琴櫻 傑將(ことざくら まさかつ、1940年11月26日 - 2007年8月14日)は、鳥取県東伯郡倉吉町(のちの鳥取県倉吉市)出身で佐渡ヶ嶽部屋に所属した大相撲力士。第53代横綱。本名は鎌谷 紀雄(かまたに のりお)。
1940年11月26日に、鳥取県倉吉町の借家地で警察官の子として誕生する。倉吉町立成徳小学校を卒業後、倉吉町立東中学校時代に実父から柔道を仕込まれ、本来は中学生では取得を認められていない段位を特例で認めてもらうほどの腕前にまで上達する。偶々柔道の全国大会のTV中継を見てその才能を見出し、そうして鳥取にやって来た佐渡ヶ嶽から熱心に勧誘されたが、周囲に反対されるもののどうにか了解を得て佐渡ヶ嶽部屋に入門、1959年1月場所に初土俵を踏んだ。卒業まで3ヶ月程残っていた鳥取県立倉吉農業高等学校には、特別に卒業扱いにさせて貰った。実質的に高校は卒業間近で中退したことに変わりはなく、孫の2代琴ノ若の大関昇進の際には「卒業間際に中退」と報道でも伝えられている。それでも本人は「中学卒業後に入っておけばよかった」「早く入門していれば、もっと早く横綱になっていたかもしれない」と高校に進学したことを悔いていた。なお、相撲部は正部員ではなく助っ人扱いだったといい、それでも相撲の全国大会に出場するなど活躍したとのこと。
四股名は番付に初めて載った時は本名の「鎌谷」だったが、関取昇進時に「琴櫻」へ改名した。これは佐渡ヶ嶽の現役名「琴錦」に、故郷にある「打吹公園」が桜の名所であることから付けられたもの。番付では琴櫻と書かれ、“琴桜”と書かれたものは存在しないが、本人はサインなどでは「琴桜」と書いていたという。師匠たちに目をかけられていたため兄弟子たちからの僻みもあったが、毎日午前3時には土俵に降りて猛稽古に励んだことで力を付けていった。
最初は左下手を取って投げるのを得意としておりどうしても柔道の癖が取り口に表れていたが、指導と琴ヶ濱貞雄との稽古で右四つの型を会得すると、1962年7月場所に十両へ昇進し、その場所を優勝。4場所目の1963年1月場所でも十両優勝を果たして3月場所に新入幕を果たした。1964年1月場所には新三役の場所6日目に、柏戸剛との取組で土俵上で足首を骨折する負傷で途中休場。翌場所も全休したため、十両まで陥落の憂き目に遭う。
休場して以降は本人曰く「まわしを取ると青竹で殴られた」「いつまでも腫れが引かない」という厳しい指導の下に己の相撲を改造し、怒濤の突き押し・強烈なぶちかましとのど輪で一気に攻める押し相撲を得意とし、「猛牛」との異名を取った。1967年9月場所では柏戸と佐田の山・豊山・北の富士と2横綱2大関を倒して11勝4敗という成績を残し、場所後に大関へ昇進する。1968年7月場所は13勝2敗の成績で幕内初優勝を果たした。
強くなるにつれて部屋には稽古相手がいなくなったため、出羽海部屋へ出稽古を行うようになった。琴櫻本人は後に「当時、名門の出羽海に出稽古なんて難しいはずなのに、師匠が頼み込んでくれた。その熱心さはどこにも負けないくらい、偉かった」と振り返っている。
大鵬幸喜には初顔から18連敗と全く歯が立たなかったが、1969年7月場所の初勝利以降は4勝4敗と健闘(最終対戦成績は4勝22敗)。大鵬が最後の幕内優勝を飾った1971年1月場所では唯一の黒星をつけた。しかし、負傷の多さから好不調の波が激しく、綱取り場所で10日目を終わってトップに立っていながら終盤に5連敗するなど不本意な成績が続き、散々な罵声を浴びた上に負け越しもあったため、「横綱に上がることは無理だろう」と、陰口を叩かれていた。蹴手繰りを得意とする海乃山勇にも手を焼き、大関昇進以降は4勝7敗と分が悪かった(最終対戦成績は15勝13敗)。
角番で迎えた1971年7月場所では、11日目の大麒麟戦に勝った一番が「八百長ではないか」とファンから非難が集中し、大麒麟とともに審判部から「今後このようなことがないよう」との厳重な警告を受けた。
