ラグビー日本代表


ラグビー日本代表


ラグビー日本代表(ラグビーにほんだいひょう)とは、日本ラグビーフットボール協会が組織するラグビーユニオンのナショナルチーム。愛称は「ブレイブ・ブロッサムズ」(BRAVE BLOSSOMS)。古くからのラグビーファンの間では「ジャパン」と呼ばれる。時の監督、ヘッドコーチの名前を冠して、「大西ジャパン」「宿澤ジャパン」「エディージャパン」 などと呼ばれ、2021年現在は「ジェイミージャパン」 と呼ぶ。

ファーストジャージのデザインは、赤に白の横線。全開の桜3弁があしらわれており「桜のジャージ」と呼ばれる。1930年にカナダへ初の海外遠征が行われ、日本代表ジャージが作られた。その初戦は9月1日、スタンレー・パーク競技場での全バンクーバー戦。ジャージには「つぼみ、半開き、全開」の3弁の桜がデザインされていた。現在のような3弁とも全開したデザインは、1952年10月1日 東大阪市花園で行われたオックスフォード大学戦 からである。

通常、日本代表と呼ばれるものは、日本協会所属選手における最強メンバーによるいわゆるフル代表(テストマッチの成立要件となる)を指し、ここではそれに関する記述を行う。ほかに、日本代表の予備軍とされる日本A代表と日本B代表、U23、U20日本代表、U19などの年齢別代表、サンウルブズのようなスーパーラグビー出場のためのチームがあり、それらはテストマッチの成立要件には該当しない。

歴史

1930年~ 黎明期

日本代表誕生

初めて日本代表が編成されたのは1930年のカナダ遠征である。香山蕃が初代監督に就任し、全7戦のうち6戦目のブリティッシュコロンビア州代表 (以下、BC代表)戦が初のテストマッチ認定試合となった。この海外遠征は、6勝1分の成績を残した。

国内での初のテストマッチは1932年のカナダ代表との対戦であった。戦前最高のプレイヤーと呼ばれた笠原恒彦 (明大)らの活躍により、戦績は日本の2戦2勝だった。香山は1930年から1934年まで監督を務め、テストマッチで3勝1敗の成績を残した。

一方、1932年から1962年までは海外での試合はなく、国内でのみ試合を行なった。この間、ニュージーランド学生代表クラブ (NZU)、オーストラリア学生代表、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学の他、在韓ニュージランド部隊や極東英連邦軍チームなどと対戦したが、ほとんど勝てなかった。

1963年、葛西泰二郎が監督に就任し、33年ぶりにカナダへ遠征。同年4月13日のBC代表戦を33-6で制し、海外遠征テストマッチ初勝利を挙げた他、通算成績4勝1敗の成績を残した。ちなみに同遠征メンバーの中に、後にグレート草津としてプロレスラーとしての道を歩むことになる草津正武もいた。

1966年~ 大西ジャパン

NZ遠征

その後2年間は試合が行われなかったが、1966年に大西鐡之祐が監督に就任すると、2年後の1968年にニュージーランド (以下、NZ)とオーストラリアへ遠征し、1か月間で11試合を行い、6月3日のオールブラックスジュニア戦と6月8日のNZU戦がテストマッチ対象試合となった。そしてオールブラックスジュニア戦では、坂田好弘が4トライを挙げるなどの活躍を見せて23-19で撃破するという大金星を挙げた。翌日の地元新聞には、「NZラグビー暗黒の日」という見出しが踊ったという。この長期遠征は5勝6敗の成績だった。

日本選手権出場辞退事件

1969年に開催された第1回のアジアラグビーフットボール大会 (アジア選手権ともいう)で優勝。タイ・バンコクで開催された1970年の第2回も制覇したが、第2回開幕直前に、1969年度の全国社会人ラグビーフットボール大会で優勝した近鉄、準優勝のトヨタ自工、同3位の三菱自工京都が相次いで、アジア選手権に主力を送り込むため、同年度の日本ラグビーフットボール選手権大会 (日本選手権)を辞退することを表明する騒動が起こった (詳しくは、日本ラグビーフットボール選手権大会#日本選手権の辞退を参照)。アジア選手権の開催日程が1月10日から18日までとなっており、1月15日に開催される日本選手権と日程が重なったためである。

このような騒動があったものの、アジア選手権連覇を果たした日本は、1970年3月に、NZUとBC代表を日本に招いてテストマッチを行なったが、このとき、日本のエース、坂田好弘はNZUのメンバーとして出場した。結果、BC代表には32-3で快勝したが、NZUには3戦全敗。ついに、大西ジャパン時代には、長年の宿敵であるNZUには勝つことができなかった。

母国相手に大健闘

1971年9月、ラグビーの母国、イングランド代表が来日した。同月24日に花園 (19-27)では、双方5度に亘る逆転劇というシーソーゲームの末敗戦。28日の秩父宮では花園の一戦とは違って双方ノートライのロースコアゲームとなった。日本は山口良治が挙げた1ペナルティ・ゴール (PG)しか得点を奪えなかったが、後半32分頃に訪れた、宮田浩二があと2センチあればトライを取れていたシーンがあるなど、80分間に亘り、イングランドと互角以上に渡り合った。結果、3-6で惜敗した が、今もなお、日本代表試合史上に残るベストゲームとして語り継がれている。

「〇〇ジャパン」のルーツ

大西は、早大監督時代から海外列強の理論を導入。寄せ集め的な日本代表チームの編成に異議を唱え、日本代表の強化・セレクションの基礎を作り上げた。日本代表監督に就任する前、当時はラグビーでも「全日本」という言い方をしていたが、それではただの寄せ集めチームの名前に過ぎないとして、「いいか、君らは日本を代表して戦うんだ!よって(親しみを込めて)これから『ジャパン』ということにする。」と、代表選手を集めたミーティングで説き、以後暫く、「ジャパン」といえば、ラグビー日本代表のことを指すようになった。また、ラグビーでは「北島明治」などチーム名に監督名を冠する呼称が一般的だったので「大西ジャパン」と呼ばれた。

接近・展開・連続

大西の豊富なラグビー理論を集約した考え方が、「接近・展開・連続」である。これは、体の大きい相手にはスペースを与えず、できる限り「接近」してプレーする。相手とすれ違いざま、接触する寸前に素早く、味方に正確なパスを通し、人もボールもワイドに「展開」する。そのプレーを「連続」させて、相手ゴールを陥れるということに起因する。その理論に基づき、大胆な選手起用法も試みた。ラグビー経験の少ない井沢義明をいきなり代表に抜擢、身長160センチメートル台ながらタックルが良くラインアウトのスローイングに長けた石田元成をフランカーとして起用、トリッキーなステップで対面を抜き去るスリークォーターバックス (TB) ウィングの萬谷勝治を「カンペイ」の切り札としてフルバックにコンバート、ナンバー・エイトだった原進をプロップとして抜擢、徹底的に鍛え上げて世界に通用するプロップに育て上げるなど、オールスター選抜・早慶明同に人選が偏重する傾向の強かった日本代表を革新した。

1972年~ 相次ぐ海外遠征

海外遠征の増加

上記イングランド来日試合を最後に大西が監督を退任し、1972年に同志社大学の指揮を執る岡仁詩が後継監督となったが、オーストラリアコルツ来日テストマッチで1勝1分を記録する など、国内強化試合を含めて負けなしを記録した。そして翌1973年に、イギリス、フランス遠征を1か月間に亘って行うことが決まった。ところがその後、岡が指導する同志社で練習中に部員が死亡するという事態となったため辞任せざるを得なくなり、英仏遠征の監督には急遽横井久が就任したが、当時主将は実弟の横井章が務めており、「横井兄弟体制」ができあがった。英仏遠征では、同年10月6日に、当時世界一との評価を得ていたウェールズ (14-62)、10月28日にはフランスとそれぞれ初のテストマッチを行なった。なお、このフランス戦については、フランスラグビー連盟もテストマッチと認定したが、18-30と健闘した。

