東急電鉄株式会社(とうきゅうでんてつ、英: TOKYU RAILWAYS Co., Ltd.)は、東京都渋谷区に本社を置き、東京都区部南西部から神奈川県東部に有する路線で鉄道・軌道事業を行っている会社。事業持株会社である東急株式会社の100%子会社であり、東急グループの中核事業である鉄道事業を東急株式会社(旧・東京急行電鉄株式会社)から継承した事業会社である。日本の大手私鉄の一つである。
2019年9月2日に「東京急行電鉄株式会社」が「東急株式会社」に商号を変更し、同年10月1日に同社の鉄軌道事業を会社分割方式で分社化する形で発足した(「東急#鉄軌道事業の分割」も参照)。そのような設立の経緯から他の大手私鉄と異なり、不動産や小売業などの鉄道以外の関連事業は親会社の東急株式会社やその子会社が担っており、東急電鉄株式会社は純粋に鉄軌道事業のみを行っている。
「東急電鉄」の名称は、元は2006年1月1日から、当時の東京急行電鉄がそれまでの公式略称であった「東京急行」に代えて駅掲出のポスター・チラシ類、公式サイトやパスネットなどにおいて使用を開始した公式略称である。かつては英語略称として、T.K.K.(Tokyo Kyuko Kabushikigaisha)を使用していた時代もあった。なお、当時の車体塗装を復元して運行している一部の車両でT.K.K.と表記しているものがある。
本記事では東急電鉄発足以降のみならず、分社化以前の東急株式会社(田園都市株式会社・目黒蒲田電鉄・東京横浜電鉄・東京急行電鉄時代も含む)による鉄軌道事業を含め、東急電鉄本体での事業について記述する。また、本記事において、単に「東急」とあるのは、東急電鉄または分社化前の東京急行電鉄の略称を意味し、親会社の東急を指す場合は「東急株式会社」のように明示する。
鉄道総営業距離は110.7km(2023年3月31日時点)と大手私鉄16社中10位であるが、会社分割前の単体売上高はJRを除く日本の鉄道事業者で、東京地下鉄(東京メトロ)、近畿日本鉄道(近鉄)に次ぎ、また営業キロ当たりの単体売上高は25.4億円/kmと、東京メトロの17.3億円/kmの約1.5倍であり、他を引き離している(2011年度)。連結売上高は1位、利益は連結、単体ともに1位である(JRグループを含む場合は、連結売上高はJR東日本、JR東海に続く3位であり、以下4位のJR西日本、5位の東京メトロと続く)。
渋沢栄一が東京府荏原郡(現在の東京都区部南西部=品川区、目黒区、大田区および世田谷区の一部)の宅地開発とその住民のための交通網及び生活基盤整備のために創設した田園都市株式会社を源流とするグループ企業の一つであり、こうした設立経緯から東急電鉄以外の不動産部門、ホテル部門や生活サービス部門(小売業)などの収益が鉄軌道事業の収益をはるかに上回り、連結決算で見た東急グループ全体の営業収益(売上高に相当)は毎年1兆円を超える。東急のグループ企業には、路線バスなど交通、不動産開発、小売業、ホテル・リゾートなどに221社8法人が名を連ねる(2017年3月末時点)。
2020年3月頃からは、「美しい時代へ―」のほかに「人へ、街へ、未来へ。」という当社独自のコーポレートスローガンを使用するようになった。
1943年に東京急行電鉄が刊行した『東京横浜電鉄沿革史』によると、東急の“創設者”は東急の母体企業“田園都市創設者”という表現で渋沢栄一となっている。また、渋沢の子である渋沢秀雄も田園都市株式会社の取締役支配人、及び東急電鉄の常任監査役などを務めていた。
しかし、東急の事実上の“創業者”は五島慶太と認識されている。これは、東急の源流企業である田園都市株式会社を実質的に経営していた小林一三(阪急電鉄創業者)がその子会社である目黒蒲田電鉄に、当時、鉄道省の高級官吏であった五島慶太を経営陣に招聘し、それ以降五島慶太を中心に同社が東京横浜電鉄、東京急行電鉄と変遷し、現在の東急株式会社を中核とする東急グループが形成されたからである。
とは言え、東武鉄道の根津家や西武鉄道の堤家 とは異なり、五島慶太は資本による会社支配は行わなかった。つまり五島家の東急の持株比率は低く、個人株主では国際興業の小佐野賢治が筆頭であった。また、五島慶太の後継者五島昇も資本による会社支配を行わなかったことから、五島慶太・昇父子の経営者としての手腕や、パーソナリティでグループが結束を保ってきた歴史を有する。五島昇の後継者として目された昇の長男五島哲は、本田技研工業を経て東急取締役に就任し、東急建設社長を務めたが、五島昇に望まれながらも東急本社の社長には就任せずに他界した。現在、東急グループの経営陣に五島家出身者はいない。
東京急行電鉄の歴史は、渋沢栄一が理想的な住宅地「田園都市」の開発を目的に、1918年(大正7年)9月に設立、1922年(大正11年)6月から洗足田園都市(後の洗足地域)の分譲を開始 していた田園都市株式会社を始祖とし、その鉄道部門を同年9月に子会社として分離した目黒蒲田電鉄に始まる。会社分離後の翌1923年(大正12年)8月、多摩川台地区(後の田園調布地域)の分譲も開始し、目黒蒲田電鉄はそれらの交通を担った。つまり目黒蒲田電鉄は、田園都市株式会社と地権者が共同開発した分譲地を、その付加価値を高めるために、省線(現在のJR線)と結ぶ交通手段として設立されたのである。都市開発の一環としての鉄道事業という位置付けはこの当時からのものであり、第二次世界大戦終結後においても、多摩田園都市の開発に伴う田園都市線の延伸などのプロジェクトを行っている。
