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三井財閥


三井財閥


三井財閥(みついざいばつ)は、三菱・住友と並ぶ日本三大財閥の一つ。現在の三井グループ

江戸期

三井家の歴史は、太政大臣・藤原道長に発し、その後藤原右馬之助信生が近江に移って武士となり、初めて三井の姓を名乗ったという。

早川隆によると「三井財閥の先祖は伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢(現在の三重県)松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源という。三井家はもともと近江の国佐々木氏の家来で、先祖は藤原道長といっているが、道長とのつながりは後から系図を作ったのかもしれない。」という。

三井高俊は質屋を主業に酒、味噌の類を商った。店は「越後殿の酒屋」と呼ばれ、これがのちの「越後屋」の起こりとなる。高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て1673年(延宝元年)越後屋三井呉服店(後の三越)を創業したのと同時に京都の室町通蛸薬師に京呉服店(仕入れ部)を創業。その後京都や大阪でも両替店を開業し、呉服は訪問販売で一反単位で販売し、代金は売り掛け(ツケ払い)、という当時の商法をくつがえす、「店前売り」と「現金安売掛け値なし」(定価販売)などで庶民の心をとらえ繁盛。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となった。

三井は幕府御用を全面的に歓迎した訳では無かったが、幕府との関係は初期の経営に重要な役割を果たし、公金為替による幕藩体制との密着度は深くなっていた。明治維新後、三井家は薩長主導の明治政府の資金要請に応え、政商の基盤を確固たるものにした。幕末・維新期を通して、日本政府は三井との関係無しでは存立がいかない状況となっていた。

余談だが、戦国期から近世初期にかけて活躍した大商人は外国貿易に従事した者、台頭しつつある新勢力で大名と結んで戦時用物資の調達にあたった者などであった。貿易商人としては、戦国時代から江戸時代にかけて、角倉了以、茶屋四郎次郎、末吉孫左衛門、島井宗室、末次平蔵他らがいる。貿易商人は鉄砲の輸入などで大名と結びつく機会があった、これらが初期豪商であった。このような政商的性格の強い初期豪商に対し、特定の専門商品を売買して城下町や江戸で商業活動を行う者が現れた。これらが近江商人・京都商人・伊勢商人などで、三井や鴻池・住友などの近世本町人であった。

明治・大正期

明治維新後の中央集権政策の下、明治政府の三井家に対する諸御用の任命は、経済関係官庁未整備という条件のもとで経済政策技術の不足を補うために、政府は三井の巨商に期待したものであった。1872年越後屋呉服店(後の三越)を三井の本流から切り離し、1876年三井銀行(現在の三井住友銀行)を創業。また同年に井上馨と益田孝によって設立された商社先収会社の解散を機に益田に三井物産会社を創設させ、さらに三井組内の商事組織である三井組国産方と合併させた。政府は1880年頃から官営工場を三井や三菱などに安く払い下げた。そのため紡績業などが盛んになり、日本の産業革命を担う事になる。

三井の転機は、明治十四年の政変で下野した山陽鉄道社長の中上川彦次郎と益田孝を三井元方重役に据えた事である。商業派の益田孝に対し、工業派の中上川彦次郎は慶應義塾の学生を多く入社させ、三井の工業化政策を多数押し進めた。次いで不良債権問題に立ち至った三井銀行の建て直しをはかり、私鉄経営にも意欲を見せた(山陽鉄道、箕面有馬電気軌道→阪急電鉄)。しかし、学閥を嫌う益田孝と中上川彦次郎の対立が鮮明となり、1909年に持株会社・三井合名会社を頂点とするコンツェルン体制を確立し、團琢磨(主席)、朝吹英二・波多野承五郎・有賀長文・小室三吉及び三井家から三井高泰(守之助)の5参事の合議制による運営体制に移行。また、傘下の中核企業を有限会社から株式会社へ移行した。1893年には三井鉱山が設立され、三井銀行、三井物産、三井鉱山の御三家体制となる。

