日本における高校野球(こうこうやきゅう)は、『公益財団法人日本高等学校野球連盟』(高野連)が主催する野球大会のことである。
日本の高等学校の生徒、高等専門学校の第1学年から第3学年の学生が選手として参加する。
特に毎年、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で行われる2つの全国的な男子硬式野球大会(春季の選抜、夏季の選手権)は「甲子園大会」あるいは単に「甲子園」と呼ばれている。
なお、高等学校野球 (旧制)とは言葉が同じであるが、これは現在の大学野球の前身で全く異なる。現在の高校野球の前身は、旧学制による「中等学校野球」が該当する。1946年以降の学制改革によって再編・継続され、名称も変更されているためである。
日本高等学校野球連盟主催大会への参加資格は大会参加者資格規定第5条第1項に基づき「その学校に在学する男子生徒で、当該都道府県高等学校野球連盟に登録されている部員のうち、校長が身体、学業及び人物について選手として適当と認めたもの」に限られている。したがって女子の試合出場は不可能である。マネージャーおよび監督としての登録は可能であり、2007年の秋季千葉県大会地区予選では鎌ケ谷の斎藤友夏莉が監督としてベンチ入りした例がある。
選抜高等学校野球大会、全国高等学校野球選手権大会の2大会を総称して「甲子園大会」あるいは単に「甲子園」と呼ぶ。通常、新入学生(1年生)の選手は夏の大会のみしか出場できない(春の大会は新学期の2年生、3年生の選手のみとなる)ため、甲子園出場のチャンスは3年間で最大5回になる。
高校女子硬式の大会において、現在、日本高等学校野球連盟は大会運営などに関わっていない。連盟および主要3大会については「全国高等学校女子硬式野球連盟」を参照。
※以降の記述は特記なき場合、男子硬式大会に関するものである。
主催は、全国大会は日本高等学校野球連盟(高野連)と新聞社(春の選抜高等学校野球大会は毎日新聞社、夏の全国高等学校野球選手権大会は朝日新聞社)が行っている。
2010年より選抜の後援に朝日新聞社が、選手権(全国大会のみ)の後援に毎日新聞社が、完成以来両大会の会場を提供してきた阪神甲子園球場が「特別協力」として加わる。また軟式選手権に関しては朝日・毎日両新聞社に加え全日本軟式野球連盟も後援する。
この他、地方大会は各都道府県高等学校野球連盟など(夏の全国選手権出場校を決めるための地方大会は朝日新聞社も)が主催する。
明治神宮野球大会高校の部は日本学生野球協会、明治神宮の主催であり高野連は直接関与していない。 このため運営ルールは大学の部に準じており、コールドゲーム規定や応援ルールなども高野連主催の大会とは異なっている。
春の選抜高校野球、夏の全国高校野球共にNHK地上波テレビ放送、及びNHKラジオ第1で全国中継がされる(国会中継などの特別編成により別媒体での放送あり)。このうちNHK地上波テレビ放送は時間帯によってNHK総合とNHK Eテレのリレーで放送される。原則として、午後0時台(土曜日は大河ドラマ再放送の関係で午後1時台も)は定時番組の視聴者確保のため、午後6時台は夕方の定時ニュース放送のためEテレにリレーする(国会等特殊番組のために本来総合で流すべき時間帯にEテレへ臨時移動する場合もある。選抜期間中は、大相撲春場所のため、幕内の時間に合わせてEテレヘリレーする。後述)。
リレー中継のきっかけとして、1974年(昭和49年)に開催された第56回全国高校野球選手権大会「鹿児島実業対東海大相模」の準々決勝の試合が延長戦にもつれ、午後7時以後定時番組を放送する都合で総合テレビでの放送を打ち切ることになってしまい(ラジオ第1は定時ニュースを休止して中継を続けた)、視聴者からNHK鹿児島放送局に抗議の電話が相次いでしまい、急遽7時のニュースを終えた同7:20から、NHK大阪放送局から裏送りをしてもらう形で、鹿児島向けの中継のみを行った。これがきっかけで、あくる1975年の第47回選抜高校野球選手権大会以後、総合-教育(Eテレ)の相互リレーを行うことになった。
その他、毎日放送/毎日新聞社系列のGAORAでも全試合を全国に中継し、決勝は近畿ローカル(決勝進出校の地元局がネットする場合あり)でMBSテレビでも生中継されている(2002年までは全日程を放送していたが、後述の夏の大会とは違い、近畿地区の各独立テレビ局(非ネット)とのリレー中継は実施していない)。
また、夏の全国高校野球は近畿地区では全国高校野球選手権大会中継として朝日放送テレビ(ABC)でも中継される。これは夏の全国高校野球が朝日新聞社主催のためである。なお昼の一部の時間帯は近畿地区の各独立テレビ局とのリレー中継となる。BSではBS朝日4Kで、CSはスカイAで朝日放送テレビ制作の中継がノーカットで放送される(スカイAは当日ディレイ放送)。また朝日放送のホームページでインターネット配信によるライブ映像が無償で視聴できる。決勝戦と表彰式(閉会式)はテレビ朝日系列全局で放送されていたが、2015年の大会より同試合の地上波放送がネットワークセールス枠からローカルセールス枠へと変更されたことに伴い、同年はテレビ朝日のみ中継がされず、翌年以降は一部の系列局と衛星放送での放送となっている(BSは2021年まではBS朝日でも放送されていたが、2022年からはBS朝日4Kのみでの放送になった)。
2010年夏の大会まではNHK衛星第2放送(1984年-1986年は衛星第1放送)でも放送された。当初は地上波との同時中継だったが、のちに開会式、開幕戦、決勝戦と、東京都と沖縄県の代表の試合に限り放送されるようになった。これは東京都の小笠原諸島と沖縄県の大東諸島に地上波の中継局がなかったことによるものである。
この他、独立テレビ局のある県ではその県の予選大会も中継され、地区大会の準決勝以上となると地元のNHKテレビ(放送エリアが複数地区にまたがる地区では総合テレビで愛知県大会、Eテレで岐阜県大会というようにチャンネルを分けて放送している。決勝も同様)が放送し、地区大会の決勝戦はNHKテレビに加えて地元のテレビ朝日系列局による中継も行なわれる場合がある。
なお、民放テレビでの中継は1957年 - 1958年の2年間、大阪テレビ放送(現在チャンネルとしては朝日放送テレビが系譜)が春・夏を通して独占して放送していた。大阪テレビは現在の朝日放送、毎日放送が合弁出資し、新聞社資本も朝日・毎日双方から受けていた関係による。
高校野球の審判員は高校野球審判員という資格が必要であり、各都道府県の野球連盟の審判部に登録されている高校野球審判員の中から各都道府県高野連理事の推薦により、甲子園に出場する審判が選ばれている。そのため審判員は元高校球児など野球経験者が多いが全てボランティアである。
春の選抜大会で優勝した年の夏の全国大会で優勝することを春夏連覇という。また、夏の全国大会で優勝した翌年の春の選抜大会で優勝することを夏春連覇という。春夏連覇や夏春連覇をすると、優勝校には2つの優勝旗が同時期に置かれることになる。過去に12例がある。
第1回は含まない。
高校野球主要四大大会(年間スケジュール順に神宮・選抜・選手権・国体)全てを制覇した高校は以下の8校である。年は初優勝した年度。
北海道は1959年から南・北に分割され、南北海道代表は函館(渡島・檜山管内全域)・小樽(後志管内全域)・室蘭(胆振・日高管内全域)・札幌(石狩管内全域)の4地区、北北海道代表は空知(空知管内全域)・旭川(上川・留萌管内中南部)・名寄(上川・留萌管内北部及び宗谷管内全域)・北見(オホーツク管内全域)・十勝(十勝管内全域)・釧根(釧路・根室管内全域)の6地区に分かれている。なお2006年まで空知地区は、南空知地区が南北海道・北空知地区が北北海道だった。少子化・過疎化に伴う学校数減少と南北北海道の学校数のバランスを取るために、2007年春季全道大会から南空知地区(南北海道)と北空知地区(北北海道)を空知地区として統一の上、北北海道に編入した経緯がある。
南北海道はかつては札幌地区に有力校が多かったが、進学校化や選手の分散・流出や駒大苫小牧を筆頭とする苫小牧近郊の高校の台頭も著しい。北北海道は旭川地区が圧倒的勢力で、十勝地区がこれに次いでいたが、空知地区の編入により、勢力が移りつつある。名寄地区のみが春夏通じて甲子園出場校を出していない。
かつて北海道は、2004年夏の駒大苫小牧の優勝まではベスト4進出が1928年の北海のみ、ベスト8進出は1931年の札幌商(南北海道)、1961年・1962年・1994年の北海(南北海道)と1995年の旭川実(北北海道)のみだった。春の代表は1963年に北海が準優勝、駒大岩見沢が1983年にベスト8、1993年にベスト4まで勝ち進んでいる。
駒大苫小牧が大会のチーム打率(チーム打率.448を記録)を更新する豪打で2004年夏に北海道勢として初優勝。その駒苫ナインを乗せた飛行機内では、深紅の大優勝旗が史上初めて北の大地へと到達することを記念して、キャビンアテンダントが「みなさま、当機はただいま津軽海峡を越えました。当機には高校野球の甲子園大会で優勝された駒大苫小牧高校の選手や関係者の方々にご搭乗いただいております。甲子園大会の深紅の大優勝旗も、ただいま初めて津軽海峡を越えました」と放送し、乗客はこぞって歓声を上げたという(駒苫の優勝時に発行された北海道新聞の号外では「大旗海峡渡る」と表記された)。続く2005年夏には57年ぶりの夏2連覇、そして2006年夏には優勝こそ逃したものの、決勝で早稲田実業と球史に残る死闘を演じ、延長15回引き分け再試合の末、準優勝。21年ぶりの夏3年連続決勝進出を果たした。
