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東洋工業サッカー部


東洋工業サッカー部


東洋工業サッカー部(とうようこうぎょうサッカーぶ)は、かつて存在した日本のサッカークラブ。日本プロサッカーリーグに加盟するサンフレッチェ広島F.Cの前身となったクラブである。

概要

1938年に東洋工業(現マツダ)のサッカー部として創部し、1981年から「マツダサッカークラブ」と名称を変更した。日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)所属のサンフレッチェ広島の前身となったクラブである。本拠地は広島県安芸郡府中町(マツダ本社所在地)。なお、現在マツダサッカークラブ(マツダSC)の名前で活動しているチームは、元々このクラブの2軍として活動していたチームである。

1949年、実業団チームとして初めて天皇杯全日本サッカー選手権大会出場。1954年には実業団として初めて天皇杯決勝に進出。1965年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)には初年度から参加し、1960年代に全盛期を極め、四連覇を含むJSL最多優勝5回。天皇杯では、後身のマツダSC/サンフレッチェ広島を含め、2022年までに歴代最多71回の本大会出場回数を誇り、通算最多の127勝、決勝進出も歴代最多の14回 と、日本サッカー史に残る名門クラブの一つ。

諸元

略歴

  • 1938年 : 東洋工業蹴球部として創部
  • 1943年 : 休部
  • 1947年 : 活動再開
  • 1949年 : 実業団チームとして初めて天皇杯全日本サッカー選手権大会出場
  • 1954年 : 実業団チームとして初の天皇杯決勝進出
  • 1956年 : 全日本実業団サッカー選手権大会初優勝
  • 1957年 : 天皇杯準優勝
  • 1962年 : 国民体育大会優勝、全国実業団優勝
  • 1965年 : 第1回日本サッカーリーグ(JSL)に参加・初優勝、天皇杯初優勝
  • 1966年 : JSL優勝、天皇杯準優勝
  • 1967年 : JSL優勝、天皇杯優勝
  • 1968年 : JSL優勝・4連覇(JSL最高記録、連続優勝回数)
  • 1969年 : 天皇杯優勝、アジアクラブ選手権(現AFCチャンピオンズリーグ)に日本勢として初出場し3位
  • 1970年 : JSLで5度目の優勝(JSL最高優勝回数記録)、天皇杯準優勝
  • 1971年 : 東洋工業サッカー部に名称変更
  • 1978年 : 天皇杯準優勝
  • 1981年 : マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部に名称変更
  • 1983年 : JSL2部降格
  • 1984年 : マツダスポーツクラブサッカー部に名称変更
  • 1985年 : JSL1部昇格
  • 1986年 : マツダサッカークラブに名称変更
  • 1987年 : 天皇杯準優勝
  • 1988年 : JSL2部降格
  • 1991年 : JSL1部昇格

ホームスタジアム

創部からJSL初期ごろまでは広島市内の高校グラウンドを使うことが多かった。主に使用していたのは交通の便のよさから中区国泰寺町の広島県立広島国泰寺高等学校グラウンド。また1965年JSL最終節で優勝を決めた試合は、南区翠の広島大学附属高等学校グラウンドで行われた。1966年JSL2年目の開幕戦は広島皆実高校グラウンドだった。

1960年代、海外クラブとの試合やJSL東西対抗戦を中区基町の広島市民球場(旧市民球場)で行った事がある。

1970年代以降、西区観音の県営競技場がホームスタジアムとなった。それに加えて1980年代には、呉市の当時マツダ福利厚生施設であったマツダ健保グラウンド(現呉市総合スポーツセンター)を用いていたこともある。