この開業に当たり、大阪の箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)の創業者で鉄道経営の実績があり、既に 1921年(大正10年)6月から田園都市株式会社を実質的に経営していた小林一三 は、その役員会で「僕が毎月上京して役員会で方針を定めて行くが、さっぱり実行出来ない。実行力のある人を役員に入れて貰わねば、せっかく毎月来ても何にもならぬ」と自身の代わりに鉄道省出身で当時未開業の武蔵電気鉄道(後の(旧)東京横浜電鉄、現在の東横線の母体)の経営に携わっていた五島慶太を推挙した。こうして1922年(大正11年)10月、目蒲入りした五島慶太は陣頭指揮を執って同社を東都最大の私鉄に育成することとなる。しかし、田園都市株式会社、及び目黒蒲田電鉄の経営も「私自身本来の眼目であった」武蔵電気鉄道の開業を期すための手段という位置づけであった。
まず、1923年(大正12年)3月に目黒駅 - 丸子駅(現在の沼部駅)間を開業させて洗足田園都市の居住者に交通の便を提供し、8月には多摩川台地区の分譲も始めた。同年9月1日、関東大震災が発生し東京市内は壊滅的な被害を受けたが、洗足田園都市の分譲地にはほとんど被害が無く、また11月には目黒駅 - 蒲田駅間を全通させることができ、目蒲線(現在の目黒線の一部および東急多摩川線)と呼んだ。次に、目黒蒲田電鉄の姉妹会社である(旧)東京横浜電鉄(武蔵電気鉄道の後身)は1926年(大正15年)2月に丸子多摩川駅(現在の多摩川駅) - 神奈川駅間 (神奈川線、14.7 km) を開通させ、目蒲線との相互乗り入れにより、目黒駅 - 神奈川駅間の直通運転を開始した。そして翌1927年(昭和2年)8月には渋谷駅 - 丸子多摩川駅間 (渋谷線、9.1 km) を開通させ、渋谷駅 - 神奈川駅間(23.9 km)の直通運転を開始して、東横線と呼んだ。東横線は五島慶太が最も精魂を傾けて建設した路線だと言われている。1932年(昭和7年)3月には桜木町駅まで延長、東横線が全線開業した。これら沿線に1925年(大正14年)12月、多摩川園を開園、1934年(昭和9年)11月、渋谷に東横百貨店を、田園調布に田園テニス倶楽部を、1936年(昭和11年)に田園コロシアムを作るなど沿線住民の利便性を高めた。「乗客は電車が創造する」と言った小林一三が阪急で用いた手法を五島慶太は継承したのである。
それだけでなく、大学等の学校を誘致する。まず、1924年(大正13年)、関東大震災で被災した東京工業大学を蔵前から目蒲線の大岡山に土地の等価交換により移転させることに成功した。そして、1929年(昭和4年)には慶應義塾大学に日吉台の土地を無償提供し、1934年(昭和9年)日吉キャンパスが開設された。1931年(昭和6年)に日本医科大学に武蔵小杉駅近くの土地を無償提供し、1932年(昭和7年)に東京府立高等学校(現:東京都立大学)を八雲に誘致、1936年(昭和11年)に東京府青山師範学校(現:東京学芸大学)を世田谷・下馬に誘致するなど、東横沿線は田園都市としてだけでなく学園都市としての付加価値も高まっていくことになり、かつ多くの通学客という安定的な乗客の獲得にもつながった。また、1927年(昭和2年)7月から1929年(昭和4年)12月にかけて大井町駅 - 二子玉川駅間を開通させ大井町線と呼んだ。
その後、五島慶太は事業拡大に乗り出す。まず、目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道(現在の池上線を運営)を買収・合併した。目黒蒲田電鉄と池上電気鉄道は開業当初から開発地域が競合していたが、その一方で合併話も持ち上がっていた。「当時の池上電鉄は経営が苦しいのに有利な条件を出しゴタゴタ言ってきた」そこで、経営者の後藤国彦とオーナーの川崎財閥とはうまくいっていないことを利用し、1933年(昭和8年)5月、五島慶太は、川崎財閥総帥の川崎肇から「池上電鉄の株、全部で一二万株のうち八万五千株を一夜にして買ってしまい、万事うまくいった」と買収して乗っ取ってしまったのである。次に、(旧)東京横浜電鉄は玉川電気鉄道(玉川線(現在の田園都市線の一部となった新玉川線の前身)および、世田谷線の母体)を買収・合併した。(旧)東京横浜電鉄は、当時渋谷の開発をめぐり玉川電気鉄道と競合していたが、五島慶太は同時に抱えていた地下鉄道建設を目的で設立された東京高速鉄道の案件で、地下鉄渋谷駅の建設をするのに玉川電気鉄道の協力が必要だった。また玉川電気鉄道の電灯電力供給事業も欲しかった。そこで千代田生命と内国貯金銀行が持っていた玉川電気鉄道の株五万六千株を買収、1936年(昭和11年)10月、五島慶太が社長に就任、乗っ取りに成功し、1938年(昭和13年)4月には(旧)東京横浜電鉄は玉川電気鉄道を合併した。