1974年、明治大学OBの斎藤寮が監督に就任し、4月下旬から1か月に亘り、6年ぶりとなるNZ遠征が実施されたが、遠征最終戦で、「大西ジャパン」時代でも勝利できなかったNZUに対し、「アニマル」こと藤原優の逆転トライが利いて24-21で破り、対同チーム初勝利を挙げた。

1975年、岡が監督に復帰し、同年7月中旬から約1か月間、オーストラリア遠征を実施した。オーストラリア代表 (ワラビーズ)とはテストマッチを2試合行い、第2テスト試合の8月17日の試合では、25-30と健闘した。そして、このワラビーズ戦は、2試合ともオーストラリアラグビー連合もテストマッチと認定した。この頃までは、勝てないまでも日本は、国際ラグビーフットボール評議会 (現在のワールドラグビー)ファウンデーションユニオン8か国の代表に対し健闘する試合も少なくなかった。

ラグビーブームとは裏腹の日々

1970年代後半あたりから、とりわけ大学ラグビーについては空前のブームとなった。早明戦や早慶戦、全国大学ラグビーフットボール選手権大会、日本ラグビーフットボール選手権大会といった試合では満員のスタンドで行われるのが常となっていた。しかし日本代表はこの頃、アジア諸国相手にしか勝てないという戦績に喘いでいた。1975年のオーストラリア遠征から1980年まで、キャップ対象試合で日本代表が勝利を収めたのはアジア選手権において3度韓国を破った試合があるのみ。それ以外の相手では、1979年の花園におけるイングランド戦の惜敗 (19-21)があったとはいえ、1引き分けを挟んで19連敗を喫した。

1981年のオーストラリア学生選抜戦でようやくアジア勢以外から勝利 すると、1982年の香港及びカナダ代表の来日試合に勝利してテストマッチ5連勝を記録した。以後、1982年9月26日にNZUから国内初勝利を挙げた試合 や、1983年のウェールズ遠征でウェールズ代表に24-29と惜敗した試合 もあったが、一方では韓国に度々敗戦してアジア王者から陥落した年もある など、安定した成績を収めることができなかった。またこの間の代表監督は、就任期間が短期間であることが少なくなかったばかりか、新任監督が誕生せず、過去の経験者が二度目、三度目の就任をするなど、場当たり的な人事とみられてもおかしくなかった。ひいては上記の通り、国内の爆発的なラグビー人気があり、かつ松尾雄治などのタレントを擁しながらも、成績が振るわなかったのである。

1987年 第1回ワールドカップ

初のワールドカップ

ラグビーには長年世界一を決める大会がなく、日本は海外遠征やラグビー強豪国を招いてのテストマッチでラグビー強豪国 (IRFB正加盟国8カ国)を破ることが悲願であったが、実力と試合機会という高い壁に阻まれてきた。1987年、ラグビーワールドカップが創設され、日本は第1回大会に招待された。

しかし、第1回ワールドカップの招待を受けたにもかかわらず、岡が大会直前になってNZへの研修留学という名目で監督を辞任。急遽宮地克実が指揮を執って挑んだ。初戦のアメリカ戦ではペナルティ・キック (PK)を5回も外し、勝てる期待の高かった試合を18-21で落とした。続くイングランド戦で7-60、オーストラリア戦で23-42と、3戦全敗で予選敗退となった。

その後は通常のテストマッチでも連敗が続き、1986年のスコットランド戦からテストマッチ11連敗という「暗黒の時代」が続いた。その後、1988年のアジア選手権で韓国に2大会連続で敗退 した責任を取り、日比野弘が監督を辞任。しかし、後任監督の選定には時間を要した。

1989年~ 宿澤ジャパン

「宿澤ジャパン」誕生

日比野の後任監督には、早大時代にラグビー日本選手権2連覇達成の立役者の一人でありながら、銀行員という職業柄、ラグビー界から遠ざかっていた「伝説のスクラム・ハーフ」宿澤広朗に白羽の矢が立った。

日比野が辞任を表明してからしばらくして、当時、選手強化委員長だった白井善三郎は日比野を携えて、住友銀行(当時)の英国支店勤務中にファイブ・ネーションズの観戦記などを日本のラグビー雑誌に寄稿したりするなどしていた宿澤を呼び、開口一番、「何のことかわかるだろう。」と切り出した。宿澤は当初、母校・早稲田大学のコーチ就任についての話かと思っていたらしく、まさか代表監督の要請とは思ってもいなかったという。しかも代表監督ということになると、勤務先の住友銀行も許可を出さないだろうと思っていたが、白井と日比野が事前に住友銀行に根回ししていたこともあり、「出世に響いてもいいなら、やってみろ。」という当時の上司からの事実上の快諾を得たため、1989年に日本代表監督に就任することになった。ちなみに、日本代表の新任監督は、1980年の山本巌以来、実に9年振りのことだった。

スコットランド相手に「金星」

宿澤監督就任初の采配試合となった。1989年5月28日、秩父宮ラグビー場で行われたスコットランドXVとの一戦である。スコットランド代表メンバーのうち、レギュラークラスの過半数はブリティッシュ・ライオンズのメンバーとしてNZに遠征中だったため、ベストの布陣とは言えず代表扱いではないチームとして「スコットランドXV」を名乗っていたが、ここまで日本はスコットランドには3戦全敗中。そのため、最初から勝てる相手ではないと思われても致し方なかった。ところが、宿澤はこの強力な来日チームの試合を観戦し、次の弱点があることに着眼して「勝てる」と感じ、代表選手たちに以下のように力説した。

  • 関東代表やU23があっさりトライを取られたのは、ジャパンとは格が違うから。ディフェンスさえしっかりすれば、ジャパンは勝てる。
  • スコットランドは予想通りスクラムが弱い。ジャパンのスクラムなら絶対に押せる。
  • また、二線防御の弱さも予想通りで、ジャパンのBKなら相当なトライ奪取が可能だ。
  • ただし、モールでは不利。ラックでボールを支配しよう。

高温多湿、かつスコットランドのキッカーの絶不調があったとはいえ、全体として宿澤のほぼ読み通りの試合内容となり、28-24のスコアでIRB常任理事国を破る金星を挙げた。そして、当時のスポーツ紙がこの金星を一面で大々的に報道した他、この勝利がきっかけとなり、日本代表は、Sports Graphic Number誌における同年度のMVP賞に選出された。この試合では、当時の代表チームの主将に、当時神戸製鋼の主将でもあった平尾誠二が就き、また、シナリ・ラトゥ、吉田義人、堀越正巳、青木忍といった現役大学生をレギュラーに抜擢したことにも特筆すべき点があった。そのため、たった1戦の指揮しか行なっていないにもかかわらず、宿澤は日本のラグビーを変えた、とまで言われるようになっていった。

テストマッチのあり方を見直す

スコットランド戦の金星があったとはいえ、宿澤は、日本代表とレベルの近いチームとの対戦を志向したため、その後はIRFBファウンデーションユニオン8か国との対戦は、1991年のワールドカップまでなかった。また宿澤は、これまでNZUやオックスフォード、ケンブリッジの両大学などの対戦相手についても、(日本代表のみ)テストマッチとしてきたあり方を抜本的に見直し、原則的に各国代表チーム以外のチームとの対戦についてはテストマッチとはみなさないことも方針として決めた。