甲子園で北海道のチーム同士の対戦が今までに1度だけある。1994年夏の2回戦、北海(南北海道)対砂川北(北北海道)の試合であり、北海が10-1で勝利を収めた。この大会で、北海は北海道勢として夏は32年ぶりのベスト8進出を果たした。
旭川市より北側の日本最北端に近い地域の野球部として、1993年夏に稚内大谷、2004年夏に雄武、2005年夏・2006年夏・2011年夏・2012年夏に遠軽が北北海道大会決勝に進出したが、いずれも敗退した。2005年夏には日本最東端の根室と最北端野球部の稚内(日本最北端の礼文は野球部が無い)が北大会に出場したが、初戦で敗退した。
2024年現在、最北の出場校は遠軽(2013年春・21世紀枠)、夏では網走南ヶ丘(1967年)である。最東の出場校は別海(2024年春・21世紀枠)、夏では中標津(1990年)である。
甲子園大会ではかつて東北地方以北からは優勝校が出なかったため、関東の高校が優勝して『箱根の関』を越えて以降は、歴史上の関所になぞらえて優勝旗が『白河の関』を越す・越さない、と象徴的に表現されてきた。
しかし2004年・夏の大会において、駒大苫小牧(南北海道)が全国制覇を成し遂げると、それまでの最北だった作新学院(栃木)を大きく更新し、優勝旗は白河の関どころか一気に津軽海峡をも渡り、高校野球史上初めて北の大地に達することとなった(北海道の欄参照)。駒大苫小牧の優勝後、白河市長が苫小牧市長宛てに祝福の手紙を送っている。
東北地方の高校は、2019年春までに春夏合計で12回(春3回・夏9回)も決勝戦まで勝ち進んでいながら、1度も優勝したことは無かったが2022年夏、仙台育英高校が初優勝を果たした。東北地方の学校が優勝していなかった原因については、北海道と同様の不利を挙げられることがある。実際、降雪期から隔たった秋季に行われる国体や明治神宮大会は、優勝校を出すことに成功している。国体でも1952年に盛岡商(岩手)が、明治神宮大会では1977年に東北(宮城)が、それぞれ東北勢として初優勝している。甲子園の決勝進出も2000年代に入って急増しており、地理的な不利は解消されつつあると見ることもできる。
また、1970年代以降に東北自動車道や東北新幹線などといった高速交通網が相次いで整備され、首都圏の強豪校との練習試合や東北地方以外に在住している有力選手を獲得することが容易に出来るようになったほか、2004年に発生した球界再編の影響により宮城県にプロ野球球団の東北楽天ゴールデンイーグルスが創設され、東北野球界の裾野が広がったことも東北地方の高校野球レベル向上に貢献したと指摘する識者もいる。
白河関跡に建立されている白河神社は2009年以降、東北代表の6校に白河関の通行手形を送っているほか、2022年夏に仙台育英(宮城)と聖光学院(福島)が準々決勝に進出した際は東北勢の優勝を祈願する参拝客が東北各県から訪れた。2018年夏に金足農(秋田)、2022年夏に仙台育英(宮城)がそれぞれ決勝戦に進出した際は白河市が白河関跡において、パブリックビューイングを行っている。
また、マスコミ各社は新幹線で帰仙する仙台育英の選手団が新白河駅を通過する瞬間を空撮し、白河神社にも取材が訪れていた。神社から新幹線は見えないが、宮司が新幹線が走っているあたりを見つめる光景などもニュースで放送された。
青森勢の初の決勝進出は1969年夏の三沢。決勝では松山商と延長18回引き分け再試合の激闘を繰り広げ、準優勝。
2011年は光星学院が青森勢としては夏選手権で42年ぶりに、さらに翌2012年春選抜では再び光星学院が青森勢として史上初の決勝進出をそれぞれ果たしたものの、いずれも決勝戦で敗れ準優勝に終わった。ただしこの2大会の間に開催された明治神宮大会では青森勢として初の神宮大会優勝を成し遂げている。
さらに、同2012年夏も光星学院が3季連続で甲子園大会の決勝戦に進出。3季連続の決勝進出は、1983年夏から1984年夏のPL学園以来28年ぶりとなった。また、対戦相手は奇しくも同年春選抜優勝の大阪桐蔭(大阪)とだったが、同じ年の春夏の甲子園大会で決勝戦が同一カードとなるのは史上初だった。「三度目の正直」での優勝を目指した光星学院だった。その2012年夏の大会決勝戦を前に光星学院(現・八戸学院光星)の仲井宗基監督は「いつまでも(マスコミから)白河の関と言われないように結果を出したい」とコメントするほどであった。しかし、又しても大阪桐蔭に敗れて3季連続の準優勝に終わり、悲願の全国制覇はならなかった。
秋田勢は秋田中が1915年夏の第1回全国中等学校優勝野球大会に決勝に進出し準優勝。東北勢としては唯一、学制改革前の大会で決勝に進出している。
平成に入ると、1998年から選手権大会では13年連続初戦敗退という状況が続いた。
2018年夏に金足農が秋田勢として103年ぶりの決勝進出。決勝では大阪桐蔭に敗れるも、準優勝を果たす。
選抜では1960年の秋田商のベスト4が最高成績。
2009年春に花巻東が決勝に駒を進めたが、紫紺旗を長崎にもたらした初の高校である清峰に敗れ、準優勝。翌日の一部スポーツ紙には「津軽海峡は渡ったけどまだ越えられない白河の関」という見出しがつけられた。
選手権での最高成績はベスト4に進出した盛岡中(1917年・1919年)花巻東(2009年・2013年)。
山形県のみ、東北の県の中で春夏とも決勝進出経験が無く、2005年春の羽黒、2013年夏の日大山形のベスト4が最高成績である。2004年春に東海大山形がベスト8に進出するまで春夏通じてベスト8進出もなく、47都道府県で唯一20世紀にベスト8進出がなかった。
1985年夏に出場した東海大山形がKKコンビ擁するPL学園に7-29の惨敗を喫している。
仙台育英(1989年夏・2001年春・2015年夏)・東北(2003年夏)と2021年以前は4度決勝に進出しながら接戦の末、何れも準優勝に終わっていたが、2022年夏、仙台育英が初めて甲子園での優勝を果たした。また、仙台育英、東北ともに明治神宮大会では複数回優勝を達成しており、特に東北は優勝4回と神宮大会最多優勝記録を持つ。仙台育英は2023年夏も決勝に進出したが、慶応に敗れて連覇はならなかった。
2007年より2019年まで選手権大会は聖光学院の独占状態になっていた。福島勢の最高成績は、1971年夏の磐城の準優勝。2022年夏に聖光学院が県勢51年ぶりにベスト4に進出した。
2022年夏に仙台育英が優勝してからは、次は「勿来の関越え」を実現させようという呼びかけがネット上である。
東北の内陸部にある「白河の関」に対して日本海側には「鼠ヶ関」があるが、「白河の関越え」に対して「鼠ヶ関越え」が意識されることはほとんどない。2022年夏に仙台育英が優勝してからは、次は「鼠ヶ関越え」を実現させようという呼びかけがネット上である。
東北地方の日本海側の学校の決勝進出は過去2回。1915年夏の第1回大会の秋田中と、2018年夏の第100回大会の金足農で、いずれも秋田県。山形県はまだ決勝進出経験はなく、青森県の決勝進出は過去4回あるがいずれも太平洋側の市の学校で、青森市を中心とした青森県日本海側の決勝進出経験はない。
人口の多い神奈川県と東京都の優勝回数が他県より圧倒的に多い。関東の学校が全国制覇を成し遂げ優勝旗がその学校にもたらされることを、江戸時代の交通の難所(あるいは関所)になぞらえ「箱根の関を越える」と表現することがあった。初めて「箱根を越した」のは1916年の夏の大会の慶応普通部(東京)、その後1949年の夏の大会の湘南(神奈川)が達成した。
1916年夏に慶応普通部の優勝から湘南の優勝まで33年間の空白があるが、これが関東勢(東京都含む)にとって最長である。
春の優勝は1957年の早稲田実(東京)が最初となった。以後、1962年に作新学院(栃木)が史上初の春夏連覇を達成し、ここで関は箱根から白河に移った。2004年夏に駒大苫小牧(南北海道)が優勝するまでの間、最北端の優勝校だった。
2023年春に山梨学院(山梨)が優勝したことで、関東大会に参加する7県すべてで甲子園での優勝経験があることになった(千葉は選抜、山梨は選手権で優勝経験がない)。
茨城県勢の優勝は3回(夏2回、春1回)だが、いずれも木内幸男率いるチーム(取手二及び常総学院)によりもたらされたものである。
栃木県勢の優勝は3回(春1回、夏2回)。1962年に作新学院が同一年度に優勝し、史上初の春夏連覇を達成した。2016年夏に春夏連覇以来54年ぶりの優勝を果たした。準優勝は3回(春2回、夏1回)。
群馬県勢の決勝戦進出は春夏通じて過去5回。夏選手権は1999年に群馬代表として初めて決勝進出の桐生第一が、群馬県勢として念願の全国制覇を達成した。2013年夏には前橋育英が初出場・初優勝を達成。春選抜は2024年に健大高崎が初優勝。
2017年まで地域分類上の関東1都6県の内、埼玉県勢のみ夏の優勝がなかったが、同年に県勢3度目の決勝進出となった花咲徳栄が初めて夏選手権を制した。なお、春選抜は1968年に大宮工、2013年に浦和学院がそれぞれ全国制覇を達成している。
