堺市(さかいし)は、大阪府の泉北地域にある政令指定都市。府内では大阪市に次いで人口が多い。
大阪府による地域区分では泉北地域とされるが、市制施行時の堺市域や南河内郡の旧郡域など歴史的に泉北郡ではなかった地域が多く含まれており、他の泉北地域3市1町とは区別されることもある。
大阪府内で人口・面積ともに大阪市に次いで第2の都市であるが、政令指定都市の中で比較すると面積は神奈川県川崎市に次いで2番目に小さい。人口は2022年1月1日時点で佐賀県、山梨県、福井県、徳島県、高知県、島根県、鳥取県を上回る。
大阪市の衛星都市(ベッドタウン)としての一面を持ち、居住人口に比べて昼間人口の割合(昼夜間人口比率)が低く、大阪都市圏に含まれている。
日本最大の大仙陵古墳を含む百舌鳥古墳群など、市内には古墳が多いことでも知られる。また、中世には外国貿易が盛んな自治都市として博多と並ぶ商人の街へと発展し、環濠都市を築いた(詳しくは「堺」も参照)。江戸時代には幕府の直轄地となるなど、都市としての歴史は古い。
「堺」の地名は平安時代には見られ、摂津国、河内国、和泉国の「境(さかい)」に発展したことによると言われている。「境」「左海」などとも表記された(宿院交差点にある石灯籠には「左海たばこ庖丁鍛治」と書かれてある)。
鎌倉時代以降は、摂津国と和泉国の荘園名として見られ、江戸時代以降は、両国の国境に大小路という東西幹線を敷いた町となった。宝永年間には大和川の付け替えが行われたが、1869-1870年まで大小路は摂泉国境(大小路以北の堺市街は摂津国であった)の役割を果たした。
国境が大和川に変更された後は和泉国のみに属する町となった。明治時代に入り、1880年の郡区町村編制法施行により、のちに堺市となる堺区(郡区制)が発足し、のちに泉北郡となる大鳥郡から分離した。また、1938年の南河内郡金岡村編入以降、和泉国と河内国に跨る市域を形成するようになり現在に至っている。このため、他の泉北地域と区別して「堺・泉北」のように併記されることがある。
堺商人が全国で活躍した証しとして、旧城下町から発展した都市には「堺町」もしくは「栄町」という地名が今も残っている。
大阪平野のやや南を西流する大和川の左岸下流域に位置する。大阪湾に西面し、北は大阪市、北東は松原市、東は羽曳野市、富田林市、南東は大阪狭山市、河内長野市、南西は和泉市、高石市に接している。市内は7つの行政区に分かれ、堺区が北西部に、美原区が東端部に位置する他は、中区、東区、西区、南区、北区と方位による区割となっている。
市域は丘陵・台地・低地・埋立地に分けられる。泉北丘陵に堺市最高点(標高268.9m)がある。信太山台地に位置する大仙陵古墳(標高44m)は「大山古墳」とも表記されるが、高さ35mの古墳である。低地に位置する蘇鉄山(標高6.97m)は築山(堺台場跡)である。
典型的な瀬戸内海式気候である。以下は気象庁が公開しているデータ。
次の7区が設置されている。詳細は各区の項を参照のこと。
沖積平野を含みおおむね平坦で、海岸線に沿って南北に通る紀州街道(国道26号~大阪府道204号)と熊野街道(小栗街道。大阪府道30号)に沿って早くから市街化している。元来の市街地である堺区の環濠内は紀州街道を大道と称して南北幹線としており、西区の中心となる鳳は小栗街道に沿う大鳥大社の鳥居前町として発展した。鉄道も両街道に沿うように南海本線、阪堺線、阪和線が通っている。これらの他、環濠内の堺市街地から東へ長尾街道(大阪府道12号)と竹内街道(大阪府道31号)、南東へ西高野街道(国道310号)が伸び、鉄道は西高野街道に沿うように南海高野線が通っている。
おおむね熊野街道の東側は信太山台地と呼ばれる高台が広がり、閑静な住宅地が多い。上野芝駅に近い霞ヶ丘や向ヶ丘といったやや規模の大きい住宅地は阪和線の母体である阪和電気鉄道により昭和初期に分譲された。また、この高台には北区にかけて古墳が多い(百舌鳥古墳群)。沿岸部は旧堺港南側の大浜海岸をはじめとして、かつては一大海浜リゾート地で知られ、西区の浜寺には高級住宅街も建設された。しかし、堺泉北臨海工業地帯の造成によって石津川以北は往時を偲ぶ影もなくなり、以南の浜寺水路と浜寺公園の松林に辛うじて名残が見られる。
