T・S・エリオット(トーマス・スターンズ・エリオット 英: Thomas Stearns Eliot、1888年9月26日 - 1965年1月4日)は、アメリカ合衆国出身のイギリスの詩人・文芸批評家。
5部からなる長詩『荒地』や詩劇『寺院の殺人』によって20世紀前半の英語圏で最も重要な詩人の1人と評されるほか、創作における歴史的伝統の意味を論じた「伝統と個人の才能」などの評論で批評家・保守派文人として欧米の文壇・言論に巨大な影響を残した。1948年、ノーベル文学賞受賞。反ユダヤ主義者で知られた。
1888年、アメリカのミズーリ州セントルイスで富裕な実業家の家に第7子として生まれる。エリオット家は17世紀にイギリスのサマセット州から移住してきた家系で、祖父が牧師として赴任してきて以来、教会の建設や大学創設への貢献によってセントルイスの名家として知られていた。父母とも詩才があり、恵まれた文学的環境で成長する。
1898年にスミス学院に入学。1904年、セントルイス万国博覧会を探訪中、フィリピン会場のイゴロット村に魅せられる。翌年執筆した短編「昔は王様だった男」はその探訪成果である。
1906年にハーバード大学に入学。フランス文学と古代・近代哲学、比較文学などを学ぶが、やがてアーサー・シモンズ『文学における象徴派の運動』などに触れてモダニズム運動への傾倒を深めてゆく。1909年には大学院へ進学、ジョージ・サンタヤーナとアーヴィング・バビット(Irving Babbitt)から指導を受け、とくに近代の進歩に懐疑的立場をとるバビットに共鳴したとされている。同時期に学内の同人誌に詩を寄稿し始める。
1910年にパリへ留学。当時のパリではあたらしい文学・思想運動が相次いで勃興していたが、とりわけコレージュ・ド・フランスで聴講したベルクソンの講義や、シャルル・モーラスの反古典主義に強い影響を受けた。このころ書かれたのが初期の代表作「プルーフロックの恋歌」で、ベルクソンの「純粋持続」の観念に大きく影響されている。
1911年末にハーバード大学へ戻り、サンスクリットと古代インド哲学の研究に没頭する。1914年にはまずベルリン、ついでイギリスに渡った。イギリスではオックスフォード大学に滞在して観念論哲学者フランシス・ハーバート・ブラッドリーに関する論文を執筆し、これは2年後にハーバード大学へ博士号請求論文として提出されたが、結局学位は取得しないままとなった。
1915年には先輩詩人エズラ・パウンドの誘いに応じてイギリスへ拠点を移し、オックスフォードで知り合ったヴィヴィアン・ヘイ=ウッドと結婚した。
しかし父親はヴィヴィアンとの結婚に強く反対し、またアメリカを離れ、一族の信仰だったユニテリアン派を捨て聖公会に転向したエリオットに対して遺産の相続を拒否。そしてエリオットが死んだ場合にもヴィヴィアンへは財産が遺贈されないよう取り決められた。そのため、富裕な一族の息子として欧州とアメリカを自由に行き来しながら詩作と学業を続けていたエリオットは、一転して経済的な苦境にさらされるようになった。さらに妻が神経症をわずらったため多額の治療費が必要となり、一般向け公開講座の講師や雑誌への寄稿などで家計をささえる生活がつづいた。
1917年にロイズ銀行の渉外部門に職を得てからは生活が安定しはじめ、本格的な文学活動を開始する。パウンドが主宰者の1人だった文芸誌の編集に加わったほか、パウンドの助力を得て1917年に第1詩集『プルーフロックとその他の観察』(Prufrock and Other Observations) を刊行している。
1919年にヴァージニア・ウルフらが経営する出版社から刊行された『詩集 - 1919年』(Poems 1919)、また翌1920年に主要な初期作品をおさめて出版された詩集『われ汝に請う』(Ara Vos Prec, アメリカ版題名『詩集』Poems )は大きな成功を収め、英米両国において、エリオットは英語圏における重要詩人としての名声を獲得することになった。