千葉県勢の決勝戦進出は春夏通じて過去9回(夏6回、春3回)。春の決勝戦進出は過去3回有るが、いずれも準優勝に終わっている。なお、夏選手権では1967年と1975年に習志野、1974年に銚子商がそれぞれ全国制覇を達成した。
山梨県勢は、春は4回、夏は3回ベスト4に進出していたが、2022年夏までに決勝戦へ進出することがなかった。2023年春に山梨学院が決勝へ進出し、かつ決勝でも勝利したことで全国制覇を達成している。
関東勢同士の決勝戦は春3回・夏1回の計4回ある。また1987年夏・1993年夏・2015年夏はベスト4に関東勢が3校進出した。
東海4県(愛知県、岐阜県、三重県、静岡県)は、いずれの県も春夏の両方で優勝経験がある。 東海勢の夏の優勝は、2009年の中京大中京以来ないが、かつては中京商(現・中京大中京)の夏3連覇や、1933年から1941年にかけて春の選抜で東海勢(愛知県、岐阜県)が9大会連続決勝進出し、その内8大会で優勝している。 岐阜県は県岐阜商が戦前からの伝統ある名門校で、春3回優勝,夏1回優勝を誇る(岐阜県の優勝は春夏とも全て県岐阜商が成し遂げている)。 三重県は春夏とも優勝は1回ずつで、静岡県は春4回優勝・夏1回優勝している。
東海勢の近年の全国大会では、2019年の春の選抜で東邦が5度目の優勝を果たし、同年の明治神宮野球大会では中京大中京が優勝している。
愛知県は、中京大中京が春夏最多11度の優勝,夏最多7度の優勝,春夏通算最多136勝,春最多58勝,夏最多78勝,史上唯一の夏3連覇,夏春連覇,春夏連覇を誇り、同じ愛知県の東邦も春最多5度の優勝記録を持ち、中京大中京と東邦の2校だけで甲子園200勝以上しているかなりの強豪県である。 特に東邦は、春に滅法強く夏は準優勝が最高成績であるため、「春の東邦,夏の中京」と地元ではいわれている。ただし、中京大中京は東邦に次ぐ春優勝4回(準優勝4回)と、春最多勝利数を誇っているため、春夏ともに強いといえる。
愛知県の強豪校である中京大中京,東邦,愛工大名電,享栄は「愛知私学4強」と呼ばれている。愛知私学4強のうち、享栄のみ春夏とも甲子園優勝・準優勝の経験がない。愛知県:春【優勝11回、準優勝8回】、夏【優勝8回、準優勝1回】、春夏通算【優勝19回、準優勝9回】。
北信越地方(新潟県・長野県・富山県・石川県・福井県)は、長野の松本商(1928年夏)と飯田長姫(1954年春)、福井の敦賀気比(2015年春)の3校が優勝校。
なお2014年夏には、北信越地区の5校が初の全校初戦突破を果たしている。
新潟県勢は、優勝なし。準優勝は2009年夏の日本文理。なおこの時、47都道府県すべて春夏のどちらかでベスト4進出を果たしたこととなった。春は2006年に県勢初勝利を挙げた日本文理のベスト8進出が最高。
富山県勢は、優勝なし。準優勝もなし。春は新湊のベスト4進出、夏は過去に6回(1947年・1958年・1967年・1969年・1973年・2013年)のベスト8進出が最高。また、富山県に関しては甲子園での私立高校の成績が悪く、2013年夏に富山第一が勝利するまで私立高校の勝利経験がなかった。
石川県勢は、優勝なし。準優勝は1995年・2019年夏の星稜。春は星稜(2024年)のベスト4進出が最高。なお明治神宮野球大会では3度優勝(1980年・1991年・2023年ともに星稜)、国体では1度優勝(1992年星稜)している。
福井県勢は、2015年春に敦賀気比が優勝(北陸勢としても春夏通じて初の全国制覇)。準優勝は1978年春の福井商。夏は若狭(1969年)・敦賀気比(1995年・2014年)・福井商(1996年)と過去4回のベスト4進出が最高。なお明治神宮野球大会では2度優勝(1973年若狭、1974年福井商)、国体では1度優勝(1968年若狭)している。
長野県勢は、1928年夏に松本商が、1954年春に飯田長姫がそれぞれ優勝。準優勝は、春2回(1926年・1991年)、夏3回(1919年・1924年・1930年)。2015年春に敦賀気比が優勝するまでは北信越で唯一優勝経験があった。なお明治神宮野球大会では2度優勝(1979年東海大三、1985年松商学園)、国体では1度優勝(1991年松商学園)している。
2021年夏に松商学園が初戦で高岡商に勝利し、史上初の4元号(大正・昭和・平成・令和)甲子園勝利校となった。
滋賀県を除く5府県は春夏の両方で最低2度優勝経験があり、かなりの強豪地方である。近畿地方の高校同士の決勝戦も何度か行われている。中でも大阪府は春夏とも10回以上優勝している。
兵庫県も強豪県であり、本州の高校の他に、淡路島にある兵庫県立洲本高等学校が優勝を果たしている。但馬地区からは出場校が出ていない。
和歌山県も智弁和歌山を中心に複数の高校が優勝している強豪県である。
奈良県の優勝回数は春夏各2回と上記3府県よりやや少ないが、智弁学園や天理などが実力を見せている。
京都府は龍谷大平安が夏3度制しており、他校より圧倒的に強い。甲子園には京都市内の高校が出場することが多いが、丹波地区にある福知山成美高等学校も実力を見せている。
甲子園のお膝元である近畿地方に属するものの、滋賀県勢は近畿勢で唯一2022年現在春夏とも優勝校がない。滋賀県はかつて夏選手権大会の区分が、1915 - 1972年まで京都府(京津・京滋大会)と、1974 - 1977年まで福井県(福滋大会)と、各2府県と合わせての代表だったが、滋賀県勢の出場が非常に少なかった。滋賀県勢が夏の大会でようやく初勝利を挙げたのは1979年・第61回大会の比叡山で、47都道府県では最後であった。2001年・第83回大会、夏選手権で近江が春夏通じて滋賀県勢初の決勝進出を果たしたが、決勝では日大三に敗れて準優勝となった。春選抜は、2022年・第94回大会で補欠校から急遽出場した近江が決勝進出も、決勝では大阪桐蔭に敗れて準優勝となった。
優勝回数は春12回、夏14回、計26回は全国最多。1980年代まではPL学園を始めとする大阪私学7強と呼ばれる強豪校が揃っていた。1990年代は7強に変わって上宮・大阪桐蔭、2000年代以降は大阪桐蔭・履正社などが実力を見せている。
1982年にPL学園、2018年に大阪桐蔭が選抜連覇を達成。春2連覇達成は歴代で3校のみで、うち2校が大阪勢である。1987年にPL学園、2012年に大阪桐蔭が春夏連覇を達成し、史上初めて同一都道府県から2校目の春夏連覇達成となった。さらに大阪桐蔭が2018年に史上初の2度目の春夏連覇を達成し、大阪としては全国最多3度目の春夏連覇となった。
1998年夏の第80回記念大会では南北に分かれて2校出場となると、PL学園と関大一が揃ってベスト8に進出。夏は東京以外では史上初の同一府県から2校のベスト8進出となった。2017年春の第89回大会では1972年の東京以来45年ぶりの同一都道府県同士の決勝戦となった。
近畿勢同士の決勝戦は春9回・夏9回の計18回あり全国最多である。また2017年春はベスト4に近畿勢が3校進出し、決勝戦は大阪勢同士の対戦。2021年夏はベスト4を近畿勢が独占した。
近畿対三重も1回ある(2014年夏第96回大会 大阪桐蔭4-3三重)(現在高校野球の地区分けでは三重は東海地区に分類される)。
中国地方では人口の多い広島県の優勝回数が他県より圧倒的に多い。中でも広陵高校が春選抜を3度制しており、春の広陵と呼ばれるほど全国的にも有名である。山陰地方(鳥取県・島根県)の高校は甲子園大会優勝経験が未だ一度もない。岡山県勢は春は1965年に岡山東商業高校が優勝したものの、夏は1度もない。
山口県は春夏とも1回ずつ優勝している。2022年は下関国際が決勝に進出したものの、仙台育英に敗れて準優勝に終わった。
岡山県は前述したように春は岡山東商が優勝しているが夏は1999年に準優勝した岡山理大付が最高成績である。また1970年代は複数の大会でベスト4まで進出しており、1969年には準決勝で玉島商が三沢に2-3で敗れている。広島・山口・兵庫・四国など強豪県に囲まれているため弱さが目立つものの人口・天候などによる理由は当てはまらない。
2022年春までの甲子園での通算成績は、鳥取が58勝103敗(春:20勝28敗、夏:38勝75敗)、島根は42勝95敗(春:11勝31敗、夏:31勝64敗)と大きく負け越している。
鳥取県・島根県については、草創期には何度か上位進出があるものの、日本高野連が公表している統計(2014年度)によると鳥取県の高校野球部員数は47都道府県で最少となっている。ただし島根県に関しては徳島県や高知県の方が部員数は少ない。
2018年現在まで山陰地方から決勝進出を果たした学校は、1960年春で準優勝した鳥取の米子東のみである。また2003年夏では、島根の江の川(現・石見智翠館)が、島根県勢として80年ぶり(80年前は松江中=現・松江北以来)にベスト4に進出した(準決勝戦、1-6で宮城・東北高校に敗退)。
さらに鳥取県勢の夏選手権では、鳥取中・鳥取一中(現・鳥取西。1916年・1920年・1924年・1929年)及び米子東(1956年)と過去5回のベスト4進出が最高位。島根県勢の春選抜では、松江商(1961年)及び大社(1983年)のと過去2回のベスト8進出が最高位である。
