飯塚 雅弓(いいづか まゆみ、1977年〈昭和52年〉1月3日 - )は、日本の声優、女優、歌手、DJ。東京都出身。法政大学法学部卒業。アクロスエンタテインメント所属。レコードレーベルはLantis。ステイラック付属養成所・Follow-Up講師。
作曲時の名義は星 舞(ほし まい)。公式ファンクラブはStrawberry Candle。
声優としての代表作に『ポケットモンスター』(カスミ)、『魔術士オーフェン』(クリーオウ)などが、女優としての代表作に『大地の子』(大沢咲子〈少女時代〉)、『パナマ・ハッティー』(ジェリー)などがある。
1980年、3歳の時に祖父の知人の紹介で劇団若草に入団。入団したのは劇団の近くに住んでいたことや礼儀作法が覚えられることやダンス、日舞、歌、演技、早口言葉などの基本レッスンを受けられることからであった。レッスンよりもあいさつや礼儀に厳しく、怒られて泣いていたのを覚えている。翌年の1981年1月11日にTBSの東芝日曜劇場で放送されたテレビドラマ『春のうららの物語』の富子役で子役としてデビュー。同作は石井ふく子がプロデューサーを担当しており、以降はオーディションなしで起用されていた。劇団若草では「自分にしかないものを人に見せ続けなさい」と言う教えの下、子供ながらただ必死に夢に向かう日々であった。小学校高学年の頃には女優を目指していたこともあった。
1983年、父親の転勤に伴い台湾に移住し、芸能活動を休止。1987年に帰国し、同じ劇団若草で芸能活動を再開する。心の中ではずっと芸能界に戻りたいと思っており、日本に帰ってきた小学5年生の時に「自分なりに考えてこの世界で頑張っていこう」と決めた。家族は学業との両立を前提に、「自分が本当にやりたいことなら」と応援してくれたという。ここまで来るのには一人の力じゃできなかったといい、両親や祖父、家族に感謝の気持ちを伝えたいと2008年のインタビューで述べている。
活動再開の当初は思うようにいかずに『燃えて生きる』で役を貰うまではオーディションを受けても落ちることが多く、運もなく出演作品に恵まれなかった。本当に自分は仕事が好きなのか分からなくなったり、「私はもうダメなんじゃないか」と思ったりしたという。事実、『若奥さまは腕まくり!』のオーディションで最後の1人まで残ったが、結果は落選している。悔し涙ではあったが最終的に友人役で出演が決まり、楽しい現場だったのを後に自身のブログで述懐している。その際に当時の代表であった八重垣緑から「運を呼ぶのも自分の力よ」と言われてハッと気がついたといい、「弱気じゃダメなんだ、自分から引きつけないと」と感じ、そうやってオーディションに挑むようにしてからはドラマ出演も少しずつ増えていった。
1991年、劇場アニメ『おもひでぽろぽろ』のツネ子役で声優デビュー。声優としての経験がないことから不安ではあったが、「やってみたい」という思いに溢れていた。『おもひでぽろぽろ』のオーディションが自身が初めて受けた声優のオーディションであり、この頃はほとんど声優のオーディションとは縁がなかった。
1993年、劇団若草の直営プロダクションである八重垣事務所に移籍。19歳の時からテレビアニメやOVAの仕事が増え、以降は声優としての活動がメインとなるが、現在でも舞台には出演しており、女優としての活動は続けている。
大学時代は「大学4年間で芽が出なければ、この道はスッパリ諦めよう」と限りを設けて、それまでは何が何でも頑張ろうと思っていた。事務所に声優としてデビューした先輩がおらず、マネージャーもどういう現場か分からない中、一人でアフレコに行くことが多かった。自信はなかったが、自分がやってきた芝居がそこで通用するのかと言う気持ちでアフレコに挑んでいた。
1997年、『ポケットモンスター』のカスミ役で広く名前を知られるようになる。先述したように大学卒業までに納得がいくような仕事がなければやめることも考えており、その際にめぐり逢ったのがカスミ役であった。そこから活躍の幅を広げ、8月27日、パイオニアLDCよりアルバム『かたおもい』をリリースし、歌手デビューを果たす。大学入学直前にアルバムを出してみないかという話があり、それまでも何度かアルバムを出す話はあったがまとまらずにその際も半信半疑みたいなところはあった。正式に決まるまでに何回かスタジオで「好きな歌を歌ってください」という課題があり、それをクリアしないとCDデビューの話は実現しないと聞かされてすごくプレッシャーであった。更に10月12日より放送された自身初の冠番組『週刊アニメージュ 飯塚雅弓のまだまだ日曜日だよ!』でメインパーソナリティを務め、本格的にラジオパーソナリティとしての活動も始める。2008年のインタビューでは「すごく世界が広がりましたね。夢はひとつじゃないんだって」と述べている。
