戸時代、八丁堀にあった銭湯は非常に混雑することで知られ、混雑を避けて無人の女湯に入る同心などの者達もいた。「八丁堀の七不思議」の一つ、“女湯の刀掛け”は史実である。
江戸時代、この地に開削された堀の長さが約8町(約873m)あったため「八町堀」と呼ばれ、その堀名に由来して町名がつけられた。後に「町」が略字の「丁」となる。
抑々の八丁堀は、江戸の神田と日本橋との境界となっていた堀である。竜閑橋(常盤橋西北)から城濠に分かれて、東方馬喰町に達し、それから南の浜町堀となって隅田川に入る。銀町堀とも(『江戸文学地名辞典』)。江戸文学の戯作においては『金々先生栄花夢』における和泉屋清三、『万象亭戯作濫觴』における天竺老人などのおどけた人物の住所と定まっていた(潁原退蔵『江戸時代語の研究』)が、『東海道中膝栗毛』における弥次郎兵衛・北八もまた同所に住む。
2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
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