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ハイメ・アルグエルスアリ


ハイメ・アルグエルスアリ


ハイメ・ビクトル・アルグエルスアリ・エスクデロJaime Víctor Alguersuari Escudero、1990年3月23日 - )はスペイン・バルセロナ出身の元レーシングドライバー。2008年に史上最年少でイギリス・フォーミュラ3選手権チャンピオンを獲得した。2015年10月1日、35歳でモータースポーツからの引退を発表。

F1デビュー戦における記者会見では、名前の発音を尋ねられた際にMy name is 'Heimi Al-gay-shuari'.(ヘイミ・アルゲイシュアリ)と名乗っている。テレビ朝日のフォーミュラE中継での表記は「ハイメ・アルゲルスアリ」。「ジェイミー・アルグエルスアリ」の表記もある。

父はオートバイレースの最高峰・ロードレース世界選手権(現MotoGP)50ccクラスへの参戦経験を持ち、引退後はRPMの代表としてワールドシリーズ・バイ・ニッサン〜フォーミュラ3.5 V8を設立・運営していたハイメ・アルグエルスアリSr.。

経歴

カート

1998年に8歳でカートデビュー、2003年・2004年とヨーロッパICAジュニア選手権に参戦。イタリア・オープンマスターズのICAジュニアクラスで4位、スペイン選手権ではシリーズチャンピオンを獲得。2005年に鈴鹿サーキットカートコースで開催されたFIAワールドカップ・アジア・パシフィック選手権で2位を獲得しカートを卒業する。

レッドブル・ジュニアチーム入り

2005年に四輪レースへ移行し、フォーミュラ・ルノーにデビュー。またフォーミュラ・ジュニア・ルノー1600史上最年少で優勝。この実績によりその年のうちにレッドブル・ジュニアチームに招聘された。

2006年にイタリア・フォーミュラ・ルノーに参戦し、最年少表彰台と同年のルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得(ランキング10位)。シーズン終了後にフォーミュラ・ルノー・ウィンター・シリーズにも参戦し、4勝を挙げて最年少でタイトルを獲得した。

2008年、イギリスF3にステップアップし、レッドブルが支援するカーリン・モータースポーツより参戦。5勝を挙げF3初年度で最年少タイトルを獲得する。イギリス選手権以外にスペインF3選手権にも参戦、新設のバレンシア市街地コースで最初の優勝者となるなど実績を積み重ねる。

2009年はレッドブル・カーリンからワールド・シリーズ・バイ・ルノーに参戦していたが、同年7月1日、レッドブルよりF1「レッドブル・レーシング」と「スクーデリア・トロ・ロッソ」両チームのリザーブドライバーに指名された。

フォーミュラ1

2009年、ドイツGP終了後にトロ・ロッソから解雇されたセバスチャン・ボーデに代わってレギュラードライバーに昇格し、ハンガリーGPを15位で完走した。19歳125日でのF1デビューは、1980年に記録されたマイク・サックウェルによる最年少出走記録を19年ぶりに更新するものだった(2020年現在はマックス・フェルスタッペンの17歳165日が最年少)。並行してワールド・シリーズ・バイ・ルノーも最終戦まで参戦し続けた。

2010年はトロ・ロッソより開幕からF1参戦。第2戦オーストラリアGPではミハエル・シューマッハと抜かれるまでバトルを展開し、第3戦マレーシアGPで9位に入賞。これはセバスチャン・ベッテルの記録に次ぐ2番目の若さでのF1初入賞記録となった。F1ドライバーとしての初の母国凱旋となる第5戦スペインGPでは10位入賞。その後、第14戦ベルギーGPでも10位で8戦ぶりのポイント獲得と思われたが、他車をオーバーテイクする際にシケインをショートカットしたとして決勝終了後に25秒を加算されるペナルティを受け、ポイント圏外の13位に降格となった。最終戦アブダビGPでは予選17位から這い上がり9位に入賞した。

2011年もトロ・ロッソよりF1参戦。第3戦中国GPの予選Q2ではセッション中に赤旗が出されたが、それ以前に他チームよりも早めにアタックを完了していたことが功を奏し、自身初のQ3進出と、自己ベストの7番グリッドを獲得した。しかし決勝では、1回目のピットイン後に右リヤタイヤが脱落しリタイアとなった。第7戦カナダGP決勝ではピットスタートを選択、最後尾から追い上げる展開となったが、荒れたレースでポジションを上げ8位に入賞。イタリアGP、韓国GPでは自身最高位となる7位でポイントを獲得、インドGPでも8位入賞などシーズン合計26ポイントを獲得し、チームメイトのブエミと比較しても好戦績をおさめた。

しかしレッドブル陣営首脳からの評価は得られず、2012年シーズンを前にレッドブルは育成ドライバーのジャン=エリック・ベルニュとダニエル・リチャルドの2名をトロ・ロッソで走らせると発表した為、アルグエルスアリはレギュラーシートを失った。この事態に備えてロータス(旧ルノーF1)とも交渉していたと公表したがそちらも成立はしなかった。結局2012年はピレリタイヤの開発テストドライバーとBBCのラジオ中継の解説者を務めた。翌2013年もピレリ開発テストドライバーを継続して担当。

フォーミュラE

2014-2015年は、新たに開催されるフォーミュラE選手権にヴァージン・レーシングからエントリー。チームメイトのサム・バードが第2戦で優勝する一方、自身は決勝最高4位と差をつけられた。

アルグエルスアリは第9戦モスクワのレース後、脱水症状と極度の疲労のため失神し、精密検査の結果が出るまで国際自動車連盟 (FIA)からライセンスを一時停止された(最終2戦はファビオ・ライマーが代役出場)。検査結果では身体の異常は見つからなかったが、2015-2016シーズンのフォーミュラE参戦を断念し、さらに2015年10月の記者会見で「このガールフレンド(レース)への愛情を失ってしまった」「僕には変化が必要だ」としてモータースポーツからの引退を表明した。

2021年よりカートレースに復帰し、2022年のFIA世界カート選手権に参戦した。

F1における記録

  • 元最年少完走:2009年第10戦ハンガリーGPにて19歳126日で樹立。⇒2015年第2戦マレーシアGPにてマックス・フェルスタッペンが17歳180日で更新。

レース戦績

イギリス・フォーミュラ3選手権

  • 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)

フォーミュラ・ルノー 3.5 シリーズ

  • 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)
  •  : リタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。

F1

(key)

フォーミュラE

  • 太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)

DJとしての活動

レーシングドライバーとしてのキャリア以外に、DJとしての活動も行っている。DJとしての名前は「DJ.スクワイア」として活動。以前より趣味としての活動があったようだが、本格的な活動として2010年頃より自身のレコーディングスタジオにて音楽制作を開始される。2011年9月にブランコ・イ・ネグロ・レコードより初のアルバムがリリースされ、発売から5日でスペイン国内のiTunes1位を獲得している。

ディスコグラフィ

アルバム

脚注

外部リンク

  • ハイメ・アルグエルスアリ公式サイト
  • jalguersuari.com (@jalguersuaricom) - X(旧Twitter)
  • Jaime Alguersuari (@squire.music) - Instagram
  • Jaime Alguersuari Official Fan Club (111384065572293) - Facebook
  • SQUIRE MUSIC

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: ハイメ・アルグエルスアリ by Wikipedia (Historical)



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