1998年、東京国際フォーラム ホールAにて自身初のコンサートである『VOICE ANIMAGE Presents 飯塚雅弓ファーストコンサート』を公演。
2010年8月中旬、中国・瀋陽市で開催されたイベント『2010中国瀋陽第二回アニメゲーム博覧会』(2010中国沈阳第二届动漫电玩博览会)に出席し、そこで小規模なライブや中国語のスピーチを行なった。
2014年2月28日、八重垣事務所を離れ、3月1日にケンユウオフィスに移籍。
2017年9月1日、ケンユウオフィスからアクロスエンタテインメントに移籍。
2024年4月、フェリス女学院大学の非常勤講師に就任した。
『ポケットモンスター』のカスミ役に関しては、演じていた当時は良い役をやれて嬉しいという気持ちはなく、一生懸命演技を模索していたが、次第にキャラクターと一体となって作品を作り上げていく楽しさを実感した。そこから声優に対する姿勢が変わり、キャラクターのことを一番理解する親友になることが大事と考え、キャラクターと一心同体になることを一番に心がけている。2008年のインタビューでは、そんな創造力を掻き立てる作業や過程が楽しくてしょうがないと語っている。
『魔法使いTai!』で中富七香役を演じたことも本人の中では声優活動における1つの転機であり、勝ち気で男勝りで素直に言葉を出せないが本当は優しい七香には思いを馳せるなど感情移入していた。
本人が2017年のインタビューで語ったところによると、元々は専門の声優ではなかったため感情の変化をキャラクターに投影して表現する声優の世界は分からないことだらけであったという。声優デビュー当初は声をあてるだけで精一杯であったといい、テレビドラマでは自分の表情や仕草など身体を使って表現できるのに、声優は声だけしか使えないことから戸惑いや物足りなさも感じていたが、1999年の時点では「演じることは変わらないという思いで、両方とも楽しんでやっています」とコメントしている。
女優と声優の仕事はどこが共通しているかという質問に対して「演じるということは変わりません」とコメントしており、逆に違うところはどこかという質問に対しても意識したことがないとコメントしている。
自分に一番向いている役柄を「自然な私で演技できるから」として、明るくて元気な女の子を挙げており、1999年の時点では今後演じてみたい役柄として、病弱な大人しい女の子、男の子、動物を挙げている。
劇団若草では歌のレッスンはしていたが、歌手として歌うことはその基礎レッスンと感覚も自覚も重ならず、歌手を始めたばかりの頃はその点で悩みもあった。当初はただ与えられた曲をどう消化していくかで必死で、曲や詞の世界観が当時の自分よりも上で背伸びをしているようなところもあった。
楽曲提供者は主に長谷川智樹(作詞・作曲・編曲)、イズミカワソラ(作詞・作曲)、堂島孝平(作詞・作曲)、大津美紀(作詞・作曲・編曲)、浅田信一(作詞・作曲・編曲)、吉田ゐさお(作詞・作曲・編曲)、岡崎律子(作詞・作曲)、かの香織(作詞・作曲)、鈴木CHiBUN智文(作曲・編曲)、トーレ・ヨハンソン(作曲・編曲)、松岡モトキ(作曲・編曲)、宮崎誠(作曲・編曲)、室生あゆみ(作詞)、加藤みちあき(編曲)、宅見将典(編曲)など。特に長谷川は「長谷川さんなしにはライブもできないと思うほどでしたし」と、飯塚の若手時代を大きく支えた存在であると言える。ヨハンソンから楽曲を提供されたのは一時期自身がスウェーデンポップにハマっていたのが関係しており、ヨハンソンに「私もやりたいです」と熱く語ったらスウェーデンやイギリスのレコーディングに参加することになった。2002年発売のシングル「やさしい右手」では同シングルをプロデュースした吉田に「もっと自分の心を鏡のように映して書いてみよう」と教わったことから作詞に対する姿勢が変わったといい、自身にとって吉田との出逢いは大きなターニングポイントにもなったという。
