細田 守(ほそだ まもる、1967年〈昭和42年〉9月19日 - )は、日本のアニメーション監督、アニメーター。 日本アニメーター・演出協会(JAniCA)会員。
富山県中新川郡上市町出身。金沢美術工芸大学美術工芸学部美術科油画専攻卒業後、東映動画(現・東映アニメーション)に入社。アニメーターを経て、演出家に転向。1999年に『劇場版デジモンアドベンチャー』で映画監督としてデビュー。その後、フリーとなって監督した映画『時をかける少女』(2006年)、『サマーウォーズ』(2009年)で国内外の注目を集める。2011年に自身のアニメーション映画制作会社「スタジオ地図」を設立。2018年公開の『未来のミライ』がアカデミー賞長編アニメーション映画賞にノミネートされるなど、日本を代表するアニメーション映画監督のひとりである。
別名義に橋本 カツヨ(はしもと カツヨ)、遡玉 洩穂(そだま もるほ)がある。
父親は鉄道職員。一人っ子。子供の頃は吃音があり、小学校1、2年は特別支援学級に通っていた。コミュニケーションが苦手で、絵を描くことだけが救いだったという。小学生の頃、劇場版『銀河鉄道999』や『ルパン三世 カリオストロの城』に衝撃を受け、その劇場パンフレットに載っていた絵コンテを見てアニメーションの世界に強く惹かれる。小学校の卒業文集には将来アニメーションのディレクターになりたいと書いていた。
中学生の時、NHK教育のトーク番組『YOU』の自主制作アニメ特集で自分と同じ学生がアニメを作っていることを知って触発され、中学3年の時にアニメ雑誌『アニメージュ』などを参考にペーパーアニメを制作するようになった。
高校1年生のとき、東映動画制作の角川映画『少年ケニヤ』(1984年、大林宣彦監督)のアニメーター公募を知り、上記の自主制作アニメで応募。最終候補3本の中に入ったことを知らせる電話が東映動画からかかってきたが、学校の中間テストのため上京を断念。
その後、現代美術の世界に惹かれていった細田はアニメとは疎遠になる。進学した金沢美術工芸大学では油絵を専攻。本人曰く、油絵を描かないような不真面目な学生だったが、所属した映画サークルでは50本近い映像作品を手がけ、落選したものの2本の劇映画を「ぴあフィルムフェスティバル」「イメージフォーラムフェスティバル」などに応募した。
大学3年の時に「大林宣彦ピアノリサイタル」を企画するが、立ち消えになる。また、東京芸術大学、京都市立芸術大学、愛知県立芸術大学、金沢美術工芸大学の4つの大学が集まって行う「四芸祭」では大学の代表を務める。
1989年、大学4年生の時にスタジオジブリの新人アニメーターの研修生募集があり、卒業のタイミングで採用試験を受けて最終選考まで残る。結果は不採用だったものの、宮崎駿から「君のような人間を入れるとかえって才能を削ぐと考えて入れるのをやめた」「君は自分の思うように作品を作るほうが向いている」という不合格の理由が記された直筆の手紙が送られてきた。
大学卒業後も引き続き就職先を探していた細田は、『少年ケニヤ』のときに電話をかけてくれた田宮武プロデューサーに連絡を取り、1991年に東映動画に入社。最初は演出を志望したが、田宮の勧めでアニメーターとしてデビューすることになる。
アニメーターとして山下高明に師事し、6年間、様々な作品に参加する。動画を経てOVA『Crying フリーマン5 戦場の鬼子母神』で初の原画、アニメ映画『Coo 遠い海から来たクー』では作画監督補佐を務める。
1995年に金子伸吾の紹介でシャフト制作の『十二戦支 爆烈エトレンジャー』で初めて絵コンテを担当し、1996年にはスタジオぎゃろっぷ制作の『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』の絵コンテを遡玉洩穂名義で担当する。どちらも東映以外のスタジオの作品だった。同年、東映社内で演出採用試験が初めて実施され、これに合格する。
1997年、『ゲゲゲの鬼太郎(第4期)』で演出デビューを果たす。他のアニメスタジオとは異なり、東映における各話演出とはただ絵コンテと演出処理を担当する役職ではなく、その話数の監督という位置づけになる。同年、父親が急病で亡くなる。