この方針は、当時の日本代表チームとしてはかなり画期的な方針であったが、以後の日本代表監督、ヘッドコーチ時代もこれに倣うことになった。

ワールドカップ1991で初勝利

対スコットランド勝利後のカナダ遠征では2戦2敗、翌1990年3月のフィジー戦も完敗した。ワールドカップのアジア・太平洋予選は1990年に行われ、西サモアにこそ苦杯を舐めたが、トンガ、韓国を破って2大会連続でワールドカップ出場を決めた。だが、その後は西サモア戦の敗退を含めてテストマッチで5連敗。

しかし1991年のワールドカップを迎えるにあたって、宿澤の情報収集力や明快な選手起用方針などから、宿澤ジャパンに対する評価は不安よりも期待感のほうが高まっていた。

プール2に入った日本は、初戦で優勝候補の一角にも挙げられたスコットランドと対戦。スコットランドのホームであるマレーフィールド・スタジアムが会場であったが、2年前の「再現」を期待していた日本のラグビーファンも多かった。しかし、前半こそ9-17で折り返したものの、後半は雪辱を期していたスコットランドの一方的展開となり、9-47で完敗した。

続く対アイルランド戦はアイルランドのホームグラウンドであるランズダウン・ロードで行われた。対スコットランド戦から中3日で行われたこの試合では、吉田義人の70m独走トライなどのシーンが見られた拮抗した試合になったものの、16-32で敗北。この時点で日本の予選突破は消えた。

最終戦の対ジンバブエ戦はベルファストで行われ、日本は本大会最多の9トライを奪う猛攻を見せて52-8でW杯初勝利を収めた。

1993年~ 歴史的大敗の時代

ワールドカップ1995に向けた準備

ワールドカップ終了後、宿澤は退任。後任には、新日鐵釜石時代、監督として日本選手権で3度の優勝に導いた小藪修が就任することになった。小藪はチームコンセプトとして、大会直前にルーマニアに快勝した戦略「タテ・タテ・ヨコ」(ボールが出てから、フォワードが前への突進を連続して行い距離をかせいだ後、バックスへ展開しトライのチャンスを得る)というパワーラグビーを志向した。しかし、レベルが総体的に落ちるアジア諸国相手であれば通用したが速度が伴わず、北・南両半球の強豪相手には通用しなかった。とりわけ、1993年のウェールズ遠征では、同国代表はもとより、予備軍である同国Aチームにも惨敗を喫し、小藪解任論まで噴出した。そのため、タテ・タテ・ヨコの修正を迫られた。以後は立て直しが見られ、フィジーに国内でのテストマッチで連勝、また1994年のアジア選手権決勝で韓国を破って3大会連続のワールドカップ出場権を得た。

145失点「ブルームフォンテーンの悪夢」

1995年の第3回ワールドカップでは全く歯が立たず、1戦目5月27日のウェールズ戦で10-57、2戦目5月31日のアイルランド戦で28-50といずれも完敗。この時点で3大会連続となる予選プール敗退が決定した。

一部の主力選手たちは、ワールドカップ期間中にゴルフに興じたり、明け方までカジノで遊んだり、二日酔いで練習中に嘔吐する者もいた。当時27歳で初参加の今泉清は、スタッフが日本からゴルフ道具を持ってきていたと証言しており、南アフリカの警備担当者から「お前たちはワールドカップに何をしに来たんだ? ゴルフとカジノに来たのか?」と問われ、日本代表の意識の低さを悲しんだ。当時26歳でW杯出場2回目の吉田義人は、「国を代表して戦いに来ているのに、信じられなかった。日本代表として一つになれなかったことが一番悔しかった」と振り返っている。W杯第2回から第4回までの3大会連続で参加した村田亙は、第3回の日本代表について「W杯に臨むという体制も気構えもできていなかった。それが第2回大会の宿澤ジャパンとの大きな違いだ」と語る。

6月4日、先の2試合と同じくブルームフォンテーンのフリーステイト・スタジアムで行われた3戦目では、対戦相手のニュージーランド (オールブラックス)は既に決勝トーナメント進出を決めていたため、控え選手主体のメンバーであった。日本代表もワールドカップの過密日程からか一部の主力選手が出場せず、ニュージーランドは前半だけで12トライ、後半も9トライを挙げるなどして、145-17で圧勝。オールブラックス来日時の第2テストマッチで100失点以上を経験していたため、戦前から日本代表の大敗は予想されていたとはいえ、「ブルームフォンテーンの悪夢 (悲劇・惨劇・国辱とも)」と呼ばれる歴史的な大敗を喫した。この試合によりニュージーランドはプール戦にて225得点、日本は252失点。ラグビーワールドカップ史上、得点差、プール戦最大得点、最大失点は、いまだ破られていない記録である。なお、この試合をもって小藪は監督を退任した。

ワールドカップ1995を開催した頃の南アフリカを舞台とする映画「インビクタス/負けざる者たち」(2009年公開)で、南アフリカ大統領ネルソン・マンデラが、ニュージーランドが日本から145得点した情報に驚くシーンがある。

1996年

小藪の後任には、サントリーの部長だった山本巌が3度目の就任となった。1996年から日本・米国・カナダ・香港の4協会(1998年からはトンガ・フィジー・サモアも参加)で毎年開催することになったパシフィック・リム選手権では、第1回大会で2勝4敗の最下位に終わり、山本は同年限りで退任した。

平尾ジャパンの4年間

1997年、平尾誠二が監督に就任。平尾は就任後、ラグビーの競技人口が減少している背景から、「平尾プロジェクト」なるものを立ち上げた。つまりは、素質はありながらも所属チームが無名であるがゆえに埋もれた逸材と見られている選手や、ラグビー経験がなくとも他のスポーツで優秀な成績を収めている選手を取り込む目的があり、育成した上で将来その中から日本代表選手を発掘するという意味合いがあったのだが、結果的に大した成果は挙げられなかった。また、パシフィック・リム選手権はカナダに32-31に逆転勝利 (1997年5月18日、秩父宮)した以外は全敗し、1勝5敗の最下位に終わった。

1998年、日本代表としては史上初めて外国籍選手のアンドリュー・マコーミックが主将に指名された。第4回ワールドカップのアジア予選の壮行試合となったアルゼンチンに44-29で勝利。シンガポールで行われたW杯アジア予選でも優勝し、4大会連続のW杯出場を決めた。

1999年、パシフィック・リム選手権で、フィジー以外の5か国に勝ち、初優勝を果たした。この時の日本代表には、グレアム・バショップやジェイミー・ジョセフといった、オールブラックスの選手としても著名な活躍をした選手が入っていたことから、「チェリー・ブラックス」と、海外列強のマスコミから報じられた。

ラグビーワールドカップ1999は3戦全敗に終わり、プール敗退となったが、パシフィック・リム選手権での実績を評価して平尾体制を継続していくことを決めた。

2000年のパシフィック・リム選手権では4戦全敗となり最下位。その後のカナダ、アイルランドの各遠征でもテストマッチで大敗を喫した。11月25日、日本協会は平尾の監督辞任を了承した。

2001年~ 再建への試行錯誤

学閥排除でも不調

平尾の辞任を受け、宿澤広朗が強化委員長に就任し、現場復帰することになった。宿澤は、自身の出身校である早稲田大学を含めた、日本ラグビー界にはびこる「学閥」の排除の意味も込めて、監督時代に東芝府中の黄金時代を築いた、東海大学出身の向井昭吾を監督に招聘した。向井は東芝府中監督時代に、「PからGO」のキャッチフレーズを掲げ、相手がペナルティを与えられたらペナルティキックやラインアウトへのキックを狙わずに間髪入れず素早い攻撃を仕掛けるという戦法を駆使し、日本選手権3連覇などの実績を挙げていた。また「PからGO」の戦法は、体格に劣る日本代表にも合致していると思われた。しかも、向井時代の代表選手には、大畑大介と小野澤宏時というフィニッシャーがいたからなおさらだった。

