御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に創立した徳川将軍家の一門。三卿(さんきょう)とも。以下の3家が該当する。
御三卿は大名として藩を形成することはなく、実質的には将軍家の身内、いわば「部屋住み」として扱われる存在で、将軍家に後嗣がない際は後継者を提供したほか、御三家をはじめ他の大名家へも養子を提供する役割を果たした(後述)。御三卿は明治維新後に徳川宗家から独立した家となり、近代には華族となった。
御三卿は、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が、1731年(享保16年)に次男の宗武(田安家初代)へ、1740年(元文5年)に四男の宗尹(一橋家初代)へそれぞれ江戸城内に屋敷を与えたことに始まり、この時は御両典(甲府家・館林家)の例に倣い、2人を指して「御両卿」(ごりょうきょう)と呼んだ。その後、吉宗の長男で第9代将軍となった徳川家重が、1759年(宝暦9年)に次男の重好(清水家初代)へ屋敷を与えたことで「御三卿」の体裁が整った。以後、将軍家に後嗣がないときは御三家および御三卿から適当な者が選定された。実際、一橋家から第11代将軍徳川家斉と第15代将軍徳川慶喜が出ており、明治維新後は田安家の徳川家達が徳川宗家を相続している。
御三卿は江戸時代を通して将軍家の身内として扱われたが、1868年(明治元年)5月、田安・一橋両家が独立した藩として新政府より認められた(維新立藩)。1884年(明治17年)の華族令により、3家はそれぞれ伯爵を叙爵した。
「御三卿」の呼び名の由来は、当主が公卿の位である従三位に昇ることからとする説と、八省の長官(卿)に任ぜられる例であったためとする説がある。
御三卿の創設理由については、徳川吉宗が、将軍家と御三家の血縁関係が当時すでに薄くなっていたことを鑑みて、自身の血筋をもって将軍家を継続させていくために定めた、あるいは御三家の勢力を抑えるために興したとする解釈が従来行われてきた。しかし、御三卿は屋敷・賄料(経費)・家臣のいずれをも幕府から与えられており、一般的な大名に比べると独立性が非常に弱く、あくまで将軍家の身内にとどまるものだった。徳川慶喜に一橋家時代から仕えた渋沢栄一が「三卿の家は起立の初には、必ずしも其主を常置すべきものとは定まらず、唯将軍家の子弟の養はるべき家なき間、据ゑ置かるべき設なるが如し」と説くように、御三卿は、適当な養家となる大名家が現れるまでの間、将軍の庶子を待機させておく仕組みとして始まり、将軍家の「部屋住み」というのが実態であったとみなせ、御三卿を大名のうちに数えない解釈もある。
そのため、御三卿には子による家督相続で家を永続させるという前提がなく、当主(屋敷の主)本人やその嫡子が養子となって御三家や越前家を相続した例がある。また、当主の死去および養家への転出によって跡継ぎが存在しない事態が発生しても、その屋敷や領地、家臣団が解体されずに存続する「明屋敷」(あけやしき)の措置がとられ、将軍に新たな庶子が生まれた場合、明屋敷の家を相続させた。
幕末期には、御三家の庶子や隠居した当主が御三卿を相続するなど、当初の性格が変化する部分もあったが、田安家から越前家に入った松平春嶽が著書『幕儀参考』において「三卿ハ、タトエハ将軍ノ庶子ヲシテ本丸ニ置クヘキヲ、第ヲ賜ヒテ他ニ住セシム、ユヱニ、将軍ノ厄介ト見倣シテ可ナリト云フヘシ」と記し、水戸家から一橋家に入った徳川慶喜も安政の大獄で隠居謹慎を命じられた際に「抑三卿は幕府の部屋住なれば、当主ならざる部屋住の者に隠居を命ぜらるゝは、其意を得ざることなり」と不満を漏らしたように、御三卿出身者が自らを部屋住みと認識していたことがうかがえる。
御三卿の格式は尾張家と紀州家に準じるものとされた。元服すると従三位に叙され、八省の卿もしくは右衛門督の官職と権中将を兼任し、家督相続後は参議となり、長寿に達すると権中納言や従二位権大納言へ昇進した。当主と嫡子は徳川の苗字(本姓は源氏)の使用を許され(ただし庶子は「松平」を用いる)、参議に任じると田安・一橋・清水を号した。なお、幕府儀礼における御三卿の席次は、御三家の当主とその嫡子の間に置かれたが、御三家の家格が尾張・紀州・水戸の順に固定していたのと異なり、御三卿はその時々に任官した順番が席の高低に反映された。他に、御三卿の正室に対する尊称としては御三家正室と同じく「御簾中」が用いられた。
また、御三家以下の諸大名が江戸城への登城時には大手門から入城し、表御殿の各詰所に控えた一方で、御三卿は平川門から登城して本丸御殿中奥の内玄関(御風呂屋口)を経て、中奥の御控所(おひかえじょ)に入るという相違もあった。将軍の生活空間である中奥に御三卿の詰所があったのは、将軍の最近親者としての御三卿に対する特別礼遇であった。