1999年、劇場短編『劇場版デジモンアドベンチャー』で初監督を務める。
2000年、監督2作目の劇場中編『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』の先進性が話題となり、各方面から注目を集める。同作を観た現代アーティストの村上隆からルイ・ヴィトンのプロモーション映像の制作を依頼され、同社の2003年春夏コレクションの店頭プロモーション用アニメ『SUPERFLAT MONOGRAM』を監督することになった。
2000年8月、スタジオジブリに『ハウルの動く城』の監督として招かれ、東映アニメーションより出向。当時、ジブリでは宮崎駿、高畑勲以外の人物に監督を任せようとする機運が高まり、新たな人材を探していた。そんな中でアニメーションの研究家やライターが気鋭の若手演出家として細田を推薦。鈴木敏夫によれば、スタジオに遊びに来た細田に企画を見せたところ、快諾したので来てもらうことにしたという。制作がスタートして最初の1年ほどは鈴木自らがプロデューサーとして関わっていたが、次第に企画は難航して高橋望にバトンタッチ。その後、スタッフと共に作品の舞台となるイギリスへのロケハンも敢行して2001年12月には東宝が細田守監督作品として正式発表、絵コンテはCパートまで完成したが、2002年4月21日に細田版『ハウル』の制作中止が決まる。その間、2001年に母親が脳梗塞で倒れている。中止に至った理由は公式には明かされていないが、鈴木敏夫は「東映アニメーションとスタジオジブリの制作スタイルの違い」「宮崎駿の存在がプレッシャーになった可能性」を挙げている。その一方で、当時スタジオジブリは『千と千尋の神隠し』も並行して制作していたため、細田が率いる『ハウルの動く城』チームが人員不足に陥ってしまったという説やジブリのベテランスタッフとの意見の衝突説もある。細田自身は「映画の構成に悩んでいたが、東映で学んだというプライドや自負が邪魔をして宮崎や高畑にも相談せず、自らの殻に閉じこもってジブリで孤立していった。コンテは行き詰まり、最後は高橋プロデューサーから『細田君、これもう無理だね』と告げられた」としている。また一番辛かったのは、自らスタッフを集めたがプロデューサーの権限がないため何の保証も出来ないまま制作中止になったことで彼らとの信頼関係が壊れてしまったことだとも語っている。
東映復帰後、映画の企画を出し続けるが一本も通らなかった。故郷に帰ってアニメ以外の仕事をしながら母の介護をしようかとも悩んだが夢を諦めきれず、そのまま企画を出し続けた。しばらく鳴かず飛ばずの状態が続いたが、2004年にマッドハウスの丸山正雄社長(当時)から『時をかける少女』の監督のオファーが来る。丸山は細田の復帰第一作『おジャ魔女どれみドッカ〜ン!』第40話「どれみと魔女をやめた魔女」(2002年11月放送)を見て「これは『時をかける少女』だ」と思い、ちょうど原作者の筒井康隆からその映像化の許諾を得ていたので声をかけたという。
2005年、東映での最後の作品となる劇場版『ONE PIECE THE MOVIE オマツリ男爵と秘密の島』を監督。その制作中も、細田は『時をかける少女』のシナリオを模索していた。映画完成後、14年間勤めた東映アニメーションを退社してフリーになる。
2006年7月、フリー第一作目の監督作『時をかける少女』が劇場公開される。公開当初は全国21館のみという小規模な興業を予定していたが、観客の口コミで人気を博し、最終的には40週間にわたる異例のロングランヒットとなり、観客動員数18万人以上、上映館数延べ100館以上、興行収入2.6億円を記録。作品の内容も高い評価を受け、国内外問わず数多くの映画祭、映画賞にも招かれた。
2009年8月に『サマーウォーズ』が劇場公開され、上映スクリーン数127、観客動員数126万人、興業収入16億5000万円と前作を大幅に上回るヒットとなった。しかし、映画制作中の同年7月に母親が死去。その半年後には祖母も亡くなった。
