川中 美幸(かわなか みゆき、1955年〈昭和30年〉12月5日。 - )は、日本の女性演歌歌手。本名:山田 岐味子(旧姓:川中)。夫は元関西テレビ社員で、テレビプロデューサー。
大阪府吹田市出身(ただし鳥取県米子市で生まれ、幼少の頃に大阪府吹田市に転居したとされる)。
1973年6月、「春日はるみ」の芸名でワーナー・パイオニアより「新宿天使」でデビューするも低迷。同期歌手は山口百恵、桜田淳子など。
1977年4月、「川中美幸」と改名し、テイチク・レコードより「あなたに命がけ」で再デビュー。
1980年3月25日に「ふたり酒」を発売。同年4月、文化放送の深夜放送『走れ!歌謡曲』のパーソナリティーに局アナ以外で初めて抜擢され、「ふたり酒」のミリオンセラーに繋がったとされる。
1981年12月31日、第32回NHK紅白歌合戦で紅白初出場。以後、紅白には計24回出場し(2022年時点)、2006年には自身初となる紅組トリを務めた(詳しくは、NHK紅白歌合戦出場歴の欄を参照)。
1983年7月、大阪梅田コマ劇場において初座長公演「浪花慕情・ねんねころいち」を開催。
1987年4月、初のアメリカ公演。1990年8月、初の中国公演「川中美幸中国友好公演」を開催。
1993年4月1日、株式会社サンミュージックプロダクションに所属。
1994年第36回日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞(その他「賞」については、後述の受賞歴を参照)。
1995年7月10日、藤扇流名誉名取取得「藤扇三之(ふじおうぎみゆき)」。
1998年1月1日、シングル「二輪草」発売。1999年5月同曲が100万枚突破したことを受けて、板橋区 “にりんそう公園” にて「二輪草」歌碑が建立された。
2007年2月20日、石川県観光大使に任命される。
2010年9月から放送のNHK連続テレビ小説「てっぱん」にレギュラー出演。
2017年11月15日、同年は日本歌謡史に足跡を残した作詞家・阿久悠の没後10年・生誕80年の節目の年にあたり、レコードメーカー7社合同企画アルバム「阿久悠メモリアル・ソングス~私のいい人つれて来い~」に未発表詞による新曲「小樽まで」で参加。
父は三波春夫の大ファン、母は美空ひばりの大ファンで、物心ついた頃から家の中で絶えず演歌が流れていた。兄がいる。子供の頃は狭いアパートの貧乏暮らしで、川中には勉強机がなく兄の机の引き出しのみを使わせてもらっていた。幼い頃から演歌を見様見真似で歌っており、小学3年生の時に家族で遊びに行った東大阪市のヘルスセンターで開かれた「ちびっこのど自慢大会」に、父にけしかけられて飛び入り参加。都はるみの「馬鹿っちょ出船」を歌って優勝し、副賞として勉強机をもらった。
このことは本人だけでなく両親も喜び、以後関西の色々なのど自慢大会に参加し、何度も優勝して賞金や副賞をもらうようになった。その頃父はある事情がきっかけで身体を悪くし、代わりに母が人の倍以上働いて生活を支え、父が背負った借金を返していた。子供心に「私がプロの歌手になれば、もっと親を助けられる」と思うようになった。
中学2年生の頃に作詞家・もず唱平にスカウトされ、中学卒業を待って父と2人で大阪から上京。東京の定時制高校に通いながら1年間の準備期間を経て、17歳で春日はるみの芸名でデビューした。デビュー当初、川中の歌を聞いた人たちから「すごい歌手が出てきた!」と騒がれた。
しかし当時はアイドル全盛時代で、新人演歌歌手の川中はほとんど見向きしてもらえず、上記の歌声を褒めてくれた人たちもほどなくしてアイドルを応援するようになった。これらにより傷心したことから2年間の歌手活動を終えて大阪の実家に戻り、以後母が営むお好み焼き屋の手伝いをしながら今後の身の振り方を考えた。
19歳の頃、もず唱平から「大阪で『ネオン街音楽祭』という大会がある。歌手としてやり直してみないか?」と誘われた。当時芸能界復帰は考えていなかったが、もずの熱心な説得や、母に背中を押されたことでもう一度だけ大会に出ることを決めた。同大会では約650人の応募者の中から最終的にグランプリに選ばれ、再デビューの切符を手にした。「25歳までに売れなければ、今度こそ歌手を諦める」との条件を決め、21歳で川中美幸として再デビュー。この頃はロングドレスにダウンヘアで大人の歌を歌ったが、ヒットに恵まれないまま24歳が過ぎた。
5曲目となる「ふたり酒」の歌詞は、男口調で「いきてゆくのがつらい日はおまえと酒があればいい」という、しみじみした夫婦の歌である。母との電話で新曲である同曲を聴かせると電話口の向こうで母の泣く声を耳にし、「この歌はうちの両親の歌だ」と気づいた。これをきっかけに同曲の歌い方をささやくように変えた所、徐々にヒットの手応えを感じ始め、結果的に初めての代表作となった。数年後、都心から少し離れた場所に念願の家を建てることができ、両親を呼び寄せた。
詳しい年は不明だが、「ふたり酒」のヒットから数年後に両親を新築の家に春に呼び寄せた後、父はその年の暮に他界した。母はその後2017年頃に92歳で他界した。
34歳で上沼真平の部下の男性と結婚し、仲人は上沼真平、恵美子夫妻が務めた。
血液型 B型。
趣味は、ゴルフ、鉄板料理、小物集め(ミニチュアのフィギュアや、犬や猫の小さな置物などを飾って鑑賞している)。
2007年3月末に、世界で唯一レーザーディスクの製造を続けていたメモリーテックが製造を停止し、川中の「金沢の雨」が最後の作品となった。最後にプレスされた盤は記念プレートにされ、テイチクエンタテインメント社長を介して川中本人に贈られた。
1981年、「ふたり酒」が大ヒットを果たし、『第32回NHK紅白歌合戦』で念願の紅白初出場となった。その後、1988年・1989年と1993年から1997年は紅白落選となるも、「二輪草」がロングセラーを記録して1998年の第49回で9年振りに紅白復帰を果たし、2011年・第62回まで14年連続出場した。
川中美幸の紅白出場回数は通算24回で、紅組歌手の中では2011年当時で6位タイ(2020年・71回現在は松田聖子と並び8位タイ)の記録である。そのうち2006年・第57回は、「ふたり酒」で川中自身唯一の紅組トリを務めた。
1983年の第34回では、高熱で真っ赤な顔をしながら「遣らずの雨」を口パクした。
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