歌手デビュー当初から自身の楽曲において作詞を手がけている。作詞をする内容は恋愛をテーマにした曲が多く、「人に対する思いやりや愛情を一番伝えたいので愛や想いをテーマにした曲が自然と多くなって」と述べている。さらに2004年より星舞(ほしまい)の名義で作曲をしている。この名義を使った理由について本人は、「作曲・飯塚雅弓として聴いてほしくなかったというか、他の作曲家の方達と並んで同じように聴いてもらって、どう感じてもらえるのか試してみたかったんです」と2007年のインタビューで述べている。作曲をするようになったきっかけはある日、何となく詞だけでなく曲も絡めてみようと思い、浮かんだメロディを鼻歌で歌ってそれをボイスレコーダーに吹き込んだのを聴いてもらったら形にしようということになったからである。1枚目のアルバムの時点ではアーティストから提示されたものをそのまま歌うこともあったが、2枚目のアルバムから選曲会議に参加させてもらうようになった。
『CDジャーナル』から「自身の好みでもあるスウェデッシュ・ポップを反映した、明るく開放的なポップ・ソングが魅力」と批評しているなど、 明るい曲が大多数を占めていたことから「明るすぎて疲れる」「人生を悟り過ぎていてつまらない」という指摘を受けることもあった。歌手デビューから4年が経過した頃にレコード会社を徳間ジャパンコミュニケーションズに移籍したが、徳間ジャパンでは「多分来年は無理だろう」と言われながらリリースを行っており、この頃は歌手としては引退危機と隣り合わせであった。
歌手活動を20年目に迎えた2017年8月までにアルバム・シングル合わせて32枚のCDを発表し、また、1998年にファーストライブを行って以降、定期的にライブも行っており、とりわけ2001年以降は自身の誕生日である1月3日にバースデーライブを行っている。ライブでは歌唱だけでなく、ピアノやギターを演奏することもある。
「まゆたま」というキャラクターをデザインしており、本人の関連グッズに盛り込まれたこともある。自身のX(旧Twitter)のIDもこれに由来してる他、エイプリルフールである4月1日には、「朝目覚めたら“まゆたま”の姿になってしまい、一日を過ごす」というシチュエーションを行ったこともある。
毎月15日、自身のオフィシャルサポーターズのスタッフがYouTubeにて「まーちゃんねる」というタイトルで動画をアップロードしている。また、ツイキャスにおいても「まーゆるりトーク」というタイトルでライブ配信を行っている。
名前の由来は祖父が趣味でやっていた盆栽の中で一際成長していた木がマユミであったことから。
一般的な愛称は「まーちゃん」で、家族からは「まいたん」、三木眞一郎からは「飯塚ちゃん」と呼ばれており、他に「まゆたん」 などがある。
家族構成は父、母、5歳下の妹、祖母の5人。ペットとして犬の「ロック」を飼っている。元々はかつて所属していた八重垣事務所で飼われていた犬であり、伊藤薫社長の出張を理由に預かっていたのがきっかけで、飯塚自ら「譲ってほしい」と志願し、2009年4月17日から飯塚家のペットとして迎え入れた。
子供の頃は木によじ登るなどお転婆な性格だった。自身の長所を「明朗活発」、「落ち込みからすぐに立ち直ること」、短所を「ちょっぴり負けず嫌い」、「すぐ落ち込んでしまうこと」と評している。
「元気だけど、どこか抜けている」という理由で演じてきた役の中で自身の普段の性格に近い役として『聖ルミナス女学院』の木島糊湖を挙げている。
趣味は家事全般、ラインストーンデコレーション。以前は買い物、ギター、映画鑑賞、読書、歌唱、ドライブ、サイクリングも趣味として挙げていた。
特技は笑顔、整理整頓、バトン、乗馬、ダンス、タップダンス、駄洒落。以前は中国語、水泳も特技として挙げていた。
好きな音楽はスウェデッシュ・ポップ。洋楽との接点は、大学で音楽に詳しい友人と知り合って色々な洋楽を教えてもらったり、CDを貸してもらったりしたことからで、スウェデッシュ・ポップに出逢ったのもその辺りであるという。そこから自分でもCDショップで洋楽のCDを買ったり聴くようになった。好きな曲としてKANの楽曲である「まゆみ」を挙げており、「支えられ、背中を押してもらった大切な想い出の曲」とコメントしており、2013年発売のアルバム『センチメンタルCANDY』で自身初のカバー曲としてこの「まゆみ」を歌っている。同じくKANの楽曲である「めずらしい人生」も自分の背中を押してくれる1曲になったと述べており、自身が選ぶ想い出の1枚として同名のベストアルバムを挙げている。KANの楽曲は中学時代に受験勉強をしながらよく聴いていたという。
