ベルファスト (HMS Belfast, C35) は、イギリス海軍の、いわゆるタウン級軽巡洋艦(サウサンプトン級)第3群。艦名は北アイルランドの首府ベルファストに因む。退役後の1971年に陳列艦として大英帝国戦争博物館分館となり、テムズ川南端のプール・オブ・ロンドンで展示されている。
タウン級軽巡洋艦はワシントン海軍軍縮条約によって排水量が10,000トン未満に制限された。本来の設計では4連装6インチ砲塔を装備する予定であったが、建造上の問題により同級初期の艦には改良型3連装砲塔が装備された。この砲塔は設計案よりも軽量であったため、節約できた重量は船体装甲および対空兵装に回された。
ベルファストは1936年(昭和11年)12月10日にハーランド・アンド・ウルフ造船所で起工する。1938年(昭和13年)の聖パトリックの祝日(3月17日)、アン・チェンバレン(当時の首相ネヴィル・チェンバレンの妻)によって進水した。建造費の総額は£2,141,514に上り、そのうち£75,000が火砲に、£66,500が搭載機に費やされた。1939年(昭和14年)8月に艦長G・A・スコット大佐の指揮下就役し、第18巡洋艦戦隊に配属された。
第二次世界大戦勃発直後の1939年(昭和14年)9月8日、イギリス海軍の巡洋戦艦2隻(フッド、レナウン)と共にスカパ・フローを出撃し、北海にむかった。9月25日、イギリス潜水艦「スピアフィッシュ」掩護のために本国艦隊が出動し、この際にドイツ空軍のJu88(アドラー戦闘団所属機)から空襲を受けて「フッド」が損傷したが、本艦は無傷だった。 第2巡洋艦戦隊に転属後の11月21日、フォース湾でドイツ軍が敷設した磁気機雷により損傷した。
1942年(昭和17年)12月25日、スカパ・フローで本国艦隊の第10巡洋艦戦隊に加わる。当時の艦長はフレデリック・ポーパム大佐であった。1943年(昭和18年)2月から3月にかけてソビエト連邦へ向かうJW53船団とソ連から戻るRA53船団の護衛に従事した(第二次世界大戦中の北極海における輸送船団)。続いて哨戒任務に従事し、その次は機雷敷設作戦に参加した。7月上旬、ハスキー作戦の陽動とドイツ戦艦「ティルピッツ」対策としてノルウェー沖で実行されたカメラ作戦 (Operation Camera) 、7月下旬のガバナー作戦 (Operation Governor) に参加した。
8月から9月にかけてはソ連へ向かう駆逐艦の護衛やスバールバル諸島の調査、敵の封鎖突破船の捜索にあたった。10月、アメリカ海軍の正規空母「レンジャー」によるノルウェー沿岸での船舶攻撃作戦(リーダー作戦)に参加。12月26日、北岬沖海戦に参加。
1944年(昭和19年)3月、タングステン作戦に参加した。6月、オーヴァーロード作戦にともないノルマンディー上陸作戦を支援した(上陸作戦、参加艦艇一覧)。
1945年(昭和20年)4月 対空兵装を日本軍の体当たり攻撃に対抗するために火器管制を2ポンド砲8門更新で対応。 同年8月7日、オーストラリアのシドニーにてイギリス太平洋艦隊の第2巡洋艦戦隊の旗艦に就任。 40mmボフォース対空砲にて近距離武装を補う。ダウンフォール作戦に参加すると予想されていたが、8月15日のポツダム宣言受託と日本の降伏によって実現されず。
1952年(昭和27年)6月、国連軍に所属して朝鮮戦争に従軍するため、極東艦隊旗艦(第5巡洋艦戦隊)として神戸港に寄港した。6月28日~29日、本艦乗組員の兵士2名が上陸中にタクシー強盗を行い、日本の神戸警察に逮捕された。同年4月28日に日本国との平和条約が発効したばかりだったので、注目を集めた。神戸地方裁判所で懲役2年半の判決が下る。 するとチャーチル政権下のアンソニー・イーデン外務大臣が松本俊一駐英大使を呼び出して抗議するなど、吉田内閣は難しい立場に置かれた。日英関係の悪化も懸念された。 大阪高等裁判所の控訴審では英兵有利に裁判が進み、11月5日に懲役2年半(執行猶予3年)が言い渡され、英水兵はイギリスに引き渡された。
1959年に砲撃用及び対空用レーダー搭載における重量過多につき魚雷発射管を撤去しこれを調整。1963年8月24日に退役し、1971年に陳列艦として大英帝国戦争博物館分館となり現在に至っている。
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