ユニフォームカラー

初期は白や紺、1970年代は赤ベースの黒縦縞、1980年代はカンパニーカラーと同じ青と黄。

ちなみに、紺から赤への変更は東洋工業の関連チームである広島東洋カープと同じ移行である。青と黄の配色は現在マツダのシンボルチームであるマツダブルーズーマーズやマツダ陸上競技部でも採用されていたが、陸上競技部は2015年に赤と白の配色に変更された。後身のサンフレッチェ広島でも当初はチームカラーを青にする話もあった(詳細はサンフレッチェ広島F.C#チーム名およびチームカラー参照)。

歴史

創設期

戦前、広島は兵庫・東京と共に「サッカー御三家」と呼ばれ、日本サッカーの先進地であった。この環境の中で育った山崎芳樹が1938年(昭和13年)に東洋工業(現マツダ)へ入社し、同好会形式で創部したのが「東洋工業蹴球部」である。しかしこの時代、この地域のサッカーチームとしては呉海軍工廠が圧倒的に強く、東洋工業は全国大会には1度も出場出来なかった。この時期のタイトルとして、1941年(昭和16年)第8回中国実業団蹴球大会決勝対広島電気(現中国電力)戦において4-0で勝利し優勝したものがある。

1943年(昭和18年)、太平洋戦争の戦況が厳しくなったため休部する。1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下により市内は甚大な被害を受け、社員も被爆している。なお、このクラブに所属した選手の徴兵および被爆状況など戦中の選手の状況は不明であるが、後に東洋工業に入団した選手には被爆者が存在する。

戦後復興の最中、蹴球部も1947年(昭和22年)に再開する。以降銭村健次・小畑実ら地元出身の有力選手の入団が相次ぎ、当時の主要タイトルである全日本選手権(天皇杯の前身)・全日本実業団・国体に常に優勝争いを繰り広げる実業団の強豪チームを作り上げた。

1949年(昭和24年)、第29回全日本サッカー選手権大会にて実業団チームとして初出場を果たした(準決勝敗退(1-7対東大LB))。

1950年代

1951年(昭和26年)、蹴球部が実業団サッカーのトップクラスとなり会社の看板となったことから、山崎は監督を退き部長兼総監督に就任し、小畑が選手兼任監督となった。小畑は自身の母校である慶応大のサッカースタイルである、「素早いパスサッカー」を東洋工業に導入した。

1954年(昭和29年)、第34回天皇杯にて実業団として初めて決勝に進出も準優勝(3-5対慶大BRB)。この決勝はPK戦のない時代、第4延長3時間にも及ぶ死闘となり、銭村が疲労のため意識不明となり倒れ、試合後は満足に歩ける選手がいない状況にまでなるほど、日本サッカー史に残る名勝負となった。この試合に於ける東洋工業の敢闘がその後の実業団チーム台頭の嚆矢となったもので、その意味でのエポックメーキングな試合であった。また当時の東洋工業は「バタンコ」と呼ばれた三輪トラックが主力で、会社名は浸透しておらず、この試合が東洋の社名を高めたといわれる。これ以降、他の実業団も強化に務め、天皇杯で台頭し始めた。

1955年(昭和30年)、全日本実業団でまたも準優勝(0-2対田辺製薬)。1956年(昭和31年)、田辺製薬の7連覇を阻みついに全日本実業団で優勝して初の全国タイトルを獲得した(4-0)。1957年(昭和32年)も第37回天皇杯で決勝進出、広島国泰寺高校で決勝戦が行われたが準優勝(1-2対中大クラブ)に終わる。

大学リーグでの優秀選手を中心に選ばれていたこの時代の全日本(現在のサッカー日本代表)において、上記の活躍から東洋工業の選手も選出され始め、1956年のメルボルンオリンピック代表には小沢通宏と下村幸男の2人が選ばれた。

この頃になると地元から頼まれて市内の小中高校へ指導に出かけるようになる。この時指導された選手が1960年代後半の黄金期を支えることとなる。

1960年代

1962年(昭和37年)、国体で初優勝を飾り(延長2-1対全大阪)、全日本実業団で古河電工(現:ジェフユナイテッド市原・千葉)と両チーム優勝。この活躍から同年に小沢が日本年間最優秀選手賞を受賞した。

