下野 紘(しもの ひろ、1980年4月21日 - )は、日本の男性声優、歌手、ナレーター、タレント。東京都出身。アイムエンタープライズ所属。
2011年時点で20年以上前、東京都練馬区付近に住んでいたという。
母によると1歳くらいから人に注目されることが好きであり、ストーリーを作って友人に聞かせたり、本の読み聞かせをしていたという。外で友人と遊ぶのも好きであり、6歳の頃に父がファミコンを買って来てもらい、その後はゲームにも、物凄く熱中していたという。
小学1年生の頃、アニメをビデオに録画して、面白いシーンを妹達と演じたり、マイクを使って、カセットテープに声を吹き込んで遊んでたり、テレビの出演者のモノマネをしたりしていた。2014年時点で実家で荷物整理をしていた時に当時のテープが出てきて再生していたところ、「う○こ」の連続でひどいという。当時から、マイクで録っていた声が自分で聞いていた声と違うんだなという実感は持っていたという。
小学校時代は塾に通っており、その塾というのが少し変わっており、本を読みましょうとか、色々なことを体験しましょう、というスタイルだったという。その塾は中学校進学後も続けていたが、中学2年生の時に「3年生を送る会」のようなイベントでミニ演劇をして台本は自分たちで書いて、キャストとしても出演していた。
5歳の頃は、『ウルトラマン』の再放送を見てウルトラマンの絵を描いておりウルトラマンに、パトカーがかっこよかったため、乗りたかったという理由で警察官になりたいと思っていた。また、母親が保育士だったため、保育士になろうと考えてもいた。小学5年生の時にバラエティ番組『ダウンタウンのごっつええ感じ』(フジテレビ)に影響を受けてコメディアンになりたかった。
その後アニメも見始めて、中学1年生あたりで熱心に見るようになった。中学2年生くらいから出始めており、友人のつてで知った声優雑誌を読んでみたところ「格好いい人、可愛い人がいっぱいいるんだ」「こんな仕事があるのか」と分り、声優に憧れていた。
中学時代はゲームが好きで、少しでも早く家に帰り、「ゲームをやりたい!」と思っていた時期だったという。しかし部活は必須だったため、活動があまり盛んではなく、幽霊部員でも怒られなさそうな美術部に入部。放課後は早々に帰宅してゲームをしたり、同じようにゲーム好きな友人の家に遊びに行っていたという。当時はRPGが好きだったという。声優になるきっかけとなった作品は、中学2年生の頃に見ていた『無責任艦長タイラー』。『無責任艦長タイラー』のオンエアは、中学1年生の時だったが、ある日、風邪を引いて寝込んでいた。することがなく夕方テレビを観ていた時に、偶々チャンネルを替えていたところ放送していた。何度かビデオに録画もしてたが、観てない回も多かった。中学3年生の時、受験の悩みや初めて出来た彼女に振られた傷心を癒やすために見たところ、主人公タイラーに「こんな大人になりたい」、「おおらかでいつもニコニコしている大人になりたい」と憧れを抱くようになり、また声優ラジオ、ドラマCDを聴いて「こんな楽しい世界があるんだ」、「すごく楽しそうだなぁ!」、「なんて楽しそうな仕事なんだろう」と感じ声優を志すようになった。ドラマCDを聴きながら「ここ、明らかに台本どおりじゃないよね? アドリブでこんなに世界が広がるんだ」ともワクワクしていた。
この頃、日本ナレーション演技研究所が中学卒業以上なら通えることも知っていたため、中学卒業後、母親に「俺、高校行かないで声優になる!」と宣言していたところ母親に「大学行けとは言わないけど、高校だけは出てくれ。それでも声優になりたかったら、好きにしていい」と言われたため、理科、化学がけっこう好きであり、高校の理数系のコースに進学。好きな科目も実験系が好きだったため、前述の理科で、あとは音楽で歌を歌ったりするのが好きだった。高校の選択授業でも「声優になるために、一番役に立つのはどんなことだろう?」と考えて、漢字を選択していた。台本を読む時に、「きっと役に立つぞ」とそのくらい、高校の3年間は「声優になる」という思いをベースに動いていた。
