皇族(こうぞく、英: Imperial Family)は、皇帝の一族、あるいは日本の天皇の親族のうち、既婚の女子を除く男系の嫡出の血族およびその配偶者の総称。すなわち皇室典範の規定するところの三后(皇后、太皇太后、皇太后)、親王、親王妃、内親王、王、王妃、女王、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定するところの上皇后の総称である。
かつては、竹の園、竹の園生(たけのそのう)梁園・梁苑(りょうえん)、金枝玉葉(きんしぎょくよう)とも呼ばれていた。
皇族については、現行の法律においては以下のように規定されている。皇室典範によってその範囲は皇統に属する天皇の一族(親族)を皇族と定めている。
- 日本国憲法第二条
- 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。
- 皇室典範第五条
- 皇后・太皇太后・皇太后・親王・親王妃・内親王・王・王妃及び女王を皇族とする。
- 同第六条
- 嫡出の皇子及び嫡男系嫡出の皇孫は、男を親王、女を内親王とし、三世以下の嫡男系嫡出の子孫は、男を王、女を女王とする。
- 天皇の退位等に関する皇室典範特例法第四条
- 上皇の后は、上皇后とする(第一項)。上皇后に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太后の例による(第二項)。
現在(1947年以降)の皇族の成員は、明治天皇の男系男子とその配偶者、未婚の男系女子である(この構成に至る経緯は#歴史の節を参照)。
現在は、国会が議決した皇室典範によってその範囲は皇統に属する天皇の一族(親族)を皇族と定めている。
このうち、皇后、皇太后、皇太子または皇太孫、皇太子妃(または皇太孫妃)などとその独立していない子女の内廷に属する皇族は「内廷皇族(ないていこうぞく)」と呼ばれ、内廷から独立した宮家に属する皇族は「宮家皇族(みやけこうぞく)」または「内廷外皇族(ないていがいこうぞく)」と呼ばれる。
旧皇室典範と異なり、非嫡出子は皇族とされない。
天皇の母方の血族や姻族に関しては特別の規定がなく、民法の規定により、天皇の外戚の内、皇后から3親等内の者が天皇の姻族となる。天皇の姻族は皇族ではないが、民法上は天皇の親族である。このように「皇族=天皇の親族・血族である者全員」というわけではない。皇族以外の親族には下記「#特有事項(一般国民と皇族の差異)」は該当しないが、近親婚の禁止等の規制等は適用される。
天皇または親王・王の嫡出の子女として生まれた者以外が皇族となることができるのは、女子が天皇・親王・王のいずれかと結婚する場合(すなわち皇后・親王妃・王妃になる場合)のみに限られる(皇室典範15条)。
また、各皇族個人に対して用いられる敬称として、「陛下(へいか)」と「殿下(でんか)」の2つがある。
皇統に属する男系の男子(親王・王)は皇位継承(こういけいしょう)資格を有する(日本国憲法第2条・皇室典範第1条)。 令和6年(2024年)1月1日現在の継承順位第一位は秋篠宮文仁親王。 皇位継承順位(こういけいしょうじゅんい)は、皇室典範第2条に規定される。
皇族(親王妃・王妃を除く)は、摂政および国事行為臨時代行への就任資格を有し、定められた順序に従って就任しうる(日本国憲法第4条・第5条・皇室典範第16条・第17条・国事行為の臨時代行に関する法律2条)。令和6年(2024年)1月1日現在の継承順位第一位は秋篠宮文仁親王。
現在各皇族が就任している公職については後述。