そのような日本の「速いラグビー」戦術に対し、他国チームは逆に、スクラムやラインアウトといったセットプレーが日本の弱点だと考え、とりわけ列強諸国はそこを重点的に突いてきた。日本はフィジカル不足などのためほとんどそれに対応できなかった。結果、向井時代にテストマッチでアジア諸国以外のチームから勝ち星を得たのは、2001年のカナダ戦と、試合にスポンサーがついた初めての「リポビタンDチャレンジカップ」となる2002年ロシア戦の2勝のみ。W杯予選の2002年アジア3国対抗で韓国、台湾に圧勝しW杯出場権を得た が、アジアラグビーフットボール大会では韓国に敗れ優勝を逃した。

Brave Blossoms誕生

ラグビーワールドカップ2003は4戦全敗 (3大会連続の全敗) でプール敗退となったが、初戦のスコットランド戦で11−32と健闘したことから、地元オーストラリアの新聞コラムで記者のRich Freemanが「Brave Blossoms」(勇敢な桜たち)というニックネームをつけた。向井監督は「世界の背中が見えた」とコメントしたが、大会終了後に向井監督と宿澤強化委員長が辞任した。

迷走時代突入

2004年3月22日、神戸製鋼コベルコスティーラーズのヘッドコーチだった萩本光威が監督に就任。萩本は就任当初、同年のスーパーパワーズカップでロシアとカナダを破って優勝に導き、幸先のよいスタートを切ったかに思われたが、続くイタリア戦で敗戦。同年11月に挙行された欧州遠征において、スコットランドに8-100、ルーマニアに10-25、ウェールズに0-98 と、いずれも完敗ないし大敗したため、同遠征直後に解任論が噴出した。

しかし、萩本解任を唱えた向井昭吾、春口廣、清宮克幸の3名が、ラグビー協会内の監督評価機関である8強会議(世界8強進出対策会議)の委員を解任された。また、欧州遠征と前後して、日本代表のフィットネスコーチ、選手2名が相次いで深夜未明の繁華街でのトラブルで合宿中に逮捕される不祥事が起きた が、監督の萩本には協会規定で最も軽い「警告」という処分にとどまった。

翌2005年の南米遠征でウルグアイ、アルゼンチンに連敗。さらに5月から6月にかけて、カナダ、アイルランド (2試合)にもそれぞれ敗退 したため、ついに萩本は辞任に追い込まれた。

ヘッドコーチ制を導入

これを契機に、強化委員長・監督という指導体制に限界を感じた日本ラグビー協会は、海外で一般的になっている分業制を導入し、ヘッドコーチ(HC)はコーチたちのリーダーとして現場で指揮をとり、ゼネラルマネージャー(GM)はチーム強化に関する総合マネジメントを行う体制に変わることになった。これにより、親代わりのように各選手のマネジメントまで行う 学生ラグビーの監督などと異なり、日本文化に詳しくない外国人であっても、現場指揮だけに徹する人材としてヘッドコーチに起用することが可能になった。

2005年8月、初代GMにNECグリーンロケッツの太田治、HCには、初の外国人指導者となるジャン=ピエール・エリサルドが就いた。新体制下の日本代表は、いきなりテストマッチ4連勝を果たし 上々の滑り出しとなったかに思われたが、2006年、第1回のパシフィック・ネーションズ・カップ(PNC)では全く歯が立たず、4戦全敗 で最下位に終わった。

兼業ヘッドコーチを解任

2006年9月、エリサルドHCが、フランスのクラブチームアビロン・バイヨンヌのスポーツマネジャーにも就任したことが判明。日本協会はHCに専念するよう求めたが、そもそも雇用契約ではなく、他チームとの兼任も可能な業務委託契約としてHCに就任しているエリサルドはこれを拒否。日本協会は、ワールドカップまであと10か月というタイミングの10月31日付でエリサルドを解任した。

その後2ヶ月は、暫定的にGMの太田治がHCを兼務することになった。そして太田は、かつてのチームメイト(NEC)であり、かつ第1回W杯におけるニュージーランド優勝の立役者のジョン・カーワンに白羽の矢を立てることになる。

2007年~ JKジャパンの5年間

急ごしらえでワールドカップ2007へ

太田HC代行体制で挑んだ2006年11月のW杯アジア予選で、韓国、香港に快勝し、6大会連続のワールドカップ出場を決めた。

ワールドカップ2007まで8か月を切った2007年1月9日 (就任は同年1月1日付)、日本協会はジョン・カーワンをヘッドコーチ (HC) とすることを発表し、「JKジャパン」が発足した。カーワンは1984年から1994年までオールブラックスに在籍したスーパースターであり、1987年の第1回ワールドカップにおけるイタリア戦で、90メートル独走トライをしたことでも知られている。また、現役生活の晩年にはNECでもプレー経験があり、日本のラグビーファンにも知名度があった。また現役引退後、イタリア代表のヘッドコーチを務めた。既にW杯出場を決めていることもあり、カーワンに求められたのは本戦での実績。カーワンは、フィジーとカナダで2勝することを主眼におき、決勝トーナメント (各プール2位まで)には残れなくとも、3位以内 (同位以内であれば、次回のW杯予選が免除される)には確実に入る算段を目論んでいた。

しかし、パシフィック・ネーションズ・カップ(PNC)では1勝4敗で最下位。8月18日にイタリアのサン=ヴァンサンで行われたイタリア戦も12-36で敗退した。

主力選手を温存し、強豪相手に「捨てゲーム」

ワールドカップ2007開幕直前になって、エースの大畑大介、山本貢、安藤栄次の3選手が怪我により帰国したため、急遽替わりのメンバーが招集されるといった事態にも見舞われた。

カーワンは、日本代表を主力選手とリザーブ(控え選手)との2チームに分ける奇策に出た。強豪のオーストラリア戦とウェールズ戦は“捨てゲーム”としてリザーブ主体で戦い、フィジー戦とカナダ戦に主力選手を使って確実に2勝する作戦である。

したがって、初戦のオーストラリアには3-91で大敗したが、最初から“捨てゲーム”としていたカーワンには「想定の範囲内」。しかし、続くフィジー戦では、主力選手中心にもかかわらず、31-35で惜敗。さらに“捨てゲーム”のウェールズ戦を18-72で大敗し、6大会連続の予選プール敗退が決定した。加えて、1995年W杯のウェールズ戦から数えて13連敗となってしまった。

そして、最終戦のカナダに勝ったとしても、最低限の目標である「次回W杯出場権獲得となる3位以内」もきわめて難しくなった。カナダ戦において、日本は試合終了直前まで5-12でリードされ、4大会連続の全敗が確実視されたが、ロスタイムに平浩二が右隅にトライを決めて2点差まで迫ると、その後、大西将太郎がゴールキックを決め同点となり、ここで試合終了の笛。日本は14試合ぶりに敗戦を免れ、また、4大会ぶりに予選プール最下位を免れたが、次回ワールドカップ2011の優先出場権は得られなかった。

JK続投

大会終了後、日本協会は、目標としていたW杯2勝はできなかったものの、準備期間が短かったことや、けが人が続出した中で予選プール最下位を免れたことを評価し、引き続きカーワンにジャパンの指導を託した。

2008年、まずは、同年より開始されたアジア5カ国対抗で優勝をもたらした。パシフィック・ネーションズ・カップ(PNC)は前年同様1勝4敗に終わったが、トンガには前年に続き連勝。その後、11月のアメリカ来日シリーズでは、テストマッチ連勝を果たした。2009年、アジア5カ国対抗を連覇。続くPNCはトンガに3年連続で勝利したものの1勝3敗に終わった。