高校時代は演劇部に在籍。2011年時点で部活動のほかに、高校時代での思い出にアルバイトと恋愛が残っている。当時のお小遣いが月に3000円だったが、引っ越しのアルバイトは1日8時間で8000円もらえて、月々32000円にもなったという。その時の引っ越し業者では猫を15匹も飼っている家があり、家具の搬入・搬出時に猫が足元に絡んできて、荷物を落としそうになるのをこらえたり、猫の毛が舞い上がり、メチャクチャ大変であったという。
その頃、筋トレに熱中していたため、「このバイトは辛いこともあるけど楽しいし、トレーニングにもなる」と思っていた。また熱中していた筋トレも「声優になるためには、きっと腹筋が必要!」と思い、一生懸命していたという。しかしアルバイト代は全然貯金しておらず、人物にごちそうして、その人物が喜んでいる姿を見て嬉しくなり、というのを繰り返していた。当時付き合っていたディズニーランド好きな彼女を喜ばせたいがために高校3年生から卒業して1年くらいの間は、何度もディズニーランドに行っていた。「バカか、お前は!」と言うくらい使っており、自分のために使うお金は、ゲームソフトくらいだったが、人に喜ばせるのが嬉しくて仕方がなかったという。
養成所探しは、声優の本などを読み、情報収集していたくらいであったという。高校の教師から「進路はどうするのか」と聞かれた時に「声優になろうと思って」と答えたところ「なるのはいいけど……どう指導したらいいんだろうな」と言われた。それに、「大丈夫です、ちゃんと考えてあるんで」と言えるくらい、下野自身の中でしかっかりしたモノは、持っていたという。
興味があることには、徹底的にアグレッシブで、とことんそれに向けて考えて、調べて、動いていたという感じであった。ただし、興味のないことには無関心で「自分でもよくないなー」と反省している。知識が偏ってしまいすぎることから、もっと色々な情報に触れていれば、「フリートークでも膨らませたりできるんだろうなぁ」といい、その分、コアな情報には強いという。
高校卒業後、受講料が安く、週1回のコースだと他の専門学校の通常コースの約1/3くらいで済むこと、芝居の勉強のほかにもあまりお金もないことから、アルバイトをしてお金も稼ぎたく、「安くて芝居の勉強をしながら働ける」「週1回のレッスンなら、自分の時間を持てるだろう」と思い、日本ナレーション演技研究所に入所。両親は「子どもには、とにかく好きなことをやらせてあげたい」と思っていたようで、養成所のお金は、両親が快く出してくれていた。その時は感謝してもしたりないくらいだったという。
養成所時代で印象的だった授業は、基礎科と本科で指導してくれた先生が舞台を中心に活動していた人物だったため、感情開放は印象的であったという。まずシチュエーションで花を摘み、「その花がきれいだな」という芝居をしていた後、レッスン場の明かりを消し、皆横になった。その時に講師から、「深呼吸して気持ちをリラックスするように」、「桜の樹を思い浮かべて、自分の頭の上に桜の樹が立っているのを見ている気持ちになり、風に吹かれて桜の花びらが散った様子を見てどんな気持ちになったか想像してみなさい」と言われた。それが終えて再び芝居をしていたところ当初は棒読みだったセリフも色々な感情が詰まったセリフになり、「感情ってこんなに大切なものなんだ」と再認識させてくれたという。
前述の通り、職業としての声優に憧れていたが、あがり症で、子供の頃から人と会話、人前で表現、芝居をするのが苦手だったという。前述のとおり、演劇部でも人前で発表する機会はあり、皆で作品を作り、舞台に立つことは平気だったようだが、一人で考えて、発表しなくてはいけないというのが苦手だった。「声優になりたい」というのは「面白い仕事がをしたい」という一心であり、「注目されたい」ということでは決っしてなかったという。
基礎科の1年が一番苦しくレッスンは週1回で、その当時警備員のアルバイトをしていた。このアルバイトは毎回メンバーが入れ替わるため友人ができにくかったといい、高校時代の仲間も、大学、会社といった新しい環境の中忙しくしており、遊ぶ機会もなかなかない状態であった。アルバイトもレッスンもない日は、「世界に自分一人しかいないんじゃないか」というくらい、辛くなっており実家に住んでいたが、ホームショックのような状態であったという。