2011年4月、自身のアニメ制作会社スタジオ地図を設立(代表取締役は齋藤優一郎)。
2012年7月、『おおかみこどもの雨と雪』が劇場公開。公開前の同年6月には自ら執筆した同作品の原作小説で小説家としてデビューした。映画は観客動員約340万人、興行収入42億円を挙げ、2012年の年間興行収入ランキング第6位の大ヒットとなった。
2015年7月、『バケモノの子』を公開。興行収入58億円強の大ヒットとなる。
2012年9月に長男が、2015年末に長女が誕生している。
2018年、『未来のミライ』を公開。カンヌ国際映画祭の監督週間で上映されるなど国際的に評価され、アニー賞では長編インディペンデント作品賞を受賞した。ゴールデングローブ賞 アニメ映画賞とアカデミー賞長編アニメーション部門にもノミネートされた。アカデミー賞の候補に日本のアニメ映画が名前を連ねるのは、スタジオジブリ以外では初のことだった。
2021年7月、『竜とそばかすの姫』が全国416館で公開。興行収入は66億円に達し、細田としてもスタジオ地図としても最大のヒットとなった。同作は第74回カンヌ国際映画祭で新設された、それまでに高い評価を受けている監督たちの新作を集めた「カンヌ・プリミエール」部門に日本映画として唯一選出され、ワールドプレミア上映された。アニメーション作品は、カンヌ国際映画祭ではなく、そこから独立したアヌシー国際アニメーション映画祭で取り扱われることが多く、カンヌ映画祭で公式に選出されることは極めて稀である。アニー賞で合計5つの賞にノミネートされた。
アニメーション制作がセルアニメからデジタルアニメへ移行するという大きな変わり目の時期に登場し、デジタルの特性を活かした画面構成・色彩感覚・表現方法・作品の内容で注目を浴びた演出家。色数制限が事実上なくなったことで表現できるようになったグラフィカルな絵作り、同じ1枚の背景データを使い回して様々な時間やシチュエーションを表現する手法など、デジタルの可能性を提示した。デジタルと手描きを絵筆を変えるように使い分けることで、自分が持つイマジネーションを具現化している。手描きもCGも単なる技法に過ぎず、両者は対立するものではないので2つの長所を重ね合わせて相乗効果を得られれば良いと考えている。「どうしてCGではなく手描きのアニメにこだわるのか」と聞かれることがあるが、むしろアニメーション制作者は優れたアニメーターの引く素晴らしく美しい1本の線のような技術を手放すべきではないと答えている。手描きアニメと比較したときに、日本で作られた既存のCGアニメは感情表現に成功しているとは言い難いが、なんとか人物の気持ちが観客に通じるように描く方向に持っていきたいと考え、チャレンジを続けている。
テレビアニメの表現に興味を持ったことはなく、自分は映画の人間だと語っている。
映画制作において、アニメーションという技法を使って革新的に表現の幅を広げようとしている。既存のアニメ表現にとどまらず、いろいろな世界観や表現方法を映画に取り入れたいと思っている。作られた本数の少ないアニメ映画はまだポテンシャルを出し切っていないので、映画芸術に対して何か貢献できるのではないかと常に模索している。その一方で、アニメという一つのジャンルムービーとしては、愛好家がより深く突き詰めていくという快楽があるのもわかっている。しかし、ジャンルだけを追求していくと世界が狭まっていく一方なので、やはり保守と革新の両輪が必要だと考えている。
映画とは現代を描くものであると考え、時代とともに変化する世界や価値観を反映した作品作りを目指している。作劇の上で、自身の問題意識を込めながら作品を作っている。具体的には、家族の問題や「自分は何者なのか?」というアイデンティティに悩む子供や若い人が成長していく過程をどうやって形を変えて描けるかをずっと考えている。特に家族については「家族そのものが時代に伴って変化しており、その分だけ描く必要のある今日的モチーフで興味が尽きない」として、常に取り上げてきた。しかし家族という関係そのものに思い入れはなく、自身は父とは疎遠で亡くなるまで親子の関係は希薄なままで、母との折り合いもあまり良くなく、自分の子供ができるまで子育てにも興味がなかったという。また、仕事が上手く行かなかったなどの自らの苦しい経験、あまり仲の良くなかった自身の親戚との関係、結婚して新たに親戚が増えるとどうなるかなどの実体験を作品に盛り込んでいる。