1920年にはまた評論集『聖なる森』(The Sacred Wood) を刊行。ここにおさめられた「伝統と個人の才能」(Tradition and the Individual Talent) や「ハムレットとその問題」(Hamlet and His Problems)は、アメリカの文壇にとどまらず、ケンブリッジ大学で学問としての英文学の精密化をもくろんでいたI・A・リチャーズ、その学生F・R・リーヴィスなど、アカデミズムでも幅広い範囲で大きな衝撃を持って受け止められ、ここから新批評が始動してゆく。
1922年、編集委員に加わって季刊誌『クライテリオン』を創刊、この創刊号に掲載されたのが長詩「荒地(あれち)」(The Waste Land) である。
この詩は1920年頃から書き継がれていた作品で、21年にスイスのローザンヌで病気療養中に完成、翌22年にパリでエズラ・パウンドに批評をもとめたうえで完成させている。同年アメリカとイギリスで単行本として出版されると、まったく新しい詩の登場として英米の文学界でただちに大きなセンセーションを巻き起こした。
『タイムズ文芸付録』は世界の混乱と美を同時にえがく感動的な作品と激賞したが、一方で詩としての体をなしていないとする批判も多かった。しかしそこに盛り込まれた都市のイメージ、ジャズのリズムを反響させた詩句は、第一次世界大戦後の新しい感受性のあらわれとして学生や詩人の間で熱狂的に読まれることとなった。
妻の病気と銀行の仕事に追われながらの文学活動は苦しいものであったが、1925年には代表作のひとつ「うつろな人々」(The Hollow Men) を発表し、ますます文名は高まった。同年エリオットは銀行を退職、編集者として後のフェイバー・アンド・フェイバー社(Faber and Faber)で働き始める。
1927年、イギリス国教会で洗礼を受け、またイギリスの市民権を取得する。翌28年の『ランスロット・アンドルーズのために』(For Lancelot Andrewes) の序文で,彼は「文学においては古典主義、政治では王党派、宗教はアングロ・カトリック」と自分の立場を宣言している。母の死後に発表された1930年の『灰の水曜日』(Ash-Wednesday) は、ダンテ『神曲』のベアトリーチェを思わせる聖女が煉獄の階段をのぼるという宗教詩の気配をつよくまとうものになった。
このころからエリオットの名声はさらに高まり、1932年にはハーバード大学教授に招聘され、17年ぶりにアメリカへ渡った。アメリカ滞在中にはプリンストンやイェールなど多くの名門大学で講演を行い、それをまとめた『詩の効用と批評の効用』(The Use of Poetry and the Use of Criticism) で表明された詩劇への関心が、のちに殉教者トマス・ベケットをあつかった詩劇『大聖堂の殺人』(Murder in the Cathedral) などに結実してゆく。またアメリカ滞在中に、妻ヴィヴィアンと別居するようになった。
イギリス帰国後の文学活動はさらに幅を広げ、野外演劇フェスティバルへの参加、ケンブリッジ大学での講義など多忙をきわめた。このころ書かれた猫の詩「ポッサムおじさんの猫とつき合う法」(Old Possum's Book of Practical Cats) はエドワード・リアへの関心から書かれたナンセンス詩で、エリオット没後にミュージカル『キャッツ』に翻案されて人気を博することになる。
戦争中に書かれた作品の代表的なものは『四つの四重奏』(Four Quartets)で、これは危機を迎えた社会における古い伝統や歴史の重要さに目を向け、文明が再生する希望を語っているなどと評された。
戦争が終わっても英語圏の論壇でつねに注目される批評家としての活動はつづき、『キリスト教社会の理念』や『文化の定義のための覚書』などを相次いで刊行する。このころ妻ヴィヴィアンとの距離は決定的なものとなり、ロンドンで友人のジョン・ヘイウォード(John Davy Hayward)との共同生活をはじめた。1947年には、1933年に離婚していた元妻ヴィヴィアンが入院先の病院にて急死、さらに兄も死亡した衝撃で一時詩作は停滞したが、同じ年にハーバード大学から名誉学位授与、翌1948年には英国王ジョージ6世からメリット勲位、さらにノーベル文学賞を授与されている。