養成所時代で課題がある時は、家で時間を見つけては練習をしており、作業自体は辛くなかった。しかし人前に出るのが、失敗がなにより怖く、練習はまったく苦ではないが、当日、皆の前発表するのが嫌で嫌でしょうがなかったという。
日本ナレーション演技研究所基礎科在学中に講師が申し込んでくれた事務所オーディションを受け、1次審査の通過後に2次審査用のデモテープを作ることになり、マイクを買いに行き、家のコンポにつないで吹き込み自宅でデモテープを作っていた。録音レベルが低く、声が小さいままで、そうこうしているうちにデモテープ提出の締め切り日になり、デモテープに「家の機材の関係で声は小さいですがよろしくお願いします」と一筆添えて提出していた。その時は「これはダメだろうな」と断念していたが、2次審査に合格し、アイムエンタープライズで3次審査の面接を受けていた。当時はメロメロで、緊張していた状況の中、人前で何かするのが苦手のほうのため、セリフは棒読みで、面接でもうまく話せず、事務所の人物も何の反応もなかったため、「今度こそダメだろう」とガッカリしていた。その時に合格し、「入所してプロになるのは3~4年後かな」と考えていたため、20歳くらいで、アイムエンタープライズ所属となった。その時は「入っちゃった♪」という感じであったという。
当時のことを話していたところ、あるマネージャーが「事務所に入ってきた時は、どう扱っていいかわからなかったよ~」と笑いながら思い出すくらいであった。オーディションにも落ちまくっており、当初はアイムエンタープライズに所属した時は嬉しかったが、「なんで、僕みたいなのが入れたのかな?」と思っていたという。
高校時代は前述の引っ越し屋、日ナレ時代は前述の警備員、登録制の派遣アルバイトでイベントの誘導員、工事現場のゴミ出しの手伝い、印刷所の製本、駐車場の誘導警備員、食品会社の製造ライン、清掃業などの体力仕事の単発アルバイトを高校2年生から約9年間続けていたという。この手のアルバイトは日当制でシフトが組みやすく、給料も良いため、オーディションを受けることの多い生活にぴったり熱中していた。
ただし、どの仕事も大変で、食品会社での作業は、体力だけではなく気力までもっていかれてしまった。イベント会場は終日立ちっぱなしで、暑さ寒さの気候には耐えなくてはいけなく、終業後はヘロヘロであったという。
中でも一番辛かったのは清掃業でゴミ収集所の清掃の臭いがキツくて苦しかった。収集所までは車で移動するが、帰りは全員最寄りの銭湯に寄り自分では気づかないが、収集所の臭いが体全体に染みついてしまい、他の人物に迷惑をかけるレベルになってしまったという。
一番長かったのは、スーパーの駐車場内の誘導警備員であったが、辛く、スーパーの大型店舗のオープニングでは、1週間くらいの間、朝から夜まですごい数の車をさばいていた。その時はスーパーの特売日に派遣されると、駐車場に普段の倍以上の車が入りトラブルも多く、客に注意されることもしばしばで時には理不尽なことで責められることもあった。それを穏便にすませることができた時「自分、成長したぞ!」と、密かにほくそ笑んでガッツポーズをキメていたという。
新しいアルバイト先に派遣されると、毎回ワクワクしており少し飽きっぽい性格のため、同じ場所にずっといるのがあまり得意ではなかった。派遣業はその日その日の作業場所が異なるため、新鮮な気持ちで現場に赴くことができ、当時は、声優業だけでは食べていけず、ささやかな幸福にすがりながら、夢に向かって突き進んでいたのかもしれないという。
自分にとって「バイト=生活」と割り切っていたため、手っ取り早く稼げる仕事しか興味がなかった。その時に黙々と作業をしていたところ、時にはネガティブな気持ちになり「声優の仕事、諦めようかな……」ということも何度もあったという。