そして、目黒蒲田電鉄は1939年(昭和14年)10月1日に(旧)東京横浜電鉄を合併し、10月16日に、名称を逆に(新)東京横浜電鉄と改称した。この合併にあたり、歴史が長く東急電鉄の幹線となる東横線を運営する(旧)東横電鉄を主体とし、目蒲電鉄をこれに併合する予定であったが、資本の流れの問題もあり、まず目蒲電鉄が東横電鉄を併合し、目蒲電鉄を形式上の存続会社とし、名称を逆に東横電鉄とした。この時に、現在の東急の基本となる路線がほぼ一元的に運営されるようになっている。なお、田園都市株式会社は1928年(昭和3年)5月に、多摩川台地区などの分譲が完了したため、子会社である目黒蒲田電鉄に吸収合併されたが、デベロッパーとしての東急不動産の始祖でもあった。
1938年(昭和13年)4月、電力国家管理法が公布され、1939年(昭和14年)4月に国策会社日本発送電が発足する。このことにより小田原急行鉄道 の親会社である鬼怒川水力電気は、得意先(売電先)を失うなどして経営が悪化する。それに伴い小田原急行鉄道も経営が悪化し、社長であった利光鶴松が五島慶太に経営を委ね、1939年(昭和14年)10月、五島は小田原急行鉄道の取締役会で取締役に選任された。1941年(昭和16年)3月に小田原急行鉄道は、経営再建のため鬼怒川水力電気に合併し、鬼怒川水力電気が(旧)小田急電鉄と社名を変更。同年9月には五島慶太が社長に就任した。
前節で触れた東京高速鉄道は、渋谷駅 - 新橋駅 - 東京駅間の地下鉄建設を行う会社として、大倉財閥の門野重九郎、脇道誉と小田原急行鉄道の利光鶴松が組んで設立しようとした会社で、当時の東京市は山手線内の鉄道施設権を独占していたが財源が無く東京高速鉄道に地下鉄道の施設権を譲渡したのであった。しかし東京高速鉄道も資金難であり、第一生命の創業者であり東京横浜電鉄の社長だった矢野恒太に相談すると「東横電鉄の五島慶太を参加させること」を条件に出資し五島が常務(事実上の経営者)に就任、1934年(昭和9年)9月、会社は設立された。五島は、東京高速鉄道の渋谷から新橋までの運営は、すでに浅草駅 - 神田駅 - 新橋駅間で開業(1934年(昭和9年)6月に全通)していた東京地下鉄道と結んだ方が経営上の効率が良いと判断し、また東京市との約束「将来において東京地下鉄道と合併を条件に施設権を譲渡する」もあり、東京地下鉄道と交渉し両社間で直通することで半ば強引に合意した。しかし、東京地下鉄道側は合意に反し、1937年(昭和12年)3月、京浜電気鉄道と結んで京浜地下鉄道を設立し、東京高速鉄道との直通ではなく新橋から品川方面への延伸計画を発表した。これに対し五島は、東京地下鉄道の提携先である京浜電気鉄道株式の買い占めにかかり、1938年(昭和13年)1月、まず同社の大株主であった前山久吉(内国貯金銀行頭取)から株式を入手、次いで1939年(昭和14年)3月、京浜電気鉄道会長である望月軍四郎からも入手、東京高速鉄道は京浜電鉄株の過半数を所有、同年4月、五島慶太が京浜電鉄の取締役となり傘下とし、同時に姉妹会社である湘南電気鉄道も傘下に収め、6月に五島慶太は京浜電鉄の専務に就任、1941年(昭和16年)11月には社長に就任した。
その東京高速鉄道であるが、1938年(昭和13年)12月、渋谷駅 - 虎ノ門駅間を開通し、1939年(昭和14年)1月には新橋駅まで延伸したが、前述の東京地下鉄道側の抵抗により東京高速鉄道の新橋駅を別に建設しての運行を余儀なくされていた。しかし同年8月には、東京地下鉄道の株も大株主の穴水熊雄から買収し、やっと9月に東京高速鉄道と東京地下鉄道との新橋駅での相互乗り入れが始まった。現在の東京メトロ銀座線である。結局1941年(昭和16年)9月、陸上交通事業調整法により、両社は京浜地下鉄道と共に新たに発足した帝都高速度交通営団に併合され、地下鉄に関しては五島の乗っ取りはかなわなかった。
そして太平洋戦争下の1942年(昭和17年)5月1日に、陸上交通事業調整法による戦時統制の背景もあり、同じ五島慶太が社長を務める(旧)小田急電鉄と京浜電気鉄道を合併して、商号を東京急行電鉄と改称した。さらに、1944年(昭和19年)5月31日には、やはり電力国家管理法により電灯電力給電事業が奪われて経営が不安視されていた京王電気軌道を買収・合併した。前述の通り(旧)小田急電鉄は五島慶太に経営の再建を委ねたのであるが、その他の池上電気鉄道、玉川電気鉄道、京浜電気鉄道、京王電気軌道の買収・合併は、つまりこの「ライバルや敵を身内にしてしまう」やり方は、主に株式の買い占めを図ることで行われ、これらの会社を「あたかも札束をもって白昼強盗を働くように買収」し、その強引なやり方から、五島は名字をもじって「強盗慶太」なる異名をとっていた。またこれら4社以外にも、1941年(昭和16年)11月までに、その資本力にもの言わせ買収した会社は、相模鉄道、静岡電気鉄道、江ノ島電気鉄道、神中鉄道など、30社以上に達した。さらに1944年(昭和19年)2月には五島慶太が運輸通信大臣に就任した。この時期までに路線延長は約320kmにもおよび、北は中央線から南は三浦半島、西は箱根までをテリトリーとするいわゆる「大東急」の時代となる。