皇族も、日本国憲法第10条に規定された日本国籍を有する「日本国民」である。皇室典範その他の法律により若干の制限はあるものの一般の国民との差異は本来大きいものではない。皇族の参政権は、皇族が戸籍を有しないため(詳細後述)公職選挙法付則により当分の間停止されているだけである。しかし、実態として皇族の権利や自由は大きく制約されている。これは「『皇族という特別な地位にあり、天皇と同じように制限されるべきだ』という考え方が市民の間で根強かったため」であるとされる。このため、一般国民とは異なる取り扱いがなされている面が多くある。
具体的には、事実上、皇族に対しては日本国憲法第3章が一部適用されないということである。
2024年(令和6年)1月1日現在の皇族は、以下の15名である。
天皇、および皇室典範特例法の規定するところの上皇は、皇族には含まれない。現任の徳仁(第126代天皇)および明仁(上皇)を含むと、皇室構成員は、17名となる。
以下、身位別該当者人数は2024年(令和6年)1月1日現在のものである。
各皇族個人に対して用いられる敬称として、「陛下(へいか)」と「殿下(でんか)」の2つがある。
皇族の呼称は、内閣告示、宮内庁告示や官報の皇室事項欄では、歌会始などの特別な場合を除き、次のようになっている。宮号や称号が表記されないことに注意が必要である。
宮内庁のウェブサイトや尊皇関係の書物においての呼称は以下のようになっている。(上記と多少異なる)
班位(はんい)は、すなわち皇族の序列である。皇族身位令(明治43年皇室令第2号。昭和22年皇室令第12号「――及附属法令廃止ノ件」により廃止)において詳細に定められていた。
皇族の内、皇后、皇太后、皇太子または皇太孫、皇太子妃(または皇太孫妃)などとその独立していない子女の内廷に属する皇族は「内廷皇族(ないていこうぞく)」と呼ばれる。その他の皇族は、内廷から独立した宮家に所属しており、「宮家皇族(みやけこうぞく)」または「内廷外皇族(ないていがいこうぞく)」と呼ばれる。 宮家(みやけ)とは、日本において、宮号を賜った皇族男子を祖とした一家のことである。宮家のうち天皇の子女や兄弟が創設した宮家を直宮家(じきみやけ)という。
「宮(みや)」とは、元々、天皇および皇族の邸の事を指し、転じて皇族の尊称となった。さらに、「○○宮」との称号(宮号)を男系男子孫たる皇族が世襲することが認められるようになった。当今の天皇との血統の遠近にかかわらず、代々親王宣下を受けることで親王の身位を保持し続けた宮家を世襲親王家(せしゅうしんのうけ)という。
そしてこれが「宮家」の源流であり、個別には宮号に応じて「○○宮家」と呼ばれることがある。ただし、宮号の授与と宮家の創立は、必ずしも同時ではない(例:邦憲王は1892年(明治25年)12月17日に「賀陽宮」の称号を賜る→諸王家の一つに列せられたのは1900年(明治33年)5月9日)。
「○○宮」の称号は、近現代では成年や婚姻を機に、親王・王個人の称号として授与されており、本来その家族には冠さない。唯一妃のみが「○○宮妃」と通称される。当主であった親王または王の薨去後、嗣子たる男子がいない場合も、宮家の祭祀を配偶者や女子が引き継ぐが、それも絶えると祭祀を行って絶家となる。
近現代では永世皇族制が採用されているため、嗣子(男系子孫)が絶えない限り、宮家は存続していくこととなる。
皇族のことを古代では皇親といい、天皇の一族として政府からの保護を受けるものを指した。その範囲は、歴代の天皇の男系卑属(皇統)であることを大原則とした。元々は世数の制限は定められておらず、「王」/「女王」の称号を名乗ったものは皇親、氏を名乗って「公」の称号を有したものは皇籍を離脱(臣籍降下)したものとされた。
大宝令・養老令により、皇親の範囲が定められた。この時、皇親の範囲は、歴代の天皇の男系卑属で四世までとされ(身位は、一世は親王/内親王、二世以下は王/女王)、五世孫は王/女王の身位は保持するが皇親の範囲外、六世孫で臣籍降下とされた。
