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小坂勝仁


小坂勝仁


小坂 勝仁(おさか かつひと、1968年6月14日 - )は、大阪府大阪市出身の元プロ野球選手(投手)、日本の芸能マネージャー。

来歴・人物

小学3年の時に野球(あべのベアーズ)を始め、投手として中学時代に大阪府大会ベスト4。東海大仰星高では1年生の秋からエースとなる。1984年秋季近畿大会府予選決勝では、PL学園高の桑田真澄と投げ合うが1-21で大敗。PL学園とともに近畿大会に進むが、1回戦で天理高に惜敗し春の選抜出場を逸する。

1985年も、夏の甲子園府予選決勝に進出。PL学園高と再び対戦するが、清原和博に2本塁打を喫し、桑田に完封を許す。同年の秋季近畿大会府予選も、準決勝でPL学園高の野村弘樹らに抑えられ9回サヨナラ負けに終わった。

1987年に高校卒業後、東北福祉大学に進学。最速144km/hの速球とフォークを武器に活躍。仙台六大学野球リーグでは在学中7回優勝。1990年、4年春のリーグ戦に優勝し、最優秀投手、ベストナイン選出。続く全日本大学野球選手権大会では、準々決勝の水口栄二や鈴木浩文、1年生大越基投手擁する早稲田大学戦では、早大4番打者斎藤慎太郎のあわや左中間本塁打かという当たりの1安打のみの完封1-0で早大エース市島徹との投手戦に投げ勝った。準決勝の国際武道大学戦は完勝し、決勝に進みエース小池秀郎、高津臣吾、川尻哲郎ら3枚看板投手擁する亜細亜大学戦に先発した。小池との息詰まる投手戦のさなか2本の本塁打を連続して浴び1-2で惜敗するもののチームを準優勝に導いた。大学同期に吉田太投手、矢野燿大捕手、宮川一彦らがいる。2学年上に上岡良一投手、1学年上に佐々木主浩投手や大塚光二、1学年下に斎藤隆と作山和英の投手陣、金本知憲(1浪入学)、浜名千広、伊藤博康らがいた。

1990年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトスワローズから2位指名を受け入団。

1991年から一軍登板を果たし、同年の秋季キャンプでシュートを持ち球に加えた。

1992年終盤の阪神タイガースとの優勝争いではプロ初セーブを記録。

1993年にはプロ初勝利も挙げ、中継ぎとしてヤクルトの連覇に貢献した。

1995年にはイースタン・リーグで9勝し、最多勝を獲得するも1軍ではヤクルト在籍時としては自己最低の成績に終わり、11月に荒井幸雄と共に木下文信+金銭の交換トレードで近鉄バファローズに移籍。

1996年6月9日の対西武戦(新潟)の1試合に登板したのみに終わり、同年11月に戦力外通告を受け現役引退。

引退後は吉本興業に在籍。野球選手のマネジメントを行ったのを機にスポーツ選手などをマネジメントするスポーツ部を設立。よしもとクリエイティブ・エージェンシーのスポーツ部に所属し、長谷川滋利などのマネジメントを担当していた。

詳細情報

年度別投手成績

記録

  • 初登板:1991年9月1日、対横浜大洋ホエールズ24回戦(下関球場)、6回裏から2番手で救援登板、2回3失点
  • 初先発登板:1992年9月2日、対読売ジャイアンツ22回戦(明治神宮野球場)、1回無失点で勝敗つかず
  • 初セーブ:1992年9月25日、対阪神タイガース21回戦(明治神宮野球場)、7回表2死から5番手で救援登板・完了、2回1/3を2失点
  • 初勝利:1993年4月25日、対横浜ベイスターズ2回戦(福岡ドーム)、8回表から3番手で救援登板・完了、3回無失点

背番号

  • 21 (1991年 - 1995年)
  • 54 (1996年)

脚注

関連項目

  • 大阪市出身の人物一覧
  • 東北福祉大学の人物一覧
  • 東京ヤクルトスワローズの選手一覧
  • 大阪近鉄バファローズの選手一覧

外部リンク

  • 個人年度別成績 小坂勝仁 - NPB.jp 日本野球機構
  • 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
Collection James Bond 007

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 小坂勝仁 by Wikipedia (Historical)


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