加藤 一二三(かとう ひふみ、1940年〈昭和15年〉1月1日 - )は、日本の将棋棋士。
ワタナベエンターテインメント所属。
実力制6人目の名人。剱持松二九段門下(当初は南口繁一九段門下)。棋士番号は64。2017年6月20日に現役を引退した。福岡県嘉麻市出身、同市の名誉市民。仙台白百合女子大学客員教授(2017年6月23日 - )。勲等は旭日小綬章。文化功労者。
戦前生まれの名人経験者としては最後の存命者である。次女は仙台白百合女子大学学長の加藤美紀。
「
最高齢現役(2017年6月20日引退)、最高齢勝利、最高齢対局、現役勤続年数、通算対局数、通算敗戦数は歴代1位であり、1950年代・1960年代・1970年代・1980年代・1990年代・2000年代の各年代で順位戦最高峰A級に在籍したことがある唯一の棋士である。14歳7か月で当時の史上最年少棋士(62年後の2016年に藤井聡太が更新)・史上初の中学生棋士となった。
順位戦デビュー(C級2組)からA級まで4年連続でのストレート昇級を果たし、最年少A級昇級記録(18歳3か月)を保持している。後に藤井聡太が更新した将棋界の最年少記録の多くは、加藤がかつて有していた記録である。しかし藤井も、加藤の「18歳3か月でA級昇級」の最年少記録については、プロデビューの時点で更新不可能であった。加藤は2016年10月にプロデビュー直後の藤井と対談したが、加藤がそのことを話すと、藤井はその場で指を折って年数を数えてから頷いたとのこと。
19世紀・20世紀・21世紀の3つの世紀に生まれた棋士と公式戦で対局した、史上唯一の棋士でもある。
また、加藤の引退時点において、加藤自らを除く、全ての実力制名人と対局経験がある。
大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖を相手に、それぞれ100回以上対局している(百番指し)。
1940年1月1日、福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)で生まれた。カトリック信者であり、1986年にローマ教皇庁から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を受章している。紫綬褒章(2000年春)。嘉麻市名誉市民(2016年)。旭日小綬章(2018年春)。
京都府立木津高等学校卒業、早稲田大学第二文学部中退。「一二三」という名前の由来は「一月一日(紀元二千六百年)に生まれた三男」。青年棋士時代、他の棋士からの愛称は「一二三」の「一」にちなむ「ピンさん」であり、加藤はこの愛称を気に入っていた。中年時代のあだなは「ベア(熊)」。2017年現在、幅広い層から「ひふみん」の愛称で親しまれている。また自身の洗礼名にちなんだ「パウロ先生」という愛称もある。
中学3年生で棋士になり、学校を頻繁に休まざるを得なかった加藤に、授業のノートを届けてくれた中学校の同級生の女子を妻に迎えた。結婚したのは、1960年1月15日、同い年である二人の成人式の当日のことであった。仲人は、加藤と厚い信頼関係にあった升田幸三が務めた。
加藤は最後の対局では、最初に妻に礼を言いたく感想戦もなく場を後にして帰宅した。引退に際しての記者会見(2017年6月30日)では「同時に、やはり長年にわたって私とともに魂を燃やし、ともに歩んできてくれた妻に対して、深い感謝の気持ちを改めてここに表明する次第ですね、はい。」と語り、妻への謝意を表した。
将棋界でも有数のクラシック音楽通として知られる。また、サッカーファンとしても知られており、特にスペインのサッカーチームであるレアル・マドリードを20年近く応援している。2022 FIFAワールドカップでは開催国(カタール)との時差により、日本時間で深夜・早朝の試合が多いにもかかわらず、日本代表戦を含む多くの試合をリアルタイムで観戦している。
加藤は将棋界においてかなりの健啖家として知られており、また、対局時の食事やおやつのエピソードが多い。現役最晩年の70代になっても変わらず大食漢であった。
