大審院(だいしんいん、たいしんいん、英語: Supreme Court, Supreme Court of Judicature, Great Court of Cassationなど)は、1875年(明治8年)から1947年(昭和22年)にかけて日本において設置されていた司法裁判所の中における最上級審の裁判所である。明治8年太政官布告59号により設置され、1890年(明治23年)の裁判所構成法において最上級審の裁判所と規定された。1947年(昭和22年)の裁判所法の施行に伴って廃止され、その権能は最高裁判所が引き継いだ 。
1875年(明治8年)の立憲政体の詔書に基づき設置。1890年(明治23年)の裁判所構成法により通常の司法裁判所の中の最上級審としての立場が確立された。
フランスの破毀院をモデルとして設置され、主に、民事・刑事の終審として、特別裁判所(大日本帝国憲法第60条に規定される皇室裁判所・軍法会議などのこと)および行政裁判所(同憲法61条、行政裁判法)の管轄に属しない事項について裁判を行った。
大審院は終審として、上告および控訴院などがした決定・命令に関する抗告を受け、また、第一審かつ終審として刑法の皇室に対する罪(不敬罪など、1947年〈昭和22年〉刑法改正で規定削除)、内乱に関する罪、皇族の犯した罪にして禁錮以上の刑に処すべきものの予審および裁判を行うものと規定された(裁判所構成法50条)。
大審院の重要な判例は、1921年(大正10年)までのものについては『大審院判決録』(民録・刑録)に、1922年(大正11年)以後のものは『大審院判例集』(民集・刑集)に収録され公刊されている。
大審院庁舎は戦災で外壁を残して焼失。太平洋戦争後、屋根を除き復元され、1949年(昭和24年)から1974年(昭和49年)まで最高裁判所庁舎として使われた。現在、跡地には東京高等裁判所・東京地方裁判所がある。
大審院には若干の民事部・刑事部が置かれ、各部は5人(当初は7人)の判事の合議体によって構成され、裁判が行われた。大審院が従前の大審院の法令解釈(判例)を変更しようとする場合は、事件の性質に従い、民事の総部もしくは刑事の総部を連合し、または民事および刑事の総部を連合して合議体を作り、裁判を行った(裁判所構成法49条。この合議体のことを聯合部(連合部、れんごうぶ)といい、各々その連合した部の名称を取り、民事連合部・刑事連合部・民刑連合部といった。
1920年(大正9年)に裁判所職員定員令が施行された当時には、大審院判事は26名、大審院検察局は検事総長が1名、検事が7名の定員であった。
ある事件の判決に含まれた判断について、最高裁判所の判例がなく、大審院の判例に相反するときには、民事訴訟法では上告受理の申立て・許可抗告の対象となり、刑事訴訟法では上告申立理由となると同時に、変更されていない大審院の判決は現在においても判例とされる。
大審院が裁判の独立に果たした役割・努力は、歴史上、無視できないが、制度上の位置付けは最高裁判所に比べ低かった。最高裁判所は、日本国憲法により、司法行政監督権・規則制定権・違憲立法審査権などの権限を与えられているが、大審院にはこれらの権限がなかった。司法行政権は司法大臣に属しており、大審院は下級裁判所に対して司法行政上の監督権を持たなかった。
大審院長は親任官であるが、宮中席次は同じ親任官の国務大臣・枢密顧問官・陸海軍大将より低く、大審院判事は最高裁判所裁判官のような権威のある存在ではなかった。部長判事は一般官庁の次官並、一般判事は局長ないし課長並の俸給であった。最高裁裁判官は法曹界で名をあげた高齢者が任命されるが、大審院判事は壮年の働き盛りの者が任命されやすかったとされる。ただし、退任後に貴族院勅選議員から枢密院議長や内閣総理大臣の職を得た平沼騏一郎のように、親任であったことを利用して後に権力を拡大した例もある。
現在の最高裁判所裁判官(長官及び判事)は15名だが、大審院判事は1919年(大正8年)から1941年(昭和16年)までが47人、1942年(昭和17年)には37人、1946年(昭和21年)には31人だった。なお、最高裁判所裁判官は定員が極端に少ないため、最高裁判所裁判官の職務を補佐する役職として39名の最高裁判所調査官が存在している(2014年現在)。
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