ワールドカップの日本開催が決定

2009年7月28日に行われた国際ラグビー評議会 (IRB)の理事会で、2019年のラグビーワールドカップ開催国に日本が決定した。同年11月、カナダが来日。日本はテストマッチで連勝した。

2010年、アジア5カ国対抗では順当に3連覇を達成し、「アジア地区1位」枠として、7大会連続となるワールドカップ2011への出場を決めた。PNCでは、サモアとトンガに勝利し、得失点差の末、3位に終わったとはいえ、サモア、フィジーと同じく2勝1敗の好成績を挙げた。その後、10月30日のサモア来日テストマッチでは10-13と惜敗したが、翌週11月6日のロシア来日テストマッチでは75-3と大勝。JKが本格的に指導を行なった成果が徐々に実績にも現れつつあり、翌年に控えるワールドカップ2011にも弾みがついたと思われた。

強豪国との試合が組まれない

2011年シーズンもアジア5カ国対抗から始動し、順当に4連覇を達成。続いて7月のパシフィック・ネーションズ・カップ(PNC)ではサモアには敗れた が、続くトンガを1点差で破る と、最終戦となったフィジーにテストマッチとしては17年ぶりに勝利し、得失点差により、ついに大会初優勝を果たした。

その後、8月13日のイタリア遠征で24-31で敗れたとはいえ、前半は17-14でリードして折り返した。そして同月21日のW杯壮行試合のアメリカ戦は20-14で下し、通常のテストマッチでは第二グループと称されるナショナルチームにはほとんど勝てるほどに日本のチーム力が向上していた。しかし、カーワン体制になってからW杯以外のテストマッチでは、いわゆる強豪国、旧IRFBファウンデーションユニオン8か国との対戦が全く組まれなかった。

2011年ワールドカップ「ハミルトンの失笑」

9月からのワールドカップ2011で、日本は、開催国ニュージーランド、フランス、トンガ、カナダと共にプールAに入った。カーワンは、前回W杯同様、主力選手と控え選手とを分けた戦略を使った。

初戦9月10日のフランス戦では、一時4点差まで詰め寄るところまでは日本のファンを大いに堪能させる内容だった が、結局は21-47と完敗。

2試合目は9月16日、ニュージーランド北島ハミルトン市のワイカト・スタジアムで行われた。開催国であり強豪のニュージーランドは、16年前のW杯「ブルームフォンテーンの悪夢」のときの相手だった。JKジャパンは、初戦メンバーから10人を入れ替えて主力選手を多数温存した。その結果、相手の速い攻撃に終始防御を強いられ、前半に6トライ、後半に7トライを献上。結局、本大会ワースト2位の得失点差である7-83で惨敗した。16年前と同じく主力選手を使わない「ニュージーランド戦から逃げるような」メンバー構成による大量トライ献上には、地元ニュージーランド人の観客で埋まる会場から失笑が漏れるほどで、ファンの間では現地の名前を冠して「ハミルトンの失笑」と呼ばれる汚点になった。

その後の試合は、念願の2勝を目指したが、予選3試合目トンガ戦ではミスを連発した上に、日本の速い攻撃を完全に封じ込められて18-31と完敗。

最後のカナダ戦も、前半に17-7でリードしながらも、後半終盤になってミスを連発、立て続けに得点を許し、23-23で2大会連続ドローとなってしまった。結局、強豪国に対して主力選手を温存した作戦でも2勝はおろか、5大会連続勝利なしという結果に終わった。

停滞ジャパンの終焉

通常テストマッチで強豪国とは試合を組まず、W杯では2大会連続で主力選手を温存し強豪国相手には出さないカーワンの方針は、ファンを失望させ、選手の強化機会を無くす結果になった。太田治GMは「これでは強化が停滞してしまう」と、カーワン体制の5年間を総括した。ラグビーライターの中尾亘孝はJKジャパンの5年間を「カネと時間だけを浪費した壮大な無駄」と切り捨てた。2007年のW杯では最終登録の外国人選手は5人だったが、2011年には倍の10人になっていたことも批判された。同年10月13日、正式にカーワンの退任が決まった。

2012年~ エディージャパン

2012年

サントリーサンゴリアスのゼネラルマネージャーを3年間務めていたエディー・ジョーンズが、2012年から日本代表ヘッドコーチに就任。前任者のカーワンのチーム作りが、ともすれば外国人への依存度が大きかったという反省の意味もあり、3月19日に発表された代表メンバーは、外国人選手にけが人が続出していたという背景もあったが、当時日本国籍取得申請中のマイケル・リーチ以外は全て日本人選手となり、しかもノンキャップ選手が13名というフレッシュな顔ぶれとなった。また主将には、5年振りの代表復帰となった廣瀬俊朗を任命した。

アジア5カ国対抗では、全チームに順当に勝利し、5連覇を達成。その後、パシフィック・ネイションズ・カップ (PNC)と、フレンチ・バーバリアンズを招待 して挑んだ。しかし、PNCではいずれも惜敗ながらも3戦全敗で最下位。また、フレンチ・バーバリアンズにも2連敗し、春シーズンを終えた。

秋シーズンは11月にテストマッチ2試合を含めた欧州遠征を挙行。ルーマニア戦では中盤の競り合いを制して34-23で下し、欧州で行われたテストマッチにおいて、ホームのチームに初めて勝利した。さらにジョージア戦では、同点で迎えた試合終了直前に、小野晃征がドロップゴール (DG) を決め、25-22と劇的な勝利を収めた。この遠征から元フランス代表のマルク・ダルマゾがスクラムコーチに就任した。

2013年 ウェールズに初勝利

アジア5カ国対抗では、全チームに順当に勝利し、6連覇を達成。続くテストマッチは、PNCとウェールズ戦であった。PNCではトンガとフィジーに連敗したため、この時点で優勝の可能性がなくなった(最終順位は4位)。

その後、国内では12年振りとなるウェールズとのテストマッチ2試合を行った。第1戦では18-22で惜敗。第2戦では、前半は互いにPGのみで6-3でリード。後半には2トライを追加し、五郎丸歩は前後半あわせて5つのPK・GKを決め、23-8ウェールズ戦初勝利を挙げた。

旧IRFBファウンデーション8か国のチームに勝利したのは、宿澤広朗監督時代の1989年に秩父宮で行われたスコットランド戦以来のことである。当時のスコットランドチームは正式な代表ではなかったため、正代表に対しては史上初めての勝利だった。

さらにPNCで組まれた、カナダ、アメリカにも勝ち、春のシーズンを終了した。

秋シーズンは、国内でニュージーランドと戦い、1トライも挙げることができずに敗れる。その後、海外でテストマッチを行い、スコットランドとグロスターに敗れたが、ロシアとスペインには勝利し、2勝2敗でシーズンを終えた。

2014年

2014年4月8日、エディ・ジョーンズHCは、リーチマイケルをキャプテンに指名。以後、W杯2大会、7年以上に渡りリーチは日本代表チームの顔となる。

日本代表は、まずアジアと太平洋地区から選抜されたアジアパシフィックドラゴンズと対戦し、前半はリードするも後半に逆転されて29-35で敗れた。アジア5カ国対抗では全チームに順当に勝利し、7連覇を達成。「アジア地区1位」として、8大会連続となるワールドカップ2015への出場を決めた。

続くPNCでは、カナダ、アメリカに連勝し、アジア・パシフィック・カンファレンスで1位になる。その後イタリアと秩父宮で対戦し勝利。イタリアに6戦目にして初勝利を挙げ、テストマッチ10連勝を達成。世界ランキングが過去最高の10位となり、春のシーズンを終了した。