好きな食べ物はタバスコ。タバスコなど辛い物のおかげで声帯が強くなったのかもしれないと、本人は話している。
好きな色は白、赤。
子供の頃に好きだったアニメとして、『とんがり帽子のメモル』と『メイプルタウン物語』を挙げており、主題歌も好きで歌っていたという。
昆虫類などの虫が苦手で、『渋谷でチュッ!』にゲスト出演した際には「虫は無視」といった駄洒落を発言しており、後に自身のブログでも同様の駄洒落を綴っている。一方で自身の部屋に毎日同じ時間に現れるクモが住み着き、そのクモに愛着が沸いたこともある。ラジオ番組で住み着いたクモの名前を募集し、その中から「クモのモックン」に決定して名付けた途端にそのクモは現れなくなったが、代わりに違うクモがその日に現れ、そのクモに「クモのモックン」と名付けた次の日にそのクモは干からびて地面に落ちて死んでいたという。
『ポケットモンスター サイドストーリー』でカスミがギャラドスとの幼少期のトラウマを乗り越えて良き関係になるエピソードは、自身にとって親が子を見守るような感情で「よく頑張ったね!」と思える話であったという。また、回想で赤子時代のカスミがギャラドスに食べられそうになり泣き出すシーンを「この頃からお転婆人魚が健在だなと(笑)」とコメントしている。印象に残っているポケモンとして、勝手にモンスターボールから出ることに文句を言いつつも憎めないのを理由にカスミの手持ちであるコダックを挙げている。
1990年代の声優界はまだ声優が表に出ず周りの人に触れない部分があったが、本人は当時の自身を「シャシャリ出ちゃうタイプでした(笑)」と振り返っている。当時、流行に乗ってショートカットの茶髪にした時などは、周囲の支えを裏切ってしまったと反省している。
憧れている人物は女優の檀ふみで、「周囲の人にさりげなく気配りが出来る人。思いやりもあって本当に素敵な方です」とコメントしている。1997年のインタビューではケビン・コスナーやサンドラ・ブロックも憧れの人物として挙げており、彼らが出演した映画のビデオをチェックしている。日髙のり子も憧れの人物の一人であり、2017年の時点でも「今も変わらずあの頃のまま。人に対しても役に対してもそのまま愛情を持って接してくださり。初めてお会いした時から『なんて大人なんだろう』と思うと同時に、『なんてピュアな人なんだろう』と」とその気持ちは変わっていない。日髙の歌手デビュー40周年を記念したライブフェスである『Non Fes the concert 〜Nonko 40th Anniversary Tribute Festival〜』に出演し、「トップをねらえ!〜Fly High〜」を日髙と共に歌った。
2008年の時点での今後の目標は、「目の前のいろんな事をいろんな想いでチャレンジし続けていきたい。隅っこにいても存在感のある役者でありたいし、表現者であり続けたい」とコメントしている。
2017年のインタビューでは、ライバルは常に自分自身とコメントしている。
タレント・女優の岩崎ひろみとは劇団若草時代からの幼馴染みで親友。
『ポケットモンスター』で現場を同じくしていた声優の1人である林原めぐみには大いに助けられたと後に述懐している。林原からは「カスミになりきれていない」と言われて衝撃を受けたが、飯塚は「あなた自身がもうカスミなのよ」と言ってくれたと解釈して、その一言で変われたという。
朝日放送テレビアナウンサーの加藤明子とは高校・大学時代の同級生で、高校時代は同じバトン部に所属していた。
同業者の小清水亜美と三瓶由布子と平田真菜は共に劇団若草時代の後輩にあたる。小清水は飯塚の活躍に触発され声優業を志し、尊敬する先輩として飯塚の名を挙げている。その縁で2006年に小清水が発売したアルバム『ナチュラル』の収録曲「dear friend」の作詞を担当しており、『シュラキ』で共演を果たしている。三瓶とは2004年に『ギャラクシーエンジェルX』にゲスト出演した際に共演しており、『ARIA The NATURAL』『名探偵コナン 沈黙の15分』では飯塚が母親役、三瓶が息子の幼少時という形の親子役で共演している。平田は劇団の広報誌に飯塚が掲載されていたことがきっかけで、声優の仕事を初めて意識し、それから声優に興味を持つようになったという。
同業者の青木瑠璃子は大学の後輩にあたる。
太字はメインキャラクター。
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