宮崎 哲弥(みやざき てつや、1962年10月10日 - )は、日本の政治哲学・宗教思想・時評ほか評論家およびコメンテーター。研究開発コンサルティング会社「アルターブレイン」副代表。
中央大学非常勤講師、京都産業大学客員教授を経て、2018年4月より相愛大学客員教授。コミュニタリアン、仏教徒。福岡県久留米市出身。結婚に際して妻の姓に変えたため本姓は宮崎ではない。
中学卒業後しばらく社会人生活を送り1年遅れで久留米工業大学付属高等学校 を経て、早稲田大学教育学部に進学するも、過度の飲酒で体調を崩し中退。その後、慶應義塾大学文学部社会学科に入学。同学部卒業後、さらに同大学法学部法律学科に学士入学するも中退。
少年期から思春期の素行について「不登校に陥ったときには、まるで咎人のように疎んじられ、『一家の恥』とまで罵られてすっかり自暴自棄になってしまいました」と語ったことがある。
博報堂の嘱託研究員を経て、友人と共にニューラルネットワークのビジネス応用を主業務とする会社を設立。同時に評論活動として、『宝島30』で「評論家見習い」 として執筆活動を始め、西部邁の推薦を受けて処女評論集『正義の見方』(1996年)を出版した。
政治哲学・宗教思想を「自分のシマ」とするも、おおよそどのような話題についても論評する。
内閣府経済財政諮問会議「日本21世紀ビジョン」専門調査会 生活・地域ワーキンググループ副主査や、総務省「通信・放送の在り方に関する懇談会」構成員を務めた。
1998年12月から2006年3月まで新聞三社連合の論壇時評を担当、2003年は共同通信の論壇時評も担当。2003年4月から2006年3月まで朝日新聞書評委員。
自らの基本的な立場を「仏教者」としている。
2020年に『100分de名著/小松左京スペシャル 「神」なき時代の神話』で、第51回星雲賞(ノンフィクション部門)を受賞。
政治スタンスは「リベラル右派」を公言している。左派の福島瑞穂を批判する一方、右派である西部邁と小林よしのりの両者が初期に関わっていた「新しい歴史教科書をつくる会」を批判する一面もある(福島瑞穂に関しては人格的には評価していると語っている。また、かつては「元々は、左翼だった」、更には「極左冒険主義者」と自らを称し、「議会制民主主義は信用ならない。暴力革命しかない。」という発言をしたことがある。
しかし、二十代のはじめの頃に「そもそも資本主義体制の崩壊と社会主義体制への移行が歴史法則に基づく必然だとするならば、なぜ、個人が革命運動に参画し、身を捨てて邁進しなければならないのかがわからない」と不信感を抱き、さらに「自分自身の直面する死と実存の問題を解くのにマルクス主義はまったく役に立たない、マルキシストになっても仕方ない」と悟り、転向したという。
小林の『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』批判でなされた「人の死はひとつの例外もなくすべて犬死である」との主張に対しての論争は物議を醸した。この主張がきっかけとなり、小林とは一時泥仕合のような批判合戦を繰り広げていたが、現在では和解し、宮台真司との対談シリーズに、小林をゲストとして招くほどの関係になった。
臓器移植、輪廻転生などに関しては否定論者である。選択的夫婦別姓論に関しても、以前は旧来の「イエ」制度批判の観点から、否定していた。00年代後半から、結合性(鈴木さんと坂本さんが結婚して鈴木-坂本となる)や新姓創出(夫婦双方の旧姓を捨て、新たに姓を付け直す)など選択の幅をひろげることを条件に選択的夫婦別姓に賛成している。なお、宮崎自身は結婚により戸籍上は妻の苗字に変えている(宮崎は旧姓である)。
政財界人・言論人の対米姿勢・対中姿勢を審査する記事において、アメリカ合衆国に対しては、イラク戦争に関しては始めるべきでなかった点で反米だが、しかし反米思想が陳腐であり、姻戚や知人がアメリカに多く、また移住してもいいと思っている点で親米でもあるとし、総体としてどちらかと言えば反米であるとしている。また、中華人民共和国に対しては、自らの姿勢を「嫌中」としている。
経済政策論では、以前はいわゆるリフレーション派(インフレターゲット論者)に対し激しい批判を行っていたが、2006年にリフレ派に完全転向した(『論座』)。山形浩生は2003年にウェブサイトで、「宮崎は『リフレ逝ってよし』から『一度やらせて失敗させるのも一興』を経て、だんだんじわじわとこっち(リフレ派)に近づいてきているみたい」と評している。
リフレ派に転向する前のインフレターゲット導入などによる調整インフレ政策に対する違和感は、それを強く主張しているポール・クルーグマンの信奉者である山形浩生の所説「『お金の価値が目減りするから、いらないものでもとりあえず買っちゃおう』というのはなんだかとっても不健全な気がしないだろうか」「ほとんど浪費を奨励しているようなこの方策なんて、本当にいいことなんだろうか」を引用し、「インフレ期待に働きかける政策の根本的な問題点は、山形の指摘に尽きていると思う」としていた。
自身の共同体主義については、「英米のコミュニタリアンの多くもそうですが、私も共同体を実体として認めているわけではないのです。個々の関係性の束として共同体を仮設しているだけで、いわば名としてのみ認める『共同体唯名論』なんですね」と述べている。また共同体については、マッキンタイア流の目的論的、卓越主義的な立場ではなく、「『共生の場の維持と成員のアイデンティティの確保だけを目的とする比較的小さな人間集団』であると規定」しており、「こうした基本的立場はマッキンタイアのコミュニタリアニズムと相容れないだろう」と語っている。
自身の「ラディカル・ブディズム」については、「『自分』とは独立的実体ではなく、他の『流れ』に依存しながら生起し、一時すらも留まることなく流動している無数の『流れ』の、たまさかの『淀み』に他ならぬと悟ること」「この『約束の地』においては、共同体主義がアイデンティティの寄る辺と想定している共同体すら放棄されなければならないだろう」と語っている。
議論の多くは帰謬論証に則っており、「帰謬論証とは、自らの立場は明らかにせず、もっぱら相手の論理を逆手に取って、内部矛盾に追い込み破綻させてしまう中観派得意の論法である。『相手の神によって、相手を撃つ』私好みのやり方でもある」と説明している。
自らをエイリアンであるとして、「ホントいうと、政治や社会について考えること、語ることが好きなわけじゃない。そういう『この世』的なことどもは実はどうだっていいんだ」「だったら何故に考え、何故に語るのか。答え。眼前に『問題』があるからだ」「『この世』のことなんてどうでもいい。所詮、すべて他人事です。だけど、万般、他人事であることこそが肝要なんだと思う」と述べている。
小泉純一郎首相(当時)の小泉内閣メールマガジンについて「かなり巧みに読み手を『感動の同調』へと引き込こもうとしている」ことを、プロパガンダ分析の視点から指摘し、「私が若手議員たちに教授した人心掌握術が、いま国のトップによって実用されているのです」と述べている。
靖国神社問題について「ポイントは制度的には一宗教法人に過ぎない靖国神社に、国家的な慰霊・追悼の機能を持たせようとした『無理』にある」「私は『多宗教の国家的な追悼施設』をつくるべきだと答える」「具体的には米国のアーリントン墓地のように、あらゆる宗教を認める追悼施設が望ましいだろう」「私自身、仮に他国による侵略を受けた際、自発的民兵として戦う用意がないわけではない。ただし仏教者である私は、常住不変の霊魂の存在を信じない。だから戦死した場合に、靖国神社に神道式で合祀されることには耐え難い苦痛を覚える」と述べている。