第一次世界大戦の好景気で三井財閥は産業が大きく伸張し、特に三井物産と三井鉱山を起点に造船・鉄鋼・石炭化学工業等の重化学工業分野への進出と三井銀行を起点に信託・生命保険・損害保険等の金融部分の拡充・多様化が進行した。また、三井物産を率いた山本条太郎は、中国大陸に積極的に事業を拡大し、満洲事変時に張学良軍へ塩を売り込みや上海事変時の中国・一九路軍への鉄条網用針金を売り込みを発端として中国革命への援助と満洲進出、商権拡張を行った。しかしながら、日本最大の財閥であるがゆえに、1927年(昭和2年)の昭和恐慌期に端を発した財閥批判が三井財閥に向けられ、3月5日には團琢磨が血盟団員によって三井銀行本店前で暗殺された。

財閥攻撃の嵐の中で、三井総両家当主・三井高棟と益田孝が協議し、三井合名理事・池田成彬を筆頭常務理事に指名し総帥に就任させる。池田は、11家からなる三井家を説得して財団法人三井報恩会を立ち上げ、定年制を採用するなど、大胆な財閥転向施策を実行。その後の日中戦争の勃発を契機に戦時体制へ移行した事から、財閥批判と攻撃は次第に沈静化し、三井財閥は戦時経済体制の有力な担い手となった。また、政界にも多くの幹部を送り込み、立憲政友会は三井財閥が、立憲民政党は三菱財閥が資金をまかなっていた。

池田の引退後、三井総両家当主・三井高公と、筆頭常務理事となった南条金雄は1940年(昭和15年)に三井物産が三井合名会社を吸収合併し物産から旧・三井合名会社が分離独立する形で株式会社三井本社を設立。かくして三井財閥は第二次世界大戦を迎えることとなる。

年譜

  • 1867年(慶応3年) - 金穀出納所御用
  • 1868年(明治元年) - 会計局為替方御用
  • 1869年(明治2年)
    • 東京会計官為替方御用
    • 伊豆七島御用
  • 1870年(明治3年)
    • 大蔵省より神戸為替両替御用
    • 宮内省より為替方御用
    • 北海道開拓御用達
    • 京都府の命により神戸にて京都商社創立
  • 1871年(明治4年) - 大蔵省証券発行委託

人の三井

岩崎家の同族主義が強かった三菱財閥に対し、三井は西郷隆盛から「大番頭」と呼ばれた井上馨をはじめ有能な人材を多く輩出したことから「組織の三菱、人の三井」と言われた。また三菱が「独裁政治」、後世の住友が「結集の住友」と呼ばれたのに対し、三井は「番頭政治」と呼ばれる。これは三菱・住友の連帯と結束の強さに対し、グループ内各企業が自由に動きやすい三井の特色を表したもので、三井系トップ・マネジメントには個性の強い人物が多いことを言い表したものでもある。

  • 主な人物
    • 三井高陽、岩下清周、藤山雷太、和田豊治、山本条太郎、鈴木梅四郎、森恪、日比翁助、武藤山治、藤原銀次郎、馬越恭平、万代順四郎、石田礼助、萩原吉太郎、佐藤喜一郎、水上達三、江戸英雄、小山五郎、小林一三、矢田績、柳荘太郎、児玉一造、佐藤喜一郎、早川千吉郎、飯田義一、林健

三井合名会社歴代理事長・理事・参事

第一国立銀行・日本銀行

1871年(明治4年)6月、三井八郎右衛門は「新貨幣御発行為替座御用」を命ぜられた。その業務は金銀の地金を受け取って引き換えに新貨幣を渡し、受け取った地金を造幣局へ送ることであった。小野組、島田組を差し置いて政府の命を受けた三井組は1872年(明治5年)4月に御用所を東京・大阪・京都・横浜・神戸・松坂・函館の七都市に設立。この頃米国へ派遣された伊藤博文は吉田清成と国立銀行の設立で意見が対立する事になり、政府は三井組に銀行を設立するように予告しながら、すぐその後に政府の銀行政策が変更されて三井組一個の銀行設立を認めず、小野組と第一国立銀行を設立する方針がとられた。三井は強制的に政府の指導に従い、海運橋畔に建築していた三井組本部予定の建物を第一国立銀行に提供させられるという負担を負った。当初三井・小野組で200万円を出資し、残り300万円を一般募集するつもりでいたが、一般からは44万余円しか無かったため、資本金244万800円として1873年(明治6年)6月11日に創立総会を開きただちに開業した。総監役として渋沢栄一が乗り込み、事実上の頭取として実権を握った。三井にとっては呉服部門を分離までして、銀行を設立しようとしたが、その希望を政府によってすりかえられ、自己の銀行を持ちたいという願望はくすぶり続ける事になった。その後三井銀行創立を果たした三井だが、日本銀行創立により官金取引業務が出来なくなり、更には三井銀行の三野村利助が引き抜かれ日銀理事に就任した。この頃は苦境にあり、1874年から翌年にかけてオリエンタル・バンクから100万ドルを借りた。

工業化

明治初期以来、鉱工業への進出は著しく、商業主義と言われた益田孝でも三池炭鉱や神岡鉱山に進出した。中上川彦次郎の工業主義が急進的であったので、それとの対抗上、商業主義を強調した傾向がある。益田孝が鉱工業を軽視していたのではないもう一つの証拠は、三井合名理事長に團琢磨を選出し、芝浦製作所を三井の傘下に置いたことである。三井物産は、自ら三井船舶や三井造船を分離していく一方、海外からのノウハウをもとにして東洋レーヨンなどを起こして多角化していった。1895年(明治28年)の三井工業部は、『芝浦製作所』、『三重紡績所』、『名古屋製糸所』、『大崎製糸所』、『富岡製糸所』、『前橋絹糸紡績所』、『新町絹糸紡績所』の7つが直系傘下であった。三井は職工に対する教育を銀行等ホワイトカラーと同じように優遇した。この姿勢は武藤山治によって引き継がれ、職員層(ホワイトカラー)と工員層(ブルーカラー)を選別しない「経営家族主義」「温情主義」と呼ばれ、当時の官尊民卑風潮において先駆的な労働管理思想であった。

日本最大の財閥へ

三井財閥は他の財閥に先駆けて、1909年(明治42年)に三井合名会社を頂点とするコンツェルン体制を確立した。世界史上における扱いとして、デュポンやロックフェラーは基本的には単一業種でクルップについても同じことが言える。ことにロックフェラーがスタンダード・オイルで採用したトラスティー方式は日本では見られなかった。その後、多数の財閥が本社を合名会社か合資会社とし、傘下の諸事業を株式会社としてピラミッド型に結合する形は一般化した。これによる生産の伸長に伴い、貿易が進展し、その担い手の商社も飛躍的に発展した。三井物産は取引額15億4000万円となり、三井工業部なども資本金が6倍、貿易金融には横浜正金銀行のほかに台湾銀行、朝鮮銀行、日本興業銀行、日本勧業銀行などが参加して外国為替業務を行うようになった。

1911年に樺太国有林の伐採権を得、1914年11月には大泊郡大泊町でパルプ工場の操業を開始。1915年(大正4年)の二十一ヶ条要求をきっかけに、中国・満洲に進出。日本興業銀行を中心に約2.5億円の対中国借款が行われ、対外貸付額は総額11億円に達した。また、三井造船は日本初のディーゼル船・赤城丸などを導入。これら海洋国家と貿易の相乗効果で三井は日本最大の財閥として君臨した。