DFコーチに香港ヘッドコーチだったリー・ジョーンズ、FWコーチにイングランド代表主将だったスティーブ・ボーズウィックが就任。

秋シーズンは、国内で2試合マオリ・オールブラックスと戦い、11月1日にノエスタで行われた第一戦は終始リードされて、21-61で完敗した。翌週8日の秩父宮で行われた第2戦では前半5-15でリードされるも、後半五郎丸歩のPG2発などで逆転した。しかし37分に決勝トライを決められて、18-20で逆転負けを喫した。しかし、世界ランキング上位国がテストマッチで敗北したため、一時、世界ランキングは過去最高の9位に浮上した。

その後、海外でテストマッチを行い、ルーマニアに勝利した が、ジョージアには敗れ、1勝1敗でシーズンを終える。国代表ではないアジアパシフィックドラゴンズ戦、マオリ・オールブラックス戦はテストマッチではないため、ジョージアに敗れるまでテストマッチ11連勝だった。

2014年に行われた日本代表の強化合宿は合計114日だった。トップリーグが通常開催しているなか、この合宿日数は非常に多い。

2015年、ワールドカップへ

前年まで行われたアジア5カ国対抗の改編により発足したアジアラグビーチャンピオンシップでは、香港戦が試合中止 (詳細は当項目参照)となったが優勝した。PNCでは、カナダに勝利した が、アメリカ、フィジー、トンガ に3連敗して4位で終えた。世界選抜戦も敗れた が、ウルグアイには2試合とも勝利 し、ジョージアにも勝利した。

「ブライトンの奇跡」スポーツ史上最大の番狂わせ

現地時間9月19日、ラグビーワールドカップ2015のグループBの開幕戦として、イングランドの南東に位置するブライトン・コミュニティ・スタジアム(現 ファルマー・スタジアム)で、南アフリカ戦が行われた。W杯で過去2回優勝し、当時世界ランク2位の南アフリカ代表 (スプリングボクス)に、初対戦ながらラストプレーでWTBカーン・ヘスケスが挙げたトライにより34-32で逆転勝利した。スプリングボクスから奪ったこの24年ぶりのW杯勝利は、日本国内および海外のメディアにより「ブライトンの奇跡」、「スポーツ史上最大の番狂わせ」、「W杯史上最も衝撃的な結果」と報じられた。

9月23日、中3日のスコットランド代表戦では前半は7-12で折り返すが、SHグレイグ・レイドローの正確なキックに苦しめられるなど後半に立て続けにトライを重ねられ10-45で敗れた。10月3日の第3戦でサモア代表に26-5で勝利し初のW杯1大会2勝目と通算3勝目を挙げた。10月11日の第4戦でもアメリカ代表に28-18で勝利し、大会3勝目通算4勝目を挙げるも、勝ち点で南アフリカとスコットランドを下回り、初の決勝トーナメント進出はならず、1次リーグ敗退は8大会連続になった。W杯において3勝したチームが1次リーグ敗退となるのは史上初である。国内外のメディアからは「最強の敗者」と言われる。

日本代表の活躍は各メディアで話題になり、特に五郎丸歩がプレースキック前に行うルーティンは「五郎丸ポーズ」として有名になった。このブームについて五郎丸は、「個人が注目されることに違和感を覚える」と同時に、「僕がきっかけでラグビーを知ってもらえるだけでもありがたい」「2019年W杯に向けてラグビーの良さを発信する責任感も感じた」と語る。

ラグビー日本代表のオフィシャル(公式)スポンサーの大正製薬は、選手・スタッフ全員に1人当たり100万円で合計5000万円の報奨金を贈呈すると発表した。

また、報知プロスポーツ大賞・特別賞、日本プロスポーツ大賞、第65回日本スポーツ賞・特別賞、毎日スポーツ人賞・グランプリ を受賞。

次期監督の選考

ワールドカップ終了をもってジョーンズHCが退任 (退任自体はワールドカップ開幕前には決定していた)、後任にはスーパーラグビー・ハイランダーズのヘッドコーチを務めるジェイミー・ジョセフが就任することが決定した。彼は1995年から2000年までサニックス(現・宗像サニックスブルース)に所属し、ラグビー日本代表としてワールドカップ1999に出場したことがある。

しかし、ジョセフは2016年シーズン終了までハイランダーズとの契約が残っており、日本代表には合流できないため、2016年度上半期のテストマッチについてはヘッドコーチに代行を立てた。

アジアラグビーチャンピオンシップはU-20代表HCを勤める中竹竜二が、カナダ戦とスコットランド戦の3試合はサンウルブズヘッドコーチを務めるマーク・ハメットが、HC代行として指揮を執った。

アジアラグビーチャンピオンシップは若手選手を中心としたチーム編成で臨み、香港・韓国を相手に4戦全勝で前年に続き優勝を果たした。続くカナダ戦は前年のワールドカップ組の半数を招集して臨み、26-22で辛くも逃げ切った。

帰国後のスコットランド代表戦は、13-26で敗れた。1週間後の味の素での第2戦は16-21の逆転負け。ハメットHC代行で臨んだテストマッチ3連戦は、1勝2敗で上期シーズンを終えた。

2016年~ ジェイミージャパン

2016年

9月になりジェイミー・ジョセフHCが正式に就任。就任後の会見では、ジョーンズHCの手法を称えつつ、課題として「パワー」を挙げ、世界のラグビーの潮流に合わせ「キックのスキル」の必要性を強調。スーパーラグビーで実践してきた、キックやパントを用いて陣地を確保しFWのアタック力とBKの俊敏な展開をもって突破していく「キッキングラグビー」を代表チームに取り入れることを宣言。トップリーグの視察を繰り返した上で代表選手を選考し、その後に短期合宿を2回行った上で11月のテストマッチに備えた。

また、10月にはチームテーマに「ONE TEAM」を掲げた。

秩父宮ラグビー場で行われたランキング4位アルゼンチン戦では、20-54で完敗。翌週からはヨーロッパ遠征となり、ランキング11位 (日本は1つ下の12位)ジョージア戦では、22-18でジョセフHC体制での初勝利を挙げた。その翌週のランキング6位ウェールズ戦は7万人を超える大観衆の中で行われ、互角の戦いを行い、30-33の僅差で敗れた。年度最終フィジー戦では、レッドカード退場で1人少ないフィジー相手に25-38で完敗。ジェイミージャパン1年目のテストマッチ4連戦は、1勝3敗で終わった。

2017年

年初の会見でジョセフHCは、今後はサンウルブズを中心にした代表強化を進めていく考えを打ち出すとともに、サンウルブズが海外で試合をする際は、遠征に参加しない選手を自ら指導するなどで若手を育成していく方針も明らかにした。

アジアチャンピオンシップは全勝で優勝。6月に強化試合でルーマニアとアイルランドと対戦し、ルーマニアに勝利、アイルランドに2連敗した。

秋シーズンは世界選抜戦が27-47で、オーストラリア戦は30-63で敗戦。フランス遠征でトンガに39-6で勝利、フランスとは23-23で引き分けた。

2018年

6月のテストマッチでイタリア(1勝1敗)、ジョージアに勝利。秋シーズンは世界選抜戦 とニュージーランド戦 で敗れた後、イングランド遠征を行いイングランドに15-35で敗北、ロシアに32-27で勝利した。

2019年

チームソングがビクトリーロードに決まる。

ワールドカップ2019の前哨戦となったパシフィックネーションズカップではフィジー、トンガ、アメリカ の3か国に勝利して優勝。8月29日にW杯最終登録メンバーを発表。9月6日に熊谷でW杯前最後のテストマッチを行ったが、南アフリカに7-41で敗れ W杯前最後のテストマッチを勝利で飾ることはできなかった。

