ディック・ブルーナ(Dick Bruna、本名:ヘンドリック・マフダレヌス・ブルーナ(Hendrik Magdalenus Bruna)、1927年8月23日 - 2017年2月16日)は、オランダのグラフィックデザイナー、絵本作家。ナインチェ・プラウス(ミッフィー)やブラック・ベアの生みの親として知られる。
ブルーナは1927年、ユトレヒト州ユトレヒト市で、出版社「A・W・ブルーナ&ズーン」(以下ブルーナ社)を経営する父アルバートと母ヨハナのもとに生まれる。
絵が好きなおとなしいタイプの少年で、いつもスケッチブックに絵を描いてはそれを大切にしていた。また、父が出版社を経営していたこともあって、さまざまな本に読み親しんだ。
中学に入ると、父の書棚にあったレンブラントやファン・ゴッホの画集に触れ、鮮烈な色彩や画法に強い衝撃と感銘を受ける。そしてブルーナ社の専属デザイナーのもとで、絵の基本を学び、油絵を描くようになる。
また音楽にも興味を持ち、特にシャンソンに夢中になり、アコーディオンを手にし、演奏や作曲なども楽しんだ。
1945年に第二次世界大戦が終了すると、画家になることを強く志望していたディックは、通っていた高校を辞める決意をするが、長男である息子を後継者にしたかった父と対立。その後「後継者の研修」をするのであればとの条件付きで、高校を退学する。
退学した彼は、オランダの書店や、イギリス、フランスの出版社に研修に出向き、出版のいろはを学んだ。研修の合間には、同じ画家志望の者と出会い、美術館や画廊を精力的にまわり、さまざまなインスピレーションを得る。
特にパリでは、フェルナン・レジェやアンリ・マティスといった現代芸術家たちの作品に、ディックがそれまで抱いていた絵画のイメージを大きく覆すほどの強い衝撃とインスピレーションを受ける。そしてディック自身もスケッチブックを手に街の様々な風景をスケッチし、油絵にしていった。
20歳になったディックはオランダに戻り、父や祖父に改めて「自分は経営者には向いていない、アーティストになることを認めてほしい」ことを告げ、ディックを後継者にするつもりでいた父を説得し、これを了承。アーティストとしての道を歩むこととなる。
20歳以降の数年間、アーティストとしての方向性を探る日々が続いた。
本格的に絵を学んだことのなかったディックは、アムステルダムの国立美術アカデミーに入学するものの、方向性の違いから退学する。
その後、様々なアーティストの画法を研究し、アンリ・マティスや、レイモン・サヴィニャック、カッサンドルたちの単純な輪郭や明解な色で構成されたシンプル、かつ訴求力のある作品を研究し、自らのデザインスタイルを確立させていった。
1951年、24歳になったディックは、イレーネ・デ・ヨングという女性と婚約し、2年後に結婚。またこの頃からブルーナ社の専属デザイナーとして働くようになる。
ブルーナ社に入社したディックは、会社が発行するさまざまな書籍の装丁を任され、ジョルジュ・シムノンのメグレ警部シリーズなどミステリー小説を中心に年間100冊もの装丁の仕事をこなす。
これらの装丁は、書籍のタイトルさえ分かればいいという、それまでの装丁の概念を覆し、パッと一瞬で引きつけるような、シンプルで斬新なデザインスタイルであった。
また、ブルーナ社のシンボルとしてデザインし直した「くま」がペーパーバックなどに使われ、そのくまに手を加えた「Zwarte Beertjes」(ブラック・ベア)が、読書週間のポスターなどに使用されるようになる。
1953年にイレーネと結婚。初の絵本「de appel」(りんごちゃん)を刊行する。
1955年になると、気軽に買えるペーパーバック「ブラック・ベア」シリーズがスタート。この頃には年間150冊もの装丁を手がけ、同時に宣伝用のポスターなども多数手がけた。
またこの年、「nijntje」(ナインチェ)という、うさぎを主人公とした字のない絵本を刊行。当時子供向けの本といえば、写実的な描写が主流で、デ・ステイルをはじめ現代芸術運動の流れを汲む(当時としては)斬新でモダンなキャラクターたちに、大人たちは「子供には理解できない」と敬遠していたのだが、シンプルな線と明解な色彩は子供たちの支持を得た。
1959年、それまでの絵のタッチや本の形を変え、色には『ブルーナカラー』と呼ばれる赤、青、白、緑、黄色を使い、以前に刊行した「りんごちゃん」を描き直し、加えて新しく描かれた「こねこのねる」「きいろいことり」「ぴーんちゃんとふぃーんちゃん」などが現在見られるような正方形の絵本となって刊行。
1963年には、「ナインチェ」を新たに描き直し、各国語に翻訳される。日本でも1964年に石井桃子の訳により「ちいさなうさこちゃん」として刊行され、多くの子供たちに支持を受けた。
その後もコンスタントに絵本を発表し、人気絵本作家としての地位を確実に築いていった。
1971年、アムステルダムにディックの著作権を管理するメルシス社を友人のピーター・ブラティンガとともに設立。そして創作に専念したいとの思いから、1975年にブルーナ社を退職する。
独立後、社会福祉関係の仕事にも力をいれ、障害者向けの案内記号、歯の健康、献血、赤十字などの公共広告のポスター、デザインを数多く手がけた。
また創作のみならず、様々な場所で子供たちに絵本を読み聞かせるイベントを行い、常に子供たちの目線で見つめ、考えて、それらは創作の情熱にもなった。
日本においても、「うさこちゃん」「ミッフィー」として、その愛くるしいキャラクターたちは、オランダに負けないほどの人気を博す。また1998年には、郵政省(現・日本郵政)の「ふみの日」切手のデザインを提供した。
2006年2月には、「ディック・ブルーナ・ハウス(dick bruna huis)」がユトレヒト市のセントラル・ミュージアム横に開館し、ディックの作品が常設展示される。2016年2月に「ナインチェ・ミュージアム(nijntje museum)」に改称された。
毎日自転車でユトレヒトのスタジオに通って創作活動を続けたが、2011年に高齢のため引退したと2014年7月に報じられた。
2017年2月16日、ユトレヒトにて老衰で死去。満89歳没。
以下の年はすべて原書の出版年。出版年、出版社の記載がない本は日本語版未刊。
声の出演:長沢彩
声の出演:兵藤まこ他
声の出演:兵藤まこ他
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