何度も繰り返しリメイクされた作品を取り上げることが多いが、普遍的な要素を残しつつ同じ枠組みで時代の移り変わりにより何が変わったのかを描くことで世の中の変化が見えてくるので、古典を何度も新しく作り直すことには大きな意味があると考えている。
もともとは画家になりたかった人で、本人は映像作家というよりも「絵の作家」という意識が強い。「アニメーション映画は映画の中の一分野や実写映画の傍流ではなく絵画の歴史の一分野だと思っている」「実写が写真だとするとアニメーションは絵の系譜であり、生まれてまだ200年の写真よりも人類が絵を描いてきた歴史の方がはるかに長い」と語っている。もともと日本アニメは伝統的に日本絵画の影響下にあるが、細田は最も自覚的にその影響を取り込んでいるアニメ作家であり、それを自身の作家性としている。
細田作品の特徴として真っ先に挙げられるのが「影なし作画」である。通常、アニメでは人物の立体感を表現するために、色の塗り分けによって陰影をつけるが、細田作品の人物画は特別なシーンでない限り、影が描かれない。その意図について、細田は「アニメーションにおける影は、実写のように影や光が当たっているところを細かく人物に付けることで『絵であることから抜け出たい』という思いがあるが、自分は逆に『アニメーションは絵画である』ということを強調したい」「絵画史のなかの一番最先端にアニメーションという表現があるということを自覚して作った」と説明している。「立体感は動きによって表現すべし」とする細田の考えに基づき、陰影のないフラットな人物画で躍動感のある動きを表現しているが、アニメーション本来の魅力の源泉である動きの芝居に力を注ぐことで作品のダイナミズムが生まれている。顔に陰影がないのは浮世絵などの日本絵画の特徴だが、影のない平面的なキャラクターは一層記号的な存在となる。その代わりに動きや型を追求したのが日本画であり、細田作品の陰影のないフラットな人物描写は日本画の伝統に延長線上にあるものだと指摘されている。また、影を描かないのは作業の効率化という意味合いもある。影が無くなればリテイク率も圧倒的に減り、その分の時間や予算を他の部分に回すことが出来るからである。初めに作画の手間を減らすために影を無くしたいと言い出したのは長年コンビを組む山下高明である。最初はむしろ細田はそれに抵抗していたが、山下の画力なら十分耐えられると思い直し、不必要な影や線を極力減らした分、人物の形そのものや芝居に力を入れよう、という事になった。
定点観測アングル、広角レンズ画面、引きのショットが多いのは客観性を持たせるためである。カメラワークを変えず、同じカットを繰り返す同ポジションを多用することによって独特の画面作りとテンポを生み出している。自身のレイアウト作業の省力化の意味もあり、繰り返し使えるようなカットを作ることで1カットのレイアウトに通常の数倍の時間をかけることができる。描く背景の枚数も少なくなるのでそのクオリティーも上がる。広角レンズを意識したカメラワークの使用(ロングショットで切り替わるカメラがよく見られ、細田曰く、「コンテ作業は様々な場所に仕掛けた隠しカメラが切り替えてるだけ」とのこと)や、画面下半分で芝居をするなどの表現手法も多い。
細田守作品の美術・背景は人物絵とは対照的に非常に写実的で実在感があり、徹底したリアリズムが貫かれている。現実に存在する風景を精緻に描くことで、ファンタスティックな出来事が起こる物語でも、登場人物たちは実在して生きているのだと観客に感じさせることができる。