1965年(昭和40年)から始まった日本サッカーリーグ(JSL)にスタート時から8チームの一つとして参加。小畑を総監督(いわゆるゼネラルマネージャー)、下村を監督に登録メンバー25人中21人が広島県出身者で固められていた。厳しいトレーニングの結果、抜群のコンビネーションを生み出し縦横無尽のパスワークで攻撃的サッカーを展開、特に攻守の切り替えの早さは他チームと比べ、群を抜いていた。

この1965年(昭和40年)から1970年(昭和45年)がこのクラブの黄金期である。JSL第1回大会を12勝2分け0敗と無敗で優勝。第1回大会第14節・対ヤンマー戦(現:セレッソ大阪)で記録した11-0(桑田:5・小城:4・松本:2)は、最多得点及び最多得失点差11点のJSL最高記録。第2回大会まで23連勝を記録するなど、第4回大会まで不滅のリーグ4連覇の金字塔を樹立し、第6回大会も制覇したことによりJSL27回の歴史で最多の5回の優勝を飾った。更に天皇杯では、第45回大会で初優勝すると、6年で決勝に5度進出し3度の優勝を飾った。また国際舞台では、アジアクラブ選手権1969に日本勢として初出場し3位入賞を果たした。

この時のメンバーの多くは全日本に選出され、1968年のメキシコオリンピックにも小城得達、桑原楽之、松本育夫の3人の代表選手を送り日本の銅メダル獲得に大きく貢献した。

なお1950年代から1960年代にかけては"広島サッカーの時代"と言ってもよく、多くの広島出身者が、関西・関東のサッカー強豪大学や全国の実業団に進みチームの中核となった。1960年代の日本蹴球協会会長野津謙および全日本監督長沼健の2人とも広島出身、全日本には東京五輪・メキシコ五輪といずれも最多の5人の選手を送り込み、日本代表は「広島弁が共通語」とまで言われ、デットマール・クラマーは広島弁で怒鳴ったといわれる。更に1965年JSLスタート時の8チーム中4チームの監督も広島出身(東洋下村・八幡寺西忠成・ヤンマー古川能章・三菱岡野良定)、例えば1968年のJSL登録選手も2位の埼玉県出身(22人)を超える43人もの広島県出身選手が占め、その中で東洋工業蹴球部は広島サッカーの象徴的な存在であった。

この時代の東洋工業を止めようと、他チームのほとんどがスウィーパーを置くようになり、そこから1970年代JSLはスウィーパーシステム流行へと向かった。

1970年代

しかし1970年代に入ると、環境面を整備した他チームの台頭により成績が徐々に低下していった。またJSL初期に抜群のコンビネーションを誇りリーグ随一の攻撃力だったFW陣が1970年前後に相次いで退団・引退したことや、世界的な戦術流行の流れに沿って、3トップから2トップに戦術変更するものの、得点力は伸びなかった。

1973年(昭和48年)オイルショックが発生。親会社である東洋工業の経営状態が悪化、サッカー部の運営にも影響が及び、数年間新人を全く採用出来なかった。このオイルショックは東洋工業のみならず広島経済界に大打撃を与え、広島サッカー界にも影響を及ぼしこれ以降低迷を続けていく。

1977年(昭和52年)、黄金期の中心選手だった小城が監督に就任。古田篤良・渡辺由一・安原真一らの活躍で、同年のリーグ戦では一時優勝争いに加わるものの最終的にリーグ戦4位、翌1978年(昭和53年)第58階天皇杯準優勝(0-1対三菱重工(現:浦和レッドダイヤモンズ))など一時的に建て直しに成功した。