1972年3月場所12日目に大関・前の山に張り手で気絶・転がされた一番が相撲競技監察委員会から「無気力相撲」との警告を受けた。前日の貴ノ花との対戦では二本を差されながら櫓投げに仕留める相撲を見せており、これが状況証拠として扱われてしまった。前の山は翌日から休場し大関から陥落、琴櫻は「自分の気持は休場するぐらいのものではない」と言って出場を続け、14日目に優勝争いの先頭を行く平幕の魁傑を強烈なぶちかましで一蹴し、この場所優勝することになる弟弟子の長谷川の「援護射撃」を果たすが、場所終盤の話題は「無気力相撲」一色となってしまった。さらに5月場所は1勝しただけで残りを休場するなど、引退も噂され始めた。ところが、同じ二所ノ関一門出身であり自身が平素から懇意にしていた、相撲評論家の神風正一と対談した際に元気づけられ、横綱を目指す決意を固める。この年の11月場所では14勝1敗で3度目の優勝を果たすと、綱取りとなる1973年1月場所は前評判の高くない中14勝1敗で連覇を果たす。
1月場所後の横綱審議委員会では約30分の審議の末、過去の角番3回や大関時代の勝率の低さ、年齢からくる将来性が不安視されたものの、連続優勝であること及び1月場所千秋楽の北の富士戦の内容が高く評価され、結果として8人の委員(出席5人、賛成の委任状3人)が全会一致で横綱推薦の答申を出した。横審委員長の舟橋聖一は「もちろん二場所連続優勝が大きなウエートを占めたが、世論も起っていることだし、力量、成績とも抜群ということだ。」と述べ、委員の一人高橋義孝は「ここ2場所の姿は、以前に比べて別人のごとくなったことで、過去のことは吹き飛んだ。丈夫で長持ちする横綱になるだろう。」と述べた。横綱昇進伝達式では「横綱の地位をけがさぬよう、より努力し、一生懸命頑張ります」と口上を述べた。
横綱昇進時の年齢(32歳2ヶ月)は横審の「2場所連続優勝を原則とする」の内規が定められた年6場所制における最高齢で、「遅咲きの桜、ようやく満開」「姥桜の狂い咲き」とも呼ばれた。大関在位32場所の長期在位(豊山勝男の大関在位記録にあと2場所と迫っていた。現在は武蔵丸光洋と並ぶ史上1位タイのスロー出世記録)で晴れて横綱に昇進したが、高齢での昇進であったことは本人も重々承知していたようで、後援会から贈られた数多くの化粧廻しを見て「こんなに長く務まるか不安だ」と漏らしたという。しかも横綱土俵入りは当時から短命のジンクスが有り後継者が少ない「不知火型」を敢えて選択した(指導は宮城野と大鵬)。
それでも同年7月場所は14勝1敗で、唯一負けた相手である北の富士との優勝決定戦で勝利して優勝を決め、横綱に対する不安の声を一蹴した。しかし琴櫻の不安は的中して、体力の衰えも重なって長く務めることができず、横綱在位は僅か8場所で、持病の左ひざ痛が治らないことから再起ができないと悟り、1974年7月場所初日の3日前に引退を表明した。対戦力士の中で一番苦手としていたのは三重ノ海で、対戦成績は7勝11敗・横綱昇進までは3勝9敗だった。
引退後は年寄・白玉を襲名したが、僅か10日後に佐渡ヶ嶽が死去したため、佐渡ヶ嶽代理を経て「佐渡ヶ嶽」を襲名して部屋を継承した。翌1975年2月1日に引退相撲が開催され、太刀持ちに北の湖、露払いに輪島を従えて最後の横綱土俵入りを執り行った。断髪式では師匠が死去していたため、祖師匠にあたる二所ノ関が止め鋏を入れた。
当初は独立して「白玉部屋」を興す意向であったことから現役時代より内弟子を集めていた。大関では琴風豪規(内弟子として入門)・琴欧洲勝紀(停年退職直後に昇進)・琴光喜啓司・琴奨菊和弘(いずれも停年退職後に昇進)、関脇では琴ヶ梅剛史・琴富士孝也・琴錦功宗・琴ノ若晴將の4人、小結では琴稲妻佳弘を始め、合計22人の関取を育成した。自身が師匠をつとめた間、幕内優勝力士は4人(琴風・琴富士・琴錦・琴光喜)を輩出した。1990年代初頭には幕内力士7人を擁し、「七琴」「佐渡ヶ嶽軍団」と呼ばれて幕内の最大勢力だったこともある。