その後、皇親の範囲に変化が加えられる。慶雲3年(706年)2月16日、文武天皇の勅令により、皇親の範囲が五世孫まで広げられるとともに、六世孫以下でも、五世王の「承嫡者」(嫡男)は代々王の称号を許されることになった。更に、天平元年(729年)8月5日、格により、六世孫・七世孫であっても、生母が二世女王である場合は、承嫡者以外も全員皇親とされた。
その後、皇親の人数が増加したことにより、不良行為をなすものが増えたことから、延暦17年(798年)閏5月23日、桓武天皇の勅命により、皇親の範囲を元へ戻す。しかし、六世孫以下が王の称号を名乗ることは引き続き認められた。
平安時代初期にかけて、子女の多い天皇が続いたことにより、皇親の人数が激増、最大で数百人の規模に及ぶ。これを受けて、傍系の皇親は、一部の一世親王に至るまで、六世孫への到達を待たずして臣籍降下させ、一方で皇親に残すものを選別して親王/内親王の身位を授ける(親王宣下)ことにより、世数によらない弾力的な皇親の選定が行われるようになる。
鎌倉時代以降、皇室の所領である荘園の一部を経済基盤とし、世襲することによって、天皇から経済的に独立した、宮家の原型が発生する。数ある宮家の中で、特に永続した伏見宮は、室町時代前期、皇統断絶の危機を前に後花園天皇が伏見宮家より皇統を継いだのが契機となって、後花園天皇の勅命によって"永世御所"とされ、皇位を継ぐ正統が途絶えるときにはこれを継ぐこととされた。ここから、永世にわたり皇親に留まり、正統が途絶えた後の控えの役割を果たす、世襲親王家の制度が始まる。江戸時代の中期にかけて、桂宮、有栖川宮、閑院宮が加わり、合計四宮家の体制となる。
一方、臣籍降下は行われなくなり、皇位及び宮号を継承しない親王は、出家して門跡となることで、子孫を残さなかった。
明治維新の前後、還俗した親王が新たな宮号を名乗り、これの取り扱いの処理を兼ねて、明治22年(1889年)1月15日、皇室典範が制定される。この時、皇親が皇族と呼称されるとともに、その範囲が変更された。
その後、皇族の増加を受けて、大正9年(1920年)5月19日に臣籍降下の準則が定められ、五世孫から八世孫までは嫡男以外、九世孫は嫡男を含め全員が臣籍降下することとなった。
昭和22年(1947年)10月14日、皇室典範の改正と前後して、伏見宮系の皇族が臣籍降下する。これにより、皇族として残ったのは、明治天皇の男系男子とその配偶者、未婚の男系女子のみとなった。以降、この血統の範囲内に入る者のみが、皇族とされている。なお、新典範においては、永世皇族制が復活している。また、非嫡出子は皇族とされないこととなった。
北朝第3代崇光天皇の男系(父系)子孫であり、連合国軍被占領期、1947年(昭和22年)にGHQ/SCAPの指令により(形式的には、現皇室典範の規定による自発的な離脱)、皇籍離脱をした11宮家に属する51名のこと。うち一部の宮家は、既に断絶または男系断絶している。ただ、皇籍離脱した後も皇室の親戚という立場には変わりがなく(例えば、東久邇家一族は皇族ではないが、女系/母系で明治天皇第9皇女の聡子内親王と昭和天皇第1皇女の成子内親王の血縁を有するために民法上は「天皇の親族」である)、皇室の親族が所属する親睦団体の菊栄親睦会を通じて、現在でも皇室との親近な交流は継続されている。
現皇室典範下で行われた、1947年(昭和22年)10月の11宮家51名(いわゆる旧皇族)より後に臣籍降下(皇籍離脱)した人物の一覧は下表のとおりで、全員が皇室典範第12条の規定を根拠とした離脱である。
2024年(令和6年)1月1日現在、元内親王6名および元女王2名の計8名の元皇族がいる。
上述の通り、人数は天皇・上皇を除いたものを記載する。
