淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 - 1998年(平成10年)11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家。
約32年に渡って務めた『日曜洋画劇場』の解説の締め括りに「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ…」と強調して言う独特の語り口から全国的に有名になり、「ヨドチョーさん」「ヨドさん」「サヨナラおじさん」等と呼ばれる程に多くの視聴者に親しまれてきた。
兵庫県神戸市にて芸者置屋の跡取り息子として父・又七、母・りゅうのもとに生まれる。実母は、父の本妻の姪にあたった。長く病身で、自分に子ができないことを悔いた本妻が、妾として姪を夫に推薦したのだった。本妻は、生まれてまもない淀川を病床で抱かせてもらい、安心したように数日後に永眠。実母がその後、本妻になった。姉が二人と、弟が三人いる(次男の敏治は1934年に自殺。三男は生まれてすぐに養子に出されており、四男は生後半年で病死している)。
映画館の株主だった親の影響で子供の頃から映画に精通。母・りゅうは湊川の活動写真館で喜劇映画を見ていたときに産気づいたという。旧制の兵庫県立第三神戸中学校(現兵庫県立長田高等学校)を卒業後、日本大学法文学部美学科予科に籍を置くが出席せずに中退。なお、中学時代には、自ら企画して毎月の全校生徒による映画鑑賞を実現させている。その後継として、現在も兵庫県立長田高等学校には、年に一度、芸術鑑賞会という行事がある。
日大に入学のため1927年(昭和2年)に上京した際、かねて投稿を行っていた雑誌『映画世界』(南部圭之助編集長)の社員募集を見て、編集部へ出向きそのまま採用され、編集者として活動。しかし1929年(昭和4年)に神戸の実家へ戻され、姉の経営する輸入美術品店「ラール・エヴァンタイユ」で勤務する。
その後、知人を介して1933年(昭和8年)にUA(ユナイテッド・アーティスツ)の大阪支社に入社する。なお、大阪支社勤務時代の1936年(昭和11年)2月に、来日したチャールズ・チャップリンとの会談に成功している。その後、淀川は日本におけるチャップリン評論の第一人者と言われる。その後1938年(昭和13年)に「モダン・タイムス」封切に伴う宣伝体制強化を受けて東京支社に移り、ジョン・フォード監督の『駅馬車』の宣伝などを担当する。
1941年(昭和16年)12月の日英米開戦後にアメリカ系の映画会社が閉鎖されると、1942年(昭和17年)に東宝映画の宣伝部に就職。この時期、後に世界的な映画監督となる黒澤明と出逢い、2人は生涯の親友となった。この頃横浜市鶴見区馬場2丁目に家を構え、晩年まで住んでいる。
1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結後には、アメリカ政府系の配給会社セントラル映画社(CMPE)のレクチャー部に勤務する。その後、1947年(昭和22年)に映画世界社(1961年(昭和36年)映画の友社と改称)に入社し雑誌『映画の友』の編集に携わり、映画解説者・映画評論家として活動を開始。『映画の友』時代の部下には小森和子、写真部長には有名なカメラマン早田雄二がいた。
なお、1951年(昭和26年)に『映画の友』の仕事でハリウッドに向かった淀川は、東京国際空港からホノルル国際空港へ向かうパンアメリカン航空のボーイング377の機内でクラレンス・ブラウン監督と邂逅し、機内のラウンジで話し込んだほか、ハリウッドに滞在していた際には、アカデミー賞にノミネートされていた黒澤の「羅生門」の代理出席者として、授賞式に代理人として招待された。また、「ライムライト」制作中のチャップリンのスタジオを訪ね再会した。
1948年(昭和23年)には映画好きの若者を集めて「東京映画友の会」(当初は「『映画の友』友の会」)を結成。
1993年(平成5年)まで映画の魅力を教え続けた(「友の会」は現在も、他メンバー主催で継続)。この「友の会」には以下の3つのスローガンがあり、淀川も著書内で「自分の信条」として書いていた。だが晩年、「ぼくがモットーにしてた三か条なんだけれど、実は大嘘なの。ぼくは年中、三か条に反する生き方をしていた」と弟子に打ち明けた。
淀川は1960年(昭和35年)から1963年(昭和38年)まで、NETテレビ(現:テレビ朝日)で放送された海外ドラマ『ララミー牧場』の解説で脚光を浴びた。その後、1966年(昭和41年)から始まった同局の長寿番組『日曜洋画劇場』(当初は『土曜洋画劇場』)の解説者として、番組開始から死の前日までの32年間、出演し続けた。
番組冒頭で「ハイ皆さん、こんばんは」から始まり、「怖いですねえ、恐ろしいですねえ」の節回しや番組末尾の「それでは次週を御期待(お楽しみ)下さい。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ...」は名台詞として語り草とされており、子供たちやタレントの小松政夫がこれをものまねするなど一躍お茶の間の人気者となった。1968年 - 1969年放送のアニメ『怪物くん』(TBS)では、番組途中の解説やエンディングのナレーターとして起用されている。