しかし大卒の即戦力選手獲得には、地方である広島ということや東洋工業の経営不振から後手に回り世代交代が進まず、また同時期に初の外国人選手である宗像マルコス望を加入させたもののチームに馴染めなかったこともあり、これ以降外国人選手補強に消極的な姿勢を続けたため、チームの強化は思うように進まなかった。

これらの要因により、1980年代に入るとチームの弱体化は深刻なものになる。

1980年代

1981年(昭和56年)、マツダスポーツクラブ(マツダSC)に名称変更。同年、黄金期の選手の一人であった二村昭雄が監督に就任するが低迷を阻止する事は出来ず、翌1983年(昭和57年)一度目のJSL2部降格をする事になった。

そこで1984年(昭和58年)、今西和男が監督に就任し、古豪を復活させるべく改革に乗り出す。それまで日本人選手や日系人選手のみで構成された純血主義の伝統を打ち破り、オランダからハンス・オフトをコーチに、ディド・ハーフナーをGKコーチ(選手兼任)に招聘、オフトが実質的な監督として現場の全権を掌握し、今西は名目上の監督であるが実際はゼネラルマネージャー業務を行うことになった。オフトは伝統あるチームの再建に興味を持ちオファーを受けたが、チーム状況は最悪であった。選手達には技術、体力以前にメンタルに問題があるとし、意識改革を促す事から始めた。そして2年目から「シンキング・フットボール」を合言葉に戦術的な役割を事細かく教育し始めた。

また、大卒の即戦力選手の獲得が思うように成らなかった過去の経験から、2軍であるマツダSC東洋を強化し、高卒選手育成に努めた。

オフトの下で組織的に訓練されたチームは1985年(昭和60年)JSL1部昇格、同年度の天皇杯ベスト4進出。1986年(昭和61年)、マツダサッカークラブに名称変更、昇格初年度のJSL1部で7位と健闘。1987年(昭和62年)オフトが正式に監督となり、信藤克義(信藤健仁)・猿沢茂・高橋真一郎ら地元選手の奮闘もあり、同年度の天皇杯準優勝(0-2読売クラブ、現:東京ヴェルディ)するが、同年度のJSLでは不振が続き二度目の2部降格となった。この責任を取りオフトは辞任した。

1988年(昭和63年)、今西はビル・フォルケスをコーチとして招聘し、オフトの役割だった実質的な監督として置いた。フォルケスは母国の戦術で古い戦術でもあるキック・アンド・ラッシュ戦術を用いたが、オフト時代のアプローチと変わったこともあり一部選手には不評だった。1989年(平成元年)、当時2. ブンデスリーガでプレーしていた元日本代表の風間八宏を獲得する。マツダSC東洋で育成した選手達の成長もあって1991年(平成3年)にJSL1部復帰。日本リーグ最後の年となった1991-92シーズン、フジタ(現:湘南ベルマーレ)から移籍加入した高木琢也の活躍もあり、6位で面目を保った。

その後

1992年日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)創設に伴い、このチームを母体としてサンフレッチェ広島が誕生する。これに伴い、2軍(サテライト)扱いだったマツダSC東洋は新生「マツダSC」として中国社会人サッカーリーグに登録、サンフレッチェとプロ契約できなかった選手などが同チームに所属した。

OBの多くは現在もサッカー指導者・ゼネラルマネージャー・アドバイザー等として日本サッカー界に貢献している。

  • 2013年現在Jリーグ最高齢監督記録保持者である松本育夫 は元東洋工業監督である。
  • 2012年のJリーグでは、高橋真一郎(東京V)、松田浩(栃木)、小林伸二(徳島)、風間八宏(川崎)、上野展裕(新潟・暫定)、高木琢也(熊本)、森保一(広島)と、7人のOBがJリーグ監督を務めた。
  • 過去に東洋工業から日本代表監督を輩出しているが、サンフレ以降では森山佳郎(U-17日本代表)と森保一(A代表)がいる。
  • 日本代表GKコーチとして、ハーフナー・ディド(オフト監督時代)、望月一頼(トルシエ監督時代)を輩出している。
  • サッカークラブ球団社長経験者としては、丹羽洋介(長野)、今西和男(岐阜)、松本育夫(川崎)、織田秀和(広島)、河村孝(山口)、などがいる。

