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渡辺世祐


渡辺世祐


渡辺 世祐(わたなべ よすけ、1874年3月13日 - 1957年4月28日)は、日本史学者。明治大学、國學院大學各教授。学位は、文学博士(1919年)。山口県平民。

経歴

1874年、山口県吉敷郡下宇野令村(現・山口市)生まれ。旧姓は蔵田。山口高校を経て1900年7月、東京帝国大学文科大学国史学科を卒業。熊谷中学校勤務の後、1903年に「関東ヲ中心トシタル足利時代史」の研究のため、東京帝国大学大学院に進学する。

1904年から東京帝国大学史料編纂掛(史料編纂所)に勤務。1905年からは東京帝国大学文科大学講師として室町時代・戦国時代の歴史を講義する。1910年からは國學院大學部でも教鞭を取る。1915年史料編纂官。1932年に明治大学専門部文科史学科長を兼ねた。1936年に史料編纂所を退官後は1939年まで嘱託として身を置いた。1949年から1954年まで明治大学文学部長を務めた他、國學院大學史学会長・文部省史料館評議員・地方史研究協議会第2代会長などの職も務めた。

1957年、心臓伝達障害のため死去。葬儀は5月2日に明治大学記念館で文学部葬として行われた。

研究内容・業績

  • 朝吹英二の委嘱で、三上参次とともに石田三成の再評価に着手し、1907年、『稿本石田三成』を上梓、三成の名誉回復に力があった。
  • 徳川氏の祖先は新田氏とされていたが、この系譜は徳川家康が永禄9年(1566年)に叙任奏請をする際、世良田氏の系譜と自らの系譜をつなげたことが、渡辺により論証されている。
  • 明治大学専門部での講義内容は「相当に高級」で、他の講師たちにも「帝国大学の講義より落すな」と絶えず要求した。

人物

  • 趣味は義太夫、芝居、小説。宗教は禅宗。

家族・親族

渡辺家

(山口県、東京市小石川区林町)
  • 養父・蒿蔵
  • 養母・コウ
  • 妻・ユキ
1881年生 - 没
  • 女・(内野仙治に嫁す)
  • 男・克彦
  • 女・周子
  • 女・悌子
  • 男・弘毅
  • 男・復三

親戚

  • 内野仙治(京都大学名誉教授)

著書

  • 稿本石田三成 1907、雄山閣 1929
  • 武蔵武士 八代国治共著 博文館 1913、有峰書店 1987
  • 安土桃山時代史 早稲田大学大版部 1916
  • 豊太閤と其家族 日本学術普及会 1919
  • 室町時代史 日本時代史第7巻 早稲田大学出版部 1926
  • 安土桃山時代史 日本時代史第8巻 早稲田大学出版部 1926
  • 足利時代之研究 関東中心 雄山閣 1926
    • 関東中心足利時代之研究 新人物往来社 1971、改訂版1995
  • 蜂須賀小六正勝 雄山閣 1929
    明治期の蜂須賀家の当主茂韶(侯爵)が、宮中に参内し応接室で待たされたとき、ふと卓上にあった煙草を一本失敬したところ、やってこられた明治天皇がそれに気づかれ、笑いながら「蜂須賀、先祖は争えんのう」と言われたという逸話があり、このことを気にした蜂須賀家が渡辺に依頼した。昭和期の作家海音寺潮五郎は「当時の武家で強盗ばたらきをしていた者は珍しくなかった。渡辺博士ほどの学者が気づかないはずはないのだが、蜂須賀家の依頼もだしがたく、そこを無視したものに違いない」と述べている(「列藩騒動録」講談社文庫)。
  • 史籍の選択法 雄山閣 1938
  • 小早川隆景 川上多助共著 三教書院 1939
  • 豊太閤の私的生活 創元社 日本文化名著選 1939
    • 秀吉の生涯 新人物往来社 1971
    • 豊太閤の私的生活 講談社学術文庫 1980。桑田忠親校訂
  • 武田信玄の経綸と修養 創元社 日本文化名著選 1943。新人物往来社 1971
  • 日本中世史の研究 六盟館 1946
  • 社会経済史学 18号(3) 信濃高島藩金沢村小松三郎左衛門磔殺事件・地方史研究社会経済史学 社会経済史学会 1952
  • 諏訪史 第3巻 諏訪教育会 1954
  • 国史論叢 文雅堂書店 1956
  • 正史 赤穂義士 光和堂 1965、新版1992、1998。井筒調策校訂

出典


Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 渡辺世祐 by Wikipedia (Historical)