山口 富士雄(やまぐち ふじお、1942年7月16日 - )は、香川県高松市出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ。
高松商業高校では2年生の時、1959年夏の甲子園予選北四国大会決勝に進むが西条高に惜敗。同年の秋季四国大会でも決勝に進出。広野功らのいた徳島商に延長10回裏逆転サヨナラ負けを喫するが、翌1960年の春の選抜への出場を決める。大会では主将、三番打者、遊撃手として活躍、2年生左腕の松下利夫(明大→四国電力)の好投もあり勝ち進む。準決勝は松下が北海高の佐藤進との投手戦を制し完封勝利。決勝では米子東高と対戦。同点の9回裏に宮本洋二郎から、史上初となる決勝戦サヨナラ本塁打を放ち2x-1で優勝を飾る(この大会唯一の本塁打でもあった)。同年夏は香川県予選準決勝で多度津工に敗れ、春夏連続の甲子園出場はならなかった。卒業後は立教大学へ進学するも2年で中退した。
1963年に阪急ブレーブスへ入団。1年目から一軍に上がり、内野全般をこなせるユーティリティプレーヤーとして活躍。1966年には遊撃手の定位置を確保し、初めて規定打席に到達(28位、打率.206)。その後、阪本敏三が遊撃手に定着すると二塁手に回り、住友平とレギュラーを長年争う。1967年からの3年連続リーグ優勝に貢献。1967年の巨人との日本シリーズは故障で出場できなかったが、翌1968年の日本シリーズでは3試合に先発。第6戦では堀内恒夫から代打本塁打を放つ。1969年には打率.282(14位)の好記録を残す。同年の巨人との日本シリーズでは全6試合に先発出場するが、24打数2安打と抑え込まれた。第4戦では高校・大学(ともに中退)の先輩である岡村浩二の退場事件の端緒となる本塁送球を行っている。1971年の巨人との日本シリーズでも前半3試合に先発するが無安打に終わり、ジェリー・エイデアーに定位置を譲る。
1973年シーズン途中に、竹村一義との交換トレードで大洋ホエールズに移籍したが、同年オフに引退。
1974年から1977年まで古巣・阪急の二軍コーチを務めた。その後はスカウトも歴任。
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