このような食生活のため肥満体型であり、2016年現在でも体重が100kgを超えているという。そのため、「エアロバイクに耐荷重オーバーで乗れない」といった問題があり、ダイエットの必要性を認識しているが、なかなか実行に移せないと語っている。
加藤は1970年12月25日に下井草カトリック教会で洗礼を受けた。洗礼名はパウロ。
翌1971年10月にバチカンでおこなわれたマキシミリアノ・コルベの列福式に参列しており、さらに1982年10月10日にはコルベの列聖式にも参列し、彼の出身地・ポーランドも訪れた。1986年にはローマ教皇ヨハネ・パウロ2世から聖シルベストロ教皇騎士団勲章を授与される。後に湾岸戦争が起こると「(自分は騎士なので)有事の際には馬に乗って駆けつけなければならない」と将棋観戦記者である東公平に冗談を述べており、騎士と棋士に引っ掛ける冗談も多い。
麹町の聖イグナチオ教会では、同教会で挙式するカップルを対象とした「結婚講座」の講師を夫人と共に務めている。2018年に35年目を迎えた。
また、自身の異名の1つである「1分将棋の神様」について、キリスト教徒として「神様」という言葉は重要なものだとし、この呼ばれ方を嫌っている。代わりに「達人」もしくは「名手」と呼んでほしいと語っている。
肩書、タイトルはいずれも当時。
1940年1月1日、福岡県嘉穂郡稲築村(現・嘉麻市)で生まれた。
加藤と将棋の出会いは、幼稚園の頃に近所の子どもが指しているのを見て覚えたことだという。しかし、この時はすぐに周りの子どもたちに常勝するようになり、飽きて将棋から離れてしまった。その後、小学4年生の時に、新聞に載っていた将棋の観戦記と詰将棋に感銘を受け、再び将棋を指し始めた。加藤は特別な将棋の勉強や修行をしたことはなかったと述べ、それでもこの頃の棋力はアマ初段くらいだったという。
1951年9月、南口繁一門下として3級で関西奨励会に入った。この時の入会試験官を務めた奨励会員は有吉道夫であり、加藤は勝利した。この入会の経緯について田丸昇によれば、小学6年生の夏休みに京都の親類を父と共に訪ねた加藤が京都の将棋大会に参加し、審判長を務めていた南口の指導対局を受け、2枚落ちで2連勝し、加藤の棋才に感嘆した南口から棋士を目指すよう勧められたからだという。そして南口の内弟子となり、南口の自宅がある京都府相楽郡木津町(現・木津川市)にて高校を卒業するまで過ごした。
奨励会時代の加藤は、当時の棋界のトップ棋士の一人であった升田幸三に誘われ、関西本部にてよく将棋を指した。加藤によれば升田との出会いはまだ奨励会に入る前、連盟の関西本部で板谷四郎に飛香落ちで指導対局を受けていた折に、偶然通りかかった升田に棋才を見いだされてからだという。この時、小一時間ほども加藤と板谷の対局を見つづけた升田は最後に「この子、凡ならず」と漏らしたと加藤は述べている。この升田との対局は平手かつ升田が自分の研究手をぶつけるほどで、トップ棋士が奨励会員を相手にするには異例の態度であったが、加藤の方も簡単には負けなかったという。後年の加藤は「升田九段は私が小学生の時に出会ってから終生、私に目をかけてくれた。有益な助言も数知れない。」と回顧している。
加藤が四段に昇段する半年ほど前に関西奨励会に6級で入会した内藤國雄は2018年に当時のことを振り返り、今から思えば、この時にすでに加藤がA級八段に近い棋力があったような気がしたと述べている。
1954年8月1日付で四段に昇段し、当時の史上最年少棋士(14歳7か月)・史上初の中学生棋士となった。加藤の最年少棋士記録は、2016年に14歳2か月で四段に昇段した藤井聡太が更新するまで、62年にわたり維持された。なお、加藤によれば自身がプロ入りした時の反響はさほどではなかったという。