四国4県も全て春夏の両方で最低1回優勝経験があり(徳島県のみ夏の優勝は1回で他は2回以上優勝している)、全国的にも強い地方と言える。
徳島県だけは、2019年現在私立高校の甲子園出場がない。理由のひとつとして徳島県内に私立高校が3校しかなく、3校のうち硬式野球部があるのが生光学園1校だけということが挙げられる。また、2013年夏に富山第一が富山県の私立高校として初めて甲子園勝利を収めたため、私立校の甲子園勝利がないのも徳島県のみとなった。
九州・沖縄では1947年の夏の大会で小倉中(福岡)が優勝し、深紅の大優勝旗は初めて関門海峡を越え、それまでの最西だった松山商(愛媛)を更新した。小倉中学の春の選抜準優勝に続く夏の全国制覇は九州地区の中学校の野球熱を一段と高めた。この機運に乗って朝日新聞西部本社の運動部長芥田武夫は全国に先駆け、全国中等学校野球連盟九州支部を組織し、秋に第一回九州大会を鹿児島の鴨池球場で開催した。九州大会は大成功を収め、他の地域も翌秋から地区大会を開催するようになる。この秋の地区大会での成績が以後、春の選抜大会出場校を決める際の重要な選考基準になる 。2010年には興南(沖縄)が九州・沖縄勢として初めての春夏連覇を達成。 九州では宮崎だけが春夏通じて優勝がないが、2013年に延岡学院の準優勝経験があるほか1999年の明治神宮野球大会で日南学園が優勝している(#宮崎県を参照)。九州のみで春夏共に優勝しているところは大分(津久見が春夏共に1度優勝)だけで、福岡・佐賀は春の優勝がなく、長崎・熊本・鹿児島は夏の優勝がない。
福岡県は1947年春に小倉中が初めて決勝に進出し準優勝。続く1947年夏に春夏連続で決勝に進出し、岐阜商を6-3で破って九州勢初優勝を達成。深紅の大優勝旗が初めて関門海峡を越えた。この決勝戦は高校野球全国大会史上最短時間試合でもある。翌1948年夏も優勝し、史上4校目の夏連覇を達成した。
佐賀県は1994年夏に佐賀商(佐賀)が樟南(鹿児島)に、9回表に決勝の満塁ホームランで8-4で九州勢同士の決勝戦制して、佐賀県勢初優勝を達成。これは決勝戦史上初の満塁ホームランでもあった。さらに2007年夏では佐賀北が8回裏の逆転満塁ホームランで広陵(広島)に5-4で逆転勝利。佐賀北の優勝は「がばい旋風」と呼ばれた。
春は1955年大会で佐賀商(高田に1-4で敗退)と、1989年大会で龍谷(横浜商に2-13で敗退)のベスト8進出が現時点の最高成績である。
2009年春に清峰(長崎)が初優勝。夏は1952年大会で長崎商、1976年大会で海星、2007年大会で長崎日大がベスト4進出(佐賀北に0-3で敗退)が現時点の最高成績である。
1967年春に津久見(大分)が初優勝。夏は1972年に初優勝した。
1958年春に済々黌(熊本)が初優勝した。夏は熊本工が3度の準優勝があるが、まだ優勝がない。
宮崎県は2013年夏において、延岡学園が決勝進出(前橋育英に3-4で敗れ準優勝)するまで、九州で唯一決勝進出経験が無かった。春では、1984年大会で都城がベスト4進出(PL学園に延長11回・0-1xでサヨナラ敗退)が現時点の最高成績である。
1996年春に鹿児島実(鹿児島)が初優勝した。
沖縄県は、アメリカ管轄下にあった1958年に甲子園初出場。1988年の国体で沖縄水産が優勝、1990年と1991年の夏の甲子園で沖縄水産が準優勝、1999年春の選抜で沖縄尚学が沖縄勢として甲子園初優勝を果たし、優勝旗が海を渡った。翌日の新聞紙面も「優勝旗が海を渡る」などと表現した。また、それまでの最南端優勝校だった鹿児島実(鹿児島)を更新した。2010年に興南が沖縄勢として夏の初優勝と、史上6校目の春夏連覇を達成した。
沖縄では夏の大会では1977 - 78年に宮古、1988年に八重山がそれぞれ県大会準優勝とあと一歩のところで甲子園出場を逃しているが、2006年夏に八重山商工が出場(同年選抜で沖縄県の離島勢として初めて出場した)し、2勝を挙げている。 八重山商工の他、沖縄本島以外の「島」からは久賀(現周防大島・山口:1962年春、1999年夏)、隠岐(島根:2003年春)、洲本(兵庫:1953年春、1975年夏、1986年春、2012年春)、佐渡(新潟:2011年春)、大島(鹿児島:2014年春、2022年春)、小豆島(現小豆島中央・香川:2016年春)、大崎(長崎:2021年春)が甲子園に出場している(八重山商工、大崎、大島(2回目)以外の2001年以降の出場校は何れも21世紀枠)。 離島による甲子園優勝は、沖縄本島を除くと1953年春の洲本のみである。
第二次世界大戦前は、日本領である台湾、朝鮮、満洲租借地といった外地の学校も予選および全国大会に参加していた(春は台湾のみの参加)。1921年の夏の第7回大会に釜山商(釜慶高等学校)(朝鮮)、大連商が外地の学校として初出場していた。準優勝した例もあったが戦後、台湾・朝鮮・満州らは日本領では無くなったため参加がなくなった。
選抜大会では出場対象の学年が2学年しかないことから、部員の総数がベンチ入り選手制限に満たない高校の快進撃が時折起きた。有名処では1974年の池田(徳島…部員11人で準優勝)、1977年の中村(高知…部員12人で準優勝)があり、1987年は大成(和歌山)、2017年は不来方(岩手…21世紀枠での出場)が部員10人で選抜大会に出場した。 また、2023年の春には城東(徳島…21世紀枠での出場)が部員13人(内1人は女子マネージャーであり、初めて女性によるノッカーを務めた)で選抜に出場した。
日本高等学校野球連盟(高野連)の大会参加資格規定では、「参加チームは、その学校の代表であることを要する」としており、原則として1校1チームでの出場が求められるが、本校との距離等の問題で本校と同一チームと出来ない分校は高野連に単独加盟することができる。この例が適用され、都道府県大会に参加した学校は複数存在するが、実際に全国大会に出場した経験を持つ学校は、1997年の選抜大会に出場した日高中津分校(和歌山)のみであり、夏の選手権大会に出場した分校チームはない。
また、1997年の規約改正で全国高等学校体育連盟の定めた指針に準じる形で、学校が統廃合される場合に限り各都道府県高野連の承認を得た上で、新旧学校による連合チームの出場が認められるようになった。同年の高知大会では高岡宇佐分校・高知海洋の連合チームが出場した。逆に野球部側の希望で連合解消もできる。また、2011年には東日本大震災に被災して部員数が減少した高校同士による連合チームの出場を容認する特例措置を設けられていた。2012年夏の選手権地方大会からは条件が大幅に緩和され、部員が8人以下の学校同士による連合チームの結成や部員を他校から借りるケースが認められるようになった。 これらの形で各都道府県大会に出場する連合チームがあるが、春・夏の甲子園に出場した連合チームはまだない。
中高一貫校では中学3年の夏の大会終了後に高校の野球部の練習に参加できる特例がある。
出場校の不祥事(暴力事件やその他の問題行為、出場選手の期末試験免除等学校側の規約違反など)により地方大会、及び全国大会の出場を辞退するケースがある。これらは後日高野連からの処分も受けることもある。また地方大会では規定人数未満などやむを得ない理由で出場を辞退したケースもある。全国大会では第8回の新潟商が出場直前に急病人が続出し、出場を辞退している。以下は選抜大会・選手権大会における全国大会出場決定後に辞退した学校の一覧。
夏の大会から9年後に春の大会が始まった。回を重ねるごとに春夏の甲子園出場の高校が増えてくる一方で、夏の甲子園しか出場できていない高校もある。原則1府県1校の夏と違い、春は1地区2、3校と甲子園の出場枠が狭いため、特に夏に比べ枠の数が少ない地区で顕著である(例:東北地区、北信越地区)。
北海道の旭川志峯(旧北日本学院→旭川大)は1968年夏に甲子園へ初出場を決め、夏には10回出場しているが、春の甲子園には一度も出場していない。新潟の中越は1978年夏に甲子園へ初出場を決め、2018年夏に新潟県勢最多の11回目の夏の甲子園出場となったが、春の甲子園には一度も出場していない(1978年と2015年は選抜補欠校になっている)。また岩手の福岡(旧福岡中)も1927年夏から1985年夏まで10回甲子園に出場しベスト8進出も2回あるが、春の甲子園には一度も出場していない(1928年と1929年には、選抜されたが予算不足で辞退。1980年は選抜補欠校になっている)。夏の甲子園に2ケタの出場経験があり春出場なしというのは旭川志峯と福岡と中越の3校しかない(戦前は満州・朝鮮・台湾からも出場があり、満州の大連商が夏12回出場し準優勝もありながら、春の出場がないという例がある)。長年福岡が春未出場の夏の甲子園最多出場校として知られていたが、2018年に中越が抜いた。
また佐賀北は夏5回の出場があり2007年夏には優勝経験があるが、春の甲子園には一度も出場していない。夏の甲子園優勝経験がありながら春の甲子園に出場経験がない学校は佐賀北と三池工(優勝した1965年夏のみの甲子園出場)の2校のみである。
2ケタ以上の甲子園勝利がありながら春の勝利がない学校は2024年現在、浦添商で夏は4回出場し10勝。春は1回出場のみである。