信太山台地から南へ泉北丘陵が広がり、石津川水系の河川に沿って古くからの集落が見られる。上述の交通網の影響から、交通過疎地といった状態が続いて発展が遅れていたが、泉北ニュータウンの開発で一変し、大阪市のベッドタウンとなった。鉄道は南海高野線に乗り入れる泉北高速鉄道が縦断する。また、この地域は須恵器の窯跡が多数発掘されている(陶邑窯跡群)。
西除川を境に西側の信太山台地と東側の美原台地に分かれる。台地は比較的平坦であるが、東除川の東側には富田林丘陵が広がる。西除川と東除川はどちらも狭山池の放水路であり、かつ大和川水系の河川である。大半が南河内郡の旧郡域にあたる。
東区では、昭和初期から高野沿線で住宅開発が行われ、南海鉄道(現・南海電気鉄道)の分譲による初芝住宅や、街の中央に噴水広場を設けた大美野の高級邸宅街が開発されている。第二次世界大戦前は堺市街の東縁・東郊に過ぎなかった北区は戦後、金岡団地や新金岡団地、中百舌鳥公園団地等の開発で急速に市街化した。1987年には御堂筋線がなかもず駅まで延伸され、現在では泉北ニュータウンから伸びる泉北高速鉄道と大阪市内へ向かう御堂筋線の接続駅として、多くの人に利用されている。また、この地域は美原区を中心に河内鋳物師ゆかりの地である。現在は何れの区も典型的な大阪市のベッドタウンとなっている。
1980年以降、人口は概ね横ばいを続けている。
現在の堺市域に人が定住したのは古く旧石器時代とされる。市内各地の南花田遺跡などからは旧石器時代の打製石器や縄文時代の土器・石器、弥生時代の銅鐸・土器などが発掘されている。また、浜寺の四ツ池遺跡は池上・曽根遺跡(和泉市・泉大津市)と並ぶ弥生時代の集落遺跡で、堺市域では最大規模を誇る(浜寺中学校造成と第二阪和国道敷設工事のため遺跡としての形はとどめていない)。1989年には国の史跡に指定された。このほか、石津川流域の下田町や鶴田町でも、竪穴建物跡を中心とする集落跡や土器・金属器などが出土している。
古墳時代には、泉北丘陵を中心に須恵器の生産が行われた。生産は奈良時代を経て平安時代まで続いた。泉北ニュータウン周辺や信太山丘陵にかけて須恵器の窯跡などの遺跡が点在しており、「陶器」「釜室」などの地名が現在に至っても残る。ヤマト王権成立後は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)など大小100数基の百舌鳥古墳群が造られた。神功皇后が三韓征伐からの帰途、現在の七道の浜(当時は摂津国住吉郡)に寄り、地元の田裳見宿禰(摂津国住吉郡の豪族)に津守氏の姓を与え、住吉三神を祀るように告げたという(住吉大社の起源)。
飛鳥時代になると、難波宮、難波京や難波津から聖徳太子ゆかりの仏教寺院である四天王寺を経て上町台地を南北に貫く難波大道と、飛鳥京と方違神社を東西に結ぶ丹比道(竹内街道の前身)、大津道(長尾街道の前身)が整備される。奈良時代から室町時代にかけて、これらの街道沿いの美原区大保(丹南)や北区金岡・東区日置荘周辺には河内鋳物師と呼ばれる人たちが多く住んでおり、東大寺再興や鎌倉大仏の鋳造などで活躍した。また、行基が大野寺を建てた。
平安時代には熊野詣の宿として境王子と大鳥居王子が設置された。
鎌倉時代には京都、奈良など後背都市の産業を背景に南北の堺荘が成立した。
南北朝時代には、南朝方の住吉大社宮司の津守氏に関係して南朝の外港的役割を担うようになり、廻船が発着する港へと発展した。地下請の特権を得て、室町時代には足利将軍家や管領細川氏などが行った日明貿易(勘合貿易)の拠点となる。戦国時代には明やルソン、カンボジアなど東南アジア方面での貿易で栄えた。