国家元首について「もともと元首というのは19世紀の国家有機体説に由来し、国家という生き物の頭部を意味する言葉である。だが国家機能の多元化によって有機体説は否定され、今や元首概念は歴史的役割を終えつつある。かかる状況を踏まえ、日本が未来に向けて打ち出すべきは『日本に元首はいない』という態度表明ではないか」と述べている。
ジョン・ロールズについて「私は、ロールズの理論が、今日のアメリカ人の精神の退廃を招来したとまで断じるつもりはない」「しかし、70年代半ば以降の、リベラリズムの過剰な浸透と個人の先験的権利意識の肥大化、市場経済的価値観の生活世界への侵入は、アメリカ社会の諸共同体を衰弱に導き、家族の紐帯や地域の連帯を喪失させたうえ、他者への徹底的無関心と自省の契機を欠いた利己主義を蔓延させる結果となった」と述べている。「リベラル派のロールズは、『遺産相続制度の規制』を唱えている。これに対し、ネオリベやリバータリアンは『財産権の侵害』だと批判する」。こうした相続税をめぐる議論を補助線として「リベラルとネオリベの分別なんか、政治哲学の基本」だと説明している。
民主主義について「全国民に国家権力の創出(正当化)と国家体制への参加を強いる民主主義とは、畢竟、近代ナショナリズムに他ならないのではないか。19世紀以来の産業化、都市化によって伝統的共同体における紐帯や役割を失った寄る辺なき諸個人の意思を、抽象的な国家目的へと凝集させ、ヴァーチャルな国家的連帯に連結させる装置として民主政体は機能しているのではないか」「私は、この本来の民主主義原理と、戦後日本人に誤解され受容された『民主主義』との間に大きなズレを看て取ると同時に、民主主義原理そのものへの深い疑義も抱懐していた」と述べている。
2009年4月、体調不良が続いているとして、仕事量を減らす考えを明らかにした。改編期でない4月末にレギュラー番組をひとつ降板したのはそのためである。そして政局への関心減退もあり、早速「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」のレギュラーを降板。同年12月23日には、番組開始当初から出演していた『BATTLE TALK RADIO アクセス』(TBSラジオ)も降板した。準レギュラーの「ビートたけしのTVタックル」も出演を大幅に減らした。
テレビ初出演は、1995年8月26日放送の『ザ・スクープ』(テレビ朝日系)の「オウムなニッポン〜そして彼らはサリンをまいた〜」で、取材・ナレーション・スタジオ解説を担当している。
「オウム真理教のテロリズムに、世間全体が不安に浮き足立っていたころ、多くの宗教学者、宗教評論家、仏教学者などが頻りとマスコミに登場し『オウム教団は自分たちを仏教と位置づけているが、まったく仏教とは縁もゆかりもない宗教である』と決めつけていた」「私は、教祖の著作を精読し、修行システムを観察した結果、旧来の、融通無碍な、多元主義的な仏教観に立つ限り、それが仏教の範疇に入らないという確定は困難であるとの結論に達し」、「旧来の仏教に『オウムは仏教ではない』と、簡単に斥ける資格があるとは到底思えなかった」と述べている。
三島由紀夫の『豊饒の海』第三部『暁の寺』(1970年)について、「この小説でさかんに説かれている仏教は中観ではなく、唯識仏教なのである」として、「阿頼耶識を個我の根本識、対象世界の諸法の根本因と看做す」「唯識説が仏教哲学の精華として礼賛されて」おり、「かかる仏教観が、そっくり三島自身のものでもあったとしたら、彼の仏教理解は、極めて浅薄なものであったと断ぜざるを得ない」と述べている。
押井守監督のアニメーション映画『イノセンス』(2004年)の登場人物の台詞「孤独に歩め……。悪をなさず、求めるところは少なく……。林の中の象のように」について、「これはダンマパダ(「法句経」)という原始経典の一節です。記憶も、知性も、生命すら相対化した世界にあって、なおブッダの言葉は輝きを減じていない。仏教は、未来に向かっても『新しい』のです」と述べている。