稽古自体は非常に厳しく、ある時弟子の琴ノ若が腕部の脱臼で稽古を休んだ際は「稽古場に下りてこい、弱い部分は鍛えるしかないんだ」と腕立て伏せを行って筋肉で患部をカバーするように指導した。琴ノ若は、引退後の2023年5月場所7日目のNHK大相撲中継で「もちろん稽古でケガが治るわけじゃないけど、考え方をプラス思考に変えるということがこの教えに含まれている」とただの根性論ではないと、現代では問題になりかねない指導法についてフォローした。一方で、気配りが上手で面倒見が良く、弟子たちからは慕われていた。50歳を過ぎてからも自ら廻しを締めて胸を出すなど、非常に指導熱心であった。解説の際には弟子の取組に対して思わず「そこだ、押せ」「よし、行け」といった具合に声が出てしまう場面も見られた。真面目で誠実な人柄・スカウト熱心で知られ、後援会組織を全国に持っていたこともあるが、いかなる僻地でも最終的には自らが足を運んで勧誘した。その熱心さに、時には相手方が固辞している場合でも半ば強引に口説き落とすこともあったといわれている。また、「元横綱の私より足が大きいからこの子は大物になれる」「お前なら数年で関取になれるぞ」など、はったりのような口説き文句で入門を決意させることも多かったという。引退後、部屋の稽古場に新しく土俵を2面設け、弟子たちの稽古に役立てた。
日本相撲協会では1992年から6期12年に渡って、理事として審判部長・名古屋場所部長を歴任、北の湖理事長1期目には事業部長に就任した。その一方で大相撲放送の解説を務めることも多かった。審判部副部長時代には、1986年5月場所8日目の小錦八十吉 - 北尾光司戦で、VTRでは北尾の足が先に俵を割り込んでいるように見えたにもかかわらず、同体・取り直しの裁決を行い、その取り直しの一番で小錦が鯖折りを受けて致命的な負傷を負ったため後に議論を呼んだ。
1996年には愛娘と結婚した琴ノ若(当時は「琴の若」)を養子として迎え入れた。
2005年11月25日に定年退職を迎えた。同年11月場所の千秋楽までは協会に残ることができたが、部屋持ちの親方が退職するとその部屋の力士が出場できなくなる規定があるため、同日に引退した琴ノ若に年寄・佐渡ヶ嶽を譲り、奇しくも2代続けての本場所途中の部屋継承劇となった。琴風に続く大関が育たなかったのが悩みだったが、退職直後に琴欧州が大関昇進を決め、喜びのコメントが紹介された。なお、場所後に行なわれた琴欧州の大関昇進伝達式では、日本相撲協会の計らいにより、佐渡ヶ嶽親方夫妻と共に同席が認められた。
2000年11月26日に還暦(満60歳)を迎えたものの、この頃から体調不良等が続いた理由により還暦土俵入りは行われず赤い綱を受け取るのみであった。
2004年には糖尿病の悪化に伴う壊疽を発症したため、左足を足首から切断する手術を受けた。そのため、これ以降は杖を付きながら義足での歩行を余儀なくされた。10ヶ月の入院生活を経て2005年に退院するが、手術では弱っていた心臓が止まったこともあった。佐渡ヶ嶽は2007年にも心筋梗塞の手術を受け、入退院を繰り返していた。
2007年7月場所後にも琴光喜が苦労の末に大関昇進を果たした。2007年7月25日に行われた琴光喜の大関昇進伝達式では、後ろの方で椅子に座りながらその光景を見届けている。「自分が大関になった時より嬉しい」と目を潤ませながらコメントを述べたが、これが結果的に佐渡ヶ嶽の生涯最後の仕事となった。
琴光喜の大関昇進決定から僅か20日後の2007年8月14日18時19分、佐渡ヶ嶽は敗血症による多臓器不全のため千葉県松戸市の千葉西総合病院で死去した。66歳没。死の直前、サッカー問題で謹慎処分を受けていた横綱の朝青龍明徳を気に掛け、「土俵に戻って欲しい」とのメッセージを遺していた。佐渡ヶ嶽部屋としての葬儀は、同年8月21日に執り行われた。
墓所は東京都立八柱霊園。
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