8月1日付であったが、順位戦については同年度6月から始まっていた第9期順位戦に途中よりC級2組で参加した(同期四段の佐藤庄平と市川伸も同様)。この年のC級2組はかなり変則的であり、途中より東組(東京)と西組(大阪)で組分けされ、加藤は7名の西組に属して12回戦を戦った(よってリーグ内の同一人物と2回ずつ戦った)。11月2日の畝美与吉六段戦で最年少勝利を挙げるなど、11勝1敗の好成績でC級1組昇級を決め、1955年4月1日付で15歳3か月による最年少五段昇段を果たした。続けてC級1組を10勝3敗、B級2組を9勝2敗、B級1組を10勝2敗でいずれも1期抜けし、1958年4月1日付で18歳3か月でのA級八段となる偉業を成し遂げた。「神武以来(じんむこのかた)の天才」と呼ばれ、朝日新聞の「天声人語」でも取り上げられるなど、大きな反響があった。当時の昇段規定は順位戦のみだったこともあり、これは順位戦の各昇級と各昇段のいずれも当時の最年少記録を次々と塗り替えていく結果も意味していた。
順位戦以外のタイトル棋戦や、一般棋戦での活躍も顕著であり、1955年11月22日には当時始まった新人棋戦である第1回六、五、四段戦で優勝し、15歳10か月で最年少棋戦優勝記録を樹立した。また、1956年度には16歳で王将戦リーグ入りし、1957年1月24日には高松宮賞争奪選手権戦で優勝して、新人棋戦を除く公式棋戦の最年少優勝記録17歳0か月を樹立した。
こうした最年少記録は、先述した62年後の2016年に四段となった藤井聡太が登場するまで脅かされることすらなく、四段昇段(14歳2か月)、初勝利(14歳5か月)、一般棋戦優勝(15歳6か月)、全棋士参加棋戦優勝(15歳6か月)と藤井に更新されてしまったものもあるが、王将戦リーグ入りや、参加時期のズレによる順位戦の各記録は破られていない(ただし、当時とは昇段規定が異なるため六段、七段、八段昇段は藤井に更新されている)。
A級初年度となった第13期順位戦は4勝5敗の負け越しで8位という成績であったが、2年目の第14期(1960年度)は6勝2敗で名人挑戦権を得た。20歳3か月の挑戦は、他棋戦のタイトル初挑戦も含め、当時の最年少記録であり、2020年現在においても名人挑戦は最年少記録を維持している。名人挑戦権を獲得する少し前の1960年2月1日には、朝日新聞朝刊の新聞漫画『サザエさん』で、活躍する若者の代表として、力士の大鵬幸喜(加藤より1学年下)と共に「しょうぎの加藤八段」として言及された。しかし、第19期名人戦七番勝負は1勝4敗で大山康晴名人に敗れた。
新進気鋭の天才として若くしてトップ棋士となったものの、タイトル獲得には時間がかかった。
1960年代は、上記の名人戦を皮切りにタイトル戦に7回登場したが、相手はいずれも大山であった。当時は大山の全盛期であり、毎年全部ないしはほとんどのタイトルを大山が占めていた。しかし、6度目のタイトル挑戦となった1968年度の第7期十段戦において、大山十段(名人を含む四冠)をフルセットの接戦の末に破り、プロ15年目、29歳で、ついに初のタイトル獲得を果たした。7回目はその防衛戦(第8期十段戦)であり、大山の挑戦を受ける形となったが2回の千日手を含む2勝4敗で失冠した。
1970年代から1982年にかけては、一転して中原誠との対決の時代となる(将棋界が「大山時代」から「中原時代」に移行したことも意味する)。 この期間、タイトル戦に14回登場したがそのうち中原との対決は9回にも上った。最初の対決は1973年度の名人戦であり、前年に13年に渡って君臨していた大山から名人位を獲得した中原に挑む形であった(よって中原の初名人防衛戦でもあった)。しかしストレート負けを喫し、以降、中原には十段戦において第15期(1976年度)、第16期(1977年)と連続で挑んだが、いずれも退けられた。中原との対戦成績は、最初の22局(第15期十段戦第1局まで)においては1勝21敗と惨憺たるものとなっていた。