主に夏に強い学校を「夏将軍」「夏の○○」と呼ぶ。北海道の駒大苫小牧、京都の龍谷大平安(旧平安中→平安)、広島の広島商、愛媛の松山商、高知の明徳義塾(旧明徳)、沖縄の沖縄水産などが代表例である。
春の出場のみという高校は、2022年夏現在、甲子園の出場回数は最高でも4回である。兵庫の三田学園、福岡の博多工がそれぞれ4度春の大会に出場しているが夏の出場はない。その2校と同じく春に4回出場した東京の二松学舎大付は、春は準優勝の経験がありながら夏は東京大会・東東京大会の決勝で10回敗れていたが、2014年に初出場(以後は春夏ともコンスタントに出場)。同じく東京の国士舘(春10回・夏1回)は2005年に夏の初出場を果たすまで春は7回出場し、夏の未出場校では最多だった。山口の岩国(春7回・夏5回)は2000年まで春は6回の出場があったが、夏は2000年が初出場だった(ちなみに春夏通算8回目の出場となった2003年夏にベスト8に進出するまで甲子園未勝利だった。春はまだ勝利がない)。
博多工は過去3度夏の福岡大会決勝に進出するも、現在のところ夏の甲子園出場は実現できていない。他に和歌山の海南(旧海南中、春14回・夏4回)や大阪の上宮(春8回・夏1回)のように、春の出場回数の方が極端に多い学校は出場枠の多い大都市圏を中心に多数存在する。例えば神奈川の東海大相模(春12回・夏11回)は、2000年、2011年、2021年のセンバツを制覇したほか、1992年(準優勝)、1995年、2005年、2006年、2018年と近年もセンバツで好成績を残しているが、夏の甲子園は1977年の次の出場が2010年(準優勝)であった(その後、2015年に優勝)。
春夏両方の出場経験はあるが、勝利したのは春だけという高校も存在し、香川の丸亀城西(旧丸亀商)(春9回・夏5回)、兵庫の県尼崎(春4回・夏1回)は春は7勝しているが夏の勝利はない。北海道の北照は(春5回・夏5回)春はベスト8を2回経験しているが夏の勝利はない。和歌山の田辺(旧田辺中)(春3回・夏1回)春は2勝しているが、夏の勝利はない。なお、和歌山の向陽(旧海草中)は出場回数は春15回・夏7回と倍の差があるが、勝利数は春7勝・夏14勝と逆転している。夏は1929年に準優勝、1939年・1940年は連覇を達成しているが、春はベスト8が最高である。
主に春に強い学校を「春将軍」「春の○○」「桜の○○」と呼ぶ。愛知の東邦(旧東邦商)、愛工大名電(旧名古屋電工→名古屋電気)、広島の広陵(旧広陵中)などが代表例である。
新設の野球部(主に女子校の共学化が多い)が突如として地方大会や全国大会を勝ち進むことがある。選手権大会では、駒大苫小牧(南北海道)は1966年に、明野(茨城)は1979年に、共に創部3年目で出場した。選抜大会では、八千代松陰は1980年に、東筑紫学園は1993年に、上宮太子は2000年に、共に創部3年目で出場した。済美(愛媛)は創部2年目の2003年の夏までは目立った成績はあげられなかったが、その年の秋の四国大会でいきなり優勝し、2004年春の選抜でも快進撃は続き優勝、夏の選手権で準優勝(共に初出場)に輝いた。同様な例に、神村学園(鹿児島)の2005年春選抜準優勝などがある。また、2002年夏の選手権で、創部2年目でベスト8に進出した遊学館(石川)は実質創部1年4ヶ月後である。2011年春の選抜に出場した創志学園(岡山)は前年春の創部後、全員1年生で秋季中国大会準優勝を果たし、創部2年目で甲子園出場となった。この記録は史上最速で全国大会に出場した記録である。しかし結果は初戦敗退に終わった。なお創志学園は2010年、2011年夏の岡山大会は初戦で敗退しており、2012年夏に初勝利を挙げるまで甲子園出場経験がありながら夏の地方大会未勝利という珍しい状況であった。
2016年・第98回選手権大会では、日本全国にキャンパスを展開する通信制高校クラーク記念国際の本部校(北海道深川市)が北北海道大会を制し2014年春の創部から3年目で、通信制高校としても初の夏の甲子園出場を果たした。なお同校は前述した創志学園の兄弟校でもある。
2014年・第96回選手権大会の秋田代表・角館(2代目)は角館(初代)と角館南が合併しこの年の4月に開校した。これにより「前身校に甲子園出場経験がない新設合併開校1年目の高校による夏の甲子園出場」が実現したが、合併相手の角館南は女子校であり、他の男女共学の高校とは合併していないため、秋田高野連発行のパンフレットでは角館(初代)の開校・創部年(1925年開校・1931年創部)が引き継がれている。この事例を適用した場合、創部1年目…すなわち甲子園出場経験がない男子硬式野球部がある男女共学の複数の高校が合併し誕生した新設合併校の開校1年目での夏の甲子園出場、あるいは競技そのものに新規に参入した選手が全員1年生の高校の夏の甲子園出場は、未だかつてない(2022年現在)。
都立高校は、夏の地区予選である東京大会が東西に分かれた1974年まで甲子園には出場できず、初出場したのはエース・市川武史を擁した1980年夏の国立とかなり遅い(箕島に0-5で敗戦。現在も国立は西東京代表唯一の都立校である)。その後城東が1999年と2001年の夏に、2003年夏にも雪谷が出場した。また、選抜高等学校野球大会においては西東京の日野が2002年、2010年、2017年の3大会に21世紀枠推薦校として選出され出場とはならなかったが、2014年には同じく21世紀枠として選出された東東京の小山台が初めて都立高校として出場した。しかし前述の夏の大会を含めいずれも勝利を挙げることは出来ていない。つまり100年近く続いている大会で東京都のみ公立高校が甲子園大会で勝利しておらず、長い甲子園大会の歴史とは裏腹に都立高校にとって甲子園は程遠い存在となっている。その理由として歴史的に東京では私立高校を多く抱えていることが大きい。よって都立高校に甲子園出場の可能性が出てくるだけでも都立の星と報道される場合が珍しくない(都立高等学校参照)。全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)東京大会、東西東京大会では甲子園出場経験のある小山台(1949年、2018年、2019年)、雪谷(2009年)を含め、日比谷(1946年)、東大和(1978年、1985年)、日野(2013年)が準優勝し甲子園出場をあと一歩のところで逃している。
町立高校は、1993年の選抜大会で知内(北海道…知内町立)が出場している。市町村合併により、市立に転換することが多く、町立は15校(北海道14校、福岡県1校)、村立高校は北海道に3校しかない。
また県境をまたぐ通学圏を持つ学校は「組合立高等学校」と呼ばれ、利根商(群馬…利根沼田学校組合立)が第4回明治神宮野球大会(高校の部初年度)に出場している。
大智学園は通信制であるが、株式会社立の高等学校となっている。定時制・通信制高等学校の大会に出場経験はあるものの、甲子園・神宮大会などの出場経験はない。通信制高校では前述したようにクラーク国際が出場しているため、大智学園も高野連に登録すれば出場できると考えられる。
日本学生野球憲章では都道府県の高等学校野球連盟に加入できない特別支援学校(学校教育法の扱いが異なる)の出場を認めていない。しかし1983年、『北城ろう学校高等部』が当時の高野連会長牧野直隆の計らいで特例として沖縄県予選に出場を果たした。この話は戸部良也『青春の記録 遥かなる甲子園 聴こえぬ球音に賭けた16人』、小野卓司の『廃校の夏〜風疹児たちのプレイボール』(講談社刊)としてノベル化や映画化された。2015年秋からは鹿児島高等特別支援学校の選手が連合チームに参加しているほか愛知県の豊川特別支援学校の生徒が5校連合チームに参加している。
また東京都立青鳥学園特別支援学校の久保田浩司教諭が特別支援学校の生徒に甲子園を目指すサポートをする「甲子園夢プロジェクト」を設立し、神奈川の慶応の練習に特別支援学校の生徒が参加するなどの実績もある。
和歌山中学(現・桐蔭)は1915年夏の第1回大会から1928年夏の第14回大会まで14年連続出場し、14年連続出場は現在でも甲子園史上最長記録である。戦後の連続出場最長記録は2007年夏から2019年夏までの聖光学院の13年連続である(選手権大会が中止となった2020年夏も代替大会で優勝しており、これを含めれば14連覇である。2021年は福島大会の準々決勝で敗退。この年に出場したのは日大東北)。
2011年までは1998年夏から2004年夏まで続いていた明徳義塾の7年連続が戦後の連続出場最長記録だった。2005年夏に8年連続出場を決めていたが不祥事による出場辞退で連続甲子園出場は止まってしまった。2012年に智弁和歌山が8年連続出場とし、戦後の連続出場を更新。これを2015年に聖光学院が9年連続とし上回った。明徳義塾はその後2010年夏から2017年夏まで8年連続出場した。7年以上の連続出場を2度達成したのは明徳義塾が史上初である。
岐阜商・長良(現・県岐阜商)は1932年春の第9回大会から1951年春の第23回大会まで戦争による中断期間を挟んで15年連続出場し、15年連続出場は現在でも甲子園史上最長記録である。戦後の連続出場最長記録は1966年春から1971年春までの平安(現・龍谷大平安)の6年連続である。