しかし、戦後は一変、独占禁止法や過度経済力集中排除法が施行される。「大東急」はこれらの法律の適用から除外されたものの、「大東急も当てはまる」と主張する(旧)小田急電鉄関係者を中心にかつての4社への復元運動が勃発する。これを受けて経営陣は会社経営の民主化に乗り出す。また、戦中の空襲での被害が沿線地域に集中しており、復興するためには一企業での資金調達が限界があり困難となったばかりか、空襲被害からの復旧、人口の郊外移動による各線の輸送力増強への対応など、合併により編入した各線は、東急の重い負担になっていた。 東急は、まず1947年(昭和22年)に相模鉄道や静岡鉄道など傘下会社の持株の大部分をその会社の役職員などに譲渡して放出(相模鉄道の運営受託は持株放出直前の同年5月31日に終了している)。そこへ8月、五島慶太が公職追放に追い込まれる。そして1948年(昭和23年)5月に百貨店部門を東横百貨店(現・東急百貨店)に分離し、6月に小田急電鉄、京浜急行電鉄(京急)、京王帝都電鉄(現・京王電鉄) を分離させ、大東急の「再編成」を行った。ただし、三私鉄の分離独立後も、各社の幹部人事は五島慶太が指示しており、長男の五島昇を京急の取締役に就任させていた(のち小田急や京王帝都の取締役にも就任。五島昇が死去する1989年(平成元年)まで続いた)。その他、京王帝都の三宮四郎社長(東急出身)が大映の曾我正史専務と組んで、映画会社日映設立の動きを見せると、当時、財務基盤が脆弱だった京王帝都の中核事業以外への過剰投資を憂慮した東急側の意向により、日映設立を中止させ、三宮社長を事実上更迭した例(日映事件)や、西武鉄道と激しく抗争した箱根・伊豆開発では小田急の安藤楢六社長を通じて代理戦争を演じた例(箱根山戦争)など、戦後しばらくは東急系三私鉄は、東急の衛星企業として機能した。
その後、1951年(昭和26年)8月、公職追放から復帰した五島慶太は、自ら提唱した多摩田園都市構想に基づき、その動脈である田園都市線を建設する。「東京都の人口が750万人以上になれば公共施設が追いつけず、その機能が失われると思われる。人口膨張により東京都自身がゆき詰まってしまう。そこで大山街道(現・国道246号)沿いに500万坪(1650万平方メートル)を買収して第二の東京都をつくることを計画した。これを実施するのは、田園調布などの街づくりに実績のある当社が適当である。大山街道沿いに沿って10か所ほどの小都市をつくって、同時にこの地方全体の発展を図りたいと考えている。(五島慶太口述『城西南地区開発趣意書』より)」1953年。1953年(昭和28年)1月に発表されたこの構想により、城西南地区(神奈川県の川崎市中部、横浜市北部)を4ブロックに分け、それぞれの地区に新都市を建設する計画を立てた。その後、横浜市港北区(現・都筑区)に当る第3ブロックは鉄道建設区域から離れているため東急電鉄自体での開発は断念し(後に横浜市の港北ニュータウンとなる)、元の第4ブロックを第3ブロックとし、新たに町田市南部、大和市北東部を第4ブロックとし開発を推進した。まず1963年(昭和38年)10月、大井町線(大井町駅 - 溝の口駅間)を田園都市線と改称し、1966年(昭和41年)4月、これを延長する形で溝の口駅 - 長津田駅間を開業、その後徐々に延伸した。1977年(昭和52年)4月、1969年(昭和44年)5月に廃止された玉川線の継承路線である新玉川線(渋谷駅 - 二子玉川園駅間)が開通、11月には田園都市線と快速列車が直通運転を開始した。1979年(昭和54年)8月には、 全列車が田園都市線(二子玉川駅 - 長津田駅方面)から新玉川線を経由して半蔵門線方面へ直通運転を開始し、同時に大井町駅 - 二子玉川園駅間を大井町線として分離した。1984年(昭和59年)4月には、つきみ野駅 - 中央林間駅が全線開業し、多摩田園都市の基礎的インフラが完成する。また2009年(平成21年)7月には、沿線の人口増加による混雑対策として、田園都市線の二子玉川駅 - 溝の口駅間が複々線化され、バイパス路線として大井町線が溝の口駅まで乗り入れを開始した。
その五島慶太に東急の祖業であるとまで言わしめた東横線であるが、1964年(昭和39年)8月に営団(現・東京メトロ)日比谷線と、中目黒駅 - 日吉駅間で直通運転を開始した。1988年(昭和63年)3月からやはり混雑対策として、東横線の複々線化工事に着手。最初の工事である日吉駅改良工事に伴い、同年8月から菊名駅まで日比谷線との直通運転区間が延長された。そして2000年(平成12年)8月、田園調布駅 - 武蔵小杉駅間までの複々線化一期工事が終了、うち2線を利用し、目蒲線の目黒駅 - 田園調布駅間と直通運転することにより目黒駅 - 武蔵小杉駅間を目黒線とし、東横線のバイパス路線とした。そして同時に目蒲線の多摩川駅 - 蒲田駅間は東急多摩川線として分割され、東急電鉄が最初に施設した路線である目蒲線の名称は消滅した。目黒線は2000年9月に東京メトロ南北線、都営地下鉄三田線との相互直通運転を開始し、続いて2001年3月には、南北線を介して埼玉高速鉄道線との相互直通運転も始まり、そして2008年6月に日吉駅まで複々線化工事が完了し、同駅まで延伸開業した。2004年(平成16年)2月1日、横浜駅から横浜高速みなとみらい線の横浜 - 元町・中華街駅と直通運転を開始し、これに伴い前日の1月31日に横浜駅 - 桜木町駅間が廃止となった。2013年(平成25年)3月16日、渋谷駅 - 代官山駅間の地下化が完成し、東横線は東京メトロ副都心線と直通運転を開始、副都心線を介して東武東上本線と西武池袋線との相互乗り入れも開始され、横浜高速鉄道も含め5社による相互直通運転となった。同時に、49年間続いた日比谷線直通運転は終了となり、同線は全てが中目黒駅での折り返しとなった。