1913年(大正2年)には東京三田に日本最大の富豪だった三井家の豪華な接客用建物としてコンドルの設計により三井倶楽部が完成した。

昭和期

1928年(昭和3年)頃の三井は、日本における産業支配をいっそう強め三井系諸会社の系統図を直系会社と傍系会社に分類した。

系譜


帝国主義・満洲国進出

商品輸出の拡大や市場支配圏の獲得を目的に三井物産が国家政策と一体化して帝国主義的進出を展開した。満洲事変・日中戦争・太平洋戦争を通じて中国へ進出した。当時の香港の主要取引としては、欧州・日本・豪州及び東南アジア、清国沿岸地方が四大市場をなしていたが、欧米市場からは鉄、機械などの生産手段と綿糸布などの消費資料を輸入し、生糸、絹織物などの嗜好品が輸出され、日本からは綿糸布、石炭、燐寸などの消費資料、原料品、雑貨品が輸入され、棉花、砂糖、米などが輸出されていたが、日本にとって当該期の香港は主に輸出市場としての位置にあったのである。また、豪州・東南アジア市場との貿易は輸入において、米、石炭.錫の鉱産物、輸出においては茶、砂糖のほか雑貨品を主としていた。清国沿岸地域とは生糸、絹織物を輸入し、生産手段、雑貨品を輸出していた。そして、このような四大市場相互間には清国産の生糸、絹織物の欧米への輸出と、欧米からの生産手段、綿糸・綿布・綿織物の清国への輸入にみられるように有機的連関が形成されており、その中継港として香港市場があったのである。

満洲買収計画

この計画は、三井物産上海支店の取引と関連して起こった。1911年(明治44年)中国に辛亥革命が起こり、米国に亡命していた孫文が大統領に就任し、三井に革命軍の軍資金の提供を申し込んだ所に発端があった。のちの第一革命の直接の動機となったのは郵伝部尚書盛宣懐の鉄道国有化案であった。このとき軌条統一に要する資料を、三井が日本興業銀行から借り入れて融資をしていた漢陽製鉄所に求めようとした。三井は大治鉄鉱、漢陽製鉄、炭礦の合同に成る公司の日中共同経営を条件に巨額の借款に応じた。公司から民間政府へ500万円の貸与の条件もあり、この借款契約の調印と同時に「中華民国政府は将来支那に於ける鉱山、鉄道、電気其他の事業を外国人に許可する場合には、他と同条件なれば三井物産株式会社に其許可を与ふる事を承認す」という契約書を取り交わした。まもなく孫文が大統領の地位を退いたため、この借款の融資は一部しか実行されなかったが、中国通を抱えていた三井は、中国革命を援助しながら商権の拡張を図った。1913年(大正2年)夏の第二革命挙兵後、革命軍の資金調達難を見た森恪が、二個師団分の武器と2000万円の現金でもって満洲を買収する交渉を行った。革命の後、孫文の亡命によって実現しなかったが、この満洲買収計画は森が益田を通して井上馨に通じ、その仲介によって桂太郎の了解を得て行ったものであった。

財閥転向

昭和恐慌に伴い1930年(昭和5年)頃から始まった財閥批判に対処するため、財団法人三井報恩会を設立しての寄付の規模の拡大、三井一族の退任、定年制の導入、株式公開といった改革を行った。

(詳細は「財閥転向」の項を参照)

