大奥(おおおく)は、江戸城に存在した将軍家の御台所・子女・側室・奥女中(御殿女中)が男性では将軍を主体とした「将軍家の血筋を守り繋げるため」原則男子禁制であり、将軍の家族いわゆる夫人やその世子及び子女と生活のお手伝いをする奥女中の住まう奥向きの御殿や居所。一概に言えば将軍家の後宮と同義の意味である。
併せて、将軍以外の男性では特例で御典医のみ健康管理のために大奥への立ち入りを許された。その他の男性は全て大奥の出入り口の一つ・七つ口から立入厳禁となる。一般に大奥という表現は狭い意味では江戸城本丸大奥のみを指すが、広い意味では西丸大奥・二丸大奥も含む。江戸時代の大名家でも家によっては奥向を大奥と呼んでいた。
本項では、江戸城大奥について述べる。
武家の邸宅において、儀礼や政治の場である「表」と日常生活の場である「奥」との区分は近世以前より存在していた。しかし大奥という呼称は江戸城に初めから存在していた訳ではない。元和4年(1618年)の「壁書」や元和9年(1623年)の「御台所法度」では、「奥方」や「奥」といった呼称が用いられている。本丸に関する最古の図面である寛永14年(1637年)の「御本丸御奥方御絵図」では「御奥方」と呼ばれている。4代将軍・徳川家綱の時代に「大奥」という呼称が登場するようになり、5代将軍・徳川綱吉の時代に「大奥」が定着するようになる。これは貞享元年(1684年)に御座之間近くで大老・堀田正俊が若年寄・稲葉正休に殺害されたことで、表と奥の境目が明確化したことによると考えられている。
大奥及び奥女中に対する規則は「壁書」以降、将軍の代替わりごとに確認され改訂されてきたと考えられている。「壁書」で主に規定されていたのは大奥への出入りに関することである。男性の出入りが明確に禁止されているのは、大奥全体ではなく女中たちの宿舎である長局より奥であった。5年後の「御台所法度」では、医師や大名の使者等の出入りについての記述が加えられた。寛文10年(1670年)には女中たちが守るべき「女中法度」、老中に対する「老中連署条目」が出されている。享保6年(1721年)の「女中法度」では、文通や宿下がり(一時帰宅)で交際が許される範囲やぜいたくの禁止等についての条文が加えられた。
大奥の構造は火災による焼失・再建の度に変化していった。綱吉の時代までの特徴は、老女や側室の居所が御殿向に点在していたことである。6代将軍徳川家宣の時代以降、側室は女中として長局に居住するようになる。これにより御台所と側室の立場の違いが明確化した。9代将軍徳川家重の時代に御鈴廊下が2本になったと考えられている。本丸御殿は計5回焼失しており、文久3年(1863年)に焼失してからは再建されなかった。
幕末期の大奥には、表の政治問題が波及するようになる。弘化3年(1846年)に水戸藩前藩主徳川斉昭が琉球や蝦夷地に関して12代将軍徳川家慶に訴えかけようとして、上臈御年寄姉小路に書を送っている。その後、安政期の将軍継嗣問題では、南紀派と一橋派が大奥工作を行って政争を展開した。南紀派は13代将軍徳川家定の生母本寿院や上臈御年寄歌橋を味方に付け、一橋派は正室篤姫を通じて将軍に働きかけようとした。徳川家茂が14代将軍に就いてからは、大老井伊直弼らによって朝幕関係修復のため皇女降嫁が画策される。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで徳川慶喜が敗北し、新政府が慶喜の追討令を出した後、天璋院と静寛院宮はそれぞれ薩摩藩と朝廷に対して嘆願書を送っている。 その後、大奥は幕府始まって以来初めて徳川家中へ向けた御触を発令し、恭順を徹底するよう命じた。同年4月、江戸城開城に先立って静寛院宮と家茂生母実成院は清水邸へ、天璋院と本寿院は一橋邸へ退去した。
江戸城内曲輪は、本城(本丸、二の丸、三の丸)、西丸、紅葉山、吹上御庭、西丸下で構成されていた。このうち、大奥が置かれたのは本丸、二丸、西丸の3つの郭である。本丸は将軍夫妻、二丸は将軍生母やかつての将軍に仕えていた側室、西丸は世嗣夫妻や大御所夫妻が住まいとしていた。ただし本丸の非常時には、二丸や西丸が代わりとして機能した。