細田作品には、「クジラ」「青空」「入道雲」「桃」「本棚」等の共通するイメージが頻繁に登場する。「桃」は細田作品が公開される夏が旬の果物であるため。また異世界に通じるとも言われていて、実際、細田作品では異世界に入るタイミングで出現する。どの作品も「青空」がベースにあり、感情の変化にシンクロして天候も変化する。「入道雲」は、変化や成長のメタファーとして用いられている。主人公たちの成長というテーマをむくむくと盛り上がる入道雲に託している。「クジラ」や「オオカミ」をモチーフにしたキャラクターが出てくることが多いが、どちらも人間にある種の社会的イメージを植え付けられた動物であり、その人間中心的な考えが傲慢に思えてしまうので、つい動物側に寄り添いたくなるという。
演出の付け方にはアニメーターの芝居に頼らず、なるべく絵コンテの段階で作品のおもしろさを保証する「表現派」と、アニメーターの作画によるキャラクターの演技に頼って演出する「芝居派」の2種類があると東映の先輩演出家たち(特に幾原邦彦)から教えられた。東映では作画の力を当てにしない「表現派」が推奨されていたが、細田はそれでは豊かな作品にはならないと思っている。
インターネットを題材とした映画を継続的に作っている世界でも数少ない監督の1人だと自負している。インターネットには負の側面もあるが良い面もあり、ただ批判するだけではなく、肯定的に寄り添う目線が必要ではないかと考えて取り上げている。
夏休み期間に新作を公開するのは、子供たちに向けた夏休みのアニメーション映画には、一種の社会的な役割があると思っているから。
日本のアニメーション界では子供や動物を描くことが難しくなってきているが、子供を描くことを通して、家族・社会・世界を描くことこそがアニメーションに課された役割ではないのかという問題意識を強く持ち、あえてそれらを描くことに挑戦している。
作品ごとにスタッフを変えるのではなく、ずっと同じスタッフと仕事をする。何作も一緒にやってきた関係性だからこそ、技術的にも内容的にもできる表現があると考えている。その一方で作品を作るごとにアニメ業界以外を含む新たな才能を数多く登用することで多様なセンスを取り入れている。
細田作品のプロデューサーチームは合議制なのが特徴で、話し合って価値観や哲学を共有したうえで、自分の専門分野から作品を支援する。
アフレコでは役者が別々に収録する事を嫌い、そのシーンに出演する役者全員を立ち合わせて収録する。
好きな映画監督は相米慎二(『台風クラブ』)、ヴィム・ヴェンダース(『ベルリン・天使の詩』)、ウディ・アレン(『世界中がアイ・ラヴ・ユー』)、ビクトル・エリセ(『ミツバチのささやき』)、エドワード・ヤン(『ヤンヤン 夏の想い出』)など。
尊敬するアニメ監督は高畑勲(『赤毛のアン』)、出﨑統(劇場版 エースをねらえ!)、富野由悠季(『機動戦士ガンダム』、『伝説巨神イデオン』)、りんたろう(『劇場版 銀河鉄道999』)、宮崎駿(『ルパン三世 カリオストロの城』)、杉井ギサブロー(『銀河鉄道の夜』)など。
学生時代から愛着のある作家として、大江健三郎と寺山修司を挙げている。柄谷行人や吉本隆明といった文芸評論家の著書からの影響も公言しており、Twitterでは村上春樹のスピーチ文を薦めている。
東映時代、演出家として影響を受けた人物として、山内重保、幾原邦彦、古橋一浩らの名を挙げている。
幼い頃から宮崎駿に憧れ、スタジオジブリの採用試験を受けたほど。"ポスト宮崎駿"と言われることについては、「宮崎駿になりたくて、あるいはそういうポジションにつきたくてアニメの仕事をしているわけではなく、あくまで自分自身の『面白い映画』を作りたいだけ」と答えている。スタジオジブリのもうひとりの顔であった高畑勲については、「『アニメーションとは何か』ということに対して最も自覚的なアニメ監督で、アニメでしか出来ない表現を求めてそれを形にしてきたイノベーター」「絵を描かない監督と言われるが、絵を描くことだけが映画を支配する方法じゃないということをきっと知っていた。もっと上位の視点があるのかもしれず、そこに到達出来ていたのは高畑監督だけだと思う」と評している。
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