御三卿の賄料は幕領より支給され、清水家創設前の1746年(延享3年)にそれぞれ10万石と定められた。賄料を幕領から充てたのは、将軍の庶子を大名に取り立てると幕領が不足するおそれがあり、立藩を断念したためでもある。御三卿領は関東と畿内周辺の数か国に分散しており、これらの支配は独自の代官所によって行われた。例として、田安家の摂津国長柄陣屋、甲斐国田中陣屋など、一橋家の大坂川口陣屋や備中国江原陣屋、越後国金屋陣屋などがある。御三卿はいずれも独自の城を持たず、江戸城内に与えられた屋敷地に居住した。しかし、御三卿領と家格維持のための支出は、次第に幕府財政を圧迫することとなった。
明治元年(1868年)、徳川宗家が静岡藩を立藩すると共に、田安家の徳川慶頼と一橋家の徳川茂栄もそれぞれ独立して立藩したが、田安・一橋の両藩は翌明治2年(1869年)の版籍奉還の際、他藩に先立ち廃藩し、かつ両藩主とも知藩事に任じられず、家禄を支給されることとなった(田安家は3148石、一橋家は3805石)。明屋敷であった清水家の家督を明治3年(1870年)に相続した徳川篤守も、家禄2500石を支給されるにとどまった。
将軍家の身内であった御三卿の家臣団(邸臣団)は、幕府から出向した幕臣(旗本・御家人)で、幕府の役職に復帰可能な「御付人」(おつけびと)と、幕臣の次三男で御三卿に出向したきりとなる「御付切」(おつけきり)、独自に採用した「御抱入」(おかかえいれ)の3種に区分された。特に1767年(明和4年)には、御付人は上級役職の「三殿八役」(さんでんはちやく、「八役」とも)のみを担当することと決められた。三殿八役以外の役職には側衆・側用人・書院番頭などがあった。
俸禄の支給についても、御付人は直参として幕府から直接受け、幕臣でありながら陪臣として扱われる御付切は御三卿を介して幕府から受け取り、同じく陪臣とされる御抱入の俸禄は御三卿の賄料から支払われるなどの違いがあった。
御付人が務める御三卿家老は定員2名で官位は従五位下諸大夫とされ、役料は幕府と御三卿からそれぞれ1000石を支給された。江戸城においては菊間に詰め、幕府の側衆や他の御三卿家老と交渉した。御三卿の初代家老には、幕臣の中から次の各2名が任じられている。
御三卿創設の理由は上記のほか、将軍職継承に際して将軍家の「身内」である御三卿から後継者を選ぶことで、後継ぎ争いを未然に防ぐためであったとも言われている。
しかし、御三卿の家政を幕府に委任したことはまた、御三卿間の対立や幕府内の政争を激化させたという指摘もある。例えば御三家や御両典の当主は他藩主と同様に自らの所領と領民を持ち、家臣団を統括して藩政や家政を独自に運営し、かつ尾張・紀伊両藩の藩主は参勤交代で隔年の参府と領国下向を繰り返さなくてはならない。水戸藩主は常時定府で巷間で「副将軍」と呼ばれたが、それでも領国経営の必要はあり、かつ定府ゆえの紛糾が絶えなかった。しかし御三卿は常時江戸城内にあって、領国経営や家政運営の必要がなく、実質上は何もすることがなかった。しかも江戸城中においては、実際の政治の担い手である老中や大老よりも上位の席次にあった。このため幕府の政治に黒幕として関与することが可能で、実際それに執着するようになり、その結果将軍の跡目争いの絡む政争が激化したといわれる。
とりわけ、一橋家は2代治済とその子で第11代将軍家斉が多子だったこともあり、一時期は一橋家の血筋が代々の将軍をはじめ、御三卿・水戸家以外の御三家を含めた親藩のほとんどの当主、さらには外様大名の福岡藩主黒田家まで及ぶに至ったが、幕末において宗尹の血筋は田安家でしか続かず、逆に御三家から庶子や隠居した元当主が入って一橋家や清水家を相続するという、創設当初には想定し得なかった事態が生じた。宗尹直系が絶えた一橋家の当主には慶喜が水戸家から入り、慶喜が将軍を継いだ後は、元尾張藩主で隠居の身であった徳川茂徳が茂栄と改名して一橋家を継ぎ、さらに慶喜の弟の昭武が明屋敷だった清水家を継いでいる。特に慶喜と昭武の祖父徳川治紀は女系ながら2代将軍徳川秀忠の血を引いている。茂栄もさかのぼると水戸家の血を引いており、御三卿のうち2家が(将軍家や尾張家と共に)吉宗直系でない水戸家の血筋で占められることになったのである。なお、御三家からは当主本人だけでなく藩士も家臣として転属してきている。
近代の華族制度下で伯爵となった田安家の徳川達孝(徳川家達の実弟)と一橋家の徳川宗敬は貴族院伯爵議員として政治に携わり、特に宗敬は第二次世界大戦後に最後の貴族院副議長を務め、参議院議員在職時にはサンフランシスコ講和条約調印の際、日本側全権委員に加わった。
徳川吉宗の血筋からの将軍家(宗家)および御三卿当主(戦前まで)
水戸家の血筋からの将軍家(宗家)および一橋家・清水家当主(戦前まで)
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou