神戸市(こうべし)は、兵庫県の南東部に位置する市。兵庫県の県庁所在地及び人口が最多の市で、政令指定都市である。 市域は垂水区・須磨区・長田区・兵庫区・中央区・灘区・東灘区・北区・西区の9区から構成される。
2020年国勢調査によると、人口は152万5152人だった。大阪市や京都市と共に、京阪神大都市圏(近畿大都市圏)における中心都市である。また、神戸市独自で神戸都市圏を形成している。大阪市から約30km程度しか離れておらず、大阪都市圏から連続する市街地(コナベーション)を有することから、阪神都市圏と称されることもある。
海と山の迫る東西に細長い市街地を持ち、十分な水深のある扇状の入り江部に発展した理想的な港湾である神戸港を有する日本を代表する港町・港湾都市である。
大正から戦後の高度経済成長期にかけて、東京市・横浜市・名古屋市・大阪市・京都市と共に六大都市の一角であった。幕末の開港以来、舶来品や西洋文化の流入する日本の玄関口となり、今なお旧居留地(神戸外国人居留地)や北野異人館街などの西洋風の街並みにその歴史や影響を見ることができる。
1995年の阪神・淡路大震災によって神戸港を含めて市内の経済機能は壊滅的被害を受けたものの、神戸市は今なお全国有数の経済都市としての地位を維持している。阪神工業地帯に属する港湾都市であり、貿易・造船・鉄鋼・機械・製造・ゴム・真珠加工・観光などの産業を中心に発展、ファッション・パン・洋菓子・日本酒などの産業も盛んである。特に日本酒製造に関しては灘区・東灘区から西宮市にかけての阪神本線沿線のエリアは灘五郷と呼ばれ、日本有数の酒所として有名である。観光地としては、中華街の南京町、神戸外国人居留地や北野異人館街などの異国情緒な街並み、神戸ハーバーランド、摩耶山掬星台からの夜景、有馬温泉などが挙げられる。また、ユネスコのデザイン都市に認定された。
「神戸」という地名は、現在の中心市街地である三宮・元町周辺が古くから生田神社の神封戸の集落(神戸「かむべ」)であったことに由来し、そのウ音便(かうべ。旧仮名遣いで「かう」は「コー」と発音)である。神戸三社(神戸三大神社)をはじめとする市内・国内にある神社の神事に使うお神酒の生産にも係わった。
現在の神戸市域は、律令制では摂津国と播磨国に属していた。現在の垂水区、西区、北区(北神)の淡河町、須磨区の神戸総合運動公園・神戸流通業務団地の区域が播磨国で、発足時の市域を含むその他の区域が摂津国であった。
和田岬から北へ湊川(旧河道)のあたりにかけて
兵庫津には戦国時代の短い期間、兵庫城が存在していたが、安土桃山時代に豊臣氏の直轄地となり、兵庫陣屋と呼ばれるようになった。大坂の陣後に尼崎藩が立藩されると、西摂の政治の拠点は尼崎に移り、兵庫陣屋には同藩の兵庫津奉行所が置かれた。1769年の上知によって、同じく尼崎藩領だった西宮とともに兵庫津は幕府直轄領となり、兵庫陣屋には大坂町奉行の兵庫勤番所が置かれた。港は北前船や尾州廻船の中継地の一つで廻船問屋が軒を連ねていた。北西部には西国街道が通っており、西宮宿(現在の西宮市)と大蔵谷宿(同じ兵庫県の明石市)とを繋ぐ宿場があった。
兵庫津はまず市街地の地子方(じしかた)と市街地以外の地方(じかた)に分かれ、地子方はさらに宿場町の岡方と港町の北浜・南浜に分かれていた。北浜と南浜の境界はかつての経が島に由来する築島付近で、岡方・北浜・南浜の三方の自治組織が存在した。本陣は岡方に存在したが、諸藩の大名との関係が密接な有力商人たちが南浜に競って建てた「浜本陣」の利用が江戸時代中期以降は漸増した。
江戸幕府が欧米と締結した条約では兵庫港を外国船に開港することが規定されていたが、実際には宇治川を挟んで3㎞東に位置する神戸村が開港場となり1868年1月1日に開港。神戸村と
兵庫津の湊川以西においても、1874年に仲町部の多聞通を柳原惣門まで西伸させた新西国街道と兵庫津の旧市街との間が兵庫新市街として整備され、神戸町と兵庫津の市街が連続するようになった。一方、1875年に新川運河を開削するも不開港の兵庫津(兵庫港)は神戸港に対して劣勢となり、1879年の郡区町村編制法施行により市街としての兵庫津は神戸区に飲み込まれ、1892年の勅令(神戸港の港域拡張)により港湾としての兵庫津(兵庫港)も神戸港に飲み込まる形で一体化した。1901年の湊川の付け替えにより生じた旧河川敷には1905年に新開地が形成され、「東の浅草、西の新開地」と称されるほど繁栄した。日清戦争・第一次世界大戦を経て上海・香港・シンガポールと並ぶアジアの主要な貿易港として発展を続けた。一方、港と共に造船・鉄鋼・機械を中心とした工業も発達し、阪神工業地帯の中核を担う日本有数の重工業都市に成長した。1922年には六大都市に指定された。