ワールドカップ初の決勝トーナメント進出

ホスト国として挑んだワールドカップでは、9月20日の開幕戦・予選プール1戦目においてロシアと対戦。序盤、日本のプレーには硬さが見られ、ハイパントの処理ミスからロシアに先制トライを許したが、松島幸太朗の2トライで逆転に成功し12-7で前半を終える。後半もピーター・ラブスカフニと松島のハットトリックとなるトライで突き放した日本が30-10で快勝を収める。

2戦目(9月28日)は、ランキング9位の日本と、ランキング2位の強豪アイルランドとの試合(いずれも試合前の順位)。前半にアイルランドに2トライを許したものの、3本のペナルティゴールで9-12と接戦に持ち込むと、後半に福岡堅樹のトライにより逆転し、相手を無得点におさえ、19-12で勝利した。アイルランドには、通算10戦目にしての初勝利となった。イギリスBBCは「アイルランドの崩壊、日本の歴史的勝利」と報道した。これにより、9月30日付のワールドラグビーランキングにおいて、日本は8位となった。

3戦目(10月5日)はサモアと対戦し、38-19で勝利。4トライ獲得によるボーナスポイントによりA組3位以内が確定し、次回2023年フランス大会の出場権を得た。

予選プール最終戦となる4戦目(10月13日)は、前回大会で唯一敗戦を喫した強豪スコットランドと対戦。序盤にスコットランドに先制トライを許したが、日本は3トライをあげ前半を21-7とリードして終える。後半開始早々42分に福岡のトライで28-7とリードを広げたが、スコットランドも49分、54分に立て続けにトライを奪い28-21と7点差に迫った。しかしその後日本はスコットランドの猛攻を凌ぎ28-21で勝利した。スコットランドの地元紙ザ・スコッツマンの記者アラン・マッシーは、「この試合はどんな勝利よりも記憶に残る試合だ」とし、「スコットランドの負けを嘆くよりも日本を称えよう」と述べた。これにより、10月14日付のワールドラグビーランキングにおいて、日本は7位となった。

予選プール1位通過で、史上初の決勝トーナメント進出を決めた。ティア2の国 が予選プール全勝で1位となるのはワールドカップ史上初のことである。なお、10月19日にはオーストラリアの敗戦により、わずか一日だけ、日本が入れ替わってランキングが史上最高の6位となっていた。

準々決勝は10月20日にプールB2位通過の南アフリカと対戦。前半は3-5と接戦で折り返したが、後半に2つのトライを奪われるなど突き放されて3-26で敗れ、ワールドカップ史上初のベスト8で大会を終えた。南アフリカ戦直後から大会終了まで、日本のランキングは8位となった。

ワールドカップ後、ジェイミー・ジョセフの続投が決定。しかし依然として外国人(ハーフ含む)の選手が多い事に対する批判があるという。

12月11日、選手とスタッフの全51人に対して、日本代表公式トップパートナーの大正製薬は、報奨金として1人当たり200万円を贈呈すると発表し、提供ユニフォームであるカンタベリーオブニュージーランドのブランドを持つゴールドウインは、1人当たり100万円を贈ることを発表した。日本ラグビー協会からは事前の規定どおり8強入りの報奨金100万円ずつが選手とスタッフ全51人に贈られる。これにより、1人当たりの報奨金は合計400万円となった。

12月11日、東京都千代田区の丸の内仲通りで、晴海通りから御幸通りまでの800メートル にわたり日本代表28人が歩いてパレードを行った。平日ながら約5万人(主催者発表)の観衆が集まった。正午から始まったため、この模様は地上波テレビ各局のニュースや情報バラエティ番組、BSテレビ局J Sports、Ameba TVやニコニコ生放送などのネット配信などで生中継された。大会終了後は様々なテレビ番組やCMに出演し、年末の第70回NHK紅白歌合戦にも19人でゲスト出演した。

2020年、コロナ渦による長期停滞

新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、6・7月に行われる予定だったウェールズ代表およびイングランド代表とのテストマッチが中止となった。11月に予定のスコットランド戦、アイルランド戦も見送りになった。秋に招待されていた欧州開催のオータム・ネーションズカップは、コロナ禍で南北半球のラグビー交流が不可能であることを受けて計画された一度限りの国際大会だったが、感染リスクと準備期間の不足を理由に辞退した。2020年はテストマッチがまったく行えず、日本のワールドラグビーランキングはアルゼンチンとスコットランドに次々と抜かれ、勝ち点が変わらぬまま8位から10位に落ちた。

ジェイミー・ジョセフHCは、候補選手を50人ほどリストアップし、個別の調整メニューを配布して秋の試合に備えていた。リーチマイケルはこの期間中に関節の手術を済ませた。日本ラグビー協会は南半球での試合開催も模索したが、世界中で新型コロナウイルス感染者が増えるなか、政府筋から海外遠征を諦めるよう警告を受けたという。

12月14日、ラグビーワールドカップ2023において、日本はイングランド、アルゼンチン、オセアニア地区1位、アメリカ地区2位と共にプールDに組み分け抽選された。2021年7月、オセアニア地区1位にはサモアが決まった。アメリカ地区2位については、2022年7月にアメリカ合衆国とチリとの間で行われる2試合の結果で、出場国がどちらかに決まる。

2021年

ワールドカップ2019終了以来、1年半ぶりの活動再開。4月12日、2021年度日本代表候補選手とチームスタッフが発表された。以後、増減を行いつつ最新メンバーが選考される。

6月12日にはサンウルブズと強化試合を行った。日本代表側はキャップ非対象チーム「JAPAN XV(ジャパンフィフティーン)」として戦った。サンウルブズは2020年にスーパーラグビーから離脱し解散したが、この試合のために日本代表候補選手からも9人、さらに新たな選手数人 を加えて再結成、JAPAN XVが32-17で勝利した。

6月からのヨーロッパ遠征で、1年8か月ぶりのテストマッチが実現した。6月26日に、イギリス4協会の合同チームであるブリティシュ&アイリッシュ・ライオンズと対戦。ライオンズが、ニュージーランド、南アフリカ、オーストラリア以外の国と対戦するのは、2005年のアルゼンチンに続き日本が2か国目となり、歴史的なテストマッチとなった。10-28で日本が破れた が、後半は日本のほうが多く得点し、強豪ライオンズとの試合内容は善戦と言える。続く7月3日にアイルランド代表と対戦、31-39で敗れた。

10月2日、ピーター・ラブスカフニがキャプテンに指名。10月11日には、10月下旬からのテストマッチに向けた日本代表メンバーが発表された。

10月23日に大分市でオーストラリア代表と対戦した後、ヨーロッパ遠征に向かう。11月6日にアイルランドのダブリンでアイルランド代表と、11月13日にポルトガルのリスボンでポルトガル代表と、11月20日にスコットランドのエディンバラでスコットランド代表と対戦する予定。


テストマッチ一覧

ラグビーワールドカップ

パシフィック・ネーションズカップ

  • 2006: 5位
  • 2007: 6位
  • 2008: 5位
  • 2009: 4位
  • 2010: 3位
  • 2011: 1位
  • 2012: 4位
  • 2013: 4位
  • 2014: 1位
  • 2015: 4位
  • 2019: 1位

アジアラグビーチャンピオンシップ

1969年からアジアラグビーフットボール大会として始まり、2008年からアジア5カ国対抗に、2015年からアジアラグビーチャンピオンシップになった。

★は、翌年のラグビーワールドカップへの出場権を得られたもの。別途、1990年にはW杯アジア太平洋地区予選、2002年と2006年にはW杯アジア地区予選が行われ、いずれも日本はW杯出場権を得た。第1回のワールドカップ1987は全チーム招待のため、地区予選は行われなかった。