大日本帝国憲法下では、1889年(明治22年)制定の旧皇室典範(きゅうこうしつてんぱん)によってその範囲を規定された、皇統に属する天皇の一族を皇族とする。
現在も同様に、天皇は、皇族に含めない。また、天皇と皇族を合わせた全体を皇室といった。
皇族の構成員は、皇后・太皇太后・皇太后・皇太子・皇太子妃・皇太孫・皇太孫妃・親王・親王妃・内親王・王・王妃・女王である(旧・皇室典範第30条)。また、皇室親族令により、姻族の範囲は3親等内と規定された。
律令制の元で皇親と呼ばれていた呼称に変えて、「皇族」という呼称を採用した。また、旧来は皇后といえども臣下の家に生まれた場合には「皇親」とは認められなかったが、この改正によって皇后・妃なども皇族として扱われるようになった。
現行皇室典範との相違点として、四世孫(皇玄孫)までが親王・内親王とされ、五世孫以下が王・女王とされていた(旧皇室典範第31条)。また、非嫡出子も皇族とされた。
旧皇室典範により、成年(皇太子・皇太孫は満18歳、その他の皇族は満20歳)に達した皇族の男子は、皇室内の事項について天皇の諮詢を受ける皇族会議(こうぞくかいぎ)の議員となった。
1888年(明治21年)5月18日の明治天皇による勅命により、成年に達した親王は、枢密院の会議に班列(列席して議事に参加すること)する権利を有した。
貴族院令により、成年に達した皇族の男子は自動的に帝国議会上院の貴族院における皇族議員となった。だが、皇族が政争に関与すべきではないこと、男性皇族(親王および王)は武官(大日本帝国陸軍および大日本帝国海軍に属する皇族軍人)であったことから、登院は極めて稀であった。
皇族身位令によって、身位に基づき叙勲された。
皇族男子が軍人(武官)となることは、1873年(明治6年)12月9日の太政官達を経て、皇族身位令第17条によって、次の区分に従ってその義務が明文化された。
明治天皇の意向で開始された。第二次世界大戦終戦(日本の降伏)後の1945年(昭和20年)11月30日に、根拠規定である皇族身位令第17条が削除され、義務が消滅した。
皇族相互間の民事訴訟については、特別裁判所として皇室裁判所が臨時に必要に応じて置かれ、これが管轄することになっていた。他方、皇族と人民(臣民)の間の民事訴訟については、人民の皇族に対する民事訴訟の第一審と第二審が東京控訴院の管轄に属することとされたこと等のほかは、一般の法令によるものとされた。
皇族の刑事訴訟については、軍法会議の裁判権に属するものを除くほかは、大審院の管轄に属するものとされた。軍法会議の裁判権に属するものについては、高等軍法会議で審判された。
皇族の班位(順位)は、皇族身位令により、次の順序によるものとされた。
また、以上の順序の中でも細かな点については以下のようになっていた。
日本の近代化に伴い、皇族もまた通学により学業を修めるようになった。特に、1877年(明治10年)に創設、1884年(明治17年)に宮内省管轄となった学習院には、男女問わず多数の皇族(後に配偶者となる華族子女も含む。)が多数進学している。ただし、昭和中期以前に修学が一般的でない時代においては、婚姻を機とした中途退学や、昭和天皇・香淳皇后のような専属の学問所での教育受講等も珍しくない。
また、先述の通り、旧皇室典範下において皇族男子には軍人となる義務が課せられていたことから、軍学校(陸軍幼年学校、陸軍士官学校および海軍兵学校)に進学し、さらに陸軍大学校または海軍大学校に進学している者も多数いる。
以下には、生まれながらの皇族(親王、内親王、王、女王)であって、学習院または軍学校以外に進学した者を挙げる(義務教育より後のもの。また降下後の進学、卒業後の海外留学を除く。)。
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