矢口(やぐち)は、東京都大田区の町。現行行政地名は矢口一丁目から矢口三丁目。住居表示実施済区域。
大田区の南部に位置する。地域北部は概ね環状八号線を境に大田区千鳥に接する。地域東部は第二京浜(国道1号)を境に大田区多摩川に接する。地域南部一帯は多摩川となり、これを境に神奈川県川崎市になる。地域西部は大田区下丸子に接する。
多摩川沿いには旧堤通りが通っている。地域内を多摩堤通りや東急多摩川線の線路が通っており、武蔵新田駅がある。地質は沖積低地であり、地形はおおむね平坦である。多摩川と堤防の間は緑地になっている。
都市計画法上の用途地域は、駅周辺と商店街が近隣商業地域である他は大半が準工業地域に指定されており、住宅と中小規模の工場が混在する地域となっている。
住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、矢口2-12-10の地点で48万8000円/m2となっている。
矢口は渡船で名が知られる。1358年(延文3年)、新田義興がこの矢口渡(やぐちのわたし)で謀殺され、住民が義興を祀って新田神社を創建した。「矢口」の地名は正木文書のうち、1395年(応永2年)の『岩松氏所領注文』に初出する。
義興の頃の多摩川は現在よりも大きく東に湾曲しており、渡船場は現在の新田神社付近にあったと思われる。その後の渡船場は流路の変遷と共に何度か位置を変え、江戸中期に、東八幡神社の南に落ち着いた。
地域の南北を鎌倉街道が縦貫していた。現在の、東八幡神社前から新田神社前の商店街を経て地域の北西端に至る道である。
江戸時代の地名は荏原郡矢口村であった。1770年(明和7年)に義興の謀殺を題材とした福内鬼外(平賀源内)作の浄瑠璃『神霊矢口渡』が上演され人気を博すと、新田神社は多くの参詣者を集めるようになった。
1889年(明治22年)周辺8ヶ村を編入して村域を拡大、旧村域は大字矢口となった。1928年(昭和3年)町制を施行する。1932年(昭和7年)矢口町は11ヶ村に分離し、大字矢口が蒲田区矢口町となった。1949年(昭和24年)多摩川大橋が完成し、中世以来続いた矢口の渡しは廃止された。1966年(昭和41年)住居表示により矢口や東矢口が成立した。
1969年(昭和44年)11月16日、矢口三丁目の第二京浜で、佐藤栄作首相の訪米阻止を主張する学生デモ隊が暴徒化して路線バスを焼き討ち、さらに消火作業にかけつけた蒲田消防署の消防車にも火炎瓶が投げつけられ3台が炎上。3人が負傷。
日本武尊がこの地で矢合わせをしたことによると伝えられる。『新編武蔵風土記稿』によれば、もとは矢食村と称したという。
2023年(令和5年)1月1日現在(東京都発表)の世帯数と人口は以下の通りである。
国勢調査による人口の推移。
国勢調査による世帯数の推移。
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2023年3月時点)。
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである。
経済センサスによる事業所数の推移。
経済センサスによる従業員数の推移。
当地域北部に東急多摩川線武蔵新田駅がある。地域東部では隣の矢口渡駅も利用できる。
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