以後は世界的知識人・文人としてヨーロッパとアメリカを往復し各国で講演・講義を行いながら、数多くの評論・詩劇を発表しつづける。私生活では、エリオットの秘書をつとめていたヴァレリー・フレッチャーと1957年に結婚。1965年に76歳で亡くなるまで出版社の重役でもあった。私信などの文書類を2020年まで一切公開しないように妻ヴァレリーに遺言を残した。亡骸は遠い祖先の村だったサマセット州イースト・コーカーの聖マイケル教会に葬られている。
1984年には、マイケル・ヘイスティングズによるエリオットとヴィヴィアンの生活を描いた戯曲「トム&ヴィヴ」が書かれて公演され、1994年には邦題『愛しすぎて/詩人の妻』として映画化されている。
有名な「四月は残酷きわまる月(April is the cruellest month)」で始まる長編詩『荒地』で第一次世界大戦後の不安を描きだした。また、評論『伝統と個人の才能』によって、保守主義の思想家としても知られている。この中で、エリオットは「詩人とは表現するべき個性を持たず、特定の表現手段を持つ人で、それは個性ではなく手段であり、その中で印象や経験が特殊な予期せぬ状態で結合する」と述べている。
荒地
1921年に初稿を執筆。エズラ・パウンドの助言により、エピグラフ(コンラッド『闇の奥』の引用)の変更や、エピソードの削除等を行った。
1922年に433行の長詩として文芸誌に発表した。フレイザー『金枝篇』の聖杯伝説を骨格として、聖書、ダンテ、シェイクスピアなどの引用をちりばめ、意識の流れの手法も用いて、第一次世界大戦後の荒廃した世界と救済への予兆を描きだした。末尾にはサンスクリット語も使用され、インド思想の影響も指摘されている。
四つの四重奏
1935年から1942年発表の「バーント・ノートン」など4編を1つにまとめたもの(1943年)。『荒地』のような緊張感は低く、初期作品と比べると宗教的な主題がより鮮明となる。
大聖堂の殺人(寺院の殺人)
1935年に発表された詩劇。殉教者トマス・ア・ベケットを主人公とする。無韻詩で書かれている。『寺院の殺人』(1935年)の第2幕に登場する「誘惑者」と主人公トマスの対話は、シャーロック・ホームズの「マスグレーヴ家の儀式」を真似たものである。
カクテル・パーティ
1949年発表の詩劇。エウリピデスの「アルケスティス」に想を得て、弁護士エドワード・チェンバレンとその妻、映画脚本作家ピーター・キルプ、女性詩人シーリア・コプルストーンの4人の恋愛関係を精神科医のヘンリー・ハーコート・レイリー卿が解決する。現代社会を喜劇的に描いたものである。
“キャッツ”
1939年、児童向けの、様々な個性的な猫たちについての15篇の詩から成る 『キャッツ - ポッサムおじさんの猫とつき合う法』を発表した。ポッサムおじさんは、エズラ・パウンドがエリオットにつけたあだ名である。エリオット没後、ウエスト・エンドとブロードウェイにおいて1981年に初演されたアンドリュー・ロイド・ウェバーのミュージカル『キャッツ』の原作となった。
『荒地』の衝撃は世界各国とほぼ同時期に日本へも伝わり、1925年にはイギリス留学から帰国した西脇順三郎が慶應義塾大学でエリオットを講じているほか、春山行夫らが雑誌でモダニズム文学を紹介しているが、本格的な受容は戦後になってからである。1935年には哲学者の西田幾多郎が「傳統主義に就て」という講演において、エリオットの伝統論を自身の哲学と結びつけて論じている。
1952年に西脇が『荒地』全訳を刊行、深瀬基寛や吉田健一も相次いで独自訳を発表した。第二次大戦後に活動を開始した田村隆一や鮎川信夫・加島祥造・北村太郎・中桐雅夫などの詩人には「荒地派」の名前が冠せられた。批評面では山本健吉がエリオットの伝統概念を日本の古典文学に応用した『古典と現代文学』を1955年に発表しているほか、また福田恆存は『一族再会』『カクテル・パーティー』などの詩劇に強い影響を受けてラジオドラマ『崖のうえ』などで詩と劇の融合をこころみている。
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