和歌山中学は1915年夏から1929年春の第5回大会まで12季連続出場し、こちらも甲子園史上最長記録。戦後の連続出場記録は1986年夏の第68回大会から1990年夏の第72回大会までの福井商の8季連続出場。
花巻東は2005年夏から2015年夏まで奇数年のみの1年おきに出場という珍事が6回続いていた。6回というのは隔年出場の最長記録である(2017年夏の出場を逃し隔年出場記録がストップしたが、2018年夏と2019年夏に初の連続出場を果たした)。
春の選抜で21世紀枠は松山東が82年後(前回1933年、次回2015年)、一般選考枠は県和歌山商が70年後(前回1937年、次回2007年)に出場。夏の選手権は関西学院が70年後(前回1939年、次回2009年)に出場している。
私立学校で兄弟校又は系列校同士が対戦することもある。
全国大会が発足してしばらくは、大学野球経験者が大会に出場することがあった。また初期の選抜中等野球では、年齢制限がなかった。
1918年、全国大会に出場した慶応普通部(東京)の山口昇は、慶応大学部の選手として大学野球経験があった。山口は全国大会出場時は中学5年だったが、当時の大学野球の規約では系列校であれば大学生でなくても大学野球に出場できた。また、1920年、全国大会に出場した豊国中(福岡)の小方二十世は出場時19歳であり、法政大学の選手として大学野球経験があった。当時の中学野球の規約では選手の年齢制限はなく、在籍生を学校長が代表選手と認めればどんな選手でも出場できたため、このような現象が起こった。
1922年に規約改正が行われ、以降は大学野球経験者が出場できなくなった。
1927年の第4回選抜大会に田部武雄が、広陵中の投手として21歳で出場している。田部は同年夏の選手権大会には、「年齢制限」ではなく「他チームでの在籍は1年のみ」という制限に引っ掛かり出場できなかった。また、1931年の夏の選手権大会に上松耕一が嘉義農林の選手として26歳で出場している。
戦後も年齢制限を超えながら出場特例が認められ、甲子園に出場した選手が何人かいる。1956年の夏大会で甲子園に出場した米子東(鳥取)の長島康夫は、外地からの引揚者であり大会出場時には19歳になっていたが、高野連は事情を考慮して、予選1ヶ月前に特例を設けて長島の出場を許可している。その後、中学卒業後に1年以上何らかの事情で高校に進学できなかった選手に関しては、満19歳でも出場資格が得られる規則になっている。1999年の春大会で甲子園に出場した明徳義塾(高知)の森岡エーデル次郎は、ブラジルからの帰国子女のため学年がずれ、大会出場時には満19歳(20歳になる年度)になっていたが、特例が認められ出場した。この森岡は1980年の早生まれだが、ブラジルの中学を卒業後に日本の高校野球を目指し、祖父母ゆかりの高知県に渡った。そこでひとまず日本語習得の為に明徳義塾中学校に編入した。そして1997年度に明徳義塾高に入学した際、学校側が早生まれを見落として選手登録(森岡は1979年度の生まれだが1980年度生まれと誤認)をし、また高野連もそれに気付かずに許可を継続していたので、いわば過失相殺の意味があっての正に特例中の特例と言える。その為、森岡は在校3年目だが、その3年目となる1999年センバツ以降の公式戦は出場できなかった。この1999年センバツ2回戦、敗北した海星戦が最後の公式戦となった。森岡のように帰国子女生徒の学年が2学年ずれるのは非常に稀であった(2005年春に羽黒の主戦投手として出場した新3年生の片山マウリシオは1987年1月生まれの早生まれだったが、これまでの日系帰国子女選手には早生まれの選手が目立った)。
その後も1983年春夏の仲田幸司や2010年春の大湾圭人(ともに興南)、2004年春の蕭一傑(日南学園)、2014年春の蔡鉦宇(八戸学院光星)など、19歳になる年度(4月1日時点で満18歳)の大会に出場した選手は何人かいる。前述の米子東や東筑など、地方の進学校の3年生選手には、19歳になる年度の大会への出場が過去に見られた。
前述の森岡の一件から規則が一部改められた。中学卒業の翌年度に何らかの理由で高校に進学せず、高校入学が通常より2学年遅れとなる18歳になる年度(4月1日時点で満17歳、中学卒業までに原級留置が2年あった場合を含む)になった選手は、高校2年の学年末まで試合出場可と改められた。ただしセンバツ大会では、前年度の大会でもあり新年度の大会でもある側面を持つ為、最長で新3年生となる年のセンバツ大会決勝まで出場可となった。森岡が出場した海星戦は、文字通り新年度となる4月1日に行われたが、今後2学年ずれて入学した選手が学齢で最も早い誕生日となる4月2日生まれの選手であった場合、センバツ大会で上位に進出すれば20歳で出場することもあり得ることになる(この制度が設置される以前の2学年遅れの高校入学者としては林威助が知られており、林威助もまた早生まれである)。
中学卒業の翌年度に何らかの理由で高校に進学せず、高校入学が通常より3学年遅れとなる19歳になる年度(中学卒業までに原級留置が3年あった場合を含む)になった選手についての取り扱いは、特にされていない。
規約では高野連に部員登録をしたことがある生徒が、正当な理由(廃校や家族を伴う転居など)以外で転校した場合、新たな学校への転入の日から1年間は公式戦に選手登録することができない(前学校で高野連に部員登録がない場合は登録可能)。部員登録をしたことがあっても中退・再入試を経て別の学校に入学すれば、公式戦に出場できる。ただしこの措置は、公式戦における通常(3年夏まで)の選手登録を保証するものではなく、選手登録は高等学校または高等学校に準ずる学校への在籍期間が3年以下の選手に限り認可される。例えば1年の途中で中退し、翌年度別の学校に入学すると、3年の選抜大会に出場しない限り2年秋までしか選手登録はできない(前述の大湾や蕭はこれに該当する。また前学校に野球部が存在しない場合は除く)。同様に、同じ学校内で軟式から硬式、硬式から軟式への転部した場合も、1年間公式戦に選手登録できない(部員不足の部の救済などの場合を除く)。
家庭の事情を考慮した特例(一家転住)もあるが、過去には1998年秋季中国大会で開星は一旦は優勝を果たし、明治神宮野球大会にも出場したが、試合に正選手として出場していた選手2名(ともに1998年1月に埼玉県より転入学)が、選手登録できない選手(1998年3月に家族とともに島根県に住民票を移していたが、家族は選手が1998年5月に選手登録されてすぐに埼玉県に住民票を戻しており、家庭の事情とは言い難い)と判明し、この2選手が出場した明治神宮野球大会1回戦までの15試合の記録と秋季中国大会優勝が取り消されたことがある。
現在、1人の選手が甲子園に出場できる回数は最大5回まで。しかし、学制改革前は旧制中学が5年制のため6回以上甲子園に出場することが可能であり(ここには学制改革が行われた直後の高校生を含む)、理論上は1人の選手が10回出場することが可能だった。1人の選手による最多出場回数(ベンチ入りを含む)は岡村俊昭、波利熊雄、光林俊盛(いずれも平安中、現・龍谷大平安)の9回、試合に出場した回数に限ると岡村と小川正太郎(和歌山中、現・和歌山県立桐蔭高校)の8回が最高。田中雅治(海草中、現・和歌山県立向陽高校、のち朝日軍)は1937年夏(ベンチ入りのみ)から8季連続出場、1941年夏の第27回大会に出場すれば9季連続出場であったが、戦争の影響により同大会が地方大会途中で中止となったため叶わなかった。また初期の選抜大会には年齢制限がなかったためか、小林政重(松本商、現・松商学園)は同大会に6回出場している。
学制改革後に、5回すべてに出場した選手は堤達郎(高松商・1977年〜1979年)、荒木大輔(早稲田実・1980年〜1982年、のちヤクルトスワローズ他)、小沢章一(早稲田実・1980年〜1982年、荒木と同期の選手)、黒柳知至(早稲田実・1980年〜1982年、同上)、清原和博(PL学園・1983年〜1985年、のち西武ライオンズ他)、桑田真澄(PL学園・1983年〜1985年、のち読売ジャイアンツ)、梅田大喜(明徳義塾・2002年〜2004年)、鶴川将吾(明徳義塾・2002年〜2004年)、道端俊輔(智弁和歌山・2009年〜2011年)、黒川史陽、西川晋太郎、東妻純平(いずれも智弁和歌山・2017年〜2019年)の12人。堤、黒柳、東妻の1年夏はベンチ入りのみ。
そのうち清原和博と桑田真澄は史上唯一5季連続でベスト4以上に進出し、優勝2回、準優勝2回という記録を残した(KKコンビ)。荒木大輔は1年夏からエースとして5季連続で甲子園に出場したが1度も優勝することはできず、学制改革後唯一の甲子園5敗を記録した投手になった。
保護者と同居し中学校に在学していた都道府県から、公立・私立を問わず遠方の都道府県の特定の学校へ進学をする例、あるいは「スポーツ推薦」で他地域の高校へ進学する例が増えた。これらは一般的に「野球留学」と称されるが、高校野球における野球留学は「保護者が同居する自宅からの通学者以外の者」、をいい、他の都府県の中学校出身の生徒であっても保護者が同居する自宅からの通学者は越境通学であり、地元の高校に進学した選手でも親元を離れ寮や下宿で生活をする者は全て野球留学となる。