2001年、ゲーム『リリーのアトリエ〜ザールブルグの錬金術士3〜』のテオ・モーンマイヤー役で声優デビュー。2002年、『ラーゼフォン』の神名綾人役でテレビアニメデビュー。『ラーゼフォン』の主役に抜擢された当時、日ナレの研修生でアニメ収録の経験もなく、ラーゼフォンを演じる一週間前に授業で初めてマイクレッスンを受けた。また、この頃前述のとおり、オーディションに落ち続けており、「この(ラーゼ)オーディションがダメだったら、声優を辞めよう。自分には才能ない!」、「こんなにも苦しむくらいなら、すっぱり諦めて別の職業に就いた方がいいのかな」、「これがダメだったら声優あきらめよう」と決心していた。その時、両親が前述の保育士の仕事をしていたため、一時期は保育士の資格を取るため、本格的に学ぼうか悩んだ時期もあったという。
『ラーゼフォン』の時は、事務所のオーディションに受かった時もそうであったが、「まだ早すぎる」というのが正直な感想であった。自分の人生プランの中では、22歳で事務所に所属し、23か24歳くらいでアニメデビューをして、その後は徐々に役をくれて、その後はアニメで主役と計画していたため、主役を務める嬉しさ以上に、緊張とプレッシャーでいっぱいいっぱいであった気がしていたという。その時は気持ちがうまく対応できず、けっこう苦労をしており、養成所では舞台の芝居ばかり習っていたため、ほとんど右も左もわからない状態であった。収録現場には有名な声優たちばかりで、挨拶をするタイミングすらわからず、「取って食われたらどうしよう」という被害妄想まで出てきていた。下野以外は、仲良く話しているため、マネージャーが小学校に子供を送り出す親のように、合図をしてくれて挨拶へ行っていた。その時、皆ものすごく優しく、「それまでの自分の恐怖心はなんだったんだろう」と逆に気恥ずかしくなってしまった。物事を真っ直ぐに受け止めすぎる傾向があり、「失敗したら終わりだ!」と考え込んでしまった。ついマイナス思考になり、輪をかけて、「失敗してはいけない」という思いを生み、どんどん悪循環になってしまった。一方、オンエアされるのを見て嬉しいが恥ずかしく、変な気分で「自分ではこういうつもりでやっていても実際にはこんなふうになるんだ」、と勉強にもなった。そういった時に、気持ちの励みになっているものはファンレターで、2014年時点でも「多くの方が自分の演技に対して色々なことを感じてくださるんだ」と励みになり不思議な気分であったという。
収録後半年ほど経った頃、授業で講師に「お前は芝居以前に、生きることに必死過ぎる」と言われ、その後沢木郁也の指摘をきっかけに力の抜き方を少しずつ覚えていったという。それまでは、レッスンが怖くて行きたくない思いでいっぱいいっぱいになってしまい、ずる休みをしたこともあった。その言葉のおかげで色々なことに挑戦するのが楽しくなったという。沢木の授業の最初の2人芝居の設定のなかで「性格の合わない男女が言い合いをしているうちにお互いのことを好きになってしまう」、というのがあり、それを演じていた。その時にふと、その女性が好きになり、リアルに恋してしまいそうになった。そこで初めて「あ!気持ちが動いたんだ」とそういうふうに、自分を少しずつ開放してくれるようになってきた気がしていたという。2003年10月8日から2007年10月8日まで、声優ヴォーカルユニット「Root」リーダーとして活動。
前述の通り、デビューして主役の座を獲得することができ、「これなら声優業だけで食べていける!」と思っていたが、仕事として食べていくまでの道のりは長かったという。その後のオーディションは落ち続けたことから20代前半は苦労の毎日で、20代後半になるまではアルバイトをしないと生活できる状態ではなかったという。生活費のほとんどはバイト代でまかなっていたことから、アルバイトが本業というくらいだったという。「今はバイトとオーディションを受ける毎日だけど、どうしたら本業だけで食べていけるんだろう」、「今も十分努力してるつもりだけど、今の自分に足りないものがあるんじゃないか」を自問自答しながら作業していた。そういう意味では、辛い内容ではあるが、無意識のうちに「自分に向いている職業を選択していたなぁ」と思っていたという。それでも、「あとちょっと頑張ろう」「もう少し続ければいつかは芽が出るはず」と気持ちを切り替えていったという。
その後も仕事が順調とは言えず、中々大きな仕事にも至らず、後輩も出てきて、どうしていいかよく分からない状態で迷走していた時期もあったという。そのような下向きの状況が変わったのは、2005年から2006年の『CLUSTER EDGE』の主人公、アゲート・フローライト役で、この頃くらいから、レギュラーが増えていったという。アルバイト生活から脱出した時は、「やっと一人前の声優になれたんだな」と実感していたという。
