1994年の野球(1994ねんのやきゅう)では、1994年の野球界における動向をまとめる。
『プロ野球70年史』は、この年の見出しを「10.8決戦とイチロー旋風」としている。
その10.8決戦のあったセ・リーグは、終盤に各チームの勝率が接近して、順位争いがプロ野球史上まれに見る混戦となった。
8月18日、巨人は中日を破ってマジックナンバー25を点灯させた。この時点で巨人の優勝が確実との見方もあった。また、巨人側から見ると、この試合は、このシーズン5勝を与えることとなった「苦手」今中慎二を攻略したという意味もある。
ところが、巨人が7月から9月の各月とも負け越し、マジックナンバーは17まで減らしたものの、8月30日に中日に敗れて消滅した。さらに、広島、中日とのゲーム差がすぐに近づいていった。
特に、中日は8月に8連敗し、監督の髙木守道にシーズン限りの解任を通告していた。しかし、奮起して、9月を11勝3敗で、9月に4勝10敗の巨人をとらえ、広島を優勝争いから脱落させた。9月28日、ナゴヤ球場での中日-巨人戦で、1回に立浪和義が巨人先発桑田真澄から放った本塁打による1点を先発郭源治から先発登板することもあった佐藤秀樹、さらに翌日の両チーム間の試合が台風接近により中止になることを見越して今中を抑えに投入して1-0で中日が勝利し、巨人と同率で並んだ。巨人の監督の長嶋茂雄は10月8日に「(9月29日に中止になった中日戦を)やっていたら中日の勢いからいってやられただろうし、(中略)まさにあの"ハリケーン"は神風だった」と振り返り、後年、落合博満は、この時期の巨人のチーム状態について「2試合とも中止になることを願っていた」と述べた。
その後両チームとも試合がなく迎えた9月30日、リーグは、この中止になった中日対巨人戦(第26回戦)を10月8日に組み込むことを含めた「追加日程」を発表した。この時点で、優勝争いは、同率で並び、ともに5試合を残していた巨人と中日にほぼ絞られていた。
10月6日は、一旦巨人が1ゲーム差をつけて迎えたが、中日が勝ち、巨人が敗れて、再び同率となった。結局両者とも同率で並んでから3勝1敗で8日の最終決戦を迎えた。
8日の決戦は、巨人が6-3で勝ち、優勝決定となった。先に解任通告を受けた高木監督については、終盤の優勝争いで、球団側が事実上、解任通告を撤回し、13日に同監督も辞意を撤回して、留任となった。
1994年のセ・リーグは同率で並んだ2チームが最終戦で直接対戦して優勝が決定した(10.8決戦)。一方で最下位も同率で並んだ2チームが最終戦で直接対戦して決定した。
10月7日の時点で単独5位だった横浜ベイスターズは8日に試合の予定がなかったが、単独最下位だったヤクルトスワローズが同日に行われた129試合目で広島東洋カープに勝ったため、ヤクルトと横浜が61勝68敗の同率で並んだ。この時点で既に公式戦全日程を終了した広島の3位と阪神タイガースの4位は確定しており、両チームにとっての最終戦となる「ヤクルト対横浜」の直接対決で敗れたチームが最下位を確定することになった。この試合は10.8決戦と同様に、9月30日にセ・リーグから発表された「追加日程」に含まれていたもので、同年のリーグ公式戦最終試合でもあった。
10月9日に神宮球場で行われた試合はヤクルトが西村龍次、横浜が斎藤隆の先発で始まった。横浜は6回表に1点を先制したが、ヤクルトは8回裏に同点とすると、9回裏には城友博が横浜のリリーフ盛田幸妃から適時打を打ち、2-1でサヨナラ勝ち。勝利投手は高津臣吾、敗戦投手は斎藤隆。これによりヤクルトは阪神と並んで同率4位となり、横浜のリーグ最下位およびセ・リーグ全成績が確定した。
現在では夏の甲子園でも優勝するほどの強豪校の智弁和歌山が、横浜高校やPL学園など、当時の強豪校を
破り、決勝では常総学院を7-5で破り初優勝となった。
2007年の佐賀北高校による「がばい旋風」より13年も前に、佐賀県勢初の優勝を遂げている。
1907年に設立され、1920年に県立高校となった佐賀商業の活躍は、佐賀県民の間で「奇跡」と呼ばれた。
選手会側が8月12日から232日間におよぶ史上最長のストライキ(1994年から1995年のMLBストライキ)に突入。その影響でワールドシリーズ(1994年のワールドシリーズ)が90年ぶりに中止になってしまった。
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