これは戦前から佐藤平七(育英商)、沢村栄治(京都商)のように野球留学する例や、学校自体が多くないため仕方なく遠方の学校に進学し野球部に入部する例などがあった(当時は進学を機に本格的に野球を始める例が多かった)。1990年の第62回選抜大会で複数の出場校で選手の半数以上が県外の生徒だったことから、選抜大会終了後に行われた衆議院の文部教育委員会で社会党の沢藤礼次郎議員が野球留学について触れ、「こういうこと(野球留学)は果たして良いのか」と文部省に質問した。文部教育委員会の議論を受け高野連は1990年5月、高校側から中学生の勧誘を戒める通達を出している。
以前、高野連が県外から入学している生徒にその理由を尋ねたところ、「高校数・生徒数が少ない都道府県の学校に入学すれば、全国大会に出場する難易度が低くなる」ことを理由として挙げた生徒が一番多く、次に多かったのが「学校の環境や施設の充実、良い指導者(監督)がいるため」で、「学費や寮費の減免や高校側からの勧誘」は3番目、4番目に多い答えだった。また2007年に行われた高校野球特待生問題有識者会議でも全国大会に出場する難易度が低くなることや学校の環境や施設の充実を理由に野球留学をすることは問題視していないことが明らかにされている(野球留学をしたからといってチームのレギュラー入りや全国大会出場が簡単に出来るわけではないので)。
日本学生野球憲章で禁じられている(教育基本法や学校教育法では禁止していない)はずの野球による特待生制度が報じられたこともある。2007年春には高野連と朝日新聞社が、特待生の糾弾と根絶をめざすキャンペーンを始めたが、有識者からの反対意見や、生活困窮者がやむを得ず学費や寮費の減免がある学校へ特待生として進学した現状を高野連も考慮、結果として、高野連や朝日新聞の意図とは逆の方向に日本学生野球憲章が改変され、特待生は条件付きで容認することになった。ただし、前述の特待生の糾弾と根絶をめざすキャンペーンの対象は特待生全体ではなく、生徒たちを有力高校に斡旋し金銭を得ていたブローカーの問題や有力校からの勧誘を歓迎する一部の保護者たちであった。また高野連は特待生制度の改革を理由とした転校者、退学者を出すことは改革の本末転倒になるとし十分な緩和措置を講じた結果、転校者、退学者は一人も出なかったとしている。
公立校では体育科を設置しスポーツ推薦を行ったり、商業科など実業系の学科や総合学科に選手を集めるなどして強化を行っていた。また一般的に進学校とされる学校の中には秋田、静岡、今治西のように、一般推薦の中に「野球部枠」のある学校も存在する。強豪校の監督の中には福井商・北野尚文、池田・蔦文也(蔦に関しては、徳島県教育委員会が池田高校の全日制と定時制を交互に異動させていた)のように、教員でありながら長年にわたり同じ学校で指揮を執り続けるケースもある。また、観音寺中央が他県出身の中学生を3年次に地元中学に転校させたり、鵡川が同一都道府県における通学圏外の選手を多数入部させるなどしていた(2002年春に21世紀枠で出場した際はベンチ入り16人中10人が地元・胆振支庁の出身ではなかった)というケースもある。なお2000年代以降は、公立校の全国募集が一般的となっており、進学の支障は無くなりつつある。
従来は蔦文也のようにプロ球団退団後1年間を経るなどすれば監督登録されることが可能だったが、1962年に規定改正(柳川事件を参照)が行われて以降、プロ野球経験者がアマチュア野球の監督に就任することは、相当な困難を伴うことになった(高校野球では1984年に指導者としてのアマ復帰が可能となったが、元プロ野球選手が高校野球チームを指揮する場合、少なくとも高野連加盟の同一高校で10年以上教職員として教鞭をとった上で、日本学生野球協会主催の審査により高校野球指導者としての認定を受けなければいけなかった。その後1994年には5年、1997年には2年と短縮された)その後教員免許や教職経験が無くとも指導が出来るようにプロ・アマ間で検討が行われ、2013年7月1日からは学生野球協会と日本野球機構が実施する学生野球資格回復研修会を修了し、学生野球協会の認定を得れば高校生の指導が可能となった。
南海(現ソフトバンク)やロッテなど5球団で打撃コーチを歴任した高畠導宏は、高校野球の監督を目指し、日本大学教育学部・通信課程に入学。教員免許を取得したが指揮を執らず死去した。この話は高橋克実主演で、2008年1月~2月にかけて『フルスイング (テレビドラマ)」で放送された。
試合で勝負を決した後、勝利校の校歌演奏と校旗掲揚が行われている。
これを発案した人物は、大阪毎日新聞の記者だった人見絹枝である。人見は1928年のアムステルダムオリンピックの女子800mで日本女子陸上初となる銀メダルを獲得しており、このときの表彰式での国歌演奏・国旗掲揚に感激してこれを発案、1929年の春の第6回大会から始められた。最初に校歌演奏と校旗掲揚を行った学校は、八尾中(大阪)だった。阪神甲子園球場での全国大会では、阪神園芸の職員が校歌のテンポ・長さに合わせてスコアボードの裏で手動で掲揚している。
夏の大会での勝利校の校歌演奏と校旗掲揚は、春の大会より28年遅れて、1957年の第39回大会から始められた。最初に校歌演奏と校旗掲揚を行った学校は、坂出商(香川)だった。夏の大会では「校歌演奏」とアナウンスされるが、春の大会では「校歌斉唱」とアナウンスされる(初戦の2回攻撃前は「校歌演奏」とアナウンスされる)。なお、地方大会では、校歌演奏(斉唱)のある地区とない地区に分かれる。
雨天コールドで勝利した場合、雨に濡れた選手や応援団の体調を考慮し、校歌演奏を省略することがある。また引き分け再試合が決まった場合は両校の校歌は当然のことながら演奏されない。
こうした校歌演奏等は勝利校のみを対象に始められたが、1999年の第71回選抜大会から春・夏の各甲子園大会の初戦の試合中(2回表裏前)に両校の校歌が場内に流されている。千葉県など一部の地区ではこれに倣い、初戦のみならず全試合において2回に両校の校歌を流しているほか、試合前のシートノック中に校歌を流す地区もある。 7回裏の後、校旗が一旦降納され、試合終了後に勝利校の校旗が掲揚される。
夏の甲子園では主催者側が男声合唱による音源を用意するが、センバツや夏の地方大会では学校側のものが使われる。
センバツは勝利校の校歌はスコアボードに映像と歌詞が表示される。
済美(愛媛)のように、校歌が制定されているが別の応援歌や学園歌が演奏されることもある(済美は女子校から共学化したのを機に「学園歌」が制定された)。
なお、大学の系列・係属・提携校で高校独自の校歌が未制定である場合、母体の大学の校歌が演奏されることがある(近大付や駒大高、駒大岩見沢、駒大苫小牧、日大東北、国学院久我山、国学院栃木、山梨学院、早稲田佐賀、東北学院等)。また同じく独自の校歌を持たない天理(奈良)の場合は「天理教青年会歌」が演奏される(ただし、2009年から同歌が正式に同校の校歌に制定された)。校歌未制定かつ大学系列校でもない場合、夏の選手権大会では大会歌の「栄冠は君に輝く」が演奏される。こうした学校や校歌に相当する楽曲の呼称が「校歌」ではない学校(済美、高知の「学園歌」、天理の「青年会会歌」、慶応義塾系列校の「塾歌」、国士舘の「舘歌」など)においてもアナウンス上は「校歌」で統一される。
校歌が一定の長さ以上の場合、省略したものを用いる場合がある。最近では済美、千葉経大付などが該当する。池田(徳島)は1番と4番(実質大サビ)をつなげたものを使用。また沖縄水産や鹿屋中央(鹿児島)は校歌3番を斉唱している(鹿屋中央は、校名が3番にしか入っていないことが理由)。花咲徳栄(埼玉)の校歌は1〜4番でそれぞれ春夏秋冬を題材にしており、春の大会では1番、夏の大会では2番、秋の地区大会では3番を斉唱する。連合チームの場合は試合ごとに1校の校歌のみを演奏する。
また甲子園大会において大会本部の不手際により、本来のものとは異なる校歌が流れたり、校歌が途中で止まってしまった場合がある。
現在では甲子園での最後となった試合の後に選手が土を拾って持ち帰ることが伝統となっているが、いつごろに定着したかははっきりしていない。定着する以前の具体的な持ち帰り事例には以下の3例がある。
学校や指導者の方針によっては土を持ち帰らないことがあり、監督として春夏通算10回出場した野々村直通は試合に敗れても選手に土を持ち帰らせなかった。また出場機会を残す選手が「次も来る」という意思表示で持ち帰らないケースもある。特に春の大会では常連校ほど持ち帰らない傾向にある。
1958年当時の沖縄はアメリカ統治下にあった。その夏の大会で、春夏を通じて初めて沖縄から首里が出場。1回戦で敦賀(福井)に敗戦し、試合終了後に甲子園の土を拾った。しかし検疫の関係で沖縄に持ち帰ることができず、帰郷後処分されたという。外国の土・動植物を検疫を経ずに持ち込むことはどこの国でも法で禁じられているが、沖縄以外のもの(外国や日本本土も含めて)という理由での処分にも関わらず、那覇港の沿岸に捨てられている。なお、那覇港にてアメリカ人職員が高圧的に没収したわけではなく、沖縄の係官が申し訳なさそうに「規則なので…」といった感じでの没収だったため、申し出ずに土を持ち帰った高校生もいたという。それを知った日本航空の客室乗務員有志らが、球場周辺にあった海岸の石を拾い首里に寄贈。同校庭に、今も甲子園初出場を記念した「友愛の碑」というモニュメントとして飾られている。また、これがメディアで扱われ、沖縄返還運動を加速させる一端ともなったといわれている。
