堺 利彦(さかい としひこ、1871年〈明治3年〉1月15日(旧暦11月25日) - 1933年〈昭和8年〉1月23日)は、日本の社会主義者・思想家・歴史家・共産主義者・著述家・小説家。号は枯川、別名は、貝塚 渋六。
堺は没落士族の三男として、豊前国仲津郡長井手永大坂村松坂(現:福岡県京都郡みやこ町犀川大坂字松坂)に生まれる。旧制豊津中学校を首席で卒業して上京後、進学予備校であった共立学校にて受験英語を学んだのちに第一高等中学校に入学するが、学費を滞納して除籍処分される。除籍後は大阪や福岡で新聞記者や教員として勤めながら文学の世界で身を立てるべく、小説の執筆を始める。その後、同郷の末松謙澄の招待で東京に設けられた毛利家編輯所で「防長回天史」の編纂に従事し、同僚の山路愛山らと親交を深める。
その後、日本初のゴシップ紙とされる「萬朝報」の記者として活躍し、社会改良主義を主張する論説や言文一致体の普及を図る一方で、社主の黒岩涙香や同僚の内村鑑三・幸徳秋水らと理想団を結成して社会主義思想に共鳴し、非戦論を唱える。しかし、萬朝報が日露戦争に際して非戦論から主戦論に路線転換したために内村・幸徳と共に退社して「平民社」を開業し、週刊「平民新聞を発行して非戦論・社会主義の運動を開始する。
堺はその後、週刊「平民新聞」第53号(1904年(明治37年)11月13日)に幸徳との共訳で「共産党宣言」を翻訳して掲載した。これは、サミュエル・ムーアが訳した英語訳からの重訳であったが、これが日本における最初の共産党宣言の翻訳であった。
1905年(明治38年)、堺は社会主義機関誌「直言」にエスペラントに関する記事を掲載し、その翌年に発足した日本エスペラント協会の評議員に就任した。同年には日本社会党を結成して評議員・幹事となり、日本の社会主義運動の指導者として活躍を開始した。
1908年(明治41年)の赤旗事件で2年の重禁固刑を受けるが、その入獄中に「大逆事件(幸徳事件)」が発生し、萬朝報で同僚だった幸徳が処刑される。堺は獄中にいたため難を逃れたが、出獄後は社会主義のいわゆる「冬の時代」を売文社を設立して過ごし、雑誌「へちまの花」(1914年1月27日 - 1915年8月、19号で終刊)や後継誌「新社会」の編集・発行をはじめとする事業を行って生活の糧とすると共に、全国の社会主義者との連絡を維持した。
1918年(大正7年)の黎明会の立ち上げに関わり、会で親しくなった高畠素之とは黎明会のライバル・老荘会の会員でもあった。1920年(大正9年)には日本社会主義同盟を結成するが、翌年には活動が禁止されてしまう。
堺は1922年(大正11年)に、山川均・荒畑寒村らと第一次共産党の結成に参加するものの、山川らに同調して離脱し、後に労農派に与する。その後、東京無産党を結成して活動を続け、1929年(昭和4年)に東京市会議員に当選した。この間には数多くの翻訳を通じて、欧米の社会主義思想、社会運動やロシア革命の動向、ユートピア文学をはじめとする西洋文学の紹介につとめた。
1931年(昭和6年)2月11日に福岡県行橋町の簔干精米所で寺子屋式農民学校を開校したが、同年12月に脳出血で倒れてからは療養生活に入った。翌年7月に入ると病状が悪化し、治療などの影響から時に凶暴となったため青山脳病院に入院(朝日新聞は発狂して入院と報道したが、荒畑寒村らの抗議を受けて訂正したという)し、翌月には退院した。しかし1933年(昭和8年)1月に容体が悪化し、東京・麹町の自宅で死去、62歳没。戒名は枯川庵利彦帰道居士。
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