一方、棋王戦においては1976年度に大内延介から2度目のタイトルを獲得し、翌1977年度に中原の挑戦を受けるが今度は逆にストレートで防衛を果たした。これは当時五冠で、棋王を獲得すれば全六冠達成が掛かっていた中原を阻む快挙でもあった(結果、これが中原の複冠の最高記録となる)。続く1978年度では第28期王将戦でも中原からタイトルを獲得し、2冠を達成した。しかし、防衛は両方果たせず、棋王は米長に、王将は大山に奪取され(これは大山の最年長タイトル奪取記録でもある)、2冠は僅かな期間であった。その後は、1980年度の第19期十段戦で中原より十段を奪還し、翌年度の第20期十段戦では米長の挑戦を受けたが防衛を果たす。圧倒的に負け越していた中原に対しても、この期間においては勝ちこしている。
この期間(1960年度-1981年度)はタイトル戦は防衛を含んで19期に及んだが、もっぱら上記の通り大山と中原に阻まれる形で獲得タイトルは6期に留まった。一方で一般棋戦での活躍はめざましく、特にNHK杯将棋トーナメントでは6度の優勝を果たした(1960年・1966年・1971年・1973年・1976年・1981年)。また、1973年には当時の連盟会長であった加藤治郎の提案により、九段昇格規定が見直され、新制度(点数制)の規定に基づき、運用が開始された11月3日付で中原誠・二上達也・丸田祐三と共に九段に昇格した(これ以前で九段であったのは名人3期以上の経験者である塚田正夫・大山康晴・升田幸三の3名のみ)。
1982年度の第40期順位戦A級において8勝1敗の成績で3度目の名人挑戦権を得た。相手は第27期(1973年度)での初対決以来、一度も名人位を失冠することがなかった9連覇中の中原であった。この勝負は、4勝3敗・1持将棋・2千日手という実質十番勝負の熱戦となり、初挑戦から22年、42歳で念願の名人位を獲得した。また、十段と合わせ2度目の2冠制覇でもあった。
同年度の第21期十段戦は挑戦者となった中原に敗れ、これが中原との最後のタイトル戦となった。トータルでは中原とは9回のタイトル戦の中で4回獲得(防衛含む)しており、結果としては全盛期の中原に対して大善戦した形となった。
翌年度の名人戦(第41期)の相手は、かつての加藤と同じく20歳で名人挑戦者となった谷川浩司であった(挑戦の最年少記録としては加藤の方が数ヶ月早く、番勝負開始の数日前に谷川は21歳になった)。立場を変えて、かつての大山のように挑戦者の最年少記録を阻もうとする形となったが、勝負は2勝4敗で敗れ、谷川は最年少名人記録(21歳)を達成した。
その後は、1984年度の第25期王位戦で当時の若手実力者であった高橋道雄から生涯8つ目となるタイトルを奪取するが、翌年に高橋に奪還された。以降はタイトル戦に登場することはなく、通算24期登場、うち獲得合計8期となった。
一般棋戦においては全盛期ほどではなかったものの、1990年の早指し将棋選手権においては50歳にして3度目の優勝を、1993年度のNHK杯では54歳で7度目の優勝を果たした(これは当時、大山の優勝8回に次ぐ記録)。なお、この優勝により、10歳代から50歳代まで各10年ごと、また同時に1950年代から1990年代の各年代で一般棋戦優勝を達成したことになった。
また、1989年8月21日には大山に次いで史上2人目の通算1,000勝(特別将棋栄誉賞)を達成した。
上記の経歴の通り、加藤は順位戦に第9期(1955年度)から参加し、4年連続でストレート昇級して第13期(1959年度)から18歳という史上最年少でA級に在籍した。これ以来、途中何度かB1に落ちながらも第60期(2002年度)に62歳2か月で陥落するまでA級通算36期(名人在位を含む)の記録を達成した。これは通算数、最年長記録共に、現役A級のまま死去した大山の通算44期、69歳4か月に次ぐ記録である。途中陥落があったために、連続としての最高は19期であり、これは一度も陥落することが無かった中原(29期)や米長(26期)、また谷川(32期)には及ばなかったが、生涯4回のA級復帰の内、第16期(1961年度)、第21期(1966年度)、第23期(1968年度)はB1から1期での返り咲きであり、第51期(1992年度)の復帰は一般に棋士のピークが過ぎたと言われる53歳での達成であった。
一方で、名人挑戦は生涯に3度だけであり、最初はA級在籍2年目の第14期(1960年度)にして果たす(対大山名人)が獲得に至らず、その後は13年ぶりの第27期(1973年度)にて挑戦するが中原名人に阻まれた。そして第40期(1982年度)、42歳で3度目の挑戦権を得て、再び中原名人に挑み、獲得した。
後述のように62歳でのA級陥落以降は第63期(2005年度)B級2組、第68期(2010年度)C級1組、第73期(2015年度)C級2組と段々と降級し続けていったが、フリークラス宣言や引退はしなかった。途中では全敗する期もあったが(第71期、第74期)、最終期となった第75期は1勝9敗であり、順位戦での最後の対局(敗局)は上村亘、最後の勝利局は同期第3局の八代弥であった。
順位戦においては上記の通り、第51期(1992年度)に53歳でA級に復帰した後も、これを維持し、2000年にはA級在籍のまま還暦(60歳)を迎えた。間もなく花村元司の記録を抑えて、大山の記録に次ぐ、A級年長記録を達成した。翌2001年には史上3人目の通算1,200勝を達成した(1,000勝が2人目で、今回が3人目なのは途中で中原に抜かれたためである)。棋士会においては、自身が九段昇段後の1,000勝を達成したことを示し、(タイトル称号の「十段」ではなく)段位としての「十段」の新設を提案した。
また、1988年度に十段戦を発展解消する形で始まった竜王戦においては第1期から第4期(1992年度)まで1組に在籍した。その後、1組に復帰することはなかったが、第10期(1997年度)では昇級者決定戦で3組から2組への昇級を決め、その後、2期維持した。しかし、決勝トーナメントへの出場は1度も果たせなかった。
第60期順位戦(2002年度)にて62歳2ヶ月でB級1組への降級が決まる。B級1組は2期在籍したが第62期(2004年度)にさらにB級2組へ降級した。これまでの名人経験者は、B級1組以上の在籍を維持したままの引退・現役死去・フリークラス宣言の事例のみであったが、加藤はこのまま順位戦に留まり、規定により引退するまで指し続けることを宣言した。実際、加藤は後述のようにC級2組で降級点3つを取り、第75期(2017年度)にて規定により引退するまで順位戦を指し続けた。このため、名人経験者によるB級2組、C級1組、C級2組参加及び、C2陥落に伴う規定による引退は加藤が史上初であった。
2007年8月22日、朝日杯将棋オープン戦予選で、戸辺誠四段との対局において、史上初の通算1,000敗を記録する(1,261勝1,000敗)。一見、不名誉な記録にも見えるが、1敗すればそこで終わってしまうトーナメント戦が多い将棋の公式戦において、敗数が多いということは、加藤のキャリアの長さもさることながら、タイトル戦の番勝負や挑戦者決定リーグ戦に数多く登場したことを意味する(例えばプロ棋士として制度上のキャリア最短の記録を持つ熊坂学の通算敗数は156敗であり、ただ負けるだけでは敗数は稼げない)。なお、本人はテレビでこの話題に触れられた際、「150局くらいは逆転負けでした」と述べている。また、同日時点での通算敗数の史上2位は有吉道夫九段の955敗(1,061勝)であり、その後、有吉も通算1,000敗を記録した。
一方では勝ち星も着実に集め、2011年11月1日、史上3人目の1,300勝を達成した。2012年7月26日には通算勝数歴代2位の中原誠に並ぶ1,308勝を達成し、翌年2月15日の第63期王将戦1次予選・対藤森哲也四段戦での勝利によって公式戦通算成績が1,309勝となり、歴代単独2位となった。一方、3月12日の第71期順位戦C級1組10回戦において阿部健治郎に敗北し、通算1,100敗を記録した(1,309勝1,100敗)。
順位戦においてはC級1組に在籍した第69期(2011年度)、第70期(2012年度)では降級点回避のみならず、70歳を過ぎて5勝5敗で指し分けるといった活躍を見せたが、翌71期(2013年度)は順位戦で初めて全敗した。翌72期(2014年度)も全敗は免れたものの、1勝9敗という成績でC級2組への降級が決まった。
他の公式戦では、2010年の第81期棋聖戦にて70歳で挑戦者決定トーナメントに進出する。結果として、これが公式戦本戦クラス進出の最後となった。
2014年4月、74歳3ヶ月の加藤は1954年の順位戦登場以来、59期・60年ぶりにC級2組を迎えた。同組では規定によって降級点が3つになると引退が決定となるが、言い換えればこのまま現役を続ける限り、3期連続で降級点をとっても最低でも77歳3か月で引退することになり、丸田祐三が持つ現役最年長記録77歳0か月を更新する可能性が出てきた(なお、同時期、同じ条件には加藤より1か月ほど生まれが早い内藤國雄もいたが2015年度に自ら引退した)。ここからは各種の最年長記録や年齢差対決、また、その長いキャリアによって生じた珍記録がメディアに注目されるようになっていく。
2015年3月11日の第41期棋王戦予選3回戦で増田康宏(当時17歳4か月)と対局し勝利する。75歳の加藤との年齢差58歳は、年長棋士側から見た史上最多年齢差勝利となった。しかし、この後の岡崎洋六段戦から連敗を喫し、第74期順位戦全敗や2016年度全敗(0勝20敗)を含む公式戦23連敗となった。A級経験者の年度全敗は、2013年の田丸昇九段(当時はフリークラス在籍で0勝10敗)以来であった。
2016年12月24日の第30期竜王戦6組の初戦では、14歳2か月でプロ棋士(四段)となった藤井聡太のデビュー戦の対局相手となり、藤井は加藤が持っていた史上最年少棋士記録(14歳7か月)を62年ぶりに更新、また、当時76歳8か月の加藤との対局は公式戦で最も離れた年齢差(62歳6か月)の対局となった(結果は110手で藤井の勝ち)。また、藤井は初の21世紀生まれプロ棋士(2002年生まれ)であったため、19世紀生まれ(村上真一と野村慶虎の2名)、20世紀生まれ、21世紀生まれの3つの世紀に生まれた棋士と公式戦で対局した記録を達成した。2014年の時点で19世紀生まれの棋士との対局経験がある現役棋士は加藤のみであったため、この記録は今後も加藤が唯一のものとなる。
2017年1月3日に丸田祐三が持っていた最年長現役棋士記録(77歳+1日)を、1月12日に同じく丸田が持っていた最年長対局記録(76歳11か月)を、さらに1月20日には最年長勝利記録(同)を、それぞれ77歳0か月で更新した。一方で順位戦(第75期)はすでに降級点が2つ付いており、今期に降級点が付けば引退が決まっていた。3回戦で八代弥に勝利したものの、他の対局で敗戦が続き、8回戦終了時点で1勝7敗の成績(1回戦は抜け番)であった。この時点で、加藤が降級点を回避できる条件は、残りの2局を加藤が連勝し、同時点で2勝しかしていない棋士のうち7人が全敗をすることだった。1月19日、当該7人の1人である竹内雄悟が佐藤慎一に勝利したことで、降級点回避条件を満たせなくなり、フリークラス規定による加藤の引退が確定した(残り棋戦の全対局を完了した時点で引退となる)。
引退が決定した翌日の1月20日の第88期棋聖戦二次予選・対飯島栄治戦(この時点の飯島は、順位戦B級1組・竜王戦2組の強豪棋士)では、結果としては現役最後となる勝ち星を挙げ、大きな注目を集めた。これによって先述の通り丸田が持っていた最年長勝利記録を更新した。この対局について飯島はTwitterで「今日の加藤一二三九段戦は完敗でした。」と述べ、形勢不明の場面で出た加藤の妙手について記した。また、この勝利によって棋聖戦次戦は佐藤天彦名人と当たることになり(2月8日)、現役の名人と引退直前の棋士が対局する極めて稀な事態が起こった。この対局は自分自身を除く、木村義雄以来の実力制全名人経験者との対戦ともなった(なお、名人就位前の佐藤とは既に対局経験があり初対局だったわけではない。一方で加藤引退後に名人となった豊島将之との対局経験はない)。
現役最後の対局は2017年6月20日の第30期竜王戦6組昇級者決定戦での対高野智史戦となり、これに敗れ、加藤はこの日をもって現役引退となった。通算成績は1,324勝1,180敗(対局数2,505)。現役最年長記録77歳5か月を樹立。加藤は、事前に連盟を通じて各報道機関に「この日は記者会見はしない。後日に行う」と通知していた。実際の対局では投了する少し前にタクシーを呼んでおき、また観戦記者に感想戦はしない旨を伝え、投了すると集まっていた報道陣には無言のまま直ちに帰宅した。後に自著において加藤は長年にわたり苦楽を共にした妻に直接、引退のことを告げるのを最優先したかったと述べている。
その後、加藤は自身のTwitterで将棋界を支えるスポンサー、将棋ファンに直接に語りかけた。
なお、加藤はまだ気力・体力ともに衰えておらず、公式戦対局への情熱も失っていなかったと言い、将棋界の制度による引退は仕方がなかった、もしそうした制度がなければずっと戦い続けていただろう、と述べている。また、名人位に就いたこともある自分が、その35年後にC級2組にまで下がり、規定で引退することになるまで現役を続けたのは、「77歳でC級2組に在籍していても、名人以外のタイトルは獲得できる」ことに大きな可能性を感じていた、棋士の世界では最後までチャンスがあるのだ、と述べている。
6月30日に、東京・将棋会館で引退に際しての記者会見を行った。記者会見に参加した報道機関は、40社・100名に及んだ。
62年10か月の間の通算対局数は2,505局に及ぶが、休場、不戦敗は一度もなかった。また、1954年8月1日に四段となってから、2017年6月20日に引退するまでの現役勤続年数(62年10か月)は歴代1位である。これは最年少プロ入りかつ最年長引退によって生じたために圧倒的な記録であり、例えば他に70歳を超えて現役であった棋士に内藤國雄(1958年四段 - 2015年引退)や有吉道夫(1955年四段 - 2010年引退)がいるが、60年にも届かない。また、加藤以前の最年長記録者であった丸田は兵役によるブランクで1946年に27歳で四段入りした経歴のため、ちょうど50年(1946年4月1日-1996年3月31日)だった。
2017年6月23日に仙台白百合女子大学客員教授に就任。加藤の次女が同大学の教員という縁があった。客員教授としての初仕事は、同年10月29日、同大学の学園祭での「私の学生時代」をテーマとするトークショーであった。
2017年7月1日にワタナベエンターテインメントとマネジメント契約を結んだ。引退する5年ほど前からバラエティ番組に出演していたが、引退後はメディア出演が増えている。地上波テレビへの出演に加え、インターネットの配信やイベントへの出演も多い。Twitterで頻繁に情報を発信している。
2017年11月2日に胆石性急性胆嚢炎と診断され、同日に手術を受けた。
半世紀にわたる棋士人生を通して居飛車党を貫き、数々の定跡の発展に貢献してきた。また、棒銀を代表として良いと思った戦型はひたすら採用し続ける傾向にあり、勝率が高い流行りの戦法があっても自身の棋理を重視し、採用しないことが多かった。
特に棒銀を好み、加藤棒銀と呼ばれるほどその採用率は高かった。相手の四間飛車への対抗策として穴熊(居飛車穴熊)が一般的に採用されていた時期でも、変わらず棒銀で挑み続けていた。また、角換わりの将棋においても、棒銀を採用する傾向にあった(一般的には腰掛け銀を採用する棋士が多い)。また、棒銀以外には矢倉▲3七銀戦法や、中飛車に対する袖飛車からの急戦は「加藤流」と呼ばれ、多くの棋士が採用している。
対振り飛車戦においては特に大山康晴との戦いの経験を生かして作り上げた居飛車舟囲い急戦の各種の定跡において、加藤の創案が多い。対三間飛車破りの急戦も、加藤の創案した仕掛けが多い。基本的に振り飛車には急戦で立ち向かうが、1980年に居飛車穴熊を主に対大山戦で数局ほど採用したことがある。
ひねり飛車や横歩取り3三桂のような空中戦も得意としており、後者は一時期後手番でも採用したことがある。さらにその後は、後手番では矢倉中飛車を多用した。