2020年6月8日、新型コロナウイルスの流行により同年夏の大会が中止になったことをうけ、阪神タイガースの矢野燿大監督の提案により、同球団と阪神甲子園球場から日本高野連に加盟する約5万人の3年生野球部員全員に、甲子園の土を入れたキーホルダーがプレゼントされることになった。翌年の大会以降は感染対策から土の持ち帰りが禁止され、後日出場校に土が寄贈されていたが、2023年の夏の第105回大会より、4年ぶりに土の持ち帰りが可能となった。
敗者の儀式として有名であるが優勝校も持ち帰る。決勝戦出場校は表彰式等のその後のプログラムが全て終わった後、グラウンドから引き揚げるときに土を持ち帰る。
なお、土は定期的に補充されているため枯渇することはない。
日本のアマチュア野球では、その機能が設置されている野球場の場合、プレイボール時とゲームセット後の挨拶時に、ほとんどの場合モーターサイレンが吹鳴される。甲子園球場での高校野球大会では、春・夏を問わず球場の開場時間、プレイボールとゲームセット後に長吹鳴の、また試合直前のシートノック(守備練習)開始・終了時に短吹鳴のサイレンが吹鳴される。高校野球では決勝戦を除いて、最低でも1日に2試合を行うため、試合待ちの選手や担当係員への伝達のためにサイレンが必要となっている。なお、降雨コールドゲームが成立した時のサイレン吹鳴はない。
アマチュア野球にモーターサイレンが導入された経緯については、詳しくわかっていない。ただ、1937年第23回選手権大会は盧溝橋事件が始まった直後に開会されたため、試合の開始・終了はサイレンを使用せず、進軍ラッパが代用された。
その他、夏の全国高校野球選手権大会期間中の8月15日(終戦の日)の正午には、黙祷を行うため1分間にわたってサイレンが鳴らされる(1963年の第45回大会から)。2020年の交流試合でも行われた。ただし、正午が試合中でない場合はこの限りではなく、観客の安全面を考慮して試合開始直前に鳴らされており、2010年は12時7分、2014年は12時15分、2016年は12時6分に鳴らされた(各年とも、3試合開催日の第2試合開始前)。なお、当日の試合が中止になった時は黙祷は行われない。
100回記念大会ではレジェンド始球式と称して、大会期間中の第1試合前の全てにおいて始球式を行なったため、第1試合開始時にはプレーボールのサイレン吹鳴は行われなかった。
兵庫県大会や近畿大会でもかつては阪神甲子園球場が使用されたことがあり、全国大会出場歴がなくても地方大会として同球場でプレーしたことのある学校や選手も存在する。
阪神甲子園球場が完成した翌年の1925年(第11回)から地方大会に使用されており、この年から1928年(第14回)までは兵庫県大会の試合全てが阪神甲子園球場で行われた。兵庫県の球児は本大会より一足先に完成されたばかりの阪神甲子園球場でプレーしていた。その後も兵庫県内の球場事情や立地条件が重なり、たびたび阪神甲子園球場が県大会の予選会場として使用されてきた(但し外野席は開放せず)。兵庫県高野連としても、甲子園が『聖地』という認識はなく、「どちらかと言えば、兵庫県としては明石が特別で、甲子園は『その他の県下の球場の一つ』」という認識であった。
ただ、元々地方大会が行われる7月はプロ野球・阪神タイガースが全国大会期間中に遠征に出る(いわゆる長期ロード)前に集中して主催試合を行うことから地方大会の会場としての日程の確保が難しかった上に球場使用料の問題があったこと、加えて後に(淡路島も含めて)兵庫県下各地に多数の野球場ができたことから、阪神甲子園球場を県大会で使用する必要性が薄れたことで頻度は徐々に減っていった。
元々「なぜ地方大会を甲子園でやるのか」という声はあったが、決定的だったのは、2004年の県大会で阪神甲子園球場が使用された当日に試合をした学校がその日の全国放送の番組で取り上げられ、さらに試合風景として阪神甲子園球場が映っていたことだった。放送翌日は兵庫県高野連に抗議の電話が殺到したため、上記の2004年を最後に予選会場としては使用されていない。
選抜・選手権ともに大会の開幕前に、出場が決まった全代表チームによる阪神甲子園球場での事前練習(通称:甲子園練習)が行われる。大会開幕までに阪神甲子園球場のグラウンドの雰囲気を事前に確かめさせるという目的があり、大会開幕の概ね一週間前から、移動が容易な兵庫県や大阪府など主に近畿地方のチームから指名され順次行われている。1チームの練習に参加できる人数は選手・監督・部長・マネージャー等を含めて35人まで、割り当て時間は概ね30〜50分程度で、当日はバックネット裏の座席が開放されているため一般客も無料で練習風景を見学できる。ただし雨天などでグラウンドでの練習が中止となった場合は、代わりに隣接する室内練習場での調整となることもある(室内練習場には一般客向けの見学スペースはないため、この場合は非公開となる)。
なお、夏の選手権大会については、プロ野球阪神タイガースの公式戦日程との関係で、日にちによっては午前中のみとなる場合がある。また、1998年の第80回と2008年の第90回、2018年の第100回の各記念大会、および2015年の第97回(高校野球誕生100周年記念)では、それぞれ日程上の都合で甲子園練習が行われず、代わりに施設見学が行われた。第97回大会の施設見学会では出場チームごとに15分ずつの時間が与えられ、通常の甲子園練習と同じ要領のユニフォーム、またはその学校の制服を着用してグラウンドに下りてもらっての確認作業(ただし出場登録を済ませている選手に限る)と、球場各施設を見学する形を取っていた。第100回記念大会も同様に、各チーム15分ずつの時間が与えられ、選手たちがユニホーム姿でグラウンドに下りてその雰囲気を確認するなどした。
高校野球の全国大会は春と夏で年2回あるが、両大会の優勝校同士による決戦試合が1回行われたことがある。
1927年、春優勝校は和歌山中(和歌山)で夏優勝校は高松商(香川)だったが、阪神間のファンから「ホンマに強いのはどっちやろ。試合やらしてみればどうや」という声があがり、同年11月6日に大阪の寝屋川球場で両校による決戦試合が行われた。この試合は7対4で高松商が和歌山中に勝利した。
翌年度のチームではあるが甲子園大会でも、1961年の選抜大会決勝で前年春優勝の高松商と前年夏優勝の法政二が対戦し、4-0で法政二が勝利し夏春連覇を果たした。
放棄試合・没収試合は全国大会での例はないが、地方大会で発生している。主な原因は一方的な試合展開による人数不足が原因であるが、下記のような例もある。
2020年3月に開催される予定だった第92回選抜高等学校野球大会と8月の第102回全国高等学校野球選手権大会は、中止となっているが、戦争および米騒動以外で初めての中止となった。
翌2021年の第103回全国高等学校野球選手権大会は前年冬から猛威を振るう、新型コロナウイルスの流行が収まらない中で開催された。しかし都道府県の予選大会で野球部員や同校の生徒の感染が相次ぎ、出場辞退する高校や参加辞退した高校が相次いだ。
野球規則では打者が安全進塁権を行使しなかった場合「進塁放棄(野球規則4.09b/得点)でアウトが宣告されることがある。また3アウト目と同時にホームを踏んでも、得点は認められないとあるため下記が発生したことがある。
高校野球では、デーゲームが圧倒的に多いが、稀にナイターが行われることもある。
1984年選抜大会、佐賀商業対高島で、ラッキーゾーンのフェンス手前でワンバウンドしてスタンドインしたエンタイトル二塁打の打球を本塁打と誤審。試合後に高野連が会見して誤審を認め、誤審の原因となった選抜高等学校野球大会歴代優勝校ボード(白地に歴代優勝校の校章が描かれていたパネルボードであった。また、このパネルボードは夏の全国高等学校野球大会では掲出されていない)を全て撤去し、翌1985年の大会から掲出されなくなった。
当時の高野連会長・牧野直隆は試合後、誤審を行った審判と共同での記者会見を行い、誤審の原因を説明し「選手が判定に疑問を持ったらどんどんアピールしてよい」と発言している。
太平洋戦争中の1942年8月、文部省主催(本大会のみ朝日新聞社ではなかった)の大日本学徒体育振興大会の一つとして、全国から16代表を集めて開催された。2010年8月のNHK「戦争と平和」特集で「幻の甲子園」として採り上げられた。
プロ野球選手経験者を除く。また高校名は出場当時の通称学校名で記述している。
高校野球では高野連や文部科学省が通達を出し禁止あるいは自粛となった事例がある。この項の内容は2007年に行われた高校野球特待生問題有識者会議で明らかにされたものである。
単なる高校部活動の対抗戦に留まらず、時には社会的関心を集めるほど人気の高い高校野球であるが、学校関係者や保護者、主催する高野連やマスコミに対し様々な角度から問題提起が行われている。
Owlapps.net - since 2012 - Les chouettes applications du hibou