北村 誠吾(きたむら せいご、1947年〈昭和22年〉1月29日 - 2023年〈令和5年〉5月20日)は、日本の政治家。位階は従三位。
内閣府特命担当大臣(地方創生・規制改革)、まち・ひと・しごと創生担当大臣、防衛副大臣(福田康夫改造内閣・麻生内閣)、衆議院議員(8期)、長崎県議会議員(4期)、佐世保市議会議員(1期)、自民党長崎県連会長等を歴任した。
長崎県北松浦郡小値賀町生まれ。1970年、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。大学卒業後、白浜仁吉代議士の秘書となる。
1982年、長崎県議会議会補欠選挙(北松浦郡選挙区)に立候補するが、落選。1983年に佐世保市議会議員選挙に立候補し、初当選した。1期目の任期途中で市議を辞職し、1986年の第38回衆議院議員総選挙に旧長崎2区から保守系無所属として出馬したが、落選。1987年に長崎県議会議員選挙に立候補し、当選した。以後4回連続当選。
4期目の任期途中で長崎県議を辞職し、2000年の第42回衆議院議員総選挙に長崎4区から無所属で出馬。自由民主党現職の宮島大典らを破り、当選した。当選後は、同様に保守系無所属として当選した衆議院議員9人で院内会派「21世紀クラブ」(代表:山本幸三)を結成。2001年、自民党に復党する。第2次小泉改造内閣では防衛庁長官政務官に任命された。2003年の第43回衆議院議員総選挙・2005年の第44回衆議院議員総選挙で再選。
2008年、福田康夫改造内閣で防衛副大臣に就任、麻生内閣まで務める。2009年の第45回衆議院議員総選挙に自民党公認・公明党推薦で長崎4区でから立候補。民主党の宮島に初めて敗れたが、重複立候補していた比例九州ブロックで復活し、4選。
2010年10月、衆議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長に就任。
2012年の第46回衆議院議員総選挙では自民党公認(公明党推薦)で長崎4区から立候補し、前回敗れた民主党の宮島に比例復活を許さず、5選。
2014年の第47回衆議院議員総選挙では再び宮島を比例復活も許さず破り、6選。
2017年の第48回衆議院議員総選挙では希望の党の宮島を比例復活も許さず破り、7選。
2019年9月11日、第4次安倍第2次改造内閣で内閣府特命担当大臣(地方創生・規制改革)として初入閣。また、まち・ひと・しごと創生を担当する国務大臣も兼任した。
2021年の第49回衆議院議員総選挙では、県連の推す県議の瀬川光之との公認争いの余波もあり、立憲民主党の新人の末次精一に391票差まで迫られるも、8選(末次は比例復活で当選)。
食道がんを患い療養しており、2023年4月28日、次期衆院選に立候補しない意向を明らかにしていたが、同年5月20日夜、東京都内の病院で死去した。76歳没。死没日付をもって従三位に叙され、旭日大綬章を追贈された。同月27日、北村の葬儀・告別式が開かれ、大石賢吾知事や自民党関係者ら約800人が出席。式では、小値賀町の西村久之町長、佐世保市の朝長則男前市長、党県連会長の古賀友一郎参議院議員が弔辞を読んだ。また、北村に対する追悼演説は同年6月13日、衆議院本会議において同期当選の上川陽子によって行われた。
北村は不出馬表明と同時に県議の山下博史を後継指名していたが、公募の結果、金子原二郎元参議院議員の長男の金子容三が党公認候補に選ばれた。
2019年9月14日、長崎県佐世保市で記者会見し、一部住民が反対している長崎県川棚町の石木ダム建設計画についてダム建設で景観が変わるとの指摘について「原風景への思いは人それぞれに価値観の違いがある。誰もが共通に思うものだと言えるかどうか」と疑問を呈し、「人がそれぞれの立場と生き方の中で、自分自身の何かを犠牲にして生きていると思う」と持論を述べ、生活の維持のためには住民の犠牲はやむを得ないとの認識を示した。また、佐世保市民として渇水に苦しんだ経験や、(海軍によって整備された)佐世保の上下水道を修理・補修する際に代わりの水源を確保しておく必要からもダムの必要性を主張した。
その後、17日の閣議後の記者会見で、「閣僚としてではなく長崎出身の政治家として地元の問題について述べた」と語った。発言について、謝罪や撤回はしない考えを示す一方、「不快な思いをさせるような表現ということであれば、今後は十分注意していきたい」とも述べた。
2020年2月4日、衆議院予算委員会において、市内への転入者が市外への転出者を上回っている島根県江津市のケースを安倍晋三内閣総理大臣が地方創生の成功例としてあげたものの、地方創生大臣であった北村は「転入超過は引き続き残念ながら存在しております」と答弁し、与党閣僚からも失笑を買うことになった。
2020年2月6日、桜を見る会の名簿の一部を白塗りにしたことが公文書の改竄に当たるかどうかを問われ、「刑法上の改竄ではない」と一度答弁した後、「私の思いを伝えた」「刑法上の改竄ではないと内閣府から説明を受けた」と回答を二転三転させた。翌7日の記者会見では、「勉強不足」を認め「劣った大臣と言われずに済むよう努める」と述べた。しかし同7日その後の衆議院予算委員会では、公文書管理に関する質問をされて答えられず、たびたび審議が中断し、野党議員が途中で退席した。その後、与党側は内閣府の官僚を答弁に立たせ、事態の鎮静を図ったが、法律の基礎となる「条・項・号」をそもそも理解できておらず、委員長から失笑される場面もあった。
規制改革担当大臣としてオンライン診療の活用や遠隔教育などに関するタスクフォースを規制改革推進会議の下に設置する考えを明らかにした。
また、記者会見で、新型コロナウイルスの感染拡大防止に向け「外出を控えてね ウイルスをあげないようにもらわないように」との自作の標語を披露し、国民に協力を呼び掛けた。北村は「お子さんでも分かるように考えた」と説明。「ウイルスは人が運ぶ。これからの2週間、みんなで自宅にとどまって我慢してほしい」と訴えた。
2020年9月17日、後任の坂本哲志氏に、自身が在職中に47都道府県の視察を達成したことに触れ「47回って相当ほら吹いてきましたから。後の始末をよろしくお願いします」と述べた。
臨時国会が開かれていた2022年11月、北村の「居眠り姿」が写真に収められ、報道された。北村は「怪我の影響で痛み止めを服用しているためか、寝てしまったかもしれない」と回答した。また、「国会議員の本会議出席率(2022年)」で、北村は衆院ワーストの欠席回数17回、出席率48.5%となった。それに対して、北村は「派閥の了承を得たうえで欠席している」「けっして怠けて休んでいるわけでもないので」と、回答した。なお、翌年の死去で食道がんの闘病中であったことが明らかとなった。
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