河村隆一と対談して「いろんな側面があると思うけど、案外気づいている人が少ない、良質のポップスの作り手としてのRKも好きなんですよ。気になる」と語り、アジアでの日本的要素について「一時期、R&Bが日本、韓国、台湾、香港などの共通言語になったけど、これは偶然にもR&Bがアジア人の好きな旨味成分に富んでいたからですね。そういう意味では、旨味の本家本元であり、テクニカルな先端を走る日本のポップミュージックがアジア全域で受け入れられるのは当然だと思う」と述べている。
日本のヒップホップグループm-floについて「ラップにしても楽曲にしても、人跡未踏のスタイルを開いた」「日本のラップ、ヒップホップが多様化し、ここまで生き延びられたのは彼らの功績が大きい」「VERBALを招いて神学論議をする!」 と述べてアルバム『m-flo inside』で「m-flo論」を執筆している。アーサーS.デモス財団の書籍である『パワー・フォー・リビング』の広告にVERBALが出演した時は「ショックだった」と語っている。
KKベストセラーズ発行の月刊誌『CIRCUS』でBLANKEY JET CITYの元ボーカルでロックミュージシャンの浅井健一と対談した。
雑誌や動画などで魔法少女まどか☆マギカやけいおん!を評論している。
高度資本主義の進展につれて国民国家の統合枠が溶解のプロセスに入った日本の状況下では『国家の物語=国史』とは言えなくなっており、また、世代間どころか世代内ですら歴史の共有が不可能になった現在、私達にとって可能な、しかも意義ある歴史伝承の鍵は、「『公教育における国史=正史の正当化』などではなく、『私史=稗史』 がいきいきと語り継がれるローカルで多元的な共同体の探求にこそあるのではなかろうか」と述べている。
小林は、すべての死が無意味だとすれば、生のみにしか価値が認められず、ひたすら生を永らえることを願うニヒリズムに帰してしまう、という。それに対して宮崎は、「死の無意味さを直視してはじめて、何の利害得失にも拘らない真の『善き生』を生き得るのではないか」と言い、「もし特攻隊員が死後の顕彰を期していたとすれば、彼らはなお現世的価値(利害得失)を基準にしていたことになる」。そして、「彼らの死が――あらゆる死と同様に――世俗的な意味や価値に還元できない『犬死に』だからこそ、あえてその道を選んだ姿が、私達の心魂を打つのではないか」としている。
また、1997年のルワンダで、ジェノサイド実行者の残党が寄宿学校を襲い、10代の女子学生17人を捕らえ、少女たちにフツ族とツチ族に分かれるよう命じたところ、彼女らは「自分たちはただルワンダ人である」とこれを拒み無差別に射殺された話 を紹介し、「一見、単なるナショナリズムの発露のようにみえる」がその裏で、「死の虚無を見据えながらも、『偶然にくる或る不幸』(藤田) を事もなげに引き受けてしまえる意思が働いている」ことを看て取り、「これこそがナショナリズムに内在しつつ、ナショナリズムを超える自由の可能性ではあるまいか」と述べている。
結婚について、「当世流の結婚は、義務でも慣習でも規範でもなく、趣味の側面が強くなっていくだろう。趣味としての結婚。私はそんなに悪いとは思わない。幼い熱情に浮かされて、あるいは制度や慣習に従って結婚したものの、すぐに愛情は消え失せ、内実が破綻しているのになお形だけの円満な夫婦生活を続けるよりは、よほど倫理的な生き方ではあるまいか」としている。
「日本は地域の相互扶助ゆえに、家族が子供を育てる伝統がない」とする柳田國男を参照し、「『家庭が大切』って言えば言うほど、家庭を閉域化し、少子化を促進し、児童虐待を増やすだけ」と述べている。
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