応仁・文明の乱以後、それまでの兵庫湊(大阪湾北西部、現在の兵庫県神戸市)に代わり堺は日明貿易の中継地として更なる賑わいを始め、琉球貿易・南蛮貿易の拠点として国内外より多くの商人が集まる難波津や住吉津などと同様、国際貿易都市としての性格を帯びる。キリスト教布教のため来日していたイエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラは、その著書『耶蘇会士日本通信』のなかで、「堺の町は甚だ広大にして大なる商人多数あり。この町はベニス市の如く執政官によりて治めらる」と書いた。この文章によって、堺の様子は当時の世界地図に掲載されるほどヨーロッパ世界に認識されることとなる。ヴィレラの後継宣教師であるルイス・フロイスもまた、マラッカの司令官宛に「堺は日本の最も富める湊にして国内の金銀の大部分が集まるところなり」と報告、その著書『日本史』のなかで堺を「東洋のベニス」と記している。なお、フロイスは永禄の変の後4年ほど堺に滞在している。
安土桃山時代には貿易港としての地位を揺るぎないものとし、戦乱から町を守るため周囲に堀を巡らせた環濠都市を形成。会合衆(えごうしゅう、かいごうしゅう)と呼ばれる商人たちが自治的な都市運営を行い、中世の自治都市となるが、その価値に注目した織田信長、豊臣秀吉らの前に屈服。自治機能が解体され、彼らの支配下(直轄地)に置かれた。古代からの港湾都市としては他に大坂の住吉津や難波津、中世に渡辺津、朱印船貿易で活躍した末吉孫左衛門など豪商を輩出した自治都市の平野郷などがあった。渡辺津近くの石山本願寺跡地に大坂城が築かれ、城下町 (船場周辺) が整備されるに伴い平野商人や京都の伏見商人(現在の大阪市中央区の平野町や伏見町にその名を残している)が移動し、堺商人の多くも大坂へ移住した。同様に全国各地の城下町にも堺商人などが移り住むようになる。産業面では戦国期より鉄砲(火縄銃)生産が盛んに行われた。また文化面では今井宗久や千利休、津田宗及に代表される茶の湯などが特記される。特に信長から武装解除された大和国今井(現在は奈良県橿原市)との交流は深く、竹内街道を通じ江戸時代まで毎日行き来した。「海の堺」に対し「陸の今井」と呼ばれ、堺同様に自治都市として栄えた。
江戸時代には堺奉行が置かれ、糸割符など保護を受けるが、鎖国の成立とともに経済の中心は再び大坂へ移り、管轄も大坂町奉行が兼任する。1704年には大和川の付け替え工事が行われ、陸続きであった堺と住吉が分断された。しかも、この開削により河口付近に多量の土砂がたまったため、堺港に大きな船が停泊できなくなり、港湾機能も縮小せざるを得なくなった。
しかし、中世の自由都市堺と、江戸初期の堺の財力は莫大なものがあり、それが後世の日本に与えた影響は大きい。中世の日本において一貫して大都市といえるのは京都だけであり、当時陸運の便利がよい京都に商人の大半が集中していた。一方、堺商人は海運のため全国の中小港湾都市に莫大な投資を行った。その当時既に繁栄していた博多、鹿児島、大分などはともかく、それ以外の全国の多くの都市について、その発展の基礎部分に中世の堺商人の投資が大きな影響を与えているともいえ、それは大阪、名古屋、東京も例外ではない。
江戸時代でも後期に入ると、醸造業などが栄えた影響で再度活気を取り戻すようになる。幕末になり、欧米列強が大坂の開港を要求すると、大坂が京都に近いため堺がその代港候補に挙がる。だが江戸幕府内勤皇派は、堺周辺には古墳が多いため、堺を開港地にすると外国人が無断で古墳に出入りする可能性があると指摘。そのため、第二候補であった摂津国の兵庫(神戸)が開港地に選ばれた。この結果、堺は中世以来の国際貿易港への復帰の道を閉ざされ、その座を神戸に明け渡すことになった。
明治時代以降は、紡績や煉瓦産業を中心に次第に工業都市へと変貌を遂げていき、阪神工業地帯の一角を占める経済的地盤を作り上げていく。
1934年(昭和9年)9月21日、室戸台風接近に伴い暴風雨による被害。九間町の錦小学校では旧木造校舎が倒壊して約150人の児童らが下敷きとなり、死傷者多数。また、殿馬場小学校の校舎も倒壊したが死傷者は無し。南海本線では堺駅、七道駅間に停車していた電車1両が転覆。。