新開地や神戸駅周辺が繁栄する一方で、生田川は神戸駅開業よりも早い1871年に現河道へ付け替え済みで、1889年の市制施行の際には旧生田川以東の葺合村が市域に加わっており、1899年の居留地返還を機に都市機能を東へ分散させる施策も行われた。旧居留地はオフィス街へと変容し、旧生田川河口と旧居留地の沖合には1907年から新港突堤の埋立造成が開始された。1905年の阪神本線開業、1912年の神戸市電布引線開業、1931年の東海道本線三ノ宮駅移転、1933年の神戸市電税関線開業、1936年の阪急神戸本線延伸など、旧居留地の北隣に位置する三宮が鉄道結節点となり、旧生田川を南北基軸とする都市機能が整えられた。
太平洋戦争末期、他の諸都市同様に米軍の重要な戦略目標であった神戸はB29による度重なる空襲を受け、当時の市街地・工業施設・港湾施設の大半を破壊・焼失し、多くの犠牲者を出した(神戸大空襲)。
戦前より続けられてきた都市機能の東への分散は1957年の東遊園地への神戸市役所移転でほぼ完成。戦後の高度経済成長期には、市街後背部の山地・丘陵より削り取った土砂を用いてポートアイランドや六甲アイランドなどの人工島を臨海部に埋立造成し、商工業・住宅・港湾用地として整備するとともに、埋立用土砂採取後の西区や北区の山地・丘陵を西神ニュータウンなどの住宅地・産業団地として開発した。この一連の施策は「山、海へ行く」と呼ばれ、都市インフラの拡充・整備が大きく進むことになった。1981年のポートアイランド第一期竣工時には、地方博ブームの先駆けとなる「神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81)」を開催して成功させるなど、これらに代表される都市経営手法は、「株式会社神戸市」と称され全国の市町村から自治体経営の手本とされた。神戸港は商業や工業が集積する大阪に近いこともあり、近代以降も国際貿易の拠点として規模を拡充した結果、1970年代には阪神工業地帯の輸出港として海上コンテナの取扱個数が世界一になるなど世界有数の港湾として知られていた。
1972年に新神戸駅が生田川の付け替え地点に開業し、以降1981年のポートアイランド1期竣工、2006年の神戸空港開港、2010年のポートアイランド2期竣工によって旧生田川の南北基軸はさらに強化され、新生田川筋も1976年の新神戸トンネル開通、1999年の神戸港港島トンネル開通によって南北基軸を補完する。三宮が市内最大の繁華街・交通結節点に成長した一方で新開地や神戸駅の地位は下がり、結果的に都市機能は分散ではなく移転した形になった。
阪神・淡路大震災が1995年1月17日に発生し、神戸市内は甚大な被害を受けた。震災での被害による港湾機能の麻痺や、震災以前からの製造業の生産拠点の海外移転によって、国際貿易港としての相対的地位は低下した。震災復興によるインフラの再整備により貿易額は回復する傾向にあり、日本を代表する港湾都市の一つとして存在感を維持している。その一方、中国をはじめとしたアジアの大都市の急激な発展により港湾都市としての国際的な影響力は低下しており、2018年度における世界の港湾取扱貨物量ランキングは50位(国内5位)となっている。
また、人口においても震災直後に7%余り減少したものの、新長田駅前・JR六甲道駅前での震災復興再開発事業やポートアイランド二期事業・神戸医療産業都市構想などの事業によって呼び戻されて2011年には154万9000人に達した。しかしながらその後は首都圏や大阪府への流出など人口減少が続き、2015年に福岡市、2019年には川崎市を下回り、政令市で7位となっている。神戸市営地下鉄海岸線や神戸空港の利用者数が需要予測を大幅に下回り、またウォーターフロント開発である神戸ハーバーランドの核テナントが相次いで撤退、かつて小売業で日本一の地位を築いたダイエー(神戸市発祥)の不振、市主導の新長田駅前再開発の失敗など、戦後から震災まで好調に成長してきたのと対照的に震災以降は暗雲が垂れ込めていた。しかし、近年は都心地区である三宮エリアの再開発やハーバーランド、メリケンパーク、新港町などをはじめとするウォーターフロントエリアの再開発、市内主要駅周辺のリノベーションなどの進行に加え、神戸空港の国際化と国内線の拡大が決定。これらによる街全体の活性化が大いに期待されている。
市内では、6608種の動植物が確認されている。744種が絶滅の恐れがあり、そのうちベッコウトンボやマヤランなど、49種は現在見られなくなっている。