五島慶太の息子、五島昇は、東京大学経済学部卒業後の1940年(昭和15年)東京芝浦電気(現・東芝)に一旦入社するも、1945年(昭和20年)には東京急行電鉄に入社した。1948年(昭和23年)には新発足した東急横浜製作所(後の東急車輌、現・総合車両製作所)、京浜急行電鉄などの取締役となり、1954年(昭和29年)には東急電鉄社長に就き、五島慶太の後継となった。社長就任直後に、五島慶太が乗っ取りを図った東洋精糖から撤収し、傘下の自動車メーカー東急くろがね工業(旧・日本内燃機製造、現・日産工機)を日産自動車に全株譲渡してグループから離脱させ、また東亜石油・日東タイヤ・東急エビス産業・吉田瓦斯・日本トリドールを譲渡、映画会社の東映を分離するなど、拡大した東急グループを再編し、本業である鉄道業・運輸業とその関連性の高い事業に「選択と集中」を行った。一方で、本業である鉄道経営については伊豆急行の建設や田園都市線の延伸、新玉川線(後に田園都市線の一部となる)の建設といった鉄道敷設を行うほか、沿線のリゾートや宅地開発に関しては父慶太が立案した通りに忠実にやり遂げた。また五島昇の「環太平洋構想」を原点として、グループ経営の方向性に合わせ、航空事業(日本国内航空→東亜国内航空、後の日本エアシステム、現・日本航空)へ進出、さらに広告代理業である東急エージェンシーの設立、東急建設の設立、ホテル観光事業の拡大、流通部門の拡大、リゾート開発の拡大などを図り、五島昇が社長だった1980年代終わりの最盛期にはグループ会社400社、8万人の従業員を数えた。
1989年(平成元年)3月、72歳で五島昇が死去した後、横田二郎を中心とする集団指導体制に移行したが、グループ各社のトップも年齢的に退く時期に重なり、経営は求心力を欠くこととなった。「東急グループ」としての厳格なマネジメントは存在しなかったため、各社の自由な裁量が大きく、グループ加盟会社毎に事業が拡大し、肥大化していた。結果、事業部門の重複が整理されないまま、最大で500社以上を数えるまでにグループ企業が拡大膨張してしまった。そして、1990年以降のバブル崩壊後の縮小経済下では、そのスケールはデメリットに転じ、1999年(平成11年)3月末時点の有利子負債はグループ全体で3兆円以上を抱えるなど業績不振に陥った。ここで、グローバル基準である連結決算重視の流れや減損会計の導入などを受けて、グループの再編に踏み切った。
1991年(平成3年)にはバス部門を分離し、東急バスとしている。
1998年(平成10年)、東急グループ代表清水仁の下、主要加盟社に対し「自立なき者は共創の輪に加わる事ができない」旨を通告したのを皮切りに、リストラを加速した。電鉄事業に依存するのみで、「シナジー価値を創出していない」と判断された数百社をグループから離脱・独立させたのである。また、それまでの全国拡張路線を改め、原則的に東急沿線や都市部に経営資源を集中させた。重要なコア事業を担う子会社等は、本体(電鉄)にとってのポートフォリオ企業として監視を強める体制にした。その結果、加盟社数は約220社と大きく減少したが、業績は逆に好転し、回復傾向となった。
2017年時点の東急電鉄の中核事業は「住みたい沿線」・「訪れたい街」・「働きたい街」の3つをキーワードに、「日本一住みたい沿線 東急沿線」をスローガンとする鉄軌道事業(交通事業)、「日本一選ばれる沿線」であり続ける都市開発事業(不動産事業)、「ひとつの東急」の実現を目指す生活サービス事業・ホテル・リゾート事業・国際事業(海外での街づくり)である。田園都市や学園都市だけでなく総合的な「東急沿線の付加価値の向上」を目指し開発を進め、環境に優しい街づくりと、沿線活性化に努めて「次世代へつながる街づくり」を推進し、新スローガンは、「人へ、街へ、未来へ」としている。また、2022年には目黒蒲田電鉄創立から100周年を迎えた。
前述の歴史的な沿革から、小田急電鉄・京浜急行電鉄・京王電鉄は、現在でも東急(旧・東京急行電鉄)が各社の株式200万株程度を保有する主要株主である。さらにこの4社は相互に株式持ち合いを行う関係にある。また、五島昇が社長・会長を務めていた当時は、東急系の小田急・京急・京王帝都各社の非常勤取締役に就いており、系列の東急エージェンシー・東急レクリエーションは、現在でも上記3社とは資本的・人的関係を有するのも大東急の名残といえる。加えて、大東急記念文庫は、東急のほか、発足後の小田急・京急・京王各社が出資して設立され、現在もなお、これら4社が経営している。
また、合併されていた東急・小田急・京急・京王は現在でも電動車の形式記号に「モ」ではなく「デ」を使用している。
また、健康保険組合も東横目蒲電鉄健康保険組合(1935年4月1日設立)を祖とし、大東急時代に東京急行電鉄健康保険組合となり、これが東京西南私鉄連合健康保険組合と名称変更した。その後、1967年1月に東横百貨店が東急百貨店健康保険組合を設立し、また、1978年9月に小田急電鉄が小田急グループ健康保険組合を設立して分離した。2019年(令和元年)現在、東急・京急・京王はグループ会社を含め、東京西南私鉄連合健康保険組合に加盟している。なお東急・京急・京王グループのほか、相模鉄道・東映・関東バスも東京西南私鉄連合健康保険組合に加盟している。