太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)当時、日本には180の都市があり、うち58都市がアメリカ軍による空襲を受けた。アメリカ軍は180都市を人口の多い順に空襲する作戦をとり、堺市は人口18万人で空襲順位は24位であった。広義の「大阪大空襲」で着弾目標地点が置かれたのは大阪市(空襲順位2位)と堺市、兵庫県尼崎市(同25位)のみである。アメリカ軍は堺市を空襲都市に選んだ理由を「堺の主要価値は大阪市に近接していて、その工業が大阪市と統合されていることである。また、この都市は大阪の軍需工場の労働者に住宅を提供している。大阪の工場に打撃を与えるために、堺の軍需工場は疎開可能箇所として重要である」(アメリカ軍の作戦任務報告より)としているが、実際は非戦闘員を目標にした無差別爆撃であった。被害は工場より民家に集中した。
戦後の高度経済成長期以降は大阪都市圏の発展・膨張とともに、泉北ニュータウンの開発に代表されるような、大阪市の衛星都市(ベッドタウン)としての側面も兼ね備えるようになった。
なお、堺市の町名には「○丁目」の「目」がつかない。1872年の町名改正で、改正前までは独立していた小さな町を「○○東一丁」や「○○西一丁」などに変更し、「丁」に「町」と同格の意味合いを持たせたことに由来する。以後、周辺の町村を合併し市域に編入したが、町を細分する場合も前例に倣い「丁目」を使っておらず、元々の堺市ではなかった美原区を除く市内全域が「丁」で統一されている。
1982年に発表された大阪府の総合計画で、豊中市の千里中央、東大阪市の荒本とともに、堺市の中百舌鳥が「大阪府の新都心」として位置付けられることになった。1983年には堺市も総合計画を発表し、中百舌鳥を「堺市の副都心」として位置付けた。ちょうど中百舌鳥にあった日本ピローブロック製造の本社工場が美原町(当時)に移転することになり、その跡地に大規模商業施設を誘致することも計画に盛り込まれた。同時に堺市役所の本庁機能の中百舌鳥移転も計画されたが、現本庁のある堺東駅周辺の商店会などから、同駅周辺の経済が地盤沈下することを理由に強い反対を受けて頓挫している。1987年4月に地下鉄御堂筋線が中百舌鳥まで延伸されたことを機に区画整理事業が始まった。大規模商業施設への出店を募ったところ、そごう、西武百貨店、阪急百貨店などが入札に参加した。設計競技段階では西武が落札したが、駅周辺の土地を先行取得していたそごうが西武への土地提供を拒否。「そごう所有地」の看板を掲げて、西武と縄張り争いのようになった。一方、堺市はなかなか進まない事業を後押しするため1991年、「第三次堺市総合計画」で改めて中百舌鳥を新都心として位置付けるなど事態の収拾に乗り出したが、1992年に西武は「業績悪化」を理由に中百舌鳥進出を断念。事業からの撤退を表明した。バブル崩壊により、そごうも1993年、中百舌鳥からの撤退を表明。再開発事業は失敗に終わった。その後、西武とそごうは「ミレニアムリテイリンググループ」(→そごう・西武)として経営統合され、現在に至る。これらの経緯から、近年まで中百舌鳥駅北側は更地が多かったが、2002年になって駅前にロータリーが完成した。大規模計画が全て頓挫したことによって、駅周辺には無秩序にマンションや商業ビルが林立している。
都市再生緊急整備地域は都市再生の拠点として国が定めたもので、都市開発事業などを通じて重点的に市街地整備を推進すべき地域とされている。堺市内では以下の3地域が指定されている。
行政区施行に伴い、堺市議会(定数52、法令定数より4人少ない)および大阪府議会の旧堺市選挙区(定数10)は、以下のように分割された。その後、市議会は定数を48に、府議会は堺市域の定数を8にそれぞれ削減された。また各区の人口増減などにより定数の見直しが行われている。
½: 東区と美原区(合区)で定数1
2005年(平成17年)2月1日に東隣の美原町を編入合併した。この編入合併によって政令指定都市の実質上の要件である80万人を超えたため、2006年4月1日に大阪府内では2番目の政令指定都市へ移行した。