番組開始当初は「サヨナラ」の回数が毎回異なっていたが、ある日、小学生の少年から直接電話を受け、「淀川さんが『サヨナラ』と何回言うかが友達の間で毎週賭けられている」との話を耳にした。実際は、賭けといってもただ当たったら自慢するだけのたわいのないものではあったが、淀川は少年に「賭けをするのは良くないことだ」と諭し、それからは「サヨナラ」の回数は3回だけにすると決めた。なお、それまで「サヨナラ」の回数が毎回異なっていたのは、単に放送終了まで「サヨナラ」と連続して言い続けたからで、意図したものではないと本人は語っている。おまけに、解説では正面を向かっていたが、この「サヨナラ」を連呼する時だけは何故か斜めを向いていた。また1970年代にはTBSラジオ(東京放送)の『ゴールデン・ワイド』で週1回・生放送で、映画作品の解説や出演者の人物像を述べた「淀川長治のラジオ名画劇場」が放送され、TBSブリタニカより書籍版も発売された。
1998年(平成10年)9月6日、生涯の親友であった黒澤が死去した。黒澤の通夜に車椅子で参列した淀川は、既に自身の死期も悟っていたかのように、棺の中の黒澤に向かって「泣かないよ。僕もあとから追いかけるから、もうすぐだよ」と語りかけていたという。
その後、体調を崩した淀川は東京大学医学部附属病院に入院するが、同年11月11日午後8時9分、腹部大動脈瘤破裂に伴う心不全により死去した。89歳没。命日は奇しくも淀川の父・又七と同じ日であった。淀川は生涯独身で子供がいなかったため、喪主は姪である編集者の淀川美代子が務めた。
淀川は死の前日にも車椅子で『日曜洋画劇場』のスタジオに入り、『ラストマン・スタンディング』の解説収録を行っていた。病気の影響で声は著しくかすれており、解説前にそのことについて触れた上で「今日はこんなガラガラ声で本当に申し訳ございません」と詫びを述べていた。収録中、スタッフが淀川の体調を気遣って1回でOKを出したところ、淀川はそれを不満として「汚い!」と言い、2回目のOKでうなずいて(病院からのスタジオ入りのため)車椅子でスタジオを出た。淀川の最後の出演となった1998年(平成10年)11月15日の『日曜洋画劇場』の放送では、冒頭に特別企画として「サヨナラ 淀川長治さん 89年の輝ける映画人生」のタイトルで追悼番組が約30分間放送され、最後の解説の映像が流れた後には「淀川 長治さん 永い間本当に ありがとうございました。」という追悼テロップが表示された。
淀川の死から1か月後の1998年12月13日、青山葬儀所で一般のファンを含めた約3,000人が参列して「淀川長治さん さよならの会」が開かれ、淀川との最後の別れを惜しんだ。また、淀川が生前に書き残した原稿を元とした遺著が同年末から翌1999年にかけて相次いで出版された。淀川の著書は没後も新編で再刊され続け、現在までに100冊を超えている。
戒名は「長楽院慈悲玉映大居士」。慈しみの眼で映画を長く楽しみ、すべての映画を珠玉の名作として鑑賞した人という意味が込められている。
淀川の死から8年後の2006年(平成18年)12月20日、自身の代名詞ともいえる『日曜洋画劇場』が放送開始40周年を記念し、『淀川長治の名画解説』と銘打った前代未聞の『映画本編は一切収録されない解説者の解説のみが入ったDVD』が発売されている。このDVDには『スター・ウォーズ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』といったSF作品から、『ローマの休日』のような古典作品も解説されており、特典映像として最期の解説となった『ラストマン・スタンディング』の解説も収められている。このDVD以後、淀川の解説付映画DVDも頻繁に発売され、6年後の2012年には『淀川長治の名画解説DX』という4枚組のボックスセットも発売されている。
2014年(平成26年)には、huluのテレビCMにポリゴン調のCGで登場した。解説については、生前の音声を加工して組み合わせる音声合成の手法が用いられている。
1973年9月5日(東京では9月4日付夕刊)、サンケイ新聞の夕刊シリーズ企画「こんにちは」に、淀川長治のインタビュー記事(聞き手・兼子昭一郎)が掲載された。この記事で淀川が
と述べた後、兼子の聞き書きとして
とあり、続いて淀川が
と述べた。
インタビューの内容は差別に反対する立場で貫かれていたにもかかわらず、部分的に不用意な発言が部落解放同盟から問題視され、1973年秋から1974年初頭にかけて3回の糾弾会がおこなわれた。
1973年12月14日の第2回糾弾会には、部落解放同盟大阪府連合会の副委員長の西岡智や書記次長の山中多美男ら約100名が出席し、淀川やサンケイ新聞編集局長の青木彰たちを吊し上げた。
淀川は「私は神戸出身で差別の問題はよくわかっているつもりだった」「私が16歳ごろ、隣の奥さんが差別を受けたのを知っている」と弁解したが、部落解放同盟は「ヒューマニズムの観点から部落問題をみるから、今度のような同情・融和の思想が出てくるのだ。あなたのヒューマニズムは単なる"あわれみ"だけであって、なぜ差別があるのかを根本から追及していない。まさにエセのヒューマニズムだ」「あんたのヒューマニズムは矛盾を追及しないエセの平等思想だ」と反発している。
部落解放同盟は淀川に対し第3回の糾弾会で、
を要求し、淀川も了承した。
サンケイ新聞もまた社内啓発を要求され、その後、1974年暮に差別問題をテーマにした連載記事を掲載している。
その折々で選出する作品等が異なる為、これらが決定稿とはいい難い。
「キネマ旬報」1967年10月上旬号
「キネマ旬報」増刊「ミュージカル・スター」(1968年)
「キネマ旬報」1979年11月下旬号
「キネマ旬報」1980年12月下旬号
「キネマ旬報」1985年1月上旬号
「キネマ旬報」1986年8月下旬号
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