図面は江戸城 大奥御殿向惣絵図がある。
本丸御殿は、先述したように表、中奥、大奥に区分されている。この内、表と中奥は一続きの御殿であった。しかし大奥は表・中奥御殿とは切り離されており、銅塀で仕切られていた。中奥と大奥を繋ぐ唯一の廊下が、御鈴廊下である。将軍が大奥へ出入りする際に鈴のついた紐を引いて鈴を鳴らして合図を送り、出入り口である「御錠口」の開錠をさせていたことからこの名が付いた。後に火事等の緊急事態を想定して作られたのが「下御鈴廊下」であるとされている。
大奥は大別して広敷向・長局向・御殿向に区画される。
大奥一の女主であり主宰者でもあるのが、将軍正室である「御台所」である。御台所は、3代将軍家光以降は、五摂家(近衛家・九条家・一条家・二条家・鷹司家)か四親王家(有栖川宮家・桂宮家・伏見宮家・閑院宮家)から迎えるのが慣例となっていた。11代将軍・家斉の御台所・広大院と13代将軍家定の御台所・天璋院の2人は、どちらも島津家出身であったが、縁戚に当たる近衛家に養女となった上で輿入れした。なお、7代将軍・家継の婚約者となった八十宮吉子内親王と、14代将軍・家茂の御台所となった和宮親子内親王(静寛院)はどちらも摂家・宮家出身ではなく皇女であった。なお、初代将軍・家康と8代将軍・吉宗は将軍就任前に正室を喪い、在任中も新たな正室を迎えなかったため、実際には御台所は空席のままであった。
江戸時代初期においては大抵の場合、御台所は形式上の主宰者であった。例えば、3代家光正室・鷹司孝子は夫との仲が極めて険悪で、正式に「御台所」と称することのないまま、結婚後程なくしてその居所を本丸から中丸に移され、大奥の実権はもっぱら春日局らが握っていた。その立場に変化が現れたのは、6代将軍徳川家宣の時代で、家宣が、御台所・天英院の父・近衛基煕を儀礼指南役として重用し敬意を表したことで、幕府役人はもちろん、大奥の儀礼も整えられた。それによって御台所の立場は不動のものとなったが、前述の家康や吉宗の例のように御台所不在の期間が合わせて約100年ほどあり、その間は先代将軍の正室や将軍生母らが大奥を主宰した。
生前に官位を賜ったのは
の6人だけで、世嗣となる子供を産んだのは2代徳川秀忠正室・お江与の方だけである。御台所は自らの夫が亡くなった場合は落飾して本丸から退き、西丸で余生を過ごした。
将軍の側室は基本的に将軍付の御中﨟から選ばれる。将軍が目に適った者の名を御年寄に告げると、その日の夕刻には寝間の準備をして寝所である「御小座敷」に待機していた。御台所付の中﨟が将軍の目に適った場合は、将軍付御年寄が御台所付御年寄に掛け合って、「御台所了承」という手順を踏んで、寝間の準備が行なわれた。御台所付き中﨟に拒否権はあったが、その場合は「永のお暇」となり、辞職して大奥を去らなければならなかった。
寝間を終えた中﨟は「お手つき」と呼ばれ、懐妊して女子を出産すれば「お腹様」(おはらさま)、男子を出産すれば「お部屋様」(おへやさま)となり、ようやく正式な側室となる。さらに、我が子が世嗣に選ばれ将軍職に就くと将軍生母となり、時代によっては御台所を遥かに凌ぐ絶大な権威と権力を持ち得た。5代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院はその最たる例で、従一位に叙せられている。
しかし大奥側もこういったことは座視しておけず、様々な対策をした結果(例えば春日局がとんでもない権勢を誇ったことから、乳母が乳を上げるときは顔を覚えられないように黒い布で顔を隠した)、側室や将軍生母の力は、時代が下るとともに低下していった。江戸時代後期になると、側室はたとえ我が子が将軍世子であっても自身の地位は一介の女中のそれと同等にとどまり、我が子が将軍になって初めてお上(おかみ、将軍家の一員)として遇された。その他の側室は落飾して「○○院」と号して、二の丸御殿(将軍の子どもを産んだ側室)や桜田御用屋敷で静かに余生を過ごした。
