高島市(たかしまし)は、滋賀県北西部にある市。西近江路・若狭街道が縦貫する交通の要衝として発展した。人口は約4万人。琵琶湖岸から福井県若狭地方との県境まで市域が広がり、面積は琵琶湖の面積669.26 km2を上回る693.05 km2で、県内最大の面積規模を持つ。
古代から畿内(関西)と若狭(北近畿)・北陸地方を結ぶ古代七道の北陸道が通り交通の要所として栄えた。
安曇川と石田川流域の扇状地や三角州にまとまった平地があるほかは、比良山地や野坂山地など森林が広がり、琵琶湖の水質汚染も少なく自然豊かである。日本さくら名所100選にも選定されているマキノ町海津大崎には、花見シーズンになると10万人を超える観光客が訪れ、マキノ町のカタクリの花の群生地、今津町のザゼン草、新旭町針江区の川端(かばた)なども有名。安曇川沿いの扇骨生産や、『琵琶湖周航の歌』の発祥地としても知られている。日本海側気候で、特に旧今津町、旧マキノ町、旧朽木村は豪雪地帯対策特別措置法における豪雪地帯となっており、それを利用したスキー場も賑わいを見せる。森林セラピー基地に認定されている。
2003年2月には当時日本の対人地雷処理が行われていた新旭町にて、その処理の終了をきっかけにNPO法人難民を助ける会との共催で「第1回地雷をなくそう! 全国子どもサミット」、引き続き2004年8月に「第1回地雷をなくそう! 世界こどもサミット」が開催された。同市立今津中学校が行っている「アジア子どもプロジェクト」も有名で、2006年にはネパールからの奨学生を招いての交流を行った。
陸上自衛隊の今津駐屯地及び航空自衛隊饗庭野分屯基地があり、饗庭野演習場を有している。
日本に現存する最古の正史である『日本書紀』の継体天皇即位前紀に「近江国高島郡三尾之別業」とあるのが初見である。『日本書紀』編纂時の郡名を用いて記されたもので、奈良時代には「高島」の名が使われていた。
『万葉集』『和名抄』などに「太加之萬」と記されていることから、早い時期から「タカシマ」の呼称が定着したと考えられる。
『日本書紀』や『古事記』(8世紀初頭成立)よりも成立が古い『上宮記』(7世紀初頭の推古朝成立か?)逸文には、継体天皇の父彦主人王(5世紀前半から中期の人物)が「弥乎国高島宮」に居たとの記事があり、これが高島の市名の由来になったとする説がある。
縄文時代、安曇川や鴨川、石田川の沖積平野に人が住み着いた。(鴨遺跡・上御殿遺跡・天神畑遺跡・北仰西海道遺跡など)
弥生時代の3世紀以前に古代日本を代表する有力氏族である安曇族が定着した。安曇川の名は安曇族に由来する。県名の滋賀県も安曇族に由来すると言われている。(「滋賀郡」の郡名の由来を参照)
都と北陸地方を結ぶ人々の往来、物資の運搬や交易の最短路として高島は重要な拠点となる。(『古事記』の第15代天皇応神天皇段に、応神が近江から若狭を経て敦賀の気比の神に詣でるために行幸した。という記事がある。応神が実在したのかは不明だが、近江から若狭へ通じるルートは高島を通過する街道以外になく、この記事からも古代の主要路として使用されていた事が史実であるとわかる。)
古墳時代の450年頃、記紀によれば、応神天皇の5世子孫の第26代天皇である継体天皇は近江国高嶋郷三尾野(滋賀県高島市近辺)で誕生した。その地の付近には継体天皇の父親の彦主人王の陵墓とされる田中王塚古墳や、継体天皇を支えた三尾氏の首長または継体天皇の皇子の陵墓とされる鴨稲荷山古墳がある。継体天皇は、古代の神話のみで実在しないとされる天皇の中で、おおよその年代が推定できる実在が確実な最初の天皇である。(例えば、継体は第15代天皇の応神天皇の5世子孫とされるが、その応神天皇自体の実在を疑う説がある。継体の前代の第25代天皇の武烈天皇も実在を疑う説が強い。継体天皇擁立の前に大伴金村、物部麁鹿火らの豪族が擁立しようとしていたのは14代仲哀天皇の5世孫の倭彦王であるが、仲哀天皇も倭彦王も実在が疑われている人物である。)
3世紀から7世紀の古墳時代において、湖西北部(現在の高島地域)において古墳群が築造される。
飛鳥時代の672年、壬申の乱では高島の三尾が戦場となり、三尾城が陥落する。
7世紀後半くらいに日置前に官衙的機能を持つ建物が建てられる(日置前遺跡)。
奈良時代の764年、藤原仲麻呂の乱で敗れた藤原仲麻呂(藤原恵美押勝)は、高島の三尾付近の湖上にて坂上石楯に斬り殺される。
8 - 9世紀にかけて、渤海使が国際航路として高島を使用した。
平安時代9世紀頃の高島郡は、『和名類聚抄』によると、「木津」「鞆結」「善積」「河上」「角野」「三尾」など10郷の存在の記載がある。このうち木津荘(旧饗庭村)は、保延4年(1138年)に山門(比叡山延暦寺)領に加えられ、富永荘(伊香郡)、栗見荘(神崎郡)とともに、「三箇庄聖供領(千僧供領)」と言われ延暦寺の重要な経済基盤を担った。
