Aller au contenu principal

太田資宗


太田資宗


太田 資宗(おおた すけむね)は、江戸時代前期の譜代大名、六人衆。下野山川藩主、三河西尾藩主、遠江浜松藩初代藩主。掛川藩太田家初代。太田重正の次男。

経歴

慶長5年(1600年)、徳川氏の家臣・太田重正の子として誕生。父の妹とされる人物に英勝院(徳川家康側室)がいる。

慶長11年(1606年)、7歳にして大御所・徳川家康に拝謁。慶長15年(1610年)、武蔵国豊島郡蓮沼に500石を領する太田家の家督を継ぐ。また、家康の側近となって偏諱を与えられ、当初は康資(祖父と同名)と名乗った。

慶長17年(1612年)、下野の内で300石を加増、元和元年(1615年)には更に200石を加増され、家禄1,000石となる。また従五位下・摂津守に叙任された(のち采女正)。加増は続き、元和9年(1623年)に相模国高座郡の内で1,100石、寛永5年(1628年)に上総国武射・下総国匝瑳二郡の内にて2,000石、寛永6年(1629年)に遠江国山名、豊田両郡の内にて1,500石を加増され、家禄5,600石となる。

寛永9年(1632年)、江戸幕府書院番頭から御小姓組番頭となる。寛永10年(1633年)3月23日には、3代将軍・徳川家光の側近として松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・阿部重次と共に六人衆となる(後年の若年寄に相当する)。

寛永12年(1635年)、下野国足利郡山川に1万石を加増され、ついに1万5,600石の大名に列せられ、備中守に叙任。寛永15年(1638年)、約2万石の加増を受け、3万5000石にて三河国幡豆郡西尾に移封。正保元年(1644年)、遠江国浜松に3万5000石をもって移封された。

また、寛永18年(1641年)には資宗が奉行となり、林羅山を実務担当として本格的な武家系譜の編纂を開始。寛永20年(1643年)9月に武家系譜編纂書『寛永諸家系図伝』完成。将軍・家光に2部(真名本、仮名本)それぞれ186巻(計372巻)を献上した。

寛文11年(1671年)、隠居し家督は次男の資次が継いだ。

延宝8年(1680年)1月22日、81歳(数え年)にて死去。

系譜

父母

  • 太田重正(父)
  • 都築秀綱の娘(母)

正室

  • 板倉重宗の娘

側室

  • 青木氏

子女

  • 太田資政(長男)生母は正室
  • 太田資次(次男)
  • 太田資良(三男)生母は青木氏(側室)
  • 加藤泰義正室
  • 稲葉正吉正室
  • 永井尚庸継室
  • 一柳末礼正室
  • 土井利益正室
  • 角倉玄恒室

脚注

注釈

出典

参考文献

書籍
  • 『藩史大事典 第2巻 関東編』 木村礎〔ほか〕編 雄山閣出版 1989.11

関連項目

  • 英勝院



Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 太田資宗 by Wikipedia (Historical)