軍需産業

1931年(昭和6年)に始まる満洲事変がきっかけとなり、軍事費が膨張し、軍需景気を引き起こし、重化学工業発達の強い要因となった。中国・満洲への進出には日産・日窒・昭和電工などの新興コンツェルンが熱心であった。軍部には既成財閥、特に三井に対して強い反感があったとし、新興コンツェルンには、堂々たる努力で築いてきた電気化学工業部門において、既成財閥が追い上げてくるといった事情があった。三井は1933年(昭和8年)東洋高圧・日満アルミニウム、1934年(昭和9年)レーション曹達を設立して化学工業を拡大し、石川島タービン・玉造船所(のちの三井造船)を新設して機械工業に力を入れ始め、益田孝以来の商業化路線から工業化路線へ走った。三菱は、1934年(昭和9年)、三菱造船と三菱航空機を合併して三菱重工業を新設し、東京鋼材を増資によって強化した。住友は住友伸銅鋼管と住友製鉄所が合併して、住友金属工業が設立された。第一次世界大戦後の不況を抜けると、日本政府からの戦争協力を求められた三井は、のちに南条金雄(三井合名理事)の下、積極的に国策協力を推し進め、軍需生産の基幹を成す石炭鉱業、金属鉱業が急速に伸長した。この頃の炭鉱の動きは、三池、田川、山野、砂川、美唄など既設の事業所の強化と拡充が試みられた。樺太の西柵丹炭鉱が1938年(昭和13年)12月に西柵丹鉱業所として設置。川上鉱業所と合併して1941年(昭和16年)に千緒炭鉱を買収して経営に当たった。この頃全国における三井鉱山の石炭産出量は13%から20%近い比率となっていた。金属部門では三成鉱業のほか、朝鮮の義州鉱山、本州では日本亜鉛鉱業の設立があった。またアルミを原料として航空機の生産を行うために、1941年(昭和16年)に三井鉱山傘下の東洋アルミニウムと日曹系の西鮮化学を統合した東洋軽金属(後の三井軽金属)が、朝鮮の楊市においてアルミ精錬工場を建設(実際の操業は2年後)。さらに陸軍航空本部と朝鮮総督府のすすめにより、1942年(昭和17年)、昭和飛行機平壌工場を買収し、朝鮮飛行機製作所とした。

海外進出

三井鉱山も物産と同様、満洲事変以後、満洲・中国・南方占領地域へ進出し、諸事業を経営するようになった。南方の占領地では陸軍次官の通牒によって、フィリピン、スマトラ、仏印(ベトナム・ラオス・カンボジア)、ビルマ、マレー、ジャワ等の鉱山・炭礦・精錬所などの強制的な経営協力を命ぜられた。しかし、これらの諸投資は敗戦によって水泡に帰してしまった。

  • 満洲合成燃料 - 資本金5000万円 1937年(昭和12年) - 満洲国・三井物産・三井合名などの共同出資。フィッシャー法による人造石油製造。
  • 熱河礦山 - 資本金100万円 1937年(昭和12年) - 満洲国との共同出資。銅・亜鉛・鉛の採掘・精錬。
  • 三宝礦業 - 資本金100万円 1939年(昭和14年) - 主として石炭。
  • 天宝礦業 - 資本金350万円 1938年(昭和13年) - 1940年(昭和15年)より三井鉱山の経営。亜鉛採掘。
  • 中興炭礦 - 1939年(昭和14年)山西省の現地日本軍より管理命令を受ける。のち公司となる。
  • 准南炭礦 - 1938年(昭和13年)安徽省の日本軍より破壊された炭礦の復旧を命ぜられ、中国・三菱との共同経営となった。1939年(昭和14年)には資本金1500万円の公司となる。三井鉱山持株は20%、三菱は13%であった。

財閥解体

第二次世界大戦後、GHQは財閥を軍国主義と封建主義の精神的支柱であるとし、1946年(昭和21年)9月三井、三菱、住友、安田、旧中島飛行機が持株会社に指定され、三井・三菱の経済力の中核とみなされた三井物産と三菱商事は財閥解体により解散した。

三井では資本金1億円の復興事業を企画しており、GHQと折衝して財閥観の変更を図ったが受け入れられなかった。

財閥解体後(20世紀)

戦後、経済団体連合会(現・日本経済団体連合会)の誕生で財界は総主流体制に移行した。戦前は旧三井財閥を軸とする保守本流、重厚長大企業が中心で、大企業のすべてが経団連の重要ポストである正・副会長に名を連ねてはいなかった。バブル後はトヨタ自動車、NTT、パナソニック、キヤノン、武田薬品工業などが加わる。旧日本経営者団体連盟を通じた活動に力を入れていた旧三菱系企業も、旧日経連と経団連の統合により現在の日本経済団体連合会となった後は顔を出すようになる。

