兵馬俑(へいばよう)は、古代中国で死者を埋葬する際に副葬された俑のうち、兵士及び馬をかたどったもの。狭義には陝西省西安市臨潼区の秦始皇帝陵兵馬俑坑出土のものを指す。同地は中国の5A級観光地(2007年認定)である。
古代中国の俑は死者の墓に副葬される明器(冥器)の一種であり、被葬者の死後の霊魂の「生活」のために製作された。春秋戦国時代には殉葬の習慣が廃れて、人馬や家屋や生活用具をかたどった俑が埋納されるようになり、華北では主として陶俑が、湖北湖南の楚墓ではとくに木俑が作られた。兵馬俑は戦国期の陶俑から発展したものだが、秦代の始皇帝陵兵馬俑においてその造形と規模は極点に達する。漢代以降も兵馬俑は作られたが、その形状はより小型化し、意匠も単純化されたものとなった。
始皇帝陵(驪山陵)の存在は『史記』や『漢書』 など、古代中国の歴史書に記されていた。1962年に陝西省文物管理委員会が始皇帝陵園の調査を行い、78の遺跡を確認したのが始皇帝陵の考古調査の嚆矢であるが、兵馬俑の存在は知られていなかった(地域の住人の間では、以前から水を枯らす化け物として兵馬俑の存在は薄々知られていたとの報告もある)。1974年3月29日、臨潼県西揚村の住民6人が村の南に井戸を掘ろうとして土を掘っていた際に、住民のひとり楊志発によって兵馬俑の最初の破片が発見された。彼へのインタビューによれば、最初、鍬で土を掘り返していたところ、何か硬いものに当たったという。きっとなにか壺でも有って、昔ここに竈でもあったのだろうと何気なく掘り返していると、人間大の人形が出てきたという。その人形は左足はかけていたが、胴体は無傷で、その人形の脇には青銅の矢が置いてあった、とのことである(TBSのテレビ番組「世界遺産」の秦の始皇帝陵の回のインタビューにて)。当初、住民たちにはこの発見の価値は理解されず、発見を知らされた臨潼県文化館も現場の保護と陶俑の修復を命じたのみで上級部門への報告を怠った。2カ月後、たまたま新華社通信の記者の藺安穏が県文化館に立ち寄り、陶俑が秦代の俑であることを見抜いた。藺安穏の記事が中国共産党の内部報である『状況匯編』に掲載され、指導部の目に止まった。そこで国務院副総理の李先念が国家文物局に遺跡の保護を命じた。同年7月、陝西省が袁仲一を隊長とする考古隊を編成して、現地発掘を開始させた。1年間の発掘で、東西200メートル以上南北60メートル以上におよぶ兵馬俑坑1号坑の全容が明らかとなった。発見された俑は6000体に及んだ。1975年7月21日、新華社通信が秦始皇帝陵兵馬俑坑の発見を報じると、世界的な大ニュースとなった。1976年4月、1号坑の東端北側に兵馬俑坑2号坑が発見された。同年5月、1号坑の西端北側に兵馬俑坑3号坑が発見された。
始皇帝陵兵馬俑坑では、現在までに約8,000体の俑が確認されている。兵士の俑にはどれ一つとして同じ顔をしたものはない。また、かつては兵士の俑のそれぞれに顔料で彩色がされていたこともその後の発掘調査で判明した。指揮官・騎兵・歩兵と異なる階級や役割を反映させた造形は、始皇帝麾下の軍団を写したものである。兵馬俑の軍団は東方を向いており、旧六国を威圧したものとみなされている。21世紀に入った現在でも、兵馬俑の調査・研究は継続されており、近年の調査では、来世へと旅立った始皇帝の為に造設されたこの遺跡は、身を守る軍隊だけでなく宮殿のレプリカや、文官や芸人等の俑も発掘されている。そのため、生前の始皇帝の生活そのものを来世に持って行こうとしたと考えられている。
陝西省咸陽市(現在の渭城区)の楊家湾漢墓の陪葬坑からは、彩色された兵士俑や書記俑・執旗俑・舞踏俑などが出土している。いずれも身長は50センチメートル程度である。同じく咸陽市の長陵の陪葬墓からも、彩色された騎兵俑が出土している。また江蘇省徐州市の獅子山漢楚王墓でも、彩色された兵馬俑が出土している。
2022年、日中国交正常化50周年を記念し、36体の兵馬俑を展示する展覧会「兵馬俑と古代中国〜秦漢文明の遺産〜」が、東京(上野の森美術館)、京都(京都市京セラ美術館)、名古屋(名古屋市博物館)、静岡(静岡県立美術館)で開催された。
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