鉄道線105.7 km(第1種鉄道事業102.3 km(東横線と目黒線、田園都市線と大井町線の並行部分もそれぞれ計上)、第2種鉄道事業3.4 km)と軌道線5.0kmの計110.7kmの路線を保有する。東横線と田園都市線が東急電鉄における基幹路線であり、この2路線が乗り入れる渋谷駅が最大のターミナル駅である。また、渋谷は東急グループの各種施設が集中していることからグループの最重要拠点となっている。併記した色はラインカラーである。各線の沿革、列車の運行についてはそれぞれの記事を(直通運転については、この後の「直通運転」節も)参照。
一般的に鉄道路線はその正式名称や運行区間を変えることはあまりなく、運行形態が変わった場合は正式名称とは別に愛称などを用いる場合が多いが、東急は正式名称や区間の変更を度々行ってきた。近年では、2000年8月に目黒線と営団地下鉄南北線、都営地下鉄三田線との相互直通運転開始に関連して大幅な整理、変更を行っている。変遷については「路線名称変更・区間変更」の節を参照。
東急は以下の路線と直通運転を行っており、東京メトロと都営地下鉄の2つの地下鉄事業者の路線に直通している。また、日比谷線との直通運転を2013年に廃止しており、地下鉄路線との直通運転を廃止したのは日本の私鉄で初の事例である。
渋谷駅・中目黒駅・横浜駅・目黒駅は他社接続の共同使用駅であるが、東急がこれら全ての駅を管理している。
東急新横浜線の起点となる新横浜駅は、相模鉄道と2社共同で管理する。
田園都市線の渋谷駅は、1977年(昭和52年)4月7日の同駅 - 二子玉川園(現・二子玉川)駅間の新玉川線開業当初は東急が管理していたが、新玉川線(後に田園都市線)と半蔵門線の相互直通運転が始まる1978年(昭和53年)8月1日から2007年(平成19年)12月1日までは、営団地下鉄(後に東京メトロ)が管理していた。
東横線の渋谷駅についても、東横線と副都心線の相互直通運転が始まる前の2008年(平成20年)6月14日の副都心線開業当初から東急が管理している。これは、副都心線建設時に既に東横線との相互直通運転が決定していたことと、同一構内にある田園都市線の渋谷駅と一体的に管理するためである。
東京メトロ副都心線方面との相互直通運転開始に伴い、10両編成の列車が停車できるようにするため、特急・通勤特急・急行停車駅ではホーム延伸工事を行った。
部分廃止や前身会社の路線も含む。特記がない路線は地方鉄道法・鉄道事業法による鉄道。廃止日は最終営業日の翌日。
1948年までのいわゆる大東急時代には以下の路線も運営していた。同年(厚木線は1947年)にそれぞれ以下の会社に移管された。
小田急、京王、京急、相鉄が独立したので、東急に残る被合併側の路線は田園都市線の一部(渋谷駅 - 溝の口駅間が買収路線の高速化)、世田谷線、池上線のみである。
廃止日は最終営業日の翌日。
2021年3月末現在、鉄道線用と軌道線用あわせて1,255両を保有する(緊急予備車・横浜高速鉄道所有車両を除く)。各系列の詳細、使用線区、運用などについては、それぞれの記事を参照。
制御装置は2代目5000系の登場以降東横線・田園都市線は日立製作所製、目黒線・大井町線・池上線・東急多摩川線は東芝製、東急新横浜線は両方の採用と分けられており、他には東洋電機製造(同社または東急初のIGBT素子を用いたVVVFインバータを採用した7700系7915編成を最後に採用されていないが、モーターは以後も2代目5000系などで見られる)、三菱電機(デハ300形、2020系、3020系、6020系)製がある。
多くの鉄道事業者では新性能車導入と同時に、車体は新性能車に準じた構造ながら走行機器を旧性能車から流用した車両も製造したが、東急では旧性能機器流用車は軌道線用車両の一部のみに留まった。大手私鉄の鉄道線車両で旧性能機器流用車の製造実績がないのは東急と阪神電気鉄道のみである。
東急の形式記号は制御電動車および電動車を「デ」、制御車を「ク」、付随車を「サ」、次の桁に普通車を「ハ」、事業用車を「ヤ」、有蓋貨車と荷物電車を「ワ」、無蓋貨車を「ト」、電気機関車を「キ」とし、3000から付番している。これは大東急時代に小田急・帝都(現京王井の頭線)の車両を1000番台、京王の車両を2000番台、京浜の車両を5000番台としたためである。現在は貨物、荷物輸送が廃止され、「ワ」「ト」「キ」が形式消滅したため使用されていない。
その後大東急分離後も東急は3000系はそのままとし、4000を飛ばして5000、6000と付番していった。車両管理システムの都合上、付番は4桁で統一しており、9000の次は1000から再度付番し、現在7000までが与えられている。このときも4000を飛ばしているが、2011年に投入された新車からは初めて4000番台が使用された。
車体側面の番号表記は、近年ではホームドアに隠れることがないよう上部に記されることが各社で増えているが、東急ではホームドアが普及するより前、初代7000系が登場してから車両番号を戸袋部の比較的高い場所に記している。なお、新5000系で初代5000系の塗装を復刻した際には、車両番号は初代5000系に合わせて下部に記していた。