出生の子が将軍になった人物は名前を太字で、孫が将軍になった人物は斜字で表示
大奥に住む女性たちの大部分を占めていたのが女中たちであった。ちなみに幕府から給金を支給されていた女中たちすべてを「大奥女中」と言い、実際には将軍家の姫君の輿入れ先や息子の養子先の大名家にも存在していたという。女中の人数は最盛期で1000人とも3000人とも言われる。
女中は基本的に将軍付と御台所付の女中に大別されているが、役職名はほとんど同じである。ただし、格式や権威に関しては将軍付の方が高かった。また、特定の主人を持たない女中たちを「詰」と呼んだ。
序列や役職名は時代によって異なるが、江戸時代後期の奥女中の役職は以下の通りであった。
奥女中のうち、上臈御年寄から御坊主までがお目見え以上と言い、将軍と御台所への目通りを許されていた上級の女中たちである。女中たちのお禄(手当)は主に切米、合力金、扶持(月々の食料)、湯之木(風呂用の薪)、五菜銀(味噌や塩を買うための銀)、油などの現物が多かった。また老女(上臈御年寄、御年寄を総称して「老女」と言う。)になると町屋敷が与えられることもあった。
奥女中には通常旗本や御家人などの武家出の女性が雇用された。しかしそれも建前で、時代が下るにつれて裕福な町人出の女性が「行儀見習い」目的に奉公に上がることが多くなる。町人の場合、初めの頃こそは親戚や知り合いの先輩女中の口利きを頼ったり、旗本や御家人の家へいったん養女入りしたりという、迂遠な根回しや手続きを経て大奥入りしたが、後代になって武士と町人の経済力が完全に逆転すると、今度は旗本や御家人の方から持参金付き養女縁組みの話を持ちかけてくることも珍しくなくなっていった。
大奥を舞台にした小説・舞台・映画・テレビドラマなどで「大奥総取締」が登場する場合があるが、実際には「大奥総取締」という職名は大奥には存在しなかった。実際には、大奥の万事差配は老女が合議によって担っていた。
しかし時代によっては、大奥においても1人のいわば「総取締」とも言える役割が存在することもあった。大奥の制度が完全に確立されてはいなかった3代将軍・家光の時代、乳母である春日局が「将軍様御局」という立場で大奥総取締の任に当たった。また、5代将軍綱吉時代の将軍付上臈御年寄・右衛門佐局は、綱吉から「大奥総支配」を命じられたとされる。この2人はどちらも老女筆頭であったが、最高の権勢を誇った老女が必ずしも筆頭であったわけではない。12代将軍・家慶の時代の将軍付上臈御年寄・姉小路は、大奥で権勢をふるった女性として知られているが筆頭ではなかったと考えられている。また、「お清」の老女以外にも、例えば3代将軍家光の側室・お万の方が大上臈として、春日局亡き後、「春日同様」に大奥総取締の任に命じられた例もあった。
このように、時代によっては将軍の個人的な意向が大奥の重要人事に絡んだこともあった。幕政の主導権を将軍が握った際、将軍を補佐する側用人や御側御用取次が力を持ったのと同様である。とはいえ、大奥は幕政において贈答儀礼などの重要な側面の一翼を担っていたため、将軍付老女は幕府のために働いていたという側面が否めず、将軍個人の意向で人事が動くことはまれであったと言える。
大奥経費は全て勘定所が管理していた。必要品購入の代金は広敷役人から勘定所へ伝えられ、勘定所から実際の支出がなされていた。大奥経費は幕府の財政支出全体の3~8%であったと見られている。それでも1年で20万両程度であったと言われている。和宮降嫁後の文久2年(1862年)には45万両を超えたが、慶応2年(1866年)に17万両にまで削減された。
解雇された女中たちは面白おかしく大奥内情を暴露した。ただし、これらの資料は事実と虚構が入り混じっている。
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