棒銀に見られるように駒の中では「銀将」が好きだと述べ、理由として鋭角的でどんどん前に出るから、うまくいけば良くなるからだという。また、その様を会社で例えれば改革で業績を拡大するイメージがあるとして「銀は営業部長」と評している。
常に最善手を探すタイプのため、長考を厭わなかった。この長考のために終盤は持ち時間が無くなり、秒読みに追い込まれることが多かったが、そこからがまた強く「1分将棋の神様」と呼ばれ、早指し棋戦の名手でもあった。しかし本人はクリスチャンなので「1分将棋の”達人”」と呼ばれたいと語っている。
長考の有名なエピソードの1つが1968年の第7期十段戦第4局(大山康晴に挑戦)におけるもので、二日目の初手において、前日の大山の封じ手に対して、1時間55分の長考をした。大山の封じ手は自明であり、実際に加藤の予想通りのものであったが、1日目夜の中断時間中に5時間検討し、その上でさらに2時間近くの大長考をしたものであった。この手は最善手であり、最終的に加藤が勝利した(また、この番勝負で初タイトルを獲得した)。
早指し棋戦においては、NHK杯戦で羽生善治、大山康晴に次いで歴代3位の優勝7回を誇る。他の早指し棋戦(早指し選手権戦、日本シリーズ、早指し王位決定戦)でも多くの優勝を重ねた。
長考やそれに伴う秒読みを恐れない姿勢は60歳を超えても変わらず、河口俊彦は下記のように評した。
一方で中原誠は「加藤さんが『1分将棋の神様』『秒読みに強い』とは言っても、随分、手を間違えている。むしろ、1分将棋・秒読みに強いと感じさせるのは羽生世代だ。」と述べており、加藤自身も時間配分の失敗により敗局したものは100局を下らないと述べている。
大山全盛期時代の棋界の第一人者の1人で、100局近く加藤と公式戦を指し、棋聖戦五番勝負での対局もある二上達也は下記のように加藤を評した。
一般に不利になりかねない特定の戦法に固執したことについて羽生善治は下記のように加藤を評した。
加藤は奨励会入り以降、南口繁一九段門下であったが、南口が1995年に死去した後の1998年に将棋連盟に申し出て剱持松二八段門下となった。現在では公式に加藤の師匠は剱持となっている。
加藤はこの理由について「私が奨励会に入る時の師弟関係は親が勝手に決めた名目上のことで、私は師匠から一切世話にならなかった。私の師弟関係は無効であるにも関わらず、あたかも関係があったかのように扱われて、不名誉な思いをしてきた。また妻や妻の親戚の人達に長年にわたり不名誉で不快な思いをさせてきた。」と述べている。一方の剱持は、加藤と以前から懇意にしており、また剱持の師匠である荒巻三之九段(1993年に死去)と家族ぐるみの付き合いであった。なお、剱持の方が加藤より6歳年上ではあるが、四段昇段(プロ入り)は加藤の方が2年早く、棋士としては、弟子(加藤)が師匠(剱持)より先輩となっている。
この一件に関して河口俊彦は、(かつての将棋界の師弟関係は内弟子が一般的であったことを踏まえて)、日本がまだ貧しかった昭和20、30年代の将棋界では、師匠が内弟子の衣食住の面倒を見るのは大変なことであり、内弟子が稼いだ稽古料を師匠が召し上げるのが当たり前であったが、このことに不満をもった棋士も多かったのは事実と述べている。しかし、同時に河口は南口が内弟子の加藤をあまりにも大事にするので、逆に南口の家族が不平を言っていたという挿話を伝え、加藤が南口に恨みを持つような経緯があったとは考えにくい、と評する。実際、南口の人柄に関しては特にネガティブな逸話はなく、むしろ逆に弟子の森信雄が村山聖を弟子にしようとして当時の関西棋界の実力者であった灘蓮照九段と対立した時に病身を押して仲裁したという彼の人柄を示すエピソードがある。
他の棋士との比較は、タイトル獲得記録、将棋のタイトル在位者一覧を参照
30局以上指した棋士との勝敗を以下に示す。大山、中原、米長の3人は加藤の最大のライバルでもあった。
※中原との対局数は、タイトル戦での持将棋1局を含む。
ほかゲスト出演多数
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