編成の組み方については原則として固定編成とし、分割・併結は行わない。また、異系列との併結も行わないが、例外として5200系に初代5000系、8500系に8000系が併結されていた実績があった。その他、現在のところ付随車が電動車を上回る構成の編成は存在しない。
このほか、車両不足の応援やイベント用、軌道検測などを目的に、他社から短期間の借入車(相模鉄道デハ1050形、国鉄モニ13形、伊豆急行2100系、JR東日本マヤ34形など)が存在した。
グループに東急車輛製造を持っていたことから、日本で最初のステンレスカー5200系を導入、さらにアメリカのバッド社との技術提携により1962年に日本で最初のオールステンレスカー7000系(初代)も導入した。東急車輛製造の鉄道車両事業は2012年にJR東日本グループの総合車両製作所横浜事業所が継承し(東急車輛製造はその後、横浜金沢プロパティーズと社名を改め、2016年10月1日付で東急電鉄本体に吸収合併された)、以後も東急の新造車両は総合車両製作所横浜事業所(および旧JR東日本新津車両製作所を総合車両製作所に移管後の新津事業所)で製造されている。
車両の技術面に関しては先進的で、初代6000系は回生ブレーキ装備、1台車1モーターと、経済性を追求した。8000系からは日本初の省エネ性に優れ、かつ製造コストが安い界磁チョッパ制御を導入したほか、動作性に優れた「全電気指令式電磁直通ブレーキ」を装備した。またコンピュータを用いた軽量車体の設計にも挑み、8000系に試験車を組み込んだ(2005年までに廃車)。その試験結果を元に製造したのが8090系である。VVVFインバータ制御への取り組みも早く、1984年には、初代6000系の一部を改造して実用試験を行いその結果を元に1986年には量産車として9000系を登場させている。
しかし、その一方で車両デザインは極めてシンプルであった。これは車体に加工が難しいとされるステンレスを古くより本格採用したことと、当時の車両部長が「前面は切妻以外認めない」との方針を採ったために、一時は箱型の平妻(切妻)正面が数多く登場し、これを比喩して「弁当箱スタイル」と呼ばれることも多く、車体塗装も8500系以降コーポレートカラーである赤帯を正面に入れる程度に留まっていた。
その後、3000系(2代)ではワンマン運転対応および通過運転時における列車風を少なくする目的から方針を転換し、FRPを多用することで流線型とし、以後の車両でも流線型およびそれに近い構造とした。塗装も路線別のラインカラーなど、赤以外の色を纏ったものが登場するようになった。
1989年、東急の鉄道線最後の旧性能車両である初代3000系列が運行終了したことによって、日本の鉄道で初めて鉄道線の全車両が回生ブレーキ装備車両となった。また同時に大手私鉄では初めて鉄道線の営業車両のすべてがステンレス車(またはアルミ車)といった軽量車体の車両に統一された。
2001年には軌道線の世田谷線でもデハ150形が運行終了し、軌道線も含めて全車ステンレス車となり、吊り掛け駆動車、抵抗制御車が全廃となった。
5000系(2代)以降の新形式では、乗降ドアの上に液晶ディスプレイ (LCD) を当初は1基(5000系5101Fのみ)、その後2基(路線情報とその他の情報)設置している。のちにその他の情報を流すLCDは「TOQビジョン」と命名された。過去には5000系で2005年4月27日から1編成に2両(5・8号車)ずつ6ドア・座席格納車両を順次連結しており、これは朝ラッシュ時の上り電車で長津田駅から半蔵門駅まで座席を格納していたが、2016年から各線へのホームドア設置に伴い置き換えが始まり、2017年度までに全廃された。
LED式行先表示器を装備する車両の書体は現行車両ではゴシック体のみ使用。過去には明朝体を使用した車両も存在した。
東急で営業運転を終了した旧型車両は地方の中小私鉄で使用されているものもある。系列企業(東急グループ)の伊豆急行・上田電鉄のほか、弘南鉄道、十和田観光電鉄(廃止)、福島交通、秩父鉄道、松本電気鉄道(現在のアルピコ交通)、長野電鉄、豊橋鉄道、北陸鉄道、養老鉄道、伊賀鉄道、水間鉄道、一畑電車、熊本電気鉄道などに譲渡されており、過去には大手私鉄である名古屋鉄道への譲渡(3700系)もあった。大手私鉄間の車両の譲渡は非常に珍しい。
検車区とは、職場の名称。
廃止になった施設
東急電鉄の運転士、車掌の職場で東急線各所に点在しており、主に車庫がある場所にある。
東急の駅業務は、複数の駅を「○○駅管内」としてまとめて管理下に置いており、この「○○」に入る駅名が駅長所在駅である。
大人普通旅客運賃は下表の通り(小児半額。ただし、ICカードの場合は1円未満の端数を切り捨て、きっぷ利用の場合は10円未満の端数を切り上げて10円単位とする)。単位:円。2023年3月18日(東急新横浜線開業と同時)改定。
世田谷線(軌道線)とこどもの国線の運賃はいずれも鉄道線(両線以外)とは別に定められており、全区間均一運賃となっている。これらの路線と他の東急線に跨る場合の運賃は、それぞれ他の東急線の三軒茶屋駅・長津田駅までの運賃と合算した額となる。なお、こどもの国線各駅と長津田駅からの田園都市線初乗り区間(青葉台駅 - すずかけ台駅の各駅まで)との相互間の運賃は合算額から大人20円・小児10円引きとなる。