あえて人と接することの少ないアルバイトを選んでおり、苦痛以外の何物でもなかったという。あとは、前述の性格として、ひとつの作業に没頭できる仕事が向いていたという。日当制のバイトは単独作業が多く、人と接することがないため、体を動かしながら頭では別のことを考えることができ、その時、自分の将来について考えながら作業をしていたという。
2016年3月16日、声優デビュー15周年を記念し、シングル「リアル-REAL-」で歌手としてソロデビュー。
2017年1月10日、栃木県下野市の輝け下野エール大使に就任。
2020年8月3日 下野紘 1stアルバム「WE GO!」発売記念生放送、番組内で個人使用のTwitter開設を発表。
2020年10月11日、劇場版 『鬼滅の刃無限列車編』公開記念の東京スカイツリー点灯式に花江夏樹、松岡禎丞らと共に出席。
2021年9月28日、自身のブログにおいて、十数年前に結婚しており現在は二児の父であることを公表した。
2023年2月3日、『ワールドツアー上映 鬼滅の刃 上弦集結、そして刀鍛冶の里へ』公開記念で浅草寺の節分会にサプライズ登場し豆まきを行った。
趣味はゲーム、料理、サイクリング。特技はにわとりの声マネ。
姉、妹、その下にもう1人妹がいる。
後輩の面倒見がよく、特に事務所への愛が強いと後輩の松岡禎丞、内田真礼から語られており、松岡から「下野さんが現場にいるから弾けられる」と言われるなど後輩から全幅の信頼を置かれている。逆に松岡禎丞のラジオにゲスト出演した際には「松岡はほっとけない」「松岡は特別」と語っている。
声種はテノール。
アニメ、ラジオ、ドラマCDなど様々なシーンで活躍。
役柄としては、元気な声の特徴を活かした少年役から個性的なキャラクターまで幅広く演じている。
『CLUSTER EDGE』に出演するまでは、一生懸命な役、優しい役、内向的な役はできたが、底抜けに明るいキャラクターが中々できなかったという。自身の気持ちに「迷いがあったからだ」と思っており、それ以降、明るいキャラクターを演じられるようになったという。
他の思い出の作品に2010年時点で叫ぶ役、ちょっとバカなキャラクター、騒がしい役を演じるきっかけになった作品だったことから『おおきく振りかぶって』、『スケッチブック 〜full color's〜』、『ながされて藍蘭島』あたりを挙げている。芝居を考えさせられていた作品は『東京魔人學園剣風帖 龍龍』であるが、印象的な作品はいっぱいあり過ぎて困るという。前述のアドリブを入れる時は楽しみ、中学生の頃に憧れていた「楽しそう!」の気持ちのまま、突き進んできた感じだという。ナレーターとしても数多く活躍してるが、子供の頃は緊張しがちなタイプで、国語の時にあてられて教科書を朗読するのも好きではなかったくらいだった。
唐揚げが好物。から揚げ好きになった原点は遠足、運動会、事あるごとに母が作ってくれていたため、実家のから揚げだった。正月にも、おせちだけではなく、から揚げも食べており、2023年時点でも実家に帰ると「から揚げ用意しておいたわ」と言ってくれるという。デビュー数年後にパーソナリティを務めたラジオ番組『VOICE CREW』(NACK5)では、唐揚げに特化したコーナーを立ち上げ、美味しい食べ方を募集したり、自身が考えた上手な調理法を紹介するなど唐揚げ愛に終始した。後に、安久鉄兵協会長協力のもと友人前山田健一(ヒャダイン)と唐揚げの名店を巡るDVDを発売、またローソン「からあげクン音頭2012リミックスバージョン」に歌とPV出演で参加、さらにからあげクン限定味のキャンペーンキャラクターを務めるなどの展開を見せている。2016年には、からあげクン30周年お祝いコメントがローソン店内で放送された。またアドリブで「から揚げ」と言ってしまい、急遽、演じていたキャラもから揚げ好き設定になったこともあった。
