戸塚球場(とつかきゅうじょう)は、1902年(明治35年)に早稲田大学が設けた野球場。日本野球の草創期、学生野球を中心に使用され、日本で初めて照明を設置し、ナイターが行われた。後に安部球場と改称。1987年末に閉鎖され、現存しない。跡地は早稲田大学総合学術情報センターとなっている。
明治時代後半、学生野球熱が高まる中、早稲田大学で1901年(明治34年)に野球部が結成され、翌1902年10月、戸塚球場を開設した。開設にあたっては初代野球部長安部磯雄が日本の国際化に野球の発展は必要と、大学の創設者大隈重信を説得したといわれている。球場の予定地は穴八幡宮付近などが候補に挙がったが、野球が教育の一環であると考えた安部は大学に隣接していた戸塚村の農地に着目し、地主たちに借用の話をとりつけた(土地は後に早稲田大学の所有となる)。
今日の感覚にすれば一大学の野球部のホームグラウンドであり練習場にしか過ぎないが、当時は日本の野球草創期でプロ野球もなく、大学野球が人気を集めていた頃であり、かつ本格的な野球場が少ないこともあって、慶應義塾大学の三田綱町球場とともに東京の代表的な野球場だった。
1908年(明治41年)11月22日には戸塚球場でアメリカ合衆国から来日した米大リーグ選抜チームであるリーチ・オール・アメリカンチームと早稲田大学野球部が対戦した。この時に早稲田大学創設者の大隈重信が日本野球史上初となる始球式を行い、早稲田大学主将だった山脇正治を相手に一球を投じ、その球を山脇が空振りしたことが現在に伝わる始球式の形態になっているとされる。
海外チームとの招待試合や1914年からの三大学リーグ戦(早稲田、慶應、明治)が開催され、1925年(大正14年)8月には観客のためのスタンドも設置。同年秋から始まった東京六大学リーグ戦にも使用されたが、1926年(大正15年)10月に明治神宮野球場が完成すると舞台は神宮へと移り、試合数は次第に減少していった。
しかし、1931年(昭和6年)の新五大学野球リーグ(現在の東都大学野球連盟の旧名称)の結成式及び結成記念試合を行ったり、さらに1936年(昭和11年)にはこの年に始まったプロ野球(当時日本職業野球連盟)の試合も行われた。
戸塚球場は、四つの「日本初」の試みが行われた場所としても歴史に名をとどめている。
しかし、戦時色が強まる中で1941年4月に戸塚球場を戸塚道場と改称、さらに1943年(昭和18年)6月には鉄製スタンドと照明塔を撤去。同年10月16日には出陣学徒壮行早慶戦が行われ、戦地へ赴く早慶の学生たちが白球を追った。空襲により更衣室・バックネットなどに損失を被ったが、終戦後戦地から還ってきた学生たちにより活動を再開した。
1949年(昭和24年)、東京専門学校時代に講師を務め、野球部創設時に部長を務めた安部磯雄が死去すると、その功績を顕彰して安部球場と改称された。神宮球場の接収解除に伴い、東京六大学野球の公式戦で使われることはなくなったが、夏の甲子園東東京大会の会場として多く使われた(この頃のマスコミでの表記は「早大球場」)。
1987年(昭和62年)11月22日の「サヨナラ安部球場」全早慶戦(試合開始前に式典を挙行)をもって球場は閉鎖され、早稲田野球部の練習場は東伏見野球場(2015年(平成27年)11月より「安部磯雄記念野球場」に改称、東京都西東京市)へと移転した。スタンドの取り壊しは1989年(平成元年)。
跡地は現在、早稲田大学総合学術情報センターが置かれ、中央図書館、国際会議場などが入っている。センターの入口に安部と初代監督飛田穂洲の胸像が置かれている。この2体は球場のセンター後方にあったもので、球場閉鎖後もこの地に残すことを大学と野球部の協定で決めたものである。
2022年(令和4年)には日本野球聖地・名所150選に選定された。
閉鎖時の施設とは一致しない可能性がある。
東京都新宿区西早稲田1丁目20
1936年夏季の東京大会トーナメント戦(9試合)が開催された。
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