なお、普通運賃は実際に乗車する経路にかかわらず最短ルートの運賃を支払えばよく、46-50km区間、51-56km区間の運賃を支払う区間は存在しない(最長でも横浜駅 - 中央林間駅(自由が丘駅・二子玉川駅経由)の43.4km)。定期運賃は利用経路通りに算出するため、横浜駅 -(東横線)- 渋谷駅 -(田園都市線)- 中央林間駅の経路(営業キロ55.7km)で利用する場合は56kmの運賃額となる。
JR東日本、東京地下鉄、都営地下鉄、京王電鉄、京浜急行電鉄、相模鉄道、小田急電鉄および横浜高速鉄道の各社線と初乗り区間相互間を乗り継ぐ場合に大人20円・小児10円引き(JR線とは菊名駅経由以外は東急分のみの大人10円・小児5円引き)となる乗継割引が設定されている。
東急新横浜線新横浜駅 - 新綱島駅間を乗車経路に含む場合、普通運賃は上表の運賃額に70円を加算する。
通勤定期券の平均割引率は37.8%、通学定期券の平均割引率は77.1%である。ただしこどもの国線と世田谷線は若干異なる。
特例として、東横線日吉駅 - 綱島駅間を区間に含む定期券で、東急新横浜線の日吉駅 - 新綱島駅間を乗車することができる(逆も同様、「新綱島駅#運賃計算」を参照)。
東急線全駅に設置されている自動券売機の一部では、定期券をクレジットカードで購入できる。以前はTOPカードでDCカード、VISA・Mastercardブランド付帯のカードしか利用できなかったが、2013年8月1日より前述のクレジットカードに加えJCB、アメリカン・エキスプレス、ダイナースクラブのいずれかが付帯したカードでも利用可能となった。
2018年3月17日より、東急線内利用分に限り、有効期間が12か月間の定期券「東急線いちねん定期」を発売している。割引率は6か月と同じで、発売額は6か月の2倍である。
他社連絡定期券も発売している。基本的に各事業者の定期運賃の合算になるが、横浜高速鉄道みなとみらい線との連絡定期券に限り、東急線内とみなとみらい線内でそれぞれ1割引 - 2割引の割引を行っている。2022年3月12日発売分より、通勤定期券は横浜高速鉄道との乗継割引を縮小した。従来は1・3か月は1割引、6か月は2割引であるのを、1・3か月は割引廃止、6か月は1割引に縮小。通学は変更なし。
なお、各事業者の線内にしか発売していない二区間定期券(二東流)、だぶるーと、どっちーも、新幹線定期券フレックス、フレックスパル、グリーン定期、山手均一、地下鉄全線、都電荒川線、東京都シルバーパスなどとの連絡定期は発行不可。日暮里・舎人ライナーも渋谷乗換はJRの新宿池袋経由、目黒・五反田・大井町乗換はJRの品川・上野回りでしか買えない。
世田谷線散策きっぷは世田谷線駅窓口での販売となり、それ以外の乗車券は世田谷線各駅、こどもの国線恩田駅・こどもの国駅及び接続駅での購入はできない。ただし「横濱中華街 旅グルメきっぷ」、「プレミアム旅グルメきっぷ」、「東急線ワンデーパス」、「東急線・東急バス一日乗り放題パス」、「東急線みなとみらい線ワンデーパス」、「東急線・東京メトロ共通1日乗車券」、「東急線・都営地下鉄・東京メトロ共通1日乗車券」については世田谷線各駅からは一旦運賃を支払った上で乗務員(下高井戸駅は駅係員)から「乗車券購入票」を入手し、田園都市線三軒茶屋駅窓口に提示することで世田谷線運賃の払い戻しと前述の企画乗車券の販売が行われる。同様にこどもの国線各駅からは一旦長津田駅までの運賃を切符かICカードで支払った上で長津田駅窓口で提示することで同様の手続きが行われる。
特記がない限り小児は半額だが、障害者割引はない。東京メトロは24時間券だが、東急購入分は発売当日限りである。(PASMO) はPASMO搭載(定期券搭載済みやモバイルPASMO・クレジット一体型、PASMO以外のICカードには搭載不可)、(紙)は磁気券よる発売。
株主優待乗車証はキロ程通算可能で、こどもの国線と世田谷線を含む東急全線を通しての利用が可能となっている。ただし、三軒茶屋駅で改札外乗り換えをする際は有人改札などで駅係員に提示する必要がある。
回数乗車券は、関西地区でよく見られる金額式(額面の運賃の区間であればどの区間でも利用できる)を2004年1月31日発売分より採用したが(こどもの国線・世田谷線はそれぞれ当該路線でのみ有効な回数乗車券を発売)、2023年2月28日をもって通学用割引普通回数券を除き発売を終了した。
世田谷線は路線バスと同様にPASMO・SuicaのSFで乗車すると利用金額に応じてポイント還元される「バス利用特典サービス」を導入していたが、2021年4月30日をもってポイントおよびチケットの付与を終了した。
2017年3月25日から運行を開始したS-TRAINと2018年12月14日から運用を開始した「Qシート」 (Q SEAT) に適用される。
東急では、東横線と田園都市線、東急新横浜線に女性専用車を導入している。小児や身体の不自由な客とその介助者・保護者は性別不当である。ダイヤ乱れなど不測の事態が発生すると中止する場合がある。
電車内で無料Wi-Fi(公衆無線LAN)のサービスを提供している。しかし外国人旅行者向けのサービスであり、同一の運賃を負担していても外国のパスポートを所持していない日本国籍の乗客は利用することが出来ない。
有価証券報告書によれば、労働組合の状況は以下の通り。
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