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久松勝慈


久松勝慈


久松 勝慈(ひさまつ かつなり)は、下総国多古藩第8代(最後)の藩主(知藩事)。官位は従五位下・豊前守。

生涯

安政2年(1855年)4月20日、7代藩主・松平勝行の長男として誕生した。慶応4年/明治元年(1868年)正月より、御所台村(現在の多古町御所台)で私塾「螟蛉めいれい塾」を開いていた並木栗水(大橋訥庵門下)が招かれて源三郎(勝慈)の侍講となっている。同年2月に父と共に姓を松平から久松に改める。明治2年(1869年)6月19日に従五位下・豊前守に叙位・任官する。

明治2年(1869年)8月に父が死去したため、10月に家督を継ぎ、多古藩知事に任じられた。明治4年(1871年)7月の廃藩置県により知藩事職を免じられ、多古県知事に任命されるが、東京在住を命じられ、政務は旧藩の大参事以下が仮に執ることとなった。多古県は同年11月、第1次府県統合によって消滅し、新治県の管轄地域になった。

1875年(明治8年)3月14日の公立多古学校(現在の多古町立多古第一小学校)創設に際しては旧藩庁を校舎として提供する。1884年(明治17年)の華族令で子爵となる。 

1889年(明治22年)4月1日、町村制施行に伴い多古村が発足すると、初代村長となった。多古村は明治24年(1891年)6月29日に町制を施行し多古町となるが、勝慈は引き続き多古町長を務め、1897年(明治30年)3月まで在職し、下総国山倉神社社掌なども務める。

1904年(明治37年)11月2日に死去した。享年50。

栄典

  • 1889年(明治22年)7月30日 - 正五位

家族

  • 父:久松勝行
  • 母:栄子(操善院) - 本多忠考の娘
  • 妻:松平昌子(まさ子) - 松平頼縄の七女
  • 子女
    • 久松敍子 - 香取勇雄夫人、のち子安宣次郎夫人
    • 久松恭子 - 大代有鄰養女
    • 久松勝親 - 襲爵。妻の基子は伯爵久松定謨の三女
    • 久松寿子
    • 久松喜久子

脚注

注釈

出典


Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 久松勝慈 by Wikipedia (Historical)


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