堀池 巧(ほりいけ たくみ、1965年9月6日 - )は、静岡県清水市(現・静岡県静岡市清水区)出身の元サッカー選手、サッカー指導者、サッカー解説者。現役時代はディフェンダーとして活躍、日本代表にも選ばれた。
清水東高校時代は大榎克己、長谷川健太とともに「清水東三羽烏」として知られ、日本サッカーリーグ(JSL)の読売クラブ(現東京ヴェルディ)を経て1992年、Jリーグ発足に備えて設立された清水エスパルスに入団。エスパルス草創期の中心的な選手として活躍した。セレッソ大阪への期限付き移籍を経て、1999年シーズン限りで引退した。
主に右サイドバックを務め、日本代表や清水エスパルスでもこのポジションが多かったが、読売クラブ時代の1988年に守備的MF、1989年から1992年までセンターバックとして加藤久とコンビを組み、セレッソ大阪に移籍した晩年にもこのポジションを務めるなど守備のユーティリティープレーヤーとして活躍した。
次男は、フジテレビアナウンサーの堀池亮介。
少年時代に清水FCの一員として全日本少年サッカー大会で優勝、高校時代に清水東高校の一員として高校選手権で優勝するなどサッカーの町清水が育てたエリート選手として名を馳せる。清水東高校時代は大榎克己、長谷川健太とともに「清水東三羽烏」として知られた。堀池は1年生途中までは右ウイングだったが、ジュニアユース日本代表の合宿に呼ばれた際、監督の藤田一郎とコーチの岡村新太郎によって右サイドバックへとコンバートされる。順天堂大学時代を経て、1988年に日本サッカーリーグ(JSL)の読売クラブに加入。1988-89シーズンから1991-92シーズンまで4年連続でベストイレブンに選出される。
1992年、Jリーグ発足に備えて設立された清水エスパルスに移籍。5月22日の鹿島アントラーズ戦でJリーグ初ゴールを決めた。1993年シーズンにベストイレブンに選ばれる。1998年、オズワルド・アルディレスとの意見の食い違いから出場機会を失い、1998年9月よりセレッソ大阪に期限付き移籍。アルディレスから清水の監督を引き継いだスティーブ・ペリマンからバックアッパーとして復帰を乞われ、1999年10月に清水に復帰。1999年シーズン終了時に現役を退き、長谷川とともにチームの取締役としてフロントの立場からの助言を行ったが、2003年にそれを退く。
順天堂大学時代の1986年に日本代表に初選出、そのままレギュラーに定着し、以降、1993年のハンス・オフト監督時代にドーハの悲劇を経験するなど58試合に出場している。日本代表では主に右サイドバックとしてプレーした。
引退後は解説者となり、2002年から2010年までテレビ朝日のサッカー番組『やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜』にコメンテーターとしてレギュラー出演。
2012年販売のサッカーゲーム、FIFA13 ワールドクラスサッカーにおいて解説を務めている。
2013年7月、JFA 公認S級コーチに認定される。
2014年4月に、順天堂大学スポーツ健康科学部准教授および蹴球部監督に就任した。
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