なお、隣接する高石市や大阪狭山市との合併も検討していたが、2003年(平成15年)に高石市で合併の是非を問う住民投票が行われ、反対多数により堺市との合併問題研究協議会は解散。大阪狭山市では合併協議会設置が市議会で否決された。しかし、合併はならなかったが、高石・大阪狭山両市とは消防事業は共同で行っており、また、大阪狭山市内には堺市の飛び地が存在する。
複数の政令指定都市が存在する都道府県は、これまでにも神奈川県(横浜市、川崎市、後に相模原市)、福岡県(福岡市、北九州市)の2つしかなく、堺市の政令指定都市移行により、全国3府県目の事例となった。その後、静岡県(静岡市、浜松市)も加わり現在は4府県となっている。また、都道府県内の人口占有率が1割に満たない初めての例であり、2010年4月に移行した相模原市が2例目となる。
1960年代前半まで
1960年代後半(合併で移行めざす)
1970年代前半(合併白紙の余波)
1970年代後半 - 1980年代(合併せず単独で移行めざす)
1990年代前半(支所制度の導入)
1990年代後半(中核市へ移行)
2001年以降(再び合併で移行めざす)
現在、市内には102箇所の郵便局があり、そのうち集配局は6局、無集配局は96局である。
なお、政令指定都市への移行前に、行政区の前身であった当時の支所毎に、集配郵便局及び郵便番号の上5桁を一致させるため、集配郵便局と郵便区の再編が行われた。
市内全域が市外局番「072」の堺MAとなっている。
市内通話が可能な地域
南大阪地域大学コンソーシアムの事務局など北区に所在している。
1922年から1939年まで、1955年から1965年まで水上航空路線が存在した。
中心駅となる駅は、市役所最寄駅である南海高野線の堺東駅。
堺市内を走る鉄道は、全てが大阪市から郊外へ南北に縦断する路線で、東西方向の交通はバスに依存している。そのため、かねてより東西方向を結ぶ鉄軌道の導入が構想されていた。1960年代前半には近鉄が古市(のちに布忍に変更)~堺間を結ぶ鉄道の敷設を提案し、南海が八尾~堺間を結ぶ鉄道の敷設を提案したが、両社の激しいにらみ合いや急激な宅地化による用地買収の困難などにより、実現できなかった。地下鉄なども候補に挙がっていたが、木原市長時代に堺東駅から南海本線堺駅を経て堺浜方面へ向かうLRT(超低床電車による次世代路面電車)の導入が決定した。しかし、LRTの建設中止を公約に掲げて2009年に就任した竹山市長は2010年1月、公約通り、南海電鉄に対してLRT計画の中止(事実上の白紙撤回)を申し入れた。計画予算も調査費用の300万円を残して削減。計画は暗礁に乗り上げた。これにより、LRT計画による活性化が見込まれていた阪堺電気軌道阪堺線も堺市内区間廃止の可能性が高まったが、堺市は2010年から10年間にわたり、運賃割引などの利用促進策に年間2億円を上限に補助するほか、新型車両の導入などに総額30億円を助成する支援策を公表した。
大阪モノレールは大阪中央環状線上を通り、大阪空港と堺泉北臨海工業地帯を結ぶ路線として1970年代後半に計画。1980年に運営母体となる大阪高速鉄道が設立された。また、大阪府が計画した3大副都心地区「千里中央」「荒本」「中百舌鳥」(厳密には新金岡)を繋ぐ目的もあった。当初は大阪空港側と堺側から同時に着工する計画だったが、建設費などの問題から大阪空港側のみの着工となった(堺側は中央分離帯にフェニックスが植えてあるため、着工するには伐採する必要があった)。1990年に千里中央 - 南茨木間が開業し、現在は大阪空港から門真市までが開通しており、今後は東大阪市まで南伸する計画だが、それより先、堺市内までの延伸計画は今のところない。堺市の積年の課題である「東西交通の不備」は、このモノレールに期待を寄せていたことも原因の一つとしてある。
堺市には公営交通(公営バス)の運行実績がなく、現在も市営バスはない。
