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ジム・カート


ジム・カート


ジェイムズ・リー・カートJames Lee Kaat, 1938年11月7日 - )は、アメリカ合衆国ミシガン州ジーランド出身の元プロ野球選手(投手)。ニックネームは「Kitty」。

日本語メディアにおいてはジム・カットと表記されることもある。

経歴

1957年6月17日にワシントン・セネターズと契約。1959年8月2日のシカゴ・ホワイトソックス戦でメジャーデビューし、同年は2敗・防御率12.60。1960年4月27日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初勝利を挙げるが、その後5連敗で6月にマイナー降格。チームがミネアポリスに本拠地を移転し、ミネソタ・ツインズと改称した1961年は先発ローテーションに定着し、9勝17敗、防御率3.90、共にリーグ最多の11死球、10暴投を記録。1962年は5月12日から7連勝を記録し、オールスターゲームに初めて選出される。後半戦で10勝6敗、防御率2.43と調子を上げ、18勝14敗、防御率3.14、いずれもリーグ最多の5完封、18死球、13暴投を記録。初のゴールドグラブ賞を受賞し、以後15年連続で受賞する。1963年は故障もあって10勝に留まるが、1964年は17勝を挙げる。1965年はシーズンを通じて防御率2点台を維持するなど好調で、被安打267はリーグワーストながら18勝11敗、防御率2.83を記録し、チームの32年ぶり、移転後初となるリーグ優勝に貢献。ロサンゼルス・ドジャースとのワールドシリーズでは3試合に先発し、いずれもサンディー・コーファックスと投げ合う。第2戦では1失点完投勝利を収めるが、第5戦では3回途中4失点、中2日の第7戦では4回途中2失点で降板して敗戦投手となり、チームは3勝4敗で敗退した。

1966年は4年ぶりにオールスターゲームに選出され、8月11日から8連勝を記録するなど25勝13敗、防御率2.75、205奪三振、いずれもリーグ最多の41先発、304.1イニング、19完投、271被安打を記録し、最多勝のタイトルを獲得。MVPの投票では5位に入るが、当時サイ・ヤング賞は現在とは違って両リーグで1人だけの選出だったため、27勝9敗、防御率1.73、317奪三振を記録したコーファックスが受賞したが、もしリーグで1人であれば選出されていた可能性は高い。皮肉にも翌1967年からリーグで1人の選出となった。同年は1勝7敗と出足でつまずくが、9月に7勝、防御率1.51を記録。チームはボストン・レッドソックス、デトロイト・タイガースと熾烈な優勝争いを演じ、勝てば優勝が決まる9月30日のレッドソックス戦で先発したが3回途中で降板してチームは敗れ、翌日も敗れて1ゲーム差でリーグ優勝を逃した。1968年は故障で1ヶ月出遅れたが14勝、防御率2.94を記録。エクスパンションによって4球団が誕生し、東西2地区制となった1969年も14勝を挙げ、チームの地区優勝に貢献。ボルチモア・オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは登板がなく、チームは3連敗で敗退した。1970年も14勝で、チームは地区連覇を果たす。前年に続きオリオールズとの対戦となったリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発したが3回途中4失点で敗戦投手となり、チームも3連敗で敗退。1971年は13勝。1972年は開幕から好調で10勝2敗、防御率2.06を記録するが、7月2日を最後に故障で離脱しシーズンを終えた。1973年8月15日にウェーバーにかけられ、ホワイトソックスが獲得。

1974年は6月7日から7連勝、9月・10月には7勝、防御率0.30を記録し、21勝13敗、防御率2.92の好成績。1975年は前半戦で13勝を挙げ、9年ぶりにオールスターゲームに選出され、20勝14敗、防御率3.11を記録。12月10日に3選手との交換トレードで、1選手と共にフィラデルフィア・フィリーズに移籍。

1976年は前半戦は9勝3敗、防御率2.91と好調だったが、後半戦で3勝11敗、防御率4.20と調子を落とす。チームは地区優勝を果たし、シンシナティ・レッズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し、ビッグレッドマシンと呼ばれた強力打線を6回まで1安打に抑える好投を見せたが7回に捕まり、チームは逆転サヨナラで敗れて3連敗で敗退した。1977年は開幕からリリーフで起用され、5月に先発に戻るが6勝11敗・防御率5.39に終わる。ブルックス・ロビンソンに並ぶ16年連続16回目のゴールドグラブ賞を受賞した。1978年はシーズン初登板で完封勝利を挙げるが8勝。1979年5月11日にニューヨーク・ヤンキースに移籍し、以後はリリーフとしての起用が中心となる。オフにフリーエージェントとなるが1980年4月1日に再契約。4月30日にセントルイス・カージナルスに移籍し、8勝4セーブを記録。1982年は62試合に登板し、チームはリーグ優勝。ミルウォーキー・ブルワーズとのワールドシリーズでは4試合に登板し。チームは4勝3敗でワールドチャンピオンとなり、自身唯一のチャンピオンリングを手にした。1983年7月6日に解雇され、現役を引退した。

25シーズンのキャリアは、投手としてはノーラン・ライアンの27、トミー・ジョンの26に次いで歴代3位である。1950・60・70・80年代の「4ディケード」でプレイした選手で、引退した時点で1950年代にプレイした最後の選手であった。またツインズの前身であるセネターズでプレイした最後の選手でもあった(後にテキサス・レンジャーズとなったセネターズの選手を除く)。

投手としては打力に優れ、投手としての登板の他106試合に代打等で起用されている。通算で打率.185、16本塁打、106打点を記録。1964年には3本塁打も記録している。

引退後は1984年にフィリーズ時代のチームメイトで、当時シンシナティ・レッズの監督兼選手であったピート・ローズの下、投手コーチに就任し、その後は野球解説者に転身。ドワイト・グッデンのノーヒットノーランとデビッド・ウェルズの完全試合達成のシーンにも遭遇した。解説業を長らく続ける一方、2018年には古巣ツインズの特別アドバイザー兼オーナー補佐に就任している。

アメリカ野球殿堂入りは長らく果たせなかったものの、2021年12月5日、ベテランズ委員会の選出により、殿堂入りを果たした。また、殿堂入りを記念し、古巣ツインズはカートの在籍時の背番号『36』を永久欠番に指定することを発表し、2022年7月16日にターゲット・フィールドにて永久欠番表彰式が執り行われることとなった。

投手としての球種はスライダー、カーブ、スラーブ(米書 「guide to pitchers」より)

詳細情報

年度別投手成績

  • 各年度の太字はリーグ最高
  • WS2(ワシントン・セネタース)は、1961年にMIN(ミネソタ・ツインズ)に球団名を変更

年度別守備成績

  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 各年度の太字年はゴールドグラブ賞受賞

タイトル

  • 最多勝利:1回(1966年)

表彰 

  • ゴールドグラブ賞(投手部門):16回(1962年 - 1977年)※連続16回受賞は史上最多タイ記録

記録

  • MLBオールスターゲーム選出:3回(1962年、1966年、1975年)

背番号

  • 21(1959年 - 1960年途中)
  • 36(1960年途中 - 1975年、1979年途中 - 1983年)
  • 39(1976年 - 1979年途中)
  • 47(1979年途中 - 同年途中)

脚注

外部リンク

  • 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
  • Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介

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Text submitted to CC-BY-SA license. Source: ジム・カート by Wikipedia (Historical)