2018年アジアラグビーチャンピオンシップは、日本はラグビーワールドカップ2019の開催国ゆえの出場権を獲得しているため、出場しなかった。

2019年アジアラグビーチャンピオンシップは、日本はワールドカップに備えてパシフィック・ネーションズカップに出場したため、不出場。

2020年、2021年とも、新型コロナウイルス感染症の世界的流行のため、アジアラグビーチャンピオンシップは開催されていない。

世界ランキング

2021年7月3日現在

選手

現在の代表

2021年度秋のテストマッチに向けた日本代表メンバー38名(FW22名、BK16名)(2021年10月16日現在)。

オーストラリア戦登録メンバー発表は、10月21日の予定。

  • ヘッドコーチ: ジェイミー・ジョセフ
  • (C)はキャプテン(Captain) (10月11日発表)
  • ※印は、将来日本代表に選出される可能性の高いポテンシャルを持った人材「ナショナル・ディベロップメント・スコッド(NDS)」として招集され、日本代表候補と共に合宿に参加していた選手(淺岡俊亮、福井翔大、中野将伍、秋山大地)。
  • (※2)印は、別府合宿まで(10月27日まで)のサポートメンバー(秋山大地)。
  • 10月15日、FL長谷川崚太(埼玉パナソニックワイルドナイツ)が怪我のため離脱。
  • 10月17日、FL小澤直輝とFB野口竜司が追加招集され、合宿合流。
  • 10月17日、別府合宿中のトレーニングメンバーとしてLO大戸裕矢(静岡ブルーレヴズ)が招集された。
  • 10月23日、オーストラリア代表戦(大分県大分市)
  • 11月6日、アイルランド代表戦(アイルランド、ダブリン)
  • 11月13日、ポルトガル代表戦(ポルトガル、リスボン)
  • 11月20日、スコットランド代表戦(スコットランド、エディンバラ)

※所属、 キャップ数(Cap)は2021年10月16日現在

スタッフ

現在のスタッフ

2021年4月12日現在

日本代表チーム 歴代ヘッドコーチ(HC)・監督

日本代表チーム 歴代ゼネラルマネージャー(GM)

ゼネラルマネージャーは、2005年8月6日付けで就任し、2017年1月17日をもって廃止された。

Giuseppe Zanotti

ジャージ

ホームジャージ

オルタネイトジャージ

歴代キャップ数10傑

太字は現役選手、所属はキャップ獲得時

表彰

  • 日本プロスポーツ大賞 2015
  • 2015報知プロスポーツ大賞 特別賞
  • 毎日スポーツ人賞(2019)
  • 第67回菊池寛賞(2019)
  • DIMEトレンド大賞2019 特別功労賞(ラグビー日本代表/日本ラグビーフットボール協会の連名で受賞)
  • 2019年ユーキャン新語・流行語大賞 大賞「ONE TEAM」、ノミネート「にわかファン」
  • 日本スポーツマンシップ大賞(2019)
  • ホワイトベア・スポーツ賞 特別賞(2019年度)

視聴率

ラグビーワールドカップ2015(イングランド大会)

いずれもビデオリサーチ社による関東地区の世帯視聴率。一部、不明部分がある。

予選第1試合 南アフリカ戦を生中継したNHK BS1での0.8%は、同時間帯の前4週の平均視聴率0.3%を0.5ポイント上回る、異例の高視聴率であるとNHKは分析した。

予選第4試合の日本テレビでのアメリカ戦中継は、ビデオリサーチの1日の視聴率測定が午前5時で切り替わるため、前後半にデータが分かれた。なお、前後半を通した最高視聴率は、後半の時間帯での6.8%である。NHK BS1でも生中継があったが、視聴率の出典が見つからない。

有料BS局J Sportsではワールドカップ2015の全試合を生中継した。

ラグビーワールドカップ2019(日本大会)

ラグビーワールドカップ2019では、日本国内開催および日本代表の快進撃により、日を追うごとに視聴者が増加していき、以下のように記録的な高視聴率をおさめた(ビデオリサーチ社による関東地区の地上波テレビ 世帯視聴率)。

準々決勝の南アフリカ戦の平均視聴率41.6%は、2019年の全番組で1位だった。また、決勝トーナメントへの出場(ベスト8)をかけた予選第4試合スコットランド戦は、2019年の全番組で2位。

放送権を持つ日本テレビとNHKは、その日の深夜あるいは翌日すぐに再放送し、見逃し視聴者への対応を行った。この他に、有料BS放送J Sportsによるワールドカップ全試合の生中継や時間差放送、頻繁な再放送があった。

ラグビーワールドカップ2019は、前大会で話題を集めた五郎丸歩選手が不在のため、視聴率は大苦戦するという予想もあった。しかしこのような高視聴率を獲得した原因を、テレビ評論コラムニストの木村隆志は、「『ルールがわからない』『ほとんど選手を知らない』という“にわかファン”の多さ」と、彼らが「自ら『私、“にわか”だから』と公言して楽しむ」ことができたからだと考察している。さらに4つの要因として

  1. 日本代表の躍進が、単に勝つだけでなく、劇的なシーンの連続で、新たなファン層を掘り起こした
  2. 試合の前後に日本代表選手たちが頻繁に発するコメント「選手・スタッフ・応援する人々によるONE TEAM」が、人々の心に響いた
  3. 世界で40億人が視聴するラグビーワールドカップというビッグイベントが、日本ではなじみが薄いながらも国内開催で、新鮮だった
  4. 6月に池井戸潤の小説『ノーサイド・ゲーム』が出版され、それをテレビドラマ化して7月からW杯開幕5日前まで放送し話題となったTBSのアシスト

を挙げている。またメディアアナリストの鈴木祐司も、にわかラグビーファンがラグビーの歴史を変えたと考察している。ビデオリサーチ社の柿倉樹は、ドラマ『ノーサイド・ゲーム』がラグビー応援ムードを醸成し、予選第2試合アイルランド戦の内容が「にわかファン」に火をつけたと分析している。「にわかファン」だと肯定的に自称する多くの新しいファンの存在が、大会成功の一因だと日本ラグビー協会も歓迎している。「にわかファン」という言葉は流行語にもなり、「ONE TEAM」と共にこの年の新語・流行語大賞にノミネートされた。

パートナー・スポンサー・サプライヤー

  • トップパートナー:大正製薬
  • 男子日本代表オフィシャルパートナー:東芝、三井住友銀行、セコム、カンタベリー
  • 男子日本代表オフィシャルスポンサー:三菱地所、ヒト・コミュニケーションズ、キヤノン、アサヒビール
  • 日本代表オフィシャルサポーター:JTBスポーツ、凸版印刷、KASHIYAMA
  • サプライヤー:GILBERT、ザバス

(2021年8月26日現在)

CM出演

(選手個人の出演ではなく、日本代表チーム全体をイメージしたCM)

  • 大正製薬「リポビタンD」(2011年8月20日 - )
  • 三井住友銀行 企業広告(2019年9月20日 - )
  • 三菱地所 企業広告(2020年7月29日 - )
  • J SPORTS × JAL (2015年8月1日 - 9月) JAL機内上映およびJ SPORTSホームページ公開限定

脚注

注釈

出典

関連項目

  • 日本のラグビーユニオン
  • ラグビー日本代表のテストマッチ一覧
  • ラグビー日本代表歴代キャップ保持者一覧

外部リンク

  • 日本代表 - 日本ラグビーフットボール協会

ラグビー日本代表