高島は、『延喜式』の近江国式内社155座の約4分の1に当たる34座(式外社の白鬚神社を含めると35座)があり、古代近江において重要な地位を持っていた。
鎌倉時代初期、近江源氏である佐々木信綱の子の佐々木高信が、父信綱より高島郡に所領を分与されて高島氏を称し、高島高信と名乗った。高島氏は後に数流に分かれたが、それぞれ高島郡の各所に居城を構え、戦国時代まで栄えた。高島一族には惣領家である高島氏を筆頭に、高島朽木氏、高島永田氏、高島平井氏、高島横山氏、高島田中氏らがあった。
室町時代の応永29年(1422年)の『木津荘検注帳』、年次不詳の『木津荘引田帳』などから安曇川・鴨川デルタ地帯(旧新旭町・旧安曇川町・旧高島町)は条里制が敷かれていたことが知られている。
室町時代の享禄元年(1528年)室町幕府12代将軍足利義晴は細川晴元・三好元長らの反乱の難を避け、朽木稙綱を頼って享禄4年(1531年)まで朽木興聖寺に滞在していた。
天文22年(1553年)、三好長慶との戦い(東山霊山城の戦い)に破れた室町幕府13代将軍足利義輝は伯父である前関白近衛稙家らを伴い、朽木元綱(朽木稙綱の孫)を頼って朽木谷に逃れ、以降5年間を朽木岩神館で過ごした。
高島高信以降の高島氏歴代は、高島平野の中央部(安曇川北岸の饗庭野丘陵末端・新旭)にある清水山の清水寺跡に清水山城を築いて居城とした。築城の年代は不詳であるが、北野天満宮史料『目安等諸記録書抜(文安4年(1448年)12月4日記録)』に、清水寺に関する記録があることから文安4年以降の築城と考えられる。鎌倉時代室町時代と将軍家に直属する奉公衆として栄えた。しかし享禄4年(1531年)より浅井郡の戦国大名浅井亮政の侵攻が始まり、永禄11年(1568年)には浅井氏の影響下に置かれることになった(『朽木文書』史料)。元亀年間、明智光秀ら織田信長軍の進攻により高島氏宗家は高島郡を追われた。朽木氏は市西部の朽木谷を鎌倉時代・室町時代を通して領しており、織田政権に続いて豊臣政権、江戸幕府に従い、旗本として幕末まで転封することなく栄えた。その後、磯野員昌により新庄城に政治の中心が移ったが、間もなく入城した津田信澄により大溝城に政治の中心が移された。信澄の後は京極高次などが大溝城主となった。
江戸時代の元和5年(1619年)に分部光信が伊勢上野より入封して大溝藩が成立し、以後、明治維新まで分部氏が治めた。江戸時代の高島郡は、天領、大溝藩領、小浜藩・加賀藩・・膳所藩・郡山藩の飛び地、旗本朽木氏の知行地などが混在していた。江戸時代は、幕府の役所が設置された海津村(旧マキノ町)と城下町である大溝村(旧高島町)を中心に発展した。
明治時代になり、大日本帝国陸軍の駐屯地・饗庭野演習場が置かれたことをきっかけに今津村(旧今津町)に高島郡役所が設置され、以後、国・県の出先機関は今津に設置されるようになった。
※市制執行以前の市域の歴史については、高島郡も参照
現在の市役所は暫定的なもので、将来的には県道安曇川今津線に面する今津町今津字南沼に新庁舎を建設するとしている。高島市の条例第1号でも「今津町今津448番地20」が「本市の事務所の位置」として明記されている。しかし2013年1月の市長選で新庁舎建設凍結を公約の一つに掲げる福井が当選し、現庁舎を増改築する方針に転じた。これに対して旧今津町では「合併協定書を守る市民の会」が結成されるなど、方針転換への反発が起こっている。
2017年8月14日、今津支所が庁舎の老朽化に伴い旧今津町役場から新庁舎へと移転。
2017年8月から2019年3月にかけて本庁舎新館の増築と本館の改修が行われ、新館が2018年10月9日、本館が2019年5月7日にオープンした。これに伴い、高島市役所別館と安曇川支所内の教育委員会の業務が本庁に集約された。
高島簡易裁判所と大津家庭裁判所の出張所、高島区検察庁があるが、高島区検は大津地方検察庁及び大津区検察庁の検事が事務取扱の発令を受け、大津で事件を処理している。
漁業協同組合
漁港
かつては信長ゆかりの自治体の集まる「織田信長サミット」にも参加し、1996年には第13回サミットを高島町(当時)で開催したが2007年のサミットを最後に離脱している。
湖西線が市の東部を南北に縦断している。市内に下記のとおり6駅が存在し、そのうち一部の特急が停車する近江今津駅が拠点であるといえる。市役所への最寄り駅は新旭駅である。
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