市内交通のほとんどは南海バスが担っている。南海高野線の堺東駅のほか、南海本線の堺駅、泉北高速鉄道線の泉ヶ丘駅などにターミナルを持つ(初芝駅から平尾方面の路線は2022年3月31日まで南海バスの子会社である南海ウィングバス金岡が担当していたが、翌日南海バスに吸収された)。また、美原区や東区内には近鉄南大阪線の河内松原駅をターミナルとする近鉄バスが運行されている。このほか、かつて大阪市電が乗り入れていた関係で、堺区には大阪市営バスを引き継いだ大阪シティバスの路線が伸びる。また、2023年2月1日より大阪狭山市循環バスが北野田駅前、美原区役所前に乗り入れている。
乗車方法は基本的には後乗り前降り後払いで、運賃は整理券方式の区間制。なお、大阪シティバス(旧・大阪市営バス)は後乗り前降り後払いの均一運賃制、南海バスの堺シャトルは前乗り後降り前払いの均一運賃制である。各社ともPiTaPaおよび交通系ICカード全国相互利用サービスに対応している。かつては南海バス・南海ウイングバス金岡・近鉄バス・大阪市営バス・大阪シティバスともに磁気プリペイドカードであるスルッとKANSAI対応カードが使用できた。
南海バス運行便には「サザンクロス」、和歌山バス運行便には「サウスウェーブ」の愛称が付く。一部停留所は省略し、関西側の停留所は堺市内のみ掲載。
一部停留所は省略。
一部停留所は省略し、降車専用停留所は堺市内のみ掲載。
堺市内の道路には以下のような愛称が付けられている。
2005年7月に国土交通省がご当地ナンバーを新たに認定したことから、2006年10月10日より自動車登録番号標・車両番号標(ナンバープレート)の地名表示が和泉から堺へ変更された。同年10月10日以降に和泉自動車検査登録事務所(和泉市)で新車購入時の新規登録をするか、他地域からの転入や名義変更などの際に取得できる。
甲子園出場校
八幡製鐵が堺市に製鐵所を設置したのは1961年。1969年にはバレーボール部が北九州市から堺市に本拠地を移転した。1970年、八幡製鐵と富士製鐵が合併して社名が新日本製鐵になる。バレーボール部は「燃える鉄人」の愛称を持ち「新日鐵ブレイザーズ」と名乗った。2001年からクラブチームとして「堺ブレイザーズ」に改称し、地域密着を図っている。
大相撲春場所(大阪場所)が難波の大阪府立体育会館で行われるため、距離的に近い堺市に場所中、以下の部屋が宿舎を構える。
大浜は学生(アマチュア)相撲発祥の地である。1919年、旧大浜相撲場で第1回全国学生相撲大会・全国中等学校相撲大会(大阪毎日新聞主催)が開かれた。その後、東京に主会場を変更したが、1974年から開催地が再び大浜に戻った(当初は大浜体育館の特設土俵)。1981年には大相撲と同じ規格の「大浜公園相撲場」が完成。現在、全国学生相撲選手権大会は、東京の両国国技館と隔年ごとに開催されている。なお、大浜公園相撲場は女子も土俵に上がることができる。
大浜公園相撲場で開かれる主な大会
堺市には臨海工業地帯が造成されるまで海水浴場が4か所(大浜・湊・諏訪ノ森・浜寺)あった。なかでも浜寺は、海浜リゾート地として全国に名を知られていた。現在でも諏訪ノ森から浜寺公園にかけての一帯は、大仙公園周辺とともに「風致地区」に指定されている。また愛知県碧南市にはかつて、浜寺の白砂青松にあやかった「新浜寺海水浴場」があり、海岸が埋め立てられた今も「浜寺町」の地名が残る。泉大津市にも1960年代半ばまで「南浜寺」という地名が存在した(現在の松之浜町)。近くに助松海水浴場があり、「浜寺」ブランドにあやかった別荘地として知られた。現在も区画整理された町割に邸宅が点在する。
現在、滋賀県大津市の皇子山陸上競技場をスタート・ゴールに行われている「びわ湖毎日マラソン」と、京都市の西京極陸上競技場をスタート・ゴールに行われている「全国高等学校駅伝競走大会」は1960年代まで大阪で開催しており、堺市内もコースに含まれていた。両大会とも毎日新聞社主催のため、大阪市堂島の旧毎日新聞本社前を発着点にしていた時期もあった。現在の国道26号・府道堺阪南線をコースに使用していたが、交通渋滞などのため、いずれも変更された。
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