子供の頃から両親が共働きだったため、料理をしていた。当時は完全週休2日制ではなかったため、土曜日のお昼ごはん問題、というのがあり、小学校の高学年になり、妹2人のために作っていた。最初はホットプレートで焼きそばを作るくらいだっが「料理ができると、自分が食べたいものを食べられるんだ!」と、目覚めた。どんどん料理が好きになり、料理本を見て作るようにもなり、高校生になると、カレー、肉だんごスープなど家族の夕飯を作ったりもしていた。
『水曜どうでしょう』(北海道テレビ)の熱烈なファンであり、公式ブログ名もこれに由来する。
小学校高学年くらいからロックを聴き始めており、最初に買ったのはTHE BLUE HEARTSの『TRAIN-TRAIN』。ポップなのも聴くようになり、槇原敬之、L'Arc〜en〜Cielなどどんどん広がっていった感じだという。
眼鏡をかけた女性に弱く、「眼鏡フェチ」を自称している。
声優活動15年の間に、何度か歌手活動の話があったがキャラクターソングではない、自分名義での活動をしていく自信が無いとしてソロでの歌手としての話を断っていた。また、譜面も書けないし歌に対し長年そういうこともしてこなかったが、声優活動15周年を迎える前に自身でこのままではなく、もう1歩大きくする、または新しい目標にと考えた頃に、再度ソロでの歌手活動をしませんか?と話を持ちかけられ、これが自身の殻を1つ取って大きくするチャンスと考え、今回の話をポニーキャニオン側の話を了承してソロ活動をスタート。
ソロ活動を始めるに声優活動デビュー15周年という記念も込めて「下野紘ソロプロジェクト」として始まる。これまで即興でその場だけのインスピレーションで歌ったりしていたが、自分の歌をと考えた時に、作詞家作曲家での難しさを改めて知ることになった。
初めてボイストレーニングを受けており、声優としての発声方法と、歌うための発声方法が全然違うということを知った。アーティストとしては「レベル1なんだ」と感じており、驚いていた。ボイストレーニングを受け、「誰かみたいにやろう」という考えはなくなり、歌い方だったり声質だったり色々面で、「自分は自分なんだ」「アーティストとしての自分をもっと見つけていかなきゃ」と実感していた。
2011年のテレビアニメ『うたの☆プリンスさまっ♪』との出会いも大きく、役としてアイドルの経験をしたため、それまでになかった感じ方、考え方を吸収でき、ターニングポイントになったという。
2ndシングル発売イベントでは、1人のアーティストでは通常の対応でしないことをポニーキャニオン50周年記念の年もあるとして「パシフィコ横浜 国立大ホール」という大きい場所でのイベントを開催することになった。開催時に一部のネットニュースにも取り上げられた。その後に、ポニーキャニオン公式サイトにてイベントレポート記事が出てそれをアニメイトタイムズ側も同様に記事として出している。当時サプライズ発表もされた。
2020年8月3日 下野紘 1stアルバム「WE GO!」発売記念生放送、番組内で音楽活動の休止を告知する。声優活動に軸足を置く為にこの決断をしたとの事。時期などは公式にて今後発表する。すぐに活動を休止するわけではない。
2022年10月4日、声優アーティスト「下野 紘」スペシャル生放送「WE GO!」Youtube生配信にて、2020年8月の生放送番組で「WE GO!」を区切りで今後の予定される(CDやアルバム)リリース物は無いと休止告知をして、当時「WE GO!」発売でのライブの予定もあったが、新型コロナウイルス感染症(COVID‑19)での感染拡大や緊急事態宣言などで中止されていた。2023年1月14日、2月11日にライブをする事が生放送にて告知された。。
2023年3月18日、「Shimono Special Reading LIVE 2023 _邂逅地点_開催記念生放送」- YouTube配信にて、5月27日に開催されるリーディングライブを最後に以前の休止告知から何も進展も無いままだったが、番組内でこのライブを最後に休止をする事を告知した。
太字はメインキャラクター。
※はインターネット配信。
※はインターネット配信。 ※レギュラー番組のみ。
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