他財閥と同様「三井グループ」としてグループ化をするも、相対的弱体化を余儀なくされる。その主な原因は、帝国銀行から第一銀行が分離したことによる三井銀行が被った大きな損失で、三井銀行は資本金の約50%を失った。そのため三井系会社が必要とするクレジットを提供することができなくなり、グループのいくつかに対する影響力を失い、富士銀行、日本興業銀行などの他のグループの銀行がこれらの会社の主要な債権者になった。また三井系の生産会社間の有機的、生産的、金融的結びつきの弱さも、一連の会社が三井との関係を弱めたり分離したりする一因となった。

さらに三井グループの中核会社である三井物産の解体も大きく影響した。三井物産を基盤にしてすすめられた三井物産と第一物産の再合同は、第一物産が富士銀行の融資系列下にあったため手間取り難航した。なお、三井物産と芙蓉グループとの関係はこの関係から生まれたともいわれる。そのため三菱グループや住友グループなどと比べてもゆるやかな連合体となっており、グループ企業には独立色の強い企業(トヨタ自動車、東芝、フジクラなど)や他の企業グループに重複して加盟している企業もある。

サントリーやIHI、サッポロビールの結集はやや遅れたが旧三和系、旧芙蓉系、旧第一勧銀系を満遍なく取り込んだ。後発かあるいは設立関与で息のかかった程度の存在である富士フイルムなどは新規加盟の部類である。三井財閥系企業が八重洲・日本橋、三菱財閥系企業が大手町・丸の内に集積している事から、それぞれを「三井王国」・「三菱王国」とも呼ばれる地区の存在になっている。また、TBSホールディングスが二木会・月曜会・三井業際研究所・三井文庫に、傘下の事業会社TBSテレビが月曜会に加盟したことにより三井グループはマスメディアも包括する企業集団となった。

旧三井財閥の持株会社である三井本社は財閥解体後も清算株式会社として存続していたが、1956年(昭和31年)に三井系の不動産会社である三井不動産に吸収合併された。

Collection James Bond 007

21世紀

2001年(平成13年)に三井グループの中核銀行であるさくら銀行(旧三井銀行・旧太陽神戸銀行)が住友グループの中核銀行・住友銀行と合併して三井住友銀行が誕生したことに伴い金融面では三井住友フィナンシャルグループが誕生し、他業種でも三井系と住友系の企業の合併や業務提携が相次いだ(三井住友海上火災保険、三井住友建設など)。源流企業の三越は、三菱UFJ銀行との関係が深い伊勢丹と2008年(平成20年)4月に持株会社の三越伊勢丹ホールディングスを設立、経営統合した。三井系の信託銀行である中央三井トラスト・ホールディングス(旧中央信託銀行・旧三井信託銀行)は2012年(平成24年)4月に住友信託銀行と経営統合して、三井住友トラスト・ホールディングスとなった。

病院

  • 三井慈善病院 (三井記念病院)

学校・文化団体

  • 啓明学園
  • 学校法人北泉学園若葉会幼稚園
  • 三井文庫

脚注

注釈

出典

関連項目

  • 三井グループ
  • 二木会
  • 綱町三井倶楽部
  • 三井家
  • 三井文庫
  • 三井記念美術館
  • 三井はぜ
  • 寄生地主制
  • 日本銀行

外部リンク

  • 三井広報委員会 (日本語)
  • 三井業際研究所 (日本語)
  • 綱町三井倶楽部 (日本語)
  • 三井文庫 (日本語)
  • NHK特集 日本の戦後 第4回 それは晩餐から始まった 財閥解体への道 - NHKオンデマンド

Text submitted to CC-BY-SA license. Source: 三井財閥 by Wikipedia (Historical)