市章山の電飾や市庁舎1号館で知られる市章は、歴史的仮名遣である「かうべ」の片仮名「カウベ」の「カ」をデザインして1907年5月24日に制定された。扇港と呼ばれた旧兵庫港(大輪田泊)と旧神戸港の2つの港の形と、港湾に因む錨のイメージも持たせてあるといわれる。市旗は緑地に市章を白く染め抜いたものが使われている。市章の造形はCHANELのロゴの下1/3を短縮したものに近い。
現在の市歌は、1951年(昭和26年)に制定された2代目のものである。
作曲者の信時潔は2代目市歌制定の4年前に「兵庫県民歌」を作曲している。
神戸市は以下の9区から構成される(括弧内の数字は市議の定数)。
神戸市の人口は、国勢調査では1920年の第1回調査で608,644人と全国3位だった。しかし、1921年に名古屋市、1931年に京都市、1939年に横浜市がそれぞれ大規模な市域拡張を実施したこともあって、1940年の第5回調査で967,234人と全国6位になった。前年の1939年には一時的に100万人を超えるも減少に転じ、神戸大空襲後の1945年11月の人口調査で379,166人と激減した。1940年から1945年の人口増減率は原爆が投下された広島市(マイナス60.1%)をも下回るマイナス60.8%であった。
戦災復興と並行して1947年から1958年にかけて大規模な市域拡張が実施され、1956年には100万人台を回復した。六甲山系や帝釈・丹生山系といった山地が横たわるため宅地造成は困難だったが、「山、海へ行く」を合言葉に、山地や丘陵を削って採取した土砂を地下トンネル内に設けたベルトコンベヤ(須磨ベルトコンベヤ)で運搬して海面を埋め立て、土砂採取跡地と埋立地の双方に住宅団地が造成された。
山地のない名古屋市や横浜市を抜き返すことはなく、1979年には札幌市に抜かれたが、三方を山地に囲まれる京都市との差は漸次縮小していった。1990年の第15回調査で京都市を抜き、1992年には一時的に150万人を超えたが、阪神・淡路大震災によって1995年の第16回調査は減少、2000年の第17回調査で再び京都市を抜き、2010年の第19回調査で1,544,200人とピークを迎えた。
2015年に福岡市、2019年に川崎市に抜かれ、2020年の第21回調査で1,525,152人と全国8位になっている。
各区ごとに記載
各区ごとに記載
※ 名称の後の「(史跡)」は国指定の史跡を示す
※建物名の後に「(重文)」とあるものは、国の重要文化財に指定された建造物
東西方向にかけてJRや私鉄などの路線が走行している。名目上は市名を冠する神戸駅が特定都区市内制度の中心駅であるが、JRや私鉄、地下鉄など多くの路線が乗り入れる三ノ宮駅・三宮駅(神戸三宮駅)が実質的な市内中心駅としての役割をもつ。山陽新幹線の停車駅である新神戸駅はのぞみを含めた全ての新幹線が停車するがJRの在来線の接続はないため、市営地下鉄西神・山手線が中心市街地の三宮方面に連絡している。
市の中心部は市バスと神姫バスと神戸交通振興が運行している。このほか垂水区では山陽バス、西区は神姫バス、北区は阪急バスと神姫バスが主として運行している。
乗車方法はいずれも後乗り前降り後払いであり、運賃は均一制を採る区間(市バス普通区・山陽均一区など)と整理券による区間制を採る区間(市バス近郊区・神姫バスなど)に分かれる。
みなと観光バス以外の各路線では非接触型ICカードのPiTaPa、ICOCAをはじめとした全国交通系ICカードが使用できる。神姫バスグループは別途NicoPaも、阪急バスと阪神バスは別途Hanicaもそれぞれ使用できる。
タクシーの営業区域は神戸市域交通圏で、淡路市・三田市・三木市・稲美町を除く隣接する各市と尼崎市・伊丹市・川西市・川辺郡猪名川町と伊丹(大阪)空港が対象となっている。
神戸市は、神戸市名誉市民条例に基づき、「公共の福祉の増進または学術技芸の進展に寄与し、もって広く社会文化の発展に貢献し、その功績が卓絶する」市民およびゆかりのある人物に対して名誉市民の称号と名誉市民章を贈呈している。
神戸市は映像産業を重視し、映画やドラマの撮影に積極的である。
作品は作者氏名で五十音順
BE KOBE(ビーコウベ)は、「震災20年 神戸からのメッセージ発信」プロジェクトをきっかけに、多くの市民から出た「神戸の様々な魅力の中で、一番の魅力は人である」という思いを集約したメッセージとして生まれた。直訳すると、「神戸であれ」「神戸らしくいよう」といった意味である。 ここでいう「神戸らしさ」とは、震災をきっかけに気付いた「人のために力を尽くす」という人々の思いや、開港150年の歴史の中で育まれた、「先進的・開放的で、創造性・国際性が豊か」といった人々の気質である。
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