また2012年のJ1ではサンフレッチェが優勝したことにより東洋工業が最後にJSLで優勝した1970年から42年ぶりのトップカテゴリでのリーグ優勝、さらに2013年のJ1では1968年以来45年ぶりに連覇を達成した。

大会成績

天皇杯

JSL

国際試合

タイトル・表彰

歴代監督

下記国籍のうち日本人は国旗表記を省略する

  • 初期の山崎と小畑は選手兼任で監督を行っていたが、小畑は途中から監督専業となっている。
  • 1970年代の大橋と松本は年代別代表監督と兼務で行っており、その後大橋は東洋工業、松本は年代別代表の監督専任となった。
  • 初めての外国籍スタッフは、1983年夏の中断時期に短期来日したクラウツン。以降も外国籍スタッフが入っていたが、そのうち正式に監督職となったのはオフトのみ。
  • 1984年以降、名目上は今西が監督として登録されていたが、実際は外国人コーチが監督として現場で指導および指揮をしていた。なお、1991-92シーズンはフォルケスが日本を離れたこともあり今西が総監督名義で現場を指揮している。

歴代選手

所属全選手ではなく、名前のわかっているものを記載している。Category:東洋工業サッカー部の選手も参照。太字は国際Aマッチ出場選手。日本人は国籍欄省略。JFA 公認S級コーチライセンス取得者はS級欄に○。 ポジション欄の意味は以下の通り。

  • GK:ゴールキーパー
  • FB:フルバック、CB:センターバック、SB:サイドバック
  • HB:ハーフバック、MF:ミッドフィルダー
  • FW:フォワード

脚注

出典

参考資料

書籍
  • 『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ刊
  • 『広島スポーツ史』(財)広島県体育協会 1984年5月刊
  • 『栄光の足跡 広島サッカー85年史』(財)広島県サッカー協会 2010年6月刊
  • 『イレブンよ 熱き大地を駆けろ』勝沢要 テレハウス 1986年1月刊 ISBN 492474803X
  • 『ぽいち 森保一自伝―雑草魂を胸に』(森保一・西岡明彦共著)フロムワン 2004年2月刊 ISBN 4757210159
  • 『週刊サッカーマガジン』各号
  • 『週刊サッカーダイジェスト』各号
ホームページ
  • 賀川サッカーライブラリー
  • サッカー オンラインマガジン 2002world..com 日本サッカーの歴史
  • 47News 天皇杯特集
  • 広島サッカー向上委員会 今西和男インタビュー

関連項目

  • マツダスカイアクティブズ広島 - マツダのラグビーチーム。
  • マツダ系サッカークラブ
    • サンフレッチェ広島F.C
    • マツダオート広島サッカー部 - マツダのディーラーであるマツダオート広島のサッカー部。
    • マツダSC - 前身はマツダSCのサテライトチーム「マツダSC東洋クラブ」。
    • サンクFCくりやま - 札幌マツダ/アンフィニ札幌SC解散後、元所属選手が中心に結成。
  • 関連サッカークラブ
    • 藤和不動産サッカー部 - 湘南ベルマーレの前身で創部に東洋工業OBが絡んでおり、Jリーグ加盟時に広島をホームタウンとする話も存在した。
    • ジヤトコサッカー部 - 母体であるジヤトコは東洋工業の一部資本で開業した会社であり、創部当初は東洋工業OBが指導した。
    • 鯉城蹴球団 - 国泰寺高校OBのチーム。現在の天皇杯初の連覇。
    • 広島アカシアクラブ - 広大付属高校OBのチーム。国体優勝。

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 東洋工業サッカー部 by Wikipedia (Historical)



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